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私の一族の多数が、安中左近の隊のメンバーとして、武田軍の先鋒のほぼ中央に参戦しています。安中左近は討死していますが、私の一族のメンバー多数は生き残り、郷里に帰らずに、現在の愛知県東部に住み着いたそうです。今でも、愛知県東部には、私と同じ苗字や似た苗字の人が多数います。珍しい苗字なので、やはりこの戦いで生き残った一族の子孫なのでしょう。
武田軍の設楽原の戦いで、矢弾が尽き、あとは肉弾戦で決戦を決める展開は、なんだか太平洋戦争の日本軍の万歳突撃を彷彿します。
とてもわかりやすい説明で、すっかり納得させられてしまいました。実際ご説明の通りの状況だったのではないかと強く思うようになりました。戦国時代の出来事って、ことほど左様に分からないことが多いのですね。勉強になりました!
この切り口で解説してる動画見るのはめちゃくちゃタメになる
徹底した検証と解説!素晴らしい!武田推しで長篠も訪ねた戦国好きですが、初めて聞く内容も多く圧倒されました。長篠の動画ではダントツ一番の内容ではないでしょうか。これだけの動画編集は大変かと思いますが、今後も期待してます!
時代も場所も違いますが、湊川の戦いでは、兵数で勝る足利軍は当初は無理に決戦に出ず、持久戦法を用いて戦闘力の高い宮方の軍を疲弊させたようなので、おそらく織田・徳川連合軍も地形を利用して無理に戦わなかったのではないかと妄想していました。兵数、物資ともに優れた勢力は無理に決戦に出る必要はないというのは、ハンニバルと戦ったローマ軍とかもそうですね。劣勢の側は無理にでも決戦に出ようとして出血を増やす。武田軍にとっては始まる前から厳しい戦いのようです。
いつも楽しみにしています。現代の信長公記ですよねぶれない姿勢で長いシリーズに取り組む主さんに感謝
ありがとうございます!
戦国時代を別の観点から知ることができて、めちゃ参考になります。次もとっても楽しみ。応援してます。
あんまり言われていないのですが、晩年の信玄は本気の城攻めをほとんどしなかったのに、勝頼は大軍で囲んで落とす事に固執する(ただしこっちが普通の正攻法)タイプだったんですよね。信玄は5000ぐらいの別動騎馬を幹部に率いさせ、敵地を疲弊させて国衆を略奪で満足させるいわば高機動カバディ的な方法論を確立させ、それで駿河を北条との優位講和で掌握でき、これが「人生でたどり着いた戦略」でした。信長は畿内の流通網を絞り、東国の鉄砲を干上がらせ、槍足軽同士のまともな戦いを否定して陣城戦にした(これは賤ケ岳でも山崎でも羽柴明智柴田全員に模倣された)のが「人生の戦略」だったのだと思います。やはりそれに対して勝頼はあくまで士気高く槍の差し合いをすることに重きを置いた戦術論にとどまったところがあり、いろいろと惜しい部分はあります。上杉景勝よりは大分センスあったのも確かなんですけどね
信長の手法はいいとして、時勢が手遅れになるまで国衆のご機嫌取ってただけの信玄を比較対象にするのは、何の意図があるの?
信玄は川中島以後、大名同士の会戦の実入りの無さを悟ったように見えます。勝頼に代替わりしてこの認識が"普通の大名"レベルに戻ってしまったというお話の意図です。大名は国衆の離反を最も恐れるので、相手の傘下にストレスを与えて自分の傘下を満足させる方法論は時代の本質を捉えた一つの解であったのは事実だと思います。実際にこれを始めてから謙信に固執していた時よりも遥かに楽に敵の外交的疲労で領土を広げているので。信玄の晩年を見ていると濃尾も(畿内が朝倉らでおさまらない前提で)この方法論で圧迫する気で、武田は信長との会戦をしなくてもいい戦略を編み出したのに勝頼がそれを捨てたように見えるのは事実だと思います。
まぁ信玄の死後より事態は悪くなってるし時間も残されていなかったから戦術的勝利を重ねるしかないんでないかい?
@@思考囲われ 勝頼に戦術はあったけど戦略が無かったのか~
@@paipaiRX 戦略がないというけど、勝頼自体諏訪家の跡取りで正式な後継者として扱われてない以上、信玄のような戦術は出来ないというのが現実さらに謙信が死んでしまい、強力な後ろ盾がなくなって周辺が不安定化して信玄が蒔いた種、信玄自体他家との約束を反故にすることが多く、武田家の外交的信頼はそもそも地に落ちていたので一体何が出来たのだと三国同盟が崩壊してよくもまぁあそこまで持ちこたえたよ
いつも動画拝見しています。クオリティの高いコンテンツをありがとうございます!
日常で馬に接する事がなくなった我々が戦における馬の使い方を理解するのはやはり難しい。多分非常に多様な使い方があったのだろうと最近は考えています。
織田方の記録文書に、「馬入」(柵を越えて突入)、「能く乗りて」とあるので、武田軍が騎馬の運用に長けていたのは事実かと思います。徳川の柵はかなり突破されてます。
武田残兵を吸収した徳川が日本一の名声があって加藤や福島が尻尾を振ったのは仕方ない、関ヶ原では現役の徳川には実績も少ないが小田原攻めや名護屋城に全国大名が集まった時にアレには勝てないと思われた徳川。秀吉は統一を焦ったんだろうね、徳川が動けない間に紀州も四国も一蹴、北条と奥州に徳川を切り取り勝手に参陣を求めた方が良かっね。北条を生かした方が良かったのに、家康に足利尊氏みたいなチート機能がついてたんだろうね。
映画七人の侍が騎馬戦の参考になると思いますよ。
そう言えばかなり前に堺屋太一がTVで「戦というものは鉄砲合わせから始まって矢合わせ、槍合わせと推移していく。長篠戦いではいつまで経っても前哨戦で本格的な戦いに移行しない。武田軍にしてみたらソロソロ本格的なぶつかり合いになっても良さそうなのにな。と思っている内に負けてしまった」と解説してた事があった。
素晴らしいです!わかりやすいし、今までの自分にはない見識でした。
詳しい分析戦国の戦がこういうものだったのかというのはNHK歴史物より 合戦の様相というものが手に取るようにわかりとても興味深かったありがとうございます。
今までこういった考察はありませんでしたので大変興味深く拝見しました。殊に鉄砲玉の分析などは、新たな視点です!貴重な鉛を回収しただろうという考察はこれまで見たことがありません!出てくる鉄砲玉の、その数が少なすぎる現象ゆえにそんなに鉄砲は無かったのだろうという説をTVで見たことがありそれに対する反証となっていて充分な納得できる考察だと思います・・・
楽しみに待っていました。
@@tunach こちらこそありがとうございます。続きも楽しみにしていますので、ツナさんのペースで続けていただけると嬉しいです。
このチャンネルは、伸びる🎉
とても楽しみにしてました☺️アップありがとうございますm(_ _)m
一般的に忘れ去られた鉄砲の産地として、近江日野がある。この土地は蒲生氏郷の故郷であり、この鉄砲鍛冶を取りまとめていたのが氏郷の父親である。織田信長は足利義昭を奉じて上洛した結果、泉州堺・近江国友・近江日野の当時の日本における鉄砲主要生産拠点3か所を一挙に抑えた。その後浅井朝倉両氏を滅ぼし、六角氏を抑え込んで完全に支配下に置く。支配領域の拡大と税制の再編、経済活動の活発化に伴い鉄砲・弾薬両方を抑えることに成功する。武田は駿河を押さえているので海路から鉄砲弾薬の調達は可能であったものの、経済力が伴わない、個々の武将らに独自に調達をさせていたのか兎に角、鉛玉は手に入らず、鉄や銅などで弾丸を製作。鉛であれば低い温度で弾丸製作が可能で、家内製で調達できたものの鉄の鋳物では生産性は低下する。織田勢は、弾薬の調達も組織的に行っていただろう。弾丸や藁縄も各武士ら家内での製作が十分可能であった。
とても興味深く拝見しました。クオリティが素晴らしいですね。とても研究された内容です。私の自説としてはこの戦いにおける史跡、特に誰々の墓というのが広く南方に広がっているのが気になります。私はもっと南側に延翼運動して後背をつこうとしたのが戦いの真実ではないかと思っている次第です。従来からの説ですと、織田本体を戦いの正面に立てるだろうか❓数の多い織田・徳川勢が堅守に回る理由が少ない、むしろ徳川こそ南方を迂回して戦線を広げるのではにないだろうか❓以外と鉄砲の玉か見つかっていない。と疑問に思う点が多々あるかと思います。どのみち真実はわかりませんがいつかわかるといいですね。
ちょうど今春に長篠城と設楽原を見てきたばかりだったのでタイムリーでした。鉄砲の弾丸数に差があった説は非常に有力ですね。当時の東南アジア鉛を輸入する窓口は堺であり、ここを押さえている信長は他大名に対して大きなアドバンテージがあったはず。しかしこういった不利は勝頼も事前に知っていたはずで、なぜ決戦に及んでしまったのかはまだ疑問が残ります。勝頼の書状で織田・徳川軍を過小評価していたものがあったと思いますが、あれ本心なんですかねえ(同盟者へのアピールという線もあるので)。設楽原ってほぼ谷底なんで、大軍を隠す場所なんてあったのかどうか...
不利を承知していたからこそ戦うしかないと判断したのかもしれないし、私が勝頼でもそう判断すると思います。このまま手をこまねいていたら、ただでさえ隔絶している武田と織田の国力差、それ即ち兵の動員力が更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田は不利になってしまう。織田に経済封鎖されて鉄砲や鉛、火薬が手に入りにくくなっている。信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた事で、信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしい事から、外交での織田との関係修復は無理。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康の共同での今川攻めの際の遺恨(信玄が家康とした今川領を分ける約束を欲を出して破って家康を激怒させ、徳川・上杉・北条の武田包囲網を作ろうとし、信玄が信長に家康を抑えるように求めた。 更に家康は信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信の手を結ばせようとした)によって無理。浅井家・朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題だろう。これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と争っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない中わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝しなければならなかったと思います。
戦国時代の兵種別編成は西股氏の著作に詳しかったが、某歴史研究者に否定されてたがしっくりなかったけど、当動画を拝見していて、兵種別編成について納得がいきました。
28:16 さすが鬼美濃頑張っとるわ
初見です! 凄い労作ですね。堪能しました!!数多くの資料を対象に、合理的基準で読み解かれており、内容に納得度が高かったです。戦の推移は非常に納得できるものですので、一つ質問です。織田軍(しかも圧倒的数の!)出現当初に、勝頼が撤退しなかった理由を如何お考えでしょうか。軍事よりは政治になるか、と思いますが、お考えをお聞かせください。
ありがとうございます!前回動画をご参照いただけると嬉しいです。
@@tunach 了解しました!
確かに。この動画の説が一番しっくり来る。
力作でした!一次資料と二次資料を使い分けるスタンスは好ましいです一次資料と二次資料を公平に扱うわけにはいきませんものね資料もですが、地図を効果的に使っているので視覚的に伝わりやすく見やすいです
大変わかりやすく説得的な内容でした。私も、打物戦の押し引きが長く辻たのだろうと思います。一つだけ、ン?と思ったのは、「信玄の時代には総崩れがなかった」。若い頃、ではありますが、上田原はともかく、砥石崩れは総崩れでは?
総崩れは軍全体が崩れることなので、殿軍(一部)が崩れた砥石崩れは総崩れに該当しないと考えてます。
鉄砲は鉄砲だけあってもただの鉄棒。弾丸と弾薬を準備してこそ兵力として生きてくる。弾薬は当時ほとんど輸入に頼っており、信長は足利義明を奉じて上洛した際に地位も領土もいらないが堺などの港を欲して、それ以来弾薬弾丸を確保し続けている。織田軍の主力が出張るなら、長時間鉄砲を撃ち続けることができる兵力を保持していることは当然、想定しなければならない。にもかかわらず織田軍の兵数を十分に確認しないまま設楽原に出陣した時点で既に勝敗は決していた。そもそも、弾薬弾丸を仕入れることができず、数万の兵を長期間率いるために農村に多大な税を課しており、長期的にはいつか織田軍に敗戦することは予想しなければならない。農村だけでなく港などの商業地からの税収も得ていた織田軍とは経済力に大きな差があり、用意できる兵数に差があり、戦場に出向く以前の外交戦、経済戦で既に勝敗がついていたのだから、外交的な負けを認めて領地の拡大をあきらめるしかなかったはず。孫子にも戦争論にも書かれた真理ですね。そう考えると、正統な後継者ではない勝頼では外交的な敗戦を認めることは不可能だし、勝頼を後継に指名した時点で決着がついていたのかもしれない。5・15や2・26の時点で、外交戦、経済戦の敗北を認めることができない状態になり、第二次世界大戦の敗戦に突き進むしかなかった日本とそっくりですね。
領地の拡大を諦めるなんて事をしたら、信玄とか信虎、それ以前からの重税で困窮している中他国に侵攻して略奪したもので国を潤し、自分達の食い扶持を得てきた家臣や国衆達が不満を抱いて、かつて信玄を担ぎ出して信虎を追放したように別の誰かを担ぎ出して勝頼は追放されるか殺される事になっていたと思います。そもそも、鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名である武田家が守護代の家臣筋の織田という武田から見たら素性が怪しく身分も低い格下の家柄の相手に屈する事を勝頼だけでなく家臣達も良しとするのだろうか?不満を持つのではないだろうか?と疑問に思います。
動画製作者 有能過ぎんか?
信長のシェフの15巻(長篠の戦い)で紹介してましたが、長篠・設楽原の戦いは信長の新戦法や勝頼の無知ではなく、東西の経済格差の戦いと言えそうですね。また陣城とはいえ3重に築かれた山城を攻めるのは兵数不利な武田軍が攻めることは難しい(孫子でも城攻めは下策)ことや当日に雨が降らなかったなど運が絡んだ事も武田にとって不利になったのでは無いのかと考えてます(設楽原は大軍が布陣するには狭すぎるので…)。ただ、武田方も柵を倒して佐久間勢などを退かせているので相当善戦したのは間違いないと思います。
サムネで吹いてしまったw秀逸ですな。確かに異常な強さ。
4:08「一方、武田氏の鉄砲の登場は古く、信玄の父信虎の代の1526年に四国から伝わっている」とあるが…根拠は?通説では鉄砲伝来は1543年なので、信虎は鉄砲伝来よりも約17年前に鉄炮を得ているとなるが…
俺もソレ思った
昔戦場跡に行って思ったのは、陣地前縁間が約70m(歩測)、鉄砲戦で相手が出て来ないとなったら味方の射撃援護下で一番槍を目指して突撃もしたくなる距離だよなぁ、ってところ。 全くの個人的仮説なんだけど、馬防柵のもう一つの効能って、銃床がなく重心が前に寄ってる火縄銃の銃身を持たせかけることによって命中率の向上に寄与させたのではないかと。 目の前で口火薬が発火するのにビビッて目をつぶって引き金を引けば微妙に照準がぶれるけど、何か固定物に支えさせればブレは小さくて済むような気がするので。 火縄銃の実射経験がないので想像でしかないのですが、中世ヨーロッパの銃兵の顔の火傷はベテランの証とも言われていたそうですし。
実際に設楽が原の古戦場に行きましたが、高名についての着目は興味深かったですね。それでも戦に勝つか、もしくは生きて帰ってこその高名だと思うので、3倍差の敵を攻めたことに対して、古来からいろいろな説がありますが、どれもしっくりこない印象でした。
コメントで鉄砲の伝来が1543年以前について疑問を持っている人がいますが現在は鉄砲伝来は1543年以前にもアジア各地から何回かに分けて日本に到来したと考えられています。実際各地に1543年以前に鉄砲が使用された記録があります(伊勢宗瑞や松平清康が使用した例があります)。また種子島式鉄砲が国産され全国に普及しますが、この種子島式鉄砲はヨーロッパで普及していた鉄砲と形状が異なるため、恐らく東南アジアで普及していた鉄砲がモデルだという説があります。
軍事物資の物量で焦ったのが武田軍という事かな。
ご無沙汰しています。アップありがとうございます。
合理的分析はナイスです。できれば信長が信玄をどのように分析していたか、恐れた理由は何かを知りたいですね。当時の戦力では、信玄軍の方が上手だったのかな。ある動画では、関東では乗馬での戦、関西では馬から降りての戦がメインらしく、関西では乗馬で攻められたら対処法がなかったとか。なので信玄軍が強かった?かもです。にしても信長は他にも鉄船を造るなど、とかく先端を走ります。やり手の社長といったところですな。やっぱまれにみる天才の一人だったのでしょう。
現地で柵を作れるほどの幹を持つ樹を伐採していたら、枝を落とすのも運ぶのも大変だと思いますが…少しならともかく数キロに渡る三重の柵となると相当な分量が必要で、当時はチェーソーもトラックもないので、いくら戦国期の人が強靭でも、そんな重労働をしたら戦う前にヘロヘロになってしまう。敵が間近にいて急襲の可能性もあるのに前線でそんな悠長なことはしないかと思います。3万の兵力を活かして、それぞれに丸太を持たせて運び込んだ方が妥当に思えますが。
自然木:尺木(幹を加工したもの胴回り30㎝)→柵 木の枝→逆茂木基本一緒に作るそうで、甫庵信長記(江戸初期)にも一緒に作ったと記載があるので、現在は現地作成説が有力かと思われます。とは言え他の北条氏などが尺木を事前に準備している一次史料もあるので、新たな史料次第で変わるかもしれません。
基本的には斜面や丘陵を要塞化していたはずなので、陣地を選定するのにそもそも木が生えている場所が選ばれるのである程度は問題ないのではないでしょうか?
丸太とか巨木なんて使ってないです。棒と縄を持ってこいと言われてなにに使うのかと思いながら出陣してきたと言われている。そんな重いものもって行軍できないよ。
現代の日本人は ひ弱すぎるから 問題外 同じ見方したら駄目よ 今の若い奴は 素手で簡単に56せそうなひ弱さ 蹴ったら 骨折れそう
丸太じゃなくていいから重い物持って500メートルくらい歩いてみな。「持てる」と「それ持って歩く」は全然別物だから。
これは おもしろいただ武田氏も砥石崩れや 第四次川中島では酷い目に遭っているので長篠の敗戦→滅亡は 勝頼のカリスマ性などではなく何か重大なミッシングリンクがあるような気がしてならない
嫌 沢山鉄砲弾薬があっても勝敗は分からなかった。酒井忠次の進言の鳶ヶ巣山の奇襲攻撃が成功して、武田軍が退くも出るも地獄に陥ったからでしょう
武田騎馬隊はウソ!みたいな言説が一時流行っていた気がしたが、こういうことだったのね。
なんであんな根拠なき批判がまかり通ってたのか謎ですね。小柄な木曽馬の強さは体格ではなく山岳戦も出来る脚力にあるのに。織田方の記録文書に、「馬入」(柵を越えて突入)、「能く乗りて」とあるので、武田軍が騎馬の運用に長けていたのは事実です。
内陸の武田に1526年に到来していたならば、もっと早い時期に鉄砲は伝来していたのだろう。
4:08 1526年に鉄砲が武田に?1543年鉄砲伝来と習ったが、中国からのはもっと早い?
少なくとも琉球王朝には15世紀に明から鉄砲が伝わっており、それを運用する為の鉄砲狭間も作られていますね。明や朝鮮の記録からも15世紀から倭寇が鳥銃と呼ばれる鉄砲を使っている事が分かるので、16世紀の種子島銃の伝来と鉄砲そのものの伝来は別として考えて良いと思います。
動画だけでも面白いけど、コメが秀逸
25:46 1550年の「砥石崩れ」は総崩れではなかった、ということでしょうか?
ランチェスターの法則を元に武田陣営、織田徳川陣営の戦闘能力を加味すると武田兵1人と織田兵25人が同等の戦闘力となる。それを武田陣営と織田徳川陣営がこの戦いをどうとらえていたか?武田陣営は信玄が家督を相続して以来全ての合戦に勝利し、織田徳川陣営に対しても三方が原合戦や東美濃18要塞攻略戦などで勝利を収めていたことから油断や驕り、慢心が広がっており、宿老連中も勝頼側近も「誰が信長家康の首級を挙げるのか?」「どれだけ派手に織田徳川陣営に勝つか?」しか頭になかったのではないだろうか。一方織田徳川陣営は長篠設楽原合戦の前年の高天神城陥落の前科があり、戦国大名は境目の領主が危機に陥った時は助けに行くという義務を信長は結果として怠ったことになる。長篠設楽原合戦では信長は戦国大名としての義務を果たすことで徳川を織田陣営に引き留めることができればそれでよし、長篠設楽原合戦で用いた戦術モード•アングレも織田徳川本隊の撤退に必要な時間を稼ぐのが最大の目的だったのでは?ただ両陣営の思惑が外れた結果が勝敗を決めたというのがこの戦いの真相ではないだろうか?
「戦いは数だよ兄貴」ドズルザビのこの名言から得られる事は数が足りん時は撤退やね
勝頼がそれをやったら、信長や家康に「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝されて三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。これは現代で言えば自社の経営が苦しい中大金を出して親会社の一大プロジェクトに協力したのに突然中止になって、親会社からお詫びの金も支払われず、自社の社員達の給料の支払いにも困る事なった事に近いと思います。そうなったらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わって面子まで潰された家臣や国衆達は不満を抱いていたでしょう。今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。勝頼が武田家を継いだ時の武田家の状況信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事からの遺恨(信玄の盟約違反に激怒した家康が武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。これらの状況を打開するにはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だと思います。撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
@@峻-k5kでは結局どうすればよかったの?陣代にならずに出家?
@@清水ひろゆき-s6u どう足掻いても、勝頼の立場に立っていたのが信玄であってもこの状況を打開するのは絶対に無理でしょう。熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえた信長と敵対した時点で武田家は遅かれ早かれ滅亡する運命だったと思います。徳川に駿河を、織田に信濃を割譲して臣従するという事を言っている人もいましたけど、それは鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名である武田家として勝頼も家臣達も受け入れ難いでしょうし、仮に勝頼本人が織田への臣従を受け入れたとしても、そんな事をしたら家臣達は「織田のような素性の怪しい格下の家柄の相手に臣従しようとして、自分達の領地や城という食い扶持を守ろうとするどころか敵に差し出そうとする大名など不要だ」という理屈でかつて信玄を担ぎ出して信虎を追放した時のように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとしてくると思います。信玄が信長と敵対した時点で、勝頼の運命は決まってしまっていたと私は思います。 武田家滅亡は勝頼のミス(私が思うミスは高天神城を救援しなかった事。 長篠の戦いや御館の乱は結果的にミスになっただけで、勝頼の立場や状況で考えたら勝頼の判断は仕方ない)も多々あったのかもしれませんけど、根本的な原因は甲斐の貧しさとそれを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったが禍根を残して勝頼の代に負の遺産になったからだと思います。
@@清水ひろゆき-s6uどうする事もできない、信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めて信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させた時点で遅かれ早かれ武田家滅亡は確定だったと私は思ってます。織田に臣従すればって話を聞いた事ありますけど、それは鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名として勝頼も家臣達も受け入れがたいでしょうし、もし勝頼が臣従を受け入れたとしても、家臣達が自分達の領地や城などの既得権益を守ろうとしない輩など不要だとばかりにかつて父の信玄を担ぎ出して祖父の信虎を追放したように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとすると思います。
アニメ()に出てくる架空の人物()のセリフを名言とは、ギャグにしてもセンス悪すぎますね現実で人の話を聞いたことの無いタイプの人?
武田軍の鉄砲隊と織田軍の鉄砲隊の性能的は織田方が有利で合った
鉄砲伝来(1543年)より早く武田氏は鉄砲使ってたの?
8:00 毛利が瀬戸内海の水運を握っているはずなのに、織田への経済封鎖ができず(配下の商人・水軍衆が食っていけなくなるからだろう)、織田が武田への経済封鎖ができるのが草。
合戦地を調査したら鉄砲の玉がほとんど無かったと云う話を聞いた事があるが真実はどうなんだろう
なぜ勝頼は決戦したか?これが一番の疑問ですね。
これ以上の織田の勢力拡大に歯止めをかけたいか、安全に撤退する為だと私は思います。織田の勢力拡大に歯止めをかけたい理由としての予想は、勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めがいずれも失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。お金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わり、面子まで潰された家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からない。今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。勝頼が武田家を継いだ時の武田家の状況信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事からの遺恨(信玄の盟約違反に激怒した家康が武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのでしょう。 私が勝頼でもそう判断すると思います。撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。安全に撤退する為だったという理由は、酒井忠次の鳶ヶ巣山砦奇襲によって退路を断たれた時に酒井忠次隊の方に向かおうとしたり、別の方向に逃げようとしたら、織田・徳川軍の本隊に背を向ける事になるから本隊と酒井忠次隊に挟み撃ちにされてしまうかもしれない、安全に撤退するには設楽ヶ原に布陣している織田・徳川軍の本隊に痛手を与えるしかないと判断したのなら納得がいきます。
知行何石あたり騎馬なんぼという基準、武士が個人で飼育している馬と思っていたが農村の持ってる馬を戦時徴収していたってこと?>武田領では村々に伝馬役を科してたが村人はそれ逃れをしていたので罰則があった。日露戦争後に軍馬の改良のため農耕馬を含め国内の馬を一括管理しようとした話そのものだ。
敵を知り己を知れば百戦危うからずと比べると、敵を知らず己を知らず消耗戦を8時間も続けた結果、ボロ負けしたことになるのでは。
武田家への鉄砲伝来が信虎の代の1526年で、種子島での伝来が1543年ということは、火縄銃とは仕組みの違う鉄砲が1543年以前からあったということでしょうか?
北条氏康が元服前(1520年代)に鉄砲の音を聞いて怖がったのを見て父氏綱ががっかりしたと言う逸話がありますね。逸話の真偽はともかく完成したマッチロック銃以外にも日本に伝来しててもおかしくはありませんね。中国では15世紀末には普及しており中国を荒らした倭寇がこれを見逃すはずが有りませんしね
恐らく明の鳥銃(鉄砲)だと思われます。銅製で連射に向かず、実戦より贈答品として扱われたのではないかと。
@@tunach 実践向きでないものは種子島伝来以前から日本にあった可能性があるんですね!大変勉強になります。いつも楽しみにさせていただいております。
武田の軍規を把握し、勝頼では信玄公が確立した軍規を変える事が出来ない事を、見越した上での、長篠の戦術。長篠での敗北は、従軍していた諸将に織田には勝てないと思わせるには、十分な結果でしょう。
当時の鉄砲と弓では、威力としてはやはり鉄砲の方が高かったのだろうか。弓矢は資源=資金が抑えられる。連射が出来る。故障が少ない。雨天でも使える。鉄砲は、射撃体制のまま待機出来る。比較的習熟が容易。狭隘場所でも使える。発射音による威嚇効果。かなと想像する。
南北朝の頃でも数十本の矢が具足に刺さっても軽傷で済んだ話がある一方、顔など具足の隙間に無数に刺さって討死した話があります。戦国期に入ると具足でカバーされる部位が拡がるので、矢は良い感じにその隙間に入り込まないと負傷させる事が出来なくなっていますね。前田利家や山内一豊などは至近距離から顔面を射られたものの、自分を射た相手を討ち取る奮闘を見せていますので、武器としては威力の劣る部類でしょう。もちろん源為朝のように大鎧と人馬を貫通する巨大な矢(江戸時代に槍として再利用)を放つ事が出来れば全く事情が変わって来ます。鉄砲玉はむき出しの鉛(現代では非人道兵器扱い)なので体内に入り込めば大きく変形し、致命的な損傷を与えます。
鉄砲は負傷させて、負傷者に対する労力を増やし、戦線離脱させるという側面、弓矢に関しては日本の場合は長弓が主流で、やはり致命症を与えるという感じかなと。あくまで、個人的見解なのですが…
1526年って鉄砲伝来とされる時期より前やん
尊経閣本『信長公記』(2:43〜2:48)はデタラメ満載の『信長記』作者の小瀬甫庵が藩儒として仕えた、加賀前田家の蔵書です。しかも太田牛一の原本ではなく、後代の写本です。加賀藩士の誰かが『信長公記』の当該箇所を藩儒である甫庵の『信長記』と一致するように改竄したのではないでしょうか。なぜこんな性悪な推理をするのかというと、江戸時代、軍学の教本あるいは講談の種本として『甲陽軍鑑』がもてはやされるようになり、『甲陽軍鑑』の作者が捏造した逸話が『甲陽軍鑑』に先行する史料で、より信頼性が高い『高白斎記』に竄入したというケースがあるからです。また、今でこそ『信長公記』は二次史料としては信頼性が高いとされていますが、江戸時代は『信長記』の後塵を拝していました。そのため、「鉄砲千丁」を語呂が良く、人口に膾炙した「鉄砲三千丁」に改竄した可能性はありえると考えます。 一昔前の近世史学者は『甲陽軍鑑』と聞くだけで吐き気を催したそうですが、『甲陽軍鑑』以上の忖度や捏造をやらかした『信長記』『太閤記』を著した人物が仕えた諸侯の蔵から出てきた写本の記述を、無批判に信頼するのは如何なものでしょうか。長文失礼しました。
戦略目標である城の救援を達成。しかも武田軍後方。これを確保した時点で織田軍は急ぐ理由がありませんからねぇ笑 何時間とか意味のない話でしょう武田が押して来れば陣城にこもれば良いし、逃げ出せば食いついて隘路に追い込んで殲滅すれば良い鉄砲とは無関係に完勝ですね
武田軍が逃げ出せば戦わなくても「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝すれば三河や遠江、東美濃の国衆達は「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思って次々と武田から離反してくるだろうし、甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎とかの代から続く重税で困窮する中わざわざ遠征したのに何の恩賞も得られなかった事に不満を抱くだろうから、調略しやすくなるでしょうしね。
1526年に鉄砲・・・・・・・それも四国から甲斐・・・・・う~ん
8時間の激戦か~。俺にはムリだなw
弾に困っていたのなら猟には使わないんじゃない?
なぜ3倍差で野戦したのかわからん。
戦国期までは、常設の編制としての「騎馬隊」はやはりなかったでしょう。隊として運用するには、人も馬も集団として動かす教育と訓練を施さねばなりませんが、お山の大将ぞろいの武者たちが、同輩とおとなしく教練うけたとは考えられない。ま、それはともかくこの合戦、鉄砲云々より信長が大人数を集め、陣地構築する時間を作れたことが、勝敗の分かれ目でしょう。純粋な野戦なら、織田勢は寄せ集め、あっけなく吹き散らされていた。信玄没後の武田方は、戦略政略・諜報活動、狭い作戦面では捜索、偵察能力が劣化している感があります。勝頼、戦闘力は抜群ですが、国内外の人心にアッピールするカリスマはなかったようで。
こんにちは😃
こんにちは😊
3倍の敵を雨の手取り川に追い詰めて背水の恐怖を与え多数の溺死者を織田軍北陸方面軍柴田勝家をどん底に突き落とした軍神上杉謙信は偉大だ。
ありがとうございます!励みになります。
私の一族の多数が、安中左近の隊のメンバーとして、武田軍の先鋒のほぼ中央に参戦しています。安中左近は討死していますが、私の一族のメンバー多数は生き残り、郷里に帰らずに、現在の愛知県東部に住み着いたそうです。今でも、愛知県東部には、私と同じ苗字や似た苗字の人が多数います。珍しい苗字なので、やはりこの戦いで生き残った一族の子孫なのでしょう。
武田軍の設楽原の戦いで、矢弾が尽き、あとは肉弾戦で決戦を決める展開は、なんだか太平洋戦争の日本軍の万歳突撃を彷彿します。
とてもわかりやすい説明で、すっかり納得させられてしまいました。
実際ご説明の通りの状況だったのではないかと強く思うようになりました。
戦国時代の出来事って、ことほど左様に分からないことが多いのですね。
勉強になりました!
この切り口で解説してる動画見るのはめちゃくちゃタメになる
徹底した検証と解説!素晴らしい!
武田推しで長篠も訪ねた戦国好きですが、初めて聞く内容も多く圧倒されました。
長篠の動画ではダントツ一番の内容ではないでしょうか。
これだけの動画編集は大変かと思いますが、今後も期待してます!
時代も場所も違いますが、湊川の戦いでは、兵数で勝る足利軍は当初は無理に決戦に出ず、持久戦法を用いて戦闘力の高い宮方の軍を疲弊させたようなので、おそらく織田・徳川連合軍も地形を利用して無理に戦わなかったのではないかと妄想していました。
兵数、物資ともに優れた勢力は無理に決戦に出る必要はないというのは、ハンニバルと戦ったローマ軍とかもそうですね。劣勢の側は無理にでも決戦に出ようとして出血を増やす。武田軍にとっては始まる前から厳しい戦いのようです。
いつも楽しみにしています。
現代の信長公記ですよね
ぶれない姿勢で長いシリーズに
取り組む主さんに感謝
ありがとうございます!
戦国時代を別の観点から知ることができて、めちゃ参考になります。次もとっても楽しみ。応援してます。
ありがとうございます!
あんまり言われていないのですが、晩年の信玄は本気の城攻めをほとんどしなかったのに、勝頼は大軍で囲んで落とす事に固執する(ただしこっちが普通の正攻法)タイプだったんですよね。
信玄は5000ぐらいの別動騎馬を幹部に率いさせ、敵地を疲弊させて国衆を略奪で満足させるいわば高機動カバディ的な方法論を確立させ、それで駿河を北条との優位講和で掌握でき、これが「人生でたどり着いた戦略」でした。
信長は畿内の流通網を絞り、東国の鉄砲を干上がらせ、槍足軽同士のまともな戦いを否定して陣城戦にした(これは賤ケ岳でも山崎でも羽柴明智柴田全員に模倣された)のが「人生の戦略」だったのだと思います。
やはりそれに対して勝頼はあくまで士気高く槍の差し合いをすることに重きを置いた戦術論にとどまったところがあり、いろいろと惜しい部分はあります。
上杉景勝よりは大分センスあったのも確かなんですけどね
信長の手法はいいとして、時勢が手遅れになるまで国衆のご機嫌取ってただけの信玄を比較対象にするのは、何の意図があるの?
信玄は川中島以後、大名同士の会戦の実入りの無さを悟ったように見えます。
勝頼に代替わりしてこの認識が"普通の大名"レベルに戻ってしまったというお話の意図です。
大名は国衆の離反を最も恐れるので、相手の傘下にストレスを与えて自分の傘下を満足させる方法論は時代の本質を捉えた一つの解であったのは事実だと思います。実際にこれを始めてから謙信に固執していた時よりも遥かに楽に敵の外交的疲労で領土を広げているので。
信玄の晩年を見ていると濃尾も(畿内が朝倉らでおさまらない前提で)この方法論で圧迫する気で、武田は信長との会戦をしなくてもいい戦略を編み出したのに勝頼がそれを捨てたように見えるのは事実だと思います。
まぁ信玄の死後より事態は悪くなってるし時間も残されていなかったから戦術的勝利を重ねるしかないんでないかい?
@@思考囲われ 勝頼に戦術はあったけど戦略が無かったのか~
@@paipaiRX 戦略がないというけど、勝頼自体諏訪家の跡取りで正式な後継者として扱われてない以上、信玄のような戦術は出来ないというのが現実
さらに謙信が死んでしまい、強力な後ろ盾がなくなって周辺が不安定化して信玄が蒔いた種、信玄自体他家との約束を反故にすることが多く、武田家の外交的信頼はそもそも地に落ちていたので一体何が出来たのだと
三国同盟が崩壊してよくもまぁあそこまで持ちこたえたよ
いつも動画拝見しています。クオリティの高いコンテンツをありがとうございます!
日常で馬に接する事がなくなった我々が戦における馬の使い方を理解するのはやはり難しい。多分非常に多様な使い方があったのだろうと最近は考えています。
織田方の記録文書に、「馬入」(柵を越えて突入)、「能く乗りて」とあるので、武田軍が騎馬の運用に長けていたのは事実かと思います。
徳川の柵はかなり突破されてます。
武田残兵を吸収した徳川が日本一の名声があって加藤や福島が尻尾を振ったのは仕方ない、関ヶ原では現役の徳川には実績も少ないが小田原攻めや名護屋城に全国大名が集まった時に
アレには勝てないと思われた徳川。
秀吉は統一を焦ったんだろうね、徳川が動けない間に紀州も四国も一蹴、北条と奥州に徳川を切り取り勝手に参陣を求めた方が良かっね。北条を生かした方が良かったのに、家康に足利尊氏みたいなチート機能がついてたんだろうね。
映画七人の侍が騎馬戦の参考になると思いますよ。
そう言えばかなり前に堺屋太一がTVで「戦というものは鉄砲合わせから始まって矢合わせ、槍合わせと推移していく。長篠戦いではいつまで経っても前哨戦で本格的な戦いに移行しない。武田軍にしてみたらソロソロ本格的なぶつかり合いになっても良さそうなのにな。と思っている内に負けてしまった」と解説してた事があった。
素晴らしいです!
わかりやすいし、
今までの自分にはない見識
でした。
詳しい分析戦国の戦がこういうものだったのかというのはNHK歴史物より 合戦の様相というものが手に取るようにわかりとても興味深かったありがとうございます。
今までこういった考察はありませんでしたので
大変興味深く拝見しました。
殊に鉄砲玉の分析などは、新たな視点です!
貴重な鉛を回収しただろうという考察は
これまで見たことがありません!
出てくる鉄砲玉の、その数が少なすぎる現象ゆえに
そんなに鉄砲は無かったのだろう
という説をTVで見たことがあり
それに対する反証となっていて
充分な納得できる考察だと思います・・・
楽しみに待っていました。
ありがとうございます!
@@tunach こちらこそありがとうございます。続きも楽しみにしていますので、ツナさんのペースで続けていただけると嬉しいです。
このチャンネルは、伸びる🎉
とても楽しみにしてました☺️アップありがとうございますm(_ _)m
ありがとうございます!
一般的に忘れ去られた鉄砲の産地として、近江日野がある。この土地は蒲生氏郷の故郷であり、この鉄砲鍛冶を取りまとめていたのが氏郷の父親である。
織田信長は足利義昭を奉じて上洛した結果、泉州堺・近江国友・近江日野の当時の日本における鉄砲主要生産拠点3か所を一挙に抑えた。その後浅井朝倉両氏を滅ぼし、六角氏を抑え込んで完全に支配下に置く。
支配領域の拡大と税制の再編、経済活動の活発化に伴い鉄砲・弾薬両方を抑えることに成功する。
武田は駿河を押さえているので海路から鉄砲弾薬の調達は可能であったものの、経済力が伴わない、個々の武将らに独自に調達をさせていたのか
兎に角、鉛玉は手に入らず、鉄や銅などで弾丸を製作。鉛であれば低い温度で弾丸製作が可能で、家内製で調達できたものの
鉄の鋳物では生産性は低下する。
織田勢は、弾薬の調達も組織的に行っていただろう。弾丸や藁縄も各武士ら家内での製作が十分可能であった。
とても興味深く拝見しました。クオリティが素晴らしいですね。とても研究された内容です。私の自説としてはこの戦いにおける史跡、特に誰々の墓というのが広く南方に広がっているのが気になります。私はもっと南側に延翼運動して後背をつこうとしたのが戦いの真実ではないかと思っている次第です。従来からの説ですと、織田本体を戦いの正面に立てるだろうか❓数の多い織田・徳川勢が堅守に回る理由が少ない、むしろ徳川こそ南方を迂回して戦線を広げるのではにないだろうか❓以外と鉄砲の玉か見つかっていない。と疑問に思う点が多々あるかと思います。どのみち真実はわかりませんがいつかわかるといいですね。
ちょうど今春に長篠城と設楽原を見てきたばかりだったのでタイムリーでした。鉄砲の弾丸数に差があった説は非常に有力ですね。当時の東南アジア鉛を輸入する窓口は堺であり、ここを押さえている信長は他大名に対して大きなアドバンテージがあったはず。しかしこういった不利は勝頼も事前に知っていたはずで、なぜ決戦に及んでしまったのかはまだ疑問が残ります。勝頼の書状で織田・徳川軍を過小評価していたものがあったと思いますが、あれ本心なんですかねえ(同盟者へのアピールという線もあるので)。設楽原ってほぼ谷底なんで、大軍を隠す場所なんてあったのかどうか...
不利を承知していたからこそ戦うしかないと判断したのかもしれないし、私が勝頼でもそう判断すると思います。
このまま手をこまねいていたら、ただでさえ隔絶している武田と織田の国力差、それ即ち兵の動員力が更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田は不利になってしまう。
織田に経済封鎖されて鉄砲や鉛、火薬が手に入りにくくなっている。
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた事で、信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしい事から、外交での織田との関係修復は無理。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康の共同での今川攻めの際の遺恨(信玄が家康とした今川領を分ける約束を欲を出して破って家康を激怒させ、徳川・上杉・北条の武田包囲網を作ろうとし、信玄が信長に家康を抑えるように求めた。 更に家康は信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信の手を結ばせようとした)によって無理。
浅井家・朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題だろう。
これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と争っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない中わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝しなければならなかったと思います。
戦国時代の兵種別編成は西股氏の著作に詳しかったが、某歴史研究者に否定されてたがしっくりなかったけど、当動画を拝見していて、兵種別編成について納得がいきました。
28:16 さすが鬼美濃頑張っとるわ
初見です! 凄い労作ですね。堪能しました!!
数多くの資料を対象に、合理的基準で読み解かれており、内容に納得度が高かったです。
戦の推移は非常に納得できるものですので、一つ質問です。
織田軍(しかも圧倒的数の!)出現当初に、勝頼が撤退しなかった理由を如何お考えでしょうか。
軍事よりは政治になるか、と思いますが、お考えをお聞かせください。
ありがとうございます!
前回動画をご参照いただけると嬉しいです。
@@tunach 了解しました!
ありがとうございます!
ありがとうございます!
確かに。この動画の説が一番しっくり来る。
力作でした!
一次資料と二次資料を使い分けるスタンスは好ましいです
一次資料と二次資料を公平に扱うわけにはいきませんものね
資料もですが、地図を効果的に使っているので視覚的に伝わりやすく見やすいです
大変わかりやすく説得的な内容でした。私も、打物戦の押し引きが長く辻たのだろうと思います。
一つだけ、ン?と思ったのは、「信玄の時代には総崩れがなかった」。若い頃、ではありますが、上田原はともかく、砥石崩れは総崩れでは?
総崩れは軍全体が崩れることなので、
殿軍(一部)が崩れた砥石崩れは総崩れに該当しないと考えてます。
鉄砲は鉄砲だけあってもただの鉄棒。弾丸と弾薬を準備してこそ兵力として生きてくる。弾薬は当時ほとんど輸入に頼っており、信長は足利義明を奉じて上洛した際に地位も領土もいらないが堺などの港を欲して、それ以来弾薬弾丸を確保し続けている。織田軍の主力が出張るなら、長時間鉄砲を撃ち続けることができる兵力を保持していることは当然、想定しなければならない。にもかかわらず織田軍の兵数を十分に確認しないまま設楽原に出陣した時点で既に勝敗は決していた。
そもそも、弾薬弾丸を仕入れることができず、数万の兵を長期間率いるために農村に多大な税を課しており、長期的にはいつか織田軍に敗戦することは予想しなければならない。農村だけでなく港などの商業地からの税収も得ていた織田軍とは経済力に大きな差があり、用意できる兵数に差があり、戦場に出向く以前の外交戦、経済戦で既に勝敗がついていたのだから、外交的な負けを認めて領地の拡大をあきらめるしかなかったはず。孫子にも戦争論にも書かれた真理ですね。
そう考えると、正統な後継者ではない勝頼では外交的な敗戦を認めることは不可能だし、勝頼を後継に指名した時点で決着がついていたのかもしれない。5・15や2・26の時点で、外交戦、経済戦の敗北を認めることができない状態になり、第二次世界大戦の敗戦に突き進むしかなかった日本とそっくりですね。
領地の拡大を諦めるなんて事をしたら、信玄とか信虎、それ以前からの重税で困窮している中他国に侵攻して略奪したもので国を潤し、自分達の食い扶持を得てきた家臣や国衆達が不満を抱いて、かつて信玄を担ぎ出して信虎を追放したように別の誰かを担ぎ出して勝頼は追放されるか殺される事になっていたと思います。
そもそも、鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名である武田家が守護代の家臣筋の織田という武田から見たら素性が怪しく身分も低い格下の家柄の相手に屈する事を勝頼だけでなく家臣達も良しとするのだろうか?不満を持つのではないだろうか?と疑問に思います。
動画製作者 有能過ぎんか?
信長のシェフの15巻(長篠の戦い)で紹介してましたが、長篠・設楽原の戦いは信長の新戦法や勝頼の無知ではなく、東西の経済格差の戦いと言えそうですね。
また陣城とはいえ3重に築かれた山城を攻めるのは兵数不利な武田軍が攻めることは難しい(孫子でも城攻めは下策)ことや当日に雨が降らなかったなど運が絡んだ事も武田にとって不利になったのでは無いのかと考えてます(設楽原は大軍が布陣するには狭すぎるので…)。
ただ、武田方も柵を倒して佐久間勢などを退かせているので相当善戦したのは間違いないと思います。
サムネで吹いてしまったw
秀逸ですな。
確かに異常な強さ。
4:08「一方、武田氏の鉄砲の登場は古く、信玄の父信虎の代の1526年に四国から伝わっている」とあるが…
根拠は?通説では鉄砲伝来は1543年なので、信虎は鉄砲伝来よりも約17年前に鉄炮を得ているとなるが…
俺もソレ思った
昔戦場跡に行って思ったのは、陣地前縁間が約70m(歩測)、鉄砲戦で相手が出て来ないとなったら味方の射撃援護下で一番槍を目指して突撃もしたくなる距離だよなぁ、ってところ。
全くの個人的仮説なんだけど、馬防柵のもう一つの効能って、銃床がなく重心が前に寄ってる火縄銃の銃身を持たせかけることによって命中率の向上に寄与させたのではないかと。
目の前で口火薬が発火するのにビビッて目をつぶって引き金を引けば微妙に照準がぶれるけど、何か固定物に支えさせればブレは小さくて済むような気がするので。
火縄銃の実射経験がないので想像でしかないのですが、中世ヨーロッパの銃兵の顔の火傷はベテランの証とも言われていたそうですし。
実際に設楽が原の古戦場に行きましたが、高名についての着目は興味深かったですね。
それでも戦に勝つか、もしくは生きて帰ってこその高名だと思うので、3倍差の敵を攻めたことに対して、古来からいろいろな説がありますが、どれもしっくりこない印象でした。
コメントで鉄砲の伝来が1543年以前について疑問を持っている人がいますが現在は鉄砲伝来は1543年以前にもアジア各地から何回かに分けて日本に到来したと考えられています。実際各地に1543年以前に鉄砲が使用された記録があります(伊勢宗瑞や松平清康が使用した例があります)。
また種子島式鉄砲が国産され全国に普及しますが、この種子島式鉄砲はヨーロッパで普及していた鉄砲と形状が異なるため、恐らく東南アジアで普及していた鉄砲がモデルだという説があります。
軍事物資の物量で焦ったのが武田軍という事かな。
ご無沙汰しています。アップありがとうございます。
ありがとうございます!
合理的分析はナイスです。できれば信長が信玄をどのように分析していたか、恐れた理由は何かを知りたいですね。当時の戦力では、信玄軍の方が上手だったのかな。ある動画では、関東では乗馬での戦、関西では馬から降りての戦がメインらしく、関西では乗馬で攻められたら対処法がなかったとか。なので信玄軍が強かった?かもです。にしても信長は他にも鉄船を造るなど、とかく先端を走ります。やり手の社長といったところですな。やっぱまれにみる天才の一人だったのでしょう。
現地で柵を作れるほどの幹を持つ樹を伐採していたら、枝を落とすのも運ぶのも大変だと思いますが…少しならともかく数キロに渡る三重の柵となると相当な分量が必要で、当時はチェーソーもトラックもないので、いくら戦国期の人が強靭でも、そんな重労働をしたら戦う前にヘロヘロになってしまう。敵が間近にいて急襲の可能性もあるのに前線でそんな悠長なことはしないかと思います。3万の兵力を活かして、それぞれに丸太を持たせて運び込んだ方が妥当に思えますが。
自然木:尺木(幹を加工したもの胴回り30㎝)→柵 木の枝→逆茂木
基本一緒に作るそうで、甫庵信長記(江戸初期)にも一緒に作ったと記載があるので、現在は現地作成説が有力かと思われます。
とは言え他の北条氏などが尺木を事前に準備している一次史料もあるので、新たな史料次第で変わるかもしれません。
基本的には斜面や丘陵を要塞化していたはずなので、陣地を選定するのにそもそも木が生えている場所が選ばれるのである程度は問題ないのではないでしょうか?
丸太とか巨木なんて使ってないです。棒と縄を持ってこいと言われてなにに使うのかと思いながら出陣してきたと言われている。
そんな重いものもって行軍できないよ。
現代の日本人は ひ弱すぎるから 問題外 同じ見方したら駄目よ
今の若い奴は 素手で簡単に56せそうなひ弱さ 蹴ったら 骨折れそう
丸太じゃなくていいから重い物持って500メートルくらい歩いてみな。「持てる」と「それ持って歩く」は全然別物だから。
これは おもしろい
ただ武田氏も砥石崩れや 第四次川中島では酷い目に遭っているので
長篠の敗戦→滅亡は 勝頼のカリスマ性などではなく何か重大な
ミッシングリンクがあるような気がしてならない
嫌 沢山鉄砲弾薬があっても勝敗は分からなかった。酒井忠次の進言の鳶ヶ巣山の奇襲攻撃が成功して、武田軍が退くも出るも地獄に陥ったからでしょう
武田騎馬隊はウソ!みたいな言説が一時流行っていた気がしたが、こういうことだったのね。
なんであんな根拠なき批判がまかり通ってたのか謎ですね。小柄な木曽馬の強さは体格ではなく山岳戦も出来る脚力にあるのに。
織田方の記録文書に、「馬入」(柵を越えて突入)、「能く乗りて」とあるので、武田軍が騎馬の運用に長けていたのは事実です。
内陸の武田に1526年に到来していたならば、もっと早い時期に鉄砲は伝来していたのだろう。
4:08 1526年に鉄砲が武田に?
1543年鉄砲伝来と習ったが、中国からのはもっと早い?
少なくとも琉球王朝には15世紀に明から鉄砲が伝わっており、それを運用する為の鉄砲狭間も作られていますね。
明や朝鮮の記録からも15世紀から倭寇が鳥銃と呼ばれる鉄砲を使っている事が分かるので、16世紀の種子島銃の伝来と鉄砲そのものの伝来は別として考えて良いと思います。
動画だけでも面白いけど、コメが秀逸
25:46 1550年の「砥石崩れ」は総崩れではなかった、ということでしょうか?
ランチェスターの法則を元に武田陣営、織田徳川陣営の戦闘能力を加味すると武田兵1人と織田兵25人が同等の戦闘力となる。それを武田陣営と織田徳川陣営がこの戦いをどうとらえていたか?武田陣営は信玄が家督を相続して以来全ての合戦に勝利し、織田徳川陣営に対しても三方が原合戦や東美濃18要塞攻略戦などで勝利を収めていたことから油断や驕り、慢心が広がっており、宿老連中も勝頼側近も「誰が信長家康の首級を挙げるのか?」「どれだけ派手に織田徳川陣営に勝つか?」しか頭になかったのではないだろうか。一方織田徳川陣営は長篠設楽原合戦の前年の高天神城陥落の前科があり、戦国大名は境目の領主が危機に陥った時は助けに行くという義務を信長は結果として怠ったことになる。長篠設楽原合戦では信長は戦国大名としての義務を果たすことで徳川を織田陣営に引き留めることができればそれでよし、長篠設楽原合戦で用いた戦術モード•アングレも織田徳川本隊の撤退に必要な時間を稼ぐのが最大の目的だったのでは?ただ両陣営の思惑が外れた結果が勝敗を決めたというのがこの戦いの真相ではないだろうか?
「戦いは数だよ兄貴」
ドズルザビのこの名言から得られる事は数が足りん時は撤退やね
勝頼がそれをやったら、信長や家康に「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝されて三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。
甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。
そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
これは現代で言えば自社の経営が苦しい中大金を出して親会社の一大プロジェクトに協力したのに突然中止になって、親会社からお詫びの金も支払われず、自社の社員達の給料の支払いにも困る事なった事に近いと思います。
そうなったらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わって面子まで潰された家臣や国衆達は不満を抱いていたでしょう。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
勝頼が武田家を継いだ時の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事からの遺恨(信玄の盟約違反に激怒した家康が武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
これらの状況を打開するにはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だと思います。
撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
@@峻-k5k
では結局どうすればよかったの?
陣代にならずに出家?
@@清水ひろゆき-s6u
どう足掻いても、勝頼の立場に立っていたのが信玄であってもこの状況を打開するのは絶対に無理でしょう。
熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえた信長と敵対した時点で武田家は遅かれ早かれ滅亡する運命だったと思います。
徳川に駿河を、織田に信濃を割譲して臣従するという事を言っている人もいましたけど、それは鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名である武田家として勝頼も家臣達も受け入れ難いでしょうし、仮に勝頼本人が織田への臣従を受け入れたとしても、そんな事をしたら家臣達は「織田のような素性の怪しい格下の家柄の相手に臣従しようとして、自分達の領地や城という食い扶持を守ろうとするどころか敵に差し出そうとする大名など不要だ」という理屈でかつて信玄を担ぎ出して信虎を追放した時のように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとしてくると思います。
信玄が信長と敵対した時点で、勝頼の運命は決まってしまっていたと私は思います。 武田家滅亡は勝頼のミス(私が思うミスは高天神城を救援しなかった事。 長篠の戦いや御館の乱は結果的にミスになっただけで、勝頼の立場や状況で考えたら勝頼の判断は仕方ない)も多々あったのかもしれませんけど、根本的な原因は甲斐の貧しさとそれを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったが禍根を残して勝頼の代に負の遺産になったからだと思います。
@@清水ひろゆき-s6u
どうする事もできない、信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めて信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させた時点で遅かれ早かれ武田家滅亡は確定だったと私は思ってます。
織田に臣従すればって話を聞いた事ありますけど、それは鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名として勝頼も家臣達も受け入れがたいでしょうし、もし勝頼が臣従を受け入れたとしても、家臣達が自分達の領地や城などの既得権益を守ろうとしない輩など不要だとばかりにかつて父の信玄を担ぎ出して祖父の信虎を追放したように、別の誰かを担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとすると思います。
アニメ()に出てくる架空の人物()のセリフを名言とは、ギャグにしてもセンス悪すぎますね
現実で人の話を聞いたことの無いタイプの人?
武田軍の鉄砲隊と織田軍の鉄砲隊の性能的は織田方が有利で合った
鉄砲伝来(1543年)より早く武田氏は鉄砲使ってたの?
8:00 毛利が瀬戸内海の水運を握っているはずなのに、織田への経済封鎖ができず(配下の商人・水軍衆が食っていけなくなるからだろう)、織田が武田への経済封鎖ができるのが草。
合戦地を調査したら鉄砲の玉がほとんど無かったと云う話を聞いた事があるが真実はどうなんだろう
なぜ勝頼は決戦したか?これが一番の疑問ですね。
これ以上の織田の勢力拡大に歯止めをかけたいか、安全に撤退する為だと私は思います。
織田の勢力拡大に歯止めをかけたい理由としての予想は、勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めがいずれも失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。
甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。
そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
お金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わり、面子まで潰された家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からない。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
勝頼が武田家を継いだ時の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
その為、織田から鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事からの遺恨(信玄の盟約違反に激怒した家康が武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのでしょう。 私が勝頼でもそう判断すると思います。
撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
安全に撤退する為だったという理由は、酒井忠次の鳶ヶ巣山砦奇襲によって退路を断たれた時に酒井忠次隊の方に向かおうとしたり、別の方向に逃げようとしたら、織田・徳川軍の本隊に背を向ける事になるから本隊と酒井忠次隊に挟み撃ちにされてしまうかもしれない、安全に撤退するには設楽ヶ原に布陣している織田・徳川軍の本隊に痛手を与えるしかないと判断したのなら納得がいきます。
知行何石あたり騎馬なんぼという基準、武士が個人で飼育している馬と思っていたが
農村の持ってる馬を戦時徴収していたってこと?
>武田領では村々に伝馬役を科してたが村人はそれ逃れをしていたので罰則があった。
日露戦争後に軍馬の改良のため農耕馬を含め国内の馬を一括管理しようとした話そのものだ。
敵を知り己を知れば百戦危うからずと比べると、敵を知らず己を知らず消耗戦を8時間も続けた結果、ボロ負けしたことになるのでは。
武田家への鉄砲伝来が信虎の代の1526年で、種子島での伝来が1543年ということは、火縄銃とは仕組みの違う鉄砲が1543年以前からあったということでしょうか?
北条氏康が元服前(1520年代)に鉄砲の音を聞いて怖がったのを見て父氏綱ががっかりしたと言う逸話がありますね。逸話の真偽はともかく完成したマッチロック銃以外にも日本に伝来しててもおかしくはありませんね。中国では15世紀末には普及しており中国を荒らした倭寇がこれを見逃すはずが有りませんしね
恐らく明の鳥銃(鉄砲)だと思われます。
銅製で連射に向かず、実戦より贈答品として扱われたのではないかと。
@@tunach 実践向きでないものは種子島伝来以前から日本にあった可能性があるんですね!大変勉強になります。いつも楽しみにさせていただいております。
武田の軍規を把握し、勝頼では信玄公が確立した軍規を変える事が出来ない事を、見越した上での、長篠の戦術。
長篠での敗北は、従軍していた諸将に織田には勝てないと思わせるには、十分な結果でしょう。
当時の鉄砲と弓では、威力としてはやはり鉄砲の方が高かったのだろうか。
弓矢は資源=資金が抑えられる。連射が出来る。故障が少ない。雨天でも使える。
鉄砲は、射撃体制のまま待機出来る。比較的習熟が容易。狭隘場所でも使える。発射音による威嚇効果。
かなと想像する。
南北朝の頃でも数十本の矢が具足に刺さっても軽傷で済んだ話がある一方、顔など具足の隙間に無数に刺さって討死した話があります。
戦国期に入ると具足でカバーされる部位が拡がるので、矢は良い感じにその隙間に入り込まないと負傷させる事が出来なくなっていますね。
前田利家や山内一豊などは至近距離から顔面を射られたものの、自分を射た相手を討ち取る奮闘を見せていますので、武器としては威力の劣る部類でしょう。
もちろん源為朝のように大鎧と人馬を貫通する巨大な矢(江戸時代に槍として再利用)を放つ事が出来れば全く事情が変わって来ます。
鉄砲玉はむき出しの鉛(現代では非人道兵器扱い)なので体内に入り込めば大きく変形し、致命的な損傷を与えます。
鉄砲は負傷させて、負傷者に対する労力を増やし、戦線離脱させるという側面、弓矢に関しては日本の場合は長弓が主流で、やはり致命症を与えるという感じかなと。
あくまで、個人的見解なのですが…
1526年って鉄砲伝来とされる時期より前やん
尊経閣本『信長公記』(2:43〜2:48)はデタラメ満載の『信長記』作者の小瀬甫庵が藩儒として仕えた、加賀前田家の蔵書です。
しかも太田牛一の原本ではなく、後代の写本です。
加賀藩士の誰かが『信長公記』の当該箇所を藩儒である甫庵の『信長記』と一致するように改竄したのではないでしょうか。
なぜこんな性悪な推理をするのかというと、
江戸時代、軍学の教本あるいは講談の種本として『甲陽軍鑑』がもてはやされるようになり、
『甲陽軍鑑』の作者が捏造した逸話が『甲陽軍鑑』に先行する史料で、より信頼性が高い『高白斎記』に竄入したというケースがあるからです。
また、今でこそ『信長公記』は二次史料としては信頼性が高いとされていますが、江戸時代は『信長記』の後塵を拝していました。
そのため、「鉄砲千丁」を語呂が良く、人口に膾炙した「鉄砲三千丁」に改竄した可能性はありえると考えます。
一昔前の近世史学者は『甲陽軍鑑』と聞くだけで吐き気を催したそうですが、
『甲陽軍鑑』以上の忖度や捏造をやらかした『信長記』『太閤記』を著した人物が仕えた諸侯の蔵から出てきた写本の記述を、無批判に信頼するのは如何なものでしょうか。
長文失礼しました。
戦略目標である城の救援を達成。しかも武田軍後方。これを確保した時点で織田軍は急ぐ理由がありませんからねぇ笑 何時間とか意味のない話でしょう
武田が押して来れば陣城にこもれば良いし、逃げ出せば食いついて隘路に追い込んで殲滅すれば良い
鉄砲とは無関係に完勝ですね
武田軍が逃げ出せば戦わなくても「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝すれば三河や遠江、東美濃の国衆達は「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思って次々と武田から離反してくるだろうし、甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎とかの代から続く重税で困窮する中わざわざ遠征したのに何の恩賞も得られなかった事に不満を抱くだろうから、調略しやすくなるでしょうしね。
1526年に鉄砲・・・・・・・それも四国から甲斐・・・・・う~ん
8時間の激戦か~。俺にはムリだなw
弾に困っていたのなら猟には使わないんじゃない?
なぜ3倍差で野戦したのかわからん。
戦国期までは、常設の編制としての「騎馬隊」はやはりなかったでしょう。隊として運用するには、人も馬も集団として動かす教育と訓練を施さねばなりませんが、お山の大将ぞろいの武者たちが、同輩とおとなしく教練うけたとは考えられない。
ま、それはともかく
この合戦、鉄砲云々より信長が大人数を集め、陣地構築する時間を作れたことが、勝敗の分かれ目でしょう。純粋な野戦なら、織田勢は寄せ集め、あっけなく吹き散らされていた。
信玄没後の武田方は、戦略政略・諜報活動、狭い作戦面では捜索、偵察能力が劣化している感があります。
勝頼、戦闘力は抜群ですが、国内外の人心にアッピールするカリスマはなかったようで。
こんにちは😃
こんにちは😊
3倍の敵を雨の手取り川に追い詰めて背水の恐怖を与え多数の溺死者を織田軍北陸方面軍柴田勝家をどん底に突き落とした軍神上杉謙信は偉大だ。
ありがとうございます!
ありがとうございます!
励みになります。
動画製作者 有能過ぎんか?