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母である大政所(なか)の姉妹が尾張や美濃の地侍や織田家の下士に嫁いでいるのを見ると、決して貧農出身とは思えないんですよね妻である北政所(寧々)は浅野・杉原一族出身で織田家に置いて騎乗身分(中級)の家柄なんですよね。尾張・美濃に広く支族が広がって居て一族としてはそこそこの規模です。で、北政所の母親が秀吉と野合(親の許可なく結婚する事)を怒っている記録が残って居ますが、決して相手(秀吉)の出自の低さとかには言及していない。動画にある通り秀吉が歴史の史料に表れた時には既に織田家の重臣クラスなんですよね。北政所との結婚はそれより最低4,5年は前で秀吉もそこまで出世して居なかったと思われますが家柄・出自には一切文句が出て居ない秀吉の家族回りから攻めてみると秀吉自身が喧伝した低い身分から出世したと言う”お話し”には相当注意して見ないと最後に秀吉の出身地ですが、尾張徳川家は戦国期の尾張国調査を大々的に行って居ます。現地農民からの聞き取り調査で中村を秀吉の出身地としています。旗本家としては残った大政所一族の福島家でも中村が秀吉の出身地としていますね個人的には色々総合すると織田家において下士だったが同時に地主階級の富農の出身だったと言う所かと。武家社会と言うのは江戸時代末でも意外と武家と富農との境界が曖昧です、川路聖謨は武士として最下層(現地農民の一代限り雇用)から勘定奉行まで出世しています。秀吉の実家もそういう階層だったのではと思いますね
鋭い考察ですね。すごく参考になります。
なげ〜んだよ
遠江国衆の天野氏の被官(の一族)だったという説もありますね
宣教師の記録を読むと貧農で母親は売春婦だったとしている。宣教師を追放したことからかも知れない。他の記録を見ると馬一頭を有する程度の郷士だったとある。
権力者が多くの側室を持つのは東アジア全域の習慣なので秀吉だけが特別だったとは思えません、それに年を取ってから判断力に陰りが見えてきた英雄も孫権を始め世界中に枚挙に暇がないのでこれも秀吉が特別だったとは考えられません。
秀吉が人たらしだったってのも死後に広まったもので当時の一次資料には記載がないんですよね
人身売買宣教師を駆逐した話はどうなんですか?日本を護ったとも言えると思いますが…
秀吉は英雄
秀吉は植民地にされることから守った
それも相当美化された話で、真実はキリスト教を学んだ少女が自分の意思を持つ事に目覚めて秀吉との夜の営みを拒んだのがキリシタン追放の原因自分の下衆い欲望を満たせなくなった故の暴挙だよ。実に日本人らしいと言えるちなみに朝鮮出兵がスペインの侵略を防ぐためってのも大嘘で単なる領土欲だから
ですよね‼️
朝鮮出兵の絡みでサヨク陣営から嫌われて、アホで下品なおっさんに描かれる事が多い。
秀吉は色々と理解出来ない、不明な事が多い人物ですが、何故北陸の撤退を行えたのか。主君信長からの援軍命令であれば、敵前逃亡など『4』を意味する行為なのですが。。。
投稿お疲れ様です!
『武功夜話』は信用できないと言われていますが、一部には事実も含まれていると思います。それによると秀吉は、織田信長の側室だった吉乃(生駒氏)の縁者と思われます。その同じ縁者には蜂須賀小六ら尾張や美濃の土豪もいることから、秀吉の出身層も尾張中村の土豪だったと思われます。信長の側室の元で育ったため武家としての教養を一通り備えており、中村の通商的な要地から商業にも精通し豊富な見識を得ていたと思います。秀吉は側室の縁者だったため、信長は正室をおもんぱかってその素性を公表しなかったのでしょう。織田家の重臣たちはこのことを知っていたと思われます。織田家の家臣には譜代と新参の区別がもちろんあり、秀吉は新参者なので柴田勝家ら譜代家臣から眉をひそめて見られていたのはあると思います。側室の縁者ゆえにとびぬけた出世をしたと思います。濃姫は子供を産んでいません。信長の子供2人をこの吉乃が生んでいます。
文献の真偽はつまるところ、著作者の胸の内という事・・・ですか。
秀吉だけで無くあの時代は身内は駒なので扱いは基本だったのです😮
多分農民の中では豪農だったでしょう秀吉の実家は。秀吉や兄妹の教養を見てもかなりだよ。最下層では絶対にない。それでも武士からみれば最下層も同然だったかもしれないが。
上級武士である侍から見れば足軽も農民も似たような物だったでしょうね。当時はその辺曖昧だったし。
秀吉においてもっとも腑に落ちない点は教養力と発想力当時武士階級とそれ未満では明らかな教養の差があったはずいくら商人として諸国を回っていたといっても一朝一夕で見に付くものではなく幼いころから体系的に身に付けなければつくわけがないまた秀吉が幼少の頃寺で修行していたと主張する者がいるが、それならばなぜ秀長までも大大名となり秀吉の参謀ができるほどの教養力があったのか 合理的でないそして発想力 思い付きで出来るレベルのモノではないことは確かたとえば一夜城アレは明らかなプレハブ工法で相当高度な計算測定技術がいるたとえば倹約法当時の物品の管理は余りものをその役についていた者たちがもらっていく、そういう役得分を考慮しており、そういう役得の上に忠義が成り立っていたしたがってそれをなしにしてしまえば忠義は成り立たなくなる現代の様なドライな関係は当時において成り立つはずがないじゃあ、秀吉はどこから来たのかまさのこの点で、彼は「どこから来た」のかだ
長浜に移ってから京からも近くある程度の教養の機会もあったと思うけど、その後毛利攻めや滝川、柴田の相手をして家康、島津と自身が出陣していつ教養を磨いてるの?と疑問です。多分勉学とかより茶の作法や歌が彼にとっての教養だったんですかね?もしかしたら歴史上自分たちが知らない偉人が隣にいたのかも知れません。
一応、今川家の陪審に成ったときに勉強はしてる。当時の主君から相当可愛がられたらしく、色んな教養を身に着けさせてもらったとか。
@sansei9 その程度じゃとても無理仕事をしながらたった数年
現在の静岡県袋井市辺りを拠点にしていた松下家の古門状から秀吉が15歳~17歳の2年間松下家(200石)で足軽として働いていた記録が残っていましたね後に秀吉が天下統一をした後にお礼として河内の国に3000石の領地を加増されています。松下家は関ヶ原前哨戦では徳川方として参加しています。松下家は柳生家の親族で一柳家も同族です。以上
悪説は、徳川側が書き換えたのでしょうね。
戦国時代は親子でも殺し合いが普通です。秀吉だけが特に異常というわけではありません。
手本となるものを深く理解して模倣しそれを発展させることに長けていたけど、新しいものを作り上げる才はあまり無かったのかなと思います信長の武力ではなく経済力で戦争をするというやり方を信長自身以上に最も理解していたのは秀吉だと思いますそれが天下統一には大いに役立ったと思いますが、統一した後の治世に関しては手本となるものが無かったため、あれほどグダグダになってしまったのかなとストレスも相当なものだったでしょうから、いくつかの奇行もそのストレスか元にあるのでしょう
秀吉は実は当時「ワタリ」とも呼ばれていた流浪の建設労働者、街や村が焼ければ材木を切り倒して家を再建する一族の出だという説がありますね。秀吉の配下に藤堂高虎・加藤清正・黒田官兵衛・加藤嘉明という築城の名手がいて、秀吉自身も築城に一過言持つ建築関係のエピソードの多い武将ですから。
大名同士の私闘を禁じたり、戦の死傷者を減らすために水攻めを実行したり大名の子弟を養子にして七五三のように服を着せてやり喜んでみたり一介の武将ではない、人品と徳性があって魅力的な人物ですよね豊臣秀吉は。有名な肖像画もまさに七五三のようで、50を過ぎたはにかむ少年の親は誰なのだろう?彼は将軍ではなく公家になりたかった人です
秀長は100万石に大納言。そんだけ重用されてて、たかが一回挨拶を拒否されたからって希薄は無理がある。秀長は他にもえげつない方法で私服肥やしてる前科あるのにその程度の罰で済んでる。秀次も秀吉に子が産まれるまでは関係良好で後継者扱いだからな。むしろ扱いを良くしすぎたが故に後の事件が起きている。朝日は家康の正室だぞ。母親も一緒に送るくらい重要な外交だった。無理やり離縁は100年以上も後に書かれた本が初出の信憑性が薄い話にすぎないし。
紀州での木材横領事件の後に秀吉は秀長に出仕停止処分を下しています。その後、秀長は病を発症しまし一度も秀吉へ会うこと無く亡くなって居ます。重複しますがその間秀吉が自身でも使者を遣わしてでも見舞った事も無く、秀長への葬儀にも自身も豊臣政権としても関わった記録が残って居ませんそもそも秀長はその前にも秀吉を激怒させる事件を起こしています。九州出兵の秀長は日向路の大将を務めて居ましたが、配下武将に兵糧を相当高値で売りつけて居ました。これに配下の将兵は根を上げ肥後路の秀吉に訴えでます。事情を知った秀吉は激怒し「お前はボリ過ぎだ!」と言う内容の書状を出しています秀長の問題として金に貪欲と言う面は間違い無くあり様々な同時代史料に「金に貪悪」と罵られています秀吉は九州征伐と木材横領事件で豊臣家の信頼性を損なうと危惧してもおかしくはないですね
朝日姫は秀吉の妹だけど美人だったそうです
@@toshis3972 一癖も二癖もある寺院勢力を懐柔するには金が要る、そりゃ金銭にどん欲になるよ。
@@高橋秀哲 さん。その話は小説ではよく見ますが実際の一次史料ではどういうものに記載されているのでしょうか?
@@pontarou01 朝日はクソブスだったらしいが違うのか
秀吉って子孫いないから好き勝手言えるけど日本列島を初めて一つの「国」にしただけで英雄だがな。それまでは日本内で国が別れてたんだから。
太閤記は特に秀吉を美化してるので個人的には信憑性の低い資料だと思います!
大河ドラマのイメージとはもう大違いかな?
はい あれはあくまでもドラマですから実際 史実改変もしますし
京都の公家に金を渡して自分の家系図を偽造させたらしいからな藤原姓にしたのも無理がありすぎる
信長公記とは真逆だよね>太閤記の信頼性
うん もっとも信用性の低い資料
出自は尾張中村が通説ですが、秀吉自身が現在の愛知県江南市生まれ、と言っていると聞いたことがあります。また、宣教師の記録には「彼は美濃国の出で、薪芝を売って生計を立てていた」とあるそうです。
江南市には信長の側室だった吉乃の実家で有る生駒氏の館が有りました。生駒氏は商いもしておりいろんな商人が出入りしていたと言われます。濃尾平野は河川があちこちに有り土豪らは川並衆として水運を利用した運送業が盛んでした。蜂須賀小六はその川並衆だと言われています。秀吉はその配下として商いをしていたのかあるいは生駒館に出入りすることで小六らと面識を持ったと思われます。信長に使えたのも生駒館での出会いからでしょう。秀吉の活躍で史実らしき最初のものが犬山城の向かいに有る美濃の鵜沼城攻め。鵜沼城にはかつて行商当時の知り合いが居て調略に成功します。秀吉の城攻めには物資をあらかじめ買い占めて置くなど商人としての側面が多く見られます。信長に使える前に商いをしていたと言うのは間違いないでしょう。
14:00 指が6本フランスのスペイン国境よりタルブ・ルルド・ピレネー空港の出発ロビーで、小指の外側にもう一本指を持った黒人の宣教師を見たことがあります。多分私と同じパリ行きの便だったと思います。宣教師は同職の男性と共にイスに着席していました。外国の人にありがちな身振り手振りは二人とも全くなく股の間に両手の甲を軽く乗せて居るか頬の高さまで上げる程度で、この時に6本目の指が所在なさげにフラフラと揺れて居る感じがしました。おそらく五本の指とは手の甲側との繋がりが異なって居たのだと思いました。この有様は反対側の手も同様でした。そうそう、手袋に指を通していない状態のブラブラのそれのようです。彼はベンチに腰を下ろして居ても、座高はとても高く、隣の白人宣教師が子供のようでした。当時空港内の照度は暗く、観測するには不向きでした。矮小的な人や色素に不足?がある場合には、性欲欲望が強い傾向があると聞きますが(スポーツ選手は性欲が強い的…話)秀吉の話に通じるようでした。秀吉さんは何処で?誰にうつされたのでしょう。フロイスの仕込んだ女史による感染症?フロイスには秀吉つまるトコロ、邪魔な存在では?と思えてしまいます。
今川の松下に就職した秀吉が、家計のやりくりの大改革をして、主君には喜ばれたが、家臣の総すかん、いじめを食って尾張に戻ったという話 好きさらに中国地方を偉そうに馬に乗って行進したら、中国地方の豪族の総すかんを食って、馬から降りてへいこら謝ったというのも 好きいじめられっ子だったんだ
面白かったです!(しゅつじ) 英雄色を好む! 家康の後家好み(出産経験がある)やはり天下を取る(収める人は違います)
太閤さんの一番の哀しみと辛さは、信長公にとっての藤吉郎秀吉に当たる「卓越した子飼い家来」がいなかった事だと思っています。家来に仕事を与えても自分がやってきた自己犠牲・献身・血の滲むような努力と成果を得ることが無い。言い訳と家来間の不和・対立或いは仲間内の談合で、命令の執行が捗どらずに時間と軍資金の浪費させて戦略的に上長の意図を理解出来ていないことに失望することになる。大きな能力差って太閤さんの超人的なコミュ力をもってさえ孤独感と寂寞感を埋めることに苦しんだのではと思います。
子飼いではないけど、竹中半兵衛や黒田官兵衛みたいな劉備に対する諸葛孔明のような卓越した人材がいたし、石田三成も子飼いとして計数に長けた人材だった。他もそんなに見劣りするような配下ではなかったと思う。秀吉子飼いは互いに争って豊臣を潰したから将兵としての才しか持ち合わせてなかったようですが。
父親は誰なのか分からないこそ息子に溺愛して父親としての教育を息子にできなかった。もっと家族とは何かを理解し大切にしていれば、もう少し豊臣の世だったかも知れませんね。それに恋愛結婚ですし簡単に側室が持てなかったことも子孫を残すということでいえば不利だったのかな?
秀吉が幼少期に教育を受けられたかどうかは主題ではないのではなかろうか。秀吉は恐ろしく頭の良い秀才。頭の良い人は一瞬でなんでも出来るようになる。現代に生きていたら東大に余裕で合格していたでしょう。そういう秀才が出世する為に研鑽していたと思う。振る舞いやコミュニケーションまで。本当の性格を抑え込み相当なストレスがあったと思う。それが天下人になってから解放され本当の性格を隠さなくなったと思う。
貴重なチャンネルですね。
6っ本指は有名な話しです。
身体異常は現代でも起こりうる。しかし赤ん坊のうちに手術してしまえば健常者と変わらない。
竹中直人さんの豊臣秀吉公が好きなので、秀吉公の悪口は言いたくないなと思いますが、(笑)秀吉公の家系は、皆さん短命なイメージですね。短命という宿命を知って、何とか子孫を残したい、生きている内に頂点に駆け上りたいなんて意識があったとすると、切なさを感じます。「鳥取城の餓◯し」、「文禄・慶長の役」など信長公を超える残忍な面も確かにありますが、私は個人的に貪欲に生きた人間臭さが好きで憎めないんですよね。兄弟仲が冷淡に見えるのは、戦国の世というのがあったからなのかなと感じたりします。さすが歴史じっくり紀行様、戦国時代の解説、お手の物ですね。お話し、大変面白かったです。長文すみません。
なぜ「豊鑑」が正しいと言えるのか?母の縁者でその後大名になった諸氏が下層民出身だと言われていなのはなぜ?武功夜話を出典としてる部分もあるが武功夜話の怪しさは今更いうまでもないでしょう。
このチャンネルって歴史の細道と運営一緒?
真実なんて誰も分からんよ、分かるはずがない。分かってる事は秀吉は政治的に有能で運も強かったけど、その運も長く続かず一代で終わったって事だけだよ。
梅毒説については疑問梅毒なら間違いなく淀殿には感染していたでしょうし秀頼にも垂直感染していたと考えるべきですね。
ありがとうございます!とても興味深いご指摘ですね。
大勢の側室を抱えていたとしても 両家の子女たちだったとしたら梅毒はあまり考えられないのではないでしょうか梅毒が顔に出たりするのは隠しようがないのでどうしたって記録されてしまうと思いますが今まで聞いたことがありません貧しい農民でであるという風に子供の頃から思い込んでいるのでそのこと 一つとってもあれほどの 賢い人が教養がなかったはずがない天性の 賢さだけではないなどと今まで思いもしませんでした目から鱗です
秀吉さんの遺骨ってのは調査済みなのでしょうか?家康のはまだで信長のは元々見つからないんですよね?最新科学でかなりディープなところまで判明できたら面白いと思います。
多くの側室を持ちながら淀との子しかできなかったのも謎。
南の方との間に男子が産まれたとの記録がある。その名前が秀勝で同じ名前は養子2人が引き継いでいる。
つまり子の父親は秀吉ではない、ということも当時からまことしやかに言われていたらしい。
種なし淀殿の子は今でいう精子バンクの寺でこさえたともしかし北政所(おね/ねね)は子を授かったことがあるらしい謎
これは面白い。
ネットの影響か有名無名の武将の逸話が色々出過ぎて「何が通説やら」状態に。
朝日姫も辛いだろうけど、家康も辛かったんじゃないかな?顔が秀吉の女版じゃないかって
開幕以来、取引によって武家の棟梁が勝ち得た最高位が征夷大将軍だったのですが、その権威のもとで臣への任官が行われてきたのですよね。何故秀吉は征夷大将軍に任官しなかったのでしょう。何故その権威を再び朝廷にのみ依存する関白太政大臣任官に頼ったのでしょう。何故昇進のために次々と公家を乗り換えるという離れ業が許されたのでしょう。当時の肌感覚もなく卑小菲才の身でありますので謎ばかりです。
トリソミー。。?ダウン症のことか。。しかし、それでは、政治家は無理だろう。。
出自が分からんからどごぞの馬の骨でしょ?ちゃんとした名家なら記録あるでしょ?劉備と同じレベルで怪しいわね😂じゃなきゃ日本史に置いてここまで伝説にはならんでしょ?
秀吉は、捏造度が高く分かりません😅
豊臣秀吉が木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に金目教という怪しい宗教が流行っていた・・。
仮面の忍者赤影ですねぇ~。懐かしい。
梅毒。こわい。みんなも気を付けてね。
戦闘指揮官職は地図読めて数学的知識ないと絶対無理だから教養必須なんで卑賎の身の指揮官って矛盾した言葉なんだよな。その辺習得する期間が怪しい秀吉が日本最高勝率に近い名将になったのはかなりおかしい。転生者と言われた方がむしろ納得するわ。
五胡十六国時代の後趙の石勒とか文盲でも他人に書物を読ませて聞くのを好み、様々に評論した。ジンギスカンも数学的知識なんてあるはずもないが世界帝国への礎を築いた。秀吉には竹中半兵衛がいる。黒田官兵衛がいる。石田三成がいる。その配下の意見を聞き指揮すれば良いだけで、漢の劉邦などと同じで有能な部下を持ち合議で意見をまとめる能力があれば総大将としての戦闘指揮は可能。
おねが残忍な意地悪BBAだったのもあまり知られてませんね。捨にした事とかゾッとします(><)
幕府を創った将軍と創らなかった将軍は何が違うのか教えて下さい。
秀吉が耄碌したという史料はありませんよ、国内を統一して外征をするのは古今東西どこの英雄もやっている当然の行為であり、むしろやらない者たちより優れていた証拠です、作戦指導も合理的でその指揮もとっており、戦ではほぼ負けなしで終わってます。
萩と荻は違います。
だいたい出自からして本当のことが分からないんだよなこの人。
秀吉というと悲惨の出としてさげすまれることが多いが、秀吉がいなければ平和が訪れるのはまだまだ先であったであろうし、中国同様に西洋諸国によって侵略されていたかもしもしれません。そう考えると日本国の大恩人の一人だと思います❗️
主の姪っ子を側室にして、家臣の大名や公家からも側室集めてて嫌われる要素しかない。何でも有りの戦国時代でも、さすがに誰かの足軽とかやってたって考えないと軍団長として毛利家を攻めたり出来ないよ。名前は変えれるわけだからさ。秀吉なんか木下羽柴豊臣って少なくても三回変えてるし可能性はある。勝家信孝丹羽佐々蒲生千利休秀次って味方だった人達を簡単に抹殺したり冷遇したり冷酷な人なのは間違いない。最後は発達障害が悪化したか、毒を少量ずつ盛られてて蓄積して弱った説が正しいと思う。亡くなったら味方だと思ってた人達は大半は裏切り頼みの前田家まで裏切られた。人徳無しの恐怖政治をやってた証拠だろ。キリスト教の奴隷連れ去り阻止だけは功績かな。京都に自分の城を建てたりやりたい放題。
血筋は大事だろ?何処の馬の骨と解らん奴は信用出来んw
よく家族仲良さそうに描かれるけど母親とは微妙だし秀長も晩年は…
一八トリソミーならば、子供が出来なかったのも合点がいく、、、ということは、息子は、、、、、
先日野上弥生子の秀吉と利休を読みました、小説ですが本当に利休不思議な自害のさせられ方です。作中の秀吉突発的に怒って残酷な振る舞いに走ることがあります。
小説の世界ならではの解釈ですね!
秀吉がいなければ、ポルトガルの植民地にされていたよ
秀吉が梅毒だったなら、淀君もなってたのでは?
「片親が違う可能性があっただけで、兄弟姉妹の子を処すとは、豊臣秀吉という男は天下を取ってからは狭量な心じゃのぅ」By源頼朝
一説には名前すら無い身分でだったと言うことさらには通説に置いて今川の足軽から織田の足軽と言うのも実は全く違ったと言う説を明智憲三郎氏が本にて書いてます!
あんなトンデモ本書いてるあやしげな人物を根拠にされてもなあw
あくまでも説の一つとして書いただけ
@@SMK皇帝ファントム陛下Japan 「司馬遼太郎の小説ではこういってるから」って説のひとつとするのと代わりませんぜ・・・
この人の話は自身の想像が一番に来るの?さいなら
『天下布武』『天下惣無事』『天下偃武』。三者、三様。天下の権。
本物の秀吉図画は伝信長の絵ですよ‼️家康の図画に三方ヶ原の絵をよく観て下さい、顔は豊臣秀吉の図画と同じですね~‼️サルと云うのは世良田の事で家康の事ですよ‼️三重県の猿田彦神社の猿田彦は天狗の鼻を付けた秀吉の顔‼️滝川一益と云う老人、「一益」と云う字は「イエヤス」にも「ヒデヨシ」にもなるんですよ‼️1人で両方名乗っていた奴がいますね~‼️猿田彦神社のアメノウズメはヒデヨシの妻のオネ姫じゃないかなぁ⁉️
18トリソミーでは現代ですらほぼ成人すらできない。ましてや戦国時代に正常もしくはそれ以上の知能を持ち、それ相応に身動きの取れる健常な身体を持って熟年期まで永らえるのは絶対に不可能。もうちょっとモノをよく考えて動画にするべき。
秀長の横領事件に関しては身内だからこそ厳しくする必要もあったとも思える
秀長を毒殺したら秀頼を守る家臣は家康にわ役不足で秀次や秀頼が生きていたら家康の天下はなかったでわなかのかな?。
通説とはまったく違うというほどではなかったです。
書籍スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン、奈良静馬著書の書籍を読めば、秀吉の力がよくわかるけど。
京に奈良の大佛殿より大きい寺を作り😮日光東照宮のモデルになった豊国宮⛩️😮
秀吉って三口で三つ目だったんだろ?
新政府の立身出世の物語!
秀吉に関しては小牧・長久手の戦いより前から家康と腹合わせしていたようにも思えるんだよなぁ関東移封とか子供のいない秀吉が自分の死後に大きな混乱が無いように家康の部下の地縁を切って行政官としての経験を積ませる為で、秀吉は朝廷とかがやんちゃしないように近畿で目を光らせていた気がしてならない朝鮮出兵も徳川以外の大名の余力を削る目的で、家康もその路線を引き継いで様々な築城普請などで諸大名の財政に負荷を掛けた秀頼も徳川への政権移譲への人身御供としての価値しか無くて、余生を心配したのは糟糠の妻である北政所だけのような気がするそれでも家康は豊家を遺す気持ちはあったように見えるけど、最後は戦国への未練を断つように滅ぼした秀吉は家康にトップに立つ人間の在り方みたいなモノを英才教育したのだと思うその為に徳川家の発展の邪魔はせず、諸大名が秀吉のムチに対するアメとして家康の評価が自然に高まるよう配慮していたと感じる秀頼と千姫の婚姻により「外戚」としての「立場」すら与えているのも秀吉の死後でも権力を維持する為だと考える秀吉にとっては豊臣家なんかよりも自らが苦労して作り上げた「日本」を末永く存続させる事が一番だったのではないか?と感じさせる「英雄」かな多分、石田三成も共犯で関ヶ原に毛利引っ張りだしたのも瀬戸内から外国との交易で力を持ちすぎないように力を削ぐ指示出ていたようにも感じる辺り、妄想の素材としては楽しめる
三谷幸喜の清須会議で、秀長や大政所が自宅の庭で百姓やってるんだけど、本業としてやってるみたいなのね。いくらエンタメとはいえあまりに酷すぎて逆に笑った。
秀吉は宇宙人だった
秀吉はサンカの出
確定してからUpしてね😊
✖
秀吉のル一ツは京都の基礎を作った秦氏(古代イスラエルからの渡来人といわれる)だったから天下人まで出世できたという説がありますね。
全体的に10年前くらいの秀吉の情報ばかりでタイトルにふさわしくありませんし、BGMのインチキ英語日本風歌謡曲もはなにつきます。要改善かと。ナレーションはとても上手で聞きやすいので後は二湯かと。また画像引用についてもルール通りされた方が良いかと思われます。
偉そうでめっちゃ草
@@明石則実 お前は卑屈過ぎて笑えるけどな。
上から目線で言われたらそりゃいい気分じゃないよ
@@こるとどんがお答えします1 検索汚染。2you tubeの収益について。3謙遜と卑屈の違いについて。以上3点についてよくお調べになりお考えの上ご記入ください。上から他人に謙遜を求める人間は慎み深いといえるか?は最低でもお考え下さい。
めんどくさい人だなあ
秀吉を貶めるための動画に思えます。彼の良いところの紹介が何もない。最近のNHKドラマも秀吉を矮小化したがるように思えてなりません。
秀長は朝鮮出兵のまえに亡くなっているとおもったけど...
京三条河原での大量の惨殺は秀吉が赦免を発したが、秀吉を貶めるため家康が服部一族を使い妨げたという可能性があるとかないとか。この手の荒唐無稽な話オラ ワクワクすっぞ
木下藤吉郎は好きだが豊臣秀吉は大嫌い❗
由緒があればあるほど渡来の民族、渡来の血、何でしょうね。
秀吉は根性の曲がったクソ野郎だ。
猿?はげねずみ?
信長に「猿」と呼ばれたのは、猿の様に素早い忍者だったから、だとか。晩年に朝鮮半島を攻めたのは、元々、秀吉が半島出身だったから、だとか?
京都奉行は秀吉一人ではありません。他の武将も数人いて奉行をしその中の一人でしかありません。秀吉自身は岐阜にいて実際は秀吉の与力であり腹臣の蜂須賀正勝さんが代理奉行として京都に駐在しています。御所が三好家に襲撃、放火された際は三好を撃退し火災を鎮火させたのは蜂須賀正勝さんでした。もちろん信長からもめちゃくちゃ褒賞をもらってます。足利義昭からは桐の紋が入った羽織をプレゼントされ家紋としても蜂須賀家は使用してますよ
若い女の子のハーレム作れて羨ましい。
単なる秀吉を貶める動画だな。醜いな。
織田家のル一ツは忌部氏、徳川家のル一ツは賀茂氏。三家共に古代イスラエル系渡来人だから天下人になれたとも言えますね。
織田家は桓武平氏では無かったのですね。
ニチユ同ソロンとか信じちゃってる感じ?
秀吉はね、朴さんなのよ。
謎はないよ…底辺の出で一生懸命頑張った結果、天下とって好き放題やっただけだよ…以上。
日本の歴史
母である大政所(なか)の姉妹が尾張や美濃の地侍や織田家の下士に嫁いでいるのを見ると、決して貧農出身とは思えないんですよね
妻である北政所(寧々)は浅野・杉原一族出身で織田家に置いて騎乗身分(中級)の家柄なんですよね。尾張・美濃に広く支族が広がって居て一族としてはそこそこの規模です。で、北政所の母親が秀吉と野合(親の許可なく結婚する事)を怒っている記録が残って居ますが、決して相手(秀吉)の出自の低さとかには言及していない。動画にある通り秀吉が歴史の史料に表れた時には既に織田家の重臣クラスなんですよね。北政所との結婚はそれより最低4,5年は前で秀吉もそこまで出世して居なかったと思われますが家柄・出自には一切文句が出て居ない
秀吉の家族回りから攻めてみると秀吉自身が喧伝した低い身分から出世したと言う”お話し”には相当注意して見ないと
最後に秀吉の出身地ですが、尾張徳川家は戦国期の尾張国調査を大々的に行って居ます。現地農民からの聞き取り調査で中村を秀吉の出身地としています。旗本家としては残った大政所一族の福島家でも中村が秀吉の出身地としていますね
個人的には色々総合すると織田家において下士だったが同時に地主階級の富農の出身だったと言う所かと。武家社会と言うのは江戸時代末でも意外と武家と富農との境界が曖昧です、川路聖謨は武士として最下層(現地農民の一代限り雇用)から勘定奉行まで出世しています。秀吉の実家もそういう階層だったのではと思いますね
鋭い考察ですね。すごく参考になります。
なげ〜んだよ
なげ〜んだよ
遠江国衆の天野氏の被官(の一族)だったという説もありますね
宣教師の記録を読むと貧農で母親は売春婦だったとしている。宣教師を追放したことからかも知れない。他の記録を見ると馬一頭を有する程度の郷士だったとある。
権力者が多くの側室を持つのは東アジア全域の習慣なので秀吉だけが特別だったとは思えません、それに年を取ってから判断力に陰りが見えてきた英雄も孫権を始め世界中に枚挙に暇がないのでこれも秀吉が特別だったとは考えられません。
秀吉が人たらしだったってのも死後に広まったもので
当時の一次資料には記載がないんですよね
人身売買宣教師を駆逐した話はどうなんですか?日本を護ったとも言えると思いますが…
秀吉は英雄
秀吉は植民地にされることから守った
それも相当美化された話で、真実はキリスト教を学んだ少女が自分の意思を持つ事に目覚めて秀吉との夜の営みを拒んだのがキリシタン追放の原因
自分の下衆い欲望を満たせなくなった故の暴挙だよ。実に日本人らしいと言える
ちなみに朝鮮出兵がスペインの侵略を防ぐためってのも大嘘で単なる領土欲だから
ですよね‼️
朝鮮出兵の絡みでサヨク陣営から嫌われて、アホで下品なおっさんに描かれる事が多い。
秀吉は色々と理解出来ない、不明な事が多い人物ですが、何故北陸の撤退を行えたのか。
主君信長からの援軍命令であれば、敵前逃亡など『4』を意味する行為なのですが。。。
投稿お疲れ様です!
『武功夜話』は信用できないと言われていますが、一部には事実も含まれていると思います。それによると
秀吉は、織田信長の側室だった吉乃(生駒氏)の縁者と思われます。その同じ縁者には蜂須賀小六ら尾張や美濃の土豪もいることから、秀吉の出身層も尾張中村の土豪だったと思われます。
信長の側室の元で育ったため武家としての教養を一通り備えており、中村の通商的な要地から商業にも精通し豊富な見識を得ていたと思います。
秀吉は側室の縁者だったため、信長は正室をおもんぱかってその素性を公表しなかったのでしょう。織田家の重臣たちはこのことを知っていたと思われます。織田家の家臣には譜代と新参の区別がもちろんあり、秀吉は新参者なので柴田勝家ら譜代家臣から眉をひそめて見られていたのはあると思います。
側室の縁者ゆえにとびぬけた出世をしたと思います。
濃姫は子供を産んでいません。信長の子供2人をこの吉乃が生んでいます。
文献の真偽はつまるところ、著作者の胸の内という事・・・ですか。
秀吉だけで無くあの時代は身内は駒なので扱いは基本だったのです😮
多分農民の中では豪農だったでしょう秀吉の実家は。
秀吉や兄妹の教養を見てもかなりだよ。最下層では絶対にない。
それでも武士からみれば最下層も同然だったかもしれないが。
上級武士である侍から見れば足軽も農民も似たような物だったでしょうね。
当時はその辺曖昧だったし。
秀吉においてもっとも腑に落ちない点は教養力と発想力
当時武士階級とそれ未満では明らかな教養の差があったはず
いくら商人として諸国を回っていたといっても一朝一夕で見に付くものではなく
幼いころから体系的に身に付けなければつくわけがない
また秀吉が幼少の頃寺で修行していたと主張する者がいるが、それならばなぜ秀長までも
大大名となり秀吉の参謀ができるほどの教養力があったのか 合理的でない
そして発想力 思い付きで出来るレベルのモノではないことは確か
たとえば一夜城
アレは明らかなプレハブ工法で相当高度な計算測定技術がいる
たとえば倹約法
当時の物品の管理は余りものをその役についていた者たちがもらっていく、そういう役得分を
考慮しており、そういう役得の上に忠義が成り立っていた
したがってそれをなしにしてしまえば忠義は成り立たなくなる
現代の様なドライな関係は当時において成り立つはずがない
じゃあ、秀吉はどこから来たのか
まさのこの点で、彼は「どこから来た」のかだ
長浜に移ってから京からも近くある程度の教養の機会もあったと思うけど、その後毛利攻めや滝川、柴田の相手をして家康、島津と自身が出陣していつ教養を磨いてるの?と疑問です。多分
勉学とかより茶の作法や歌が彼にとっての教養だったんですかね?もしかしたら歴史上自分たちが知らない偉人が隣にいたのかも知れません。
一応、今川家の陪審に成ったときに勉強はしてる。
当時の主君から相当可愛がられたらしく、色んな教養を身に着けさせてもらったとか。
@sansei9
その程度じゃとても無理
仕事をしながらたった数年
現在の静岡県袋井市辺りを拠点にしていた松下家の古門状から秀吉が15歳~17歳の2年間
松下家(200石)で足軽として働いていた記録が残っていましたね後に秀吉が天下統一を
した後にお礼として河内の国に3000石の領地を加増されています。
松下家は関ヶ原前哨戦では徳川方として参加しています。
松下家は柳生家の親族で一柳家も同族です。以上
悪説は、徳川側が書き換えたのでしょうね。
戦国時代は親子でも殺し合いが普通です。秀吉だけが特に異常というわけではありません。
手本となるものを深く理解して模倣しそれを発展させることに長けていたけど、新しいものを作り上げる才はあまり無かったのかなと思います
信長の武力ではなく経済力で戦争をするというやり方を信長自身以上に最も理解していたのは秀吉だと思います
それが天下統一には大いに役立ったと思いますが、統一した後の治世に関しては手本となるものが無かったため、あれほどグダグダになってしまったのかなと
ストレスも相当なものだったでしょうから、いくつかの奇行もそのストレスか元にあるのでしょう
秀吉は実は当時「ワタリ」とも呼ばれていた流浪の建設労働者、街や村が焼ければ材木を切り倒して家を再建する一族の出だという説がありますね。秀吉の配下に藤堂高虎・加藤清正・黒田官兵衛・加藤嘉明という築城の名手がいて、秀吉自身も築城に一過言持つ建築関係のエピソードの多い武将ですから。
大名同士の私闘を禁じたり、戦の死傷者を減らすために水攻めを実行したり大名の子弟を養子にして七五三のように服を着せてやり喜んでみたり
一介の武将ではない、人品と徳性があって魅力的な人物ですよね豊臣秀吉は。有名な肖像画もまさに七五三のようで、50を過ぎたはにかむ少年の親は誰なのだろう?
彼は将軍ではなく公家になりたかった人です
秀長は100万石に大納言。そんだけ重用されてて、たかが一回挨拶を拒否されたからって希薄は無理がある。
秀長は他にもえげつない方法で私服肥やしてる前科あるのにその程度の罰で済んでる。
秀次も秀吉に子が産まれるまでは関係良好で後継者扱いだからな。むしろ扱いを良くしすぎたが故に後の事件が起きている。
朝日は家康の正室だぞ。母親も一緒に送るくらい重要な外交だった。無理やり離縁は100年以上も後に書かれた本が初出の信憑性が薄い話にすぎないし。
紀州での木材横領事件の後に秀吉は秀長に出仕停止処分を下しています。その後、秀長は病を発症しまし一度も秀吉へ会うこと無く亡くなって居ます。重複しますがその間秀吉が自身でも使者を遣わしてでも見舞った事も無く、秀長への葬儀にも自身も豊臣政権としても関わった記録が残って居ません
そもそも秀長はその前にも秀吉を激怒させる事件を起こしています。九州出兵の秀長は日向路の大将を務めて居ましたが、配下武将に兵糧を相当高値で売りつけて居ました。これに配下の将兵は根を上げ肥後路の秀吉に訴えでます。事情を知った秀吉は激怒し「お前はボリ過ぎだ!」と言う内容の書状を出しています
秀長の問題として金に貪欲と言う面は間違い無くあり様々な同時代史料に「金に貪悪」と罵られています
秀吉は九州征伐と木材横領事件で豊臣家の信頼性を損なうと危惧してもおかしくはないですね
朝日姫は秀吉の妹だけど美人だったそうです
@@toshis3972 一癖も二癖もある寺院勢力を懐柔するには金が要る、そりゃ金銭にどん欲になるよ。
@@高橋秀哲 さん。その話は小説ではよく見ますが実際の一次史料ではどういうものに記載されているのでしょうか?
@@pontarou01
朝日はクソブスだったらしいが違うのか
秀吉って子孫いないから好き勝手言えるけど
日本列島を初めて一つの「国」にしただけで英雄だがな。
それまでは日本内で国が別れてたんだから。
太閤記は特に秀吉を美化してるので個人的には信憑性の低い資料だと思います!
大河ドラマのイメージとはもう大違いかな?
はい あれはあくまでもドラマですから
実際 史実改変もしますし
京都の公家に金を渡して自分の家系図を偽造させたらしいからな藤原姓にしたのも無理がありすぎる
信長公記とは真逆だよね>太閤記の信頼性
うん もっとも信用性の低い資料
出自は尾張中村が通説ですが、秀吉自身が現在の愛知県江南市生まれ、と言っていると聞いたことがあります。
また、宣教師の記録には「彼は美濃国の出で、薪芝を売って生計を立てていた」とあるそうです。
江南市には信長の側室だった吉乃の実家で有る生駒氏の館が有りました。生駒氏は商いもしておりいろんな商人が出入りしていたと言われます。濃尾平野は河川があちこちに有り土豪らは川並衆として水運を利用した運送業が盛んでした。蜂須賀小六はその川並衆だと言われています。秀吉はその配下として商いをしていたのかあるいは生駒館に出入りすることで小六らと面識を持ったと思われます。信長に使えたのも生駒館での出会いからでしょう。秀吉の活躍で史実らしき最初のものが犬山城の向かいに有る美濃の鵜沼城攻め。鵜沼城にはかつて行商当時の知り合いが居て調略に成功します。
秀吉の城攻めには物資をあらかじめ買い占めて置くなど商人としての側面が多く見られます。信長に使える前に商いをしていたと言うのは間違いないでしょう。
14:00
指が6本
フランスのスペイン国境よりタルブ・ルルド・ピレネー空港の出発ロビーで、小指の外側にもう一本指を持った黒人の宣教師を見たことがあります。多分私と同じパリ行きの便だったと思います。
宣教師は同職の男性と共にイスに着席していました。外国の人にありがちな身振り手振りは二人とも全くなく股の間に両手の甲を軽く乗せて居るか頬の高さまで上げる程度で、この時に6本目の指が所在なさげにフラフラと揺れて居る感じがしました。おそらく五本の指とは手の甲側との繋がりが異なって居たのだと思いました。この有様は反対側の手も同様でした。
そうそう、手袋に指を通していない状態のブラブラのそれのようです。
彼はベンチに腰を下ろして居ても、座高はとても高く、隣の白人宣教師が子供のようでした。当時空港内の照度は暗く、観測するには不向きでした。
矮小的な人や色素に不足?がある場合には、性欲欲望が強い傾向があると聞きますが(スポーツ選手は性欲が強い的…話)
秀吉の話に通じるようでした。
秀吉さんは何処で?誰にうつされたのでしょう。フロイスの仕込んだ女史による感染症?
フロイスには秀吉つまるトコロ、邪魔な存在では?と思えてしまいます。
今川の松下に就職した秀吉が、家計のやりくりの大改革をして、主君には喜ばれたが、家臣の総すかん、いじめを食って尾張に戻ったという話 好き
さらに中国地方を偉そうに馬に乗って行進したら、中国地方の豪族の総すかんを食って、馬から降りてへいこら謝ったというのも 好き
いじめられっ子だったんだ
面白かったです!(しゅつじ) 英雄色を好む! 家康の後家好み(出産経験がある)やはり天下を取る(収める人は違います)
太閤さんの一番の哀しみと辛さは、信長公にとっての藤吉郎秀吉に当たる「卓越した子飼い家来」がいなかった事だと思っています。家来に仕事を与えても自分がやってきた自己犠牲・献身・血の滲むような努力と成果を得ることが無い。言い訳と家来間の不和・対立或いは仲間内の談合で、命令の執行が捗どらずに時間と軍資金の浪費させて戦略的に上長の意図を理解出来ていないことに失望することになる。大きな能力差って太閤さんの超人的なコミュ力をもってさえ孤独感と寂寞感を埋めることに苦しんだのではと思います。
子飼いではないけど、竹中半兵衛や黒田官兵衛みたいな劉備に対する諸葛孔明のような卓越した人材がいたし、石田三成も子飼いとして計数に長けた人材だった。他もそんなに見劣りするような配下ではなかったと思う。
秀吉子飼いは互いに争って豊臣を潰したから将兵としての才しか持ち合わせてなかったようですが。
父親は誰なのか分からないこそ息子に溺愛して父親としての教育を息子にできなかった。もっと家族とは何かを理解し大切にしていれば、もう少し豊臣の世だったかも知れませんね。それに恋愛結婚ですし簡単に側室が持てなかったことも子孫を残すということでいえば不利だったのかな?
秀吉が幼少期に教育を受けられたかどうかは主題ではないのではなかろうか。
秀吉は恐ろしく頭の良い秀才。
頭の良い人は一瞬でなんでも出来るようになる。
現代に生きていたら東大に余裕で合格していたでしょう。
そういう秀才が出世する為に研鑽していたと思う。
振る舞いやコミュニケーションまで。
本当の性格を抑え込み相当なストレスがあったと思う。
それが天下人になってから解放され本当の性格を隠さなくなったと思う。
貴重なチャンネルですね。
6っ本指は有名な話しです。
身体異常は現代でも起こりうる。しかし赤ん坊のうちに手術してしまえば健常者と変わらない。
竹中直人さんの豊臣秀吉公が好きなので、秀吉公の悪口は言いたくないなと思いますが、(笑)秀吉公の家系は、皆さん短命なイメージですね。短命という宿命を知って、何とか子孫を残したい、生きている内に頂点に駆け上りたいなんて意識があったとすると、切なさを感じます。「鳥取城の餓◯し」、「文禄・慶長の役」など信長公を超える残忍な面も確かにありますが、私は個人的に貪欲に生きた人間臭さが好きで憎めないんですよね。兄弟仲が冷淡に見えるのは、戦国の世というのがあったからなのかなと感じたりします。さすが歴史じっくり紀行様、戦国時代の解説、お手の物ですね。お話し、大変面白かったです。長文すみません。
なぜ「豊鑑」が正しいと言えるのか?母の縁者でその後大名になった諸氏が下層民出身だと言われていなのはなぜ?武功夜話を出典としてる部分もあるが武功夜話の怪しさは今更いうまでもないでしょう。
このチャンネルって歴史の細道と運営一緒?
真実なんて誰も分からんよ、分かるはずがない。分かってる事は秀吉は政治的に有能で運も強かったけど、その運も長く続かず一代で終わったって事だけだよ。
梅毒説については疑問
梅毒なら間違いなく淀殿には感染していたでしょうし秀頼にも垂直感染していたと考えるべきですね。
ありがとうございます!とても興味深いご指摘ですね。
大勢の側室を抱えていたとしても 両家の子女たちだったとしたら梅毒はあまり考えられないのではないでしょうか
梅毒が顔に出たりするのは隠しようがないのでどうしたって記録されてしまうと思いますが今まで聞いたことがありません
貧しい農民でであるという風に子供の頃から思い込んでいるのでそのこと 一つとってもあれほどの 賢い人が教養がなかったはずがない天性の 賢さだけではないなどと今まで思いもしませんでした
目から鱗です
秀吉さんの遺骨ってのは調査済みなのでしょうか?
家康のはまだで信長のは元々見つからないんですよね?
最新科学でかなりディープなところまで判明できたら面白いと思います。
多くの側室を持ちながら淀との子しかできなかったのも謎。
南の方との間に男子が産まれたとの記録がある。その名前が秀勝で同じ名前は養子2人が引き継いでいる。
つまり子の父親は秀吉ではない、ということも当時からまことしやかに言われていたらしい。
種なし
淀殿の子は今でいう精子バンクの寺でこさえたとも
しかし北政所(おね/ねね)は子を授かったことがあるらしい
謎
これは面白い。
ネットの影響か有名無名の武将の逸話が色々出過ぎて「何が通説やら」状態に。
朝日姫も辛いだろうけど、
家康も辛かったんじゃないかな?
顔が秀吉の女版じゃないかって
開幕以来、取引によって武家の棟梁が勝ち得た最高位が征夷大将軍だったのですが、その権威のもとで臣への任官が行われてきたのですよね。何故秀吉は征夷大将軍に任官しなかったのでしょう。何故その権威を再び朝廷にのみ依存する関白太政大臣任官に頼ったのでしょう。何故昇進のために次々と公家を乗り換えるという離れ業が許されたのでしょう。当時の肌感覚もなく卑小菲才の身でありますので謎ばかりです。
トリソミー。。?ダウン症のことか。。しかし、それでは、政治家は無理だろう。。
出自が分からんからどごぞの馬の骨でしょ?ちゃんとした名家なら記録あるでしょ?劉備と同じレベルで怪しいわね😂じゃなきゃ日本史に置いてここまで伝説にはならんでしょ?
秀吉は、捏造度が高く分かりません😅
豊臣秀吉が木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に金目教という怪しい宗教が流行っていた・・。
仮面の忍者赤影ですねぇ~。懐かしい。
梅毒。こわい。
みんなも気を付けてね。
戦闘指揮官職は地図読めて数学的知識ないと絶対無理だから教養必須なんで卑賎の身の指揮官って矛盾した言葉なんだよな。その辺習得する期間が怪しい秀吉が日本最高勝率に近い名将になったのはかなりおかしい。転生者と言われた方がむしろ納得するわ。
五胡十六国時代の後趙の石勒とか文盲でも他人に書物を読ませて聞くのを好み、様々に評論した。ジンギスカンも数学的知識なんてあるはずもないが世界帝国への礎を築いた。秀吉には竹中半兵衛がいる。黒田官兵衛がいる。石田三成がいる。その配下の意見を聞き指揮すれば良いだけで、漢の劉邦などと同じで有能な部下を持ち合議で意見をまとめる能力があれば総大将としての戦闘指揮は可能。
おねが残忍な意地悪BBAだったのもあまり知られてませんね。捨にした事とかゾッとします(><)
幕府を創った将軍と創らなかった将軍は何が違うのか教えて下さい。
秀吉が耄碌したという史料はありませんよ、国内を統一して外征をするのは古今東西どこの英雄もやっている当然の行為であり、むしろやらない者たちより優れていた証拠です、作戦指導も合理的でその指揮もとっており、戦ではほぼ負けなしで終わってます。
萩と荻は違います。
だいたい出自からして本当のことが分からないんだよなこの人。
秀吉というと悲惨の出としてさげすまれることが多いが、秀吉がいなければ平和が訪れるのはまだまだ先であったであろうし、中国同様に西洋諸国によって侵略されていたかもしもしれません。そう考えると日本国の大恩人の一人だと思います❗️
主の姪っ子を側室にして、家臣の大名や公家からも側室集めてて嫌われる要素しかない。
何でも有りの戦国時代でも、さすがに誰かの足軽とかやってたって考えないと軍団長として毛利家を攻めたり出来ないよ。名前は変えれるわけだからさ。秀吉なんか木下羽柴豊臣って少なくても三回変えてるし可能性はある。
勝家信孝丹羽佐々蒲生千利休秀次って味方だった人達を簡単に抹殺したり冷遇したり冷酷な人なのは間違いない。
最後は発達障害が悪化したか、毒を少量ずつ盛られてて蓄積して弱った説が正しいと思う。
亡くなったら味方だと思ってた人達は大半は裏切り頼みの前田家まで裏切られた。人徳無しの恐怖政治をやってた証拠だろ。
キリスト教の奴隷連れ去り阻止だけは功績かな。京都に自分の城を建てたりやりたい放題。
血筋は大事だろ?何処の馬の骨と解らん奴は信用出来んw
よく家族仲良さそうに描かれるけど母親とは微妙だし秀長も晩年は…
一八トリソミーならば、子供が出来なかったのも合点がいく、、、
ということは、
息子は、、、、、
先日野上弥生子の秀吉と利休を読みました、小説ですが本当に利休不思議な自害のさせられ方です。作中の秀吉突発的に怒って残酷な振る舞いに走ることがあります。
小説の世界ならではの解釈ですね!
秀吉がいなければ、ポルトガルの植民地にされていたよ
秀吉が梅毒だったなら、淀君もなってたのでは?
「片親が違う可能性があっただけで、兄弟姉妹の子を処すとは、豊臣秀吉という男は天下を取ってからは狭量な心じゃのぅ」By源頼朝
一説には名前すら無い身分でだったと言うことさらには通説に置いて
今川の足軽から織田の足軽と言うのも実は全く違ったと言う説を
明智憲三郎氏が本にて書いてます!
あんなトンデモ本書いてるあやしげな人物を根拠にされてもなあw
あくまでも説の一つとして書いただけ
@@SMK皇帝ファントム陛下Japan 「司馬遼太郎の小説ではこういってるから」って説のひとつとするのと代わりませんぜ・・・
この人の話は自身の想像が一番に来るの?
さいなら
『天下布武』『天下惣無事』『天下偃武』。三者、三様。天下の権。
本物の秀吉図画は伝信長の絵ですよ‼️
家康の図画に三方ヶ原の絵をよく観て下さい、顔は豊臣秀吉の図画と同じですね~‼️
サルと云うのは世良田の事で家康の事ですよ‼️
三重県の猿田彦神社の猿田彦は天狗の鼻を付けた秀吉の顔‼️
滝川一益と云う老人、
「一益」と云う字は「イエヤス」にも「ヒデヨシ」にもなるんですよ‼️
1人で両方名乗っていた奴がいますね~‼️
猿田彦神社のアメノウズメはヒデヨシの妻のオネ姫じゃないかなぁ⁉️
18トリソミーでは現代ですらほぼ成人すらできない。ましてや戦国時代に正常もしくはそれ以上の知能を持ち、それ相応に身動きの取れる健常な身体を持って熟年期まで永らえるのは絶対に不可能。もうちょっとモノをよく考えて動画にするべき。
秀長の横領事件に関しては身内だからこそ厳しくする必要もあったとも思える
秀長を毒殺したら秀頼を守る家臣は家康にわ役不足で秀次や秀頼が生きていたら家康の天下はなかったでわなかのかな?。
通説とはまったく違うというほどではなかったです。
書籍スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン、奈良静馬著書の書籍を読めば、秀吉の力がよくわかるけど。
京に奈良の大佛殿より大きい寺を作り😮
日光東照宮のモデルになった
豊国宮⛩️😮
秀吉って三口で三つ目だったんだろ?
新政府の立身出世の物語!
秀吉に関しては小牧・長久手の戦いより前から家康と腹合わせしていたようにも思えるんだよなぁ
関東移封とか子供のいない秀吉が自分の死後に大きな混乱が無いように家康の部下の地縁を切って行政官としての経験を積ませる為で、秀吉は朝廷とかがやんちゃしないように近畿で目を光らせていた気がしてならない
朝鮮出兵も徳川以外の大名の余力を削る目的で、家康もその路線を引き継いで様々な築城普請などで諸大名の財政に負荷を掛けた
秀頼も徳川への政権移譲への人身御供としての価値しか無くて、余生を心配したのは糟糠の妻である北政所だけのような気がする
それでも家康は豊家を遺す気持ちはあったように見えるけど、最後は戦国への未練を断つように滅ぼした
秀吉は家康にトップに立つ人間の在り方みたいなモノを英才教育したのだと思う
その為に徳川家の発展の邪魔はせず、諸大名が秀吉のムチに対するアメとして家康の評価が自然に高まるよう配慮していたと感じる
秀頼と千姫の婚姻により「外戚」としての「立場」すら与えているのも秀吉の死後でも権力を維持する為だと考える
秀吉にとっては豊臣家なんかよりも自らが苦労して作り上げた「日本」を末永く存続させる事が一番だったのではないか?と感じさせる「英雄」かな
多分、石田三成も共犯で関ヶ原に毛利引っ張りだしたのも瀬戸内から外国との交易で力を持ちすぎないように力を削ぐ指示出ていたようにも感じる辺り、妄想の素材としては楽しめる
三谷幸喜の清須会議で、秀長や大政所が自宅の庭で百姓やってるんだけど、本業としてやってるみたいなのね。いくらエンタメとはいえあまりに酷すぎて逆に笑った。
秀吉は宇宙人だった
秀吉はサンカの出
確定してからUpしてね😊
✖
秀吉のル一ツは京都の基礎を作った秦氏(古代イスラエルからの渡来人といわれる)だったから天下人まで出世できたという説がありますね。
全体的に10年前くらいの秀吉の情報ばかりでタイトルにふさわしくありませんし、BGMのインチキ英語日本風歌謡曲もはなにつきます。
要改善かと。ナレーションはとても上手で聞きやすいので後は二湯かと。また画像引用についてもルール通りされた方が良いかと思われます。
偉そうでめっちゃ草
@@明石則実 お前は卑屈過ぎて笑えるけどな。
上から目線で言われたらそりゃいい気分じゃないよ
@@こるとどんがお答えします1 検索汚染。2you tubeの収益について。3謙遜と卑屈の違いについて。以上3点についてよくお調べになりお考えの上ご記入ください。上から他人に謙遜を求める人間は慎み深いといえるか?は最低でもお考え下さい。
めんどくさい人だなあ
秀吉を貶めるための動画に思えます。彼の良いところの紹介が何もない。最近のNHKドラマも秀吉を矮小化したがるように思えてなりません。
秀長は朝鮮出兵のまえに亡くなっているとおもったけど...
京三条河原での大量の惨殺は秀吉が赦免を発したが、秀吉を貶めるため家康が服部一族を使い妨げたという可能性があるとかないとか。この手の荒唐無稽な話オラ ワクワクすっぞ
木下藤吉郎は好きだが豊臣秀吉は大嫌い❗
由緒があればあるほど渡来の民族、渡来の血、何でしょうね。
秀吉は根性の曲がったクソ野郎だ。
猿?はげねずみ?
信長に「猿」と呼ばれたのは、猿の様に素早い忍者だったから、だとか。晩年に朝鮮半島を攻めたのは、元々、秀吉が半島出身だったから、だとか?
京都奉行は秀吉一人ではありません。他の武将も数人いて奉行をしその中の一人でしかありません。秀吉自身は岐阜にいて実際は秀吉の与力であり腹臣の蜂須賀正勝さんが代理奉行として京都に駐在しています。御所が三好家に襲撃、放火された際は三好を撃退し火災を鎮火させたのは蜂須賀正勝さんでした。もちろん信長からもめちゃくちゃ褒賞をもらってます。足利義昭からは桐の紋が入った羽織をプレゼントされ家紋としても蜂須賀家は使用してますよ
若い女の子のハーレム作れて羨ましい。
単なる秀吉を貶める動画だな。
醜いな。
織田家のル一ツは忌部氏、徳川家のル一ツは賀茂氏。
三家共に古代イスラエル系渡来人だから天下人になれたとも言えますね。
織田家は桓武平氏では無かったのですね。
ニチユ同ソロンとか信じちゃってる感じ?
秀吉はね、朴さんなのよ。
謎はないよ…底辺の出で一生懸命頑張った結果、天下とって好き放題やっただけだよ…以上。
日本の歴史