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一度は気になって調べたけどよくわからなかったものも武士道さんは噛み砕いて解説してくれるから大好きです!
今回の動画もとても参考になりました❗️普通に聞いたら凄くややこしい話しだと思うのですが、現代の話し言葉でわかり易く例を挙げたり、必要な部分だけをピックアップして上手くまとめてくれる武士道さんの解説がとても分かり易く、知的好奇心もしっかり満たされました。多忙な中、毎回楽しい配信をありがとうございます❗️
足軽の子から、よくここまでやったな~。秀吉公。
1580年代の秀吉についてという限定的な話題でもここまで深く掘り下げられるとは、、これやから日本史はやめられねぇ
良く分かりました。わかり易い解説を有難うございました
なぜ豊臣関白なのかとても分かりやすかったですいつも配信ありがとうございます
中学生の時の社会の先生がこの人だったらもっと早く歴史好きになれたんやろな
今日はミスターチコ道さんなんですね
秀吉公は、面白いな~
豊臣の苗字カッコ良すぎるし、秀吉と茶々の子の秀頼が「豊臣秀頼である。」って名乗った時はカッコ良すぎた!!
武士道さんも 17:18 からこの動画の中で解説していますが、「豊臣」は苗字(名字)ではなく「氏(姓)」です。氏が豊臣になっても苗字は基本羽柴のままです。ただ、豊臣姓をされてからは羽柴の苗字を一切名乗らなかったので、苗字を捨てた可能性はあります。
@@caither2413 歴史上では「豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉」らしいです!!
この前、京都の豊国神社に行って来ました!秀吉の歯や、枕が普通に飾ってありました!秀頼の掛け軸も、普通に飾ってあって、汚れたら、どうするんだろう!?って、心配になりそうでした!
21:17秀吉「……あげません」 信輔「えっ……?」秀吉「あげません!」信輔「うえぇえっ!!? ぅぅっ、…よよよ~……ッ」
近衛前久が秀吉の主張を容れたのは、「それまで長らく実際の政治に携わるチャンスの無かった朝廷と言う『機構』が久しぶりに有効に機能する契機にもなるもので、しかもそれを武家の側から提案してきてるオイシい状況でもある」点を踏まえていたのかもしれない。破天荒であり、視野も広い。
朝廷が間接的にでもなんとか政治を行えた最後の時代だったのでしょうね‥豊臣が滅ぼしそれまで皇室や五摂家以外では前例のなかった中宮(皇后)を徳川から入内させ‥禁中並公家諸法度を制定して朝廷の武家に対する売官さえも禁止して取り上げてしまった‥2万石の帝とすべて集めても10万石にしかならない公家ではどうしようもなくなっていく‥
仕組みをつくるのが、上手い人でしたね!
数ある日本史系you tuber の中で、信頼できるのはこのサイトだけです。高校生なんかも、訳のわからない他のサイトに行って欲しくないですね。頑張って下さい。
いろいろ、タイミングが良かったですよね!秀吉公は。
さすが最前線でも顔が出る元関白さんだな…
勉強になる~
武士道さん、右手のそこがすごい勉強した後みたく黒くなってるーー頭が下がります!!
秀吉の解説でビックモーターの例えはマジで笑った
(ご参考) 会社名は「 ㈱ BIG MOTOR 」なので、カタカナにすると「ビッグモーター」ですね。「ビッグ」と濁るのが正しいかと思います。「バッドモーター」かも知れません。少なくても「グッドモーター」では無いですよね。
ビックモーターは別の会社になってしまいます例の会社はビッグモーターです
仲章も憧れた関白を百姓出の秀吉が関白になったなんて!
秀吉の関白宣言は面白いなぁ
豊臣の「豊」は日本を表すと考えるのが適当でしょうね。日本の雅称として豊葦原中国 ( とよあしはらのなかつくに )という言い方があります。豊臣の「臣」は藤原氏の前身である中臣氏と同様に貴族を表す一字です。中臣は本来は「なかつおみ」と発音しますが、音便が短絡(TuとOが癒合)して「なかとみ」になったのと同じ発音方法で豊臣は「とよつおみ」から「とよとみ」になっています。日本を表す豊と「とみ」は「富」に通じて嘉字となります。本来、氏を与えるというのは天皇の仕事ですが、約800年間それは行われてきませんでした。800年ぶり久々の天皇の大仕事に飛び切りの嘉字を撰じて与えるのはある意味で必然だったと思います。
「豊臣政権は秀吉の死後にすぐに崩壊してしまった・・・なぜ短命に終わったのか?」とよく議論されますが、豊臣秀次の死後に関白の地位を空白のままにしたりして、公家社会がうまく回らなくなったことから、公家からの豊臣政権への不満が大きくなったということも一因としてあると言われていますね・・・
秀次の切腹は秀吉にとっては寝耳に水で秀頼が成人するまで幽閉するつもりが後破綻になった怒りが秀次一族の処刑に繋がったらしいですね
大阪の古い地名に豊島(てしま)というものがあります。「大阪」「大坂」「浪速」よりも古い、記紀にも見られる地名です。この豊島に由来する地名に「豊能(とよの)」「豊中(とよなか)」「豊津(とよつ)」などというものもあります(「能」はこれまた古い地名「能勢」の能、中は「中央」の意、津は港の意))。この古い地名である豊島を大阪のこととして、そこに臣下の臣を組み合わせたのが「豊臣」姓の成り立ちだと私は考えています。
豊島、強いよね
鋭い!
😅
私はもっと単純な理由で下賜されたものだと思っています。秀吉は官位の獲得のため100万石とも200万石ともいわれるほど朝廷にばらまいた‥いくら五摂家の近衛の猶子になって藤原姓を得たとはいえ関白になれたのはそのためだったと思われます。なんと豊かな家臣であることかという意味で単純につけられたのだと思いますよ‥豊の一字だけでよいところに臣までつけるところに朝廷の思惑が秀吉に対してあったのではないかと思います。信長の晩年は朝廷から距離をとるようになり右大臣の位も返上していましたし売官の勧めにも応じず。朝廷は危機的状況にあったでしょう。足利将軍隆盛の時代に譲位を迫られる一歩手前まで行ったこともあったわけで‥毛利と上杉を下すことができたなら実行してもおかしくないと思えます‥朝廷は秀吉に下賜した豊臣の姓はどんなに豊かであろうとも臣下であることを忘れないようにとの意味が込められているのだと思います。
序盤中盤終盤隙がない
源義経(みなもとのよしつね)のように、姓には「の」を付けて読むので、豊臣秀吉は「とよとみの ひでよし」と読むべきなのでしょうか?
先日、平山優先生の講演会で、『豊臣の秀吉』と呼ぶのが正しいと仰ってました😊
@@tomo19841231 ありがとうございます。すっきりしました!
とよとみのひでよしと、始まって欲しかった。
太閤の役職についても解説お願いします。
「太閤」というのは、秀吉を含め、公家系トップの「関白」の職の創設以降、その経験者、及び職を退いた者の尊号です。ゆえに秀吉も太閤と呼ばれました。太閤は役職ではありません。
@@龍我ノ神_Ryuganokami ありがとうございます秀吉以外で聞いたことなかったので秀吉が作り出した役職なのかと思ってましたが元からあったものなんですね。勉強になりました
このあたり、なにかの本で読んだ時に、ほんとにそうなら貴族って陰湿やなー(うわありそう)って思ってすごい笑いましたまだ足利義昭が将軍のままだから、実質の政治権限をとる役職がほかに関白しかなかったという説が一番納得いってます
秀吉の関白をめぐるいざこざがスッキリわかりやすくて面白かったです。偶然かもしれませんが、平家にしろ豊臣氏にしろ、朝廷に入り込もうとした武家政権は短命に終わってますよね。武力も財力も上回るはずの武士たちがみんな建前上は天皇の下についているという構造も、中国史とかと比較するとちょっと変ですし、天皇家はどうやってこの聖域のような天皇制を確立させることに成功したんでしょうね。
蘇我馬子(そが”ノ”うまこ)、藤原道長(ふじわら”ノ”みちなが)、源賴朝(みなもの”ノ”よりとも)、なのになんで秀吉だけ『とよとみ”ノ”ひでよし』じゃないんだろう?
近衛前久という人物初めて知りました。マニアックですけど、かなりの重要人物なんですね。
五摂家のなかでの派閥争いに敗れ関白を辞し各地を放浪した‥放浪太閤殿下殿下だったわけですね(笑)ありとあらゆる大名と会って上洛を促した人物で‥まともに相手してもらえたのは信長だけだった(笑)
面白かった!
大変勉強になりました。結局、秀吉は最後まで羽柴だったのか…柴田家を滅ぼしても大事にしてたんだなあ。この時に近衛家が薩摩に行ったことにより島津家と近衛家が親しくなったのかな。
自分には藤原摂関家が体良く秀吉を追い出した様に思えてならないですね。
個人ブログでも突っ込んで述べたけど、武家の右大臣は不吉というジンクスみたいなのがあったのでしょう。足利将軍だって右大臣になったのは一人もいなかった(義持も、在任期間が長かった割に内大臣止まり)し、家康も、秀頼への配慮もあったのでしょうが、在任期間は征夷大将軍よりもっと短くて、その秀頼も最後は周知の通り。歴代の徳川将軍ももう綱吉以降は基本20年程度将軍も在任しないとなれなくなった様ですからね。家茂が早くなれたのは、孝明天皇と義兄弟だった事が大きかったのでしょうが、分かりやすい解説は毎回参考になります。
要するに天下人は、なんでも有りってことですね😅
この解説とどうする家康を見てると、秀吉がとんでもない悪者のイメージになっていく
豊臣とは朝廷からすれば、まぁ豊かな臣下なヤツって感じかな?
楽人の豊原姓は豊(ぶん)氏で豊臣姓は豊(ほう)ですね。古いのは勿論…豊原氏ですが豊の字が被るのを後で気づいたかどうかですよね
秀吉は豊臣姓を家康にも賜ったという説があるようです(他の有力大名にも)。つまり「豊臣徳川家康」。短期間かもしれませんが、武士道さんのご見解は?
別に羽柴が消えたわけではないんだよね
弟秀長は羽柴のままでしたし、秀吉は恩賞として羽柴の名を与えたりしましたから、羽柴も大事にしていたのだと思います。
羽柴の苗字を秀吉が捨てたわけじゃないってことよね、別枠の氏に新しく藤原や豊臣を組み込んだだけで
@@kenohzu5518 そうなんですよね。なんか分かりにくい。
氏と苗字は別物ってのは、わかりにくいだけにもうちょい説明すべきだったかもね例えば源の氏持ってる大名って今川、細川、里見、佐竹とか言い出したらきりがないほどいるし
秀吉自身は豊臣を下賜されてからはまったく羽柴を使用した形跡がないので、当人個人としては名字は捨てた可能性ありますよね。中世以前の氏だけの時代のように。でも便利なので親族や家臣には与えたとか。
秀吉勝手💦お市さんや家康が言う通り、欲が深く上限がない
本当の意味の破天荒(先例がないことをやる)
秀吉によって薩摩に流された信輔。可哀想だなぁと思いきや、薩摩での生活けっこう楽しんでるんだよなぁ。
そうそう。よく羽柴秀吉から豊臣秀吉に改姓したといわれるが正しくは平秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉と改姓(氏)したのです。姓(氏)は豊臣で家名(苗字)は羽柴で両立です。あえてルール無視で名乗り書くけど「羽柴関白太政大臣従一位豊臣朝臣(秀吉)」
羽柴太政大臣豊臣朝臣秀吉苗字の方は木下から羽柴に変えただけで、その後も終生羽柴のままだったね
ちなみにねねさんのとこの木下家は江戸時代もずっと豊臣氏だったし、朝廷の地下官人で豊臣氏を名乗る家があって興味ひきますね。秀吉の痕跡をこれまでもかっていうほど消し尽くした江戸時代にあってなかなか勇気がいりそうな感じですけど、羽柴は絶対だめだけど豊臣はまあ目立たんならちょっと許そか・・・って感じですかねえ。
この後、悪魔の子、徳川家康がやってくるんですよね!
「太閤」は何ですか?
ブシドーさん、秀吉の物真似やれそうだしうまそう
おもしろい。今は豊臣姓の人いるん?
豊臣って天皇から貰ったものだと記憶してて、豊かな臣下って付け方が単純だなって思ってた。本当はどうなん?
秀吉が豊臣姓を賜った時の詳しい記録が、何故か、見つからないんですよね。でもあえて臣の字を入れたのは、皇室からの警告と見て良いかと。百姓から成り上がり、五摂家を手玉にとるような男は、皇室最大の脅威と思われていたかと。
信長は最初こそ幕府の復活や朝廷の援助に熱心だったが‥晩年には右大臣の位を返上し朝廷が進める売官にも応じづ距離をとるようになった‥足利将軍隆盛の時代に譲位を迫られる一歩手前まで行った前例もあり危機を感じていたでしょう‥これが本能寺の変の朝廷黒幕説の根拠となるものなんですが‥秀吉にはどんなに豊かであっても臣下である分を超えるなという意味合い臣にはあったのでしょうね‥
どうなんだろう
今までなかった新しい姓を賜ることができるくらいなんだから、関白に代わる新しい官職を創ってしまおうとはならなかったんだなあ。藤原並ぶほどの格の姓を創設できるのなら関白に変わる職も創れそうだけど、そういう動きはなかったのでしょうか?前例の無さで言ったらそっちのほうがまだ良さそうな気もするんですが…。
そうですね、あくまで想像ですが、権威の裏付けには伝統(年月)というものがあると思います。仮に秀吉のために新たな官職が創設されたとしても、市井の人々には軽く見られてしまうかもしれません。関白という権威性のある官職に就きつつ、藤原氏からは独立するために改姓、という流れはベストな手段だったのではないかと思います。
まとめ 時代を動かすのは破天荒な人。武家も公家も…。
豊臣秀吉豊臣秀頼 【後見人】豊臣秀長豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保堀 秀政
藤原のルーツは中臣なので豊臣の臣は、藤原と同格とか藤原に匹敵する意味かなと思うのですがどうでしょう?
豊臣とは違いますが頼朝は嫡流だから源頼朝しか表記がないのですかね?鎌倉頼朝のように苗字はなかったのでしょうか?
そうです。頼朝は、「源」をブランド化して、他の源氏庶流には名字(武田・新田・佐竹など)を名乗るように強制していたようです。もし、頼朝が木曾義仲のように敗者になっていたら、鎌倉頼朝と呼称されていたかもしれません。
@@sengokubanashi 返信ありがとうございます。確かに頼朝は源をブランド化しようとして範頼が源姓を書いたことに怒っていましたね。頼朝一族だけが源を名乗れば苗字はいりませんね納得しました。
チコちゃんやりたかったんですね…。
姓は四姓だけじゃないんじゃ…と思ったら補足が入った。ウチの紀家の系譜とか亡き者にされたかのかと思った。
紀氏の系譜なら正統な家系だね源平あたりだとそこらの土豪が勝手に称したりしてるケースが多過ぎるから個々の正統性には疑問符だらけウチも源氏の流れらしいけど、同じ苗字で同じ発祥地なのに平氏を称する家もあるし、他の地域ならともかく一族発祥の地ですらこれじゃ甚だ怪しいよな
関白になれた理由で「関白相論」というものに触れる必要がございます。戦国BANASHI様でも語られていましたが、当時の摂関家としてなぜ秀吉の関白就任が許されたのか?という理由があやふやだったのでコメントとして書かせていただきました。摂関家の立場からすると、天下人である秀吉が「関白相論」収拾のため一時的に関白に就任するのであって、時が来れば近衛信輔に地位が譲られて、再び以前のように五摂家間の持ち回りになるものと期待されていたようです。実際、秀吉は近衛家と近衛信輔に譲ると約束していました。ところが、その後、秀吉は天皇に対して、秀吉の実子の不在を理由に新天皇の弟六宮胡佐丸を猶子とし、将来的には正式な豊臣氏の養子として関白を譲る意向であることを伝えたようです。しかし実際は、天皇も近衛家も約束を反故にして、鶴松→秀次と継いでしまいました。それに加え、関白になった秀吉がばんばん官位を武士にあげたため、ただでさえ不足気味だった官位が不足してしまい、公家社会として、朝儀公事の場で公家が家職を実修する機会奪い、狭めるものとなってしまい、まったく回らない状態になってしまったのです。その混乱を問題視し立て直そうとしたのが徳川家康で、関ヶ原の戦い以降、徳川政権下で公家の一括昇進がおこなわれ、「禁中並公家諸法度」により公家官位と武家官位の完全分離が図られたそうです。大河ドラマでは、今までも、そして今回も触れないでしょうが、ここでの徳川家康の功績は素晴らしく、これが後々朝廷との関係で生きたのだと思いました(参考:ウィキペディア)。
藤原朝臣近衛秀吉
豊臣は氏としていただいたものだから、改姓ではなく豊臣の羽柴秀吉ですよね。源の徳川家康みたいに。
藤原から豊臣じゃないの?
@@coltoa そうですね。平→藤原→豊臣と改姓してるから武士道さんはそれを指して「改姓」と言っていますよね。
秀吉の関白宣言 11:49
京都に天皇、東京に政治って方が日本って国はうまくいくのかもしれないですね。権力が中央に集中している時代は長く続きませんが、鎌倉や江戸の幕府があったころは、平和な時代が長く続きますもんね。上念さんの「経済で読み解く日本史」を読んでみて勉強になりました。現代でも宮内庁と天皇家には京都にお住まいいただいた方が平和になりそうな気がします。
薩長閥が天下を奪ってつくり上げた明治政府→大日本帝国も崩壊、新しく日本国として再生し華族とかいうヘンテコな名前の世襲特権家系も制度上消滅したのだからそれもいいかもしれないね天皇を国家元首とするが旧来の公家勢力の大半は邪魔者、彼らの歴史的権威を弱体化に導くための東京奠都という荒療治だったのだから、その対象が消滅した今となっては(薩長閥の方も消滅したけど)天皇及び皇族が東京に居る意味も無いわけで
秀吉は征夷大将軍にはならなかったんでしょうか?
義昭が征夷大将軍在任中というのもありますし、関白のほうが価値が高い(征夷大将軍になる意味がない)と考えたのだと思います。では何故家康は征夷大将軍になったのか?それは、江戸が拠点だったからです。(関白になったら、京都に行かなきゃいけないので)
藤原なら、氏の長にあたまをさげなければならない。高位にたたなければ、織田家を超えれない。将軍では、右大臣を超えたとは、微妙だ。関白なら、文句なし。なんといっても殿下です。皇太子と同じです
確かに武家の右大臣は呪わてる
大納言は正三位相当官、近衛中将は従四位下相当官のはずでは?なぜどちらも一段階下の位階に?
戦国時代では必ずしも平安時代の官位相当どおりというわけではないようです。信雄ものちに従三位権大納言になってますし、父・織田信長も従三位権大納言右近衛大将になってます。足利義昭も従三位権大納言ですね。その理由は今の私にはわかりません。勉強しておきます。
豊臣という中に臣の文字があるのは、貴族階級の意地ではないかと思います
豊臣…豊作の豊とか、臣は?
臣は臣下の臣。
現代人も姓変えられるようにならんかな?😂かっこいいやつにしたいよねw
民法では、成人なら自分で養子縁組みできるから、テクニックとしては可能。また、ドナルド・キーンが鬼怒鳴門になったように、移民が日本国籍を取るときに創氏出来ます。
なぜ豊臣になったのか大変よく分かりました。「豊臣」私もセンスがあると思います。秀吉は何故将軍になって幕府を開こうと思わなかったのでしょうか?
足利義昭がまだ存命だったからですね当然 書状のやり取りがありましたが、断られています足利義昭は朝鮮出兵の際に肥前名護屋城に出向いて秀吉に挨拶していますね
先の方がおっしゃるように足利将軍がまだいたこともありますし、将軍になれなくても関白や太政大臣という最上の地位になれる状態が整ったので、わざわざ位の劣る将軍になる必要はなかったからです。それに「幕府」という概念は江戸時代後期に「征夷大将軍を頂点とする政体が現在の徳川政権含めて過去に3つ存在したよね」という共通点に着目した、当時の歴史家や政治家が作り出したものです。なので、安土桃山時代当時には「将軍になって幕府を開く」という概念は存在しませんでした。
@@sakatosu6817まさか猶子にしてやらなかったら将軍より位の高い関白になるとは思ってみなかったでしょうね(笑)
なぜ豊臣だけは「とよとみの」と呼ばれないのですか?
個人的な意見だけど秀吉は豊臣の姓あまり好きじゃなかったと思う。理由としては豊臣の臣は家臣の臣だから皇室はお前は天皇の臣下だという意味がこめられているから。
確か藤原の前の苗字が中臣(中臣鎌足)だったから、中臣の上を行く意味で、豊臣という苗字になったのでは?
氏だから苗字じゃないし…
大中臣家「」
苗字w
前提がすべて間違ってるので・・・
編集済みだと!?
大分県日出藩の木下家北政所の流れ豊臣国松?の位牌は羽柴名字を名乗るのに、豊臣姓と書いて有る。羽柴名字は松平名字と同じ位置付と覚えると分かりやすい。
氏と苗字の違いと徳川と松平の序列分けはまた違う…
@@kenohzu5518 秀吉の一族が多く、徳川のように長く続けば羽柴を松平のように臣従関係にしたであろう予想である。
この動画の17:18以降で解説されているように、苗字(名字。羽柴・徳川・織田・近衛、他)と氏(姓。藤原・源・平・豊臣、他)は別物です。なので、苗字である羽柴と氏である豊臣は両立します。ですから、「豊臣と羽柴」は徳川でいう「源と徳川・松下」であり、苗字同士の「徳川と松下」の関係とは根本的に異なります。
本来豊臣は氏なのだから豊臣秀吉も「とよとみ の ひでよし」と称するのが正しいんだけどね歴史の授業でも貴族が名字を名乗る前や名字が出現しても氏名乗りの人物は「の」が間に挟まって習ってたはずそれが豊臣に限ってはなぜか「の」が省略されるのが常態化してしまい、現在では氏そのものが廃止になった事もあり氏か苗字かあいまいになってしまったあの司馬遼太郎でさえそのあたりを勘違いしていて(あるいは一般的な知識レベルに合わせたのか)、羽柴から改姓して豊臣となったなんて書いている
よく言われてるのは、信長は「おだ のぶなが」家康は「とくがわ いえやす」だけれども、豊臣は本姓だから、「とよとみのひでよし」と呼ぶべきってコトですね。
@@rhammer2961 ua-cam.com/video/9Ci6Ei4pRI4/v-deo.html
家康の正式な名乗りはみなもとのいえやすで良かったんですかね?武田晴信もそうだった気がしますが。
@@sugisinfkk 正式かどうかはさておき、氏を名乗る必要がある場面では「みなもとの」ですね
@@sugisinfkk たしか「みなもとのあそん とくがわ いえやす」だったかと。
@@l.g.o.2374 朝臣(あそん)を忘れていました
ビクモ出すのずるいw😂
秀吉が豊臣という姓を選べたんでしょうか?豊かであるが、あくまでも臣下であるという意味で帝から賜姓されたものと考えてました。
形式上は天皇から賜姓されるものですが、秀吉が豊臣という姓を賜りたい→天皇が許可→豊臣が賜姓されるという形もありえるかと。元号なども、信長が「天正」、家康が「元和」などに決めて、天皇が承認するという形になってます。(過去には天皇自身が決めていたものもある)
返信ありがとうございました😊いつも動画拝見しています。頑張って下さい。
関白や他人なんて、どうでもいいの発想。
じゃあ佐渡の藤原だから「佐藤」、加賀に住んでるから「加藤」、近江の所領だから「近藤」、遠江だから「遠藤」、うちの敷地にお堂が建ってるから「藤堂」みたいな感じで「藤」が付いてる苗字の人は大体本姓藤原だよなww
あべのしん の 突っ込み(掛け合い)も、 たまには、本放送にも、あって欲しい。お忙しいとは、思いますが、武士ラジオリスナーとしては、「あべのしん」氏の本編放送での、出演も、期待しています。
豊臣〝の〟秀吉じゃないの?
たしかに天皇から賜姓された姓に関しては、古代より「ノ」をつける慣習がありますね。なので、「豊臣の秀吉」と読むのが、古代からの慣習としては正しいと言えます。ただし、教科書などでは「とよとみひでよし」とルビされていることが多く、一般的には「ノ」を入れない呼び方が浸透しています。なので、どちらの呼び方をしても良いと私は考えています。
そうかあ、豊臣を誰が考えたのかは分からないのかあ。
いつも楽しみに拝見しています。何故"豊臣"の姓になったのか楽しみに動画見てたんですが最終的に分からないと言われてしまいちょっと落胆しました。タイトル変えた方が良いかと思いました。
Q なぜ豊臣になったのか?A 関白に就任したのち、藤原氏からの独立をはかるためとタイトル通りに明確に論じたつもりですが…もし「豊臣」の由来は何か?ということが知りたかったのであれば期待はずれですみません。しかし、「由来はわからない」というのは私が勉強不足だからではなく、歴史学的にも「由来はわからない」が正解なので、間違ったことは言ってません。
@@mr.bushido ご返信ありがとうございます。動画タイトルからして豊臣の姓の由来をご教示頂けると思いました。こちらも勘違いしたみたいで申し訳ないです。
「源平藤橘」は代表的なもので、この4つに限定されていません。マイナーな氏はたくさんあります。「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)古代の代表的氏名(うじな)。源氏・平氏・藤原氏・橘氏をさす。「下学集」に「日本四姓は源平藤橘,是なり」とあり,総称して四姓(しせい)ともいう。平安時代に天皇に近い子孫や外戚(がいせき)として勢力をもったところから,代表的氏名と考えられるようになり,後世に作られた系図の多くが先祖を4氏に結びつける風潮をうんだ。「山川 日本史小辞典 より引用」
解説の中でテロップで説明されてますよ。
失礼。ラジオ代わりに聞くことが多いので。
いつも楽しく拝見させていただいているのですが、「や〜乱世乱世」という始まりの文句が、縁起が悪いと感じてしまいます。本当にこれから乱世が起こりそうで、言霊っぽくて、、、何か縁起のいい言葉を考えていただけましたら幸いです。。。
木下だと朴と言う韓国の性がばれてしまう
歴史を語るのなら氏(し)と姓(せい)ではなく、【氏(うじ)】と【姓(かばね)】と読むべきなのでは?ところで日本史における氏と姓。あと諱(忌み名)と仮名(けみょう)を正しく表記するのってかなり面倒ですよね。本来官位を賜っていたり私称していない場合は、伊達藤次郎(政宗)のように諱を避けて仮名を使わないとアウトなんですよね。実際関ケ原の戦い直前に西軍から敵である家康に対して発せられた弾劾状が、【内府ちかひの条々】としたためられている。これから討ち滅ぼす相手であっても諱の家康は使わず、『内府』を呼び名としているのですからね。
一度は気になって調べたけどよくわからなかったものも武士道さんは噛み砕いて解説してくれるから大好きです!
今回の動画もとても参考になりました❗️
普通に聞いたら凄くややこしい話しだと思うのですが、
現代の話し言葉でわかり易く例を挙げたり、必要な部分だけをピックアップして上手くまとめてくれる武士道さんの解説がとても分かり易く、知的好奇心もしっかり満たされました。
多忙な中、毎回楽しい配信をありがとうございます❗️
足軽の子から、
よくここまで
やったな~。
秀吉公。
1580年代の秀吉についてという限定的な話題でもここまで深く掘り下げられるとは、、これやから日本史はやめられねぇ
良く分かりました。
わかり易い解説を有難うございました
なぜ豊臣関白なのかとても分かりやすかったです
いつも配信ありがとうございます
中学生の時の社会の先生がこの人だったらもっと早く歴史好きになれたんやろな
今日はミスターチコ道さんなんですね
秀吉公は、面白いな~
豊臣の苗字カッコ良すぎるし、秀吉と茶々の子の秀頼が「豊臣秀頼である。」って名乗った時はカッコ良すぎた!!
武士道さんも 17:18 からこの動画の中で解説していますが、「豊臣」は苗字(名字)ではなく「氏(姓)」です。氏が豊臣になっても苗字は基本羽柴のままです。ただ、豊臣姓をされてからは羽柴の苗字を一切名乗らなかったので、苗字を捨てた可能性はあります。
@@caither2413 歴史上では「豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉」らしいです!!
この前、京都の豊国神社に行って来ました!
秀吉の歯や、枕が普通に飾ってありました!
秀頼の掛け軸も、
普通に飾ってあって、
汚れたら、
どうするんだろう!?
って、
心配になりそうでした!
21:17
秀吉「……あげません」
信輔「えっ……?」
秀吉「あげません!」
信輔「うえぇえっ!!? ぅぅっ、…よよよ~……ッ」
近衛前久が秀吉の主張を容れたのは、「それまで長らく実際の政治に携わるチャンスの無かった朝廷と言う『機構』が久しぶりに有効に機能する契機にもなるもので、しかもそれを武家の側から提案してきてるオイシい状況でもある」点を踏まえていたのかもしれない。破天荒であり、視野も広い。
朝廷が間接的にでもなんとか政治を行えた最後の時代だったのでしょうね‥
豊臣が滅ぼしそれまで皇室や五摂家以外では前例のなかった中宮(皇后)を徳川から入内させ‥
禁中並公家諸法度を制定して朝廷の武家に対する売官さえも禁止して取り上げてしまった‥
2万石の帝とすべて集めても10万石にしかならない公家ではどうしようもなくなっていく‥
仕組みをつくるのが、
上手い人でしたね!
数ある日本史系you tuber の中で、信頼できるのはこのサイトだけです。高校生なんかも、訳のわからない他のサイトに行って欲しくないですね。頑張って下さい。
いろいろ、
タイミングが良かったですよね!
秀吉公は。
さすが最前線でも顔が出る元関白さんだな…
勉強になる~
武士道さん、右手のそこがすごい勉強した後みたく黒くなってるーー
頭が下がります!!
秀吉の解説でビックモーターの例えはマジで笑った
(ご参考) 会社名は「 ㈱ BIG MOTOR 」なので、カタカナにすると「ビッグモーター」ですね。「ビッグ」と濁るのが正しいかと思います。
「バッドモーター」かも知れません。少なくても「グッドモーター」では無いですよね。
ビックモーターは別の会社になってしまいます
例の会社はビッグモーターです
仲章も憧れた関白を百姓出の秀吉が関白になったなんて!
秀吉の関白宣言は面白いなぁ
豊臣の「豊」は日本を表すと考えるのが適当でしょうね。
日本の雅称として豊葦原中国 ( とよあしはらのなかつくに )という言い方があります。
豊臣の「臣」は藤原氏の前身である中臣氏と同様に貴族を表す一字です。
中臣は本来は「なかつおみ」と発音しますが、音便が短絡(TuとOが癒合)して「なかとみ」になったのと同じ発音方法で豊臣は「とよつおみ」から「とよとみ」になっています。
日本を表す豊と「とみ」は「富」に通じて嘉字となります。
本来、氏を与えるというのは天皇の仕事ですが、約800年間それは行われてきませんでした。
800年ぶり久々の天皇の大仕事に飛び切りの嘉字を撰じて与えるのはある意味で必然だったと思います。
「豊臣政権は秀吉の死後にすぐに崩壊してしまった・・・なぜ短命に終わったのか?」とよく議論されますが、豊臣秀次の死後に関白の地位を空白のままにしたりして、公家社会がうまく回らなくなったことから、公家からの豊臣政権への不満が大きくなったということも一因としてあると言われていますね・・・
秀次の切腹は秀吉にとっては寝耳に水で
秀頼が成人するまで幽閉するつもりが
後破綻になった怒りが秀次一族の処刑に
繋がったらしいですね
大阪の古い地名に豊島(てしま)というものがあります。「大阪」「大坂」「浪速」よりも古い、記紀にも見られる地名です。この豊島に由来する地名に「豊能(とよの)」「豊中(とよなか)」「豊津(とよつ)」などというものもあります(「能」はこれまた古い地名「能勢」の能、中は「中央」の意、津は港の意))。この古い地名である豊島を大阪のこととして、そこに臣下の臣を組み合わせたのが「豊臣」姓の成り立ちだと私は考えています。
豊島、強いよね
鋭い!
😅
私はもっと単純な理由で下賜されたものだと思っています。
秀吉は官位の獲得のため100万石とも200万石ともいわれるほど朝廷にばらまいた‥
いくら五摂家の近衛の猶子になって藤原姓を得たとはいえ関白になれたのはそのためだったと思われます。
なんと豊かな家臣であることかという意味で単純につけられたのだと思いますよ‥
豊の一字だけでよいところに臣までつけるところに朝廷の思惑が秀吉に対してあったのではないかと思います。
信長の晩年は朝廷から距離をとるようになり右大臣の位も返上していましたし売官の勧めにも応じず。
朝廷は危機的状況にあったでしょう。
足利将軍隆盛の時代に譲位を迫られる一歩手前まで行ったこともあったわけで‥
毛利と上杉を下すことができたなら実行してもおかしくないと思えます‥
朝廷は秀吉に下賜した豊臣の姓はどんなに豊かであろうとも臣下であることを忘れないようにとの意味が込められているのだと思います。
序盤中盤終盤隙がない
源義経(みなもとのよしつね)のように、姓には「の」を付けて読むので、豊臣秀吉は「とよとみの ひでよし」と読むべきなのでしょうか?
先日、平山優先生の講演会で、『豊臣の秀吉』と呼ぶのが正しいと仰ってました😊
@@tomo19841231 ありがとうございます。すっきりしました!
とよとみのひでよし
と、始まって欲しかった。
太閤の役職についても解説お願いします。
「太閤」というのは、秀吉を含め、公家系トップの「関白」の職の創設以降、その経験者、及び職を退いた者の尊号です。ゆえに秀吉も太閤と呼ばれました。太閤は役職ではありません。
@@龍我ノ神_Ryuganokami
ありがとうございます
秀吉以外で聞いたことなかったので秀吉が作り出した役職なのかと思ってましたが
元からあったものなんですね。
勉強になりました
このあたり、なにかの本で読んだ時に、ほんとにそうなら貴族って陰湿やなー(うわありそう)って思って
すごい笑いました
まだ足利義昭が将軍のままだから、実質の政治権限をとる役職がほかに関白しかなかった
という説が一番納得いってます
秀吉の関白をめぐるいざこざがスッキリわかりやすくて面白かったです。
偶然かもしれませんが、平家にしろ豊臣氏にしろ、朝廷に入り込もうとした武家政権は短命に終わってますよね。
武力も財力も上回るはずの武士たちがみんな建前上は天皇の下についているという構造も、中国史とかと比較するとちょっと変ですし、天皇家はどうやってこの聖域のような天皇制を確立させることに成功したんでしょうね。
蘇我馬子(そが”ノ”うまこ)、藤原道長(ふじわら”ノ”みちなが)、源賴朝(みなもの”ノ”よりとも)、なのになんで秀吉だけ『とよとみ”ノ”ひでよし』じゃないんだろう?
近衛前久という人物
初めて知りました。
マニアックですけど、
かなりの重要人物なんですね。
五摂家のなかでの派閥争いに敗れ関白を辞し各地を放浪した‥
放浪太閤殿下殿下だったわけですね(笑)
ありとあらゆる大名と会って上洛を促した人物で‥
まともに相手してもらえたのは信長だけだった(笑)
面白かった!
大変勉強になりました。結局、秀吉は最後まで羽柴だったのか…
柴田家を滅ぼしても大事にしてたんだなあ。
この時に近衛家が薩摩に行ったことにより島津家と近衛家が親しくなったのかな。
自分には藤原摂関家が体良く秀吉を追い出した様に思えてならないですね。
個人ブログでも突っ込んで述べたけど、武家の右大臣は不吉というジンクスみたいなのがあったのでしょう。足利将軍だって右大臣になったのは一人もいなかった(義持も、在任期間が長かった割に内大臣止まり)し、家康も、秀頼への配慮もあったのでしょうが、在任期間は征夷大将軍よりもっと短くて、その秀頼も最後は周知の通り。歴代の徳川将軍ももう綱吉以降は基本20年程度将軍も在任しないとなれなくなった様ですからね。家茂が早くなれたのは、孝明天皇と義兄弟だった事が大きかったのでしょうが、分かりやすい解説は毎回参考になります。
要するに
天下人は、なんでも有りってことですね😅
この解説とどうする家康を見てると、秀吉がとんでもない悪者のイメージになっていく
豊臣とは朝廷からすれば、まぁ豊かな臣下なヤツって感じかな?
楽人の豊原姓は豊(ぶん)氏で豊臣姓は豊(ほう)ですね。古いのは勿論…豊原氏ですが豊の字が被るのを後で気づいたかどうかですよね
秀吉は豊臣姓を家康にも賜ったという説があるようです(他の有力大名にも)。
つまり「豊臣徳川家康」。
短期間かもしれませんが、武士道さんのご見解は?
別に羽柴が消えたわけではないんだよね
弟秀長は羽柴のままでしたし、秀吉は恩賞として羽柴の名を与えたりしましたから、羽柴も大事にしていたのだと思います。
羽柴の苗字を秀吉が捨てたわけじゃないってことよね、別枠の氏に新しく藤原や豊臣を組み込んだだけで
@@kenohzu5518
そうなんですよね。
なんか分かりにくい。
氏と苗字は別物ってのは、わかりにくいだけにもうちょい説明すべきだったかもね
例えば源の氏持ってる大名って今川、細川、里見、佐竹とか言い出したらきりがないほどいるし
秀吉自身は豊臣を下賜されてからはまったく羽柴を使用した形跡がないので、当人個人としては名字は捨てた可能性ありますよね。中世以前の氏だけの時代のように。でも便利なので親族や家臣には与えたとか。
秀吉勝手💦お市さんや家康が言う通り、欲が深く上限がない
本当の意味の破天荒
(先例がないことをやる)
秀吉によって薩摩に流された信輔。可哀想だなぁと思いきや、薩摩での生活けっこう楽しんでるんだよなぁ。
そうそう。よく羽柴秀吉から豊臣秀吉に改姓したといわれるが
正しくは平秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉と改姓(氏)したのです。
姓(氏)は豊臣で家名(苗字)は羽柴で両立です。
あえてルール無視で名乗り書くけど「羽柴関白太政大臣従一位豊臣朝臣(秀吉)」
羽柴太政大臣豊臣朝臣秀吉
苗字の方は木下から羽柴に変えただけで、その後も終生羽柴のままだったね
ちなみにねねさんのとこの木下家は江戸時代もずっと豊臣氏だったし、
朝廷の地下官人で豊臣氏を名乗る家があって興味ひきますね。
秀吉の痕跡をこれまでもかっていうほど消し尽くした江戸時代にあって
なかなか勇気がいりそうな感じですけど、羽柴は絶対だめだけど豊臣は
まあ目立たんならちょっと許そか・・・って感じですかねえ。
この後、悪魔の子、徳川家康がやってくるんですよね!
「太閤」は何ですか?
ブシドーさん、秀吉の物真似やれそうだしうまそう
おもしろい。今は豊臣姓の人いるん?
豊臣って天皇から貰ったものだと記憶してて、豊かな臣下って付け方が単純だなって思ってた。本当はどうなん?
秀吉が豊臣姓を賜った時の詳しい記録が、何故か、見つからないんですよね。
でもあえて臣の字を入れたのは、皇室からの警告と見て良いかと。
百姓から成り上がり、五摂家を手玉にとるような男は、皇室最大の脅威と思われていたかと。
信長は最初こそ幕府の復活や朝廷の援助に熱心だったが‥
晩年には右大臣の位を返上し朝廷が進める売官にも応じづ距離をとるようになった‥
足利将軍隆盛の時代に譲位を迫られる一歩手前まで行った前例もあり危機を感じていたでしょう‥
これが本能寺の変の朝廷黒幕説の根拠となるものなんですが‥
秀吉にはどんなに豊かであっても臣下である分を超えるなという意味合い臣にはあったのでしょうね‥
どうなんだろう
今までなかった新しい姓を賜ることができるくらいなんだから、関白に代わる新しい官職を創ってしまおうとはならなかったんだなあ。
藤原並ぶほどの格の姓を創設できるのなら関白に変わる職も創れそうだけど、そういう動きはなかったのでしょうか?
前例の無さで言ったらそっちのほうがまだ良さそうな気もするんですが…。
そうですね、あくまで想像ですが、権威の裏付けには伝統(年月)というものがあると思います。仮に秀吉のために新たな官職が創設されたとしても、市井の人々には軽く見られてしまうかもしれません。
関白という権威性のある官職に就きつつ、藤原氏からは独立するために改姓、という流れはベストな手段だったのではないかと思います。
まとめ 時代を動かすのは破天荒な人。武家も公家も…。
豊臣秀吉
豊臣秀頼
【後見人】
豊臣秀長
豊臣秀次
豊臣秀勝
豊臣秀保
堀 秀政
藤原のルーツは中臣なので豊臣の臣は、藤原と同格とか藤原に匹敵する意味かなと思うのですがどうでしょう?
豊臣とは違いますが頼朝は嫡流だから源頼朝しか表記がないのですかね?鎌倉頼朝のように苗字はなかったのでしょうか?
そうです。頼朝は、「源」をブランド化して、他の源氏庶流には名字(武田・新田・佐竹など)を名乗るように強制していたようです。もし、頼朝が木曾義仲のように敗者になっていたら、鎌倉頼朝と呼称されていたかもしれません。
@@sengokubanashi
返信ありがとうございます。
確かに頼朝は源をブランド化しようとして範頼が源姓を書いたことに怒っていましたね。頼朝一族だけが源を名乗れば苗字はいりませんね納得しました。
チコちゃんやりたかったんですね…。
姓は四姓だけじゃないんじゃ…と思ったら補足が入った。
ウチの紀家の系譜とか亡き者にされたかのかと思った。
紀氏の系譜なら正統な家系だね
源平あたりだとそこらの土豪が勝手に称したりしてるケースが多過ぎるから個々の正統性には疑問符だらけ
ウチも源氏の流れらしいけど、同じ苗字で同じ発祥地なのに平氏を称する家もあるし、他の地域ならともかく一族発祥の地ですらこれじゃ甚だ怪しいよな
関白になれた理由で「関白相論」というものに触れる必要がございます。戦国BANASHI様でも語られていましたが、当時の摂関家としてなぜ秀吉の関白就任が許されたのか?という理由があやふやだったのでコメントとして書かせていただきました。摂関家の立場からすると、天下人である秀吉が「関白相論」収拾のため一時的に関白に就任するのであって、時が来れば近衛信輔に地位が譲られて、再び以前のように五摂家間の持ち回りになるものと期待されていたようです。実際、秀吉は近衛家と近衛信輔に譲ると約束していました。ところが、その後、秀吉は天皇に対して、秀吉の実子の不在を理由に新天皇の弟六宮胡佐丸を猶子とし、将来的には正式な豊臣氏の養子として関白を譲る意向であることを伝えたようです。しかし実際は、天皇も近衛家も約束を反故にして、鶴松→秀次と継いでしまいました。それに加え、関白になった秀吉がばんばん官位を武士にあげたため、ただでさえ不足気味だった官位が不足してしまい、公家社会として、朝儀公事の場で公家が家職を実修する機会奪い、狭めるものとなってしまい、まったく回らない状態になってしまったのです。
その混乱を問題視し立て直そうとしたのが徳川家康で、関ヶ原の戦い以降、徳川政権下で公家の一括昇進がおこなわれ、「禁中並公家諸法度」により公家官位と武家官位の完全分離が図られたそうです。大河ドラマでは、今までも、そして今回も触れないでしょうが、ここでの徳川家康の功績は素晴らしく、これが後々朝廷との関係で生きたのだと思いました(参考:ウィキペディア)。
藤原朝臣近衛秀吉
豊臣は氏としていただいたものだから、改姓ではなく豊臣の羽柴秀吉ですよね。
源の徳川家康みたいに。
藤原から豊臣じゃないの?
@@coltoa そうですね。平→藤原→豊臣と改姓してるから武士道さんはそれを指して「改姓」と言っていますよね。
秀吉の関白宣言 11:49
京都に天皇、東京に政治って方が日本って国はうまくいくのかもしれないですね。
権力が中央に集中している時代は長く続きませんが、鎌倉や江戸の幕府があったころは、
平和な時代が長く続きますもんね。
上念さんの「経済で読み解く日本史」を読んでみて勉強になりました。
現代でも宮内庁と天皇家には京都にお住まいいただいた方が平和になりそうな気がします。
薩長閥が天下を奪ってつくり上げた明治政府→大日本帝国も崩壊、新しく日本国として再生し華族とかいうヘンテコな名前の世襲特権家系も制度上消滅したのだからそれもいいかもしれないね
天皇を国家元首とするが旧来の公家勢力の大半は邪魔者、彼らの歴史的権威を弱体化に導くための東京奠都という荒療治だったのだから、その対象が消滅した今となっては(薩長閥の方も消滅したけど)天皇及び皇族が東京に居る意味も無いわけで
秀吉は征夷大将軍にはならなかったんでしょうか?
義昭が征夷大将軍在任中というのもありますし、関白のほうが価値が高い(征夷大将軍になる意味がない)と考えたのだと思います。
では何故家康は征夷大将軍になったのか?
それは、江戸が拠点だったからです。(関白になったら、京都に行かなきゃいけないので)
藤原なら、氏の長にあたまをさげなければならない。高位にたたなければ、織田家を超えれない。将軍では、右大臣を超えたとは、微妙だ。関白なら、文句なし。なんといっても殿下です。皇太子と同じです
確かに武家の右大臣は呪わてる
大納言は正三位相当官、近衛中将は従四位下相当官のはずでは?なぜどちらも一段階下の位階に?
戦国時代では必ずしも平安時代の官位相当どおりというわけではないようです。
信雄ものちに従三位権大納言になってますし、父・織田信長も従三位権大納言右近衛大将になってます。足利義昭も従三位権大納言ですね。
その理由は今の私にはわかりません。勉強しておきます。
豊臣という中に臣の文字があるのは、貴族階級の意地ではないかと思います
豊臣…豊作の豊とか、臣は?
臣は臣下の臣。
現代人も姓変えられるようにならんかな?😂
かっこいいやつにしたいよねw
民法では、成人なら自分で養子縁組みできるから、テクニックとしては可能。
また、ドナルド・キーンが鬼怒鳴門になったように、移民が日本国籍を取るときに創氏出来ます。
なぜ豊臣になったのか大変よく分かりました。
「豊臣」私もセンスがあると思います。
秀吉は何故将軍になって幕府を
開こうと思わなかったのでしょうか?
足利義昭がまだ存命だったからですね
当然 書状のやり取りがありましたが、断られています
足利義昭は朝鮮出兵の際に
肥前名護屋城に出向いて秀吉に挨拶していますね
先の方がおっしゃるように足利将軍がまだいたこともありますし、将軍になれなくても関白や太政大臣という最上の地位になれる状態が整ったので、わざわざ位の劣る将軍になる必要はなかったからです。それに「幕府」という概念は江戸時代後期に「征夷大将軍を頂点とする政体が現在の徳川政権含めて過去に3つ存在したよね」という共通点に着目した、当時の歴史家や政治家が作り出したものです。なので、安土桃山時代当時には「将軍になって幕府を開く」という概念は存在しませんでした。
@@sakatosu6817まさか猶子にしてやらなかったら将軍より位の高い関白になるとは思ってみなかったでしょうね(笑)
なぜ豊臣だけは「とよとみの」と呼ばれないのですか?
個人的な意見だけど秀吉は豊臣の姓あまり好きじゃなかったと思う。理由としては豊臣の臣は家臣の臣だから皇室はお前は天皇の臣下だという意味がこめられているから。
確か藤原の前の苗字が中臣(中臣鎌足)だったから、中臣の上を行く意味で、豊臣という苗字になったのでは?
氏だから苗字じゃないし…
大中臣家「」
苗字w
前提がすべて間違ってるので・・・
編集済みだと!?
大分県日出藩の木下家北政所の流れ豊臣国松?の位牌は羽柴名字を名乗るのに、豊臣姓と書いて有る。羽柴名字は松平名字と同じ位置付と覚えると分かりやすい。
氏と苗字の違いと徳川と松平の序列分けはまた違う…
@@kenohzu5518 秀吉の一族が多く、徳川のように長く続けば羽柴を松平のように臣従関係にしたであろう予想である。
この動画の17:18以降で解説されているように、苗字(名字。羽柴・徳川・織田・近衛、他)と氏(姓。藤原・源・平・豊臣、他)は別物です。なので、苗字である羽柴と氏である豊臣は両立します。ですから、「豊臣と羽柴」は徳川でいう「源と徳川・松下」であり、苗字同士の「徳川と松下」の関係とは根本的に異なります。
本来豊臣は氏なのだから豊臣秀吉も「とよとみ の ひでよし」と称するのが正しいんだけどね
歴史の授業でも貴族が名字を名乗る前や名字が出現しても氏名乗りの人物は「の」が間に挟まって習ってたはず
それが豊臣に限ってはなぜか「の」が省略されるのが常態化してしまい、現在では氏そのものが廃止になった事もあり氏か苗字かあいまいになってしまった
あの司馬遼太郎でさえそのあたりを勘違いしていて(あるいは一般的な知識レベルに合わせたのか)、羽柴から改姓して豊臣となったなんて書いている
よく言われてるのは、
信長は「おだ のぶなが」
家康は「とくがわ いえやす」
だけれども、
豊臣は本姓だから、
「とよとみのひでよし」
と呼ぶべきってコトですね。
@@rhammer2961 ua-cam.com/video/9Ci6Ei4pRI4/v-deo.html
家康の正式な名乗りは
みなもとのいえやす
で良かったんですかね?
武田晴信もそうだった気がしますが。
@@sugisinfkk 正式かどうかはさておき、氏を名乗る必要がある場面では「みなもとの」ですね
@@sugisinfkk
たしか「みなもとのあそん とくがわ いえやす」だったかと。
@@l.g.o.2374
朝臣(あそん)を忘れていました
ビクモ出すのずるいw😂
秀吉が豊臣という姓を選べたんでしょうか?
豊かであるが、あくまでも臣下であるという意味で帝から賜姓されたものと考えてました。
形式上は天皇から賜姓されるものですが、秀吉が豊臣という姓を賜りたい→天皇が許可→豊臣が賜姓されるという形もありえるかと。
元号なども、信長が「天正」、家康が「元和」などに決めて、天皇が承認するという形になってます。(過去には天皇自身が決めていたものもある)
返信ありがとうございました😊
いつも動画拝見しています。
頑張って下さい。
関白や他人なんて、
どうでもいい
の発想。
じゃあ佐渡の藤原だから「佐藤」、加賀に住んでるから「加藤」、近江の所領だから「近藤」、遠江だから「遠藤」、うちの敷地にお堂が建ってるから「藤堂」みたいな感じで「藤」が付いてる苗字の人は大体本姓藤原だよなww
あべのしん の 突っ込み(掛け合い)も、 たまには、本放送にも、あって欲しい。
お忙しいとは、思いますが、武士ラジオリスナーとしては、「あべのしん」氏の本編放送での、出演も、期待しています。
豊臣〝の〟秀吉じゃないの?
たしかに天皇から賜姓された姓に関しては、古代より「ノ」をつける慣習がありますね。なので、「豊臣の秀吉」と読むのが、古代からの慣習としては正しいと言えます。ただし、教科書などでは「とよとみひでよし」とルビされていることが多く、一般的には「ノ」を入れない呼び方が浸透しています。なので、どちらの呼び方をしても良いと私は考えています。
そうかあ、豊臣を誰が考えたのかは分からないのかあ。
いつも楽しみに拝見しています。
何故"豊臣"の姓になったのか楽しみに動画見てたんですが最終的に分からないと言われてしまいちょっと落胆しました。タイトル変えた方が良いかと思いました。
Q なぜ豊臣になったのか?
A 関白に就任したのち、藤原氏からの独立をはかるため
とタイトル通りに明確に論じたつもりですが…
もし「豊臣」の由来は何か?ということが知りたかったのであれば期待はずれですみません。
しかし、「由来はわからない」というのは私が勉強不足だからではなく、歴史学的にも「由来はわからない」が正解なので、間違ったことは言ってません。
@@mr.bushido
ご返信ありがとうございます。
動画タイトルからして豊臣の姓の由来をご教示頂けると思いました。
こちらも勘違いしたみたいで申し訳ないです。
「源平藤橘」は代表的なもので、この4つに限定されていません。マイナーな氏はたくさんあります。
「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)
古代の代表的氏名(うじな)。源氏・平氏・藤原氏・橘氏をさす。「下学集」に「日本四姓は源平藤橘,是なり」とあり,総称して四姓(しせい)ともいう。平安時代に天皇に近い子孫や外戚(がいせき)として勢力をもったところから,代表的氏名と考えられるようになり,後世に作られた系図の多くが先祖を4氏に結びつける風潮をうんだ。
「山川 日本史小辞典 より引用」
解説の中でテロップで説明されてますよ。
失礼。ラジオ代わりに聞くことが多いので。
いつも楽しく拝見させていただいているのですが、「や〜乱世乱世」という始まりの文句が、縁起が悪いと感じてしまいます。本当にこれから乱世が起こりそうで、言霊っぽくて、、、何か縁起のいい言葉を考えていただけましたら幸いです。。。
木下だと朴と言う韓国の性がばれてしまう
歴史を語るのなら氏(し)と姓(せい)ではなく、【氏(うじ)】と【姓(かばね)】と読むべきなのでは?
ところで日本史における氏と姓。あと諱(忌み名)と仮名(けみょう)を正しく表記するのってかなり面倒ですよね。
本来官位を賜っていたり私称していない場合は、伊達藤次郎(政宗)のように諱を避けて仮名を使わないとアウトなんですよね。
実際関ケ原の戦い直前に西軍から敵である家康に対して発せられた弾劾状が、【内府ちかひの条々】としたためられている。
これから討ち滅ぼす相手であっても諱の家康は使わず、『内府』を呼び名としているのですからね。