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新宮駅に着いた時、駅前に徐福公園ありましたよ。近くの海岸に徐福が上陸したという石碑がありました。
寒い冬に食べるフロフキ大根は心と体を芯から温める妙薬なりということだったりして。
来年の大河ドラマも観る気もしない題材、徐福の方が日本に関係がありそうでワクワクするのに
諸星大二郎の漫画『徐福伝説』で徐福を知った。蓬萊山を求めて日本に来た徐福は富士山の風穴に入るが
野暮の極みだが、徐福は紀元前200年以上の人物のはず。それが日本に来た時に「お辰」という名の女性などいたとは思えない。連弩は「横山三国志」で姜維が用いていたのが懐かしい。
私のコメントに書いたけど、辰韓に徐福らしき御一行が辿り着いてます。これは三国志の記述なんですけど、この『お辰』と言うのは辰韓人を指してる様に思えます
23箇所の伝説地内、徐福が実際に上陸した地は、島根県石見海岸(約2千人集団)と佐賀県伊万里湾岸(約3千人集団)が史実と考えられる。遺跡、人骨DNA、機族(ハタ族)に因む畑、畑井、波多の地名あり。徐福本人は筑秦国(後の筑紫)から出ることなく亡くなったと、伝わる。
今も昔も、日本人の有名人好きには困ったものだ。古の知識人層が中国の文献を読んで、徐福に肖り流布したというのがオチでしょう。
とりあえず徐福らしい秦の御一行についての記述が三国志に書かれてます。遼東の帯方郡は楽浪郡の南にあります。漢・魏の朝鮮半島支配領域で最南端。帯方郡より更に南は漢・魏の支配が及ばない三韓となる。三韓は西に馬韓、南に弁韓、東に辰韓と別れており、南は倭と接している。『辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕・齊之名物也。』(東夷伝韓条)おそらく徐福御一行が到達した所は三韓の一つである辰韓。この東夷伝の説明だと…『その昔、秦の役目を放棄してこの地に辿り着き、馬韓が土地を割いて住まわせてくれた。言語は馬韓とは違う。国を邦、弓を弧、賊は寇と言った。辰韓人は秦人に似ている。』ザックリ訳すとこんな感じだろうか。この秦の役目と言うのが徐福が頓挫した不老不死の薬の探索なのだろう。この辰韓人が弥生人の原型かもしれない。我々日本人も国を邦と言うし賊には寇の字を使うからね。(邦人、邦画、元寇、来寇とか)その辰韓の記述にこんなのがある。『今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。』(東夷伝韓条)『其俗、行者相逢、皆住讓路。』(東夷伝韓条)↑辰韓人は男女とも倭人に近い。その風俗は道行く者と逢えば足を止めて道を譲るとある。なんか譲る精神が当に日本人ぽいよね。『弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竈皆在戸西。其瀆盧國與倭接界。』(東夷伝韓条)↑更にお隣の弁韓は辰韓と雑居している。衣服も辰韓と変わらない。言語も近いが鬼神の祀り方が異なる。瀆盧國(弁辰瀆盧国)は倭と界を接している。伝には弁辰瀆盧国とあるからこの瀆盧国が弁韓と辰韓(旧秦人)が雑居した国なんだろうね。その瀆盧国が倭と隣接してる事が判る。定かでは無いが、弁韓は日本列島まで勢力が及んでいた可能性もある。(飛躍した妄想w)まぁ何にしとも過去に徐福らしい秦の御一行が辰韓で土地を得て過ごしていた事がこの三国志魏書東夷伝から判る。あと『お辰』は辰韓人から取ってるんじゃなかろうか
徐福は、後の、和の国、日本、現、和歌山県新宮市に、来たでござる、新宮に、徐福の屋敷跡、徐福公園があるでござる、和歌山県新宮市、徐福公園行ったことあるでござる
徐福がその当時にもたらした先進技術は超後進国だった東夷の国の後世に多大な成果を残したと思う。
保食神を「ほしょくしん」と読んでしまうのは、相変わらず残念…。しかも、よりにもよって、言い間違い・聴き間違いの話の中で…。
新宮駅に着いた時、駅前に徐福公園ありましたよ。
近くの海岸に徐福が上陸したという石碑がありました。
寒い冬に食べるフロフキ大根は
心と体を芯から温める妙薬なり
ということだったりして。
来年の大河ドラマも観る気もしない題材、徐福の方が日本に関係がありそうでワクワクするのに
諸星大二郎の漫画『徐福伝説』で徐福を知った。蓬萊山を求めて日本に来た徐福は富士山の風穴に入るが
野暮の極みだが、徐福は紀元前200年以上の人物のはず。それが日本に来た時に「お辰」という名の女性などいたとは思えない。連弩は「横山三国志」で姜維が用いていたのが懐かしい。
私のコメントに書いたけど、辰韓に徐福らしき御一行が辿り着いてます。
これは三国志の記述なんですけど、この『お辰』と言うのは辰韓人を指してる様に思えます
23箇所の伝説地内、徐福が実際に上陸した地は、島根県石見海岸(約2千人集団)と佐賀県伊万里湾岸(約3千人集団)が史実と考えられる。遺跡、人骨DNA、機族(ハタ族)に因む畑、畑井、波多の地名あり。徐福本人は筑秦国(後の筑紫)から出ることなく亡くなったと、伝わる。
今も昔も、日本人の有名人好きには困ったものだ。古の知識人層が中国の文献を読んで、徐福に肖り流布したというのがオチでしょう。
とりあえず徐福らしい秦の御一行についての記述が三国志に書かれてます。
遼東の帯方郡は楽浪郡の南にあります。漢・魏の朝鮮半島支配領域で最南端。帯方郡より更に南は漢・魏の支配が及ばない三韓となる。
三韓は西に馬韓、南に弁韓、東に辰韓と別れており、南は倭と接している。
『辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕・齊之名物也。』(東夷伝韓条)
おそらく徐福御一行が到達した所は三韓の一つである辰韓。
この東夷伝の説明だと…
『その昔、秦の役目を放棄してこの地に辿り着き、馬韓が土地を割いて住まわせてくれた。言語は馬韓とは違う。国を邦、弓を弧、賊は寇と言った。辰韓人は秦人に似ている。』
ザックリ訳すとこんな感じだろうか。
この秦の役目と言うのが徐福が頓挫した不老不死の薬の探索なのだろう。
この辰韓人が弥生人の原型かもしれない。我々日本人も国を邦と言うし賊には寇の字を使うからね。(邦人、邦画、元寇、来寇とか)
その辰韓の記述にこんなのがある。
『今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。』(東夷伝韓条)
『其俗、行者相逢、皆住讓路。』(東夷伝韓条)
↑辰韓人は男女とも倭人に近い。その風俗は道行く者と逢えば足を止めて道を譲るとある。
なんか譲る精神が当に日本人ぽいよね。
『弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竈皆在戸西。其瀆盧國與倭接界。』(東夷伝韓条)
↑更にお隣の弁韓は辰韓と雑居している。衣服も辰韓と変わらない。言語も近いが鬼神の祀り方が異なる。
瀆盧國(弁辰瀆盧国)は倭と界を接している。
伝には弁辰瀆盧国とあるからこの瀆盧国が弁韓と辰韓(旧秦人)が雑居した国なんだろうね。その瀆盧国が倭と隣接してる事が判る。定かでは無いが、弁韓は日本列島まで勢力が及んでいた可能性もある。(飛躍した妄想w)
まぁ何にしとも過去に徐福らしい秦の御一行が辰韓で土地を得て過ごしていた事がこの三国志魏書東夷伝から判る。
あと『お辰』は辰韓人から取ってるんじゃなかろうか
徐福は、後の、和の国、日本、現、和歌山県新宮市に、来たでござる、新宮に、徐福の屋敷跡、徐福公園があるでござる、和歌山県新宮市、徐福公園行ったことあるでござる
徐福がその当時にもたらした先進技術は超後進国だった東夷の国の後世に多大な成果を残したと思う。
保食神を「ほしょくしん」と読んでしまうのは、相変わらず残念…。しかも、よりにもよって、言い間違い・聴き間違いの話の中で…。