Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
大返しの際は援軍に来る予定だった信長の本隊のために予め道を整備して物質を要所、要所に置いておいたのを逆利用したって話しもあるけどね
その説たしかにありますねそもそも甲州征伐の前から信長にきてほしいと嘆願してた手紙もありますし、家康接待のときも秀吉は信長にお願いしてましたからね準備の秀吉言われる人物と考えると通り道に接待や休憩所は作っていたと思われますよね
「 実際大返しで姫路城に馳せ戻ってきたのは馬廻りと高松城に向かっていた後詰めの兵だけで、あとの軍勢は当時の常識的な速度で戻ってきていた」と言う話もあるようです。秀吉のことですから、馬廻りと後詰め兵だけを戻したところで、明智方にプレッシャーをかけるためにあたかも全軍が戻ってきたかのように触れ回ったのかもしれませんね。
😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂@@江戸華
信長は街道整備に厳しいのは有名、明智も毛利戦のために出陣したのが定説、信長も毛利討伐に乗り気だから準備はするだろうね
食料も信長の為に用意していたんじゃないのかな。急いで行軍してもゆっくり行軍しても腹は減る。15日分の食料を10日で食べたってだけのような?
面白い考察です基本的には同じですが(考察)黒田官兵衛が大きく関与していると思いますもしかすると、秀吉は謀反が起きるまで信長死亡を想定していなかった光秀を追い込むで出世競争に勝つ事を考えていた(だけ)黒田官兵衛は謀反を想定していた信長がこちらに来る事を口実に回廊沿いに兵糧等を準備しる光秀が謀反を起こせる状況はつくるが起こすとは限らない。起こさ無い時は秀吉軍の指揮官に光秀を置き、信長が来た段階で勝利する光秀が謀反を起こさなくても、秀吉の立ち位置は光秀より上になる黒田官兵衛はナンバーワン(大将)よりNo2の器だと思っていたそして、秀吉を大将にしたいほどの魅力があったと思います!
毛利とは毛利の降伏交渉中で条件だけ譲ればすぐ終わる状態、自軍の補給のためにも信長の部隊を迎えるために街道は整備してたろうし、姫路城とか拠点もある。海路も使えると、元から条件は整ってたとは思うけどね。でも信長とは違い、光秀の動向を警戒してたぐらいはありそう。
降伏交渉中だったとしたなら、何故、わざわざ信長に援軍を求める必要があったのでしょうか?そして、備中高松城水攻めでもあるように時期は梅雨です。大返しの最中でも、雨が降っていたでしょう。いくら道が整備されていたとは言え、当時は今のように舗装されているわけではなくぬかるんだ砂利道だったはずです。休憩を除くと実質、7日弱くらいで230㎞を行軍したことになり、目的は京都に辿り着くことではなく、京都で織田家中一の出世頭だった光秀軍を倒すことです。また光秀に加勢する者はほぼおらず、秀吉には加勢する者がいたと言う条件が揃ってないと秀吉が勝っていたかどうか分からない。事前に入念な準備をしていない限り非常にリスキーな選択を秀吉は取ったと言わざるを得ない。自らの勝ちを確信していない以上、取るべき選択ではない。
@@惟任日向-r5d 手柄立てすぎると警戒される、上様が来た時に降伏させれば上様の意向でという事になる保身術それほど珍しい事でもない。柴田もものすごいスピードで戻ってきている、秀吉が遅かったら北陸大返しと言われていたかもね。秀吉が情報に確信を持てたのは上様の状況を知らせる諜報網からだったんでしょうね、上様が援軍に来るんだから動向を把握しておくのは当たり前の行動。それと新選組の甲州鎮撫隊も一日30キロ行軍している。
@@惟任日向-r5d >故、わざわざ信長に援軍を求める必要があったのでしょうか? 毛利本隊が出張ってきたからですよ。そもそもなんで水攻めにする必要があったのかを考えれば分かるハズ古来から水攻めってのは数的に劣勢な側が仕掛ける戦術。 西南戦争でも薩摩軍側は執拗に水攻めにすることに拘った(結局失敗したが)
補足すると薩摩軍側が水攻めに拘ったのは数的劣勢を補うためでした
@@akimizu1818 ではまだ援軍が来ていない数的有利な状態の毛利側が何故秀吉と降伏交渉に応じたと思いますか?水攻めであろうが城攻めする側は数的有利な状況でなければしかけることはありません。援軍が来る前の高松城の兵力は多くて5千。対するは秀吉は3万。秀吉が水攻めをしかけたのは毛利氏との決戦を前に味方の損害をなるべく最小限に抑えたかったからです。毛利側の援軍は実際には1万か2万程度と言われています。この時の毛利側の最大動員兵力が8万くらいで、現実的にそれを高松城に集中させることは出来ません。その証拠に毛利は織田の援軍が来る前に秀吉を蹴散らすべきだったのに実際は身動きが取れなかった。この時点ではまだ秀吉は援軍を要請する必要はなかったのです。
信長着陣の為前もって街道の整備が完了していたらしいとの事で道は良かった。NHKで実地検証していたが荷駄を積んだ馬では峠越えがあの速度では不可能となっていた、しかし中国四国攻めの為港湾を抑えていた為海路で物資を運んだのでは?との検証で鎧兜、食糧を運搬したが可能となってた。街道の至る所に食糧を用意して裸に近い状態で歩兵は走る、その他物資は到着した所で受け取る。これなら姫路辺までなら従来通りの通説でも可能であるとの結論でしたね!20~30キロのフル装備で昔の人が健脚だったとしても従来通りの仮説では不可能となってましたね
・行軍時に武具を脱いで、軽装で移動し姫路に到着後に武具を整えた。・荒地は、秀吉自身が幾度となく往復していることから、ある程度の整備されていた。・毛利勢が追撃しなかったのは、秀吉を追撃し壊滅させたところで、畿内にある光秀軍が強大となった場合、再度戦を交えなければならないのであれば、秀吉VS光秀や織田家を内紛させた方が、対抗勢力が消耗すると踏んだから。実際は、畿内の武将が光秀になびくことは無く、秀吉と織田信孝・丹羽長秀の合同軍が圧勝し、光秀が討たれた。毛利としては、まさか一度の合戦で勝敗が決することは予想できず、地団駄を踏んだことだろうが、撤退時に追撃しなかったことが功を奏して所領安堵となった。中国大返しは、当時の常識ではあり得ない速度で移動したと言われている為、秀吉が変事を事前察知していたという話が語られるが、一戦一戦を我武者羅に戦い抜いた結果だと思う。移動速度の話で言えば、その後に起きた賤ケ岳の戦いの13里(52キロ)の距離を僅か5時間で移動したと記録されている美濃大返しもあるとおり、何らかのパッケージを秀吉は持ち合わせていたと思われる。中国大返し~賤ケ岳の戦いまでの期間、秀吉は恐ろしいほどの強運で、一気に天下人へ駆けあがっていった。時の勢いが為せるロマンだと思いたい。
秀吉は信長に現地に来るようにお願いしていて、信長がストレスなく来れるように街道を整備して休憩所も至る所に作っていた。秀吉はこの街道を上って来たんだろう。騎馬で飛ばせばそこまで不思議でもないスピード。歩兵は置いて行っただけ。
@@user-qw7rl3hs5r 騎馬で飛ばせばって・・・。無理だと思うぞ。蹄鉄ちゃんとしてたんかな?ポニーで速度が出るのか?馬の食料は、休憩所で準備したのか?長距離走破ちゃんとできたのかな?騎馬のほうがあり得ないわ。雑兵が武装を脱いで京都に向かうとしても毎日走るのはキツイ。1日35キロメートル走るのは相当だよ。一日だったら何とかなるけど10日間走り続けるのはなぁ・・・。
@@WearstFaker 騎馬の方がありえないって、秀吉以下主だった武将全員でマラソンしたってこと?脱落者が出る中で秀吉は真っ先に姫路城に着いている。元気な若者たちを抑えて中年の秀吉がマラソン優勝したってこと?
@@WearstFaker この頃には伝令の早馬の為に領地内には緊急事態用の馬が用意されているところが多かった馬は数時間走れば潰れる、今よりも当時の人たちの方がそれを良く知っていただろうそれを何も手を打たない方がおかしい1日35キロって徒歩でも十分移動可能です、運動不足じゃなきゃ現代人でもねそれに当時の人たちは今と違ってなんば歩きが主流で長距離移動にはより適していた
@@user-qw7rl3hs5r 騎馬でもマラソンでも無理ってことだよ。
いつも思うんだけど、755年の安史の乱のときの安禄山軍は1日40キロペースで進軍したというから、それに比べたらまああり得ないことじゃないんじゃないかと思ってしまう。しかも味方の勢力圏ではなく、本拠地の北京あたりで挙兵してから洛陽まで一応は唐朝の支配圏を進んだわけで、大規模な戦いにまではならずとも常に敵の中を戦闘準備で進んだはずで。あと古代ローマ帝国は道を整備していたおかげもあるだろうけど、1日に25キロ行軍したらしいし。秀吉の大返しのすごさはむしろ「速さ」よりも「早さ」なのでは?進み始めてからのスピードよりも、そんなにすぐに毛利との和睦を成立させたことなどのほうがすごかったし当時の武将たちもむしろそっちのほうに驚いたんじゃないかな。
本能寺の変直前、中国四国平定のために光秀を先鋒に信長が向かう予定だったし、秀吉は光秀軍と信長本軍を迎えるべく道中に膨大な物資食料を集積していたはず。大返しを可能にしたのはその大量の物資食料と炊き出しができる道中の補給体制、そして船など輸送体制をそっくり利用できたからと考えるのが自然かも…。
秀吉黒幕説は信長から家督を継いでいた長男ていう最大の矛盾点があるんだがな信忠は形上は家督を継いでいたので、信長が死んでも信忠がいる限り秀吉の織田勢力乗っ取りはほぼ不可能、秀吉が織田勢力を乗っ取れたのは信長と信忠が同時に死んでくれるという偶然と幸運が重なってくれたから。信忠は信長が死んだ時、家臣が諌めるのを無視して救援に向かった結果本人も死ぬことになった。似たような状況にあった家康は信忠とは逆に逃げ出したおかげで生き延びている。つまり信忠が死んだのは本人の判断ミス、秀吉にとっては偶然の産物。さすがに秀吉黒幕説は厳しいかも。
秀吉は、信長さえいなくなれば。って思ってたんじゃないかな?最近の文書では、秀吉は「わしは信長のように甘くはないぞ」って本能寺の変後にほかの近臣を恫喝してる。信長は結果を残せなければ容赦なく左遷する。平和な時代になるといずれ秀吉はお払い箱にされる可能性も考えたんじゃないか?現に明智と佐久間は左遷されてる。信忠は別に生きていても生きていなくても、信長のクローンじゃないから、秀吉はそこそこ操れる自信があったと思う。
@@WearstFaker 秀吉の後継者は信長の息子ですよ。信長がいなくなって困るのは秀吉です。
私は朝廷説を推します 理由は信長が天皇制排除考え始めたから光秀をそそのかす→光秀が成功したら口封じしなくては信長家臣の報復が怖い→白羽の矢がたったのは秀吉 秀吉は動画の通り欲の塊なんで承諾 朝廷にしても扱い安いので信長、光秀の動きは逐一報告→これが一番現実性が高いかな。
この説だと、のちに秀吉が関白になれたのもなんとなく頷けます
@@kikimike8556さん近衛前久の養子になることで、摂関家の仲間入りするわけだけど、何でもアリなのにも程がありますね。
動画11分03秒の画面で大正10年と表示ですが、間違えです。天正10年が正解です
信長に対して本当に忠誠があるなら、秀吉はもっと信長の息子たちを大切にしていて良いよな
この時代の「忠誠」の対象はあくまでも本人のみでその子孫達は対象外でしたしその対象も仕えるに値しないとなれば独立したり主君を変えたりするのは推奨された倫理観でした 忠誠の対象が血筋や家になったのは江戸時代中期の文治政治の時代になってから
いくら忠義があっても信雄みたいなアホに天下を渡したらまた乱世に逆戻り
大河ドラマ秀吉が史実なら⁉️別に不思議じゃない(笑)
前持って分かってたら備中奥地まで行きませんって…普通に考えてさ本能寺が起きた時の周辺諸勢力の動きと、自身が率いる軍団の士気は予想不可能なんだから敵地にいるリスクはデカすぎなんだよなぁ
アリバイ工作かなと(笑)
@@sat600 備中撤退の綱渡り失敗したら破滅なんですがそれは…所謂中国大返しって速度なんかよりも軍を維持して帰って来たことが奇跡なんすよね
@@matukawatositane それな。普通は逃散するよね。秀吉は魅力があるから逃げなかった!とか言われそうだけど現実的には無理。おそらく明智と結託して信長を討つ予定だったんじゃないかな?ってのが自分の見解。んで途中で秀吉が裏切った。
もし秀吉が光秀と共謀してるならその証拠を光秀が作成しないほど馬鹿じゃない秀吉が共謀した証拠をぶんまいて討伐軍を分散させる策も使えたのにそれをしなかったってことはつまり共謀してないってことだ
@@owo2562 そうかな?証拠を残さなかったのではなく。残せなかったのでは?ちなみに、明智が兵をあげることができたのは秀吉の援軍要請の文章のおかげなんだよね。援軍要請が来て、織田信長のなけなしの兵を明智にとられた。=信長の護衛外しと、明智の軍勢が出来上がる。それに信長とその息子のいる位置を正確に補足しているのも。できすぎているように思う。そう考えると、秀吉が明智を超高速で帰ってきて討ったのは、そうする必要に迫られたからなのでは?ってなるあと秀吉が義に厚いみたいのは後世の創作。最近の資料だと本能寺の変の後すぐに、「俺は信長のように甘くはないぞ。」って周囲の有力者を恫喝しているので、信長の家臣時代から信長への不満を持っていた可能性が高い。上司の仇を討つまではいいけど、「俺はその上司よりも強いぞ」ってなかなか言わなくないか?光秀と秀吉は口約束で、援軍要請がある種の合図になってたんじゃないかなぁ・・・。まぁいずれの説も、確たる証拠がなかったり、本能寺の変が終わった後の二次資料が多いから絶対とは言えない。
ということは、本能寺の変のことを知った時に泣きぶせみ官兵衛に「殿の時代が来ましたね」的なことを言われたというのもフィクション?なの?
信長も本能寺で光秀の軍勢が襲ってきたのに対して是非もなし言うくらいだから、側近たちは結構コイツいつか信長やるんじゃないかって思ってたやつ結構いそう。
光秀が本能寺に向かうことは配下には知らされていたはず兵站を考えるといけって言われてもす行きますとはいかないはずだ水や食料休憩をするまさための宿舎が必要だし兵を守る必要はあっだはずで予め土民や織田に従わない土着の武士を鎮撫しておかないといけなかったはずなので知っていたのが当然だと思う。
光秀と義昭が事前に通謀していたというのはあり得ないでしょう。もしそうなら光秀は表立って足利義昭を担いでそのことを喧伝するので、中国大返しで摂津の大名が悉く秀吉側に着くことはなかったと思います。ただ秀吉は、毛利攻めのために三好水軍を利用していた。その三好は信長が認めた長曾我部の「切り取り次第」で風前の灯火だった。それを秀吉がバックアップして信長が心変わりし、長曾我部の梯子を外したのは事実だと思う
物資に関しては明智軍が中国までの行軍で使う予定で各地に用意していたものを利用したそうですよ
秀吉黒幕説はないと思われるなぁそもそも毛利自体は織田家と争う気持ちはほぼ無かったと思われるし、原因は足利義昭が焚き付けていて、毛利輝元と小早川隆景は保守的だったとあるし、元就の教えで考えると天下を狙うってことはない安国寺恵瓊は何度も戦う前から織田家に使者としていって秀吉と親密だったと言われてるし、秀吉は播磨を制したときに、強引な戦いで、反旗を翻されて苦労してたから、心根は毛利を臣従させときたいと思っていたと思う大返しの件では、ぶっちゃけ、フルマラソンはなかったと思う、途中途中、宇喜多勢や黒田勢の兵の差し替えはあったと思うし、毛利と和睦停戦の段階で徐々に陣から撤退してたと思う、さらに停戦のときに、清水宗治がゴネていて宗治「ワイ切腹する!」秀吉「いやいや、切腹はええて、降伏して城明け渡してくんろ!💦」ってやり取りで長引いてたとあるから、その間を考えると、動画である物理的に無理っていうのはないと思うさらにいうと、ギリシャマラトンの戦いを考えると無くはない道理何人か鎧の話を上げてる人いたが、そもそも足軽がそない重い装備してないし、装着して移動を絶対として例えるのもちょっとw冷静に考えて装備は解くでしょwあの当時から荷駄はあるわけやし、荷駄隊は撤退のときに先に出発するのは定石でもこういう話を歴史好きの人たちとディベートするのは楽しいですな(˶ᐢωᐢ˶)
黒幕とかは無くて、現代サラリーマン的な発想だが、何かしらなんかの間違いで取り下げてくれんかなぁ…無理だろうなぁみたいに不安事案を信長に通達された(長宗我部征伐あたり)で、その日が来るのが憂鬱になっているところに、時期当主と信長が手勢僅かで同じ京都にいる〜これが良くなかったんじゃないかねぇと思っている 光秀かなり追い詰められていた説
本能寺の変の肝は、たまたま織田家の当主織田信忠と先代の当主でご隠居様の織田信長が二人ともろくな兵力なくすぐ近くにいて、しかも明智光秀が正当な理由で大兵力を抱えていたというトリプルな偶然が重なって起きたことだという事実をしっかりとふまえるべきです(こんなこと数多の史家が口を酸っぱくして言ってるのに何故未だに無視されるのか?そっちの方を研究の対象にすぺきかもしれません)
史実を知ると面白くない話は色々とあるので、日ユ同祖論とかUA-camrには人気があって都市伝説と銘打ってるのに、こじつけ話を信じてしまう人も多いですね。嫌韓という統一教会のマッチポンプに踊ろされているのが原因だけど、驚きに思わせる話や陰謀論の方に多くの人は乗ってしまう傾向がありますね😅
秀吉は『確実に何か起きる』ではなく、『何か起きてもおかしくない』というスタンスだったんじゃないですかね
@@南行-p5q 仰るとおりですね。後から結果論で「計算ずく」とバッサリ断ずるのは簡単ですが、実際は“そういう可能性へのリスク回避”であり、予測不能だったのかと問われれば「予測はあった」と答える他ないわけですから。
???「図ったな~!!秀吉~~!!!」
俺は小学校の頃から秀吉が嫌いだった。今回の解説のように色々分かってた訳では無いが、「秀吉が本能寺の変が起こる事を知らない筈がない」と思っていたからだ。小学校の時の夏休みの研究で織田信長について研究発表した事がある。その時からの考えが歳を重ねる毎に証明されていくのは痛快である。ちなみに俺は光秀をけしかけたのは秀吉だと思っている。無論北野武の映画の「味方になる」と言う事を言ったのではなく、そうなる様にけしかけた。あくまで影から。秀吉の家臣団を見れば信長家臣団の中でも随一の能力者ばかり。黒田官兵衛を初めとした知恵者、加藤清正等の剛の者。粒揃いである。特に本能寺の変を聞いた秀吉に、黒田官兵衛が「好機」と言ったのは有名な話だが、この話が嘘か誠か分からないが、この話が普通に伝わってる事が「秀吉に野心があった」という事が分かる。その後の織田家の末路を見ても、朝鮮出兵でも秀吉の野心は尽きていない。少なくても、中国大返しは信長の弔い合戦では無いのが分かる。『仕掛けた花火が上がった』と秀吉は思った事だろう。どんな野望があるにせよ、信長に対して秀吉は主従の情等は持ってないと思っている。全ては財を手にする為、地位を得る為、栄誉を得る為の媚びであり、全ての行動原理だと思う。
本能寺の変の真相を考察するのは、ずっっとやってても飽きないです。現在、私が考察する中で現実に起こってたんじゃないか、と思っているのは、本能寺の変を計画、企画、実行した者達(A)がいた。それは光秀でも秀吉でもない。Aには以下の能力がある莫大な資産、広大な諜報網、天皇に繋がる権威への影響力、有力武将の秘密を知り得る立場、有力武将と商談などで駆け引きできる、先を見通せる知識知恵叡智、ハンパない教養力、世界情勢にも詳しい、兵員動員可能な人脈と軍資金、さらにそれを駆使する際の隠密行動、権力者に疑われにくい、信長天下では都合が悪いが秀吉天下なら都合が良いこんな条件をクリアする者達っていると思いますか? 大商人、茶の湯文化、公家衆(権力争い)、将軍家由来の忍び衆、宣教師、、、、それらに繋がり影響力も地位もあり、徳も知識もずば抜けて、信用できる有能な協力者(諜報活動含む)も多数得られ、次世代の日本のあるべき姿さえも描ける大人物、、。思い当たる人物が一人、、、太閤の「謎の怒り」を買い、文人とは思えぬ辞世の句を詠んで武人でもないのに切腹されられた者がいる。そして同じ時期に、太閤秀吉の腹心で天下取りの立役者だったのに、理由もはっきりせず冷遇され遠ざけられた軍師級の武将。。本能寺の変がおこることは秀吉も家康も知り得なかった(光秀さえ知らなかったはず。彼は嵌められたから)。計画し指示した黒幕は、ことが起こった時に都合よく動くように、その配下の武将(例えば黒田官兵衛)には悟れるようにわざとボカして(察しろよ、秀吉が天下とれるかもよ)報せてたはずです。茶人(実際は大商人)衆、、、、千利休・今井宗久・津田宗及・長谷川宗仁、、、らは、どんなことを茶会で話してたんでしょうね。
秀吉に本能寺の変を知らせたのは捕まえた明智の使者だけでなく、本能寺の前に屋敷を構えてた長谷川宗人も秀吉に知らせてるのはあまり知られてないよな。
本能寺の隣には茶屋四郎次郎邸も、という事に加えて三河から明智家に出奔した木俣守勝が本能寺の変の前に徳川家に帰参しているから家康も本能寺の変が起こる事を知っていたのでは。軍勢を持たない家康を無事に国に帰させた上で京の治安を悪くさせない為に秀吉の軍勢を動かす計画だったと。有能な2人だから連携し合って2代英傑を動かせたと。なので羽柴勢に捕まったのが本当に明智の使者なのかも怪しい。
さすがに武器や鎧を着て走るのは無理やわ。海路で武器や鎧の輸送、一部の兵士も船で移動したんでしょ。前もって準備しないと出来ないわな。事前に本能寺の変はわかってないとね。
それな。そもそも本能寺の変を伝えた伝令が1~2日で秀吉に明智の謀反を伝えているのよな。1日100㎞移動したことになる。3日かかったとしても1日あたり70㎞ぐらい移動してる。馬を利用しているとして、日本の在来種のポニーで駅伝方式利用してもなかなか難しくないか?伝令は何とかなっても1万人の軍よ。事前に知ってないと結構厳しい。
メッツ値の考察など『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』 (講談社ブルーバックス新書) 播田 安弘)の記載から作られている部分が多い動画ですね。近年の研究も含めてまとめられた動画ですので、参照論文や参考文献を明示するなど先行研究に敬意を示されるとなお良いと思います。
織田家家臣の秀吉→潰さないまでも最大限に利用して冷遇豊臣家家臣の家康→完全にぶっ潰し滅亡こんなもんよ
吉田兼見日記か何かで当時本能寺を襲った軍勢について記載されているんだけど、京都で乱暴狼藉は働くし信忠がいたとはいえ皇太子?親王?がいる二条御所に襲撃まで掛けていて、旧権力に崇敬のある光秀の軍勢らしからぬ行動ばかりだったようだ。毅然とした部隊というよりも山賊の群れに近い様な記述だった。偶然か秀吉直轄の親衛部隊たる木下家定ら数千騎が東に向かって行方不明になっている。実態としては光秀と家康は信長暗殺の機を狙っていたが明智軍出陣の名目がなく困っていた。秀吉はその流れを密かに知っており、それを利用すべく信長を安土城から誘い出した。(安土城周辺だと信雄軍や信忠直轄軍、蒲生氏郷が居るから)それを好機と見た光秀は本能寺を襲撃するが,到着時には廃墟と化しており、結果的に本能寺どころか二条御所も焼けて襲撃犯に仕立て上げられた。予定より速い襲撃の為準備もままならず、麾下の武将を同心させる前に動かざるを得なくなってしまった。ってとこだろうと個人的に推測してる。まぁ、ガバガバの推論だけどね笑
光秀ほどの優秀な武将が、本能寺を襲って首をとれないなんて現実的じゃないですよね。むしろ光秀が襲撃犯に仕立て上げられ、変当時に現場になった洛中の公家衆や商人衆、町衆らが組んで襲撃者の証拠も隠滅した(信長の首も含む)ほうが現実的に感じます。
個人的には「本能寺の変」とは「御所巻」だったんじゃないかと言うこと。御所巻きとは、室町時代によく行われてた「主君」に対して「諫言」を言うんだけれど「兵士」も「居城」を取り囲むってこと。ある種、実力行使なんだけれど、家臣が行うってのがミソ。で、たぶんだけれど、秀吉なんかは「御所巻きをすることを知ってた」はず。普通なら「主君」は「諫言」を取り入れて、家臣は引くんだけれど、ここでアクシデントが発生し「信長が自刃」してしまったと。だがしかし、信長も信忠も死んでしまってたら、光秀の「責任問題」だよなぁ。なので、秀吉は惟任光秀を討ち取って「知らんぷり」を決め込んだんじゃないかなぁ。、、まぁ、「本能寺の変_御所巻失敗説」ってやつです。興味のある方はググってね。
食料を緊急に用意>岡山に送る予定を留めるだけだから緊急どころか余裕岡山から姫路までの強行軍が有名だけれど、信長も金ケ崎から京都まで同じような距離を2日で撤退してる なのでそこは特段無茶ではない
信忠まで死ぬのは想定外だったようだ
だから家康は必ず世継ぎの秀忠を江戸に置いた。
本能寺の変が起こる前に、安国寺恵瓊が、明智光秀が謀反をするって噂を流してたそうです。
大正?天正の間違いだよね?
そうですね。秀吉が大正にいると大変な事ですよね。
面白い❗なるほどと超思いました😊でもやっぱり偶然(?)のチャンスを秀吉が掴んだのかなぁー??そこまでの深い策謀、本能寺より過去には前例が無さそうですし、農民が天下を掴むのは劉邦と言う前例があるにはある。現在より徳とかが重要視されている昔(たぶん)明智より秀吉に大義名分があると周りが判断をして味方してくれたと思いたい。御家大事はもうちょい後。頭悪いのに難しいことをコメントしようとしてごめんなさい😢でも動画面白かったです😊
黒田官兵衛黒幕説って意外と言われない。
黒田官兵衛はかなり怪しいよねー。幾ら重要拠点っていっても博多は大阪からは遠すぎる。普通なら自分の軍師は近くに居て欲しいし官兵衛の石高もそこまで多くないしね。だから本能寺は官兵衛独断の家康と光秀との共謀での謀反で、再度徳川と組んでの謀反恐れての博多行きと思ってます
秀吉「毛利相手に勝ち確やし最後にノッブに指揮権渡して気持ち良くさせたろ!!道中整備しとくで!!」事前に知ってたとして光秀どうやって倒すん?もし信長の首が光秀の手元にあった時点で破綻するあの義経ですら自害した後に火放ったけど首取られとるし事前に知ってたとしてもリスクしかない
毛利氏に先に情報が行って毛利からもちかけられたと予想。これ秀吉に味方して毛利に損は一つもない。
浅井攻め決着の頃には 秀吉は信長を完全に見限っていたでしょうね
やはり。秀吉公は元情報部隊だったので。
織田家臣団の中に "異変" が起こる雰囲気があった。だから何かあってもすぐ行動出来る下準備をしていた。
予見はしてたと思うけど、それはいくつかの準備していたifのひとつなだけだよ。光秀の要請も必要だからお願いしてるだけだし。
本能寺の変の黒幕が毛利と考えたらスッキリする。毛利は明智光秀に信長への謀叛を起こさせたが、秀吉とも和睦して光秀を討たせた。つまり『三本の矢』のよくない例えである。毛利は信長光秀秀吉を三兄弟に置き換えたのだろう。毛利の計画では三人が共倒れになるはずだった
秀吉というより、黒田官兵衛が気づいていたと見るべき。 事前の準備と事後の扱いを見れば、秀吉から彼への恐れと怒りが見えてくる。
突っ込みどころが多いですが、あえて二点だけ。秀吉が信長に援軍要請をしたのは別に光秀を意識していたのでは無く、毛利氏を独力で倒してしまったあとに、信長本人に猜疑心と恐怖心を与えてしまうのが恐ろしかったからですよ。これは織田家臣団。皆共通で佐久間信盛や林通勝などの譜代の臣の粛清。荒木村重の謀反も信長への恐怖が原因だし。老人になって謀反の必要もないのに逆らった松永久秀もそう。だから最後の手柄は信長に譲るための援兵要請です。自分を小さく見せて信長に可愛げのある奴と見せる為のね。次に毛利との講話の成功は単に、秀吉軍の参謀長の黒田官兵衛と毛利外交顧問の安国寺恵瓊が優秀だったから。そして毛利の両川の小早川隆景が恵瓊の外交方針を支持して、秀吉に恩を売ることが毛利の安泰に繋がるとおもったからです。実際に毛利は直ぐに秀吉とは同盟を結んでいますからね。毛利家は天下は望まない。ただ領土の保全を図る為に秀吉軍は追撃しない隆景の方針を秀吉も良く分かっていたでしょうね🤠
今の自衛隊なら歩きで25Kmは普通速度らしいが・・・
今更のコメント失礼いたします。出世しようと志しのある人はたくさんいるけれど、秀吉の場合は関白にまで登りつめております。また、下心がある人のトップって見透かされやすいものです。わたしは、秀吉は出世しようと思っていたのではなく、他の誰よりも優秀で責任感の強い人物であったのではないかと思います。
もし知っていたら秀吉は姫路城に待機しているはず。まぁ歴史IFは面白いけどね
大船を使った可能性がある。鎧、兜などは大部で運んだワケです。
秀吉は本能寺の変を事前に知っていた、どころか、本能寺の変は秀吉の犯行。光秀は家臣を本能寺によこすように森蘭丸の使者(実は秀吉の使者)から言われて、そうしただけ。詳しくは「嵌められた光秀」(幻冬舎出版)による。
漫画のセンゴクのイメージを持ってる
毛利は山陽方面は攻勢に出てないけど山陰方面は攻勢に出て9月には南条元続の羽衣石城を落としている。本能寺の変時点の毛利に岡山にいる宇喜多を一撃消し飛ばせるかというと・・・家中統制に全力を挙げたほうが賢いだろうね。
最近は貧農ではなく土豪の出だったとか下級武士の家系だとかの説もあるが、いずれにせよ低い身分から天下人にまで上り詰められる歴史的にもそうはいない有能な人物だと言うことを忘れてないか?凡人なら事前にこれから起こることを知らなければこんなに見事に立ち回れないかも知れないが、情報収集能力、分析力、果断な判断力など尋常じゃない能力の持ち主だよ。
秀吉の情報網はすごかったんじゃないのかな?光秀家中にもスパイがいて何か動きがおかしいくらいは把握していたのでは?
備中高松城は水攻めで毛利と秀吉はにらみ合いの持久戦、それに信長が大軍で来る予定だったから迎える準備してたし中国大返しはそんなに不思議じゃない光秀の間者を捕らえられたのも持久戦で警戒してたのが大きいそれに当時の情報伝達じゃ信長が本当に死んだのか生きて切り抜けたのか不明で謀反で心証の悪い光秀に付くよりは謀反人討伐に参加した方がいいし、万が一信長が生きてたら光秀に加担したら大変な目に会う秀吉は信長が確実に死んだ事実が広まる前に速戦で光秀を破った機知が凄い光秀も御館の乱で弱体化&柴田、滝川、同盟の北条に囲まれてる上杉景勝なんかの方面から先に来ると思ってたら毛利と戦ってた秀吉が恐ろしい速さで来るとは思ってなかったろうし 秀吉の行動力と機知力が凄まじい
船は使ったでしょうか?重量物を船で運べば、人間は身軽で動きやすく、30キロならば走破出来るのでは?
知ってないと秀吉がそんなに早く本能寺に着くなんて有り得ないです、本能寺の変の黒幕がいるかも知れないと思います
それを同時代の人物(特に柴田勝家、織田信雄、織田信孝あたり)が清洲会議などで指摘しなかったのは何故?
@@shinpeikitajima7115指摘したらいいががりだと言われて、攻められる。秀吉は仇を取って1番の発言力がある状況だから。
映画「首」早くみたいなぁ
兵糧のところの話は日本史サイエンスの記述を参考にしてるんでしょうけどあれを鵜呑みにはできませんよまた和睦は急になったわけではなく本能寺の変前から交渉に入ってたわけで別に不自然ではないですよ
本能寺の変はおかしなことが多すぎて、秀吉の中国大返しだけでは説明できないですよね・・・。明智軍の大軍の方向を、急に京に向かわせるのは不可能とか、家康は堺から京に戻るはずが、本能寺の変の前に既に京ではなく伊賀越えの向きを目指していたとかね。京で、明智の謀反ではない何かがあることは、秀吉も、家康も知っていたのでしょうね。
いくつかの言い間違いさえなければなぁ。
本能寺の変の黒幕は朝廷って説もあるが…
信長光秀秀吉で計画した変事が信長のイレギュラーな死亡で予測不可能になり、結果的に照射側の秀吉家康が現在の形に義輝の詩を参考に纏めたのかもしれん。変事の一例妄想しとけば信忠の追い落としとか。
船坂峠の近くに住んでるが俺はお犬のポーサンで夕方にサクッと踏覇するぜ
秀吉は光秀を滅ぼした翌年柴田勝家との決戦で50キロをわずか5時間という速さで戻る美濃大返しをやっている毛利の時は200キロだったから単純に行けば20時間だが実際には10日かかっている秀吉はこの時驚異的なスピードで行軍する術を持っていたのは間違いないあと水や食料だが動画で出てくるような大量の水や食料は必要ないよフルマラソンでもそんな大量の水や食料は用意してない
なんで信長の四男秀勝を同行しててなんだよw
決め打ちで情報を集めれば恐らく多くの説はそれなりの信憑性を持つのだろう単純に戦国の世で珍しくも無かった「主に何かが起こったら」に対して秀吉は常にリスクマネジメントをしていたと考えればそこまで不思議はない勿論確定していない以上様々な説が否定されるべきではないけど、起こることを事前に察知していたのならもう少しスマートにリスクを抱えずに対処できたと思うんですよそもそも信長にリスクを負わせたのは自身の要請もあるわけで、これで共謀でもなく陰謀ってのは後だから言えることだと思う
本能寺の変を事前に知ってるとか仕向けたとかなら、家族が変が起きた直後に長浜城から岐阜に逃げたりせんわな。言い訳作ってあらかじめ岐阜に逃げてるでしょ。京都と長浜どんだけ近いと思ってるねん。
歴史の事は分からんが日本一周をバイク、自転車、徒歩と三周した経験から語る。食糧や着替え、キャンプ道具を背中にフィットして重さを分散できるバックパックで背負って(15〜20kg)舗装された道をクッション性抜群の現代のシューズを履いて歩いても初日は20kmも歩いたらしんどい。ただ人間ってすぐなれるもんで3日もすれば慣れる。 10日で200kmなら余裕。ただし現代の装備と舗装路があればこそ。 しかし200kmを30㎏の装備で歩き切ったなら疲れより仕上がった身体で最強の状態になってると思う。
北野監督の映画観たいのでちょっと知識を入れようかとか思ってる。なにしろ学校で習ったことなど覚えてねぇからな
よしかわもとはるではない、きっかわもとはる。勉強しましょう。
大正ではなく、天正?
信長と光秀が本能寺で❤❤嫉妬した秀吉の愛憎劇。
セットで始末し、謀叛というシナリオで書類を残し、時間をかけてそれ以外の異聞を封じ、今の歴史に至る、みたいな。笑
30キロの荷物背負って行軍するとか凄いな昔の人らは現代人よりも身体的に優れてたのかもしれない
甲冑捨てて、マラソンして、戦場近くの村で武具や食事を補充して戦ったという話もあったがなあ。
@@takaok9903 甲冑捨てるのはちょっとあり得ないなぁ。いくら秀吉の命でも相当な値段するだろうし、その状態で明智と戦って勝てるだろうか?そして1万人分だからなぁ。
兵士に限らず、性別問わず農村でふつうに米俵担いでる人がいたわけだから、現在よりも頑健な人が多そうではあるけど、むしろこれは「人力程度しか頼れないから鍛えられた&慣れた」という鍛錬や慣れの産物のような気も。加えて「他の方法がないから体を壊すリスク承知で酷使した」も。現在は別に人力で何かする必要はあんまりないし、人里や街で生活してるなら「過度の身体的負荷は抑えたほうが健康上好ましい」が大抵正解なので慣れも鍛錬も通常は皆無だし、その差は大きいんじゃないかなあ。
秀吉本隊は疲労甚だしく畿内諸将が主力だったみたいな話もあるでよ
どこに行くにも車や電車を使う現代人とは明らかに足腰の作りが違いますからね。当時の兵にとっては「ちょっと急ごうか」くらいの感覚だったのかも。
そう豊臣秀吉が本能寺の変の黒幕だと思います!何しても怪しいですね!
「どうする家康」の「わしはやらんわ」と他者の信長殺しを秀吉は待っていたに1票。
秀吉にやるチャンスはないからな。
光秀の謀反の想定をしていたのではなく、光秀と秀吉の共謀した謀反信長を始末した後は合流して邪魔な旧織田家臣を2人で攻め滅ぼす手筈だったのだろう1枚上手の秀吉が根回しして筒井、細川、丹羽を調略して光秀を孤立させ光秀を討伐本能寺の変の罪を全て光秀になすりつけ天下統一
大正10年は間違いで天正10年ですよ。
後方に物資も蓄えないで戦争するバカがいるかよ。80年ぐらい昔にいたな笑。
知ってるわけがない知っていたら姫路で待機してるよ
私がチクった🎵
明智光秀様が織田信長様に叱責されて武士としての威厳を踏み躙る様な行為を受けて、家臣の誰かに謀反を促した説がありそうですね。本能寺に一度戻る事を明智光秀様に伝えて了承を受けて、戻った瞬間に武器を持ち本能寺に一部の家臣達が雪崩込む(その中に羽柴秀吉の縁者もいた)、混乱する明智の軍勢も攻め込む→後戻りできなくなった明智光秀様が仕方なく史実の通り自分が討った事にした。その後手筈をした羽柴秀吉が戻って討ち取る。じゃないですかねぇ?全て台本があった様に思います。本来は織田信長様を討った後に羽柴秀吉様と共に天下を支えるみたいな話を一部の明智家臣にして騙したそして誑かされた一人の家臣が豊臣家に怨み(騙されたから)を以て南光坊天海となり、徳川家康様と共に大坂の陣で滅ぼしたと思います。豊臣家が繁栄しなかったのは、悪評も原因であり、理(世の中が仕方なく従う)で治める天下よりも義(情けや助け合い)で治める天下でないと駄目だったって事ですね。
前半はそういう考えもあるなと思ったが後半はいただけない。光秀が源氏?秀吉が貧農?なにを根拠に。大政所の縁者はみんな貧農なの。加藤も福島も小出も?
正直、光秀が何故裏切ったかとか。大返しはおかしいって話も昔からあるが?軍師官兵衛が想像力があってもし謀反するなら光秀軍が動く時だろうというタイミングが分かったからやろうと想像する。
ヒデトラダムスの大予言、よって秀吉はシロ😊
私学日本史の教員ですが。文科省から下りてくるウソを子どもたちに教え、テストをつくり、ウソを覚えてきた子にマルを与えるシゴトのツラさはビッグモーター社の作業員と通じるツラさがあることを理解してほしい。
Up主さん「大間違い&大甘思考を指摘させて頂きます・秀吉は大返しの際“武将、足軽に至るまで*軍装を解き身軽な状態での行軍を指示し、軍装は纏めて荷車等々で輸送した“とされて居ますよね。」又”秀吉の水攻めで証明されて居る通り・当時の人々=農民町人等々の物資調達&搬送能力は現在の比では無いですよね。(秀吉は金を使い何十万の土嚢を迅速に集め大堤を完成させて居る)・当時は戦国で各村や町、砦、城にも兵糧は備蓄されて居る。上記を考慮すれば「秀吉の中国大返しは“下準備が無くても可能”プラス、現代と当時(戦国の世を150年以上生き抜いて居た人々の身体能力を現代と同等だと仮定するのは誤り。・プラス“京都に変事が起きた後、各大名&武将が臨戦体制を迅速に整えるのは当時の常識ですよ。」ともあれ、上記は別にしても“秀吉も一枚噛んで居た”とは思いますよ。
知ってたではなくて、起きてもおかしくないって段階から起きた場合を想定してただけの話だと思うが…って1番得したって事で秀吉が出るが、ぶっちゃけ家康の方が得してると思うが…
後からは想像で在ること無いこと何でも言えるものだ講釈師見てきたような嘘をいい😅
うん?そりゃ、明智光秀をそそのかし、秀吉が自分の手を汚さずに、主君の信長を殺したからなぁ。
この時代にたら30まで生きれる気がしねえ
本能寺の変、これは知られているかわからないけど、明智光秀はハメられたと噂も流れてます、黒幕は松永久秀です、それと信長の首は後の信長の右腕サスケと言う外人が首を持ち去ったと言う仮説です
信長の進軍のため、秀吉は相当以前から高松城に至る街道の整備や補給体制は確立していた。また、高松城との交渉も急遽和睦に至ったのでは無い。安国寺恵瓊との交渉で、毛利軍に全面衝突の意思はなかったことは文書から明かである。毛利に行くはずの密使が秀吉軍に捕まった話も後世の作り話。前提が違うのに科学的考察?カロリー計算?笑える
こういう異説は話としては面白いですが、証拠が一切ないのでどうしても説得力に欠けますね。妄想に近い動画という印象を受けました。
全て秀吉の策。明智は捨て駒。って事なんじゃ?
それな。自分もそう思った。秀吉としては、織田信長が天下を取った後戦争でしか名をあげられない自分は今後お払い箱になりかねない。佐久間や明智は、失策で無能の烙印を押されて、大減封。秀吉は明智をそそのかして信長を討たせた。明智光秀は、秀吉からの援軍要請の急使が来たことで、中国地方へ援軍として向かう予定だった。とされている。そんなに秀吉は苦戦してたかな?💦明智の援軍には信長の軍を参加した。信長は丸裸になった。たまたま、明智にチャンスが来たのではなく、秀吉がチャンスを作ったから信長を討てた。と考えるのが自然かなぁ。騙されたのは信長ではなく、実は明智光秀だった・・・?
こんなに証拠が揃ってるのに、どうして世に流通する説は間違ってることが多いんだ?誰かが簡潔に正確な説をまとめなきゃじゃん
秀吉は未来人で過去にタイムスリップしたから未来の事が分かるので秀吉が幕府を開かなかったのも家康が天下を取る未来を実行させて歴史を変えさせない為に潰せるのに潰さなかった。
そもそも自軍の緊急用リレー式騎馬伝令を配置しないで遠方へ出陣するほど秀吉がアホなわけないし
大返しの際は援軍に来る予定だった信長の本隊のために予め道を整備して物質を要所、要所に置いておいたのを逆利用したって話しもあるけどね
その説たしかにありますね
そもそも甲州征伐の前から信長にきてほしいと嘆願してた手紙もありますし、家康接待のときも秀吉は信長にお願いしてましたからね
準備の秀吉言われる人物と考えると通り道に接待や休憩所は作っていたと思われますよね
「 実際大返しで姫路城に馳せ戻ってきたのは馬廻りと高松城に向かっていた後詰めの兵だけで、あとの軍勢は当時の常識的な速度で戻ってきていた」
と言う話もあるようです。
秀吉のことですから、馬廻りと後詰め兵だけを戻したところで、明智方にプレッシャーをかけるためにあたかも全軍が戻ってきたかのように触れ回ったのかもしれませんね。
😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂@@江戸華
信長は街道整備に厳しいのは有名、明智も毛利戦のために出陣したのが定説、信長も毛利討伐に乗り気だから準備はするだろうね
食料も信長の為に用意していたんじゃないのかな。
急いで行軍してもゆっくり行軍しても腹は減る。
15日分の食料を10日で食べたってだけのような?
面白い考察です
基本的には同じですが(考察)
黒田官兵衛が大きく関与していると思います
もしかすると、秀吉は謀反が起きるまで信長死亡を想定していなかった
光秀を追い込むで出世競争に勝つ事を考えていた(だけ)
黒田官兵衛は謀反を想定していた
信長がこちらに来る事を口実に回廊沿いに兵糧等を準備しる
光秀が謀反を起こせる状況はつくるが起こすとは限らない。起こさ無い時は秀吉軍の指揮官に光秀を置き、信長が来た段階で勝利する
光秀が謀反を起こさなくても、秀吉の立ち位置は光秀より上になる
黒田官兵衛はナンバーワン(大将)よりNo2の器だと思っていた
そして、秀吉を大将にしたいほどの魅力があったと思います!
毛利とは毛利の降伏交渉中で条件だけ譲ればすぐ終わる状態、自軍の補給のためにも信長の部隊を迎えるために街道は整備してたろうし、姫路城とか拠点もある。海路も使えると、元から条件は整ってたとは思うけどね。
でも信長とは違い、光秀の動向を警戒してたぐらいはありそう。
降伏交渉中だったとしたなら、何故、わざわざ信長に援軍を求める必要があったのでしょうか?
そして、備中高松城水攻めでもあるように時期は梅雨です。大返しの最中でも、雨が降っていたでしょう。いくら道が整備されていたとは言え、当時は今のように舗装されているわけではなくぬかるんだ砂利道だったはずです。
休憩を除くと実質、7日弱くらいで230㎞を行軍したことになり、目的は京都に辿り着くことではなく、京都で織田家中一の出世頭だった光秀軍を倒すことです。
また光秀に加勢する者はほぼおらず、秀吉には加勢する者がいたと言う条件が揃ってないと秀吉が勝っていたかどうか分からない。事前に入念な準備をしていない限り非常にリスキーな選択を秀吉は取ったと言わざるを得ない。
自らの勝ちを確信していない以上、取るべき選択ではない。
@@惟任日向-r5d
手柄立てすぎると警戒される、上様が来た時に降伏させれば上様の意向でという事になる保身術それほど珍しい事でもない。
柴田もものすごいスピードで戻ってきている、秀吉が遅かったら北陸大返しと言われていたかもね。
秀吉が情報に確信を持てたのは上様の状況を知らせる諜報網からだったんでしょうね、上様が援軍に来るんだから動向を把握しておくのは当たり前の行動。
それと新選組の甲州鎮撫隊も一日30キロ行軍している。
@@惟任日向-r5d >故、わざわざ信長に援軍を求める必要があったのでしょうか?
毛利本隊が出張ってきたからですよ。そもそもなんで水攻めにする必要があったのかを考えれば分かるハズ
古来から水攻めってのは数的に劣勢な側が仕掛ける戦術。 西南戦争でも薩摩軍側は執拗に水攻めにすることに拘った(結局失敗したが)
補足すると薩摩軍側が水攻めに拘ったのは数的劣勢を補うためでした
@@akimizu1818 ではまだ援軍が来ていない数的有利な状態の毛利側が何故秀吉と降伏交渉に応じたと思いますか?
水攻めであろうが城攻めする側は数的有利な状況でなければしかけることはありません。援軍が来る前の高松城の兵力は多くて5千。対するは秀吉は3万。
秀吉が水攻めをしかけたのは毛利氏との決戦を前に味方の損害をなるべく最小限に抑えたかったからです。
毛利側の援軍は実際には1万か2万程度と言われています。この時の毛利側の最大動員兵力が8万くらいで、現実的にそれを高松城に集中させることは出来ません。その証拠に毛利は織田の援軍が来る前に秀吉を蹴散らすべきだったのに実際は身動きが取れなかった。
この時点ではまだ秀吉は援軍を要請する必要はなかったのです。
信長着陣の為前もって街道の整備が完了していたらしいとの事で道は良かった。
NHKで実地検証していたが荷駄を積んだ馬では峠越えがあの速度では不可能となっていた、しかし中国四国攻めの為港湾を抑えていた為海路で物資を運んだのでは?との検証で鎧兜、食糧を運搬したが可能となってた。
街道の至る所に食糧を用意して裸に近い状態で歩兵は走る、その他物資は到着した所で受け取る。これなら姫路辺までなら従来通りの通説でも可能であるとの結論でしたね!
20~30キロのフル装備で昔の人が健脚だったとしても従来通りの仮説では不可能となってましたね
・行軍時に武具を脱いで、軽装で移動し姫路に到着後に武具を整えた。
・荒地は、秀吉自身が幾度となく往復していることから、ある程度の整備されていた。
・毛利勢が追撃しなかったのは、秀吉を追撃し壊滅させたところで、畿内にある光秀軍が強大となった場合、再度戦を交えなければならないのであれば、秀吉VS光秀や織田家を内紛させた方が、対抗勢力が消耗すると踏んだから。
実際は、畿内の武将が光秀になびくことは無く、秀吉と織田信孝・丹羽長秀の合同軍が圧勝し、光秀が討たれた。
毛利としては、まさか一度の合戦で勝敗が決することは予想できず、地団駄を踏んだことだろうが、撤退時に追撃しなかったことが功を奏して所領安堵となった。
中国大返しは、当時の常識ではあり得ない速度で移動したと言われている為、秀吉が変事を事前察知していたという話が語られるが、一戦一戦を我武者羅に戦い抜いた結果だと思う。
移動速度の話で言えば、その後に起きた賤ケ岳の戦いの13里(52キロ)の距離を僅か5時間で移動したと記録されている美濃大返しもあるとおり、何らかのパッケージを秀吉は持ち合わせていたと思われる。
中国大返し~賤ケ岳の戦いまでの期間、秀吉は恐ろしいほどの強運で、一気に天下人へ駆けあがっていった。時の勢いが為せるロマンだと思いたい。
秀吉は信長に現地に来るようにお願いしていて、信長がストレスなく来れるように街道を整備して休憩所も至る所に作っていた。秀吉はこの街道を上って来たんだろう。騎馬で飛ばせばそこまで不思議でもないスピード。歩兵は置いて行っただけ。
@@user-qw7rl3hs5r 騎馬で飛ばせばって・・・。無理だと思うぞ。
蹄鉄ちゃんとしてたんかな?ポニーで速度が出るのか?馬の食料は、休憩所で準備したのか?長距離走破ちゃんとできたのかな?
騎馬のほうがあり得ないわ。雑兵が武装を脱いで京都に向かうとしても毎日走るのはキツイ。1日35キロメートル走るのは相当だよ。
一日だったら何とかなるけど10日間走り続けるのはなぁ・・・。
@@WearstFaker
騎馬の方がありえないって、秀吉以下主だった武将全員でマラソンしたってこと?脱落者が出る中で秀吉は真っ先に姫路城に着いている。元気な若者たちを抑えて中年の秀吉がマラソン優勝したってこと?
@@WearstFaker この頃には伝令の早馬の為に領地内には緊急事態用の馬が用意されているところが多かった
馬は数時間走れば潰れる、今よりも当時の人たちの方がそれを良く知っていただろう
それを何も手を打たない方がおかしい
1日35キロって徒歩でも十分移動可能です、運動不足じゃなきゃ現代人でもね
それに当時の人たちは今と違ってなんば歩きが主流で長距離移動にはより適していた
@@user-qw7rl3hs5r 騎馬でもマラソンでも無理ってことだよ。
いつも思うんだけど、755年の安史の乱のときの安禄山軍は1日40キロペースで進軍したというから、それに比べたらまああり得ないことじゃないんじゃないかと思ってしまう。しかも味方の勢力圏ではなく、本拠地の北京あたりで挙兵してから洛陽まで一応は唐朝の支配圏を進んだわけで、大規模な戦いにまではならずとも常に敵の中を戦闘準備で進んだはずで。あと古代ローマ帝国は道を整備していたおかげもあるだろうけど、1日に25キロ行軍したらしいし。
秀吉の大返しのすごさはむしろ「速さ」よりも「早さ」なのでは?進み始めてからのスピードよりも、そんなにすぐに毛利との和睦を成立させたことなどのほうがすごかったし当時の武将たちもむしろそっちのほうに驚いたんじゃないかな。
本能寺の変直前、中国四国平定のために光秀を先鋒に信長が向かう予定だったし、秀吉は光秀軍と信長本軍を迎えるべく道中に膨大な物資食料を集積していたはず。大返しを可能にしたのはその大量の物資食料と炊き出しができる道中の補給体制、そして船など輸送体制をそっくり利用できたからと考えるのが自然かも…。
秀吉黒幕説は信長から家督を継いでいた長男ていう最大の矛盾点があるんだがな
信忠は形上は家督を継いでいたので、信長が死んでも信忠がいる限り秀吉の織田勢力乗っ取りはほぼ不可能、秀吉が織田勢力を乗っ取れたのは信長と信忠が同時に死んでくれるという偶然と幸運が重なってくれたから。
信忠は信長が死んだ時、家臣が諌めるのを無視して救援に向かった結果本人も死ぬことになった。似たような状況にあった家康は信忠とは逆に逃げ出したおかげで生き延びている。つまり信忠が死んだのは本人の判断ミス、秀吉にとっては偶然の産物。さすがに秀吉黒幕説は厳しいかも。
秀吉は、信長さえいなくなれば。って思ってたんじゃないかな?
最近の文書では、秀吉は「わしは信長のように甘くはないぞ」って本能寺の変後にほかの近臣を恫喝してる。
信長は結果を残せなければ容赦なく左遷する。平和な時代になるといずれ秀吉はお払い箱にされる可能性も考えたんじゃないか?
現に明智と佐久間は左遷されてる。
信忠は別に生きていても生きていなくても、信長のクローンじゃないから、秀吉はそこそこ操れる自信があったと思う。
@@WearstFaker
秀吉の後継者は信長の息子ですよ。
信長がいなくなって困るのは秀吉です。
私は朝廷説を推します 理由は信長が天皇制排除考え始めたから光秀をそそのかす→光秀が成功したら口封じしなくては信長家臣の報復が怖い→白羽の矢がたったのは秀吉 秀吉は動画の通り欲の塊なんで承諾 朝廷にしても扱い安いので信長、光秀の動きは逐一報告→これが一番現実性が高いかな。
この説だと、のちに秀吉が関白になれたのもなんとなく頷けます
@@kikimike8556さん
近衛前久の養子になることで、摂関家の仲間入りするわけだけど、
何でもアリなのにも程がありますね。
動画11分03秒の画面で大正10年と表示ですが、間違えです。天正10年が正解です
信長に対して本当に忠誠があるなら、秀吉はもっと信長の息子たちを大切にしていて良いよな
この時代の「忠誠」の対象はあくまでも本人のみでその子孫達は対象外でしたしその対象も仕えるに値しないとなれば独立したり主君を変えたりするのは推奨された倫理観でした 忠誠の対象が血筋や家になったのは江戸時代中期の文治政治の時代になってから
いくら忠義があっても信雄みたいなアホに天下を渡したらまた乱世に逆戻り
大河ドラマ秀吉が史実なら⁉️別に不思議じゃない(笑)
前持って分かってたら備中奥地まで行きませんって…普通に考えてさ
本能寺が起きた時の周辺諸勢力の動きと、自身が率いる軍団の士気は予想不可能なんだから敵地にいるリスクはデカすぎなんだよなぁ
アリバイ工作かなと(笑)
@@sat600 備中撤退の綱渡り失敗したら破滅なんですがそれは…所謂中国大返しって速度なんかよりも軍を維持して帰って来たことが奇跡なんすよね
@@matukawatositane それな。普通は逃散するよね。秀吉は魅力があるから逃げなかった!とか言われそうだけど現実的には無理。
おそらく明智と結託して信長を討つ予定だったんじゃないかな?ってのが自分の見解。
んで途中で秀吉が裏切った。
もし秀吉が光秀と共謀してるならその証拠を光秀が作成しないほど馬鹿じゃない
秀吉が共謀した証拠をぶんまいて討伐軍を分散させる策も使えたのにそれをしなかったってことは
つまり共謀してないってことだ
@@owo2562 そうかな?証拠を残さなかったのではなく。残せなかったのでは?
ちなみに、明智が兵をあげることができたのは秀吉の援軍要請の文章のおかげなんだよね。
援軍要請が来て、織田信長のなけなしの兵を明智にとられた。=信長の護衛外しと、明智の軍勢が出来上がる。
それに信長とその息子のいる位置を正確に補足しているのも。できすぎているように思う。
そう考えると、秀吉が明智を超高速で帰ってきて討ったのは、そうする必要に迫られたからなのでは?ってなる
あと秀吉が義に厚いみたいのは後世の創作。最近の資料だと本能寺の変の後すぐに、「俺は信長のように甘くはないぞ。」って周囲の有力者を恫喝しているので、信長の家臣時代から信長への不満を持っていた可能性が高い。
上司の仇を討つまではいいけど、「俺はその上司よりも強いぞ」ってなかなか言わなくないか?
光秀と秀吉は口約束で、援軍要請がある種の合図になってたんじゃないかなぁ・・・。
まぁいずれの説も、確たる証拠がなかったり、本能寺の変が終わった後の二次資料が多いから絶対とは言えない。
ということは、本能寺の変のことを知った時に泣きぶせみ官兵衛に「殿の時代が来ましたね」的なことを言われたというのもフィクション?なの?
信長も本能寺で光秀の軍勢が襲ってきたのに対して是非もなし言うくらいだから、側近たちは結構コイツいつか信長やるんじゃないかって思ってたやつ結構いそう。
光秀が本能寺に向かうことは配下には知らされていたはず兵站を考えるといけって言われてもす行きますとはいかないはずだ水や食料休憩をするまさための宿舎が必要だし兵を守る必要はあっだはずで予め土民や織田に従わない土着の武士を鎮撫しておかないといけなかったはずなので知っていたのが当然だと思う。
光秀と義昭が事前に通謀していたというのはあり得ないでしょう。もしそうなら光秀は表立って足利義昭を担いでそのことを喧伝するので、中国大返しで摂津の大名が悉く秀吉側に着くことはなかったと思います。ただ秀吉は、毛利攻めのために三好水軍を利用していた。その三好は信長が認めた長曾我部の「切り取り次第」で風前の灯火だった。それを秀吉がバックアップして信長が心変わりし、長曾我部の梯子を外したのは事実だと思う
物資に関しては明智軍が中国までの行軍で使う予定で各地に用意していたものを利用したそうですよ
秀吉黒幕説はないと思われるなぁ
そもそも毛利自体は織田家と争う気持ちはほぼ無かったと思われるし、原因は足利義昭が焚き付けていて、毛利輝元と小早川隆景は保守的だったとあるし、元就の教えで考えると天下を狙うってことはない
安国寺恵瓊は何度も戦う前から織田家に使者としていって秀吉と親密だったと言われてるし、秀吉は播磨を制したときに、強引な戦いで、反旗を翻されて苦労してたから、心根は毛利を臣従させときたいと思っていたと思う
大返しの件では、ぶっちゃけ、フルマラソンはなかったと思う、
途中途中、宇喜多勢や黒田勢の兵の差し替えはあったと思うし、毛利と和睦停戦の段階で徐々に陣から撤退してたと思う、さらに停戦のときに、清水宗治がゴネていて
宗治「ワイ切腹する!」
秀吉「いやいや、切腹はええて、降伏して城明け渡してくんろ!💦」
ってやり取りで長引いてたとあるから、その間を考えると、動画である物理的に無理っていうのはないと思う
さらにいうと、ギリシャマラトンの戦いを考えると無くはない道理
何人か鎧の話を上げてる人いたが、そもそも足軽がそない重い装備してないし、装着して移動を絶対として例えるのもちょっとw
冷静に考えて装備は解くでしょw
あの当時から荷駄はあるわけやし、荷駄隊は撤退のときに先に出発するのは定石
でもこういう話を歴史好きの人たちとディベートするのは楽しいですな(˶ᐢωᐢ˶)
黒幕とかは無くて、現代サラリーマン的な発想だが、何かしらなんかの間違いで取り下げてくれんかなぁ…無理だろうなぁみたいに不安事案を信長に通達された(長宗我部征伐あたり)で、その日が来るのが憂鬱になっているところに、時期当主と信長が手勢僅かで同じ京都にいる〜これが良くなかったんじゃないかねぇと思っている 光秀かなり追い詰められていた説
本能寺の変の肝は、たまたま織田家の当主織田信忠と先代の当主でご隠居様の織田信長が二人ともろくな兵力なくすぐ近くにいて、しかも明智光秀が正当な理由で大兵力を抱えていたというトリプルな偶然が重なって起きたことだという事実をしっかりとふまえるべきです(こんなこと数多の史家が口を酸っぱくして言ってるのに何故未だに無視されるのか?そっちの方を研究の対象にすぺきかもしれません)
史実を知ると面白くない話は色々とあるので、日ユ同祖論とかUA-camrには人気があって都市伝説と銘打ってるのに、こじつけ話を信じてしまう人も多いですね。嫌韓という統一教会のマッチポンプに踊ろされているのが原因だけど、驚きに思わせる話や陰謀論の方に多くの人は乗ってしまう傾向がありますね😅
秀吉は『確実に何か起きる』ではなく、『何か起きてもおかしくない』というスタンスだったんじゃないですかね
@@南行-p5q
仰るとおりですね。
後から結果論で「計算ずく」とバッサリ断ずるのは簡単ですが、実際は“そういう可能性へのリスク回避”であり、予測不能だったのかと問われれば「予測はあった」と答える他ないわけですから。
???「図ったな~!!秀吉~~!!!」
俺は小学校の頃から秀吉が嫌いだった。
今回の解説のように色々分かってた訳では無いが、「秀吉が本能寺の変が起こる事を知らない筈がない」と思っていたからだ。
小学校の時の夏休みの研究で織田信長について研究発表した事がある。
その時からの考えが歳を重ねる毎に証明されていくのは痛快である。
ちなみに俺は光秀をけしかけたのは秀吉だと思っている。
無論北野武の映画の「味方になる」と言う事を言ったのではなく、そうなる様にけしかけた。
あくまで影から。
秀吉の家臣団を見れば信長家臣団の中でも随一の能力者ばかり。
黒田官兵衛を初めとした知恵者、加藤清正等の剛の者。
粒揃いである。
特に本能寺の変を聞いた秀吉に、黒田官兵衛が「好機」と言ったのは有名な話だが、この話が嘘か誠か分からないが、この話が普通に伝わってる事が「秀吉に野心があった」という事が分かる。
その後の織田家の末路を見ても、朝鮮出兵でも秀吉の野心は尽きていない。
少なくても、中国大返しは信長の弔い合戦では無いのが分かる。
『仕掛けた花火が上がった』
と秀吉は思った事だろう。
どんな野望があるにせよ、信長に対して秀吉は主従の情等は持ってないと思っている。
全ては財を手にする為、地位を得る為、栄誉を得る為の媚びであり、全ての行動原理だと思う。
本能寺の変の真相を考察するのは、ずっっとやってても飽きないです。現在、私が考察する中で現実に起こってたんじゃないか、と思っているのは、
本能寺の変を計画、企画、実行した者達(A)がいた。それは光秀でも秀吉でもない。
Aには以下の能力がある
莫大な資産、広大な諜報網、天皇に繋がる権威への影響力、有力武将の秘密を知り得る立場、有力武将と商談などで駆け引きできる、先を見通せる知識知恵叡智、ハンパない教養力、世界情勢にも詳しい、兵員動員可能な人脈と軍資金、さらにそれを駆使する際の隠密行動、権力者に疑われにくい、信長天下では都合が悪いが秀吉天下なら都合が良い
こんな条件をクリアする者達っていると思いますか? 大商人、茶の湯文化、公家衆(権力争い)、将軍家由来の忍び衆、宣教師、、、、それらに繋がり影響力も地位もあり、徳も知識もずば抜けて、信用できる有能な協力者(諜報活動含む)も多数得られ、次世代の日本のあるべき姿さえも描ける大人物、、。
思い当たる人物が一人、、、
太閤の「謎の怒り」を買い、文人とは思えぬ辞世の句を詠んで武人でもないのに切腹されられた者がいる。
そして同じ時期に、太閤秀吉の腹心で天下取りの立役者だったのに、理由もはっきりせず冷遇され遠ざけられた軍師級の武将。。
本能寺の変がおこることは秀吉も家康も知り得なかった(光秀さえ知らなかったはず。彼は嵌められたから)。
計画し指示した黒幕は、ことが起こった時に都合よく動くように、その配下の武将(例えば黒田官兵衛)には悟れるようにわざとボカして(察しろよ、秀吉が天下とれるかもよ)報せてたはずです。
茶人(実際は大商人)衆、、、、千利休・今井宗久・津田宗及・長谷川宗仁、、、らは、どんなことを茶会で話してたんでしょうね。
秀吉に本能寺の変を知らせたのは捕まえた明智の使者だけでなく、本能寺の前に屋敷を構えてた長谷川宗人も秀吉に知らせてるのはあまり知られてないよな。
本能寺の隣には茶屋四郎次郎邸も、という事に加えて三河から明智家に出奔した木俣守勝が本能寺の変の前に徳川家に帰参しているから家康も本能寺の変が起こる事を知っていたのでは。軍勢を持たない家康を無事に国に帰させた上で京の治安を悪くさせない為に秀吉の軍勢を動かす計画だったと。有能な2人だから連携し合って2代英傑を動かせたと。なので羽柴勢に捕まったのが本当に明智の使者なのかも怪しい。
さすがに武器や鎧を着て走るのは無理やわ。海路で武器や鎧の輸送、一部の兵士も船で移動したんでしょ。前もって準備しないと出来ないわな。事前に本能寺の変はわかってないとね。
それな。そもそも本能寺の変を伝えた伝令が1~2日で秀吉に明智の謀反を伝えているのよな。1日100㎞移動したことになる。3日かかったとしても1日あたり70㎞ぐらい移動してる。
馬を利用しているとして、日本の在来種のポニーで駅伝方式利用してもなかなか難しくないか?
伝令は何とかなっても1万人の軍よ。事前に知ってないと結構厳しい。
メッツ値の考察など『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』 (講談社ブルーバックス新書) 播田 安弘)の記載から作られている部分が多い動画ですね。近年の研究も含めてまとめられた動画ですので、参照論文や参考文献を明示するなど先行研究に敬意を示されるとなお良いと思います。
織田家家臣の秀吉→潰さないまでも最大限に利用して冷遇
豊臣家家臣の家康→完全にぶっ潰し滅亡
こんなもんよ
吉田兼見日記か何かで
当時本能寺を襲った軍勢について
記載されているんだけど、
京都で乱暴狼藉は働くし
信忠がいたとはいえ皇太子?親王?が
いる二条御所に襲撃まで掛けていて、
旧権力に崇敬のある光秀の軍勢
らしからぬ行動ばかりだったようだ。
毅然とした部隊というよりも
山賊の群れに近い様な記述だった。
偶然か秀吉直轄の親衛部隊たる
木下家定ら数千騎が東に向かって
行方不明になっている。
実態としては
光秀と家康は信長暗殺の機を
狙っていたが明智軍出陣の名目がなく
困っていた。
秀吉はその流れを密かに知っており、
それを利用すべく信長を安土城から
誘い出した。
(安土城周辺だと信雄軍や信忠直轄軍、
蒲生氏郷が居るから)
それを好機と見た光秀は本能寺を襲撃するが,到着時には廃墟と化しており、結果的に本能寺どころか二条御所
も焼けて襲撃犯に仕立て上げられた。
予定より速い襲撃の為準備もままならず、麾下の武将を同心させる前に動かざるを得なくなってしまった。
ってとこだろうと個人的に推測してる。まぁ、ガバガバの推論だけどね笑
光秀ほどの優秀な武将が、本能寺を襲って首をとれないなんて現実的じゃないですよね。むしろ光秀が襲撃犯に仕立て上げられ、変当時に現場になった洛中の公家衆や商人衆、町衆らが組んで襲撃者の証拠も隠滅した(信長の首も含む)ほうが現実的に感じます。
個人的には「本能寺の変」とは「御所巻」だったんじゃないかと言うこと。
御所巻きとは、室町時代によく行われてた「主君」に対して「諫言」を言うんだけれど「兵士」も「居城」を取り囲むってこと。
ある種、実力行使なんだけれど、家臣が行うってのがミソ。
で、たぶんだけれど、秀吉なんかは「御所巻きをすることを知ってた」はず。
普通なら「主君」は「諫言」を取り入れて、家臣は引くんだけれど、ここでアクシデントが発生し「信長が自刃」してしまったと。
だがしかし、信長も信忠も死んでしまってたら、光秀の「責任問題」だよなぁ。
なので、秀吉は惟任光秀を討ち取って「知らんぷり」を決め込んだんじゃないかなぁ。
、、まぁ、「本能寺の変_御所巻失敗説」ってやつです。興味のある方はググってね。
食料を緊急に用意>岡山に送る予定を留めるだけだから緊急どころか余裕
岡山から姫路までの強行軍が有名だけれど、信長も金ケ崎から京都まで同じような距離を2日で撤退してる なのでそこは特段無茶ではない
信忠まで死ぬのは想定外だったようだ
だから家康は必ず世継ぎの秀忠を江戸に置いた。
本能寺の変が起こる前に、安国寺恵瓊が、明智光秀が謀反をするって噂を流してたそうです。
大正?天正の間違いだよね?
そうですね。秀吉が大正にいると大変な事ですよね。
面白い❗なるほどと超思いました😊
でもやっぱり偶然(?)のチャンスを秀吉が掴んだのかなぁー??
そこまでの深い策謀、本能寺より過去には前例が無さそうですし、農民が天下を掴むのは劉邦と言う前例があるにはある。
現在より徳とかが重要視されている昔(たぶん)
明智より秀吉に大義名分がある
と周りが判断をして味方してくれたと思いたい。
御家大事はもうちょい後。
頭悪いのに難しいことをコメントしようとしてごめんなさい😢
でも動画面白かったです😊
黒田官兵衛黒幕説って意外と言われない。
黒田官兵衛はかなり怪しいよねー。
幾ら重要拠点っていっても博多は大阪からは遠すぎる。
普通なら自分の軍師は近くに居て欲しいし官兵衛の石高もそこまで多くないしね。
だから本能寺は官兵衛独断の家康と光秀との共謀での謀反で、再度徳川と組んでの謀反恐れての博多行きと思ってます
秀吉「毛利相手に勝ち確やし最後にノッブに指揮権渡して気持ち良くさせたろ!!道中整備しとくで!!」
事前に知ってたとして光秀どうやって倒すん?もし信長の首が光秀の手元にあった時点で破綻する
あの義経ですら自害した後に火放ったけど首取られとるし事前に知ってたとしてもリスクしかない
毛利氏に先に情報が行って毛利からもちかけられたと予想。これ秀吉に味方して毛利に損は一つもない。
浅井攻め決着の頃には 秀吉は信長を完全に見限っていたでしょうね
やはり。秀吉公は元情報部隊だったので。
織田家臣団の中に "異変" が起こる雰囲気があった。だから何かあってもすぐ行動出来る下準備をしていた。
予見はしてたと思うけど、それはいくつかの準備していたifのひとつなだけだよ。
光秀の要請も必要だからお願いしてるだけだし。
本能寺の変の黒幕が毛利と考えたらスッキリする。毛利は明智光秀に信長への謀叛を起こさせたが、秀吉とも和睦して光秀を討たせた。つまり『三本の矢』のよくない例えである。毛利は信長光秀秀吉を三兄弟に置き換えたのだろう。毛利の計画では三人が共倒れになるはずだった
秀吉というより、黒田官兵衛が気づいていたと見るべき。 事前の準備と事後の扱いを見れば、秀吉から彼への恐れと怒りが見えてくる。
突っ込みどころが多いですが、あえて二点だけ。
秀吉が信長に援軍要請をしたのは別に光秀を意識していたのでは無く、毛利氏を独力で倒してしまったあとに、信長本人に猜疑心と恐怖心を与えてしまうのが恐ろしかったからですよ。これは織田家臣団。皆共通で佐久間信盛や林通勝などの譜代の臣の粛清。荒木村重の謀反も信長への恐怖が原因だし。老人になって謀反の必要もないのに逆らった松永久秀もそう。
だから最後の手柄は信長に譲るための援兵要請です。
自分を小さく見せて信長に可愛げのある奴と見せる為のね。
次に毛利との講話の成功は単に、秀吉軍の参謀長の黒田官兵衛と毛利外交顧問の安国寺恵瓊が優秀だったから。
そして毛利の両川の小早川隆景が恵瓊の外交方針を支持して、秀吉に恩を売ることが毛利の安泰に繋がるとおもったからです。実際に毛利は直ぐに秀吉とは同盟を結んでいますからね。
毛利家は天下は望まない。ただ領土の保全を図る為に秀吉軍は追撃しない隆景の方針を秀吉も良く分かっていたでしょうね🤠
今の自衛隊なら歩きで25Kmは普通速度らしいが・・・
今更のコメント失礼いたします。
出世しようと志しのある人はたくさんいるけれど、秀吉の場合は関白にまで登りつめております。
また、下心がある人のトップって見透かされやすいものです。
わたしは、秀吉は出世しようと思っていたのではなく、他の誰よりも優秀で責任感の強い人物であったのではないかと
思います。
もし知っていたら秀吉は姫路城に待機しているはず。
まぁ歴史IFは面白いけどね
大船を使った可能性がある。鎧、兜などは大部で運んだワケです。
秀吉は本能寺の変を事前に知っていた、どころか、本能寺の変は秀吉の犯行。光秀は家臣を本能寺によこすように森蘭丸の使者(実は秀吉の使者)から言われて、そうしただけ。詳しくは「嵌められた光秀」(幻冬舎出版)による。
漫画のセンゴクのイメージを持ってる
毛利は山陽方面は攻勢に出てないけど山陰方面は攻勢に出て9月には南条元続の羽衣石城を落としている。
本能寺の変時点の毛利に岡山にいる宇喜多を一撃消し飛ばせるかというと・・・家中統制に全力を挙げたほうが賢いだろうね。
最近は貧農ではなく土豪の出だったとか下級武士の家系だとかの説もあるが、いずれにせよ低い身分から天下人にまで上り詰められる歴史的にもそうはいない有能な人物だと言うことを忘れてないか?
凡人なら事前にこれから起こることを知らなければこんなに見事に立ち回れないかも知れないが、情報収集能力、分析力、果断な判断力など尋常じゃない能力の持ち主だよ。
秀吉の情報網はすごかったんじゃないのかな?
光秀家中にもスパイがいて何か動きがおかしいくらいは把握していたのでは?
備中高松城は水攻めで毛利と秀吉はにらみ合いの持久戦、それに信長が大軍で来る予定だったから迎える準備してたし中国大返しはそんなに不思議じゃない
光秀の間者を捕らえられたのも持久戦で警戒してたのが大きい
それに当時の情報伝達じゃ信長が本当に死んだのか生きて切り抜けたのか不明で謀反で心証の悪い光秀に付くよりは謀反人討伐に参加した方がいいし、万が一信長が生きてたら光秀に加担したら大変な目に会う
秀吉は信長が確実に死んだ事実が広まる前に速戦で光秀を破った機知が凄い
光秀も御館の乱で弱体化&柴田、滝川、同盟の北条に囲まれてる上杉景勝なんかの方面から先に来ると思ってたら毛利と戦ってた秀吉が恐ろしい速さで来るとは思ってなかったろうし 秀吉の行動力と機知力が凄まじい
船は使ったでしょうか?重量物を船で運べば、人間は身軽で動きやすく、30キロならば走破出来るのでは?
知ってないと秀吉がそんなに早く本能寺に着くなんて有り得ないです、本能寺の変の黒幕がいるかも知れないと思います
それを同時代の人物(特に柴田勝家、織田信雄、織田信孝あたり)が清洲会議などで指摘しなかったのは何故?
@@shinpeikitajima7115指摘したらいいががりだと言われて、攻められる。秀吉は仇を取って1番の発言力がある状況だから。
映画「首」早くみたいなぁ
兵糧のところの話は日本史サイエンスの記述を参考にしてるんでしょうけどあれを鵜呑みにはできませんよ
また和睦は急になったわけではなく本能寺の変前から交渉に入ってたわけで別に不自然ではないですよ
本能寺の変はおかしなことが多すぎて、秀吉の中国大返しだけでは説明できないですよね・・・。明智軍の大軍の方向を、急に京に向かわせるのは不可能とか、家康は堺から京に戻るはずが、本能寺の変の前に既に京ではなく伊賀越えの向きを目指していたとかね。京で、明智の謀反ではない何かがあることは、秀吉も、家康も知っていたのでしょうね。
いくつかの言い間違いさえなければなぁ。
本能寺の変の黒幕は朝廷って説もあるが…
信長光秀秀吉で計画した変事が信長のイレギュラーな死亡で予測不可能になり、結果的に照射側の秀吉家康が現在の形に義輝の詩を参考に纏めたのかもしれん。変事の一例妄想しとけば信忠の追い落としとか。
船坂峠の近くに住んでるが俺はお犬のポーサンで夕方にサクッと踏覇するぜ
秀吉は光秀を滅ぼした翌年柴田勝家との決戦で50キロをわずか5時間という速さで戻る美濃大返しをやっている
毛利の時は200キロだったから単純に行けば20時間だが実際には10日かかっている
秀吉はこの時驚異的なスピードで行軍する術を持っていたのは間違いない
あと水や食料だが動画で出てくるような大量の水や食料は必要ないよ
フルマラソンでもそんな大量の水や食料は用意してない
なんで信長の四男秀勝を同行しててなんだよw
決め打ちで情報を集めれば恐らく多くの説はそれなりの信憑性を持つのだろう
単純に戦国の世で珍しくも無かった「主に何かが起こったら」に対して秀吉は常にリスクマネジメントをしていたと考えればそこまで不思議はない
勿論確定していない以上様々な説が否定されるべきではないけど、起こることを事前に察知していたのならもう少しスマートにリスクを抱えずに対処できたと思うんですよ
そもそも信長にリスクを負わせたのは自身の要請もあるわけで、これで共謀でもなく陰謀ってのは後だから言えることだと思う
本能寺の変を事前に知ってるとか仕向けたとかなら、家族が変が起きた直後に長浜城から岐阜に逃げたりせんわな。
言い訳作ってあらかじめ岐阜に逃げてるでしょ。京都と長浜どんだけ近いと思ってるねん。
歴史の事は分からんが
日本一周をバイク、自転車、徒歩と三周した経験から語る。
食糧や着替え、キャンプ道具を背中にフィットして重さを分散できるバックパックで背負って(15〜20kg)舗装された道をクッション性抜群の現代のシューズを履いて歩いても初日は20kmも歩いたらしんどい。
ただ人間ってすぐなれるもんで3日もすれば慣れる。 10日で200kmなら余裕。
ただし現代の装備と舗装路があればこそ。
しかし200kmを30㎏の装備で歩き切ったなら疲れより仕上がった身体で最強の状態になってると思う。
北野監督の映画観たいのでちょっと知識を入れようかとか思ってる。なにしろ学校で習ったことなど覚えてねぇからな
よしかわもとはるではない、きっかわもとはる。勉強しましょう。
大正ではなく、天正?
信長と光秀が本能寺で❤❤
嫉妬した秀吉の愛憎劇。
セットで始末し、謀叛というシナリオで書類を残し、時間をかけてそれ以外の異聞を封じ、今の歴史に至る、みたいな。笑
30キロの荷物背負って行軍するとか凄いな
昔の人らは現代人よりも身体的に優れてたのかもしれない
甲冑捨てて、マラソンして、戦場近くの村で武具や食事を補充して戦ったという話もあったがなあ。
@@takaok9903 甲冑捨てるのはちょっとあり得ないなぁ。
いくら秀吉の命でも相当な値段するだろうし、その状態で明智と戦って勝てるだろうか?
そして1万人分だからなぁ。
兵士に限らず、性別問わず農村でふつうに米俵担いでる人がいたわけだから、現在よりも頑健な人が多そうではあるけど、むしろこれは「人力程度しか頼れないから鍛えられた&慣れた」という鍛錬や慣れの産物のような気も。加えて「他の方法がないから体を壊すリスク承知で酷使した」も。
現在は別に人力で何かする必要はあんまりないし、人里や街で生活してるなら「過度の身体的負荷は抑えたほうが健康上好ましい」が大抵正解なので慣れも鍛錬も通常は皆無だし、その差は大きいんじゃないかなあ。
秀吉本隊は疲労甚だしく畿内諸将が主力だったみたいな話もあるでよ
どこに行くにも車や電車を使う現代人とは明らかに足腰の作りが違いますからね。
当時の兵にとっては「ちょっと急ごうか」くらいの感覚だったのかも。
そう豊臣秀吉が本能寺の変の黒幕だと思います!何しても怪しいですね!
「どうする家康」の「わしはやらんわ」と他者の信長殺しを秀吉は待っていたに1票。
秀吉にやるチャンスはないからな。
光秀の謀反の想定をしていたのではなく、光秀と秀吉の共謀した謀反
信長を始末した後は合流して邪魔な旧織田家臣を2人で攻め滅ぼす手筈だったのだろう
1枚上手の秀吉が根回しして筒井、細川、丹羽を調略して光秀を孤立させ光秀を討伐
本能寺の変の罪を全て光秀になすりつけ天下統一
大正10年は間違いで天正10年ですよ。
後方に物資も蓄えないで戦争するバカがいるかよ。80年ぐらい昔にいたな笑。
知ってるわけがない
知っていたら姫路で待機してるよ
私がチクった🎵
明智光秀様が織田信長様に叱責されて武士としての威厳を踏み躙る様な行為を受けて、家臣の誰かに謀反を促した説がありそうですね。
本能寺に一度戻る事を明智光秀様に伝えて了承を受けて、戻った瞬間に武器を持ち本能寺に一部の家臣達が雪崩込む(その中に羽柴秀吉の縁者もいた)、混乱する明智の軍勢も攻め込む→後戻りできなくなった明智光秀様が仕方なく史実の通り自分が討った事にした。
その後手筈をした羽柴秀吉が戻って討ち取る。
じゃないですかねぇ?全て台本があった様に思います。
本来は織田信長様を討った後に羽柴秀吉様と共に天下を支えるみたいな話を一部の明智家臣にして騙した
そして誑かされた一人の家臣が豊臣家に怨み(騙されたから)を以て南光坊天海となり、徳川家康様と共に大坂の陣で滅ぼしたと思います。
豊臣家が繁栄しなかったのは、悪評も原因であり、理(世の中が仕方なく従う)で治める天下よりも義(情けや助け合い)で治める天下でないと駄目だったって事ですね。
前半はそういう考えもあるなと思ったが後半はいただけない。光秀が源氏?秀吉が貧農?なにを根拠に。大政所の縁者はみんな貧農なの。加藤も福島も小出も?
正直、光秀が何故裏切ったかとか。大返しはおかしいって話も昔からあるが?軍師官兵衛が想像力があってもし謀反するなら光秀軍が動く時だろうというタイミングが分かったからやろうと想像する。
ヒデトラダムスの大予言、よって
秀吉はシロ😊
私学日本史の教員ですが。文科省から下りてくるウソを子どもたちに教え、テストをつくり、ウソを覚えてきた子にマルを与えるシゴトのツラさはビッグモーター社の作業員と通じるツラさがあることを理解してほしい。
Up主さん「大間違い&大甘思考を指摘させて頂きます
・秀吉は大返しの際
“武将、足軽に至るまで*軍装を解き身軽な状態での行軍を指示し、軍装は纏めて荷車等々で輸送した“とされて居ますよね。」
又”秀吉の水攻めで証明されて居る通り
・当時の人々=農民町人等々の物資調達&搬送能力は現在の比では無いですよね。
(秀吉は金を使い何十万の土嚢を迅速に集め大堤を完成させて居る)
・当時は戦国で各村や町、砦、城にも兵糧は備蓄されて居る。
上記を考慮すれば
「秀吉の中国大返しは“下準備が無くても可能”プラス、現代と当時(戦国の世を150年以上生き抜いて居た人々の身体能力を現代と同等だと仮定するのは誤り。
・プラス“京都に変事が起きた後、各大名&武将が臨戦体制を迅速に整えるのは当時の常識ですよ。」
ともあれ、上記は別にしても
“秀吉も一枚噛んで居た”とは思いますよ。
知ってたではなくて、
起きてもおかしくないって段階から起きた場合を想定してただけの話だと思うが…って1番得したって事で秀吉が出るが、ぶっちゃけ家康の方が得してると思うが…
後からは想像で在ること無いこと何でも言えるものだ
講釈師見てきたような嘘をいい😅
うん?そりゃ、明智光秀をそそのかし、秀吉が自分の手を汚さずに、主君の信長を殺したからなぁ。
この時代にたら30まで生きれる気がしねえ
本能寺の変、これは知られているかわからないけど、明智光秀はハメられたと噂も流れてます、黒幕は松永久秀です、それと信長の首は後の信長の右腕サスケと言う外人が首を持ち去ったと言う仮説です
信長の進軍のため、秀吉は相当以前から高松城に至る街道の整備や補給体制は確立していた。また、高松城との交渉も急遽和睦に至ったのでは無い。安国寺恵瓊との交渉で、毛利軍に全面衝突の意思はなかったことは文書から明かである。毛利に行くはずの密使が秀吉軍に捕まった話も後世の作り話。前提が違うのに科学的考察?カロリー計算?笑える
こういう異説は話としては面白いですが、証拠が一切ないのでどうしても説得力に欠けますね。妄想に近い動画という印象を受けました。
全て秀吉の策。明智は捨て駒。って事なんじゃ?
それな。自分もそう思った。
秀吉としては、織田信長が天下を取った後戦争でしか名をあげられない自分は今後お払い箱になりかねない。
佐久間や明智は、失策で無能の烙印を押されて、大減封。
秀吉は明智をそそのかして信長を討たせた。
明智光秀は、秀吉からの援軍要請の急使が来たことで、中国地方へ援軍として向かう予定だった。とされている。
そんなに秀吉は苦戦してたかな?💦
明智の援軍には信長の軍を参加した。信長は丸裸になった。
たまたま、明智にチャンスが来たのではなく、秀吉がチャンスを作ったから信長を討てた。と考えるのが自然かなぁ。
騙されたのは信長ではなく、実は明智光秀だった・・・?
こんなに証拠が揃ってるのに、どうして世に流通する説は間違ってることが多いんだ?
誰かが簡潔に正確な説をまとめなきゃじゃん
秀吉は未来人で過去にタイムスリップしたから未来の事が分かるので秀吉が幕府を開かなかったのも家康が天下を取る未来を実行させて歴史を変えさせない為に潰せるのに潰さなかった。
そもそも自軍の緊急用リレー式騎馬伝令を配置しないで遠方へ出陣するほど秀吉がアホなわけないし