結城秀康が将軍になれなかったのはなぜなのか?

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  • Опубліковано 7 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 124

  • @sengokubanashi
    @sengokubanashi  Рік тому +72

    【補足】秀忠は元服してすぐに中納言となり官位で秀康を上回っているので
    秀康が結城を相続した時点で、徳川家の跡継ぎは秀忠に確定したと思われます。
    秀忠は旭姫の養子にもなっているので、旭姫と家康が結婚したあたりから、秀康の立場は宙ぶらりんで、秀吉も家康も持て余していたのかもしれません…

    • @user-jj8et2mo1j
      @user-jj8et2mo1j Рік тому +1

      主みたいに脱魂だからじゃないの❔🤣🤣🤣

  • @akeso_the_armonizador
    @akeso_the_armonizador Рік тому +17

    へ~っと興味深く聞かせていただきました。面白かったです。
    現代でも様々な立場の間で頑張っている人がたくさんいますよね。
    結城秀康
    大河の主人公にしたら共感されるんじゃないかなぁ~と思いました。

  • @マルプー-r1p
    @マルプー-r1p Рік тому +28

    ドラマの中で義伊が、
    『私のことは捨て殺しなさってください』
    と…
    このセリフ悲しくて…
    でも、今回の武士道さんの解説で救われた思いです😭良かった…

  • @yourpal9424
    @yourpal9424 Рік тому +14

    優秀だったろうにたらい回しに利用されて不憫ですね…誰かから愛を受けた生涯であってほしいです

  • @vamil1578
    @vamil1578 Рік тому +20

    福井市出身です。戦国BANASHIさん、藩祖取り上げて頂きありがとうございます!武将好きになった息子にもちょっと複雑ですが、今までの通説とは違った視点のこの話を伝えようと思います。

  • @あいちょ-u3e
    @あいちょ-u3e Рік тому +8

    大河ドラマを見て詳しく知りたいなぁと思っていたら、さっそく分かりやすい動画にして下さる武士道さん、さすがです!
    優秀な方だったんだろうなと感じました。
    コメントみて早死にしちゃったみたいなのは残念😢

  • @okada0715ya
    @okada0715ya Рік тому +17

    今回も本当はややこしい話だったと思うのですが、武士道さんの説明のお陰で凄く分かりやすかったです。
    これだけ数奇な運命に翻弄されながら生きた武将なら、大河は無理でも全8回位の短編ドラマでなら主人公として出てきてもおかしくないですね❗️

  • @tostom3701
    @tostom3701 Рік тому +13

    この人と保科正之はちょっと名君すぎる、家康の血筋すげえ

  • @カネゴンの娘
    @カネゴンの娘 Рік тому +3

    高野山の奥之院に行ったら、めちゃくちゃでっかい結城秀康公のお墓を見てビックリしました‼️ すごく目立ちますね。😍

  • @toyo-rex4899
    @toyo-rex4899 Рік тому +1

    18:42 関ケ原の戦いで徳川方についた武将で、加増石高が最も多かったのが結城秀康です。
    その次が秀康の異母弟・松平忠吉で武蔵忍10万石→尾張清洲52万石(48万石加増)、その次が前田利長で加賀金沢83万石→同119万石(36万石加増)ですから、秀康の58万石加増は「江戸の留守をよく守ってくれた」ことプラス「秀康を差し置いて弟の秀忠が跡継ぎになったので、その埋め合わせ」という側面が大きいと思います。

  • @xghcs868
    @xghcs868 Рік тому +17

    古河公方と結城城、祇園城。周辺在住として結城家は結城合戦やら結城四天王などとても興味深いお話です。結城秀康というと御手杵の持ち手で武勇に優れた武将のイメージですが、数奇な人生ですねぇ。結城酒造の名酒”武勇”を飲むごとにこの時代に思いをはせて。

  • @michiosekiguchi8888
    @michiosekiguchi8888 Рік тому +6

    結城秀康を取り上げていただきありがとうございます。司馬遼太郎先生の小説の影響で、将軍になれなかった可哀想な武将のイメージが、少しでも解消されればと思っています。秀忠では、秀康の役回りは、無理だったと思っています。
    越前で前田家のおさえとしつ徳川に貢献し、将軍を支えていたと思います。

  • @kanepx
    @kanepx Рік тому +1

    ん〜、複合苗字…で、扇谷上杉家‼︎ が出てくるあたり、〜さすがですねー❣️ 深く研究されている背景が垣間見えます! 通説に疑問を抱いて さらに新たな仮説を立てて検証していく! スゴイ解説です、ありがとうこざいます!😂 いつか、機会があったら…三成と家康が 実は仲良しだったっていう噂も検証してみてください!

  • @せんちゃん心はいつも3歳児

    結城家の当主になったのが、やはり大きいと思います。家康から秀忠の代替わりですらそれぞれについていた人同士の勢力争いが根本にありそうな事件が色々ありましたから、別家をついでいた秀康が跡を継ぐと、結城家臣団との軋轢が発生して、余計にややこしくなった事は容易に想像できます。

    • @フォード-i1w
      @フォード-i1w Рік тому +7

      その辺は武田家というか勝頼の顛末を見て…なのかしらねぇ(既に一度外で相続済み)

    • @せんちゃん心はいつも3歳児
      @せんちゃん心はいつも3歳児 Рік тому +6

      それは、あると思います。義信事件からの顛末はよく知っているでしょうから。家康の最も凄いところは『歴史と経験に学び、同じ失敗はしない。』事だと思ってます。確かに信長や秀吉のように鮮やかに見える才能は感じず、失敗もたくさんしてますけど、同じ失敗を繰り返さないのが先の2人との大きな違いで際立った部分だと思います。

  • @kazuoka1143
    @kazuoka1143 Рік тому +4

    非常に分かりやすい話し方でよかったです。秀康は徳川家を継ぐには余計な色が付き過ぎていたと言う事かなと思いました。ただ、嫡子以外は排除されることも珍しくないこの時代に、越前と言う大国を得て天寿を全うしたのは、秀康・家康・秀忠全員にとって幸福な結末であったと思います。

  • @clai47tere1sar
    @clai47tere1sar Рік тому +11

    なんか諏訪家と武田家のどっちともつかない立場に立たされて苦しんだ勝頼を思い出した

  • @アニメと旅行大好き人間

    家康自信も秀康を大事にしていたしギリギリまで秀康を跡継ぎにしてもいいのではと色々迷っていましたが心中は苦しい決断として秀康は既に結城家に養子となった事と武力ではなく知識をもつ秀忠こそ跡継ぎにふさわしいと心中は苦しいながらの決断だったと思います‼️また秀康も秀康の母お万の方も反抗等せず家康の判断をあえて尊重したと思います‼️

  • @kwanoudou
    @kwanoudou Рік тому +10

    二代将軍ということでまだ幕府の基盤がしっかり確立できてない時期だったのも関係してるかもしれませんね。
    独立して大名になっていた秀康が将軍になるとしたら結城家で作った腹心も一緒に連れてくるでしょうから譜代の幕臣たちとの間に摩擦が生じいらぬ波乱が起こる可能性も考えられますから。

  • @フッキカラ
    @フッキカラ Рік тому +27

    あくまで私の想像ですが、もしかしたら結城秀康はかなり武将としても、当主としても優秀だったし、武士道さんの解説にあった上杉景勝への挑戦状を書いてかの人が多分攻めてこないのを知っていて書いたのだろうと考えた上で味方を安心させようとしたと思いついた事ならば、相当頭の回転も良かったのではないかと思いました。また、自分を推挙して家康に合わせてくれた実子信康でさえも何かあれば処分されてしまっているという事実を目の当たりにしてきたと思いますので、もしかしたら結城秀康自身が豊臣政権が『関ヶ原の戦い』で徳川の世になったので、かつての不遇な立場だった頃の経験と家康が秀忠に遅参の時の本気の怒りの場面等を多分人づてに聞いて本気で秀忠を後継者にしようとしている事をかんがみて、元主家として一歩引いた立場に身を置く事こそ自分やその子、はたまた子孫にとって良いのではないかと考えたのかな?と思ったのではないかと思いましたね。これは今やっている『どうする家康』で石川数正出奔にも通じる所もあり、多分息子の次男康勝を通してもその経緯とかを聞いていたかもしれないので、余計に越前の広大な土地を貰ったし、五大候補にもなった、息子には一歩引いてかつての家康の旧姓松平を名乗らせる事で家康や秀忠、後の将軍達からも煙たがれたりせずに長く繁栄できると踏んだのではないでしょうか?だからこそ彼の名前は残っているし、逆に後々徳川家としては5人の息子達が各藩の存続になくてはならない一族になっていくという事を考えると彼は徳川政権を盤石とする結果になったのではないかと思います。今のドラマ『どうする家康』では今後どう描かれていくのかわかりませんが、もしかしたら、かつて苦労してきた家康が石川数正の件もあり、彼の存在を心配して一番にはなれないかもしれないけど、彼の将来をおもんばかっての処置だったのではないかと思います。

    • @ドミニオンパワー
      @ドミニオンパワー Рік тому +1

      秀忠の家系も5代将軍綱吉で絶えてしまう訳だしね
      家康長男の信康は非業の死を迎えてる
      秀康は権力闘争の激しい将軍職への欲望は少なかったのでは?

  • @umakara55
    @umakara55 Рік тому +14

    秀吉は(大の女好きありながら)おそらくは男性不妊で極端に実子が少なかったが、家康は子沢山でしかも16人中11人という高い男児率、うち9人が元服できるほど健康に恵まれた家系だった(特に六男松平忠輝は92歳まで生存)。このおかげで家康には選択肢が豊富にあったのでしょうね。結城秀康の羽柴家行きが1584年、この時点で家康には既に五男まで生まれていたので、正直言って秀康がどのような処遇になっても「どうとでもなる」という思いでしょう。

  • @Landius0228
    @Landius0228 Рік тому +4

    秀吉がハンコ押した「嫡子」はある意味で家康の家中を介入する手段の一つかもしれないですね。

  • @ズィケン
    @ズィケン Рік тому +3

    跡継ぎってより、家康の副将的な扱いだったのかな?武田信繁や羽柴秀長のような。

  • @シロイヤス
    @シロイヤス Рік тому +4

    幼少期から数奇な運命を辿ったために「譜代の家臣と馴染みがない」ところで将軍家に戻って来てたら、ある意味「勝頼状態」になってた…って事ですか
    確かに、それを家康も危惧して秀康を選ばなかったのであれば過去に学ぶ家康らしい選択とも言えますね🤔

  • @中三川
    @中三川 Рік тому +1

    結城秀康さん話は、今日はじめまして知りました。初耳です。

  • @akikoYY
    @akikoYY Рік тому

    結城秀康→→松平不昧(まつだいらふまい)公から来ました。
    1:10 お万の方の子どもだったのですね。

  • @仲村渠達也-g1k
    @仲村渠達也-g1k Рік тому +4

    結城秀康は一応は父の家康からは、武勇等評価は高かったそうですね。

  • @YU-wv6jz
    @YU-wv6jz Рік тому +2

    次男の秀康も三男の秀忠も生まれた時点では本来の跡継ぎ予定である長男の信康の『控え』としての存在価値だったから、家康としては両者の優劣が希薄でどっちが跡継ぎでも別に良くて、徳川の家臣らに馴染みのある秀忠を結果的に選んだのではと思う。

  • @which703shf
    @which703shf Рік тому +9

    越前が地方というのは当時ではちょっと違うかも
    北陸道、北前の要所で都にも近い。
    街道を抑える上で井伊、忠勝、秀康で良い配置にも見えると思う

    • @周-t4i
      @周-t4i Рік тому +4

      加賀100万石前田家を東西から挟み込むように、越後に六男忠輝、越前に次男秀康、さらに加賀前田家の内部に、本多正信の次男の政重を送り込む。
      孫娘の珠姫を前田家に嫁がせる一方で、徹底的に前田を監視するぞという家康の戦略が見てとれます。

  • @cancan5892
    @cancan5892 Рік тому +5

    影の薄い人物と認識していた結城秀康、一時は嫡男と見なされていたんですね。後に五大老候補になったり、上杉征伐に家康と共に参加したり、石田三成の護衛もしていたなど、知らないことばかりでした。鶴松誕生後の秀康には多くの養子は必要なくなり、数を減らすために乞われていた結城家に入った経緯からしても、複雑な立ち位置の人ですね。34歳で没したと知り、あの先の細そうなちょっと臆病にも見える外見と、リンクしてしまいました。😁😆

    • @cancan5892
      @cancan5892 Рік тому +1

      先の細そうな▶線の細そうな気の弱い

  • @なかよし-z6t
    @なかよし-z6t Рік тому +7

    幼名がギギというナマズの仲間に由来していると言う逸話がありますが、個人的に魚好きなんので、当時の人もナマズは不細工に見てたんだと思うと面白いなぁと思いました。
    私自身ギギは可愛いと思いますけどねw

  • @lotuseurope8806
    @lotuseurope8806 Рік тому +2

    凄い人なんだな。
    この人が居なけりゃ
    歴史は違ったかもね

  • @隼-v9v
    @隼-v9v Рік тому +5

    他家(諏訪)に養子に行った子が元の家の家督相続して家中が割れた武田家を見ている家康が
    他家(結城)に養子に出した子を徳川家の家督にはしなかった
    のは当然。

  • @うにいくら
    @うにいくら Рік тому +1

    正室が認知したかどうかも大きいんですよね
    足利直冬が尊氏に疎まれたという背景に赤橋登子がいたとかなんとか

  • @逆神もんざえもん
    @逆神もんざえもん Рік тому +65

    葵徳川三代でなかなか男子に恵まれない秀忠に秀康が侍女をナンパして側室にする方法をアドバイスする回がなんか好きでした笑

    • @sengokubanashi
      @sengokubanashi  Рік тому +28

      葵三代の兄弟関係いいですよね笑

    • @mogamiga_oyoshi
      @mogamiga_oyoshi Рік тому +6

      秀忠と上座を譲り合ってるとこも好き😊大久保忠隣がとりなししてるとことか

    • @金子貴之-i3y
      @金子貴之-i3y Рік тому +4

      家光に子が出来なけければ仙千代(秀康の嫡孫)を養子にさせるなんて秀忠に言わせてましたね。

  • @moikeru1
    @moikeru1 Рік тому +6

    今回は特に面白い感じがします!
    これ、日頃の動画アップワークの中で調べ上げるの大変だったのでは…!?
    うろ覚えですが、結城秀康は激しやすい人だったって話があったような…
    そこらへんが最上位ポジションは与えづらい理由だったりするかもしれませんね。
    ところでこの夏、福井に行ったのですが、福井城は結城秀康が入城していたみたいですね。

    • @moikeru1
      @moikeru1 Рік тому +3

      補足:いつも面白いですよ メインロードからそれて、日頃聞けない一説を聞けた、というのはいつもとは違う面白さがあったということです。

  • @HS-hl1ji
    @HS-hl1ji Рік тому +2

    末子相続と長子相続のハイブリッドかな。
    秀忠への相続と春日局の案件との間に何が起こったのか・・・時間的にどれぐらいの差があると考えるんだろうね。

  • @taryuujiaijou2160
    @taryuujiaijou2160 Рік тому

    納得いく説明でした。面白く拝見しました。秀康は激しやすい人だったのかもというコメントがありますが、関所を大砲で破壊したという逸話があるそうです。不問にされたようですが、どうもヤバい性格だったのかなという気がします。そりゃ、後継者から外されるよなと納得できる逸話だと思います。

  • @augustus0716ify
    @augustus0716ify Рік тому +1

    上杉も毛利も島津も羽柴姓を名乗っているから羽柴姓についての解説はどうかなぁ~。

  • @giantnioinoba2023
    @giantnioinoba2023 Рік тому +4

    結城秀康=岡本富士太さんてイメージですねぇ(もちろん、葵徳川三代から)w
    「どうする家康」では、誰が演じるんでしょうねぇ(前回の子役の子じゃなくて)。

  • @kensuketomioka2321
    @kensuketomioka2321 Рік тому +19

    結城家って、単に歴史ある御家人の家系なだけじゃなく、結城合戦のこともありますし、古河公方や伝統的豪族(千葉・小田など)側の代表格だったのだと思います
    豊臣政権や転封してきた家康にとっては、関東の諸豪族に対して、自分達は室町将軍・小田原北条の権威を上書きする者だとアピールしたかったはず
    そういう動機もあって、結城家との縁が結ばれたのかなーって考えてみました

    • @アサヤス-w8v
      @アサヤス-w8v Рік тому +1

      家康が転封と成った後、敢えて栄えている「小田原」や「鎌倉」を本拠にしなかったのは、その辺りは特に旧北条家の支配が強い地域だったから北条縁故の豪族の反乱を恐れていたからだと思います。
      結城氏を味方に付ける事は、新参者の家康に取って相模の豪族を抑える為に有益だったでしょうね。

    • @ra45333
      @ra45333 Рік тому +3

      天正壬午の乱の際に結城四天王の一人の水谷やそれを通じて結城にかなり協力してもらっているので、割と恩義がある。

    • @大坂智義
      @大坂智義 Рік тому +1

      秀康には松平姓ではなくあくまでも結城姓の方がカッコよくてハマってると思います。

  • @ryobo_kayonko
    @ryobo_kayonko Рік тому +10

    ここからホントに面白い話がたくさんありそうなのに、話数足りないっぽいですよね🥺なんか残念です

  • @K-Mas
    @K-Mas Рік тому +1

    秀康が二代目になれなかったのは、結城姓になったり家康の側にいなかったという説、武田勝頼が諏訪家を継ぐことになって信玄から離れたのに戻ってきた流れと似てるなあと思いました。
    そのせいで勝頼はかしんをまとめきれなかった説もあるし、武田信玄を参考にしてた家康ならこの事が頭にあったかもしれません。

  • @Nag-d4g
    @Nag-d4g Рік тому +1

    秀吉の養子を2代将軍にしてしまうと豊臣恩顧の大名達が、徳川家が将軍職を継承させ続ける事に異を唱えやすくなり政権維持の障害になる。との判断ではないかな

  • @ノブトラ
    @ノブトラ Рік тому +1

    秀忠は信康死後に幼名を長丸から竹千代に改めさせられている
    正月に家康と竹千代(秀忠)は上座で家臣達から挨拶を受けている
    一方、於義丸(秀康)は下座で家臣と同じ扱い
    この時点で誰が跡継ぎかはっきりしている。その理由は単純に母親の身分の差らしい。
    当初は家康異父弟の松平定勝が秀吉の養子(人質)になる予定だったけど、
    いざ出発という時に母のおだいが「我が子を人質に出すのはもう嫌だ」と言ったため、
    代わりに秀康が行くことになった。これにより、一時的に家康と定勝の仲が悪くなったらしい。

  • @kokmr0522
    @kokmr0522 Рік тому

    なかなか複雑な人生ですね。。。
    最近「英雄たちの選択」で家康が晩年に秀忠に反抗的な6男忠輝を憂いていて最後は秀忠に改易されたのとはだいぶ違いますね。
    直接信康切腹事件に接していたのは、衝撃的だったのも大きかったのかも。
    権力構造に明け暮れなかったから生き残れたのか??
    能ある鷹は爪を隠すを地でいったのかな?

  • @ふじのふじたか
    @ふじのふじたか Рік тому +1

    結城朝勝、実家は下野の宇都宮氏で、宇都宮氏はその後なんやかんやあって秀吉に改易させられてるんですよね。

  • @風城-v3i
    @風城-v3i Рік тому +6

    秀康を嫡男にしようと思ったら秀忠を廃嫡にしないといけないから
    ぽんぽん嫡男を変えるとみんな混乱して騒動のもとになるからじゃないの?

  • @happa64M
    @happa64M Рік тому +3

    家康の息子は秀忠だけだと思ってたので、秀康や信康がいたという事実を、今年になって知りました
    歴史は面白いですね

    • @user-さわ
      @user-さわ Рік тому +1

      家康には実子だけでも十五男五女がいますよ
      さらに養子も
      あの時代、いかにたくさんの子どもを必要としていたか、また、実子に恵まれない秀吉がどれだけ焦っていたかが察せられます

    • @Abe-Wanta
      @Abe-Wanta Рік тому +1

      戦国時代の大名は、複数の畑に種を蒔くのは当たり前だったでしょう。種無しの秀吉は別として、各大名が子沢山なのは当たり前かと。

  • @anakin001
    @anakin001 Рік тому +2

    結城に明け渡した時点で家康的には離縁したものとして数えられてたのかな

  • @BrosKimMp
    @BrosKimMp Рік тому +2

    まぁ、武将として器量もあったし、他の武将からも人気もあったようなので、家康としても迷ったのでは無いかなぁ。

  • @三宅猫之助
    @三宅猫之助 Рік тому +8

    三男だった源頼朝が兄ふたりを差し置いて嫡子になったのは母親の身分が関係している説もありますし、秀康の場合も母親の身分が関係しているというのも説得力はあるかなあ。

    • @user-sf9lc5te65
      @user-sf9lc5te65 Рік тому

      頼朝は正妻の長男。 
      織田信長も正妻の長男です 
      信長にも側室の兄が居ましたよ。

  • @もつ-b6t
    @もつ-b6t Рік тому +2

    数十年前に読んだ豊臣家の人々に出てくる秀康のイメージがいまだに残ってます

  • @toshichika720
    @toshichika720 Рік тому

    結城朝光☀️かっこいい👍

  • @maikou.2156
    @maikou.2156 Рік тому +8

    歴史小説家の永井路子さんの書籍では、どうやら秀康は自分の子ではないのではと家康が疑いを持っていたからとありました。
    別では、当時不吉と言われた双子説もあったり。
    歴史は色々な説があって面白いです!

  • @田中-n9h
    @田中-n9h Рік тому +3

    息子の所業と結末を見るに秀康も待遇に不満を持ってたんじゃないかな?そうじゃないと秀康は豊臣派なんて逸話できないだろうし

  • @macauktv
    @macauktv Рік тому

    でも、身分がどうのこうので皆が納得してきたという事は、それだって大きな理由だったのではあるまいか。また、「徳川の嫡男」という書き方にしても、秀吉にとって嫡男が来るのは良いことだし、本人を前にして「お前は次男坊だぞ」なんて書き方は躊躇われると思う。「オレのチカラで徳川の跡取りにしてやるわい」くらいにも思っていたかも。

  • @MM-ms2gy
    @MM-ms2gy Рік тому +1

    秀康は秀忠のことをどう思っていたのだろうな

  • @アフサラールジャラル

    小生読んだ小説では結城秀康が「嫡男の信康様が亡くなられているのだから、徳川家の世継ぎは次男のワシだろうが!」と家康からの使者に言うと、使者は「秀康様は太閤の養子になられましたから」と返答し、「よし、それなら東西手切れの際はワシは秀頼殿に味方するぞ!」と言うシーンがありました。

  • @ゆっけ-k6b
    @ゆっけ-k6b Рік тому +1

    豊臣の名前ももらってるなら「結城豊臣秀康」と呼ばれそうなもんなのに羽柴結城秀康なんですね

  • @ogwtak
    @ogwtak Рік тому

    なるほど、秀吉の養子で羽柴姓だったから、上杉や佐竹が攻めにくいというのは気づかなかったです。
    ーー
    家康は健康マニアなので、朝鮮で唐瘡貰っていた秀康を跡継ぎとして評価しなかったという説もありますね。
    実際、家康より早死しちゃってますし。。。

  • @周-t4i
    @周-t4i Рік тому

    関東の武家の名門である結城家に家康の次男秀康が送り込まれたのは、関東に馴致する家康の政略もあるでしょうが、家康が天下を制すると秀康は越前へ移り、秀康死後の忠直の代には結城から松平となり、佐竹は出羽へ、里見は改易と関東名門を排除する方向へ変わっていきます。なぜ家康が方向転換をしたのかは興味がありますね。

  • @gokurakuhh
    @gokurakuhh 2 місяці тому

    家康が秀吉より短命ならば、秀吉の命令で秀忠の代わりに徳川家の家督を継いでいたと思う。

  • @霜卵
    @霜卵 Рік тому +2

    新鬼武者で主人公を勤めてたな

  • @小林隆博-l4b
    @小林隆博-l4b Рік тому +1

    前田慶次と決闘した人ですか?

  • @金坂治
    @金坂治 Рік тому +3

    結城家は藤原氏で、百人一首を編纂した名門ですからね。

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m Рік тому +3

      編纂したのは藤原定家で、それを依頼したのは宇都宮家(宇都宮頼綱)です。

  • @菅野智之THC
    @菅野智之THC Рік тому +7

    秀康。
    康より先に秀がきています。
    もう豊臣の人間と思われても仕方ありません。
    家康は彼の実力は認めながらも
    よくは思ってなかったと思います。

    • @sengokubanashi
      @sengokubanashi  Рік тому +10

      秀忠も(おそらく家康の父、広忠由来の)忠より上に秀がきてるんですがそれは…

    • @MMT-ni9bc
      @MMT-ni9bc Рік тому

      論破されてて草

    • @菅野智之THC
      @菅野智之THC Рік тому

      いいねが数が負けとる笑

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk Рік тому

    名前が凄い
    秀吉+家康

  • @which703shf
    @which703shf Рік тому +2

    単純に十月十日内に性交渉してない保証が無かったこともあるのかなぁ。その場合家康の子の保証も無いとなるのでは🤔

  • @이종훈-j4q
    @이종훈-j4q Рік тому

    秀吉が徳川を屈伏させたい象徴かも。徳川も幕府築いて参勤させてるように、豊臣政権が盤石だったら秀康に継がす事で忠誠を誓わされたかもしれませんね。

    • @金子貴之-i3y
      @金子貴之-i3y Рік тому

      家康が秀吉より先に死んだら徳川家の領地を分割したかもしれませんね。秀忠百万石、秀康五十万石、忠勝二十万石,直政十五万石.康政打首という具合で。

  • @staubstaub4767
    @staubstaub4767 Рік тому +3

    鬼武者だからなぁ

  • @yenhoriguchi1728
    @yenhoriguchi1728 10 місяців тому

    我先生的姨丈是結城的子孫😊

  • @突っ込み所守
    @突っ込み所守 Рік тому +1

    結城···後藤久美子

  • @ピーナッツ-m8l
    @ピーナッツ-m8l Рік тому +3

    割と嫌なポジションですね。でも有能な人なんね。

  • @船木祥啓
    @船木祥啓 Рік тому +4

    結局、遊女遊びが祟って梅毒で短命だったから、それまでの人

    • @菅沼域雄
      @菅沼域雄 Рік тому

      父上みたく、女は妾にして生活を保障しろ!
      なんてな。

  • @ひげトントンはげトントン

    今イチ判然としません。やはり、母親の出自も関係してる。豊臣に人質として選んだ時点で既に家康にとって、秀忠が後継者で秀康は捨て駒だった、と解釈します。

  • @Abe-Wanta
    @Abe-Wanta Рік тому

    秀康公は、お万の子でしたか。

  • @伊藤まさし-z9j
    @伊藤まさし-z9j Рік тому +1

    秀康は、病気で鼻もじきになってしまったのが残念。
    近年も病気が流行っているので、気を付けて下され

  • @ジャス天-s8r
    @ジャス天-s8r Рік тому

    秀忠の母は誰なの?

  • @SEIZHY
    @SEIZHY Рік тому +3

    新鬼武者ってゲームで初めて知ってから主人公として大河作って欲しいなと思ってるけど、ドラマとして1年持たせるだけのちゃんとした資料がないんだろうなぁとも思ってる。
    家康の子であり秀吉の養子でもあるってのは、結構インパクトあるのに(歴史好きを除いて)一般的にはあまり知られてない武将ですよね?

  • @youtubet2287
    @youtubet2287 Рік тому

    戦は秀康
    政治は秀忠

  • @グラファー
    @グラファー Рік тому +1

    秀康双子説は?果たして

  • @いたち-c6g
    @いたち-c6g Рік тому

    秀康は畜生腹で嫌われたって聞いたけど 違ったか。

  • @PK-rl2jk
    @PK-rl2jk 4 місяці тому

    双子だった説は?
    当時は双子は忌み嫌われてた と言われてますから

  • @クセがスゴイ近江の荒武者

    家康がつまみ食いしてできたら子供だからじゃあないのかな?

  • @りつでん
    @りつでん Рік тому +1

    遊郭にハマって梅毒になってしまったのが運の尽き!豪胆で優れた武将だったのに残念…
    ちなみに黒田孝高 石田三成 福島正則と仲が良かったらしいです。

    • @金子貴之-i3y
      @金子貴之-i3y Рік тому

      三成が清正達に付け狙われた時、秀康が佐和山まで護衛してくれたお礼に毛利家から譲られた正宗の脇差をプレゼントしてます。

  • @asaichban9842
    @asaichban9842 Рік тому

    単純に病気のせいでしょ
    その病気は梅毒です

  • @tomoyaokano1081
    @tomoyaokano1081 Рік тому

    徳川宗家は源氏嫡流として上野の源氏の結城を継がせた時点で徳川を継ぐということはなくなっていたと思える結城の方が家格は上だろう。北関東は源氏が強い佐竹も源氏だし。結城という名家をついで江戸の抑えを務める秀康にはなかったと思える甲斐源氏の武田をついだ忠良吉も無かったと思える。家康の源氏を名乗っているのも怪しい事限りない信長が平氏を名乗っていたので源氏だつたというだけだろうし。

  • @林仙雀
    @林仙雀 Рік тому

    ❌さこんのえ
    ⭕️さこんえの
    なかなか改まりませんね💦

    • @sengokubanashi
      @sengokubanashi  Рік тому +6

      近衛は「このえ」、左近衛府は「さこのえふ」、であれば左近衛将軍を「さこのえしょうぐん」はダメなのですか?理由を教えていただけますと幸いです。

    • @中野善行-h6t
      @中野善行-h6t Рік тому +2

      ​@@sengokubanashi
      応援📣

    • @永井宏明-e3g
      @永井宏明-e3g Рік тому +2

      ⁠ 近衛府→このえふって読むけど左右がつくと、さこんうこんって読むみたいやから
      左近衛府はさこんえふって読むのが正しいみたいです。なのでさこんえの…が正しいみたいですがさこのえやと思ってました😅

    • @gonsukegonda7679
      @gonsukegonda7679 Рік тому +1

      @@sengokubanashi
      「左近の衛の大将」と二回「の」を付けるのが個人的には1番しっくりくるけど
      片方にしか付けないなら
      「左近衛の大将」と「左近の衛大将」
      だったら前者の方が意味の切れ目が良いということでは。
      私は元のコメント主ではありませんが・・・

    • @sengokubanashi
      @sengokubanashi  Рік тому +5

      @@永井宏明-e3g 広辞苑には「さこのえ」の読みも載っていました。主流の読みかたは「さこんえ」かもしれませんが、必ずしも間違いではないと思います。