Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
昭和41年生まれの茅場町育ちです母は昭和16年生まれでいつも母が言っていましたが昔はみんな永代橋で飛び込んで泳いでいたそうです。
一時期浦安に住んでおり毎日新宿までスーパーカブで通ったものです。東西線の鬼の様なラッシュが辛くて永代橋を渡り通勤していました。でも浦安新宿間は遠かったですね。
お父上様のアーカイブを辿ってそれを継承しているのは素敵ですねぇ
貴重な動画ありがとうございます。昭和時代ですが小学生の時に目黒駅から永代橋行というバスが走っており通学で毎日使ってました。東京駅までは行くのですが永代橋ってどこにあるのだろうと一度だけ終点まで行き、橋のそばで降りて「何もないんだな」と途方に暮れたことを思い出しました。平成になり南北線・三田線が目黒まで延長したぐらいに廃止になってましたね。
そのバス自宅前走っていてよく利用していました。たしか、永代橋まで行かなくなって、三越前行きに変更になったと思います。あと、バスの前は都電でしたね。同じく永代橋って?と子供心に思っていて、縁もゆかりも無い場所でしたが都電廃線に伴い、花電車が運行されたので自宅前(一ノ橋・麻布十番)から往復乗車しました。懐かしい思い出を起こしていただき、ありがとうございます。
東京都建設局のサイト「隅田川に架かる橋のライトアップ」に写真とパンフレットがあって、夜はあまり出歩かないんですが、近いうちにぜひ行きたいという気持ちが盛り上がってます
住吉に4年、南砂に6年住んでおり、永代橋は都バスで通ったり、たまに歩いて渡ったりします。 夜、永代橋から見える佃島がの夜景が好きです。 東京に居るな〜って思います。
いつも貴重な映像ありがとうございます。寒い中探索お疲れさまでした😄
小学生の時、多摩地区では社会科見学というのがありまして、バスで都内を遠足するのですが、永代橋と築地の情景だけは覚えています。水色の橋と、魚臭い広い建物笑。当然車酔いする児童がおり、人によっては地獄だったようですが、私はとても楽しかったです。 お疲れ様でした。
我が故郷の深川に通じる永代橋よ、永遠なれ、なんて気持ちになる動画です。子供の頃、日本橋の白木屋デパート(後の東急百貨店)前から都電に乗り、永代橋を渡り終わる前の佐賀町へ下る右急カーブのハラハラ感が懐かしいです。
昔茅場町の市場通りの交差点の角にボーリング場あったのご存知ですか?
@@shunsuketanaka403 様メイツレーン日本橋 ですね、覚えています。私はもっぱらメイツレーン永代を利用しておりましたけど(笑)。
そうです。笑自分は茅場町駅上がって小諸蕎麦屋の近くに住んでいました。都電の話を聞いて色々な記憶が思い出しました。ありがとうございます。
白木屋がスッと出てくるところで、大体のご年齢が分かります
犬散歩ロングバージョンの一つが中央大橋と永代橋を渡り、山種倉庫の麓と船着場経由で相生橋を渡って戻るコースで、大好きな風景が続きます。日本橋坂本町に住んでいた祖父母は、関東大震災直前に九州に引っ越し難を逃れましたが、もし被災していたら避難経路で永代橋を渡って犠牲になり、私は生まれてなかったかも、なんて古い写真に当時を偲びました。貴重なお写真をありがとうございました。
妻の実家が門前仲町で、45年前よく今日の動画の反対側から永代橋のアーチを眺めてました。TVドラマ男女7人夏物語で清洲橋がおしゃれで、墨田川近辺がまるでニューヨークの様に描かれて嬉しくなったものです(笑)
永代通りは地元に戻るとよく使う道です。30年くらい前、知り合いを連れて、もうちょい門仲の駅寄りで富岡八幡祭を見た思い出があります(旧深川車庫行きバス停あたり)。
昭和31年12月25日.永代橋の鉄製アーチの中からミイラが発見された、と子供の時父から聞かされました。今でもこの橋を目にすると思い出します。
うわわ、、調べてみました。警察は確証がなく不明と結論づけたそう。しかし、ある女性が、精神疾患持ちで暗く狭いところに入り込む癖がある夫がパンツ一丁で失踪し、橋の中から見つかったハンコ名から元夫ではないかと名乗り出たそうです。時期や服装なども一致するので可能性は高そうな気がします。
1:24 新川の「茅場町タワー」が見えますね。旧山一證券本社ビル、、、実際に前を歩いたことが有りますが、歴史に名を遺す場所の一つです。何も知らずに当日も普段通りに出社していた社員たちは、その後どうなったんでしょうか?これがトリガーの一つとなって、失われた30年が未だに続いているわけですね!!😔😔😔
子供の頃、永代橋にさしかかる度に「ここを赤穂浪士が渡ったんだよ」と聞かされました。そう言えば2:23 に江戸時代からタイムスリップした川舟が…80年代、深川方の佐賀町に昭和モダン建築の食糧ビルがありギャラリーになっていました。空襲を乗り越えた貴重な建築なのに、今は建て替えられてしまって勿体ないです。
あたまりまえのように渡っていた「永代橋」にも歴史が刻まれていた事を改めてて知りました。1979年の「永代橋」のところで船で「筏」を引っ張っていた船長は、5年前に亡くなった親父の船かもしれません。船から降りても、いつもこの頃の話を聞かされていました。懐かしい想い出の動画ありがとうございます🙇♀️
永代橋は美しい橋ですね!今から25年くらい前、茅場町駅近くの会社に勤めていて(1年だけですがw)よく橋を眺めていました。関東大震災で被災した写真がありましたが、近くの「新亀島橋」の袂に関東大震災と東京大空襲で被災した方々を慰霊する石碑があり「戦争の傷跡」を感じさせられたのが忘れられません…
永代橋。1807年の初代永代橋落橋事故は古典落語「永代橋」の元ネタになるなど話の種には事欠かない橋ですよね。。。4代目となる現在の橋も完成した頃は関東大震災からの復興のシンボルとなり、完成当時は「帝都東京の門」といわれたという逸話も残っています。そんな4代目も再来年には架橋から100年の節目の年となるんですね。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo comme toujours !👍🙏
「永代橋墜落の大惨状」 震災直後に出された被害報告「大正震災哀話」での見出しです。下町地区の火災を避けるために避難民で溢れていた永代橋、風向きが変わったため、火がまわり「一大音響とともに橋が墜落」、1000人以上の人が川に落ちたそうです。新たに架橋された永代橋が復興のシンボルとなっていくのも、こうした負の記憶を克服するためだったのかもしれません。
見るからに剛毅武骨で力強い橋、設計者の強い意思を感じます。惨劇を繰り返してきた橋の反省からでしょうが、橋とはこうあるべきと感じます。
古典落語に「永代橋」と云うのがありますが、文化年間に起こったこの橋の崩落事故が題材になっていますね
今晩は東京都茅町は
茅場町は、証券会社が沢山有る町ですね😊知り合いのマッサージ屋さんが有るのも、実は茅場町なんですよ😅
昭和41年生まれの茅場町育ちです
母は昭和16年生まれで
いつも母が言っていましたが
昔はみんな永代橋で飛び込んで泳いでいたそうです。
一時期浦安に住んでおり毎日新宿までスーパーカブで通ったものです。東西線の鬼の様なラッシュが辛くて永代橋を渡り通勤していました。でも浦安新宿間は遠かったですね。
お父上様のアーカイブを辿ってそれを継承しているのは素敵ですねぇ
貴重な動画ありがとうございます。
昭和時代ですが小学生の時に目黒駅から永代橋行というバスが走っており通学で毎日使ってました。
東京駅までは行くのですが永代橋ってどこにあるのだろうと一度だけ終点まで行き、橋のそばで降りて「何もないんだな」と途方に暮れたことを思い出しました。
平成になり南北線・三田線が目黒まで延長したぐらいに廃止になってましたね。
そのバス自宅前走っていてよく利用していました。たしか、永代橋まで行かなくなって、三越前行きに変更になったと思います。
あと、バスの前は都電でしたね。
同じく永代橋って?と子供心に思っていて、縁もゆかりも無い場所でしたが都電廃線に伴い、花電車が運行されたので自宅前(一ノ橋・麻布十番)から往復乗車しました。懐かしい思い出を起こしていただき、ありがとうございます。
東京都建設局のサイト「隅田川に架かる橋のライトアップ」に写真とパンフレットがあって、夜はあまり出歩かないんですが、近いうちにぜひ行きたいという気持ちが盛り上がってます
住吉に4年、南砂に6年住んでおり、永代橋は都バスで通ったり、たまに歩いて渡ったりします。 夜、永代橋から見える佃島がの夜景が好きです。 東京に居るな〜って思います。
いつも貴重な映像ありがとうございます。寒い中探索お疲れさまでした😄
小学生の時、多摩地区では社会科見学というのがありまして、バスで都内を遠足するのですが、永代橋と築地の情景だけは覚えています。水色の橋と、魚臭い広い建物笑。当然車酔いする児童がおり、人によっては地獄だったようですが、私はとても楽しかったです。 お疲れ様でした。
我が故郷の深川に通じる永代橋よ、永遠なれ、なんて気持ちになる動画です。子供の頃、
日本橋の白木屋デパート(後の東急百貨店)前から都電に乗り、永代橋を渡り終わる前の
佐賀町へ下る右急カーブのハラハラ感が懐かしいです。
昔
茅場町の市場通りの交差点の角に
ボーリング場あったの
ご存知ですか?
@@shunsuketanaka403 様
メイツレーン日本橋 ですね、覚えています。私はもっぱらメイツレーン永代を利用しておりましたけど(笑)。
そうです。笑
自分は茅場町駅上がって小諸蕎麦屋の近くに住んでいました。
都電の話を聞いて色々な記憶が思い出しました。
ありがとうございます。
白木屋がスッと出てくるところで、大体のご年齢が分かります
犬散歩ロングバージョンの一つが中央大橋と永代橋を渡り、山種倉庫の麓と船着場経由で相生橋を渡って戻るコースで、大好きな風景が続きます。日本橋坂本町に住んでいた祖父母は、関東大震災直前に九州に引っ越し難を逃れましたが、もし被災していたら避難経路で永代橋を渡って犠牲になり、私は生まれてなかったかも、なんて古い写真に当時を偲びました。貴重なお写真をありがとうございました。
妻の実家が門前仲町で、45年前よく今日の動画の反対側から永代橋のアーチを眺めてました。
TVドラマ男女7人夏物語で清洲橋がおしゃれで、墨田川近辺がまるでニューヨークの様に描かれて嬉しくなったものです(笑)
永代通りは地元に戻るとよく使う道です。
30年くらい前、知り合いを連れて、もうちょい門仲の駅寄りで富岡八幡祭を見た思い出があります(旧深川車庫行きバス停あたり)。
昭和31年12月25日.永代橋の鉄製アーチの中からミイラが発見された、と子供の時父から聞かされました。
今でもこの橋を目にすると思い出します。
うわわ、、調べてみました。警察は確証がなく不明と結論づけたそう。しかし、ある女性が、精神疾患持ちで暗く狭いところに入り込む癖がある夫がパンツ一丁で失踪し、橋の中から見つかったハンコ名から元夫ではないかと名乗り出たそうです。時期や服装なども一致するので可能性は高そうな気がします。
1:24 新川の「茅場町タワー」が見えますね。
旧山一證券本社ビル、、、実際に前を歩いたことが有りますが、歴史に名を遺す場所の一つです。
何も知らずに当日も普段通りに出社していた社員たちは、その後どうなったんでしょうか?
これがトリガーの一つとなって、失われた30年が未だに続いているわけですね!!😔😔😔
子供の頃、永代橋にさしかかる度に「ここを赤穂浪士が渡ったんだよ」と聞かされました。そう言えば2:23 に江戸時代からタイムスリップした川舟が…
80年代、深川方の佐賀町に昭和モダン建築の食糧ビルがありギャラリーになっていました。空襲を乗り越えた貴重な建築なのに、今は建て替えられてしまって勿体ないです。
あたまりまえのように渡っていた「永代橋」にも歴史が刻まれていた事を改めてて知りました。1979年の「永代橋」のところで船で「筏」を引っ張っていた船長は、5年前に亡くなった親父の船かもしれません。船から降りても、いつもこの頃の話を聞かされていました。懐かしい想い出の動画ありがとうございます🙇♀️
永代橋は美しい橋ですね!
今から25年くらい前、茅場町駅近くの会社に勤めていて(1年だけですがw)よく橋を眺めていました。
関東大震災で被災した写真がありましたが、近くの「新亀島橋」の袂に関東大震災と東京大空襲で被災した方々を慰霊する石碑があり「戦争の傷跡」を感じさせられたのが忘れられません…
永代橋。1807年の初代永代橋落橋事故は
古典落語「永代橋」の元ネタになるなど話の種には事欠かない橋ですよね。。。
4代目となる現在の橋も完成した頃は関東大震災からの復興のシンボルとなり、
完成当時は「帝都東京の門」といわれたという逸話も残っています。
そんな4代目も再来年には架橋から100年の節目の年となるんですね。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo comme toujours !👍🙏
「永代橋墜落の大惨状」 震災直後に出された被害報告「大正震災哀話」での見出しです。
下町地区の火災を避けるために避難民で溢れていた永代橋、風向きが変わったため、火が
まわり「一大音響とともに橋が墜落」、1000人以上の人が川に落ちたそうです。新たに架
橋された永代橋が復興のシンボルとなっていくのも、こうした負の記憶を克服するためだ
ったのかもしれません。
見るからに剛毅武骨で力強い橋、設計者の強い意思を感じます。
惨劇を繰り返してきた橋の反省からでしょうが、橋とはこうあるべきと感じます。
古典落語に「永代橋」と云うのがありますが、文化年間に起こったこの橋の崩落事故が題材になっていますね
今晩は東京都茅町は
茅場町は、証券会社が沢山有る町ですね😊知り合いのマッサージ屋さんが有るのも、実は茅場町なんですよ😅