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専大卒業生です!素晴らしい動画をありがとうございました。懐かしく暖かい気持ちになりました。
私はまだ小学校低学年だったと思うのですが、10才以上歳の離れた従兄弟が専修大生で生田キャンパスに連れて行ってもらいました。大学の裏山をハイキングしましたが、ヤブ蚊に刺されまくった記憶があります。数年前、思い立って枡形山に行き、プチハイキングしましたが、記憶が微かに蘇ってきました。山道はだいぶ整備されていましたが、私が幼い時に従兄弟に連れられて歩いた里山で間違いないと思います。専修大に道が通じているようでしたし。従兄弟は十数年前にガンで亡くなりました。明るく優しかった従兄弟が晩年は家庭のトラブルなどで不遇だったことは残念ですが、久しぶりにしみじみと思い出しました。
キャンパスライフの写真を見ていると、自分もあの頃に戻りたくなりますし、やり直したくもなります。やり直せないことはわかっていますが、あの頃の心が今の自分に繋がっているんだなと思いますね。。。大学シリーズ、今後の展開に期待しています!
1980年代前半に隣りの大学に在学し、専修生田の学食(たしか「505」という名称)には大変お世話になりました4:32 メトロン星人が宇宙ケシの実入りたばこの自販機を設置する12年前の様子ですね5:46 鳳の羽の形およびペン先の形をデザインした襟章を模した旧3号館の特徴的な屋根、小田急線の多摩川橋梁付近の車窓から丘の上に建つこの屋根がとても目立っていました7:01 1960年代でも日本電気(住友通信工業)の旧生田研究所の建物群が残っていたとは、現在の周辺道路の道筋も正門の位置も日本電気時代のままだそうです
専大って聞くと思い出す先輩がいます、忘れられません いい方でした。ある晩その方のアパートを訪ねましたらきれいな奥様、お二人で住まわれていました。昭和41年頃もう60年近く前ですが、当時の地方出身者新婚家庭とはあんなものだったと思います。いわゆる安アパート、その一階の部屋、開けると彼が笑顔で、、。彼が海老煎餅が好きな事は知っていましたが、大きな丸いエビセンを、高さ40センチほどの包を持って笑って迎えてくれました。あの晩、あの笑顔、あの奥様、一瞬の出会い、専大のあの方との「一期一会」でした。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 👍🙏
いつも貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした😄
四年間、神田で学部時代を過ごし、二年間、聴講で生田に行き、もう一年神田で学びました。入学式の時は一人だったけど、卒業式はサークルの皆と出ました。学部時代は夜間で一日2コマでした。当時は17時50分に一限が始まるので、それまでに間に合うよう仕事を切り上げてました(と言っても同じ神保町で働いてましたが)。生田は司書、司書教諭、学芸員課程のみを受講したので、そんなにコマ数はなかったですが、聴講3年目に神田に戻ったとき、図書館法改正で授業が増えたのはキツかったです💦
大学シリーズとても嬉しいです。上智、成城、帝京は縁があるのでぜひシリーズ化の際は見てみたいです。
神田にある専修大学は唯一表通りに面していなかった大学。表通り沿いに土地をどうしても欲しかった専修大学。そして表通りに念願かなって140年記念館を2020年に完成。
箱根駅伝予選会で2位に入り、本選に出場。おめでとうございます。自分が卒業してちょうど40年、生田校舎はアクセスが悪く、南武線の立川行き電車の本線が少なく、京王線との接続も悪く、通学には不便でした。神田校舎の方は入学後に都営新宿線が開通、便利になりましたが、今と違い京王線の混雑が朝は酷く、こちらも通学が大変でした。今は都心まで行くことは少なくなりました。
動画拝見しました。私は、大学に行きたかったでしたが、家の事情で、行けませんでした、年子の妹が居ますが、妹は、大学に行きました。私自身は、高校を卒業後、就職しました😅
「家の事情」を飲み込み、それに怨み言を言わず、働いているあなたは立派です。尊敬します。
どうでも良いことかもしれませんが、線路沿いのあのようなコンクリート製の柵は、おそらく60年か70年以上前からその場所にあったのではないか、と感じます。(子供のころ、別の場所ですが、あのような柵をよく見ました)。
「この付近は殆ど家はマバラだ。丘と丘の間を縫って畑、田が拡がっている。‥都会の騒音とは全く絶縁されている。」 「専大生活」(1953)という大学ガイドブックの一節です。ゴルフ場や緑地に隣接しているのは今と同じですが、違うのは小田急線側に田畑が広がっていたことで、逆に勉学に集中できる静穏な環境が強調されています。広い郊外のキャンパスは大学のストロングポイントにもなっていたようです。
里山の宅地化が凄まじいですね。生田キャンパス設置当時の写真で敷地内に兵舎か工場のような建物が並んでいますが、もともとあった施設を流用しているのでしょうか。
戦時中に高周波研究を行っていた日本電気(住友通信工業)の旧生田研究所の跡地で、建物等も暫くはそのまま転用していたそうで、現在の周辺道路の道筋も正門の位置も日本電気時代のままだそうです西側の丘である明治大学生田キャンパスの場所に存在した陸軍登戸研究所で研究開発していた「怪力電波 (殺人光線)」用に超短波水冷真空管の開発なども行っていたようです
@robotsunami3783 結構深い歴史があったのですね。
懐かしい…!心臓破りの坂?を登って直ぐの所に部室棟があって、そこからも教室棟までダラダラと登り坂が続くから、よく授業サボって部室に吸い込まれてしまっていたなあ☺️
神田の建物は虎に翼に少し出てたね
つい2時間ほど前 靖国通りを神保町で左折し 後楽園を通って帰宅したところです。 川崎のゴルフ場に行った時 なぜか専大があったので 驚いた記憶がありますw
大学シリーズも良いですね。
あの象徴的な反り返った屋根の建物をなぜ壊したのか?ずっと疑問でした。東日本大震災の影響か。こちらも能登半島地震の強い揺れを感じた福井県です。もう専修大学を離れて40年経ちました。でも、百合ヶ丘ともどもそこで暮らした日々、友人たち、本当に良かったと思える。だけども、何人か学友や先輩たちが亡くなっているのも事実なんです。
4:57 この途中に稲田登戸病院(2008年3月閉院)があった。
畑や田んぼを何もないと言わないでほしいな
昭和は遠くなりにけり!
ドラえもんに出てくる裏山ってこの辺りの風景が元だったのかな?
専大卒業生です!素晴らしい動画をありがとうございました。懐かしく暖かい気持ちになりました。
私はまだ小学校低学年だったと思うのですが、10才以上歳の離れた従兄弟が専修大生で生田キャンパスに連れて行ってもらいました。大学の裏山をハイキングしましたが、ヤブ蚊に刺されまくった記憶があります。
数年前、思い立って枡形山に行き、プチハイキングしましたが、記憶が微かに蘇ってきました。山道はだいぶ整備されていましたが、私が幼い時に従兄弟に連れられて歩いた里山で間違いないと思います。専修大に道が通じているようでしたし。
従兄弟は十数年前にガンで亡くなりました。明るく優しかった従兄弟が晩年は家庭のトラブルなどで不遇だったことは残念ですが、久しぶりにしみじみと思い出しました。
キャンパスライフの写真を見ていると、自分もあの頃に戻りたくなりますし、やり直したくもなります。
やり直せないことはわかっていますが、あの頃の心が今の自分に繋がっているんだなと思いますね。。。
大学シリーズ、今後の展開に期待しています!
1980年代前半に隣りの大学に在学し、専修生田の学食(たしか「505」という名称)には大変お世話になりました
4:32 メトロン星人が宇宙ケシの実入りたばこの自販機を設置する12年前の様子ですね
5:46 鳳の羽の形およびペン先の形をデザインした襟章を模した旧3号館の特徴的な屋根、小田急線の多摩川橋梁付近の車窓から丘の上に建つこの屋根がとても目立っていました
7:01 1960年代でも日本電気(住友通信工業)の旧生田研究所の建物群が残っていたとは、現在の周辺道路の道筋も正門の位置も日本電気時代のままだそうです
専大って聞くと思い出す先輩がいます、忘れられません いい方でした。
ある晩その方のアパートを訪ねましたらきれいな奥様、お二人で住まわれていました。
昭和41年頃もう60年近く前ですが、当時の地方出身者新婚家庭とはあんなものだった
と思います。いわゆる安アパート、その一階の部屋、開けると彼が笑顔で、、。
彼が海老煎餅が好きな事は知っていましたが、大きな丸いエビセンを、高さ40センチ
ほどの包を持って笑って迎えてくれました。
あの晩、あの笑顔、あの奥様、一瞬の出会い、専大のあの方との「一期一会」でした。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 👍🙏
いつも貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした😄
四年間、神田で学部時代を過ごし、二年間、聴講で生田に行き、もう一年神田で学びました。
入学式の時は一人だったけど、卒業式はサークルの皆と出ました。
学部時代は夜間で一日2コマでした。当時は17時50分に一限が始まるので、それまでに間に合うよう仕事を切り上げてました(と言っても同じ神保町で働いてましたが)。
生田は司書、司書教諭、学芸員課程のみを受講したので、そんなにコマ数はなかったですが、聴講3年目に神田に戻ったとき、図書館法改正で授業が増えたのはキツかったです💦
大学シリーズとても嬉しいです。
上智、成城、帝京は縁があるのでぜひシリーズ化の際は見てみたいです。
神田にある専修大学は唯一表通りに面していなかった大学。
表通り沿いに土地をどうしても欲しかった専修大学。
そして表通りに念願かなって140年記念館を2020年に完成。
箱根駅伝予選会で2位に入り、本選に出場。おめでとうございます。自分が卒業してちょうど40年、生田校舎はアクセスが悪く、南武線の立川行き電車の本線が少なく、京王線との接続も悪く、通学には不便でした。神田校舎の方は入学後に都営新宿線が開通、便利になりましたが、今と違い京王線の混雑が朝は酷く、こちらも通学が大変でした。今は都心まで行くことは少なくなりました。
動画拝見しました。私は、大学に行きたかったでしたが、家の事情で、行けませんでした、年子の妹が居ますが、妹は、大学に行きました。私自身は、高校を卒業後、就職しました😅
「家の事情」を飲み込み、それに怨み言を言わず、働いているあなたは立派です。尊敬します。
どうでも良いことかもしれませんが、線路沿いのあのようなコンクリート製の柵は、おそらく60年か70年以上前からその場所にあったのではないか、と感じます。(子供のころ、別の場所
ですが、あのような柵をよく見ました)。
「この付近は殆ど家はマバラだ。丘と丘の間を縫って畑、田が拡がっている。‥都会の騒音
とは全く絶縁されている。」 「専大生活」(1953)という大学ガイドブックの一節です。
ゴルフ場や緑地に隣接しているのは今と同じですが、違うのは小田急線側に田畑が広がって
いたことで、逆に勉学に集中できる静穏な環境が強調されています。広い郊外のキャンパス
は大学のストロングポイントにもなっていたようです。
里山の宅地化が凄まじいですね。
生田キャンパス設置当時の写真で敷地内に兵舎か工場のような建物が並んでいますが、もともとあった施設を流用しているのでしょうか。
戦時中に高周波研究を行っていた日本電気(住友通信工業)の旧生田研究所の跡地で、建物等も暫くはそのまま転用していたそうで、現在の周辺道路の道筋も正門の位置も日本電気時代のままだそうです
西側の丘である明治大学生田キャンパスの場所に存在した陸軍登戸研究所で研究開発していた「怪力電波 (殺人光線)」用に超短波水冷真空管の開発なども行っていたようです
@robotsunami3783 結構深い歴史があったのですね。
懐かしい…!
心臓破りの坂?を登って直ぐの所に部室棟があって、そこからも教室棟までダラダラと登り坂が続くから、よく授業サボって部室に吸い込まれてしまっていたなあ☺️
神田の建物は虎に翼に少し出てたね
つい2時間ほど前 靖国通りを神保町で左折し 後楽園を通って帰宅したところです。 川崎のゴルフ場に行った時 なぜか専大があったので 驚いた記憶がありますw
大学シリーズも良いですね。
あの象徴的な反り返った屋根の建物をなぜ壊したのか?ずっと疑問でした。東日本大震災の影響か。こちらも能登半島地震の強い揺れを感じた福井県です。もう専修大学を離れて40年経ちました。でも、百合ヶ丘ともどもそこで暮らした日々、友人たち、本当に良かったと思える。だけども、何人か学友や先輩たちが亡くなっているのも事実なんです。
4:57 この途中に稲田登戸病院(2008年3月閉院)があった。
畑や田んぼを何もないと言わないでほしいな
昭和は遠くなりにけり!
ドラえもんに出てくる裏山ってこの辺りの風景が元だったのかな?