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これ程の改革を成すのに安易に粛清に頼らなかったのは凄いな。
まったく同意。武の面を語られることの多い武霊王だが、武を用いるのは外敵に対してだけで、政治は言葉の力で推し進めた。
本当に名君ですよね。反対者が親族だと、なおさら面倒なことなのに。
趙国史の時間、待ってました。武霊王の最期は切ないですよね…。革新的な軍事改革を成し遂げて後は安楽に老いてゆくだけの時期になって反乱に遭い亡くなるのですから。中原の覇者にして騎馬民族の王を目指した点は唐の太宗にして天可汗、李世民を想起させますね。そうなると武霊王の構想は900年先を行っていたことになり、理解者がいなかったのも頷けます。
武霊王は中国史の中でも好きな君主なので、紹介していただけて嬉しいですあれほど粘り強く重臣を説得して改革を成し遂げた彼が、包囲を解いた後の怒りを恐れて餓死させられたのも興味深い事実です交渉もなく離宮を攻めたり、救援する勢力もほとんど出なかったのも、彼の目指す国家戦略が疎まれていた可能性も十分ありそうですこのあと趙は多くの人材を輩出するので勿体なかったですね
この頃の北方って異民族とライバル国の両方に挟まれるハードモードスタートだよね。そしてめげずにそれを自国の軍事でプラスに変える武霊王はほんと凄い。
胡服騎射を「ぜったいうまいこと行くから~」って言いながら、めげずにみんなを説得して回ったと思うととても人間味を感じる。また「武」「霊」が諱になっているあたりがみんなが評価しつつも迷惑したんだなって感じが出てて面白い。
こんな時代の端っこの国の歴史もちゃんと残る中華の情報記録能力は凄いと思う。
趙魏韓に分裂する前が晋で、晋は周王室と同じ姫姓だから、場所は北の端だけど重要なんだと思います。
三晋地域は西周期から軍事上の要衝やんけ。そもそも姫姓が封されて公の爵位が与えられている地域は周王が経済上、軍事上確保しておくべきルート上にあるもんだから晋地域の情報が残ってるのは当然っちゃ当然。
別の人の動画で古代中国の人肉食を扱ったものがあり、コメント欄にその風習の残酷さを非難するものが多かったのですが、よい事もわるい事もきちんと史書に記録する行為は尊敬に値します。批判するにも記録が残っていてこそだからです。
胡服騎射の件がまさにそうですが、常識にとらわれず、有用なものを取り入れようとする姿勢、そして君主権力を行使せず、説得する事で広めた所など、武霊王の凄さを改めて知りました。それだけに最後があまりにも悲劇的でしたが、武霊王も人間だったんだな、と少し親しみも持てました!😆
鳥人間様と一度語りたいです、私は台湾出身の人中国史は興味あるです、もし力になるなら是非呼んでください
騎馬兵が威力を増したのは「鐙」の発明が要因であるという説があります。動画とだいたい同時代のアレキサンダーのマケドニア軍は歩兵による方陣ファランクスが主力でその両側に短槍で武装した軽騎兵を配する布陣でした。鐙がないため踏ん張りが効かず、中世の槍試合のような長大な槍などが振るえないため騎馬兵はもっぱら機動力を活かした偵察・遊撃が主任務だったようです。騎射に関しても生まれた時から馬上で生活していた騎馬民族ではなく、成長してから訓練した農耕民には難しかったらしいです。その後、ローマ軍が百人隊(センチュリオ)による集団散開隊形を編み出しファランクス戦法を破って地中海世界を制しましたが、中東では騎馬隊主力のパルティアに最初はぼろ負けしていました。慣れて来るとの徐々に良い勝負に持ち込めるようにはなったようです。パルティア騎兵は馬上で後方に騎射する技術が巧みで、英語に捨て台詞という意味の「パルティアンショット」という単語が今でも残っています。だいたいどこでも鐙が伝わると戦の戦法が一変して、戦車が使われなくなり、騎馬による集団戦が主体になったようです。一説によると鐙は騎馬民族丁零の発明ということですが時期など正確なところはわからないようです。私は中国の歴史はあまりわかっておらず鳥人間動画で勉強中のため、適当なことを言いますが、ひょっとすると武霊王は何か知っていたのかもかもしれないですねぇ(笑)
現在、確認される最古の鐙が晋王朝期の中国東北部で出土されているそうなので、中原の北に住んでいた遊牧民族はかなり昔から馬具についての知識は深いものがあったようです。武霊王が目をつけたのは、そこかも知れませんね。
偉業と悲劇的な最後の印象が強くて、ハイブリッド二重王国構想なんてことまで考えが及びませんでした。歴史の勉強は事象の羅列を辿るだけじゃないんだなぁ。毎回、提供も凝っていて素敵です。
いつの時代も革新や改革は抵抗を受けるもの。それでも胡服騎射の重要性を見抜く洞察力と、導入を断行する意志の強さは見事。ただ、我が子に反乱された挙句それを阻止した叔父、それも胡服着用を説得した相手に監禁され餓死とは、主君の末路としてはあまりに痛ましい。斉の桓公は亡き後の遺体の扱いが悲惨であったが、武霊王はもっと悲惨に思えてならない。
肥義が武霊王を激励したあの言葉は時代環境を越えた正論ですね、無論周囲の人心とのバランスが肝心でありますが。武霊王は安易に強行策を取らず説得に力を注いでいたのが功を奏していたと考えます。国時代状況は異なりますが上杉鷹山と通ずる部分もありますね。
趙と燕と斉の奇縁がまたドラマチック
胡と中元の二重王国って聞いて、二重つながりでオーストリア・ハンガリー二重帝国が思い浮かんだ…。しかし、いつの時代も先進的過ぎる改革は人々の反発を招きやすいんですね…。(典型例の一つが始皇帝だと思う。)武霊王の最期が餓死とか悲しすぎる…。
確かに、単純な後継者問題と考えるより、強大な武霊王の権力を恵文王(とその側近)がそもそも警戒していた、と考えた方が自然に思える。武霊王が軍権を握ってるのは恵文王にとって脅威だし、餓死するまで執拗に包囲したのも、権力争い絡みの強い殺意を感じる。
来た…ついに来た…ありがとうございます!見たらまた感想書きます!
国家の大改革を断行したものの息子から餓死を賜る。貴人として服毒せずに餓死を待つ生への執念。飲む毒も持ち合わせてなかった可能性はなきにしもあらずですが、私は旧来の慣習を打ち破る改革を断行した人物として、簡単には死なないという気概を見せた誇り高い最期だったと思います。樂毅や燕の昭王もついでにやってしまわれるのかと思いましたが、別動画への含みをもたせていただき、それだけでも大興奮です。ありがとうございました。
これほどの改革をなした人物の諡号が『武霊』とは、最期も含めなんとも言えない哀愁を感じる
凄く面白い内容でした。有難うございます。趙の歴史に興味を持ちました。
動画超(趙)面白かったです!「将は国の輔(ほ)なり。輔、周なれば国必ず強く、輔、隙(げき)あれば国必ず弱し。」という孫子の言葉を思い出しました。君主が英明でも、家臣や領民との間に互いに理解がなければ、上手くいかないのかな。武霊王の前半生が目を見張るものだけに、ちょっと残念…。
使者に紛れてたのはカッコええ。漫画みたい。現場の人なんだなあ。
胡服騎射はかなり衝撃的だったはず。日本で言えば、非核三原則を無視して核武装を宣言するくらいの衝撃ちゃうかな。司馬遷は武霊王を酷評しているけど、おそらく、武霊王を理解できなかった、あるいは理解した上で夢想家すぎたという感じなのかなぁと。
胡服騎射と核武装との対比は、素晴らしい着想だと思います。司馬遷の頃の文人に、武霊王が蛮族の風習を取り入れてから今の世の乱れが始まり、もう以前の世には戻れないとの認識があったかも知れません。ちょうど現代人が、人類が核の力を手に入れてから今の世の根源的な不安が始まり、もう核武装前の世界に後戻りできないと認識しているように。
胡服騎射で世界は滅亡しませんが核では世界は滅亡する可能性があるので私個人としてはその対比は適切でないと思います。ただ純粋に防衛上の問題だけを言えば正しいのかも知れませんが世界中の中小国が核を積極的に保有すれば確実に地球を破滅に追いやるかと思います。
@@KOME1990 うーん、、、ズレてるね。昔と現在の価値観を比較してるんだよ?世界が滅亡するかどうかの話なんてしてない。
@@KOME1990 さん。おっしゃる通り、胡服騎射で世界は滅亡しませんが、核によって世界は現実に滅亡する可能性があります。とは言え、あらゆる比喩には最初から適用限界があり、視点を変えて不適切に見えることは織り込み済みです。往時の趙の知識人の視点に立てば、自軍の兵士が夷狄の民の衣服を身につけ、蛮族に師事して騎射を習うなどということは、価値観の根底を揺さぶられることだったでしょう。胡服騎射による軍事力増強と戦争のあり方の激変は、彼らの「世界」を大きく破壊するもののように見えたことでしょう。reizoukoreizoukoさんの着想に、改めて賛同の意を表します。
個人的意見ですが、胡服という服装を散々嫌がった部下たちに着用させた武霊王が衝撃的だったと思います。当時の民族の価値観や誇りを屈服させた手腕は、やや強引だったのかもしれません。王自体は完全な合理主義者で、勝つためには強者の戦術や装備を取り入れることにこだわりがないように見えます。自らスパイを行うなど、目的のために手段に私的感情を交えない面が戦時下では素晴らしかったと思います。
わあい、古代中国史!霊夢、古代中国史大好き!
ワイはスーパー軍師三銃士大好き!この人の茶番には天賦の才を感じます。
今回も素晴らしい動画をありがとうございました。こういう動画を学生時代に見たかったです。
趙の武霊王、何度見てもやはり良い!もっと多くのエピソードからこの英雄が掘り下げられて行くと良いなあ…武帝・蕭衍もそうですが、一代で燦然と輝き燃え尽きる明暗の激しい王の歴史は胸が熱くなります!
胡服騎射の故事は、明治維新で宮廷を中心に洋装を取り入れる時に、文明開化派の論拠となりました。特に明治天皇が西洋式の軍服を着用することは武霊王の胡服と同様に大きな衝撃を与えるものであったはずです。今現在の私たちに胡服騎射の感覚を当てはめるのなら「今からアラビア人と同じ様に男性は白い服にターバン、女性はヒジャブを着用すべし!」と政令が下されて洋服や着物が禁じられるようなものです。そう考えると武霊王に反対したくなる臣下の気持ちが痛いほどわかります。武霊王が非業の死を遂げたのは、主様の指摘の通り多くの反発が燻っていた為ではないかと私も思います。
武霊王は最期間近の時、包囲軍に「熊掌(クマの手のひらの肉)が食べたい」と申し入れたという。この肉は食べられる程やわらかくなるまで長時間煮なければいけないので、援軍が来るまでの最後の時間かせぎをしようとしたのかも知れない。一世の英傑も「保身」の為に見頃しにされたのは、伍子胥や呉起と同じように自らの行動を周囲に理解させることができなかった為だろうか。武霊王がもっと生きていれば、趙は秦に対抗し得る大国になり得たのか?興味は尽きない。
楚の成王
@@pomelove9502 ですね、さらに子の穆王(だったと思う)は一番の親不孝とされてるとか。親が最期の晩餐に望んだ料理を与えなかったのがその理由とか。
王が監禁されているのに誰も救出しようとしないのだから、やっぱり能力はあっても煙たがられていたのかな?洋服は着るけど絶対に米食は辞めないみたいな、粛清せずに説得で胡服騎射を行ったのだから人望も結構あったと思えるけど、やりすぎだと思っても実績があるから表立って反対出来なかったとか?コノ時代の胡服騎射は議会に戦闘服で出席するくらいのものなのかな?
煙たがられていたかもしれない事を完全に否定はしませんが、監禁してる側が王で武霊王はこの時一線から一歩引いて主父となっていたので権力が全く無いわけではないものの命令は王である恵文王が出し、重鎮である公子成が後見していたので誰も逆らう事はなかったと思います。主父(武霊王)を助けたとしても利は薄く、結局恵文王に粛清される可能性もありますからね。恵文王を先に消してもその事を主父から咎められる可能性も濃厚です。
上げてほしい人物を紹介してもらえて、わたしも満足♪
黄巣の動画以来掴みの茶番に緊張してしまう。度肝を抜かれる斬新な導入でした。
霊の字が贈られるほどの人物ではないと思う。急な改革が祟って倒れてた呉起のような人物のようだ。せめて武烈かシンプルに武という名の方が良かったのでは?司馬遷は武霊王のことを辛辣に評価し過ぎだと思うな。
軍事の改革の基礎になり国力増強した功績で「武」。しかし、自国の文化をないがしろにし、結局は後継者たちに見捨てられて餓死した事で「霊」……という事かな?
趙の武霊王の後継者は誰かと考えたら、楽毅になるんじゃないかと思うんですよ。斉を破った後の電撃的な首都占領、各地平定のスピード。それらは騎馬軍団じゃないと無理だろうって。
中国ドラマのキングダムを昨夜見ました。趙国篇でした。趙がなぜ滅んだかに焦点が当てられ、内容もわかり辛いでした。今日、こちらの動画を見て、武霊王と趙の国の素晴らしさを理解することができました。とても勉強になりました🙇
石勒&石虎「なんだ趙国史というから俺らのことかと」
@GF8EWRX 劉淵「俺がせっかく再興させた漢王朝なのに、名前変えるからこうなるんやで」
昨日やってたドラマの序盤から中盤にかけての内容だ!ドラマは展開が駆け足でわかりにくかったから助かります。
武霊王とか褒めてんのか貶してるのかよくわからない廟号ですね...
「霊」は悪諡の中でもかなり酷い諡ですよね。
そこが武霊王の奥深さを物語ってますよね。
魏にも景湣王とかいう美諡と悪諡の王がいますね笑
清朝末の洋務運動は、西洋の服装までは取り入れなかったんですよね。それだけが原因ではないでしょうが、結果として近代化は頓挫してしまった。対して、この武霊王の軍事改革。歴史を動かすにせよ歴史を学ぶにせよ、たかが服装のこと、と軽く見てはいけないことがよく分かりますね。
孫文ですら31歳で日本に亡命するまで辮髪結ってましたからね・・・そう思えば「和魂洋才」を旨に公事では洋式を取り入れまくった明治維新って凄かったのだなぁと
洋装をしていないと列強から文明国として相手にされないという切迫詰まった現実が有った。服装や法制度など色々言い訳にして不平等条約改定を拒否され続けたからね。清は崩壊間近でも皇族高級官僚や軍閥幹部は食っていけるくらい余裕はあったし中華としてのプライドもあった。義和団事件で北京を荒らされるまではね。洋務運動ではダメだと悟り洋装した新建陸軍が登場した時は既に手遅れだった。
辮髪切ったら死刑のはず..大っぴらには出来なかったと思われ
「胡服騎射」異文化の物であっても優れた物を取り入れようとする柔軟な姿勢をいくつになっても持ち続けていたいものです。
姜斉から田斉に代わるくだりってやりましたっけ
武霊王の時代には鐙はあったのでしょうかね?確認できる最後のものは302年と322年に埋葬されたものです。武霊王は紀元前の人なので鐙が存在しなかった可能性があります。だとしたら素人が異民族のように馬を操るのは大変な苦労があったと思います。鐙がなしで馬を率いるには子供のころから馬術に習熟してる必要がありますから優雅に暮らしていた貴族が胡服を着て異民族にせせら笑われながら馬に乗る訓練をしてたかと思うと涙ものです。この時代でもこのような苦労があったのに増して殷の時代に騎馬兵などいたのでしょうかね?ただ偵察や連絡要員として少数の騎兵は運用してた可能性はあるかも知れませんが。
武力をもって国土を広げた偉大な君主に贈られる「武」国内を乱し混乱をもたらした君主に贈られる「霊」諡号を考えた人も毀誉褒貶激しくて悩んだ結果なのだろうなぁ
信長も武霊王の考え方を見本としていた節はありますよね。
このチャンネルのbgmすこ
改めて聴くと武霊王すごく真面目だよなあ…
匈奴の面白いのはまさに日本でもお馴染みな、遊牧民流のたたら製鉄の技術力の高さ。匈奴は弓矢の矢尻を鉄製の特殊な形状にして、銅製の鎧が全く意味をなさないレベルの強力な矢を馬上で放ってきたらしい。
鞍はともかく鐙がない時代だから乗馬スキルを得るのに大変なコストが掛かるはず、なのにやり切ったのはやっぱり匈奴を見て効果を実感してたからなんだろうな
改革者 やがて淋しき 末路かな趙の栄華も 邯鄲の夢
実は中華における騎兵の初出は武霊王ではなく殷代でありその後廃れて戦国時代に再興されたのではないかという説が出土史料を根拠に最近になって出ているんだよね。
馬車(戦車)が馬ごと殉葬されてますよね写真のインパクトが凄い。首斬り奴隷と案内役の犬も。
【1:39~】魔理沙「かんたんにだけど、ちゃんと起こりから話していくぜ」 ↑『趙(首都は邯鄲)』だけにかΣ(゚Д゚)!?(深読みし過ぎだったらごめんなさい笑)
好きです。そういうの(笑) 僭越ながら座布団を差し上げたいと思います。
@@明神みひろ ありがとうございます\( 'ω')/
スキタイは昔から気になるな金の装飾品が素晴らしい。匈奴のルーツだったとは。
先進的な人にありがちなのが、大きな成功をおさめたが故にブレーキが利かなくなってしまうことなのでしょうね。とは言えこの手の人物はブレーキをかけてしまったら途端に暴君や暗君に陥ってしまうため歴史的に必要が無くなったら淘汰される運命なのかもしれません。それが世の摂理なのかも?
異民族の月氏って厨二心擽るカッコいい名前だよねw
趙から廉頗、趙奢、李牧など名将が連続するのも騎馬があったればこそですからね
劇辛、龐煖「俺らもいるぜ!?」
呉起といい商鞅といい改革者はまともな死に方が出来ませんね(涙)それでも後世の為に誰かがやらなければならないのに…。司馬遷はちょっと辛すぎない?
人間は安定を望みますからね。
作用には必ず反作用があるみたいに、何時でも変革者(本人でなくても、その後継者)は最後にしっぺ返しみたいのを食らう感じなのは世の常なんだろうかな?
変化が急すぎ大きすぎだと反動も自乗倍なでしょうね。
歴史家はね、、、古代西洋の歴史家であるプルタルコスも改革者タイプには評価が辛いと言うし。
今度は、ぜひ、楽毅の解説をお願いします
重臣たちが中華の風習を離れることを嫌がったのは趙氏自体がもともとは中華の風習を学ぶことで力をつけた狄だったからではなかったか?と想像してしまう。「中華の王に認められた狄の王による統治」が趙氏のコンセプトなら中間管理職としては中華の風習からの離脱は悪夢でしかありません。
なんだか伍子胥みたいに、激烈な心の炎でもってあらゆる偉業を成し遂げ、ついには自身をも燃やし尽くしてしまった感があるんで、武霊王はその悲惨な最期も含めて大好きですねぇ…それにしても漢民族と異民族の二重王国とは…ハプスブルク家のオーストリア=ハンガリーや、日本&朝鮮の「大東国」構想に通ずるロマンを感じる
中華民族と遊牧民族の二重王国なんて、中華思想からすれば受け入れ不可能な概念ですね。「地上は全て中原(中華)の王者の支配下にあり、中原周辺の蛮族は中華(中原の王朝)に従属すべし」が中華思想の根幹ですから。この時代に中華思想が完成していたかはわからないですが、雛形となる考え方は根付いていたはず。かの「ハゲの女たらし」の様に「恐れをなした」重臣達によって、あんな最期に追い込まれたのでは無いかと。
胡服騎射は無霊王以降すぐ定着したわけではないけども、転換点なのは確か
言い出しっぺの時は反発は食らうものですよ、やっぱり。でも、次第に古来の方法では対処できなくなり、「そういえば、以前に新しい事をやろうとしていた人がいたな」ってかつての改革が試験的なものと捉えられるようになった時分で、更に時代に沿うよう改良を加えられてからようやく定着し出すんですよね。……人間の歴史なんて、そんな事ばかりです。先見の明を持った賢人なんて、そんなにいないんです。
陳舜臣氏の十八史略だと太子を廃され庶兄となった公子章が弟の恵文王に臣下として頭を下げているのを何度も見ている内に不憫になり、公子章を代王として代の地を任せようとしたけど恵文王や公子章及びそれぞれの家臣たちにちゃんと報連相せず自分の脳内で改革を進めた為に齟齬が起きてあの悲劇に繋がった的に書いてたなあとはいえ、ちゃんと両者に説明しても恵文王と公子章は納得したとしても両者が抱える臣下達が権力闘争で暗闘して結局武霊王死後に内紛勃発は避けられなかっただろうと思う
五代十国時代もやってほしいです唐の貴族が滅亡する悲哀も
これ程の英傑が権力の分散をするという悪手(餓死するのも当然)をおかすのだから後継者問題は本当厄介
秦紀そろそろ進めて欲しい
Civでいう所の、テクノロジーツリーを車輪から騎乗へ進めた感じですかね?
でも弓騎兵は弱いciv 古代最強なのに弱い
確かに末期に餓死するまで誰も助けようとしなかったのは、大きな業績がある割に不可思議ですよな
中国史のなかでは石ろくが好きいつか石ろくの動画作ってほしいです
いつの時代も創造的改革者はリカイされない。でも決行し成し遂げたところがスゴイ。ハイブリッド国家は後の時代に譲ったが。
胡服騎兵かぁ。素晴らしい物語だなぁ。中国史無知民ワイ運転しながら感動しますた。鳥人類🦉氏に感謝。所謂「歴史」についても色々と考えたくなる動画が多くて秀逸な類鳥🦆人chはヨシ!騎射となると気球飛行船対戦闘機ぐらいのインパクトがありそ。
沙丘の乱の結果、明らかに得した人間が約一名いる。公子章に代を任せるってことは、武霊王と恵文王の二重統治が代王章と恵文王の二重統治に切り替えようとしていたのかもしれない。親と子の二重統治だから成り立っていたのに、王位争いした兄弟で二重統治なんて出来るのか?恵文王は重臣の不満を受け止めつつ、将来災いの種になりそうな兄弟王国構想を、権力の大きすぎる一族もろとも消し去ってしまったのではないか。
なるほど、父親を直接的に排除したんじゃないから孝に背いたことにはならないでしょうね。
白狄か、スラブ、ペルシャ、コーカサス。どれでもぴったりな字面な希ガス
このまま行ったらダメなことに気付いて大胆なビジョンを描き内部の抵抗勢力を諭し外部の介入を予め防ぐ外交をしてキッチリ目的を果たす。初の騎兵導入が彼だろうが彼でなかろうが、確実に何か改革して名君になったと思わせる人物(そもそも彼もしくは趙にとって騎兵が初かどうかはどうでもいい)。戦略眼、内外での立ち回り、実行力などどれを取っても簡単ではないが、一番すごいのは、かなりの悲観シナリオから逆算して手を打ってるということ。ジリ貧に気づいて引きこもる不徹底が失敗ルートであることをわかって身内に反例を出さない中山国の侵攻中に大国が介入することを読んで他にぶつけておくファインプレーの力があるというより、全部読んで守備位置を決められるタイプだと思う。ラッキーパンチではない力を感じる。現代でも成功しそう。
後継のことまで含めてちゃんと出来る指導者って歴史上でも殆どいませんよねぱっと思いつくとこだとカエサルくらい
秦「魏も楚も叩いて俺とやりあえるのは斉だけ中原進出は楽勝だな」「げ趙が台頭してこちらと天下を2分する強国に成長している」
秦「廉頗、藺相如、趙奢がいる限り、趙に手出すのはやめとこ」
セプテントリオン、スーファミ版やり込んでました!個人的にはめっちゃ好きです。
武霊王の最期を聴いた上での「牡蠣食べたい」は深い笑
単純に一乗の戦車を用意するのに4頭の馬がいるから騎兵になればユニットは4倍になるね。(人は+1しないとだけど)
言われてみれば春秋戦国までの統一されてない時期も含めて不思議と中国史呼びしていた……
「中国史」って言ったら、中国という国の歴史の意味もあるし、中国という地域の歴史(例えれば、ヨーロッパ史みたいな感じ)の意味もあるよね。
当時は、鞍も鐙もなかったので乗馬は大変だっただろうな。
胡服をさらに動きやすいように改良して「趙装」とでも名付けて普及させればよかったのにね。
騎射はわかるけど胡服は本当に必要だったのかなと思いました。馬に乗るなら胡服の方が良いとしても、それは兵士に着せれば良いだけで別に朝廷でまで着る必要は無かったのでは……
改革するのであればまずは自分からではないの?身近な所から始めるとか
朝廷では礼儀が大事ですものね。礼服とかありますし。自分が頂点だからと言って、皆が大事にしている物(それが例え、非合理的なものであっても)を蔑ろにするのは要らぬ敵を作って身の破滅を招くという事の例なんでしょうね。
@@石塚大吾-s2g 上が範を示して下に行き渡らせようとした、という事ですね。確かにそれなら……納得できました、ありがとうございます!
@@coldexp7189 やはり衣服を変えろと言われるとなかなか受け入れられないものがありますよね。胡服の機能性を有しつつ、漢服のイメージを損なわない斬新でエレガントな服、それを武霊王が開発できていれば……武霊王にデザインセンスが有れば、趙が天下取ってた説
@@mechadebu いえいえどういたしまして
後10年活躍できたら、かなりの領土拡大が見込まれたでしょうね。
大好きな殷史が負けた…と思ったけど、確かに負かすだけの面白い内容だった
すごく好き
李衛公問対の中で李靖が春秋時代における騎兵の扱いについて説明している(内容から察するに恐らく鉾とか槍で武装して運用したのだと思われる)ので、騎兵は全く無かったということは無いのではないかな。多分武霊王の騎兵団は塞外民族のように騎射を行うことと騎兵が主兵力ということが革新的だったのでは無いだろうか。つまり戦術的扱いでの騎兵はそれまでも存在していたけど、戦略的影響を及ぼすレベルの騎兵団の所持が武霊王の決断だったのだと考えてる。
胡服騎射かー諸国から趙は中華の文化を捨てたと見なされかねない改革だから国内の反発も凄かったと思う
胡服騎射の故事は中公文庫版中国文明の歴史でも特に愛読した部分で感慨深い
趙の武霊王と呉の春申君は、英雄的な功績があったのに、死に様のあっけなさと格好悪さで損をしていますね。このままうまくいけば、趙が秦を破って天下統一という展開も可能だったようにも。
春申君は楚でしたね、失礼しました。
@@tawasikamenoko4442春申君の暗殺を命じた李園は趙の出身。廉頗を受け入れたのも彼。けど李園は楚を辛うじて守るのが精一杯。で負芻のクーデターで春申君と同じ末路を辿る。項燕の奮戦も虚しく楚が滅ぶのはBC223年だから秦の中華統一の2年前。そこから項羽や劉邦の時代へ。
今日も動画ありがとうございます。蛮族とされた風習を積極的に採用をしようという発想は、プライドが高かったり、かつて大国だった国が過去の栄光に固執する状況では決して得られることはないでしょう。そして今の日本どちらかというと、過去の栄光に固執し他国を見下すばかりで何もしようとしないという意味で悪い状況にあるのではと思いました。それでも鳥人間さんのお考えのように趙の国のように既得権益に固執する輩に食い物にされ続けるのでしょうね。
日本では過去の成功体験を「伝統」と言って有り難がります。常に過去を美化し過去に戻る事を良い事と思ってる人たちが多いですね。日本も趙と近いものがあります。
@@士会雄樹 新しい事をやって失敗したら、その人が責任取らないといけませんからね。先例通りやっていれば成功率は高いし、仮に失敗しても先例通りにやっただけという事で責任を前任者たちに少しは擦り付けられますから……まあ、「変革する事は良い事だ」というのは、事の後で結果を知っている未来の人間だからこそ言える事なんですけどね。
@@coldexp7189 だからこそ変えようとはしませんからね。伝統と言う言葉は便利です。それでも改革しようとする人間は凄いと言う事です。
日本の場合は老いが大きいような気がする。悲しいことではあるがしばらくすればまた大きく変わるのかも知れない。年代がまとまってるからね。
武王や霊王は何人かいるが、武霊王はこの人しか知らないな。
英雄である武霊王に無礼を働くなんて酷い!この駄洒落は、先例に囚われない新しい試みなのです。
騎兵創設。日本陸軍の例で二十年は掛かってます。武霊王も数年では形にならなかったのでは?権謀で中山国を切り崩して、その遊牧民、兵を自分の軍にくり込んでいき、中山で練習した謀略と拡大した騎兵団で天下に臨んだ...目ざわりというより、中山併呑は天下取りに絶対必要だった、とか。
こっそり身分を隠して使者になるのすごい。自身の目で他国の様子を見る事で判ってくる事も多いと思う。
うお~ 牡蠣の季節は終わっちゃいましたね
側室や愛妾への愛情と継承権はわけないといけないってことですね継承権の入れ替えは国家衰退や滅亡につながる元ですから本人が死んだだけならまだマシなほうかな?>因果応報なのでそれと騎兵があまりにも強力なので趙が騎馬民族国家にのまれるのを恐れたのはありそう
趙の武霊王 高台より 天下を望む ニャン😺
二重王国かあ、、武霊王の真意のわかる発見に期待、ですかね。
胡服騎射馬に跨るにはズボンが必須、ただズボンは騎馬民族の文化だった儒教と漢民族文化という接着剤が広まるにつれ、この胡服に対するネガティブな感情が障害になって騎乗は浸透しなかった胡服を見る目の変化(=騎乗の復活)は後漢成立期、おそらくは雲台二十八将第2位の呉漢からではないか? なんて話がある
これが、コウラン伝のアホエロ趙王のじいちゃんか。落差がすごい。
今回の中国史ガチャは…SSR確定!「SSR武霊王」!!
当時胡服を着るというのは、現代日本でいえば男はスカートを常服せよ、というレベルの一大事。胡服とはズボンの事。しかし当時の中国ではアイルランドのキルトのようなスカートが常服だった。
武霊王もそうだが、次代の恵文王もまた優れた君主であり、恵文王の時代に趙は黄金期を迎えた。そして長平で・・・
ワイ「武霊王(ぶれいおう)…?なんか無礼な名前だな…読みはぶりょうおうか!?」アッニ「武霊王(ぶれいおう)だぞ」ワイ「えぇ…」自分は昔ぶれいおうをぶりょうおうと読んでた話
そもそも中国にいけば、同じ漢字でも日本とは別の発音をするわけだし、どっちでもいいような。
ワイ氏には羽根人類chと潜入攻撃chが中国カテの双璧だぬ。今回も素晴らしい出来で漢服しますた。
これ程の改革を成すのに安易に粛清に頼らなかったのは凄いな。
まったく同意。武の面を語られることの多い武霊王だが、武を用いるのは外敵に対してだけで、政治は言葉の力で推し進めた。
本当に名君ですよね。
反対者が親族だと、なおさら面倒なことなのに。
趙国史の時間、待ってました。
武霊王の最期は切ないですよね…。革新的な軍事改革を成し遂げて後は安楽に老いてゆくだけの時期になって反乱に遭い亡くなるのですから。
中原の覇者にして騎馬民族の王を目指した点は唐の太宗にして天可汗、李世民を想起させますね。
そうなると武霊王の構想は900年先を行っていたことになり、理解者がいなかったのも頷けます。
武霊王は中国史の中でも好きな君主なので、紹介していただけて嬉しいです
あれほど粘り強く重臣を説得して改革を成し遂げた彼が、包囲を解いた後の怒りを恐れて餓死させられたのも興味深い事実です
交渉もなく離宮を攻めたり、救援する勢力もほとんど出なかったのも、彼の目指す国家戦略が疎まれていた可能性も十分ありそうです
このあと趙は多くの人材を輩出するので勿体なかったですね
この頃の北方って異民族とライバル国の両方に挟まれるハードモードスタートだよね。
そしてめげずにそれを自国の軍事でプラスに変える武霊王はほんと凄い。
胡服騎射を「ぜったいうまいこと行くから~」って言いながら、めげずにみんなを説得して回ったと思うととても人間味を感じる。
また「武」「霊」が諱になっているあたりがみんなが評価しつつも迷惑したんだなって感じが出てて面白い。
こんな時代の端っこの国の歴史もちゃんと残る中華の情報記録能力は凄いと思う。
趙魏韓に分裂する前が晋で、晋は周王室と同じ姫姓だから、場所は北の端だけど重要なんだと思います。
三晋地域は西周期から軍事上の要衝やんけ。そもそも姫姓が封されて公の爵位が与えられている地域は周王が経済上、軍事上確保しておくべきルート上にあるもんだから晋地域の情報が残ってるのは当然っちゃ当然。
別の人の動画で古代中国の人肉食を扱ったものがあり、コメント欄にその風習の残酷さを非難するものが多かったのですが、
よい事もわるい事もきちんと史書に記録する行為は尊敬に値します。
批判するにも記録が残っていてこそだからです。
胡服騎射の件がまさにそうですが、常識にとらわれず、有用なものを取り入れようとする姿勢、そして君主権力を行使せず、説得する事で広めた所など、武霊王の凄さを改めて知りました。
それだけに最後があまりにも悲劇的でしたが、武霊王も人間だったんだな、と少し親しみも持てました!😆
鳥人間様と一度語りたいです、私は台湾出身の人中国史は興味あるです、もし力になるなら是非呼んでください
騎馬兵が威力を増したのは「鐙」の発明が要因であるという説があります。
動画とだいたい同時代のアレキサンダーのマケドニア軍は歩兵による方陣ファランクスが主力でその両側に短槍で武装した軽騎兵を配する布陣でした。鐙がないため踏ん張りが効かず、中世の槍試合のような長大な槍などが振るえないため騎馬兵はもっぱら機動力を活かした偵察・遊撃が主任務だったようです。騎射に関しても生まれた時から馬上で生活していた騎馬民族ではなく、成長してから訓練した農耕民には難しかったらしいです。
その後、ローマ軍が百人隊(センチュリオ)による集団散開隊形を編み出しファランクス戦法を破って地中海世界を制しましたが、中東では騎馬隊主力のパルティアに最初はぼろ負けしていました。慣れて来るとの徐々に良い勝負に持ち込めるようにはなったようです。パルティア騎兵は馬上で後方に騎射する技術が巧みで、英語に捨て台詞という意味の「パルティアンショット」という単語が今でも残っています。
だいたいどこでも鐙が伝わると戦の戦法が一変して、戦車が使われなくなり、騎馬による集団戦が主体になったようです。
一説によると鐙は騎馬民族丁零の発明ということですが時期など正確なところはわからないようです。私は中国の歴史はあまりわかっておらず鳥人間動画で勉強中のため、適当なことを言いますが、ひょっとすると武霊王は何か知っていたのかもかもしれないですねぇ(笑)
現在、確認される最古の鐙が晋王朝期の中国東北部で出土されているそうなので、中原の北に住んでいた遊牧民族はかなり昔から馬具についての知識は深いものがあったようです。
武霊王が目をつけたのは、そこかも知れませんね。
偉業と悲劇的な最後の印象が強くて、ハイブリッド二重王国構想なんてことまで考えが及びませんでした。歴史の勉強は事象の羅列を辿るだけじゃないんだなぁ。
毎回、提供も凝っていて素敵です。
いつの時代も革新や改革は抵抗を受けるもの。それでも胡服騎射の重要性を見抜く洞察力と、導入を断行する意志の強さは見事。ただ、我が子に反乱された挙句それを阻止した叔父、それも胡服着用を説得した相手に監禁され餓死とは、主君の末路としてはあまりに痛ましい。斉の桓公は亡き後の遺体の扱いが悲惨であったが、武霊王はもっと悲惨に思えてならない。
肥義が武霊王を激励したあの言葉は時代環境を越えた正論ですね、無論周囲の人心とのバランスが肝心でありますが。
武霊王は安易に強行策を取らず説得に力を注いでいたのが功を奏していたと考えます。
国時代状況は異なりますが上杉鷹山と通ずる部分もありますね。
趙と燕と斉の奇縁がまたドラマチック
胡と中元の二重王国って聞いて、二重つながりでオーストリア・ハンガリー二重帝国が思い浮かんだ…。
しかし、いつの時代も先進的過ぎる改革は人々の反発を招きやすいんですね…。(典型例の一つが始皇帝だと思う。)武霊王の最期が餓死とか悲しすぎる…。
確かに、単純な後継者問題と考えるより、強大な武霊王の権力を恵文王(とその側近)がそもそも警戒していた、と考えた方が自然に思える。
武霊王が軍権を握ってるのは恵文王にとって脅威だし、餓死するまで執拗に包囲したのも、権力争い絡みの強い殺意を感じる。
来た…ついに来た…
ありがとうございます!
見たらまた感想書きます!
国家の大改革を断行したものの息子から餓死を賜る。貴人として服毒せずに餓死を待つ生への執念。
飲む毒も持ち合わせてなかった可能性はなきにしもあらずですが、私は旧来の慣習を打ち破る改革を断行した人物として、簡単には死なないという気概を見せた誇り高い最期だったと思います。
樂毅や燕の昭王もついでにやってしまわれるのかと思いましたが、別動画への含みをもたせていただき、それだけでも大興奮です。
ありがとうございました。
これほどの改革をなした人物の諡号が『武霊』とは、最期も含めなんとも言えない哀愁を感じる
凄く面白い内容でした。有難うございます。趙の歴史に興味を持ちました。
動画超(趙)面白かったです!「将は国の輔(ほ)なり。輔、周なれば国必ず強く、輔、隙(げき)あれば国必ず弱し。」という孫子の言葉を思い出しました。君主が英明でも、家臣や領民との間に互いに理解がなければ、上手くいかないのかな。武霊王の前半生が目を見張るものだけに、ちょっと残念…。
使者に紛れてたのはカッコええ。漫画みたい。現場の人なんだなあ。
胡服騎射はかなり衝撃的だったはず。日本で言えば、非核三原則を無視して核武装を宣言するくらいの衝撃ちゃうかな。
司馬遷は武霊王を酷評しているけど、おそらく、武霊王を理解できなかった、あるいは理解した上で夢想家すぎたという感じなのかなぁと。
胡服騎射と核武装との対比は、素晴らしい着想だと思います。
司馬遷の頃の文人に、武霊王が蛮族の風習を取り入れてから今の世の乱れが始まり、もう以前の世には戻れないとの認識があったかも知れません。
ちょうど現代人が、人類が核の力を手に入れてから今の世の根源的な不安が始まり、もう核武装前の世界に後戻りできないと認識しているように。
胡服騎射で世界は滅亡しませんが核では世界は滅亡する可能性があるので私個人としてはその対比は適切でないと思います。
ただ純粋に防衛上の問題だけを言えば正しいのかも知れませんが世界中の中小国が核を積極的に保有すれば
確実に地球を破滅に追いやるかと思います。
@@KOME1990
うーん、、、ズレてるね。
昔と現在の価値観を比較してるんだよ?
世界が滅亡するかどうかの話なんてしてない。
@@KOME1990 さん。おっしゃる通り、胡服騎射で世界は滅亡しませんが、核によって世界は現実に滅亡する可能性があります。とは言え、あらゆる比喩には最初から適用限界があり、視点を変えて不適切に見えることは織り込み済みです。
往時の趙の知識人の視点に立てば、自軍の兵士が夷狄の民の衣服を身につけ、蛮族に師事して騎射を習うなどということは、価値観の根底を揺さぶられることだったでしょう。胡服騎射による軍事力増強と戦争のあり方の激変は、彼らの「世界」を大きく破壊するもののように見えたことでしょう。
reizoukoreizoukoさんの着想に、改めて賛同の意を表します。
個人的意見ですが、胡服という服装を散々嫌がった部下たちに着用させた武霊王が衝撃的だったと思います。当時の民族の価値観や誇りを屈服させた手腕は、やや強引だったのかもしれません。
王自体は完全な合理主義者で、勝つためには強者の戦術や装備を取り入れることにこだわりがないように見えます。自らスパイを行うなど、目的のために手段に私的感情を交えない面が戦時下では素晴らしかったと思います。
わあい、古代中国史!霊夢、古代中国史大好き!
ワイは
スーパー軍師三銃士大好き!
この人の茶番には天賦の才を感じます。
今回も素晴らしい動画をありがとうございました。
こういう動画を学生時代に見たかったです。
趙の武霊王、何度見てもやはり良い!もっと多くのエピソードからこの英雄が掘り下げられて行くと良いなあ…武帝・蕭衍もそうですが、一代で燦然と輝き燃え尽きる明暗の激しい王の歴史は胸が熱くなります!
胡服騎射の故事は、明治維新で宮廷を中心に洋装を取り入れる時に、文明開化派の論拠となりました。
特に明治天皇が西洋式の軍服を着用することは武霊王の胡服と同様に大きな衝撃を与えるものであったはずです。
今現在の私たちに胡服騎射の感覚を当てはめるのなら「今からアラビア人と同じ様に男性は白い服にターバン、女性はヒジャブを着用すべし!」
と政令が下されて洋服や着物が禁じられるようなものです。
そう考えると武霊王に反対したくなる臣下の気持ちが痛いほどわかります。
武霊王が非業の死を遂げたのは、主様の指摘の通り多くの反発が燻っていた為ではないかと私も思います。
武霊王は最期間近の時、包囲軍に「熊掌(クマの手のひらの肉)が食べたい」と申し入れたという。この肉は食べられる程やわらかくなるまで長時間煮なければいけないので、援軍が来るまでの最後の時間かせぎをしようとしたのかも知れない。
一世の英傑も「保身」の為に見頃しにされたのは、伍子胥や呉起と同じように自らの行動を周囲に理解させることができなかった為だろうか。
武霊王がもっと生きていれば、趙は秦に対抗し得る大国になり得たのか?興味は尽きない。
楚の成王
@@pomelove9502 ですね、さらに子の穆王(だったと思う)は一番の親不孝とされてるとか。親が最期の晩餐に望んだ料理を与えなかったのがその理由とか。
王が監禁されているのに誰も救出しようとしないのだから、やっぱり能力はあっても煙たがられていたのかな?
洋服は着るけど絶対に米食は辞めないみたいな、粛清せずに説得で胡服騎射を行ったのだから人望も結構あったと思えるけど、やりすぎだと思っても実績があるから表立って反対出来なかったとか?コノ時代の胡服騎射は議会に戦闘服で出席するくらいのものなのかな?
煙たがられていたかもしれない事を完全に否定はしませんが、監禁してる側が王で武霊王はこの時一線から一歩引いて主父となっていたので権力が全く無いわけではないものの命令は王である恵文王が出し、重鎮である公子成が後見していたので誰も逆らう事はなかったと思います。
主父(武霊王)を助けたとしても利は薄く、結局恵文王に粛清される可能性もありますからね。恵文王を先に消してもその事を主父から咎められる可能性も濃厚です。
上げてほしい人物を紹介してもらえて、わたしも満足♪
黄巣の動画以来
掴みの茶番に緊張してしまう。
度肝を抜かれる斬新な導入でした。
霊の字が贈られるほどの人物ではないと思う。急な改革が祟って倒れてた呉起のような人物のようだ。せめて武烈かシンプルに武という名の方が良かったのでは?司馬遷は武霊王のことを辛辣に評価し過ぎだと思うな。
軍事の改革の基礎になり国力増強した功績で「武」。
しかし、自国の文化をないがしろにし、結局は後継者たちに見捨てられて餓死した事で「霊」
……という事かな?
趙の武霊王の後継者は誰かと考えたら、楽毅になるんじゃないかと思うんですよ。斉を破った後の電撃的な首都占領、各地平定のスピード。それらは騎馬軍団じゃないと無理だろうって。
中国ドラマのキングダムを昨夜見ました。趙国篇でした。趙がなぜ滅んだかに焦点が当てられ、内容もわかり辛いでした。今日、こちらの動画を見て、武霊王と趙の国の素晴らしさを理解することができました。とても勉強になりました🙇
石勒&石虎「なんだ趙国史というから俺らのことかと」
@GF8EWRX
劉淵「俺がせっかく再興させた漢王朝なのに、名前変えるからこうなるんやで」
昨日やってたドラマの序盤から中盤にかけての内容だ!ドラマは展開が駆け足でわかりにくかったから助かります。
武霊王とか褒めてんのか貶してるのかよくわからない廟号ですね...
「霊」は悪諡の中でもかなり酷い諡ですよね。
そこが武霊王の奥深さを物語ってますよね。
魏にも景湣王とかいう美諡と悪諡の王がいますね笑
清朝末の洋務運動は、西洋の服装までは取り入れなかったんですよね。それだけが原因ではないでしょうが、結果として近代化は頓挫してしまった。対して、この武霊王の軍事改革。
歴史を動かすにせよ歴史を学ぶにせよ、たかが服装のこと、と軽く見てはいけないことがよく分かりますね。
孫文ですら31歳で日本に亡命するまで辮髪結ってましたからね・・・
そう思えば「和魂洋才」を旨に公事では洋式を取り入れまくった明治維新って凄かったのだなぁと
洋装をしていないと列強から文明国として相手にされないという切迫詰まった現実が有った。
服装や法制度など色々言い訳にして不平等条約改定を拒否され続けたからね。
清は崩壊間近でも皇族高級官僚や軍閥幹部は食っていけるくらい余裕はあったし中華としてのプライドもあった。
義和団事件で北京を荒らされるまではね。
洋務運動ではダメだと悟り洋装した新建陸軍が登場した時は既に手遅れだった。
辮髪切ったら死刑のはず..
大っぴらには出来なかったと思われ
「胡服騎射」異文化の物であっても優れた物を取り入れようとする
柔軟な姿勢をいくつになっても持ち続けていたいものです。
姜斉から田斉に代わるくだりってやりましたっけ
武霊王の時代には鐙はあったのでしょうかね?確認できる最後のものは302年と322年に埋葬されたものです。
武霊王は紀元前の人なので鐙が存在しなかった可能性があります。だとしたら素人が異民族のように馬を操るのは
大変な苦労があったと思います。鐙がなしで馬を率いるには子供のころから馬術に習熟してる必要がありますから
優雅に暮らしていた貴族が胡服を着て異民族にせせら笑われながら馬に乗る訓練をしてたかと思うと涙ものです。
この時代でもこのような苦労があったのに増して殷の時代に騎馬兵などいたのでしょうかね?
ただ偵察や連絡要員として少数の騎兵は運用してた可能性はあるかも知れませんが。
武力をもって国土を広げた偉大な君主に贈られる「武」
国内を乱し混乱をもたらした君主に贈られる「霊」
諡号を考えた人も毀誉褒貶激しくて悩んだ結果なのだろうなぁ
信長も武霊王の考え方を見本としていた節はありますよね。
このチャンネルのbgmすこ
改めて聴くと武霊王すごく真面目だよなあ…
匈奴の面白いのはまさに日本でもお馴染みな、遊牧民流のたたら製鉄の技術力の高さ。
匈奴は弓矢の矢尻を鉄製の特殊な形状にして、銅製の鎧が全く意味をなさないレベルの
強力な矢を馬上で放ってきたらしい。
鞍はともかく鐙がない時代だから乗馬スキルを得るのに大変なコストが掛かるはず、なのにやり切ったのはやっぱり匈奴を見て効果を実感してたからなんだろうな
改革者 やがて淋しき 末路かな
趙の栄華も 邯鄲の夢
実は中華における騎兵の初出は武霊王ではなく殷代でありその後廃れて戦国時代に再興されたのではないかという説が出土史料を根拠に最近になって出ているんだよね。
馬車(戦車)が馬ごと殉葬されてますよね
写真のインパクトが凄い。首斬り奴隷と
案内役の犬も。
【1:39~】魔理沙「かんたんにだけど、ちゃんと起こりから話していくぜ」
↑『趙(首都は邯鄲)』だけにかΣ(゚Д゚)!?(深読みし過ぎだったらごめんなさい笑)
好きです。そういうの(笑) 僭越ながら座布団を差し上げたいと思います。
@@明神みひろ ありがとうございます\( 'ω')/
スキタイは昔から気になるな
金の装飾品が素晴らしい。
匈奴のルーツだったとは。
先進的な人にありがちなのが、大きな成功をおさめたが故にブレーキが利かなくなってしまうことなのでしょうね。とは言えこの手の人物はブレーキをかけてしまったら途端に暴君や暗君に陥ってしまうため歴史的に必要が無くなったら淘汰される運命なのかもしれません。それが世の摂理なのかも?
異民族の月氏って厨二心擽るカッコいい名前だよねw
趙から廉頗、趙奢、李牧など名将が連続するのも騎馬があったればこそですからね
劇辛、龐煖「俺らもいるぜ!?」
呉起といい商鞅といい改革者はまともな死に方が出来ませんね(涙)
それでも後世の為に誰かがやらなければならないのに…。司馬遷はちょっと辛すぎない?
人間は安定を望みますからね。
作用には必ず反作用があるみたいに、何時でも変革者(本人でなくても、その後継者)は最後にしっぺ返しみたいのを食らう感じなのは世の常なんだろうかな?
変化が急すぎ大きすぎだと反動も自乗倍なでしょうね。
歴史家はね、、、古代西洋の歴史家であるプルタルコスも改革者タイプには評価が辛いと言うし。
今度は、ぜひ、楽毅の解説をお願いします
重臣たちが中華の風習を離れることを嫌がったのは趙氏自体がもともとは中華の風習を学ぶことで力をつけた狄だったからではなかったか?と想像してしまう。
「中華の王に認められた狄の王による統治」が趙氏のコンセプトなら中間管理職としては中華の風習からの離脱は悪夢でしかありません。
なんだか伍子胥みたいに、激烈な心の炎でもってあらゆる偉業を成し遂げ、ついには自身をも燃やし尽くしてしまった感があるんで、武霊王はその悲惨な最期も含めて大好きですねぇ…
それにしても漢民族と異民族の二重王国とは…ハプスブルク家のオーストリア=ハンガリーや、日本&朝鮮の「大東国」構想に通ずるロマンを感じる
中華民族と遊牧民族の二重王国なんて、中華思想からすれば受け入れ不可能な概念ですね。
「地上は全て中原(中華)の王者の支配下にあり、中原周辺の蛮族は中華(中原の王朝)に従属すべし」が中華思想の根幹ですから。
この時代に中華思想が完成していたかはわからないですが、雛形となる考え方は根付いていたはず。
かの「ハゲの女たらし」の様に「恐れをなした」重臣達によって、あんな最期に追い込まれたのでは無いかと。
胡服騎射は無霊王以降すぐ定着したわけではないけども、転換点なのは確か
言い出しっぺの時は反発は食らうものですよ、やっぱり。
でも、次第に古来の方法では対処できなくなり、「そういえば、以前に新しい事をやろうとしていた人がいたな」ってかつての改革が試験的なものと捉えられるようになった時分で、更に時代に沿うよう改良を加えられてからようやく定着し出すんですよね。
……人間の歴史なんて、そんな事ばかりです。
先見の明を持った賢人なんて、そんなにいないんです。
陳舜臣氏の十八史略だと太子を廃され庶兄となった公子章が弟の恵文王に臣下として頭を下げているのを何度も見ている内に不憫になり、公子章を代王として代の地を任せようとしたけど恵文王や公子章及びそれぞれの家臣たちにちゃんと報連相せず自分の脳内で改革を進めた為に齟齬が起きてあの悲劇に繋がった的に書いてたなあ
とはいえ、ちゃんと両者に説明しても恵文王と公子章は納得したとしても両者が抱える臣下達が権力闘争で暗闘して結局武霊王死後に内紛勃発は避けられなかっただろうと思う
五代十国時代もやってほしいです
唐の貴族が滅亡する悲哀も
これ程の英傑が権力の分散をするという悪手(餓死するのも当然)をおかすのだから後継者問題は本当厄介
秦紀そろそろ進めて欲しい
Civでいう所の、テクノロジーツリーを車輪から騎乗へ進めた感じですかね?
でも弓騎兵は弱いciv 古代最強なのに弱い
確かに末期に餓死するまで誰も助けようとしなかったのは、大きな業績がある割に不可思議ですよな
中国史のなかでは石ろくが好き
いつか石ろくの動画作ってほしいです
いつの時代も創造的改革者はリカイされない。でも決行し成し遂げたところがスゴイ。ハイブリッド国家は後の時代に譲ったが。
胡服騎兵かぁ。
素晴らしい物語だなぁ。
中国史無知民ワイ運転しながら
感動しますた。鳥人類🦉氏に感謝。
所謂「歴史」についても
色々と考えたくなる動画が
多くて秀逸な類鳥🦆人chはヨシ!
騎射となると気球飛行船対戦闘機
ぐらいのインパクトがありそ。
沙丘の乱の結果、明らかに得した人間が約一名いる。
公子章に代を任せるってことは、武霊王と恵文王の二重統治が代王章と恵文王の二重統治に切り替えようとしていたのかもしれない。
親と子の二重統治だから成り立っていたのに、王位争いした兄弟で二重統治なんて出来るのか?
恵文王は重臣の不満を受け止めつつ、将来災いの種になりそうな兄弟王国構想を、権力の大きすぎる一族もろとも消し去ってしまったのではないか。
なるほど、父親を直接的に排除したんじゃないから孝に背いたことにはならないでしょうね。
白狄か、
スラブ、ペルシャ、コーカサス。
どれでもぴったりな字面な希ガス
このまま行ったらダメなことに気付いて大胆なビジョンを描き内部の抵抗勢力を諭し外部の介入を予め防ぐ外交をしてキッチリ目的を果たす。
初の騎兵導入が彼だろうが彼でなかろうが、確実に何か改革して名君になったと思わせる人物(そもそも彼もしくは趙にとって騎兵が初かどうかはどうでもいい)。
戦略眼、内外での立ち回り、実行力などどれを取っても簡単ではないが、一番すごいのは、かなりの悲観シナリオから逆算して手を打ってるということ。
ジリ貧に気づいて引きこもる
不徹底が失敗ルートであることをわかって身内に反例を出さない
中山国の侵攻中に大国が介入することを読んで他にぶつけておく
ファインプレーの力があるというより、全部読んで守備位置を決められるタイプだと思う。
ラッキーパンチではない力を感じる。現代でも成功しそう。
後継のことまで含めてちゃんと出来る指導者って歴史上でも殆どいませんよね
ぱっと思いつくとこだとカエサルくらい
秦「魏も楚も叩いて俺とやりあえるのは斉だけ中原進出は楽勝だな」「げ趙が台頭してこちらと天下を2分する強国に成長している」
秦「廉頗、藺相如、趙奢がいる限り、趙に手出すのはやめとこ」
セプテントリオン、スーファミ版やり込んでました!
個人的にはめっちゃ好きです。
武霊王の最期を聴いた上での「牡蠣食べたい」は深い笑
単純に一乗の戦車を用意するのに4頭の馬がいるから騎兵になればユニットは4倍になるね。(人は+1しないとだけど)
言われてみれば春秋戦国までの統一されてない時期も含めて不思議と中国史呼びしていた……
「中国史」って言ったら、中国という国の歴史の意味もあるし、中国という地域の歴史(例えれば、ヨーロッパ史みたいな感じ)の意味もあるよね。
当時は、鞍も鐙もなかったので乗馬は大変だっただろうな。
胡服をさらに動きやすいように改良して「趙装」とでも名付けて普及させればよかったのにね。
騎射はわかるけど胡服は本当に必要だったのかなと思いました。馬に乗るなら胡服の方が良いとしても、それは兵士に着せれば良いだけで別に朝廷でまで着る必要は無かったのでは……
改革するのであればまずは自分からではないの?身近な所から始めるとか
朝廷では礼儀が大事ですものね。礼服とかありますし。
自分が頂点だからと言って、皆が大事にしている物(それが例え、非合理的なものであっても)を蔑ろにするのは要らぬ敵を作って身の破滅を招くという事の例なんでしょうね。
@@石塚大吾-s2g 上が範を示して下に行き渡らせようとした、という事ですね。確かにそれなら……納得できました、ありがとうございます!
@@coldexp7189 やはり衣服を変えろと言われるとなかなか受け入れられないものがありますよね。
胡服の機能性を有しつつ、漢服のイメージを損なわない斬新でエレガントな服、それを武霊王が開発できていれば……武霊王にデザインセンスが有れば、趙が天下取ってた説
@@mechadebu いえいえどういたしまして
後10年活躍できたら、かなりの領土拡大が見込まれたでしょうね。
大好きな殷史が負けた…と思ったけど、確かに負かすだけの面白い内容だった
すごく好き
李衛公問対の中で李靖が春秋時代における騎兵の扱いについて説明している(内容から察するに恐らく鉾とか槍で武装して運用したのだと思われる)ので、騎兵は全く無かったということは無いのではないかな。多分武霊王の騎兵団は塞外民族のように騎射を行うことと騎兵が主兵力ということが革新的だったのでは無いだろうか。つまり戦術的扱いでの騎兵はそれまでも存在していたけど、戦略的影響を及ぼすレベルの騎兵団の所持が武霊王の決断だったのだと考えてる。
胡服騎射かー
諸国から趙は中華の文化を捨てたと見なされかねない改革だから国内の反発も凄かったと思う
胡服騎射の故事は中公文庫版中国文明の歴史でも特に愛読した部分で感慨深い
趙の武霊王と呉の春申君は、英雄的な功績があったのに、死に様のあっけなさと格好悪さで損をしていますね。このままうまくいけば、趙が秦を破って天下統一という展開も可能だったようにも。
春申君は楚でしたね、失礼しました。
@@tawasikamenoko4442春申君の暗殺を命じた李園は趙の出身。廉頗を受け入れたのも彼。けど李園は楚を辛うじて守るのが精一杯。で負芻のクーデターで春申君と同じ末路を辿る。項燕の奮戦も虚しく楚が滅ぶのはBC223年だから秦の中華統一の2年前。そこから項羽や劉邦の時代へ。
今日も動画ありがとうございます。
蛮族とされた風習を積極的に採用をしようという発想は、プライドが高かったり、かつて大国だった国が過去の栄光に固執する状況では決して得られることはないでしょう。
そして今の日本どちらかというと、過去の栄光に固執し他国を見下すばかりで何もしようとしないという意味で悪い状況にあるのではと思いました。
それでも鳥人間さんのお考えのように趙の国のように既得権益に固執する輩に食い物にされ続けるのでしょうね。
日本では過去の成功体験を「伝統」と言って有り難がります。
常に過去を美化し過去に戻る事を良い事と思ってる人たちが多いですね。
日本も趙と近いものがあります。
@@士会雄樹 新しい事をやって失敗したら、その人が責任取らないといけませんからね。
先例通りやっていれば成功率は高いし、仮に失敗しても先例通りにやっただけという事で責任を前任者たちに少しは擦り付けられますから……
まあ、「変革する事は良い事だ」というのは、事の後で結果を知っている未来の人間だからこそ言える事なんですけどね。
@@coldexp7189
だからこそ変えようとはしませんからね。
伝統と言う言葉は便利です。
それでも改革しようとする人間は凄いと言う事です。
日本の場合は老いが大きいような気がする。悲しいことではあるがしばらくすればまた大きく変わるのかも知れない。年代がまとまってるからね。
武王や霊王は何人かいるが、武霊王はこの人しか知らないな。
英雄である武霊王に無礼を働くなんて酷い!
この駄洒落は、先例に囚われない新しい試みなのです。
騎兵創設。日本陸軍の例で二十年は掛かってます。武霊王も数年では形にならなかったのでは?権謀で中山国を切り崩して、その遊牧民、兵を自分の軍にくり込んでいき、中山で練習した謀略と拡大した騎兵団で天下に臨んだ...目ざわりというより、中山併呑は天下取りに絶対必要だった、とか。
こっそり身分を隠して使者になるのすごい。自身の目で他国の様子を見る事で判ってくる事も多いと思う。
うお~ 牡蠣の季節は終わっちゃいましたね
側室や愛妾への愛情と継承権はわけないといけないってことですね
継承権の入れ替えは国家衰退や滅亡につながる元ですから
本人が死んだだけならまだマシなほうかな?>因果応報なので
それと騎兵があまりにも強力なので趙が騎馬民族国家にのまれるのを恐れたのはありそう
趙の武霊王 高台より 天下を望む ニャン😺
二重王国かあ、、武霊王の真意のわかる発見に期待、ですかね。
胡服騎射
馬に跨るにはズボンが必須、ただズボンは騎馬民族の文化だった
儒教と漢民族文化という接着剤が広まるにつれ、この胡服に対するネガティブな感情が障害になって騎乗は浸透しなかった
胡服を見る目の変化(=騎乗の復活)は後漢成立期、おそらくは雲台二十八将第2位の呉漢からではないか? なんて話がある
これが、コウラン伝のアホエロ趙王のじいちゃんか。落差がすごい。
今回の中国史ガチャは…
SSR確定!「SSR武霊王」!!
当時胡服を着るというのは、現代日本でいえば男はスカートを常服せよ、というレベルの一大事。
胡服とはズボンの事。
しかし当時の中国ではアイルランドのキルトのようなスカートが常服だった。
武霊王もそうだが、次代の恵文王もまた優れた君主であり、恵文王の時代に趙は黄金期を迎えた。
そして長平で・・・
ワイ「武霊王(ぶれいおう)…?なんか無礼な名前だな…読みはぶりょうおうか!?」
アッニ「武霊王(ぶれいおう)だぞ」
ワイ「えぇ…」
自分は昔ぶれいおうをぶりょうおうと読んでた話
そもそも中国にいけば、
同じ漢字でも日本とは別の発音をするわけだし、
どっちでもいいような。
ワイ氏には
羽根人類chと潜入攻撃chが
中国カテの双璧だぬ。
今回も素晴らしい出来で
漢服しますた。