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貴重な音源ありがとうございます。松前町に住んでいた者です、子供の頃の記憶だと木古内駅にはまだ立ち売りの方がおられて、ジュースを買ってもらい汽車の窓下にあった栓抜きで空けたものです、当時函館駅から乗る時は座るために走って乗ってました、父親と二人木古内駅過ぎても立っていた事もありました。
松前から函館まで列車で1本とはいえ、子供心には日常を離れた「汽車旅」ですね。様々な情景が凝縮されていることと思います。遠い昔の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
貴重な音源の公開、本当に感謝です。小生、道内のほとんどの路線、今は亡き路線を含めて乗車しました。残念ながら、この江差、松前線に乗車したことがありません。この音源を聞いて乗車しておけばよかったと、しみじみ思い出しております。本当に貴重な音源です。汽車が走っていたことの証拠ですね。
道外からの旅行者にとっては青函連絡船を降りて函館に着けば、江差や松前に寄り道するよりも、とにかく札幌方面に行きたくなってしまう衝動は抑えられませんよね。そのため江差線、松前線に乗るには、一度札幌方面に行ってから函館に舞い戻ってくるような作戦を立てました。木古内~江差はJRになってからも暫くは残っていたので、その後も何度か乗ることができました。駅の設備も縮小されてしまいましたが、急行が走っていた元気な頃に思いを馳せながら・・・
連絡船があった頃の函館は、様々な優等列車でさぞ賑わっていたんでしょうねぇ。急行えさし・松前のようなローカル急行から、本線筋の特別急行北斗や普通急行ニセコ・すずらんとか、本当に魅力的な時代だったんですねぇ。
当時の函館駅、華やかな優等列車やローカル列車の発着で賑わっていました。連絡船がなくなってからも北斗星など本州直通列車の機関車交換や方向転換、北斗と白鳥の連絡などで賑わっていましたね。新幹線が札幌まで延伸された後はどう変わってしまうのでしょう・・・
渡島大野が地図に残っている事に安心する。
私が小学生だった頃、40数年前は他にも急行、宗谷、瀬棚とかも走ってました宗谷は札幌を通らない迷列車でした
この頃の道内移動はDC急行が主流で特急は少数派だったと思います。各方面に乗り継ぎできて、どこに行くにも安心して旅行できたものです。それは本州方面も同様で連絡船と夜行列車でいつでも移動できました。そんな時代の車内放送が懐かしいです。
急行列車は確かに気軽に乗れて便利でした。もっとも周遊券を持っていれば、急行券を買わずに済んだということもありますが・・・それはさておき、今より路線も多く、「えさし・松前」のようにローカル線を走る急行もあって楽しい時代でした。遠い昔の旅を懐かしんで頂けましたら嬉しいです・
何時もありがとうございます。音を聴いた感じ、キハ40初期の100番代でしょうか、ガラガラとしたエンジン音が懐かしいですね、非力故に鈍い発車加速も浮かんできます。現在も道南いさりび鉄道で運用してるキハ40ですが、嘗ての江差線と松前線に想いを馳せて乗るのも良さそうで・・
記憶が定かではありませんが、乗ったのはキハ40だったと思います。04:57の写真から、旧塗装のキハ22を挟み、先頭はバス窓のキハ21のようですね。
導入まもないピカピカの新車だと思います!
貴重な音源公開ありがとうございます。(以前の別の動画のコメントと一部重複しますが)小学校卒業まで江差線の七重浜駅の近所に住んでおり、当時の実家の裏は線路でした。貨物、客車、気動車等時間帯によってパターンが決まっていましたので、時計代わりにもなっていましたね。自分が幼稚園児か小学校1年生ぐらいの頃に14時台に七重浜駅を通過して行く函館行の急行列車(恐らくえさし4号、松前2号だったのでしょう)を七重浜駅裏の空き地から何度か見かけた記憶があります。その際に列車は減速しながら輪の様なものを駅ホームの棒にひっかけてから再度加速して行き、列車が去った後に駅から職員の方が来て、その輪の様なものを回収して行く光景が不思議でしたが、タブレット交換を行っていたと理解したのは、もう少し後になってからでしたね。但し、タブレットをキャッチするところは見た記憶がありませんでしたが………。その急行えさし・松前にはイレギュラーだったのかもしれませんが、急行型(キハ56系)が連結された運用もあった様な気がします………。
沿線にお住まいだった方にご視聴頂けて光栄です。子供の頃の鉄道の印象って妙に鮮明に覚えているものですね。新たな記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
5:03 通過列車を監視する駅員さんの立ち姿も凛々しく。木古内-上ノ国間の所要時間約1時間で、ローカル線急行とは思えない駅間隔は北海道らしさか。
タブレットの受け渡しと言う大事な仕事がありましたからね。雪が降りしきる夜の駅でも直立不動で見送っていたものです。高倉健さんが演じたぽっぽやさんみたいに・・・
先週、さる方が道南いさりび鉄道の乗車記を上げていたので更に隔世の感があります😀松前線はいい眺めだったんだろうなあ。もはや想像の域でしかありません🤔
松前線に乗っていたら、車窓から青函トンネル工事現場の地上部分を一瞬だけ見ることができました。その時は青函トンネルの開業など遠い未来のことと思いましたが、今や新幹線が通る時代に、確かに隔世の感がありますね。
函館駅の情景いいですね。また途中から始まって途中で終わる本物のオルゴールのアルプスの牧場今の特急は電子音で流していますが、もう一度キハ22で聞いてみたいです。昔は急行では6両だったんですね。キハ22やキハ40の時代、エンジンが非力なので落ち葉の時期や積雪時は2両になることは知っていましたが、それだけの需要があったということでしょう。JRになってから乗ったときは1両でしたので隔世の感がありました。函館の次が上磯、木古内、上ノ国、江差とは本当にビジネス列車ですね。松前が沿岸の町を回っていくのとは対照的に、峠を越えれば江差だからですね。おそらく檜山支庁のあった江差は、函館に行く頻度が高かったのでしょう。今の状況を考えると函館出張は1日仕事か、泊り業務だったのかもしれませんが、ビジネス需要が支えていたのだと思います。そういったことを思い起こされるのも貴重な音源と写真のおかげだと思います。ありがとうございます。
木古内~松前、木古内~江差、松前線の方が乗る人が多かったそうですが、路線の名称で明暗が分かれてしまいました。そんなこともすでに遠い昔のことになってしまいました。JRになってからもしばらくは残っていた木古内~江差ですが、こちらも廃止になってしまいました。江差へ行かない「江差線」として存続していましたが、やがて道南いさりび鉄道へと変わり「江差線」の路線名も消えていきました。様々な歴史を刻んできた江差線と松前線。現在、道南いさりび鉄道の経営も苦しいそうですね。この先どんな歴史が待ち受けているのでしょう・・・それから木古内にあった「駅前飯店 急行」。通称急行食堂も移転して営業していましたが閉店してしまいました。ここのやきそば、一度だけ食べたことがあります。
急行列車でもキハ58系(北海道なのでキハ56)ではなかったのですね。また、急行松前が知内町の中心にあった渡島知内駅に停まらないのは意外に感じました。
確かに渡島知内通過は意外な気もします。道外からの旅行者には理由を知る由もありませんが・・・道内のローカル急行にはキハ22が結構ありました。周遊券所持で急行券を買わずに済んだものの、正規の急行料金を払って乗るには高かったですね。その一方で使わない記念急行券を買ったりもしましたが・・・
木古内から1時間近くもノンストップなんですね。表定速度41km!こんな列車に揺られてみたいです。
桂岡駅に運転停車がありますが、ローカル線の急行にしては思い切って通過していますね。
ずいぶんゆったりとしたスジですねw松前は江戸時代からある城下町なので一度行ってみたいですが、鉄道で行けないのは残念です
同じくです。いつかバスで松前を訪れてみたいと思っておりますが、なかなか実現しません。
いつもありがとうございます。函館についたら、小樽、釧路、稚内。足が向きませんでした。
函館からは稚内行、網走行、釧路行、札幌行・・・と豊富な行先。なかなか江差・松前行には乗りませんね。
5:02辺りの、オバサン達が「えーっ、」と、長時間停車に驚く声が...😂🎉
キハ21.キハ22が中心の編成でした
松前線には乗車しましたが、江差線には乗れずじまいでした。江差線廃線後の転換バス廃止のニュースを最近知りましたが、函館まで遠い町、どうなるのでしょうか。この頃のローカル線は列車の本数も多く、夜22時,23時台まで道内隅々運転されていて、鉄道主役の時代でしたね。函館行き列車の「乗船名簿」の案内はあるあるでした。車内放送にあった摩周丸には2回乗船しました。昭和55年ですとキハ22からキハ40へ移行期かと思いますが、私は昭和56年に九州・旧矢部線乗車時、登場直後のキハ40に出くわしました際、タラコ色の塗装のにおいがきつくて嫌になりました。今やキハ40も風前の灯火、懐かしく思います。
いつも旅の思い出を投稿していただきありがとうございます。楽しく拝見しております。江差線の木古内~江差が廃止になったのは2014年(平成26年)のことで、それほど遠くない過去でしたから、乗れなかったのは、ひょっとして松前線の方かな・・・と勝手に想像しています。江差線の車内で連絡船の案内、乗船名簿の配布など・・・時代を感じます。それにしても、鉄道から転換されたバスも次第になくなっていく時代になってしまったのですね。
函館駅の美しい音色の発車ベルの後に聞こえる声はお見送りなのでしょうか? 最近そういう光景を駅で見ることがめっきり少なくなったような気がします...概要欄に書かれていましたが、非常に心配しておりました。またあげていただいて感謝です...
確かに子供が声をあげての見送り風景は少なくなりましたね。窓が開かない車両が増えましたし。録音している時は特に感じなかったのですが、年月を経て聞いてみると子供の声もいい味を出しているかと…
えさし/松前どちらかといえばキハ22イメージ
確かにそうですね。道内の主力車両がキハ22からキハ40に移っていく頃でした。そのキハ40も数を減らし、今や道南いさりび鉄道のキハ40が貴重になってしまいました。
その当時、函館にはキハ22よりもキハ21の方が多く配置されていたのでキハ21もよく連結されていました。また、キハ23の北海道版キハ24が10両製造されたうち6両が函館を離れたことがなくキハ21、キハ22に混じって急行に連結されていました。キハ40は函館の配置が遅かったためか急行に連結されることが少なかったように思われます...
急行宗谷さま。動画視聴が遅れました、申し訳ございません。今回は急行えさし号と併結の急行松前号ですね。函館駅出発時刻が9時30分という事で、札幌方面からの接続よりは函館市内や青函連絡船との接続便を重視した急行列車設定でしょうか?停車駅も江差線木古内駅までは速達性を重視した停車駅設定で上磯駅のみ、五稜郭駅や渡島当別駅にも停車しない徹底振りですね。木古内駅以遠は、江差線も松前線も主要駅停車でお客さんを拾う設定になっているようです。江差駅停車中にBGMで掛かっていたのは民謡の江差追分の前唄でしょうか?その歌詞の一部に、〽沖はしけだよ船頭さん 今宵一夜で話がつきぬネ 明日の出船をのばしゃんせ♫とありますから、奥尻島航路の厳しさが忍ばれます。上り列車も同じ停車駅で帰ってくる設定で、函館駅では青函連絡船接続の第8便と、こちらは特急北斗号や急行ニセコ号との接続列車がございますね。特急北斗号は時刻表を読んでいた記憶を掘り起こすと、まだキハ82系気動車特急で食堂車キシ80が連結されていたと記憶しますので定番のカレーライスやコーヒー紅茶の他に海鮮食材が使われた北海定食やサーモンフライ定食を食べられたのでしょうね?そもそもまだ特急自由席にも特急券が必要だった(と記憶します)周遊券族には夢のまた夢でした。急行えさし号松前号同様に、北海道均一周遊券や函館・大沼ミニ周遊券で乗車可能だった、急行ニセコ3号はまだ蒸気機関車時代と同様の客車列車で、恐らくはDD51牽引の旧客車両連結でしょうか?以前ご発表の録音素材を利用された動画よりもより詳しい動画制作発表ありがとうございました。その時代に戻った思いがいたします。次の動画発表をお待ち致していますが、ご無理はなさらずにご自分のペースでどうぞ。
公開は昨日の午後でしたから、「視聴が遅れた」ということは決してありません。何しろ前作の公開から大分開いてしまいましたので、チャンネルの存在自体を忘れずにご視聴頂けたことが何より嬉しいです。UA-camご視聴者からは沢山の暖かいコメントを頂戴しているのに、何年ぶりかで会った、鉄道に全く興味がない高校時代の友人にUA-camをやっていることを話したら、後日「これでいくら収入があるの?」という方向違いの反応にがっかり。一時は創作意欲までなくなってしまいました。ブランクがあったのは猛暑に加え、そんなことがあったためです。UA-cam側が勝手にCMを入れていますが、勿論収入などなく、こうしてご視聴者から頂戴するコメントを拝見するのが何より楽しみでやっております。横道にそれた話をしてすみません。この「えさし・松前」がどんな思惑があって設定されていたかはわかりませんが、3両+3両という過剰な編成は、車両を送り込む目的があったようです。江差到着後に切り離され、1両だったか2両だったか忘れてしまいましたが折り返しの「えさし4号」は函館へ行く人で結構な混みようでした。札幌方面に乗り継ぐのにも便利なように設定されていたのだと思います。江差駅に流れる唄は音量が控えめで歌詞がよく聞き取れませんが、いい雰囲気だと思って録音いたしました。183系が「おおぞら」に投入され始めたた頃で、時刻表には「新型車両の時は食堂車なし」の記載もあります。まだ82系のままで食堂車がある「北斗」、旧型客車の「ニセコ」・・・そんな遠い昔に思いを馳せて頂けましたら嬉しいです。
貴重な音源ありがとうございます。松前町に住んでいた者です、子供の頃の記憶だと木古内駅にはまだ立ち売りの方がおられて、ジュースを買ってもらい汽車の窓下にあった栓抜きで空けたものです、当時函館駅から乗る時は座るために走って乗ってました、父親と二人木古内駅過ぎても立っていた事もありました。
松前から函館まで列車で1本とはいえ、子供心には日常を離れた「汽車旅」ですね。様々な情景が凝縮されていることと思います。遠い昔の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
貴重な音源の公開、本当に感謝です。小生、道内のほとんどの路線、今は亡き路線を含めて乗車しました。残念ながら、この江差、松前線に乗車したことがありません。この音源を聞いて乗車しておけばよかったと、しみじみ思い出しております。本当に貴重な音源です。汽車が走っていたことの証拠ですね。
道外からの旅行者にとっては青函連絡船を降りて函館に着けば、江差や松前に寄り道するよりも、とにかく札幌方面に行きたくなってしまう衝動は抑えられませんよね。そのため江差線、松前線に乗るには、一度札幌方面に行ってから函館に舞い戻ってくるような作戦を立てました。
木古内~江差はJRになってからも暫くは残っていたので、その後も何度か乗ることができました。駅の設備も縮小されてしまいましたが、急行が走っていた元気な頃に思いを馳せながら・・・
連絡船があった頃の函館は、様々な優等列車でさぞ賑わっていたんでしょうねぇ。急行えさし・松前のようなローカル急行から、本線筋の特別急行北斗や普通急行ニセコ・すずらんとか、本当に魅力的な時代だったんですねぇ。
当時の函館駅、華やかな優等列車やローカル列車の発着で賑わっていました。
連絡船がなくなってからも北斗星など本州直通列車の機関車交換や方向転換、北斗と白鳥の連絡などで賑わっていましたね。新幹線が札幌まで延伸された後はどう変わってしまうのでしょう・・・
渡島大野が地図に残っている事に安心する。
私が小学生だった頃、40数年前は
他にも急行、宗谷、瀬棚とかも走ってました
宗谷は札幌を通らない迷列車でした
この頃の道内移動はDC急行が主流で特急は少数派だったと思います。
各方面に乗り継ぎできて、どこに行くにも安心して旅行できたものです。
それは本州方面も同様で連絡船と夜行列車でいつでも移動できました。
そんな時代の車内放送が懐かしいです。
急行列車は確かに気軽に乗れて便利でした。もっとも周遊券を持っていれば、急行券を買わずに済んだということもありますが・・・
それはさておき、今より路線も多く、「えさし・松前」のようにローカル線を走る急行もあって楽しい時代でした。遠い昔の旅を懐かしんで頂けましたら嬉しいです・
何時もありがとうございます。
音を聴いた感じ、キハ40初期の100番代でしょうか、ガラガラとしたエンジン音が懐かしいですね、非力故に鈍い発車加速も浮かんできます。
現在も道南いさりび鉄道で運用してるキハ40ですが、嘗ての江差線と松前線に想いを馳せて乗るのも良さそうで・・
記憶が定かではありませんが、乗ったのはキハ40だったと思います。
04:57の写真から、旧塗装のキハ22を挟み、先頭はバス窓のキハ21のようですね。
導入まもないピカピカの新車だと思います!
貴重な音源公開ありがとうございます。
(以前の別の動画のコメントと一部重複しますが)小学校卒業まで江差線の七重浜駅の近所に住んでおり、
当時の実家の裏は線路でした。貨物、客車、気動車等時間帯によってパターンが決まっていましたので、
時計代わりにもなっていましたね。
自分が幼稚園児か小学校1年生ぐらいの頃に14時台に七重浜駅を通過して行く函館行の急行列車
(恐らくえさし4号、松前2号だったのでしょう)を七重浜駅裏の空き地から何度か見かけた記憶があります。
その際に列車は減速しながら輪の様なものを駅ホームの棒にひっかけてから再度加速して行き、
列車が去った後に駅から職員の方が来て、その輪の様なものを回収して行く光景が不思議でしたが、
タブレット交換を行っていたと理解したのは、もう少し後になってからでしたね。
但し、タブレットをキャッチするところは見た記憶がありませんでしたが………。
その急行えさし・松前にはイレギュラーだったのかもしれませんが、急行型(キハ56系)が連結された運用も
あった様な気がします………。
沿線にお住まいだった方にご視聴頂けて光栄です。
子供の頃の鉄道の印象って妙に鮮明に覚えているものですね。新たな記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
5:03 通過列車を監視する駅員さんの立ち姿も凛々しく。
木古内-上ノ国間の所要時間約1時間で、ローカル線急行とは思えない駅間隔は北海道らしさか。
タブレットの受け渡しと言う大事な仕事がありましたからね。雪が降りしきる夜の駅でも直立不動で見送っていたものです。高倉健さんが演じたぽっぽやさんみたいに・・・
先週、さる方が道南いさりび鉄道の乗車記を上げていたので更に隔世の感があります😀
松前線はいい眺めだったんだろうなあ。もはや想像の域でしかありません🤔
松前線に乗っていたら、車窓から青函トンネル工事現場の地上部分を一瞬だけ見ることができました。
その時は青函トンネルの開業など遠い未来のことと思いましたが、今や新幹線が通る時代に、確かに隔世の感がありますね。
函館駅の情景いいですね。
また途中から始まって途中で終わる本物のオルゴールのアルプスの牧場
今の特急は電子音で流していますが、もう一度キハ22で聞いてみたいです。
昔は急行では6両だったんですね。キハ22やキハ40の時代、エンジンが非力なので落ち葉の時期や積雪時は2両になることは知っていましたが、それだけの需要があったということでしょう。
JRになってから乗ったときは1両でしたので隔世の感がありました。
函館の次が上磯、木古内、上ノ国、江差とは本当にビジネス列車ですね。松前が沿岸の町を回っていくのとは対照的に、峠を越えれば江差だからですね。
おそらく檜山支庁のあった江差は、函館に行く頻度が高かったのでしょう。
今の状況を考えると函館出張は1日仕事か、泊り業務だったのかもしれませんが、ビジネス需要が支えていたのだと思います。
そういったことを思い起こされるのも貴重な音源と写真のおかげだと思います。
ありがとうございます。
木古内~松前、木古内~江差、松前線の方が乗る人が多かったそうですが、路線の名称で明暗が分かれてしまいました。そんなこともすでに遠い昔のことになってしまいました。
JRになってからもしばらくは残っていた木古内~江差ですが、こちらも廃止になってしまいました。
江差へ行かない「江差線」として存続していましたが、やがて道南いさりび鉄道へと変わり「江差線」の路線名も消えていきました。
様々な歴史を刻んできた江差線と松前線。現在、道南いさりび鉄道の経営も苦しいそうですね。この先どんな歴史が待ち受けているのでしょう・・・
それから木古内にあった「駅前飯店 急行」。通称急行食堂も移転して営業していましたが閉店してしまいました。ここのやきそば、一度だけ食べたことがあります。
急行列車でもキハ58系(北海道なのでキハ56)ではなかったのですね。
また、急行松前が知内町の中心にあった渡島知内駅に停まらないのは意外に感じました。
確かに渡島知内通過は意外な気もします。道外からの旅行者には理由を知る由もありませんが・・・
道内のローカル急行にはキハ22が結構ありました。周遊券所持で急行券を買わずに済んだものの、正規の急行料金を払って乗るには高かったですね。その一方で使わない記念急行券を買ったりもしましたが・・・
木古内から1時間近くもノンストップなんですね。表定速度41km!こんな列車に揺られてみたいです。
桂岡駅に運転停車がありますが、ローカル線の急行にしては思い切って通過していますね。
ずいぶんゆったりとしたスジですねw
松前は江戸時代からある城下町なので一度行ってみたいですが、鉄道で行けないのは残念です
同じくです。いつかバスで松前を訪れてみたいと思っておりますが、なかなか実現しません。
いつもありがとうございます。
函館についたら、小樽、釧路、稚内。
足が向きませんでした。
函館からは稚内行、網走行、釧路行、札幌行・・・と豊富な行先。なかなか江差・松前行には乗りませんね。
5:02辺りの、オバサン達が
「えーっ、」と、長時間停車に驚く声が...😂🎉
キハ21.キハ22が中心の編成でした
松前線には乗車しましたが、江差線には乗れずじまいでした。江差線廃線後の転換バス廃止のニュースを最近知りましたが、函館まで遠い町、どうなるのでしょうか。
この頃のローカル線は列車の本数も多く、夜22時,23時台まで道内隅々運転されていて、鉄道主役の時代でしたね。函館行き列車の「乗船名簿」の案内はあるあるでした。車内放送にあった摩周丸には2回乗船しました。
昭和55年ですとキハ22からキハ40へ移行期かと思いますが、私は昭和56年に九州・旧矢部線乗車時、登場直後のキハ40に出くわしました際、タラコ色の塗装のにおいがきつくて嫌になりました。今やキハ40も風前の灯火、懐かしく思います。
いつも旅の思い出を投稿していただきありがとうございます。楽しく拝見しております。
江差線の木古内~江差が廃止になったのは2014年(平成26年)のことで、それほど遠くない過去でしたから、乗れなかったのは、ひょっとして松前線の方かな・・・と勝手に想像しています。
江差線の車内で連絡船の案内、乗船名簿の配布など・・・時代を感じます。
それにしても、鉄道から転換されたバスも次第になくなっていく時代になってしまったのですね。
函館駅の美しい音色の発車ベルの後に聞こえる声はお見送りなのでしょうか? 最近そういう光景を駅で見ることがめっきり少なくなったような気がします...
概要欄に書かれていましたが、非常に心配しておりました。またあげていただいて感謝です...
確かに子供が声をあげての見送り風景は少なくなりましたね。窓が開かない車両が増えましたし。
録音している時は特に感じなかったのですが、年月を経て聞いてみると子供の声もいい味を出しているかと…
えさし/松前
どちらかといえばキハ22イメージ
確かにそうですね。道内の主力車両がキハ22からキハ40に移っていく頃でした。
そのキハ40も数を減らし、今や道南いさりび鉄道のキハ40が貴重になってしまいました。
その当時、函館にはキハ22よりもキハ21の方が多く配置されていたのでキハ21もよく連結されていました。また、キハ23の北海道版キハ24が10両製造されたうち6両が函館を離れたことがなくキハ21、キハ22に混じって急行に連結されていました。キハ40は函館の配置が遅かったためか急行に連結されることが少なかったように思われます...
急行宗谷さま。動画視聴が遅れました、申し訳ございません。今回は急行えさし号と併結の急行松前号ですね。
函館駅出発時刻が9時30分という事で、札幌方面からの接続よりは函館市内や青函連絡船との接続便を重視した急行列車設定でしょうか?
停車駅も江差線木古内駅までは速達性を重視した停車駅設定で上磯駅のみ、五稜郭駅や渡島当別駅にも停車しない徹底振りですね。
木古内駅以遠は、江差線も松前線も主要駅停車でお客さんを拾う設定になっているようです。江差駅停車中にBGMで掛かっていたのは民謡の江差追分の前唄でしょうか?その歌詞の一部に、〽沖はしけだよ船頭さん 今宵一夜で話がつきぬネ 明日の出船をのばしゃんせ♫とありますから、奥尻島航路の厳しさが忍ばれます。
上り列車も同じ停車駅で帰ってくる設定で、函館駅では青函連絡船接続の第8便と、こちらは特急北斗号や急行ニセコ号との接続列車がございますね。特急北斗号は時刻表を読んでいた記憶を掘り起こすと、まだキハ82系気動車特急で食堂車キシ80が連結されていたと記憶しますので定番のカレーライスやコーヒー紅茶の他に海鮮食材が使われた北海定食やサーモンフライ定食を食べられたのでしょうね?そもそもまだ特急自由席にも特急券が必要だった(と記憶します)周遊券族には夢のまた夢でした。
急行えさし号松前号同様に、北海道均一周遊券や函館・大沼ミニ周遊券で乗車可能だった、急行ニセコ3号はまだ蒸気機関車時代と同様の客車列車で、恐らくはDD51牽引の旧客車両連結でしょうか?
以前ご発表の録音素材を利用された動画よりもより詳しい動画制作発表ありがとうございました。その時代に戻った思いがいたします。次の動画発表をお待ち致していますが、ご無理はなさらずにご自分のペースでどうぞ。
公開は昨日の午後でしたから、「視聴が遅れた」ということは決してありません。
何しろ前作の公開から大分開いてしまいましたので、チャンネルの存在自体を忘れずにご視聴頂けたことが何より嬉しいです。
UA-camご視聴者からは沢山の暖かいコメントを頂戴しているのに、何年ぶりかで会った、鉄道に全く興味がない高校時代の友人にUA-camをやっていることを話したら、後日「これでいくら収入があるの?」という方向違いの反応にがっかり。一時は創作意欲までなくなってしまいました。ブランクがあったのは猛暑に加え、そんなことがあったためです。
UA-cam側が勝手にCMを入れていますが、勿論収入などなく、こうしてご視聴者から頂戴するコメントを拝見するのが何より楽しみでやっております。横道にそれた話をしてすみません。
この「えさし・松前」がどんな思惑があって設定されていたかはわかりませんが、3両+3両という過剰な編成は、車両を送り込む目的があったようです。
江差到着後に切り離され、1両だったか2両だったか忘れてしまいましたが折り返しの「えさし4号」は函館へ行く人で結構な混みようでした。札幌方面に乗り継ぐのにも便利なように設定されていたのだと思います。
江差駅に流れる唄は音量が控えめで歌詞がよく聞き取れませんが、いい雰囲気だと思って録音いたしました。
183系が「おおぞら」に投入され始めたた頃で、時刻表には「新型車両の時は食堂車なし」の記載もあります。
まだ82系のままで食堂車がある「北斗」、旧型客車の「ニセコ」・・・そんな遠い昔に思いを馳せて頂けましたら嬉しいです。