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現在は、義維から数えて12代目の子孫である足利義徳氏が平島公方系の当主で、最近も全国足利氏ゆかりの会の総会にも出席したらしいですね。先代の義弘氏は九州の大学で教授やってたらしく、先祖(義満)が滅ぼした某守護大名と同じ名前だったのも皮肉ならば、先祖(尊氏)が開いた幕府の命令がなかなか行き届かなかった九州に深いゆかりがあったのも皮肉でしたが・・・・・・・平島公方系もこれからも血筋を伝えていただきたいです。
徳川家康は名門好きだったから家康の時に思い切って阿波を出て使えていれば高家にはなれたかも。
他の喜連川家や宮原家、そして細川家(幽斎は宇田源氏氏族説が有力)も血統が水戸徳川家など他家の血筋へ入れ替わってしまってる中、平島公方家のみは足利氏の血脈を今に伝えている貴重な存在です。なまじ高家や大名家になれなかった?ことが今となっては良かったのかも知れません。
@@eh3063 当時の2ちゃんでは先々代の進悟氏が養子だったなんて言われていたけど、デマでしょうね。宮原家も少なくとも昭和戦中までは続いたけど、厳夫氏の後がどうなっているのでしょうね。武田勝頼の子孫でもあるけど、新情報ほしいですね。
幽斎は確かに継いだ家は宇田源氏系細川家(入り名字)ですが血統で言えば三淵氏(系図のはっきりしない家)ですよ幽斎の父親とされる三淵晴員も以前は細川和泉上守護家からの養子と考えられていましたが、実際は養子ではなく元々三淵氏だったということが最近の研究で分かってきており細川に縁もゆかりもない室町幕府の得体の知れない中堅官僚の家が戦国の混乱に乗じて細川という家をうまいこと乗っ取ったというのが真相かと思います
平島家は華族どころか士族になれなかったしな😅
私は三淵家はしっかりとした清和源氏と思い込んでましたが、レスを拝見し三淵家をwikiしてみたら、なるほど足利義持の落胤などと言ってても義満時代にも三淵姓の人物がいたり、幽斎は「尊氏の落胤」など言ってたり、確かに奉公衆など代々勤めて来た幕臣にしては怪しい家系なのですね。幽斎は腐っても宇多天皇からの貴種とは言え、やはり武家の棟梁清和源氏との落差を感じてしまいますし、足利後胤たる高家の家々は当時の事情とは言え、明らかに足利とは縁もゆかりも無い家柄で正統な血脈は途絶えてますし、尊氏以来の室町将軍の血筋を今に伝える唯一?の平島公方家の価値は大変に貴重だとあらためて思いました。
投稿お疲れ様です!
足利氏の大元である清和源氏、更に遡って源頼光の子孫である摂津源氏の系譜はどうなってるのだろうか?源義家の代目の頃やその後の院政期源為義とは不仲だったらしいし平氏追討では協力体制、頼朝の治世では冷遇とこちらもかなり波瀾万丈な感じするな、しかも系統もかなり枝分かれして壮大な人数になりそうだが…
平島公方家も数奇な運命を辿っているんだな
足利義澄 義維の子孫てことは 少なくとも足利義満の子孫であることは確か。
オススメに出てきたので・・細川持隆が謀殺されたあたりまでは知ってましたが・・その後の物語があったのですね。御側衆とか幕府の高家にはなられへんかったのか・・いや貴重な物語ありがとうございました。
良い発言ありがとうございます
有り難う御座います。出来れば、動画の半分でも良いので、将軍家と、細川家の系図を固定して載せていただければと思いました、
蜂須賀家も下手に平島公方家を優遇できないんだよな 足利の血筋を擁立して 謀反を起こす気なのかと言われかねないから
そういや公方って呼びかた、足利将軍家特有なのかな。と、思ってwiki見たら鎌倉以前は様々な意味で使われてた様子。徳川以降は将軍職のアダ名的なポジションになったっぽい。足利将軍家固有とまでは言えないが、特色が最も出ていた時期ではあったようです。
石高五千石の喜連川藩も大名と呼んで問題ないのでしょうか。参勤交代免除とか特殊な所ではありますが。別の方の動画では喜連川の領主の先祖である鎌倉公方家は将軍家と不和のため徳川御三家や御三卿のように将軍家が絶えたとしても後釜にはなれないとのことでした。それに比べれば平島公方家は将軍になれる資格はあるのに江戸時代は喜連川の領主の方がいい待遇のようですね。でも百石程度の石高で272名も連れていけたなと思いました。
この動画では触れられてませんが、歴代当主の尽力で明和(1764~1771)の頃には1190石まで回復し、また上質の木材が採れる山も持っていたので、そこそこ裕福だったようです。さらに272名には家臣の家族もいたでしょうから、多いとは思いますがメチャメチャ多いとまではいかない気がします。
昔いいともだったかに喜連川足利の当主だか時期当主だかが出ててかなりイケメンだった記憶がある。
喜連川家は、大名格だったはず。それもいい待遇で。1万石行かなかったけど、足利の血を利用した結構いい商売をしていた。
@@ユミコ-i9c 自領内を参勤交代の大名が通過する際に、わざと街道にかかる橋の下にいてその上を通過するなら金払えとゆすりたかりみたいなことやってたんだよね
👍👍
お邪魔しました
俺の父方の大伯父は足利尊氏の直系の子孫を嫁さんにしたけど、若い時に亭主関白してたら、80過ぎてヨレヨレになったら仕返しされてた。
これを見るに喜連川家はかなり恵まれていたか?
こんにちは😮😊
18:14 これは間違いですね。最終的に1000石以上の領地になっていました。
さおりさんでは、なくなったんですね。
100石取りで272名連れてくの計算合わなさすぎるw
帰農していた家臣だったそうですよ
@@明石則実 なるほど....なんとなく脱藩したかっただけの農民も居たのではとも思いますねw
阿波公方かえおもんない
現在は、義維から数えて12代目の子孫である足利義徳氏が平島公方系の当主で、最近も全国足利氏ゆかりの会の総会にも出席したらしいですね。先代の義弘氏は九州の大学で教授やってたらしく、先祖(義満)が滅ぼした某守護大名と同じ名前だったのも皮肉ならば、先祖(尊氏)が開いた幕府の命令がなかなか行き届かなかった九州に深いゆかりがあったのも皮肉でしたが・・・・・・・平島公方系もこれからも血筋を伝えていただきたいです。
徳川家康は名門好きだったから家康の時に思い切って阿波を出て使えていれば高家にはなれたかも。
他の喜連川家や宮原家、そして細川家(幽斎は宇田源氏氏族説が有力)も血統が水戸徳川家など他家の血筋へ入れ替わってしまってる中、平島公方家のみは足利氏の血脈を今に伝えている貴重な存在です。
なまじ高家や大名家になれなかった?ことが今となっては良かったのかも知れません。
@@eh3063 当時の2ちゃんでは先々代の進悟氏が養子だったなんて言われていたけど、デマでしょうね。宮原家も少なくとも昭和戦中までは続いたけど、厳夫氏の後がどうなっているのでしょうね。武田勝頼の子孫でもあるけど、新情報ほしいですね。
幽斎は確かに継いだ家は宇田源氏系細川家(入り名字)ですが血統で言えば三淵氏(系図のはっきりしない家)ですよ
幽斎の父親とされる三淵晴員も以前は細川和泉上守護家からの養子と考えられていましたが、実際は養子ではなく
元々三淵氏だったということが最近の研究で分かってきており
細川に縁もゆかりもない室町幕府の得体の知れない中堅官僚の家が戦国の混乱に乗じて細川という家をうまいこと乗っ取ったというのが真相かと思います
平島家は華族どころか士族になれなかったしな😅
私は三淵家はしっかりとした清和源氏と思い込んでましたが、レスを拝見し三淵家をwikiしてみたら、なるほど足利義持の落胤などと言ってても義満時代にも三淵姓の人物がいたり、幽斎は「尊氏の落胤」など言ってたり、確かに奉公衆など代々勤めて来た幕臣にしては怪しい家系なのですね。
幽斎は腐っても宇多天皇からの貴種とは言え、やはり武家の棟梁清和源氏との落差を感じてしまいますし、足利後胤たる高家の家々は当時の事情とは言え、明らかに足利とは縁もゆかりも無い家柄で正統な血脈は途絶えてますし、尊氏以来の室町将軍の血筋を今に伝える唯一?の平島公方家の価値は大変に貴重だとあらためて思いました。
投稿お疲れ様です!
足利氏の大元である清和源氏、更に遡って源頼光の子孫である摂津源氏の系譜はどうなってるのだろうか?源義家の代目の頃やその後の院政期源為義とは不仲だったらしいし平氏追討では協力体制、頼朝の治世では冷遇とこちらもかなり波瀾万丈な感じするな、しかも系統もかなり枝分かれして壮大な人数になりそうだが…
平島公方家も数奇な運命を辿っているんだな
足利義澄 義維の子孫てことは 少なくとも足利義満の子孫であることは確か。
オススメに出てきたので・・
細川持隆が謀殺されたあたりまでは知ってましたが・・その後の物語があったのですね。御側衆とか幕府の高家にはなられへんかったのか・・
いや貴重な物語ありがとうございました。
良い発言ありがとうございます
有り難う御座います。出来れば、動画の半分でも良いので、将軍家と、細川家の系図を固定して載せていただければと思いました、
蜂須賀家も下手に平島公方家を優遇できないんだよな 足利の血筋を擁立して 謀反を起こす気なのかと言われかねないから
そういや公方って呼びかた、足利将軍家特有なのかな。
と、思ってwiki見たら鎌倉以前は様々な意味で使われてた様子。
徳川以降は将軍職のアダ名的なポジションになったっぽい。
足利将軍家固有とまでは言えないが、特色が最も出ていた時期ではあったようです。
石高五千石の喜連川藩も大名と呼んで問題ないのでしょうか。参勤交代免除とか特殊な所ではありますが。別の方の動画では喜連川の領主の先祖である鎌倉公方家は将軍家と不和のため徳川御三家や御三卿のように将軍家が絶えたとしても後釜にはなれないとのことでした。それに比べれば平島公方家は将軍になれる資格はあるのに江戸時代は喜連川の領主の方がいい待遇のようですね。でも百石程度の石高で272名も連れていけたなと思いました。
この動画では触れられてませんが、歴代当主の尽力で明和(1764~1771)の頃には1190石まで回復し、また上質の木材が採れる山も持っていたので、そこそこ裕福だったようです。さらに272名には家臣の家族もいたでしょうから、多いとは思いますがメチャメチャ多いとまではいかない気がします。
昔いいともだったかに喜連川足利の当主だか時期当主だかが出ててかなりイケメンだった記憶がある。
喜連川家は、大名格だったはず。それもいい待遇で。1万石行かなかったけど、足利の血を利用した結構いい商売をしていた。
@@ユミコ-i9c 自領内を参勤交代の大名が通過する際に、わざと街道にかかる橋の下にいてその上を通過するなら金払えとゆすりたかりみたいなことやってたんだよね
👍👍
お邪魔しました
俺の父方の大伯父は足利尊氏の直系の子孫を嫁さんにしたけど、若い時に亭主関白してたら、80過ぎてヨレヨレになったら仕返しされてた。
これを見るに喜連川家はかなり恵まれていたか?
こんにちは😮😊
18:14
これは間違いですね。
最終的に1000石以上の領地になっていました。
さおりさんでは、なくなったんですね。
100石取りで272名連れてくの計算合わなさすぎるw
帰農していた家臣だったそうですよ
@@明石則実 なるほど....なんとなく脱藩したかっただけの農民も居たのではとも思いますねw
阿波公方かえおもんない