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1M~1便~1D系統はあこがれで、上野の地平ホームで「ギョームレンラク。トーロクバン、イチエム、セッキン。」を聞きました。1M~1便までは乗りましたが、函館の朝市が楽しみで1Dは乗っていません。その返しの2D~2便~2Mは意識したことがなかったのですが、人によってはこちらが「往き」 で思い出があるのですよね。釧路~函館の方が青森~上野よりも時間がかかっていること、青森で「みちのく」と「白鳥」の同時発車、3分後に「はつかり」の続行と、熱い時代があったんだと改めて思いました。ありがとうございました。
鉄道連絡船を介して全国の広域輸送を担っていた国鉄。新聞ではなにかと国鉄叩きの記事も多かった時代ですが、やはり頼もしかったです。
ありがとうございます。臨場感があふれる素晴らしい動画です。当時の時刻表や食堂のメニューがいいですね。幼い頃母に手を引かれて母の故郷である湧別町へ行った時のことを思い出します。早朝函館に着いた連絡船から列車に乗り換えて、湧別に着いた頃には暗くなっていました。雪が積もる夜の中湧別駅に、材木を載せた黒い貨車が留まっていたことを覚えています。昭和56年頃のことです。今では中湧別の駅も、手を引いてくれた母も私の手の届かないところへ行ってしまいました。
子供の時の記憶って妙に鮮明に思い出せることがありますね。中湧別駅での情景、お母様の思い出と共に印象に残っていることと思います。このスライドショーを見て、様々な記憶がよみがえりましたら嬉しいです。コメントを拝見させて頂き、わたしも中湧別駅での情景が浮かぶようです。思い出の投稿を有難うございます。
貴重な音源の配信ありがとうございます。北海道が元気だった時代、また国鉄も元気だった時代の特急は本当に風格がありました。拝聴させていただき、心が癒やされました。
有難うございます。飛行機や自動車が台頭し、鉄道が下降気味になり始めた頃でしたが、まだまだ元気がありました。時代は変りましたが、遠い昔を思い出して頂けましたら嬉しいです。
@@急行-宗谷様 あらためて聴いています。この車掌さんの、低音が効いた聞き取りやすいアナウンスは本当に心地よいです。まるで昔のNHKのアナウンサーみたいな声ですね。
@@a-ki876 様。あらためてのご視聴とコメント有難うございます。やはり特急車両は急行車両に比べて、放送装置も良いのかなと思います。マイクかスピーカーかアンプか・・・詳しいことはわかりませんが・・・
昔の特急は停車駅が少なかった事を思いながら聞いていましたが、登別や洞爺など「観光重要のある駅は止まるんだな」と思っていると洞爺の次が函館で「お!」となりました
@@user-tabiichiro様南千歳(当時は、新千歳空港でしたか?)伊達紋別、長万部、八雲、森、大沼公園(現在は、新函館北斗駅と、五稜郭もですね)は「北斗」の持ち場ですね。余談ですが、私が子供の頃と比べると「北斗」の停車駅も、かなり増えましたね。五稜郭、新函館北斗駅、白老(一部)新札幌と…記憶違いありましたら、すみません。
改めて聞くと、停車駅の少なさが、1時間以上のノンストップが複数あります。帯広から滝川は2時間40分以上。洞爺の次が函館で2時間ノンストップ。長万部も森も通過。まさに「特別急行」ですね。風格があります。運転手さんの疲労も相当だったでしょう。1983年秋に北海道を旅行しました(周遊券でした)が、駅弁がどこも500円。現在は1000円で買えればかなり安い方。食堂車のメニューを見ると、結構「いい値段」であったことがわかります。学生の私にはぜいたくでした。カレーライスとコーヒーくらいは食べた記憶があります。あらためて、アップありがとうございました。
再度のご視聴とコメント有難うございます。当時、長距離を走る特急は停車駅を絞り、特急が通過する駅は急行がカバーしていた感じですね。確かに食堂車は諸物価に比べて高かった印象ですが、現代のように便利な時代になる前は夜間など、下車後に食事ができない街も多く、食堂車にも一定の需要があったそうですね。この時は183系の登場で「食堂車がなくなる」との情報があったので、それを惜しんで利用してみました。周遊券の旅でしたので、食堂車よりも座席で駅弁の方が自分には似合っているなと感じました。
今のチマチマと停車する特急とは比較にならない間隔の停車駅ですね。食堂も備えた長大編成といいこれぞ特別急行というものです。
現代の特急は、急行を廃止して、急行の停車駅を引き継いだ感じですね。
13両編成!食堂車にグリーン車2両。最高ですね。素晴らしい音源でした。
有難うございます。鉄道の全盛期を少し過ぎていたとはいえ、まだまだ華やかな時代でした。
まさに特急列車らしいアナウンスが素晴らしいですね国鉄型特急列車はとにかく全て感動と栄光のスーパースターだね
特急列車はたまにしか乗れませんでしたので、赤とクリームの車体の色は憧れでした。
列車番号2D、本州連絡の名門特別急行列車でした。キロ2輌まさに壮観な出で立ち。残念ながら、札幌から函館迄しか乗車した事がありません。日本食堂…懐かしいですよ。ハムサラダにビールが定番だったかな。最盛期は、1号車~3号車が札幌から連結され、堂々の13輌でした。当時の札幌駅1番ホーム懐かしい。貴重な記録ありがとうございました。
食堂車の思い出は皆様お持ちなのですね。懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。グリーン車2両に食堂車を含めて13両編成なんて、今思うと夢のようですね。
2D ー2便ー2MDC時代からのはつかりに接続する当時は札幌ー上野間最速の乗り継ぎダイヤでしたね。函館では乗客のほとんどが連絡船に乗り継いでいた感じでした。 2Dおおぞらを補完していた山線経由の12D北海も忘れないで欲しいです。
車掌さんの次の停車駅までの所要時間がとても大変分かりやすかったです。他の列車にも参考になるといいですね、また、特急おおぞら号の編成は1号車から3号車がなく4号車から13号車までの10両編成になっている事、また、キハ80系82型特急形気動車で運転されていた事から7両基本編成と3両付属編成にグリーン車キロ80形が連絡されている事ですね、この映像は石勝線が開通する前に釧路から根室本線を通って滝川まで狩勝峠を越えていた時の貴重な映像を大変ありがとうございました。また、石勝線開通前の特急おおぞら号は釧路から函館まで根室本線、函館本線、千歳線、室蘭本線経由で10時間あまりを結んでいてこの映像に登場してくる特急おおぞら6号は終着の函館から青函連絡船を乗り継いで青森から4時50分発の上野行き特急みちのく号と大阪行き特急白鳥号に連絡していました。また、編成は釧路を出る時は13号車が先頭になっていますが途中の札幌で進行方向が変わり1号車から3号車の3両を増結して13両編成となって1号車が先頭になって終着の函館に向かいます。以上、
16分間の旅行ありがとうございます。90年代に札幌にいて、おおぞら何回も乗りましたが、石勝線経由でした。これだけ宣伝されると、食堂車行きたくなりますね!
食堂車に乗っておきたくて自由席特急券を奮発して乗ったようなものでした。できるだけコンパクトに編集したつもりですが、それでも16分を超えてしましました。長距離列車の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
新得、富良野通過がしぶい。特別な感じですね女性販売員さんの声きいていたら、ひさしぶりに黄色いハンカチを観たくなりました
北海道だけではなく、車内販売は各地で縮小されてしまいましたね。確かに駅構内での買い物は随分便利になりましたし、乗車時間も短くなりましたからね・・・
私が小学生の頃これに乗り連絡船経由で東室蘭から乗車しました。新潟の叔母の家に夏休みに出かけて初めての特急と真夜中の連絡船 おおぞらはエアサスでポイント通過の時や線路のつなぎ目がガタンとせず不思議な感覚を今でもあります。そしてクーラーが涼しくて何もかも新鮮でした。🚈💺
当時夏に北海道を訪れたことはなく、気が付きませんでしたが、そう言えば急行には冷房がなかったのですね。特急車両以外ではまだ冷房車が少ない時代でした。
何時も貴重な音源配信して頂き、ありがとうございます😊石勝線開業前の食堂車付き長大編成函館~釧路間運用おおぞらも貴重ですね。やはり女性乗務員アナウンスのイントネーションも古き良き昭和を感じます😌
ご視聴とコメント有難うございます。現在は札幌~釧路に短縮され、編成も短くなってしまいましたが「おおぞら」にもこんな時代があったことを思い出して頂けましたら嬉しいです。
帯広の次が滝川洞爺の次が深夜とはいえ函館優等列車らしい車内販売といい、毎度素晴らしい鉄道遺産です
停車駅だけを見ても本当に特急らしいですね。夜行列車ではないのに時刻表の「レ」が並んでいるのを眺めると嬉しくなったものでした。
@@急行-宗谷 さん、寝台特急のレが続く当時の時刻表は特別列車感がありましたね
長距離無停車は特急をサポートする急行があればこそですな。
子供の頃、食堂車で食事するのが、とっても贅沢なことだと思っていました。食堂車の案内がたくさんあって、素晴らしい動画でした!
有難うございます。確かに駅弁に比べれば食堂車は贅沢でした。でも子供にとっても食堂車や寝台車は憧れですよね。
懐かしいですね、釧路−函館直通列車。高校の修学旅行で本州へ行った時は帯広-函館-青函連絡船と移動したものです。
修学旅行、楽しい思い出として記憶に残っていることでしょう。そんな記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
いつもながらクリアな音声記録、ありがとうございます!しっかし、釧路から札幌って5時間半以上かかってたんですね。今更ながら石勝線の威力を思い知ります。 函館まで運行してて、所要10時間超ってのも凄い。連絡船、特急と乗り継いで上野到着は翌日の午後かぁ...
釧路から札幌までも長旅。そしてさらにその先へと旅が続く・・・そんな感じが好きでした。
青森駅では、特急(はつかり)が待ってくれています。朝方に上野駅到着。山手線→東京駅→新幹線🚅で→名古屋駅到着が定番でした。
ついにこの列車のルートでも廃止区間が出る時代になりましたが、いろいろと感慨深いですね。当時、食堂車で「作りたて」の弁当を車内販売でも売っていたのは知りませんでした。
食堂車があった頃は駅弁を積むよりも、車内で調整したお弁当を販売するのが主流だったのかも知れませんね。JR化直後の話ではありますが、友人がグリーン車に併設されている車販準備カウンターに弁当を買いに行ったところ「今、ご飯を炊いていますのでもう少しお待ちください」と言われたそうです。食堂車時代の名残りを感じますね。
嵐山光三郎さんだかのネタで、新幹線に乗って浜名湖近くになると、「名物うなぎ弁当~♪」と売りにくるんだけども、よく考えたら、浜松には停まってないんだよね、というのがありました。
エンジン音がたまらなく良い
毎度のことですが、放送音声を中心に録音していましたので、メカファンの方には物足りないかと存じます。札幌発車の場面で長い編成の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
音源が残ってる事が凄い❗️しかも鮮明です。
引っ越しの時に古いテープを処分しなかったのが幸いでした。
石勝線経由に変わる前、幾度となくこのルートで狩勝を通り帰京しました。釧路を発車後、車中から見える赤と白の巨大な煙突が帰り道の無事を見守ってくれているようでした。DML17型エンジンの響きは最高でしたね。いつも懐かしさに浸ってます。ありがとうございます。
「おおぞら」は現在も札幌~釧路間の主力として走っていますが、姿は随分変わりました。遠い昔の「おおぞら」を思い出し、懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
またまた貴重な音源ありがとうございます子供のころ岩見沢から函館まで特急に乗った時に 食堂車て食べたこと思い出しますそして岩見沢到着の乗り換え案内幌内線と万字線があるのも地元民としては懐かしいです次回楽しみにしております
遠い昔の食堂車の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。岩見沢も国鉄の町として賑わっていましたね。幌内線、万字線、懐かしいです。
この時代はまだ車掌さんも「20分」を「にじっぷん」と、正しい発音をしてますね。ただ、「左」を「しだり」と言うけど「帯広」「広尾」は「おびひろ」「ひろお」とか、音声だけだと色々な気づきがあってすごく楽しいです。
人それぞれいろいろな気づきがあるのですね。楽しんで頂けましたら何よりです。
これぞ特急という停車駅という列車と思います。ただこの頃は急行列車しか乗れませんでした。グリーン化2両も優等列車と言う感じがしました。また富良野通過もすごいですね。
いつもご視聴とコメント有難うございます。わたくしも乗るのは急行の自由席ばかりでした。183系が登場し「食堂車がなくなる」との情報があったので、食堂車に乗りたくて特急に乗りました。
長万部すら通過して洞爺から一気に函館とは。自由席の少なさという格の高さを感じる。
これぞ正しく本当の特別急行列車🤔
走行距離、編成、停車駅など特急らしい貫禄がありましたね。
子供の頃、祖母が特急グリーン席に乗せてくれた。(後にも先にもグリーン席はそれ一回だけだった。)
子供心に特急のグリーン車は格別の贅沢ですね。御祖母様の思い出と共に心に残っていることと思います。
@@急行-宗谷 さん、ありがとうございます。
「特急おおぞら」の中でも最優等列車でしたね、おおぞらで富良野停車は「停まってやったぞ」とい印象でした(30秒停車です)の車掌のアナウンス覚えています、子供心に(たった30秒かい)日にちを超えて函館に到達し、深夜便の連絡船で青森へ。青森では「はつかり」「白鳥」「みちのく」の接続。東の果ての釧路から東京、大阪へと繋ぐ重要な特急列車だったと改めて感動しました。グリーン車が二両付いていたのは、おそらく折り返しのおおぞらで滝川から「釧路」「旭川」行きの分割運転になるから、あの様な編成になったと思われます。
この録音の翌月には千歳空港駅が開業し、その翌年には石勝線が開業と大きく変わる前でした。石勝線開業後も千歳空港~札幌間を往復して函館と釧路を結んでいましたが、やがて札幌で系統分離。時代の流れを感じます。
いえいえ。音声がクリアでとても聞きやすく、臨場感たっぷりです。北海道独特の旅情がありましたが、良く感じられる動画です。ありがとうございます!
有難うございます。食堂車、車内販売など色々な音声を入れてみましたが、旅情を感じて頂けましたら嬉しいです。
12:55 の「札幌駅案内図」にある、旧札幌駅構内、懐かしいです。南口の「みかど食堂」「みどりの窓口」は、覚えています。 「みかど食堂」は2階。窓側のテーブルから改札の様子が見えたと思います。 お盆や年末年始の1カ月前あたりの「みどりの窓口」は、結構混んでいましたね。パタパタめくってピンを挿して指定券を発券していたのを覚えています。
写真がないので使える画像は何でも使用いたしました。札幌駅案内図から当時の札幌駅の様子を思い出して頂けましたら嬉しいです。
列車の旅、良いですね。現在、室蘭に住んでいます。懐かしい古き良き日の音声、最高ですね。
有難うございます。長距離列車の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
自分はS38年生まれです。いやー懐かしいです。おおぞら6号と1号は上下6本あるなかでも連絡船の深夜早朝便に接続する停車駅が少ないまさに”特別”急行でしたね。最長13両ですからね、おおぞらは。
懐かしさを感じて頂けましたら何よりです。国鉄が青函連絡船を介して広域輸送を担っていた時代も、もう遠い昔のことになってしまいましたね。
青函トンネル開業前まではおおぞらを系統分割した北斗は別格だった
昭和の時代が目に浮かびますね。感慨深いです。高速化と効率化を求める現代だけど、この時代は時間をかけて移動していたんですね。
飛行機がだんだん優位になりつつある頃でしたが、まだ鉄道の方が安かったのかな・・・と思います。翌年の10月に始まった「北の国から」の最終回近くで、大滝秀治さんの「汽車と飛行機の値段の違いわかりますか」という台詞が印象的でした。
@@急行-宗谷 さん飛行機代がどうしても工面出来なかった五郎さんがどの列車で東京に来たのか気になりますな。後に初めて飛行機に乗る時に、からかわれて、靴を脱いで乗ろうとしたとかありました。
食堂車や立ち売り弁当、包装紙や時刻表のイラスト、手作業に囲まれたある意味贅沢な時代でした。新型特急183系から食堂車が省かれるなど、味気ない「効率化」が始まっていましたが。1980年9月は私は北広島に住んでいました。翌月に千歳線は電化され本数が劇的に増え千歳空港駅が開業しました。
開業を控えて完成していた千歳空港駅を思いっきり通過した時は「ここを通過できるのも今だけだな・・・」と貴重な体験をしている思いでした。
音声、映像一つ一つが記憶を呼び起こします。車内放送のセリフも覚えているものです。食堂車にはなかなか連れて行ってはもらえなかったけど、たまに食べるカレーライスやプリンが美味しかったことを覚えています。あの頃は列車の車体に組合的な文言の様々な字が書かれていました。今では考えられない時代です。
一般の人はなかなか食堂車へは行けませんでしたよね。183系の登場で「食堂車がなくなる」との情報があったので、「今のうちに」という思いで、自由席特急券を買って食堂車の体験をしたようなものでした。一人旅で自由席に荷物を置いて食堂車へ行っても、なんとなく落ち着かず、やはり自分の席で駅弁の方が気楽だなな・・・・と感じたものでした。時刻表を加工した画像や音声から、遠い昔の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
55.10直前のいい時代。釧路駅の赤帽さんに頼めば自由席の座席に荷物をあらかじめ置いといてくれる、ゆるい時代でした。今にして思えば帯広から滝川まで1D・2Dの運転手は3時間弱交代無しだったのかなぁ。
55年10月の改正では「からまつ」をはじめ、いくつもの列車がなくなってしまう・・・との情報を得ていたので、乗っておきたくて9月に出かけました。現代ほどではありませんが、同じような鉄道好きが結構いたものでした。
懐かしいです!子供の頃何度も乗車したこと思いだします。帯広駅から函館駅までおおぞら号でした。新得駅から狩勝峠では景色が綺麗でした。青森駅では同時間に大阪駅行き白鳥号と常磐線経由でみちのく号が発車して、その後東北線経由ではつかり号が発車しましたね!上野駅から青森駅まではつかり号やみちのく号で連絡船での船旅函館駅から帯広駅まで途中長万部駅まで寝てたこともありました。このおおぞら号は下り1Dで函館駅を発車するのですね?!北海号がと共に函館駅で待っていました。
遠い昔の記憶がよみがえり、懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
今では体験出来ないキハ82系特急。当時は滝川経由、食堂車、長大編成、肉声の車内放送と今との違いを感じます。当時の長旅の情景が再現されていて、懐かしさに浸っています。
長い編成の長距離列車、貫禄がありました。周遊券で急行の自由席にしか乗らない身にとって、たまに乗る特急は正に特別な急行列車でした。懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
因みに私は石勝線開業の時に叔父といとこでキハ82系おおぞらの時に釧路まで行った事ありました。因みに叔父の奢りで帰りの食堂車でカレー🍛ライス食べた記憶有りますね‼️。
その滝川経由が不可能になるのが近くなりますね😢‼️。
石勝線無しの、このルート好きだなぁ~。情緒ある汽車旅は、もう体験する事が出来ない…。(泣)
普通列車しか走らない路線になっても、なんとか残ってほしかったですね。
@@急行-宗谷 この先、北は旭川、東は帯広までの路線短縮になりますかね?やっぱり…。(泣)
まさに道内の女王にふさわしい編成ですね‼️DC特急 急行の車内チャイムって昔から思ってたのですが?今にも止まりそうな感じで流れますよね食堂車の案内が何度も入ってて いいですね道内特急の普通車ヘッドカバーは1枚で被せてあったんですね‼️
今はレストラン列車が各地で走っていますが、日常的な食堂車は過去のものになってしまいました。そして今や車内販売も縮小されていく時代なのですね。
流石に特別急行ですね。乗務員の方々も停車駅が少なく駅間の距離と時間が長いので大変だったのではないでしょうか。時刻表と地図だけでなく、広告やお弁当の掛け紙など楽しく拝見しました。この当時、この列車の乗車率はどのくらいだったのでしょうか?普通車と指定席では違うとおもいますが・・・。線路工事以外は、ほぼ定時運行をしているのも、国鉄の意地でしょうか。車内の案内放送が聞きやすいです。札幌駅のホームの音もいいですね。春とはいえ、まだまだ寒い日が続きますので・・・。次回作も楽しみにしております。ありがとうございました。
急行と特急で役割分担ができていて、特急は停車駅を絞っていましたね。それがなんとも嬉しいです。自由席はそこそこの乗車がありましたが、隣に人が来ない程度でした。お陰でこまめに録音ができました。指定席の方が乗っている人が多かったような気がします。放送内容に見合う画面が作れず、時刻表の広告欄や駅弁の掛け紙は苦し紛れですが、旅情を感じて頂けましたら嬉しいです。余談ですが日本食堂、北海道車販の広告の右下には電話番号の記載がありましたが、問題ありそうなので消して使用いたしました。加齢と共に寒さがこたえておりますが、寒い季節もあと少し・・・と思って頑張っています。
すばらしいの一言です、何と13両編成で本当に特別急行でした。小生はもっぱら急行利用者でした。43年前の音源を保管されていることに脱帽します。本当に有難うございます。遠く大阪の地から聞いております。いつもありがとうございます。
古い録音を楽しんで頂けましたら何よりです。わたしも乗るのは急行の自由席ばかりでした。この時はすでに183系が登場し、食堂車がなくなるとの情報がありましたので、食堂車に乗っておきたくて、自由席特急券を奮発しました。それにしても自由席に座って、荷物を置いたまま食堂車へ行っても落ち着きませんでしたね。帯広~滝川間無停車ですから、食事中に誰か座ってしまうようなことはありませんでしたが、やはり急行の自由席の方が身分相応の感じでした。
@@急行-宗谷様 ご立派!私も大阪青森間の特急白鳥で食堂車を利用した経験があります。全くその通りで食事も落ち着いて取れませんでした。そしてまた、43年前の音源を美しく保管していることにびっくりで、多くの視聴者の皆様は私と同じように感じていると思います。
懐かしくて涙が出そうになりますね。昭和56年に帯広の支店に新卒で配属になり、同期4人でと東京(上野)からオール特急座席車でほぼ一日かけて行きました。昔は特急でも急行でも長距離を長時間乗るのは普通でしたね。だから食堂車がついてたし停車駅で駅弁売りが来たりして。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。東京から帯広まで、長時間の乗車でしたね。渡道の主流は飛行機になりつつあった頃ですが、まだ列車の方が若干安かったですからね。長旅の記憶も今となってはいい思い出でしょうか・・・
新得、富良野、千歳、長万部通過ですか。すごいですね。食堂車はあまり利用されていなかったのか、何度も放送されていますね…。
北海道では、特に夜間、目的の駅に着いても食事が摂れないことも多いので、食堂車に一定の需要があった…と何かで読んだ記憶があります。昭和も55年。さすがにそれほど不便な世の中ではなくなり、食堂車の利用も少なくなっていたのかと思います。
最後のDMH17エンジンの音で何とも言えない気持ちになりました。
札幌発車の場面でおおぞらの長い編成を感じて頂けましたら嬉しいです。
いつも楽しみにしてます。ありがとうございます
こちらこそ、ご視聴と暖かいコメント有難うございます。
いつもすばらしい音源ありがとうございます。
こちらこそご視聴とコメント有難うございます。
丸2日で釧路ー大阪移動きるとはおおぞらー青函連絡船ー白鳥のルート今やってみたいっすね
同感です。乗りっぱなしの旅、してみたいです。グリーン車なら尚いいですね。ただ「おおぞら」の後半が夜で景色が見えないのが残念。内浦湾に浮かぶ漁火を観ながら一杯かな・・・
今回『も』すごい音源ですね🎵昔々時刻表見ては乗ってみたいものでした。今はない食堂車でゆっくり🍺🍶飲みたかったな😋
同じくです。自分の席で飲むことはあっても、食堂車で飲んだことはありませんでした。
当時特急の停車駅が少なかったのは、補助として急行があったためで、このあと特急に格上げされて急行がなくなっていったのは残念です。
昔は急行と特急で役割分担して輸送するほど乗る人が多かったのですね。
おおぞらに関しては現在の12号がこの流れ臨時まりも(4、9号のスジ)と狩勝の帯広以東(3、5、8、10号のスジ)をおおぞらに編入した
所用で札幌へ行き5D列車で帯広へ帰る時2D列車と富良野で交換でしたが富良野通過を目の当たりにし衝撃でしたね
富良野や新得は急行は全列車停車でしたが、特急は一部通過でしたね。
高校を卒業して進学の為特急おおぞらを使って上京したのが79年。まさしくこの頃でした。まだ旅客機という選択肢は少ない時代でした。ただ釧路〜東京間がほぼ24時間かかりました。移動の度に1日潰れるので短期の休みの時は帰らなくなりましたね。
釧路〜東京なら今では飛行機一択という感じですが、当時はまだ鉄道の方が若干安い時代でしたね。時間をかけて釧路へ帰る時は楽しみだったことと思います。
この頃は、石勝線の開通前で、廃線される予定の、富良野~新得間を走っていたんですね。それも、旧線だったのかな?食堂車が付いていて豪華な編成ですね。
さすがに落合~新得の狩勝峠の旧線は乗ったことがありませんでした。石勝線の開業は嬉しかったですが、根室本線の部分廃止はさびしいですね。
しかし、北海道の鉄道は、寂しくなりましたね😢 昔は、路線がたくさんあって、便利だったのに。民営化はよかったけど、分割したのが、失敗だったのかな?赤字だからといって、廃線にしてしまうのはちょっと残念です。最低限の路線と本数は、維持して欲しいです😅
なんで岩見沢が出てくるのかなってら思ったら石勝線開業前か…。定期座席特急に食堂車ってすごい豪華ですよね。釧路から函館へ、さらに青函連絡船で東京・大阪へ。この時代に旅行してみたかったものです(平成生まれ)。
長距離の移動が航空機に移りつつあった頃ですが、鉄道の方がまだ若干安く、国鉄も最後の頑張りで全国ネットの長距離輸送を担っていました。石勝線の開業で道東への経路が大きく変わり、今は富良野~新得が無くなってしまいました。時代の流れですね。
駅弁の掛け紙の画像見ると、掛け紙と経木でできた湿った弁当の蓋の匂いがよみがえる。
有難うございます。車内放送とは合わない駅弁の掛け紙ですが、駅弁の匂いを思い出して頂けて嬉しいです。
”蓋の匂い”わかります。当時の幕の内が懐かしい... 自分は今も駅弁は幕の内派なんですが、何か違う、そう匂いでした。
マンガ【美味しんぼ】でローソクの匂いがする!と酷評されたプラ容器のお茶もセットですな。おじさんが大きなヤカンからお湯を入れてくれました。(・ε・` )アチチ
昭和55年は国鉄運賃・料金は高騰してたのに、駅弁・食堂車の食事は意外と安かったですね。10月改正直前だったので、道内でグリーン車2両の編成は末期でしたね。
運賃・料金の値上げと共に周遊券も上がっていましたが、それよりも愛着がある列車がダイヤ改正の度に削減されていくのが痛かったです。
「新得」「富良野」「伊達紋別」「長万部」通過と、特急料金が結構高いのが驚き。時刻表の食堂車マークがいいなあ。
周遊券所持なら急行の自由席は別途料金なしで乗れましたので、自由席特急券は出費でした。自由席特急券を奮発し、食堂車での贅沢はキハ82へ最後のお別れになりました。
懐かしい🎉🎉何度も乗ったよ。食堂車も連結してたんだね。
最近はレストラン列車が流行ですが、一般列車の食堂車はもう昔のことになってしまいました。
昔は0系にも食堂車があったんですよね。
食堂車メニューの値段からして、昭和60年頃でしょうかね?いやー、実際に乗車しているようで最高ですね!いつもありがとうございます。
遠い昔の情景を想像して頂けましたら嬉しいです。
ん、釧路から函館?嘘だろ?昔はこんな距離走ってたの?しかも石勝線が無い!でも見てたら何か涙が出そう😭いや~凄いわ❗
長距離輸送を担っていた国鉄の最後の意地と言うか、あくまでも函館が北海道の玄関口と言うダイヤでしたね。この翌月には千歳線の電化と共に千歳空港駅(現南千歳駅)が開業し、しだいに札幌中心のダイヤへと変わっていきました。
この頃の北海道の特急キハ82系にはホントにお世話になって育ちました。やっぱり最新式の特急車両よりこの頃の車両の方が味があるのを感じますし落ち着きます。動画の中で紹介されていた各種駅弁の値段を見たら同時の貨幣価値がよく分かりますね。安い!!(゚o゚;
当時の駅弁は諸物価に比べて安かった印象です。コンビニなどない時代、コンビニ弁当の代わりを果たしていたのかな・・・同じ時期に旅行した友人が「地方の食堂は高いんだよなぁ、駅弁ばかり食べてた」と言っていたのを覚えています。
キハ82、おおとりで乗車しましたが、満席の自由席で身動きが取れず、写真も残っていないのが残念です、既に食堂車は連結されておらず、車販のお弁当は売り切れ。札幌から函館まで、お腹が空いてたまらなかった記憶があります。
混んでいて身動きが取れなかったとはつらい思い出ですね。夏休みか何かの繁忙期だったのでしょうか・・・楽しい思い出・・・とは言い難いかも知れませんが記憶には鮮明に残っていることと思います。
気動車特急の食堂車、憧れでした。今や体験できなく残念です。
今では各地にレストラン列車がありますが、この頃の食堂車は確かに憧れでしたね。
のりかえ欄に白糠線、池北線、広尾線に士幌線の文字が... いい時代でしたね... もっともこれが録音された時点では根室発函館行の急行ニセコは分離されて根室―札幌間は狩勝になってしまいましたが...
ダイヤ改正の度に長距離列車が系統分離、あるいは廃止されたりと合理化が進められている頃でした。大好きだった「からまつ」もこの翌月の改正で姿を消しました。
札幌でおおぞら6号が1番線に到着後、0番線で待避していた1~3号車が苗穂方に引き上げ後に1番線に後退進入で連結されていました。1978年には札幌行き臨時おおぞら51号キハ80系7両編成で食堂車も営業していましたが、1980年には食堂車は無いようです。たしか1978年秋ダイヤ改正で下りは奇数号・上り偶数号に変更になったので、ここでは臨時特急おおぞら52号になってます。当時釧路行き急行狩勝に乗ってたら、臨時特急おおぞらが尺別駅で急行ぬさまいが古瀬駅で狩勝の通過待避をしていました。1980年だったら2・5号は隔日でキハ80・キハ183の運転で、3.4号は滝川で釧路行7両・旭川行6両編成を分割併合してましたね。旭川駅で函館から来たおおぞらを見ました。石勝線開通直前の滝川経由が華やかだったいい時代です。キハ80系も貫通扉が前面にあるにもかかわらず、特別急行の風格が漂ってました。また、函館駅におおぞら13両編成・北海10両編成が停車している様は荘厳としか言いようがありませんでした。
未明の函館駅ではおおぞら、北海の他に、ニセコも発車待ちをしていて壮観でした。お昼前のおおぞら、おおとり、宗谷と続く時間と同様のゴールデンタイムでした。
グリーン車が2両着いてたなんて、すごい時代ですね。それに禁煙車がないww
グリーン車2両は、滝川で分割して旭川行と釧路行になる運用もあったからですね。
資料的価値のスゴさよ!
時刻表見て驚きましたが長都駅を通過する普通が有ったんですね。当時長都駅周辺は余り住宅や店などが無かったんですね。
道外からの旅行者なので地元のことはよくわからないのですが、当時は新札幌でさえ賑やかな感じはしなかったように思います。
私が乗車した時代は(おおぞら3号)です。函館は深夜〜青函連絡船〜青森→(白鳥)大阪です。全車指定席時代です。
録音当時は「おおぞら」に自由席ができて間もない頃だったと思います。
まさか走行路線が廃止になるなんて…
大雨による被害が致命傷になってしまいましたね、残念なことです。
10両編成かあすごいなあ釧路の次が池田、帯広、滝川なのね。
この頃の特急は特別感がありましたね。
食堂車が無くなり、車内販売まで無くなり、特急列車も味気ないものになりましたね。仕事で10年位前に、よく札幌〜釧路まで、おおぞらを利用していました。車内販売のアナウンスで、お土産品として紹介される池田町の銘菓バナナ饅頭ってどんな饅頭なんだろ?と、いつも思っていましたが、結局買うこと無く車内販売は無くなりました。
乗る人が増えれば、車内販売は復活できると思いますが、そんな時代が再び来るかどうか・・・
私は、飛行機✈が駄目で何度もこの列車を利用しました。釧路から函館まで10時間函館から青森まで4時間青森から上野まで10時間丸一日かかっていました。
長旅お疲れ様です。ほぼ24時間ですね。でも鉄道好きには羨ましくもあります。
この頃から北海道の特急は短距離のいしかりを除いて全車指定席だったが自由席ができて急行がだんだんなくなっていった。特急の設備がよかったかというとそうでもなくクッションの悪いロマンスシートだったが急行は固定クロスシートで冷房もグリーン車を除いてなかった。(夜行の寝台車は除く!)急行が少なくなったので1980年から特急の普通車自由席にも周遊券で乗れるようになった。それまでは周遊券だと特急に乗るには特急券が必要だった。
函館まで直通はすごい。連絡船があったからかな。1時間半から2時間止まらないのもすごい😆⤴
連絡船を介して全国ネットの一翼でしたからね。この翌月には千歳空港駅が開業し、しだいに札幌中心のダイヤに変わっていきました。
列車番号が2Dの最強ナンバー、号数は、マルス誤発売防止の為に、下りは奇数、上りは偶数化した後ですね。やはり、札幌で、札幌回転車3両を連結して函館に向う国鉄が、まだ、輝きを何とか維持していた時代を思い出します。
下り奇数、上り偶数になった時は、慣れ親しんだ昔の号数に愛着を覚えたものでした。食堂車がない183系が登場し、増備されていった頃ですが、その後の石勝線の開業などもあり、北海道の鉄道も急速に変わっていった感じがします。
新得通過はちょっとびっくりしました今は全列車停車ですね
「おおぞら」3往復のうち、この時の時刻表では下り2本、上り1本が新得に停車していました。
15:30 遥々🥲 尊いお仕事です 2D という若い列車番号も、列島縦断の第一線を担う主要系統ということが伝わるようです。
現在、長距離はすっかり航空機の時代になってしまいましたが、まだ鉄道が全国を結んでいた時代を感じて頂けましたら嬉しいです。
富良野を通過する運用があったのですね!?
石勝線がなく、「おおぞら」が今でも滝川経由なら、全列車富良野に停車していたことでしょうね。
帯広~滝川間ノンストップと言う事は今で言う「スーパーおおぞら(富良野通過なの😂)」ですね‼️。
一時は帯広~千歳空港ノンストップっていうのもありましたね。「おおぞら」に限りませんが、今の特急は停車駅が増えたものです。
釧路の人口が21万超えていたんだな。しかも合併前。
千歳線内は苫小牧迄無かったのですね(現在では新札幌、南千歳=旧千歳空港)でしたが⁉️。
千歳は急行停車、特急通過でしたね。それにしても新札幌にまで特急が停車するようになろうとは・・・
大橋さんみたいな渋い声の車掌さんですね‼️。
あっ・・・言われてみれば、なんとなく似てますね。
富良野通過が凄い。からまつも走っている。丁度 時刻表二万キロの時代。ローカル線は 乗り潰しのお客さんさんしかいなかった?駅に止まるたびに硬券入場券を買ったいた。
この頃の「おおぞら」は本州連絡の役目も担っており、飛行機が主流になりつつあった時代に鉄道も頑張っていました。北海道の鉄道もまだ元気でした。
当時は石勝線が無いんだね😊
今の基準で考えると中々ぶっ飛んだ停車駅ですね…新得・富良野と長万部までぶっ飛ばすとは。
急行列車が必ず停車する駅を通過すると「さすが特急」と思ったものでした。
富良野〜新得が廃止となった今では本当に時代が帯広の後、新得も富良野も止まらないなら石勝線経由でも良いわけですな……
この車内放送チャイム・放送内容・車内雰囲気を聞きたかった。子供の頃に列車は違いますが、「おおとり」に乗って函館→遠軽、車内販売で弁当と独特の容器に入ったお茶を親から買って貰い食べました。カタコトと列車の揺れと音も駅弁の美味さの調味料。発車ベルも今どきのオルゴール?ではなく本当のベル音、これも心地よい思い出です。
子供の頃、親に連れられての列車の旅、誰しも心に残る思い出があるのですね。遠い昔の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
「6号車は食堂車」と「最初に止まりますのは池田」で泣きました。
池田を通過し、釧路~帯広間ノンストップの「おおぞら」もあったのですが、それも昔のこと。今の特急は停車駅が増えましたね。
見るたびに毎回思うのだが、この当時に録音していて音源もキチンと残っているのに驚愕しています。ところでグリーン車が2両は兎も角なぜ6・11号車と変則なのでしょうか?
確かなことはわからないのですが、おおぞらの1往復は滝川で分割(上りは併結)して釧路行き7両と旭川行き6両になっていました。釧路編成、旭川編成どちらにもグリーン車が1両(食堂車は釧路編成のみ)ありましたから、そんな運用が関係しているのかなと想像いたします。この「おおぞら」のグリーン車2両は例外的で、基本的には1列車1両なので、2両連続しての連結はなかったのでしょう。
紛うことなき、北海道の当時の最優等列車ですね!東庶路で下り最優等の1号を退避させてました。全車指定当時は池田すら通過・・・・・収録時は『北海定食』はまだなかったのですね・・・・
道内時刻表を何冊か調べてみましたが『北海定食』の文字を見つけることはできませんでした。時刻表に記載がないメニューもあったこととは思いますが・・・「焼肉定食」なんかも時刻表のメニューにはありませんが放送では案内していますね。
懐かしいわ💦
「おおぞら6号」という列車自体は今でもありますが、だいぶ姿が変わりました。昔を懐かしんで頂けましたら何よりです。
カレーお弁当、匂うでしょうなwけど、美味そう。
カレーの匂いなど人畜無害で問題ではなかったのでしょうね・・・なにしろ煙草の煙が当たり前に漂っている時代でしたから・・・
帯広の次が滝川なんて化け物か?!
思いっきり通過扱いにするって爽快ですね。後に千歳空港(現南千歳)~帯広間通過扱いなんていうのも一時期ありましたね。
富良野も通過するんですね。北の国からの人気の前だからかな
そういえばこの頃は富良野観光は念頭になく、乗り換えか通り過ぎるだけでした。富良野が一躍観光地になったのは、ラベンダー畑の写真や北の国からの影響が大きいと思います。平成になってからではありますが、富良野駅前から貸自転車で麓郷へ、これが初めての富良野観光でした。
いい時代でしたね!それしか言い様がありません!
鉄道趣味的には楽しい時代でした。でも居住性が良くなった車内、煙草の煙もない現代もまた快適な旅を楽しめます。
今の時代と違いグリーン車両は離れて連結なんですね。
滝川で釧路編成と旭川編成の分割、併合をする運用もあったからですね。
@@急行-宗谷様ありがとうございます。教えて頂くまで気付きませんでした。
録音機材は何をお使いでしたか?車販売り子の声まで録っていらっしゃったとは素晴らしい。帯広まで初めて乗った「おおぞら」は既に183系でした。万字線、歌志内線に幌内線もまだあったんですね。道内時刻表と地図だけでも、驚きと再発見の連続です。
お恥ずかしいですが録音に高級な機材は使用しておりません。パソコンに取り込む際の再生機もこれまた安い機材でなんとかやってみました。音声データだけをUPするテもありますが、高品質な音声ではないため、時刻表を加工したイメージ画像を付けて公開させて頂いております。
いつも懐かしく拝聴しております。この頃の駅名アナウンスは『あさひがわ』なんですね。いつ頃『あさひかわ』に変わったのでしょうかねぇ?
ウィキペディアによれば、1905年(明治38年)4月1日『がわ』になり、1988年(昭和63年)3月13日『かわ』に再変更とのことです。
シチュー定食1200円かぁ現代でもちと高い感じですね具材が気になります😅
そんなもんでしょう。妥当な金額だと思います
当時は石勝線ないのか...
石勝線が開業した時は嬉しかったですが、根室本線の一部が廃止になろうとは・・・
1M~1便~1D系統はあこがれで、上野の地平ホームで「ギョームレンラク。トーロクバン、イチエム、セッキン。」を聞きました。1M~1便までは乗りましたが、函館の朝市が楽しみで1Dは乗っていません。
その返しの2D~2便~2Mは意識したことがなかったのですが、人によってはこちらが「往き」 で思い出があるのですよね。
釧路~函館の方が青森~上野よりも時間がかかっていること、青森で「みちのく」と「白鳥」の同時発車、3分後に「はつかり」の続行と、熱い時代があったんだと改めて思いました。ありがとうございました。
鉄道連絡船を介して全国の広域輸送を担っていた国鉄。新聞ではなにかと国鉄叩きの記事も多かった時代ですが、やはり
頼もしかったです。
ありがとうございます。臨場感があふれる素晴らしい動画です。当時の時刻表や食堂のメニューがいいですね。
幼い頃母に手を引かれて母の故郷である湧別町へ行った時のことを思い出します。
早朝函館に着いた連絡船から列車に乗り換えて、湧別に着いた頃には暗くなっていました。雪が積もる夜の中湧別駅に、材木を載せた黒い貨車が留まっていたことを覚えています。昭和56年頃のことです。
今では中湧別の駅も、手を引いてくれた母も私の手の届かないところへ行ってしまいました。
子供の時の記憶って妙に鮮明に思い出せることがありますね。中湧別駅での情景、お母様の思い出と共に印象に残っていることと思います。このスライドショーを見て、様々な記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
コメントを拝見させて頂き、わたしも中湧別駅での情景が浮かぶようです。思い出の投稿を有難うございます。
貴重な音源の配信ありがとうございます。
北海道が元気だった時代、また国鉄も元気だった時代の特急は本当に風格がありました。
拝聴させていただき、心が癒やされました。
有難うございます。飛行機や自動車が台頭し、鉄道が下降気味になり始めた頃でしたが、まだまだ元気がありました。
時代は変りましたが、遠い昔を思い出して頂けましたら嬉しいです。
@@急行-宗谷様 あらためて聴いています。
この車掌さんの、低音が効いた聞き取りやすいアナウンスは本当に心地よいです。まるで昔のNHKのアナウンサーみたいな声ですね。
@@a-ki876 様。あらためてのご視聴とコメント有難うございます。
やはり特急車両は急行車両に比べて、放送装置も良いのかなと思います。
マイクかスピーカーかアンプか・・・詳しいことはわかりませんが・・・
昔の特急は停車駅が少なかった事を思いながら聞いていましたが、登別や洞爺など「観光重要のある駅は止まるんだな」と思っていると洞爺の次が函館で「お!」となりました
@@user-tabiichiro様
南千歳(当時は、新千歳空港でしたか?)伊達紋別、長万部、八雲、森、大沼公園(現在は、新函館北斗駅と、五稜郭もですね)は「北斗」の持ち場ですね。
余談ですが、私が子供の頃と比べると「北斗」の停車駅も、かなり増えましたね。
五稜郭、新函館北斗駅、白老(一部)新札幌と…
記憶違いありましたら、すみません。
改めて聞くと、停車駅の少なさが、1時間以上のノンストップが複数あります。帯広から滝川は2時間40分以上。洞爺の次が函館で2時間ノンストップ。長万部も森も通過。まさに「特別急行」ですね。風格があります。運転手さんの疲労も相当だったでしょう。
1983年秋に北海道を旅行しました(周遊券でした)が、駅弁がどこも500円。現在は1000円で買えればかなり安い方。食堂車のメニューを見ると、結構「いい値段」であったことがわかります。学生の私にはぜいたくでした。カレーライスとコーヒーくらいは食べた記憶があります。
あらためて、アップありがとうございました。
再度のご視聴とコメント有難うございます。当時、長距離を走る特急は停車駅を絞り、特急が通過する駅は急行がカバーしていた感じですね。
確かに食堂車は諸物価に比べて高かった印象ですが、現代のように便利な時代になる前は夜間など、下車後に食事ができない街も多く、食堂車にも一定の需要があったそうですね。
この時は183系の登場で「食堂車がなくなる」との情報があったので、それを惜しんで利用してみました。周遊券の旅でしたので、食堂車よりも座席で駅弁の方が自分には似合っているなと感じました。
今のチマチマと停車する特急とは比較にならない間隔の停車駅ですね。
食堂も備えた長大編成といいこれぞ特別急行というものです。
現代の特急は、急行を廃止して、急行の停車駅を引き継いだ感じですね。
13両編成!食堂車にグリーン車2両。最高ですね。素晴らしい音源でした。
有難うございます。鉄道の全盛期を少し過ぎていたとはいえ、まだまだ華やかな時代でした。
まさに特急列車らしいアナウンスが素晴らしいですね国鉄型特急列車はとにかく全て感動と栄光のスーパースターだね
特急列車はたまにしか乗れませんでしたので、赤とクリームの車体の色は憧れでした。
列車番号2D、本州連絡の名門特別急行列車でした。キロ2輌まさに壮観な出で立ち。
残念ながら、札幌から函館迄しか乗車した事がありません。
日本食堂…懐かしいですよ。
ハムサラダにビールが定番だったかな。
最盛期は、1号車~3号車が札幌から連結され、堂々の13輌でした。当時の札幌駅1番ホーム懐かしい。
貴重な記録ありがとうございました。
食堂車の思い出は皆様お持ちなのですね。懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
グリーン車2両に食堂車を含めて13両編成なんて、今思うと夢のようですね。
2D ー2便ー2M
DC時代からのはつかりに接続する当時は札幌ー上野間最速の乗り継ぎダイヤでしたね。函館では乗客のほとんどが連絡船に乗り継いでいた感じでした。
2Dおおぞらを補完していた山線経由の12D北海も忘れないで欲しいです。
車掌さんの次の停車駅までの所要時間がとても大変分かりやすかったです。他の列車にも参考になるといいですね、また、特急おおぞら号の編成は1号車から3号車がなく4号車から13号車までの10両編成になっている事、また、キハ80系82型特急形気動車で運転されていた事から7両基本編成と3両付属編成にグリーン車キロ80形が連絡されている事ですね、この映像は石勝線が開通する前に釧路から根室本線を通って滝川まで狩勝峠を越えていた時の貴重な映像を大変ありがとうございました。また、石勝線開通前の特急おおぞら号は釧路から函館まで根室本線、函館本線、千歳線、室蘭本線経由で10時間あまりを結んでいてこの映像に登場してくる特急おおぞら6号は終着の函館から青函連絡船を乗り継いで青森から4時50分発の上野行き特急みちのく号と大阪行き特急白鳥号に連絡していました。また、編成は釧路を出る時は13号車が先頭になっていますが途中の札幌で進行方向が変わり1号車から3号車の3両を増結して13両編成となって1号車が先頭になって終着の函館に向かいます。以上、
16分間の旅行ありがとうございます。
90年代に札幌にいて、おおぞら何回も乗りましたが、石勝線経由でした。
これだけ宣伝されると、食堂車行きたくなりますね!
食堂車に乗っておきたくて自由席特急券を奮発して乗ったようなものでした。
できるだけコンパクトに編集したつもりですが、それでも16分を超えてしましました。
長距離列車の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
新得、富良野通過がしぶい。特別な感じですね
女性販売員さんの声きいていたら、ひさしぶりに黄色いハンカチを観たくなりました
北海道だけではなく、車内販売は各地で縮小されてしまいましたね。
確かに駅構内での買い物は随分便利になりましたし、乗車時間も短くなりましたからね・・・
私が小学生の頃これに乗り連絡船経由で東室蘭から乗車しました。新潟の叔母の家に夏休みに出かけて初めての特急と真夜中の連絡船 おおぞらはエアサスでポイント通過の時や線路のつなぎ目がガタンとせず不思議な感覚を今でもあります。そしてクーラーが涼しくて何もかも新鮮でした。🚈💺
当時夏に北海道を訪れたことはなく、気が付きませんでしたが、そう言えば急行には冷房がなかったのですね。
特急車両以外ではまだ冷房車が少ない時代でした。
何時も貴重な音源配信して頂き、
ありがとうございます😊
石勝線開業前の食堂車付き長大編成函館~釧路間運用おおぞらも貴重ですね。
やはり女性乗務員アナウンスのイントネーションも古き良き昭和を感じます😌
ご視聴とコメント有難うございます。
現在は札幌~釧路に短縮され、編成も短くなってしまいましたが「おおぞら」にもこんな時代があったことを思い出して頂けましたら嬉しいです。
帯広の次が滝川
洞爺の次が深夜とはいえ函館
優等列車らしい車内販売といい、毎度素晴らしい鉄道遺産です
停車駅だけを見ても本当に特急らしいですね。
夜行列車ではないのに時刻表の「レ」が並んでいるのを眺めると嬉しくなったものでした。
@@急行-宗谷 さん、寝台特急のレが続く当時の時刻表は特別列車感がありましたね
長距離無停車は特急をサポートする急行があればこそですな。
子供の頃、食堂車で食事するのが、とっても贅沢なことだと思っていました。
食堂車の案内がたくさんあって、素晴らしい動画でした!
有難うございます。
確かに駅弁に比べれば食堂車は贅沢でした。でも子供にとっても食堂車や寝台車は憧れですよね。
懐かしいですね、釧路−函館直通列車。
高校の修学旅行で本州へ行った時は帯広-函館-青函連絡船と移動したものです。
修学旅行、楽しい思い出として記憶に残っていることでしょう。
そんな記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
いつもながらクリアな音声記録、ありがとうございます!しっかし、釧路から札幌って5時間半以上かかってたんですね。今更ながら石勝線の威力を思い知ります。 函館まで運行してて、所要10時間超ってのも凄い。連絡船、特急と乗り継いで上野到着は翌日の午後かぁ...
釧路から札幌までも長旅。そしてさらにその先へと旅が続く・・・そんな感じが好きでした。
青森駅では、特急(はつかり)が待ってくれています。朝方に上野駅到着。
山手線→東京駅→新幹線🚅で→名古屋駅到着が定番でした。
ついにこの列車のルートでも廃止区間が出る時代になりましたが、いろいろと感慨深いですね。当時、食堂車で「作りたて」の弁当を車内販売でも売っていたのは知りませんでした。
食堂車があった頃は駅弁を積むよりも、車内で調整したお弁当を販売するのが主流だったのかも知れませんね。
JR化直後の話ではありますが、友人がグリーン車に併設されている車販準備カウンターに弁当を買いに行ったところ「今、ご飯を炊いていますのでもう少しお待ちください」と言われたそうです。食堂車時代の名残りを感じますね。
嵐山光三郎さんだかのネタで、新幹線に乗って浜名湖近くになると、「名物うなぎ弁当~♪」と売りにくるんだけども、よく考えたら、浜松には停まってないんだよね、というのがありました。
エンジン音がたまらなく良い
毎度のことですが、放送音声を中心に録音していましたので、メカファンの方には物足りないかと存じます。
札幌発車の場面で長い編成の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
音源が残ってる事が凄い❗️
しかも鮮明です。
引っ越しの時に古いテープを処分しなかったのが幸いでした。
石勝線経由に変わる前、幾度となくこのルートで狩勝を通り帰京しました。釧路を発車後、車中から見える赤と白の巨大な煙突が帰り道の無事を見守ってくれているようでした。DML17型エンジンの響きは最高でしたね。いつも懐かしさに浸ってます。ありがとうございます。
「おおぞら」は現在も札幌~釧路間の主力として走っていますが、姿は随分変わりました。
遠い昔の「おおぞら」を思い出し、懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
またまた貴重な音源ありがとうございます
子供のころ岩見沢から函館まで特急に乗った時に 食堂車て食べたこと思い出します
そして岩見沢到着の乗り換え案内
幌内線と万字線があるのも地元民としては懐かしいです
次回楽しみにしております
遠い昔の食堂車の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
岩見沢も国鉄の町として賑わっていましたね。幌内線、万字線、懐かしいです。
この時代はまだ車掌さんも「20分」を「にじっぷん」と、正しい発音をしてますね。
ただ、「左」を「しだり」と言うけど「帯広」「広尾」は「おびひろ」「ひろお」とか、音声だけだと色々な気づきがあってすごく楽しいです。
人それぞれいろいろな気づきがあるのですね。楽しんで頂けましたら何よりです。
これぞ特急という停車駅という列車と思います。ただこの頃は急行列車しか乗れませんでした。グリーン化2両も優等列車と言う感じがしました。また富良野通過もすごいですね。
いつもご視聴とコメント有難うございます。わたくしも乗るのは急行の自由席ばかりでした。
183系が登場し「食堂車がなくなる」との情報があったので、食堂車に乗りたくて特急に乗りました。
長万部すら通過して洞爺から一気に函館とは。自由席の少なさという格の高さを感じる。
これぞ正しく本当の特別急行列車🤔
走行距離、編成、停車駅など特急らしい貫禄がありましたね。
子供の頃、祖母が特急グリーン席に乗せてくれた。
(後にも先にもグリーン席はそれ一回だけだった。)
子供心に特急のグリーン車は格別の贅沢ですね。御祖母様の思い出と共に心に残っていることと思います。
@@急行-宗谷 さん、ありがとうございます。
「特急おおぞら」の中でも最優等列車でしたね、おおぞらで富良野停車は「停まってやったぞ」とい印象でした(30秒停車です)の車掌のアナウンス覚えています、子供心に(たった30秒かい)
日にちを超えて函館に到達し、深夜便の連絡船で青森へ。
青森では「はつかり」「白鳥」「みちのく」の接続。
東の果ての釧路から東京、大阪へと繋ぐ重要な特急列車だったと改めて感動しました。
グリーン車が二両付いていたのは、おそらく折り返しのおおぞらで滝川から「釧路」「旭川」行きの分割運転になるから、あの様な編成になったと思われます。
この録音の翌月には千歳空港駅が開業し、その翌年には石勝線が開業と大きく変わる前でした。
石勝線開業後も千歳空港~札幌間を往復して函館と釧路を結んでいましたが、やがて札幌で系統分離。時代の流れを感じます。
いえいえ。音声がクリアでとても聞きやすく、臨場感たっぷりです。
北海道独特の旅情がありましたが、良く感じられる動画です。
ありがとうございます!
有難うございます。
食堂車、車内販売など色々な音声を入れてみましたが、旅情を感じて頂けましたら嬉しいです。
12:55 の「札幌駅案内図」にある、旧札幌駅構内、懐かしいです。南口の「みかど食堂」「みどりの窓口」は、覚えています。
「みかど食堂」は2階。窓側のテーブルから改札の様子が見えたと思います。
お盆や年末年始の1カ月前あたりの「みどりの窓口」は、結構混んでいましたね。パタパタめくってピンを挿して指定券を発券していたのを覚えています。
写真がないので使える画像は何でも使用いたしました。札幌駅案内図から当時の札幌駅の様子を思い出して頂けましたら嬉しいです。
列車の旅、良いですね。
現在、室蘭に住んでいます。懐かしい古き良き日の音声、最高ですね。
有難うございます。長距離列車の雰囲気を感じて頂けましたら嬉しいです。
自分はS38年生まれです。いやー懐かしいです。おおぞら6号と1号は上下6本あるなかでも連絡船の深夜早朝便に接続する停車駅が少ないまさに”特別”急行でしたね。最長13両ですからね、おおぞらは。
懐かしさを感じて頂けましたら何よりです。
国鉄が青函連絡船を介して広域輸送を担っていた時代も、もう遠い昔のことになってしまいましたね。
青函トンネル開業前まではおおぞらを系統分割した北斗は別格だった
昭和の時代が目に浮かびますね。感慨深いです。高速化と効率化を求める現代だけど、この時代は時間をかけて移動していたんですね。
飛行機がだんだん優位になりつつある頃でしたが、まだ鉄道の方が安かったのかな・・・と思います。
翌年の10月に始まった「北の国から」の最終回近くで、大滝秀治さんの「汽車と飛行機の値段の違いわかりますか」という台詞が印象的でした。
@@急行-宗谷 さん
飛行機代がどうしても工面出来なかった五郎さんがどの列車で東京に来たのか気になりますな。後に初めて飛行機に乗る時に、からかわれて、靴を脱いで乗ろうとしたとかありました。
食堂車や立ち売り弁当、包装紙や時刻表のイラスト、手作業に囲まれたある意味贅沢な時代でした。
新型特急183系から食堂車が省かれるなど、味気ない「効率化」が始まっていましたが。
1980年9月は私は北広島に住んでいました。翌月に千歳線は電化され本数が劇的に増え千歳空港駅が開業しました。
開業を控えて完成していた千歳空港駅を思いっきり通過した時は「ここを通過できるのも今だけだな・・・」と貴重な体験をしている思いでした。
音声、映像一つ一つが記憶を呼び起こします。車内放送のセリフも覚えているものです。食堂車にはなかなか連れて行ってはもらえなかったけど、たまに食べるカレーライスやプリンが美味しかったことを覚えています。あの頃は列車の車体に組合的な文言の様々な字が書かれていました。今では考えられない時代です。
一般の人はなかなか食堂車へは行けませんでしたよね。183系の登場で「食堂車がなくなる」との情報があったので、「今のうちに」という思いで、自由席特急券を買って食堂車の体験をしたようなものでした。
一人旅で自由席に荷物を置いて食堂車へ行っても、なんとなく落ち着かず、やはり自分の席で駅弁の方が気楽だなな・・・・と感じたものでした。
時刻表を加工した画像や音声から、遠い昔の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
55.10直前のいい時代。
釧路駅の赤帽さんに頼めば自由席の座席に荷物をあらかじめ置いといてくれる、ゆるい時代でした。
今にして思えば帯広から滝川まで1D・2Dの運転手は3時間弱交代無しだったのかなぁ。
55年10月の改正では「からまつ」をはじめ、いくつもの列車がなくなってしまう・・・との情報を得ていたので、乗っておきたくて9月に出かけました。
現代ほどではありませんが、同じような鉄道好きが結構いたものでした。
懐かしいです!子供の頃何度も乗車したこと思いだします。
帯広駅から函館駅までおおぞら号でした。新得駅から狩勝峠では景色が綺麗でした。青森駅では同時間に大阪駅行き白鳥号と常磐線経由でみちのく号が発車して、その後東北線経由ではつかり号が発車しましたね!
上野駅から青森駅まではつかり号やみちのく号で連絡船での船旅函館駅から帯広駅まで途中長万部駅まで寝てたこともありました。
このおおぞら号は下り1Dで函館駅を発車するのですね?!
北海号がと共に函館駅で待っていました。
遠い昔の記憶がよみがえり、懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
今では体験出来ないキハ82系特急。当時は滝川経由、食堂車、長大編成、肉声の車内放送と今との違いを感じます。
当時の長旅の情景が再現されていて、懐かしさに浸っています。
長い編成の長距離列車、貫禄がありました。周遊券で急行の自由席にしか乗らない身にとって、たまに乗る特急は正に特別な急行列車でした。懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
因みに私は石勝線開業の時に叔父といとこでキハ82系おおぞらの時に釧路まで行った事ありました。因みに叔父の奢りで帰りの食堂車でカレー🍛ライス食べた記憶有りますね‼️。
その滝川経由が不可能になるのが近くなりますね😢‼️。
石勝線無しの、このルート好きだなぁ~。
情緒ある汽車旅は、もう体験する事が出来ない…。(泣)
普通列車しか走らない路線になっても、なんとか残ってほしかったですね。
@@急行-宗谷
この先、北は旭川、東は帯広までの路線短縮になりますかね?
やっぱり…。(泣)
まさに道内の女王にふさわしい編成ですね‼️
DC特急 急行の車内チャイムって昔から思ってたのですが?
今にも止まりそうな感じで流れますよね
食堂車の案内が何度も
入ってて いいですね
道内特急の普通車ヘッドカバーは1枚で被せてあったんですね‼️
今はレストラン列車が各地で走っていますが、日常的な食堂車は過去のものになってしまいました。
そして今や車内販売も縮小されていく時代なのですね。
流石に特別急行ですね。乗務員の方々も停車駅が少なく
駅間の距離と時間が長いので大変だったのではないでしょうか。
時刻表と地図だけでなく、広告やお弁当の掛け紙など楽しく
拝見しました。
この当時、この列車の乗車率はどのくらいだったのでしょうか?
普通車と指定席では違うとおもいますが・・・。
線路工事以外は、ほぼ定時運行をしているのも、国鉄の意地でしょうか。
車内の案内放送が聞きやすいです。札幌駅のホームの音もいいですね。
春とはいえ、まだまだ寒い日が続きますので・・・。
次回作も楽しみにしております。ありがとうございました。
急行と特急で役割分担ができていて、特急は停車駅を絞っていましたね。それがなんとも嬉しいです。
自由席はそこそこの乗車がありましたが、隣に人が来ない程度でした。お陰でこまめに録音ができました。指定席の方が乗っている人が多かったような気がします。
放送内容に見合う画面が作れず、時刻表の広告欄や駅弁の掛け紙は苦し紛れですが、旅情を感じて頂けましたら嬉しいです。余談ですが日本食堂、北海道車販の広告の右下には電話番号の記載がありましたが、問題ありそうなので消して使用いたしました。
加齢と共に寒さがこたえておりますが、寒い季節もあと少し・・・と思って頑張っています。
すばらしいの一言です、何と13両編成で本当に特別急行でした。小生はもっぱら急行利用者でした。43年前の音源を保管されていることに脱帽します。本当に有難うございます。遠く大阪の地から聞いております。いつもありがとうございます。
古い録音を楽しんで頂けましたら何よりです。
わたしも乗るのは急行の自由席ばかりでした。この時はすでに183系が登場し、食堂車がなくなるとの情報がありましたので、食堂車に乗っておきたくて、自由席特急券を奮発しました。
それにしても自由席に座って、荷物を置いたまま食堂車へ行っても落ち着きませんでしたね。帯広~滝川間無停車ですから、食事中に誰か座ってしまうようなことはありませんでしたが、やはり急行の自由席の方が身分相応の感じでした。
@@急行-宗谷様 ご立派!私も大阪青森間の特急白鳥で食堂車を利用した経験があります。全くその通りで食事も落ち着いて取れませんでした。
そしてまた、43年前の音源を美しく保管していることにびっくりで、多くの視聴者の皆様は私と同じように感じていると思います。
懐かしくて涙が出そうになりますね。
昭和56年に帯広の支店に新卒で配属になり、同期4人でと東京(上野)からオール特急座席車でほぼ一日かけて行きました。
昔は特急でも急行でも長距離を長時間乗るのは普通でしたね。
だから食堂車がついてたし停車駅で駅弁売りが来たりして。
懐かしさを感じて頂けましたら嬉しいです。
東京から帯広まで、長時間の乗車でしたね。渡道の主流は飛行機になりつつあった頃ですが、まだ列車の方が若干安かったですからね。
長旅の記憶も今となってはいい思い出でしょうか・・・
新得、富良野、千歳、長万部通過ですか。すごいですね。
食堂車はあまり利用されていなかったのか、何度も放送されていますね…。
北海道では、特に夜間、目的の駅に着いても食事が摂れないことも多いので、食堂車に一定の需要があった…と何かで読んだ記憶があります。
昭和も55年。さすがにそれほど不便な世の中ではなくなり、食堂車の利用も少なくなっていたのかと思います。
最後のDMH17エンジンの音で何とも言えない気持ちになりました。
札幌発車の場面でおおぞらの長い編成を感じて頂けましたら嬉しいです。
いつも楽しみにしてます。ありがとうございます
こちらこそ、ご視聴と暖かいコメント有難うございます。
いつもすばらしい音源ありがとうございます。
こちらこそご視聴とコメント有難うございます。
丸2日で釧路ー大阪移動きるとは
おおぞらー青函連絡船ー白鳥のルート
今やってみたいっすね
同感です。乗りっぱなしの旅、してみたいです。グリーン車なら尚いいですね。
ただ「おおぞら」の後半が夜で景色が見えないのが残念。内浦湾に浮かぶ漁火を観ながら一杯かな・・・
今回『も』すごい音源ですね🎵
昔々時刻表見ては乗ってみたいものでした。
今はない食堂車でゆっくり🍺🍶飲みたかったな😋
同じくです。自分の席で飲むことはあっても、食堂車で飲んだことはありませんでした。
当時特急の停車駅が少なかったのは、補助として急行があったためで、このあと特急に格上げされて急行がなくなっていったのは残念です。
昔は急行と特急で役割分担して輸送するほど乗る人が多かったのですね。
おおぞらに関しては現在の12号がこの流れ
臨時まりも(4、9号のスジ)と狩勝の帯広以東(3、5、8、10号のスジ)をおおぞらに編入した
所用で札幌へ行き5D列車で帯広へ帰る時2D列車と富良野で
交換でしたが富良野通過を目の当たりにし衝撃でしたね
富良野や新得は急行は全列車停車でしたが、特急は一部通過でしたね。
高校を卒業して進学の為特急おおぞらを使って上京したのが79年。まさしくこの頃でした。
まだ旅客機という選択肢は少ない時代でした。
ただ釧路〜東京間がほぼ24時間かかりました。移動の度に1日潰れるので短期の休みの時は帰らなくなりましたね。
釧路〜東京なら今では飛行機一択という感じですが、当時はまだ鉄道の方が若干安い時代でしたね。
時間をかけて釧路へ帰る時は楽しみだったことと思います。
この頃は、石勝線の開通前で、廃線される予定の、富良野~新得間を走っていたんですね。それも、旧線だったのかな?食堂車が付いていて豪華な編成ですね。
さすがに落合~新得の狩勝峠の旧線は乗ったことがありませんでした。
石勝線の開業は嬉しかったですが、根室本線の部分廃止はさびしいですね。
しかし、北海道の鉄道は、寂しくなりましたね😢
昔は、路線がたくさんあって、便利だったのに。民営化はよかったけど、分割したのが、失敗だったのかな?赤字だからといって、廃線にしてしまうのはちょっと残念です。最低限の路線と本数は、維持して欲しいです😅
なんで岩見沢が出てくるのかなってら思ったら石勝線開業前か…。定期座席特急に食堂車ってすごい豪華ですよね。釧路から函館へ、さらに青函連絡船で東京・大阪へ。この時代に旅行してみたかったものです(平成生まれ)。
長距離の移動が航空機に移りつつあった頃ですが、鉄道の方がまだ若干安く、国鉄も最後の頑張りで全国ネットの長距離輸送を担っていました。
石勝線の開業で道東への経路が大きく変わり、今は富良野~新得が無くなってしまいました。時代の流れですね。
駅弁の掛け紙の画像見ると、掛け紙と経木でできた湿った弁当の蓋の匂いがよみがえる。
有難うございます。車内放送とは合わない駅弁の掛け紙ですが、駅弁の匂いを思い出して頂けて嬉しいです。
”蓋の匂い”わかります。当時の幕の内が懐かしい... 自分は今も駅弁は幕の内派なんですが、何か違う、そう匂いでした。
マンガ【美味しんぼ】でローソクの匂いがする!と酷評されたプラ容器のお茶もセットですな。おじさんが大きなヤカンからお湯を入れてくれました。(・ε・` )アチチ
昭和55年は国鉄運賃・料金は高騰してたのに、駅弁・食堂車の食事は意外と安かったですね。
10月改正直前だったので、道内でグリーン車2両の編成は末期でしたね。
運賃・料金の値上げと共に周遊券も上がっていましたが、それよりも愛着がある列車がダイヤ改正の度に削減されていくのが痛かったです。
「新得」「富良野」「伊達紋別」「長万部」通過と、特急料金が結構高いのが驚き。
時刻表の食堂車マークがいいなあ。
周遊券所持なら急行の自由席は別途料金なしで乗れましたので、自由席特急券は出費でした。
自由席特急券を奮発し、食堂車での贅沢はキハ82へ最後のお別れになりました。
懐かしい🎉🎉何度も乗ったよ。
食堂車も連結してたんだね。
最近はレストラン列車が流行ですが、一般列車の食堂車はもう昔のことになってしまいました。
昔は0系にも食堂車があったんですよね。
食堂車メニューの値段からして、昭和60年頃でしょうかね?いやー、実際に乗車しているようで最高ですね!いつもありがとうございます。
遠い昔の情景を想像して頂けましたら嬉しいです。
ん、釧路から函館?嘘だろ?昔はこんな距離走ってたの?しかも石勝線が無い!でも見てたら何か涙が出そう😭いや~凄いわ❗
長距離輸送を担っていた国鉄の最後の意地と言うか、あくまでも函館が北海道の玄関口と言うダイヤでしたね。
この翌月には千歳線の電化と共に千歳空港駅(現南千歳駅)が開業し、しだいに札幌中心のダイヤへと変わっていきました。
この頃の北海道の特急キハ82系にはホントにお世話になって育ちました。
やっぱり最新式の特急車両よりこの頃の車両の方が味があるのを感じますし落ち着きます。
動画の中で紹介されていた各種駅弁の値段を見たら同時の貨幣価値がよく分かりますね。安い!!(゚o゚;
当時の駅弁は諸物価に比べて安かった印象です。
コンビニなどない時代、コンビニ弁当の代わりを果たしていたのかな・・・
同じ時期に旅行した友人が「地方の食堂は高いんだよなぁ、駅弁ばかり食べてた」と言っていたのを覚えています。
キハ82、おおとりで乗車しましたが、満席の自由席で身動きが取れず、写真も残っていないのが残念です、既に食堂車は連結されておらず、車販のお弁当は売り切れ。札幌から函館まで、お腹が空いてたまらなかった記憶があります。
混んでいて身動きが取れなかったとはつらい思い出ですね。夏休みか何かの繁忙期だったのでしょうか・・・
楽しい思い出・・・とは言い難いかも知れませんが記憶には鮮明に残っていることと思います。
気動車特急の食堂車、憧れでした。
今や体験できなく残念です。
今では各地にレストラン列車がありますが、この頃の食堂車は確かに憧れでしたね。
のりかえ欄に白糠線、池北線、広尾線に士幌線の文字が... いい時代でしたね... もっともこれが録音された時点では根室発函館行の急行ニセコは分離されて根室―札幌間は狩勝になってしまいましたが...
ダイヤ改正の度に長距離列車が系統分離、あるいは廃止されたりと合理化が進められている頃でした。
大好きだった「からまつ」もこの翌月の改正で姿を消しました。
札幌でおおぞら6号が1番線に到着後、0番線で待避していた1~3号車が苗穂方に引き上げ後に1番線に後退進入で連結されていました。
1978年には札幌行き臨時おおぞら51号キハ80系7両編成で食堂車も営業していましたが、1980年には食堂車は無いようです。
たしか1978年秋ダイヤ改正で下りは奇数号・上り偶数号に変更になったので、ここでは臨時特急おおぞら52号になってます。
当時釧路行き急行狩勝に乗ってたら、臨時特急おおぞらが尺別駅で急行ぬさまいが古瀬駅で狩勝の通過待避をしていました。
1980年だったら2・5号は隔日でキハ80・キハ183の運転で、3.4号は滝川で釧路行7両・旭川行6両編成を分割併合してましたね。
旭川駅で函館から来たおおぞらを見ました。石勝線開通直前の滝川経由が華やかだったいい時代です。
キハ80系も貫通扉が前面にあるにもかかわらず、特別急行の風格が漂ってました。
また、函館駅におおぞら13両編成・北海10両編成が停車している様は荘厳としか言いようがありませんでした。
未明の函館駅ではおおぞら、北海の他に、ニセコも発車待ちをしていて壮観でした。
お昼前のおおぞら、おおとり、宗谷と続く時間と同様のゴールデンタイムでした。
グリーン車が2両着いてたなんて、すごい時代ですね。それに禁煙車がないww
グリーン車2両は、滝川で分割して旭川行と釧路行になる運用もあったからですね。
資料的価値のスゴさよ!
時刻表見て驚きましたが長都駅を通過する普通が有ったんですね。
当時長都駅周辺は余り住宅や店などが無かったんですね。
道外からの旅行者なので地元のことはよくわからないのですが、当時は新札幌でさえ賑やかな感じはしなかったように思います。
私が乗車した時代は(おおぞら3号)です。函館は深夜〜青函連絡船〜青森→(白鳥)大阪です。
全車指定席時代です。
録音当時は「おおぞら」に自由席ができて間もない頃だったと思います。
まさか走行路線が廃止になるなんて…
大雨による被害が致命傷になってしまいましたね、残念なことです。
10両編成かあ
すごいなあ
釧路の次が池田、帯広、滝川なのね。
この頃の特急は特別感がありましたね。
食堂車が無くなり、車内販売まで無くなり、特急列車も味気ないものになりましたね。
仕事で10年位前に、よく札幌〜釧路まで、おおぞらを利用していました。車内販売のアナウンスで、お土産品として紹介される池田町の銘菓バナナ饅頭ってどんな饅頭なんだろ?と、いつも思っていましたが、結局買うこと無く車内販売は無くなりました。
乗る人が増えれば、車内販売は復活できると思いますが、そんな時代が再び来るかどうか・・・
私は、飛行機✈が駄目で何度もこの列車を利用しました。
釧路から函館まで10時間
函館から青森まで4時間
青森から上野まで10時間
丸一日かかっていました。
長旅お疲れ様です。ほぼ24時間ですね。でも鉄道好きには羨ましくもあります。
この頃から北海道の特急は短距離のいしかりを除いて全車指定席だったが自由席ができて急行がだんだんなくなっていった。特急の設備がよかったかというとそうでもなくクッションの悪いロマンスシートだったが急行は固定クロスシートで冷房もグリーン車を除いてなかった。(夜行の寝台車は除く!)急行が少なくなったので1980年から特急の普通車自由席にも周遊券で乗れるようになった。それまでは周遊券だと特急に乗るには特急券が必要だった。
函館まで直通はすごい。連絡船があったからかな。
1時間半から2時間止まらないのもすごい😆⤴
連絡船を介して全国ネットの一翼でしたからね。
この翌月には千歳空港駅が開業し、しだいに札幌中心のダイヤに変わっていきました。
列車番号が2Dの最強ナンバー、号数は、マルス誤発売防止の為に、下りは奇数、上りは偶数化した後ですね。
やはり、札幌で、札幌回転車3両を連結して函館に向う国鉄が、まだ、輝きを何とか維持していた時代を思い出します。
下り奇数、上り偶数になった時は、慣れ親しんだ昔の号数に愛着を覚えたものでした。
食堂車がない183系が登場し、増備されていった頃ですが、その後の石勝線の開業などもあり、北海道の鉄道も急速に変わっていった感じがします。
新得通過はちょっとびっくりしました今は全列車停車ですね
「おおぞら」3往復のうち、この時の時刻表では下り2本、上り1本が新得に停車していました。
15:30 遥々🥲 尊いお仕事です 2D という若い列車番号も、列島縦断の第一線を担う主要系統ということが伝わるようです。
現在、長距離はすっかり航空機の時代になってしまいましたが、まだ鉄道が全国を結んでいた時代を感じて頂けましたら嬉しいです。
富良野を通過する運用があったのですね!?
石勝線がなく、「おおぞら」が今でも滝川経由なら、全列車富良野に停車していたことでしょうね。
帯広~滝川間ノンストップと言う事は今で言う「スーパーおおぞら(富良野通過なの😂)」ですね‼️。
一時は帯広~千歳空港ノンストップっていうのもありましたね。「おおぞら」に限りませんが、今の特急は停車駅が増えたものです。
釧路の人口が21万超えていたんだな。しかも合併前。
千歳線内は苫小牧迄無かったのですね(現在では新札幌、南千歳=旧千歳空港)でしたが⁉️。
千歳は急行停車、特急通過でしたね。それにしても新札幌にまで特急が停車するようになろうとは・・・
大橋さんみたいな渋い声の車掌さんですね‼️。
あっ・・・言われてみれば、なんとなく似てますね。
富良野通過が凄い。
からまつも走っている。
丁度 時刻表二万キロの時代。
ローカル線は 乗り潰しのお客さんさんしかいなかった?
駅に止まるたびに硬券入場券を買ったいた。
この頃の「おおぞら」は本州連絡の役目も担っており、飛行機が主流になりつつあった時代に鉄道も頑張っていました。北海道の鉄道もまだ元気でした。
当時は石勝線が無いんだね😊
今の基準で考えると中々ぶっ飛んだ停車駅ですね…新得・富良野と長万部までぶっ飛ばすとは。
急行列車が必ず停車する駅を通過すると「さすが特急」と思ったものでした。
富良野〜新得が廃止となった今では本当に時代が
帯広の後、新得も富良野も止まらないなら石勝線経由でも良いわけですな……
この車内放送チャイム・放送内容・車内雰囲気を聞きたかった。
子供の頃に列車は違いますが、「おおとり」に乗って函館→遠軽、車内販売で弁当と独特の容器に入ったお茶を親から買って貰い食べました。カタコトと列車の揺れと音も駅弁の美味さの調味料。
発車ベルも今どきのオルゴール?ではなく本当のベル音、これも心地よい思い出です。
子供の頃、親に連れられての列車の旅、誰しも心に残る思い出があるのですね。
遠い昔の記憶がよみがえりましたら嬉しいです。
「6号車は食堂車」と「最初に止まりますのは池田」で泣きました。
池田を通過し、釧路~帯広間ノンストップの「おおぞら」もあったのですが、それも昔のこと。
今の特急は停車駅が増えましたね。
見るたびに毎回思うのだが、この当時に録音していて音源もキチンと残っているのに驚愕しています。
ところでグリーン車が2両は兎も角なぜ6・11号車と変則なのでしょうか?
確かなことはわからないのですが、おおぞらの1往復は滝川で分割(上りは併結)して釧路行き7両と旭川行き6両になっていました。釧路編成、旭川編成どちらにもグリーン車が1両(食堂車は釧路編成のみ)ありましたから、そんな運用が関係しているのかなと想像いたします。
この「おおぞら」のグリーン車2両は例外的で、基本的には1列車1両なので、2両連続しての連結はなかったのでしょう。
紛うことなき、北海道の当時の最優等列車ですね!
東庶路で下り最優等の1号を退避させてました。
全車指定当時は池田すら通過・・・・・
収録時は『北海定食』はまだなかったのですね・・・・
道内時刻表を何冊か調べてみましたが『北海定食』の文字を見つけることはできませんでした。
時刻表に記載がないメニューもあったこととは思いますが・・・
「焼肉定食」なんかも時刻表のメニューにはありませんが放送では案内していますね。
懐かしいわ💦
「おおぞら6号」という列車自体は今でもありますが、だいぶ姿が変わりました。
昔を懐かしんで頂けましたら何よりです。
カレーお弁当、匂うでしょうなw
けど、美味そう。
カレーの匂いなど人畜無害で問題ではなかったのでしょうね・・・
なにしろ煙草の煙が当たり前に漂っている時代でしたから・・・
帯広の次が滝川なんて化け物か?!
思いっきり通過扱いにするって爽快ですね。後に千歳空港(現南千歳)~帯広間通過扱いなんていうのも一時期ありましたね。
富良野も通過するんですね。
北の国からの人気の前だからかな
そういえばこの頃は富良野観光は念頭になく、乗り換えか通り過ぎるだけでした。
富良野が一躍観光地になったのは、ラベンダー畑の写真や北の国からの影響が大きいと思います。
平成になってからではありますが、富良野駅前から貸自転車で麓郷へ、これが初めての富良野観光でした。
いい時代でしたね!それしか言い様がありません!
鉄道趣味的には楽しい時代でした。
でも居住性が良くなった車内、煙草の煙もない現代もまた快適な旅を楽しめます。
今の時代と違いグリーン車両は離れて連結なんですね。
滝川で釧路編成と旭川編成の分割、併合をする運用もあったからですね。
@@急行-宗谷様ありがとうございます。教えて頂くまで気付きませんでした。
録音機材は何をお使いでしたか?
車販売り子の声まで録っていらっしゃったとは素晴らしい。帯広まで初めて乗った「おおぞら」は既に183系でした。万字線、歌志内線に幌内線もまだあったんですね。道内時刻表と地図だけでも、驚きと再発見の連続です。
お恥ずかしいですが録音に高級な機材は使用しておりません。パソコンに取り込む際の再生機もこれまた安い機材でなんとかやってみました。
音声データだけをUPするテもありますが、高品質な音声ではないため、時刻表を加工したイメージ画像を付けて公開させて頂いております。
いつも懐かしく拝聴しております。
この頃の駅名アナウンスは『あさひがわ』なんですね。
いつ頃『あさひかわ』に変わったのでしょうかねぇ?
ウィキペディアによれば、1905年(明治38年)4月1日『がわ』になり、1988年(昭和63年)3月13日『かわ』に再変更とのことです。
シチュー定食1200円かぁ
現代でもちと高い感じですね
具材が気になります😅
そんなもんでしょう。妥当な金額だと思います
当時は石勝線ないのか...
石勝線が開業した時は嬉しかったですが、根室本線の一部が廃止になろうとは・・・