Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
人が豊かさや便利さと引き換えに失ったものが凝縮された感じ
速いということは移動時間の楽しむ時間が減るという意味ですよね。
夜行さんべ、懐かしいです。福岡の親戚の所に行く時に米子からよく乗っていました。中学の修学旅行は九州で、帰りに博多から乗車しました。門司駅で機関車付替えを外で見ていて先生にチクられ、デッキで正座させられたのは良い思い出です。
素晴らしい映像ありがとうございます。
1983年の12月師走ですね🎵私の生まれた年ですが、ゆっくりの旅よりも速さを求めてる現代ですが、たまにはゆっくりの列車でも乗りたいです
小倉駅の立ち食いうどんですか。予備校に通ってた頃かしわうどんかかしわそばを食べていました。社会人になって下関の郊外のアパートに住んでいた頃、アパートのすぐ裏が山陰本線で確か夜12時頃さんべが通過する音を合図に就寝していたのを思い出しました。懐かしかったです。ありがとうございます。
1983年12月は、私がここ小倉の地に産まれた月です!そう思うとこの映像はとても感慨深いです。貴重な映像をありがとうございます!!
急行さんべ。座席車や寝台車と共に移動する荷物車1両ですが、1982年11月の時刻表や関連書籍を見ていると、米子発の下りに限り、途中の出雲市から浜田まで郵便荷物合造車を連結していたようですね。浜田を1時前に到着後、4時台発の普通列車に連結して下関方面に向かったとか。
今はなき夜行急行や寝台特急を見ることが出来た……😂
20系の深いブルーと三本帯、元祖ブルートレインの風格、オーラでまくりですね駅の放送が「~でございます」という国鉄時代よく聞いた丁寧な案内、懐かしいです
これが親父が大学生時代の小倉駅....そして今この映像を見てる自分も大学生...
タケシさん貴重な映像ありがとうございます。懐かしい小倉駅。ホームのうどん屋部活帰りに食べてました。
これはとても貴重な映像ですね
8番のりばから撮影ですね。駅のベルが懐かしい。当時高校1年で国鉄で通学してました。
これは貴重な映像です。貨物大合理化で貨物車掌制度が廃止されたのが、確かこの翌年、1984年です。コンテナ貨物列車にもしっかりと車掌車が連結されていますね。全列車が車掌車連結だった時代の記録です。
当時、国鉄米子鉄道管理局米ヨナの所属だった急行さんべ用の20系寝台車。他局では82年頃から2本帯化が始まっていたが米子局ではさんべの廃止まで3本帯を貫いたことは特筆されることだ。オリジナルの時代の15型あかつき、コキフ50000も懐かしいです。
3本帯ですが、ドア直上の(B寝台)はなくなっていますね。たしか自動ドア化のために撤去だったかと思います。それでも、最上部、ドア部分も帯が入っていて、なによりも(博多|米子)の上りは「米子」をきちんと点滅させている点で20系オリジナルの姿を沢山残していますね(あれは電球玉切れ寸前ではないのですww)。
国鉄末期の急行の寝台車を近代化していた頃の懐かしくも貴重な映像。寝台車は米子の車輌で三重県の関ロッジで2両宿泊施設として利用されていましたね。
20系さんべ号の動画はたいへん貴重ですね。汽笛が旅情を高めます
高度成長期の登りの日本は本当に良かったです。これから90年代に入り、人も物も段々おかしくなっていった。
もう安定成長期でしたよ
素晴らしい! 神映像 美しいブルートレイン ハヤシタケシ様 神!映像UPありがとうございます。
20形の行き先方面の表示燈の仕組みがよくわかる
チャイムが懐かしい😭
1983年、小学校6年だった地元民
東京出張の時 夜行で大阪まで行って新幹線に乗り換えて東京へ行ってた 懐かしいです
コメントありがとうございます。岡山迄新幹線で、夜行のりかえも有りましたね☺️
鉄道が輝いていた頃!
昭和58年でビデオカメラ持ってるのがスゴイ。まだカメラデッキが別々じゃ無かったですかね?従兄弟の家がβの機材を持ってました。
どんぶりレンジャー様。コメントありがとうございます。たしか、デッキ3.5Kg、カメラ2.5Kg、位の代物で、ナショナルの製品(VHS)でした。
そうとうなつかしいっちゃ!このころはまだ、サンマルが当たり前にいたころやし・・・夜行さんべかあ、山陰ワイドを持って門司駅から何回か乗ったんちゃねえ
度々のコメント、ありがとうございます。EF30が写っている映像がないかと見直してみましたが、残念ながら有りませんでした。スミマセン。
さんべ懐かしい!博多乗り入れ時代に撮影しに行きました!
さんべって、三段ベッドのことでしょうかあ。。?
違うんですよね?確か三瓶っていう地名。。。
うどん屋さん、この頃から有ったんだ
夜行さんべ米子から博多まで一度乗りましたが、まァガラガラでしたな…
8番線のうどん 土曜日学校帰りにみんなで食べてました。
昔の小倉駅の次駅は新中原でした!
ただ、その新中原も大阪万博の年に開業なので、さらに前はいきなり戸畑なんですよねw
難読な地名のため、読み方を書きます。新中原はしんなかばると読みます。九州では、原をはると読む地名が多いです。例えば、新田原(しんでんばる)、原町(はるまち)、原田(はるだ)、笹原(ささばる)、陣原(じんのはる)など
夜の小倉駅懐かしい、あの頃の列車個性があって、かっこよかったです、ちなみに僕の家は、戸畑区で、小倉に近いそれも、団地で目の前を鹿児島本線が走っているので、朝からブルートレインの長崎行や熊本行き、昼間は、にちりんなど、夕方や夜は、東京行きブルートレインやこのあかつきなど、バンバン走っていていました、引っ越して来た時は、ベランダから見えるので、嬉しかったですね、今は全然興味無いです、でもさみしいですね
コメントありがとうございます。鹿児島本線沿いにお住まいとは羨ましい。今も、各種の形式からなる気動車回送が、たまには走るのでしょうか。一時期、戸畑の鹿児島本線近くに住んでいたことがありましたが、夜間のフレートライナーの多さには、一寸閉口でした。
新しいものを見れないなんて悲しいこと言うなよな
九州から雪国(山陰 )行き列車いいね
20系寝台車に電源車が無い!!12系から電気は供給されていたのでしょうか。確か20系と12系は電圧が異なるので、かなりの改造が必要だったのでは?
国鉄時代の中国以西では当たり前だったカラカラベルがデター!!
@越後屋康介さん、2:19~2:39と3:05~3:18辺りですね。後、☆彡寝台特急ブルトレ“あかつき”号もまだ健在だった頃ですね。😭とても懐かしい貴重なシーンと音ですね。
カラカラベルって言うんだ( ^ω^)やかましい音だと当時も思ってました。この年の夏休みに、青春18きっぷで門司から鈍行寝台列車ながさきにのりました。東京から大垣夜行でトコトコ乗り継ぐと、ちゃんと長崎まで翌々日の朝には行けた時代でした。
急行「さんべ」の先頭はDD51、となると関門トンネルはこのまま通っていったのですか。
コメントありがとうございます。そのような疑問は思ってもいませんでした(ボーっと撮ってました^^;。正確なところはちょっと調べきれませんでしたが、関門トンネルはEF30に曳かれていったと思いますので、DD51は門司まででしょう。
ハヤシタケシ さん調べましたら、下記の通りでした。-----------------------牽引機関車は米子~下関間が米子機関区のDD51、下関~門司間が門司機関区のEF30もしくはEF81-300、門司~博多間が鳥栖機関区のDD51でした。--------------------------電化している門司ー博多間をDD51牽引は意外な感じです、ED76でもおかしくはないのですが・・・。下記のブログからの情報でした。blog.goo.ne.jp/inabaji-rapid5828/e/81de4b22bf7683371f2e0f55a5c26dce
@@ja601h さん、情報ご提供、ありがとうございます。よく、見つけられましたね。博多‐門司間の牽引機は確かに不思議ですね。山陰区間がDD51牽引なので、列車編成がELに対応していない(EF30は何でも曳く機関車なので別として)という事かもしれませんね。
単に運用の都合でしょうね。当時は筑豊本線は非電化、門司港~飯塚直通の50系客車列車が珍しくなかった時代。石灰石輸送も健在で、北九州地区にDD51が大量に在籍してましたから。
九州のDD51は門司か鳥栖機関区で関門トンネルはEF30、そして山陰のDDは米子機関区が担当していました。九州と山陰は別物ですよ。
新幹線で京都から小倉へ行ったらおばあちゃんが待っていてくれた。俺がガキだった頃の話!
サムネの20系見たとき臨時のあさかぜか明星かと思いきやまさかのさんべにびっくりやわ 九州内もなぜかDD51が担当してたなもう廃止直前やなブルトレもヘッドマーク復活前やから客車のテールサイン見んとわからん頃やった一番最初に廃止した九州から復活したのがいまだに不思議やわ
人が豊かさや便利さと引き換えに失ったものが凝縮された感じ
速いということは移動時間の楽しむ時間が減るという意味ですよね。
夜行さんべ、懐かしいです。
福岡の親戚の所に行く時に米子からよく乗っていました。
中学の修学旅行は九州で、帰りに博多から乗車しました。
門司駅で機関車付替えを外で見ていて先生にチクられ、デッキで正座させられたのは良い思い出です。
素晴らしい映像ありがとうございます。
1983年の12月師走ですね🎵私の生まれた年ですが、ゆっくりの旅よりも速さを求めてる現代ですが、たまにはゆっくりの列車でも乗りたいです
小倉駅の立ち食いうどんですか。予備校に通ってた頃かしわうどんかかしわそばを食べていました。社会人になって下関の郊外のアパートに住んでいた頃、アパートのすぐ裏が山陰本線で確か夜12時頃さんべが通過する音を合図に就寝していたのを思い出しました。懐かしかったです。ありがとうございます。
1983年12月は、私がここ小倉の地に産まれた月です!そう思うとこの映像はとても感慨深いです。貴重な映像をありがとうございます!!
急行さんべ。座席車や寝台車と共に移動する荷物車1両ですが、1982年11月の時刻表や関連書籍を見ていると、米子発の下りに限り、途中の出雲市から浜田まで郵便荷物合造車を連結していたようですね。浜田を1時前に到着後、4時台発の普通列車に連結して下関方面に向かったとか。
今はなき夜行急行や寝台特急を見ることが出来た……😂
20系の深いブルーと三本帯、元祖ブルートレインの風格、オーラでまくりですね
駅の放送が「~でございます」という国鉄時代よく聞いた丁寧な案内、懐かしいです
これが親父が大学生時代の小倉駅....そして今この映像を見てる自分も大学生...
タケシさん貴重な映像ありがとうございます。懐かしい小倉駅。ホームのうどん屋部活帰りに食べてました。
これはとても貴重な映像ですね
8番のりばから撮影ですね。駅のベルが懐かしい。当時高校1年で国鉄で通学してました。
これは貴重な映像です。貨物大合理化で貨物車掌制度が廃止されたのが、確かこの翌年、1984年です。コンテナ貨物列車にもしっかりと車掌車が連結されていますね。全列車が車掌車連結だった時代の記録です。
当時、国鉄米子鉄道管理局米ヨナの所属だった急行さんべ用の20系寝台車。他局では82年頃から2本帯化が始まっていたが米子局ではさんべの廃止まで3本帯を貫いたことは特筆されることだ。オリジナルの時代の15型あかつき、コキフ50000も懐かしいです。
3本帯ですが、
ドア直上の(B寝台)はなくなっていますね。たしか自動ドア化のために撤去だったかと思います。
それでも、最上部、ドア部分も帯が入っていて、なによりも(博多|米子)の上りは「米子」をきちんと点滅させている点で20系オリジナルの姿を沢山残していますね(あれは電球玉切れ寸前ではないのですww)。
国鉄末期の急行の寝台車を近代化していた頃の懐かしくも貴重な映像。寝台車は米子の車輌で三重県の関ロッジで2両宿泊施設として利用されていましたね。
20系さんべ号の動画はたいへん貴重ですね。
汽笛が旅情を高めます
高度成長期の登りの日本は本当に良かったです。
これから90年代に入り、人も物も段々おかしくなっていった。
もう安定成長期でしたよ
素晴らしい! 神映像 美しいブルートレイン ハヤシタケシ様 神!
映像UPありがとうございます。
20形の行き先方面の表示燈の仕組みがよくわかる
チャイムが懐かしい😭
1983年、小学校6年だった
地元民
東京出張の時 夜行で大阪まで行って新幹線に乗り換えて東京へ行ってた 懐かしいです
コメントありがとうございます。
岡山迄新幹線で、夜行のりかえも有りましたね☺️
鉄道が輝いていた頃!
昭和58年でビデオカメラ持ってるのがスゴイ。まだカメラデッキが別々じゃ無かったですかね?従兄弟の家がβの機材を持ってました。
どんぶりレンジャー様。コメントありがとうございます。たしか、デッキ3.5Kg、カメラ2.5Kg、位の代物で、ナショナルの製品(VHS)でした。
そうとうなつかしいっちゃ!
このころはまだ、サンマルが当たり前にいたころやし・・・
夜行さんべかあ、山陰ワイドを持って門司駅から何回か乗ったんちゃねえ
度々のコメント、ありがとうございます。
EF30が写っている映像がないかと見直してみましたが、残念ながら有りませんでした。スミマセン。
さんべ懐かしい!博多乗り入れ時代に撮影しに行きました!
さんべって、三段ベッドのことでしょうかあ。。?
違うんですよね?
確か三瓶っていう地名。。。
うどん屋さん、この頃から有ったんだ
夜行さんべ米子から博多まで一度乗りましたが、まァガラガラでしたな…
8番線のうどん 土曜日学校帰りにみんなで食べてました。
昔の小倉駅の次駅は新中原でした!
ただ、その新中原も大阪万博の年に開業なので、さらに前はいきなり戸畑なんですよねw
難読な地名のため、読み方を書きます。新中原はしんなかばると読みます。九州では、原をはると読む地名が多いです。例えば、新田原(しんでんばる)、原町(はるまち)、原田(はるだ)、笹原(ささばる)、陣原(じんのはる)など
夜の小倉駅懐かしい、あの頃の列車個性があって、かっこよかったです、ちなみに僕の家は、戸畑区で、小倉に近いそれも、団地で目の前を鹿児島本線が走っているので、朝からブルートレインの長崎行や熊本行き、昼間は、にちりんなど、夕方や夜は、東京行きブルートレインやこのあかつきなど、バンバン走っていていました、引っ越して来た時は、ベランダから見えるので、嬉しかったですね、今は全然興味無いです、でもさみしいですね
コメントありがとうございます。
鹿児島本線沿いにお住まいとは羨ましい。今も、各種の形式からなる気動車回送が、たまには走るのでしょうか。一時期、戸畑の鹿児島本線近くに住んでいたことがありましたが、夜間のフレートライナーの多さには、一寸閉口でした。
新しいものを見れないなんて悲しいこと言うなよな
九州から雪国(山陰 )行き列車いいね
20系寝台車に電源車が無い!!
12系から電気は供給されていたのでしょうか。
確か20系と12系は電圧が異なるので、かなりの改造が必要だったのでは?
国鉄時代の中国以西では当たり前だったカラカラベルがデター!!
@越後屋康介さん、2:19~2:39と3:05~3:18辺りですね。後、☆彡寝台特急ブルトレ“あかつき”号もまだ健在だった頃ですね。😭とても懐かしい貴重なシーンと音ですね。
カラカラベルって言うんだ( ^ω^)
やかましい音だと当時も思ってました。
この年の夏休みに、青春18きっぷで門司から鈍行寝台列車ながさきにのりました。
東京から大垣夜行でトコトコ乗り継ぐと、ちゃんと長崎まで翌々日の朝には行けた時代でした。
急行「さんべ」の先頭はDD51、となると関門トンネルはこのまま通っていったのですか。
コメントありがとうございます。
そのような疑問は思ってもいませんでした(ボーっと撮ってました^^;。正確なところはちょっと調べきれませんでしたが、関門トンネルはEF30に曳かれていったと思いますので、DD51は門司まででしょう。
ハヤシタケシ さん
調べましたら、下記の通りでした。
-----------------------
牽引機関車は米子~下関間が米子機関区のDD51、下関~門司間が門司機関区のEF30もしくはEF81-300、門司~博多間が鳥栖機関区のDD51でした。
--------------------------
電化している門司ー博多間をDD51牽引は意外な感じです、ED76でもおかしくはないのですが・・・。
下記のブログからの情報でした。
blog.goo.ne.jp/inabaji-rapid5828/e/81de4b22bf7683371f2e0f55a5c26dce
@@ja601h さん、情報ご提供、ありがとうございます。よく、見つけられましたね。博多‐門司間の牽引機は確かに不思議ですね。山陰区間がDD51牽引なので、列車編成がELに対応していない(EF30は何でも曳く機関車なので別として)という事かもしれませんね。
単に運用の都合でしょうね。
当時は筑豊本線は非電化、門司港~飯塚直通の50系客車列車が珍しくなかった時代。
石灰石輸送も健在で、北九州地区にDD51が大量に在籍してましたから。
九州のDD51は門司か鳥栖機関区で関門トンネルはEF30、そして山陰のDDは米子機関区が担当していました。九州と山陰は別物ですよ。
新幹線で京都から小倉へ行ったらおばあちゃんが待っていてくれた。俺がガキだった頃の話!
サムネの20系見たとき臨時のあさかぜか明星かと思いきや
まさかのさんべにびっくりやわ 九州内もなぜかDD51が担当してたな
もう廃止直前やな
ブルトレもヘッドマーク復活前やから客車のテールサイン見んとわからん頃やった
一番最初に廃止した九州から復活したのがいまだに不思議やわ