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釧路駅や札幌駅など始発駅から乗る事が夜行列車の定番ですが、一度だけ白糠から乗った事があります。お盆前後だったので大変込み合っていましたが、なぜか帯広駅到着後自由席を覗き込んだら何席か空席があり座る事ができました。それまではデッキに新聞を敷いて座っていました。これもまたいい思い出です。
コメントありがとうございますす。夜行列車全盛期は、繁忙期は自由席が大混雑ということもよくあった様ですね。私は、まりもではありませんが、平成4年の8月に気動車(キハ400)時代の利尻に旭川から稚内まで乗車しましたが、自由席が満杯で増結されていたキハ56(27かも?)の運転席横側の乗務員用の補助席で一晩過ごした事があります
@@user-kiha56-100 さん私は、急行狩勝で滝川から釧路へ向かう途中やはり自由席満席で同じく補助席に座ったことがあります。車内販売でオレンジジュ-スを買い席に戻って飲もうをとしたとき、偶発的事故でありますが、たまたまペダルを踏んでしまい『落合~新得』で警笛を鳴らしてしまいました。キハ56系8両編成の時代です。
@@急行らいでん-x9x さん実は私も平成4年8月の利尻の増結車の補助席に座った際に、間違ってペダルを踏んでしまって警笛を鳴らしてしまいました。あの時は非常に焦りました…(笑)
車掌氏の哀愁を帯びた語り口が夜汽車の雰囲気を盛り上げています。当マイクロフォンこと元NHKアナウンサーの中西龍氏を思い起こします。いい時代でした。
コメントありがとうございます。中西龍氏といえば、昔放送されていたフジテレビの『鬼平犯科帳』のナレーションのイメージが強いですね。たしかにこの車掌氏の語り口は声質は異なりますが、中西氏に通ずるものがありますね。
現に国鉄の車掌は職場内教育で、車内放送の仕方についてNHKアナウンサーから指導を受けていましたね。この方のアナウンスは、とても聞き取りやすいと思います。
遅くなりましたが、コメントありがとうございます。国鉄の車掌教育にNHKアナウンサーによる指導もあったのですね。仰る通り、この車掌さんのアナウンスは、とても聞き取りやすく、そして味わい深いですよね。
中学生時代、アマチュア無線技士試験の受験のため、深夜過ぎに帯広から一人B寝台で札幌に向かったことを思い出しました。懐かしいです。
コメントありがとうございます。懐かしんで頂けたのでしたら幸いでございます。現在は、深夜の帯広から列車で移動することも不可能な時代になりました。時代の流れとはいえ、味気ないものです。
この時代の車掌さんの車内放送って、なんで素晴らしいのやろね。哀愁が籠もっていて、声は浪曲師のようで、旅のテンションが上がりましたね。今は自動放送ばかりで味気ない😂
コメントありがとうございます。おっしゃる通り、この時代の車掌さんのアナウンスは風情がありましたよね。自動放送は、合理化による乗務員の1列車あたりの人員削減等により、業務量増加の軽減も兼ねているものと思われるので、仕方が無いのでしょうが………。
昭和58年夏、北海道ワイド周遊券を利用しました時、札幌車掌区の車掌さんが「札幌行急行すずらんです」とアナウンス。録音された方が結構いたみたいです。車掌さんにスタンプ帳にサインを貰ったのも、良い思い出です。
コメントありがとうございます。「札幌行急行まりもです」を「札幌行急行すずらんです」と誤って放送していたということですか?
@@user-kiha56-100 さんはい。車内一同爆笑。あの日は釧路市の花火大会の日でした。車掌さんは、前行路ですずらんに乗務していたのでしょうかね。懐かしいです。
@小鳥遊あずさ さんその様な事情だったのですね。
寝台を5輌もつないでいたのに満席とは😵今では考えられない大繁盛ですね😌
コメントありがとうございます。収録当時は、格安長距離夜行バスもそれほど普及していなかったので、夜行列車にはまだまだ集客力がありましたね………。
国鉄をご利用頂きまして有り難うございますと言うアナウンスは初めて聞きました。
コメントありがとうございます。今の時代に聞くと懐かしいアナウンスですが、昔(国鉄時代)は当たり前の様に聞くことが出来ました。
1978年夏休みに札幌7時過ぎ→釧路まで急行狩勝号にまりも号が併結されていて、まりも号に乗ったらガラガラでした。夜行急行列車がなくなって、不便極まりないですね。
コメントありがとうございます。1978年と言えば、まだ石勝線開業前ですが、急行狩勝とまりもの併結列車があったのですね。夜行列車が無くなって風情が無くなり、つまらなくなりましたね…。
懐かしい!同年8月に20日間の日程で北海道旅行してました。夜行も席の取りやすい上りをよく利用していました。同じ列車に乗っていたかもしれません。
コメントありがとうございます。同年の8月に北海道旅行をされていて、まりもにも乗車されていたのですね。私は夜行列車乗車はこの時が初めての乗車でした。札幌からは急行ニセコに乗り換えて函館まで行ったので、釧路から函館までは14系客車列車尽くしでした。
フルネームでの紹介なんですね😂
コメントありがとうございます。フルネームによる自己紹介は珍しかったですね。
国鉄末期が近づくと運転が丁寧になり、車掌アナウンスがヤケに丁重になった。車内巡回では、引きつった表情でオレンジカードの売り込み。さながら、労使紛争で国民の支持を失ったこと、組織解体のレールが敷かれた過去を悔やむかのように映ったことを、思い出しました。
コメントありがとうございます。仰る通り、国鉄末期の頃は乗務員の方も駅の窓口の方も丁寧な対応だったと思います。上層部からの指示および新会社(JR各社)に採用されるために対応を改めた等、色々と複雑な事情はあったのでしょうね………。それでもJR発足初期の頃までは一部の駅の窓口の方にはちょっと横柄な対応の方もいましたね………。
道東の人が千歳から朝イチの飛行機に乗れるし、効率よく移動出来るから今走っても需要があると思うんですけどね。
コメントありがとうございます。私も個人的に運行されていても良いとは思うのですが、現実的には設備や費用面で都市間バスには適わない様です………。
指定席、B寝台とも満席とは(゚o゚;・・・。当時はまだ鉄道の需要がそれだけ高かった事を窺わせてくれますねぇ・・・。更にビックリしたのは千歳空港(現南千歳駅)~札幌の所要時間がおよそ1時間(56分ですか!?)掛けて運転していたとは・・・(・0・)。苗穂で荷物車の解放があったんですねぇ。札幌に到着後にばらばらにそれぞれ札幌運転区と苗穂駅貨物取扱に進めていたのだとてっきり思っていましたのでσ(^◇^;)。
コメントありがとうございます。この当時夏休み期間ということもあったのでしょうが、格安の都市間バスがまだ普及していなかったことも要因だったのかもしれませんね………。私も苗穂で荷物車の切り離しで10分程度停車するとは乗車するまで知りませんでした。
滝川から先、終点札幌までは電気機関車の牽引だったのかなぁ?
コメントありがとうございます。急行まりもは石勝線経由でしたので、電気機関車での牽引はありませんでした。
いやいや石勝線ができる前でまだ富良野経由の時代!
富良野経由のまりもは1968年に狩勝に統合されて消滅しています。ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%82_(%E5%88%97%E8%BB%8A)ED76の500番台は1968年から製造されている様ですが、まりも又は狩勝に使用されていたのかは、分かりません。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84ED76%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A
@@user-kiha56-100 狩勝もまりももディーゼルのまました。
@@1sttb839 デイーゼル機関車のままだったのですね。情報ありがとうございます。
毎年、車🚗で1週間のたび湖に通った……とっても悲しい話を聞かされ涙がとまらなか想い忘れは、しない私…(。ŏ﹏ŏ)
どこの湖の話なのでしょうか………。阿寒湖ですか?
この肉声のかたはもう亡くなってるだろうなぁ
遅くなりましたがコメントありがとうございます。収録当時の乗務員さん達は今はご高齢かもしれませんが、ご健在であるといいですね。
そんなに昔じゃ無いよ(笑)
36年前ですね………。
釧路駅や札幌駅など始発駅から乗る事が夜行列車の定番ですが、一度だけ白糠から乗った事があります。
お盆前後だったので大変込み合っていましたが、なぜか帯広駅到着後自由席を覗き込んだら何席か空席があり座る事ができました。
それまではデッキに新聞を敷いて座っていました。これもまたいい思い出です。
コメントありがとうございますす。
夜行列車全盛期は、繁忙期は自由席が大混雑ということも
よくあった様ですね。
私は、まりもではありませんが、平成4年の8月に気動車(キハ400)時代の利尻に旭川から稚内まで乗車しましたが、
自由席が満杯で増結されていた
キハ56(27かも?)の運転席横側の乗務員用の補助席で
一晩過ごした事があります
@@user-kiha56-100 さん
私は、急行狩勝で滝川から釧路へ向かう途中やはり自由席満席で同じく補助席に座ったことがあります。
車内販売でオレンジジュ-スを買い席に戻って飲もうをとしたとき、偶発的事故でありますが、
たまたまペダルを踏んでしまい『落合~新得』で警笛を鳴らしてしまいました。キハ56系8両編成の時代です。
@@急行らいでん-x9x さん
実は私も平成4年8月の利尻の増結車の補助席に座った際に、
間違ってペダルを踏んでしまって警笛を鳴らしてしまいました。
あの時は非常に焦りました…(笑)
車掌氏の哀愁を帯びた語り口が夜汽車の雰囲気を盛り上げています。当マイクロフォンこと元NHKアナウンサーの中西龍氏を思い起こします。いい時代でした。
コメントありがとうございます。
中西龍氏といえば、昔放送されていたフジテレビの『鬼平犯科帳』の
ナレーションのイメージが強いですね。
たしかにこの車掌氏の語り口は声質は異なりますが、
中西氏に通ずるものがありますね。
現に国鉄の車掌は職場内教育で、車内放送の仕方についてNHKアナウンサーから指導を受けていましたね。この方のアナウンスは、とても聞き取りやすいと思います。
遅くなりましたが、コメントありがとうございます。
国鉄の車掌教育にNHKアナウンサーによる指導もあったのですね。
仰る通り、この車掌さんのアナウンスは、とても聞き取りやすく、
そして味わい深いですよね。
中学生時代、アマチュア無線技士試験の受験のため、深夜過ぎに帯広から一人B寝台で札幌に向かったことを思い出しました。懐かしいです。
コメントありがとうございます。懐かしんで頂けたのでしたら幸いでございます。現在は、深夜の帯広から列車で移動することも不可能な時代になりました。
時代の流れとはいえ、味気ないものです。
この時代の車掌さんの車内放送って、なんで素晴らしいのやろね。
哀愁が籠もっていて、声は浪曲師のようで、旅のテンションが上がりましたね。
今は自動放送ばかりで味気ない😂
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、この時代の車掌さんのアナウンスは風情がありましたよね。
自動放送は、合理化による乗務員の1列車あたりの人員削減等により、業務量増加の軽減も兼ねているものと思われるので、仕方が無いのでしょうが………。
昭和58年夏、北海道ワイド周遊券を利用しました時、札幌車掌区の車掌さんが「札幌行急行すずらんです」とアナウンス。
録音された方が結構いたみたいです。
車掌さんにスタンプ帳にサインを貰ったのも、良い思い出です。
コメントありがとうございます。
「札幌行急行まりもです」を「札幌行急行すずらんです」と
誤って放送していたということですか?
@@user-kiha56-100 さん
はい。車内一同爆笑。
あの日は釧路市の花火大会の日でした。
車掌さんは、前行路ですずらんに乗務していたのでしょうかね。
懐かしいです。
@小鳥遊あずさ さん
その様な事情だったのですね。
寝台を5輌もつないでいたのに満席とは😵
今では考えられない大繁盛ですね😌
コメントありがとうございます。
収録当時は、格安長距離夜行バスもそれほど普及していなかったので、
夜行列車にはまだまだ集客力がありましたね………。
国鉄をご利用頂きまして有り難うございますと言うアナウンスは初めて聞きました。
コメントありがとうございます。
今の時代に聞くと懐かしいアナウンスですが、
昔(国鉄時代)は当たり前の様に聞くことが出来ました。
1978年夏休みに札幌7時過ぎ→釧路まで急行狩勝号にまりも号が併結されていて、まりも号に乗ったらガラガラでした。夜行急行列車がなくなって、不便極まりないですね。
コメントありがとうございます。
1978年と言えば、まだ石勝線開業前ですが、
急行狩勝とまりもの併結列車があったのですね。
夜行列車が無くなって風情が無くなり、
つまらなくなりましたね…。
懐かしい!同年8月に20日間の日程で北海道旅行してました。
夜行も席の取りやすい上りをよく利用していました。同じ列車に乗っていたかもしれません。
コメントありがとうございます。
同年の8月に北海道旅行をされていて、まりもにも乗車されていたのですね。
私は夜行列車乗車はこの時が初めての乗車でした。
札幌からは急行ニセコに乗り換えて函館まで行ったので、
釧路から函館までは14系客車列車尽くしでした。
フルネームでの紹介なんですね😂
コメントありがとうございます。
フルネームによる自己紹介は珍しかったですね。
国鉄末期が近づくと運転が丁寧になり、車掌アナウンスがヤケに丁重になった。
車内巡回では、引きつった表情でオレンジカードの売り込み。
さながら、労使紛争で国民の支持を失ったこと、組織解体のレールが敷かれた過去を悔やむかのように映ったことを、思い出しました。
コメントありがとうございます。
仰る通り、国鉄末期の頃は乗務員の方も駅の窓口の方も
丁寧な対応だったと思います。
上層部からの指示および新会社(JR各社)に採用されるために
対応を改めた等、色々と複雑な事情はあったのでしょうね………。
それでもJR発足初期の頃までは一部の駅の窓口の方には
ちょっと横柄な対応の方もいましたね………。
道東の人が千歳から朝イチの飛行機に乗れるし、効率よく移動出来るから今走っても需要があると思うんですけどね。
コメントありがとうございます。
私も個人的に運行されていても良いとは思うのですが、
現実的には設備や費用面で都市間バスには適わない様です………。
指定席、B寝台とも満席とは(゚o゚;・・・。当時はまだ鉄道の需要がそれだけ高かった事を窺わせてくれますねぇ・・・。
更にビックリしたのは千歳空港(現南千歳駅)~札幌の所要時間がおよそ1時間(56分ですか!?)掛けて運転していたとは・・・(・0・)。苗穂で荷物車の解放があったんですねぇ。
札幌に到着後にばらばらにそれぞれ札幌運転区と苗穂駅貨物取扱に進めていたのだとてっきり思っていましたのでσ(^◇^;)。
コメントありがとうございます。
この当時夏休み期間ということもあったのでしょうが、
格安の都市間バスがまだ普及していなかったことも要因
だったのかもしれませんね………。
私も苗穂で荷物車の切り離しで10分程度停車するとは
乗車するまで知りませんでした。
滝川から先、終点札幌までは電気機関車の牽引だったのかなぁ?
コメントありがとうございます。
急行まりもは石勝線経由でしたので、
電気機関車での牽引はありませんでした。
いやいや石勝線ができる前でまだ富良野経由の時代!
富良野経由のまりもは1968年に狩勝に統合されて消滅しています。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%82_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
ED76の500番台は1968年から製造されている様ですが、まりも又は
狩勝に使用されていたのかは、分かりません。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84ED76%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A
@@user-kiha56-100 狩勝もまりももディーゼルのまました。
@@1sttb839 デイーゼル機関車のままだったのですね。
情報ありがとうございます。
毎年、車🚗で1週間のたび湖に通った……とっても悲しい話を聞かされ涙がとまらなか想い忘れは、しない私…(。ŏ﹏ŏ)
どこの湖の話なのでしょうか………。阿寒湖ですか?
この肉声のかたはもう亡くなってるだろうなぁ
遅くなりましたがコメントありがとうございます。
収録当時の乗務員さん達は今はご高齢かもしれませんが、
ご健在であるといいですね。
そんなに昔じゃ無いよ(笑)
36年前ですね………。