【氏族深掘】「 中臣氏」黎明編【歴史解説】

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  • Опубліковано 4 гру 2024

КОМЕНТАРІ • 77

  • @ななかまど-c6w
    @ななかまど-c6w 2 роки тому +5

    毎回 楽しみにしています。古代史の謎を含めて勉強にも参考にもなります。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      こちらこそ、毎回楽しみにしてくださっていることをとても嬉しく思います!
      今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!!

  • @tawaman-kuwaman-miwakenin
    @tawaman-kuwaman-miwakenin 2 роки тому +15

    中臣氏が血族の集団ではなかったかもというのは考えもしなかったです!
    いつも新しい発見が出来て今回も色々勉強になりました♪

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +6

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      中臣氏って、鎌足以前をあまり考えないですよね。
      そもそも謎が多すぎます!笑
      こちらこそ、いつも楽しんで頂けて嬉しいです!
      今年もあとわずかですが、あと1、2本の動画はアップしたいと思っています!(頑張ります笑)

  • @界陽
    @界陽 Рік тому +2

    キター!待ってました!

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +1

      ご視聴ありがとう御座います!
      ペース遅くてすみません!

  • @tigerion9275
    @tigerion9275 Рік тому +5

    不比等ってすごい名前だね。不比等。出自が単に卑しかったのか、もっと何か重大な秘密があったのか。

  • @momo-zm5uy
    @momo-zm5uy Рік тому +5

    藤原道長が先祖の男系先祖で家系図では中臣阿麻毘舎卿から繋がってます。動画の欽明天皇が先祖で卜部氏は卜部 平麻呂807年から卜部兼名(吉田兼倶の父)迄が先祖でした。吉田兼倶は本姓は卜部氏です。又壱岐対馬の神官が先祖だったと母からは聞いてます。家系が分り古事記の内容にも繋がる為、縁の有る神社が多いのには不思議な感じです。
    動画有難う御座います。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому

      こちらもご視聴ありがとうございます!
      そしてまた貴重なお話し、感謝いたします!
      中臣氏続編の参考にさせていただきます!!

  • @SA-ql8nl
    @SA-ql8nl 2 роки тому +12

    天皇家に絡み、成長していく藤の花。
    元春日の枚岡神社のある東大阪は、中臣氏と繋がりの深い土地だと思います。
    また近くには石切神社などもあり色々とディープな感じがします。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +7

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      牧岡神社は確かに高天原神話以前の天児屋命信仰を感じますね。
      天児屋命が主祭神の珍しい中臣系神社ですし。
      この辺りも深掘りしたら衝撃の事実が見つかるかもしれません!

    • @sanaefujii7470
      @sanaefujii7470 5 місяців тому

      😊

  • @wakamedesuga
    @wakamedesuga 2 роки тому +7

    福岡の小学校でしたがクラスメイトに占部(うらべ)君という子がいました。彼の一族も元を辿れば中臣氏関係だったのかなぁ。こういうの考えてるとロマンを感じます。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +6

      ご視聴ありがとう御座います!
      さすが福岡には古代史浪漫をくすぐるお名前のお方が多いですね!
      卜部さんなんてクラスメイトに居たら、もうウザイくらい由緒を問いただしてしまいそうです笑

  • @ねこむすめ-y2x
    @ねこむすめ-y2x Рік тому

    最近、こちらの動画を知りました。
    先日鹿島神宮に参拝したばかりで、とても興味深く見せて頂きました。
    これからも楽しみにしております🐾🐾

  • @yyasu0907
    @yyasu0907 Рік тому +5

    いつも楽しみにしてます。今回も興味深い考察をありがとうございます。
    中臣氏の血族集団ではなかったという考えと、鎌足が自分の血筋だけ藤原姓を名乗ることとしたのが、はまった感じがしました。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +2

      いつもご視聴ありがとうございます!
      中臣氏や忌部氏、または物部氏などは職掌を中心としたコミュニティだったと考える方が、整合性がとれるんですよね!

  • @もなか-v5f-c2n
    @もなか-v5f-c2n 2 роки тому +13

    大中臣氏として元々のトップは香取神・経津主の系列だったとも聞きます。
    石上神宮との繋がりや日本書紀の記述、経津主の別称等からも、祭司一族としては香取系の方が信憑性を感じます。
    藤原氏の歴史改竄により蘇我や香取等、彼らに都合の悪い氏族がどのように書き換えられていったのかについても是非🙏

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +2

      ご視聴ありがとう御座います!
      承知しました!
      確かに香取神宮や経津主命には違和感を多く感じますよね。
      この辺りもいずれ深掘りしてみたいと思います!

    • @もなか-v5f-c2n
      @もなか-v5f-c2n 2 роки тому +4

      @@nihonshi さん
      わお!ありがとうございます!!
      諸説ある中、結城屋さんの見解がとても楽しみです^^。
      歴史の楽しさ興味深さを共有していただけることに感謝です✨

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +2

      @@もなか-v5f-c2n さま
      こちらこそです!
      楽しいディスカッションが出来て、嬉しいです!
      関東の古代史は何気に謎深いので、掘りがいがありますね!!

    • @御神誉黎
      @御神誉黎 Рік тому

      タケミカヅチなどは、国譲りの神話の主役を担った神様であり
      中臣氏の祖神である天児屋命は天孫降臨でニニギノミコトに随伴した神様だ。
      こうした記録の元ネタは、全て記紀に行きつくから。
      記紀が編纂された七世紀の政治状況も考えなければならないので、難しいところがあるのですが
      蘇我氏などの「臣」の姓は、有力な七氏族は全て景行天皇から仁徳天皇までの五代の天皇に仕えた竹内宿祢の子孫とされ。竹内宿祢自身は孝元天皇の孫とされる
      つまり大王の一族の出身だ。
      対して中臣氏などに与えられた姓の「連」は神別氏族が多い。つまり先祖は皇族ではない。つまり古くから従ったと言っても大王の一族とは別の一族である。
      こうした事から臣は元から大王に従った氏族、多分、神武東征以前から従っていた氏族であり
      中臣氏や物部氏などは東征以降に従った有力氏族ではないかと考えたりします。
      臣だった蘇我氏と連の物部氏が争ったのは、こうした譜代と外様の対立も背景にあったのではないかとも思ったりします

  • @kdmdouble
    @kdmdouble Рік тому +7

    もし中臣氏が常陸国に由来しているのだとしたら、中臣氏の「中」とは、もともと常陸国の那珂川流域(細かく言えば現在の那珂市、ひたちなか市、水戸市周辺)に由来しているという可能性は考えられるでしょうか。
    万葉集では常陸国の那珂のことを「中」と書いていたそうですし、地名としては古い部類に入ります。
    もっとも、その地域にあたる仲国造は神武天皇の息子である神八井耳命が祖とされているので根拠に弱いかもしれませんが……

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +1

      ご視聴ありがとう御座います!
      常陸那珂かぁ、なるほどあり得ない話では無いですね。
      何も常陸那珂の支配者である必要は無く、出身であれば説明はある程度つきはします。
      仲国造の多氏はそれこそ30以上の氏族が流れを謳っている氏族ですから、あまりそこは重要ではないと思います。
      一考の余地は有りそうですね!

    • @村田たか子-i2z
      @村田たか子-i2z 6 місяців тому

      視点が素晴らしいですね。拙父方が鹿嶋近隣の鉾田の在で家系を辿ると藤原→中臣祖とあります。現実家はひたちなかです。那賀はナーガに通じ福岡の那珂川、徳島の那珂川もその様です。
      日高見國との境は感覚的に倭文大甕神社辺りかもと思われます。塞の神でもあり立地として日立の低山続きの端に位置するので。
      水戸と鹿嶋は徳川でも繋がりがあり、十五代慶喜公は水戸城から鉾田へいらっしゃり、実家姓の河岸から舟で鹿嶋経由で駿府城近く(紺屋町)へお移りになられたそうです。

  • @界陽
    @界陽 Рік тому +2

    続きがぶち気になるわ~

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +2

      中臣氏の続きはずっと続きますよ笑

    • @界陽
      @界陽 Рік тому +1

      @@nihonshi 楽しみにしてます!

  • @wonderfulSMTworld
    @wonderfulSMTworld 2 роки тому +4

    アメノコヤネの藤を見て、大中臣神社の将軍藤を思い出しました!!
    面白いなー中臣氏、私の不勉強でカシマノオオカミに中臣氏が関係してるのは知らなかったなー。
    いつも勉強になります!!

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +5

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      中臣氏は掘り下げると謎ばかりな氏族で、今回原稿を纏めるのに苦労しました。
      対馬や壱岐の伝承も絡めたら、膨大な量になってしまって笑
      更に香取神宮などの関東の旧社にも少なからず関連があるようですし、落ち着いたら古代卜占の深掘りに挑戦したいと思っています!

    • @wonderfulSMTworld
      @wonderfulSMTworld 2 роки тому +1

      @@nihonshi ですよね、鹿島に関係するなら香取にもですよね!
      卜占深掘り!もう期待感しかない!!

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +1

      @@wonderfulSMTworld さま
      神様系のお話しは「素晴らしき『真・女神転生』の世界」さんの御家芸分野ですよね!
      是非ともアドバイスお願いします!!

  • @藤原不比等-p2u
    @藤原不比等-p2u 2 роки тому +12

    中臣鎌足は鹿島出身です。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +4

      ご視聴ありがとう御座います!
      その説も引っかかっています。
      いつの日か鎌足自身を深掘りしてみます!

  • @明石晃-p9s
    @明石晃-p9s Рік тому +2

    読み方が難しいですね。勉強になります。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +1

      ご視聴ありがとう御座います!
      いつもナレーションを録音するとき、舌がつりそうになります笑

  • @Seoritsu_Megumi
    @Seoritsu_Megumi Рік тому +1

    中臣大祓祝詞は関係あるのでしょうか?

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +1

      ご視聴ありがとうございます!
      返信が遅くなって申し訳ありません!!
      なかなかデリケートな部分ではありますが、いずれ掘り下げようとは思っています。
      これもかなり沼になる予感しかしないのですが笑

  • @ひなたさくら-u5i
    @ひなたさくら-u5i Рік тому +7

    中臣氏に関しては、富士山の辺りに何か重大な秘密が眠ってるんじゃないですかね、出自とかね。記紀から不比等が隠してますしね。
    京都の宇治は莵道や兎道とかいて うじ と書いていてうさぎの道の行き着く先が中臣氏の拠点と言われる京都市山科区ですね。
    大国主に助けられた兎は中臣氏を暗示しているのじゃないかなとも考えたりしますね。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому

      ご視聴ありがとう御座います!
      富士山はどうなんでしょうね。
      場所的には中臣氏と結びつけるものが、いまのぼくの知識ではピンと来ないんですよね。
      藤原鎌足は中臣氏では傍系なので、厳密にいうと中臣氏から出ただけで中臣氏本荘では無いんですよね。
      藤原氏が出てからも、中臣氏は続いていますし。
      富士山が記紀に登場しない理由は、もっと単純なところにあると思っています。
      いつか掘り下げようとも思うのですが、古代史的にはあまり面白いものにならないかなぁってところもあって。
      富士山のミステリーは都市伝説チャンネルの方が面白く出来るのではないかと思います!
      大国主と中臣氏を関連させるのも面白いですね。
      中臣氏が山科に拠点を置いたのはもっと後世ではありますが、莵繋がりは面白い発想だと思いました!
      僕的には中臣氏は支配域から言うと和邇氏などと関りがあったのではないかと思ったりしています。

  • @大和武尊-j7x
    @大和武尊-j7x 4 місяці тому +1

    まったくの思い付きです。藤原姓は鎌足からです。鎌足が中臣姓を乗っ取ったってことはないですか。もとより鹿島や香取の方が鎌足の本拠地で。ずいぶん前に皇籍降下して地方に天下った氏族が地方で力を蓄え中央に還ってきた。そして中臣を乗っ取った。そして不比等が日本史の過去を書き換えた。蘇我が討たれたとき本が焼かれましたよね。あれ、蘇我は将来を絶たれるわけだから本の焼却に意味はない。だけど鎌足にしたら自分たちのいない過去を消す必要がある。なんてことないのかなあ。ハハハ

  • @カンダタロウ
    @カンダタロウ 2 роки тому +12

    中臣は渡来系氏族という説が在りますね。壱岐対馬が祭祀の重要地点だったならありえる話だと思いました。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +8

      ご視聴ありがとう御座います!
      僕的には、中臣氏は渡来系氏族の入国管理官というか、卜占担当の外務大臣的なポジションだったのではないかと推測します。
      対馬や壱岐は、いわば入国管理の税関的な場所だったのではないかと。
      葛城氏の流れを汲む蘇我氏も、政治的な外務大臣ポジションにあり、大伴氏は軍事的な外務大臣ポジションにあったように感じるので、やはり渡来人との繋がりが強い氏族が飛鳥時代において重要なポストに就くのは必然だったのだと感じています。
      蘇我氏の外務的イニシアチブ獲得作戦が「崇佛」であり、中臣氏に乙巳の乱を起こされる原因となったのではないでしょうか。

    • @藤原邦子-v8m
      @藤原邦子-v8m Рік тому +1

      @@nihonshi 只今拝見中で、画面に指先が触れたらしく失礼致しました。コメントはまた後程に致します。

  • @笑朔
    @笑朔 2 роки тому +5

    かつて、現在の東京が湿地であった頃、西国から東北を目指すルートは現在の神奈川県の三浦半島から千葉県の南房総市か君津市付近に上陸し北上するルート。その君津市から北上する古い道の沿線。民家も殆ど無い狭い峠道に「鎌足」って地名があります。君津市は上総国ですが二ノ宮は茂原市の橘神社。日本武尊の東北遠征にゆかりのある
    社で、この辺りから常陸国、鹿島までは途中、飯岡(現在の千葉県旭市)で緩い丘陵が一カ所あるのみで、なんとあとは全線平坦で鹿島へ至ることが出来ます。ただし現在の利根川の下流域は古代には湖や湿地と考えられていて、人馬の行き来は途中、内陸に入って、現在の香取市あたりを経由したと考えられます。
    このルート、わたし身をもって体験しました。
    東京湾はフェリーでの海路は現在もありますが、わたしはアクアライン。高速道路のルートではあすますが。コメント長くてすみません。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому

      ご視聴ありがとう御座います!
      実際のルートを自分で行ってみるのは、楽しいですよね!
      歩かれたのですか?
      なかなかのハードなハイキングになったんじゃないですか?
      でも楽しそうですね!

    • @笑朔
      @笑朔 2 роки тому +1

      三浦半島から鹿島までは200キロから250キロぐらいの道程です。車で行きました。いつも興味深く見てます。これからも宜しくお願いします。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому

      @@笑朔 さま
      確かに!歩く距離では無かったですね笑
      でも楽しそうなドライブですね!
      こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします!

  • @雨の菫
    @雨の菫 2 роки тому +4

    鎌足の活躍で知名度は高いものの、実際のところ、どんな氏族だったのか?殆ど知られていない中臣氏。
    私も、大臣の次席の官職名が由来だと、つい最近まで思ってました💦
    現代にも“中臣さん”いらっしゃるみたいですね。
    藤原氏とは、不比等の子孫達と、彼らと婚姻関係を結んだ豪族の氏名で、
    中臣氏が皆、藤原氏になったわけではないんだそうな。
    それにしても、『卜占』て、どういう占いなんでしょうね⁉️亀の甲羅や鹿の骨を焼いて出来た模様で政治を決めるって、あんまり当てにならなさそうだけど?😅何をどうやって判断したのか全く想像できない💦

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +5

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      中臣勘違い仲間ですね!笑
      藤原氏は中臣氏の本荘では無いのは明らかで、鎌足が中臣姓を賜姓されて立ち上がった氏名ですので、豊臣姓に近いですよね。
      藤原氏隆盛後も、大中臣氏として中臣氏本荘は存続しています。
      卜占の家系は、大中臣氏が継いでいると思われます。
      古代卜占にもいずれ深掘りしてみたいのですが、それこそ都市伝説ぽくならないか心配になりますね笑
      以前に「アニミズム」の動画を上げましたが、あんな感じで作れれば良いと思っています。

    • @雨の菫
      @雨の菫 2 роки тому +1

      @@nihonshi さん
      アニミズムとしての卜占。都市伝説系がライバル(笑)の日本史ch結城屋の腕の見せ所ですね。興味深いです。あみだくじ並みの的中率で不幸になった人がいない事を祈ります😂
      なんとなくですが、卜占を発展させたのが“サイコロ”な気がします。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +2

      @@雨の菫 さま
      サイコロは確か骨卜が由来だったと記憶しているので、正解だと思います!
      卜占は古代は天気予報とカレンダーの役割を担っていて、徐々に医食とも同源になっていったんだと思います。
      しかし徐々にそれらサイエンスが卜占から独立して発展してゆくにつれ、政治的な色合いが濃厚になっていったんでしょうね。
      盟神探湯なんて、それの最たる例では無いでしょうか。
      そう考えると、あみだくじ以上に危険です笑

    • @御神誉黎
      @御神誉黎 Рік тому

      藤原氏と改めたのは鎌足とその子孫だけですね
      藤原氏や中臣氏も栄枯盛衰を繰り返していますよ。
      蘇我氏と物部氏の争いでは物部氏の側について衰退し、大化の改新で藤原鎌足が中大兄皇子と共に蘇我氏を倒して勢力を増し
      続いて壬申の乱では大友皇子の側について衰退だし。
      藤原氏全盛の時代まで何代もの間、こうした事が繰り返されている

  • @3303koyanagi
    @3303koyanagi Рік тому +3

    忌部氏との関連にもう少し触れて欲しかったです。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому

      ご視聴ありがとう御座います!
      忌部が氏として成立するのは、この動画よりもっと後世の事ですので、絡みは続編でということになります。
      忌部氏は蘇我氏が登場してからが本領発揮なので、まだまだ先ですね。
      その頃の氏族深掘りでは、独立した氏として動画にするつもりです。

  • @御神誉黎
    @御神誉黎 Рік тому +1

    物部連とか中臣連とか「連」の姓をもった氏族は神別氏族に多いからな
    中臣氏の拠点とか歴史はよくわかってないが。
    物部氏は独自の天孫伝説をもち、神武の大和入りでは対抗したニギハヤヒノ命を祖とする一族だ
    こうしたことからもともと「臣」は神武に大和入り前から従っていた譜代の氏族に与えられ
    対して「連」は神武の大和入りの後に大王に従った畿内やその周辺の有力氏族に与えられた姓ではないか
    何て思ったりしますが

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому

      いつもご視聴ありがとうございます!
      臣と連の棲み分けって、微妙ですよね!
      割と例外が多く、はっきりしないというか。
      統計とってみたんですが、余計こんがらがりましたしw

  • @ひげおやじ-y7k
    @ひげおやじ-y7k 6 місяців тому

    最近東大の倉本一宏さんが房前の正室が牟漏女王であることからこの一族は王族であろうと、何かの本で言ってましたね。当時臣下は王女とは結婚出来なかったからです。

  • @居合あん
    @居合あん 2 місяці тому

    うちが知ってるのは、中臣って中間管理職みたいなこと言われた。

  • @TA-ci9wi
    @TA-ci9wi 6 місяців тому

    ウチの家系図の一番上は中臣鎌足だな

  • @ひげおやじ-y7k
    @ひげおやじ-y7k 2 роки тому +2

    鎌足の孫、房前は美努王の娘牟漏女王を妃としています。当時、女王が臣下に嫁ぐのは禁じられていました。したがって、房前は臣下ではなかったことになります。最近倉本一宏さんも、そこから藤原氏は王権の一部であったのではないかと言っています。つまり王族ですね。藤原氏賜姓氏族説

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому +2

      ご視聴ありがとう御座います!
      中臣氏とはまた別領域の謎が藤原氏にはありますよね。
      鎌足が臣籍降下していたというのは、面白いです!

  • @hosoefact1
    @hosoefact1 Рік тому +1

    神武天皇と中臣氏とは血縁関係があるのでしょうか?
    なければ、中臣氏が天皇家を乗っ取っていることにならない?

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому

      ご視聴ありがとうございます!
      返信が遅くなって申し訳ありません!!
      というのは、どのようなところからそう思われました?

  • @asa01053
    @asa01053 5 місяців тому +1

    中臣は中氏。ナーガ。ながすね

  • @ptwjhbeamjgtwda
    @ptwjhbeamjgtwda Рік тому +6

    中臣氏は、安曇族との関係が有ります。
    私も藤原北家ですが、何年か調べました。中臣氏自体は確かに複雑かもしれません。天児屋根命と安曇磯良は同一神とされてまして、家も先祖神がワタツミです。渥美に拠点有り、鎌足に行き着きます。インド、中国、それ以前は、イスラエルレビ族であったようです。戸部では有りませんが、家は昔は十と言う文字フェニキア文字を使いました。
    安曇の豊玉姫も対馬。鹿も、滋賀、志賀等、又六芒星も関係します。家紋は星を使いますが、これは星は舟の目印にしてました。中臣氏も、古代は幾つかあったようなので1つとは考え方は適しては居ないかもしれません。この辺りはウガヤ王朝辺りに関係しているかもしれません。因みに舟の祭りは安曇族もやってます。
    志賀海神社には君が代が残されています。天孫族の海部氏の分家型になり、私どもは尾張氏になりました。日本では元々は九州に発祥となります。そこから広がりました。瀬戸内海へ。これが本当です。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому

      ご視聴ありがとう御座います!
      貴重なお話し、ありがとうございました!
      興味深く拝見いたしました。

  • @asa01053
    @asa01053 5 місяців тому

    中臣藤原は鹿島神宮。

  • @asa01053
    @asa01053 2 роки тому +1

    藤原の藤は唐の意味です。ヤギリトメオ。源平藤橘。

    • @nihonshi
      @nihonshi  2 роки тому

      ご視聴ありがとう御座います。
      それは小説のお話しですね!
      斬新ではありますけど!

  • @mikibodyohlala2793
    @mikibodyohlala2793 8 місяців тому

    めっちゃマイナーなんですが、中臣氏に仕事を奪われた多氏(大氏)と関連付けての動画もみてみたい。多氏てマイナーすぎて資料があまりないのです。

  • @pleasure5458
    @pleasure5458 Рік тому +1

    那可ですか~倭人伝に登場する古代人と関係あるのかな?
    動画有難う御座います。
    名張の積田神社の春日之奥宮とか、服部半蔵家の本拠地の花垣神社とか、猪田古墳神社とか、藤原紋なんですよね~
    猪田古墳神社は、武伊賀津彦?が祀られてます。
    積田神社には、武甕槌が休んだ伝承があり、鹿に乗って柿の木の枝で鞭にしていたようです。何故?柿の木?
    花垣神社には、15代大王の時代の事が書いてあったような?コロナ前だから、3年前の観光ですよ。
    もし、大王の系譜を色で喩えてるなら、赤大王と青大王との婚姻が紫色・
    垂れる花ですから、垂れは11代大王を連想しますね。
    赤・和可?和日?和白?
    青・青尾?
    青は、主【神】に円と書いてますね。
    蛇の目傘も丸い模様ですし、紫色の藤だと名づけられたのだから、古代大王の末裔アピール?なんですかね?
    713年に瑞祥地名や良き字法とともに、2字姓になった訳ですけど
    10代大王の皇后が大彦命の皇女【伊賀っ娘】なので伊賀だから、伊賀アピール?かもしれないし、
    11代大王も伊賀生まれの伊賀育ちで【伊賀っ子】なら、伊賀アピールもありか?
    中大兄皇子も伊賀っ娘と成婚してましたから、伊賀は、ステータスだったのかも?しれませんね。

    • @nihonshi
      @nihonshi  Рік тому +1

      いつもご視聴ありがとう御座います!
      面白いアプローチですね!
      興味深いです!
      伊賀は何かと気になる地域なので、いずれ深掘りしてみます!
      ニンニン!

  • @ちっち-d7t
    @ちっち-d7t Місяць тому

    めっちゃどうでもよく思ってしまう 過去なんか知ったところで

  • @masamasaict7312
    @masamasaict7312 Рік тому

    基本的に記紀に頼らざるを得ないのは仕方ない。例えば日高見国側からの視点で見て、騎馬を持った大和政権が、持っていない日高見国=常陸の国を平定し北へ追いやったと。邪馬台国は魏の使節が見た日高見国で平定される前の常陸の国。または日高見国から入れ墨を嫌がった皇統一族が西に逃げ、四国と九州とでそれぞれ皇統を争い、結果、日高見の一族が勝利し中臣氏が鹿島を押さえたと。