単純作業の反復は日々のストレスを解放するか?【独り言#45】

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 29 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 15

  • @Lain_999
    @Lain_999 2 місяці тому +7

    お疲れ様です。大変共感しました。自分は周りから、それやって何の価値があるの?とよく聞かれますが、価値が無いコトこそが重要だと思っています。(周りには全く理解されませんが笑)
    敢えて言語化するなら「孤独の持久力」とでも言いましょうか、そういうものに耐えるチカラが必要だなと感じています。

    • @zeparhyfar5320
      @zeparhyfar5320 2 місяці тому

      社会性のない価値は無意味だと言う人には、理解されなくて結構ですね。
      数々のバイアスを払いのけるほどに社会から孤立するという現実。
      「孤独の持久力」は言い換えれば「真理を探究する信念の強さ」だと思います。

  • @Qtemp
    @Qtemp 2 місяці тому +3

    自由意志が、上書きでなく拒否をしているとしたら、それは後からの意味付けではない、まさに意志のようなものではないだろうかと思いました。そうだとしたら、自分の意識が、生物としての反応や記憶関連機能の副産物などにとどまらず、自己の主体性を形成する要素のように思います。それは、自分の意識の方が主という感覚に近づくようで、なんだか気分が良いです。
    ところで、単純反復に貧乏揺りを習慣化されているのであれば、僕は筋トレ好きとして、スクワットも試してみることをオススメしたいです。デメリットとして、椅子から立ち上がるワンクッションが増えてしまいますが、メリットとして、雑念を浮かべにくい効果と身体運動量が高くなると思います。
    また、深呼吸もオススメしたいです。これは思い立ったらいつでもどこでも楽に手軽にできます。そして、呼吸ゆえに自律神経への影響も信じられます。僕にとってのコツを書かせていただきますと、まず先に、口から体温の乗った生暖かい空気をゆっくりと息が続く限り吐き出し切ります。この時、空気の生暖かさや、吐き出すことで生じる音や、肺やお腹辺りがしぼまっていく感覚に集中します。吐き出せる空気が無くなって空っぽになったら、次に、鼻から冷たい外気をゆっくりと体に取りこめる限り吸い続けます。この時も同様に、鼻の内側や脳が冷やされる感覚や、空気を吸い込む音や、膨らむ肺やお腹に感覚を集中します。こうして感覚を集中することで、雑念を意識に浮かべない効果を高めることができます。以前このチャンネルで呼吸に関する動画も視聴しましたし、釈迦に説法というのになっているかもしれませんが、そうだったらすみません。

    • @zeparhyfar5320
      @zeparhyfar5320 2 місяці тому +2

      今ある世界が数々の選択的分岐を繰り返してきたバタフライ効果の結果であるなら、無限とも思える確率のなかで成立したこの世界を、なんの意志もない偶然の産物だと言い張るのには無理があるかと。
      意識が意志の主体であり、生物的反応はもとより全ての物質より先だつものだという感覚は私も気分が良いです。

  • @zeparhyfar5320
    @zeparhyfar5320 2 місяці тому +2

    放っておくと何時間でもぶっ通しでやってしまう自分の性質を、「集中力がある」と思っていました。
    でも考えようによってはそれは、他にそれだけやりたいものがない状態でもあるんですよね。
    「やりたいこと=楽しいこと」と思えているなら、その「楽しいこと」をするのにシングルだろうがマルチだろうが、そんなことはどうでもいいかな。
    日常で雑念を排除するより、「楽しくない」ことを排除したい。
    もっといえば雑念さえも楽しければ許そう。
    しかし人生は楽しいことばかりではない。
    だからこそ、楽しくないのはなぜなんだろう、どうすれば楽しくなるのだろう、という思考態度まで排除しないようにしています。

    • @zeparhyfar5320
      @zeparhyfar5320 2 місяці тому +3

      建設的で能動的な思考態度を、瞑想的な邪念・雑念排除のもとに埋没させたくない、ということです。
      まあこれも人によるんだろうなあ(思考停止)w

  • @空蝉-i4q
    @空蝉-i4q 2 місяці тому +1

    今回はコメントしなくてすむと思いましたが、寝て起きたら、また例によって妄想が浮かんできたので、怠惰に抗ってなんとかコメントします。
    内容は「自由意志」について。
    はたして机の下で貧乏ゆすりするのが「自由意志」なのか、それとも貧乏ゆすりしたい気持ちを抑えて真面目に先生の授業を聞いているのが「自由意志」なのか。
    「自由意志」の実験は聞いたことがありますが、それを反証する実験もあるわけですね。しかし、私としては、まず最初の実験の方にあまり納得がいってないんですね。たしかに無意識の行動に後付けで理屈をつけるというのはわかります。なんらかの外部的な作用の結果として行動が惹起され、それを自分の自由意志でやったと解釈しているだけだというのは意外ではあるがもっともらしくもある。ただ、脳のある部位のある状態で発生する電気パルスと自由意志という総合的な脳神経活動がそこまで明確に区分できるのか、ちょっと疑問ではあります。科学論文として認知されているわけですから、それなりの裏付けはあるんでしょう。ただ、自分で論文を読んでチェックする能力も時間もないので、ここでは、とりあえず推測、憶測として続けます。
    「自由意志」とは、そんなに時間的空間的にシャープに局限できるものなのか。私の印象としては時間的にも空間的にももっとぼんやり広がっているもののように思えます。飛んできた物をとっさに手で払いのけたりするのは反射であって「自由意志」とは言わないでしょう。「自由意志」は時間をかけて逡巡の末にようやく決めるようなことなのではないでしょうか。
    また、自分の中に複数の人格がいて互いに協議して決めるような感じもありますね。
    左脳右脳間の脳梁が切断された人の症状で、右手と左手でやることがバラバラで相反する動きをする場合があるといいます。その場合、「自由意志」は右手、左手のどちらにあると言えるんでしょうか。
    また、脳と身体で考えても、脳が考えていることと身体が考えていることが常に一致するとは限らない。身体はへとへとでも脳は身体にムチ打って働かせようとしたりする。貧乏ゆすりしたい身体と教師の権威にへつらう脳と、どちらに「自由意志」があるというべきなのか。
    結局、「自由意志」といっても、まずその主体がなんなのかということが明確でないと決められないのではないか。私の意見としては、「自由意志」概念より、「主体」概念の方が先に立つもののように思えます。
    そもそも「自由意志」自体が西欧的な発想であるとは思います。神学や哲学で昔からいろいろ論争されてきている。やはり、倫理や道徳、あるいは「神」との関係において「自由意志」概念が必要になるんでしょう。
    その点、日本人の私などは、別に「自由意志」なんてあってもなくてもどうでもいいように思ってしまう。宗教的にも「悪いことをするとお天道様が見ているぞ」ぐらいの感じではないでしょうか。
    そして、「自由意志」を担うものとして「主体」が問題となる。その場合、はたして「主体」とはなんなのか。「神」なのか「人間」なのか「個人」なのか。
    古来、いろんな人がいろんなことを言ってきたと思いますが、ライプニッツもそのひとりでしょう。モナドという無数の自由な粒子の運動によって世界を説明しようとしました。ある意味、モナドは「自由意志」をもっているともいえそうです。しかし、モナドが「自由意志」のままに好き勝手に動き回っているのでは、社会としての統制がとれない。そこで、モナドを背後で支え保証する存在として「神」が登場する。個々は「自由意志」で動きながら、神によって全体が調和するように予め仕組まれている。ライプニッツは、そのようにして「神」と「個人」の間の関係を調停しようとしたと考えられます。
    そして、その「予定調和説」に異を唱えたのがヴォルテールだった。小説『カンディード』では、ライプニッツへの批判を展開している。世界は災害や人災などさまざまな苦難や悲惨に満ちており、とても「予定調和」のような楽天的なものではないと。結局、「神」は頼れるものではなく、我々にできることは自分の庭を耕すことだけだという結末になる。『寛容論』のヴォルテールは、宗教や信仰に対して寛容な姿勢を見せてますが、実は「神」などまともに信じてなかったのではないかという気もしてきます。
    その意味で、ヴォルテールはある意味、実存主義の先駆けとみることもできるかもしれません。神を信じず、自分でなんとかすべしということですから。
    そこで、ボーヴォワールの『人間について』の話になりますが、ひとつの章に「カンディードの庭」というのがあるらしいですね。おそらく、ボーヴォワールもヴォルテールを実存主義の先駆けのように考えていたんじゃないでしょうか。その場合には、人間には「自由意志」があるが、その「主体」は「神」ではなく、あくまで「個人」である、ということになるんでしょうね。
    また、「お天道様が見ている」で思い出したのが、カミュの『異邦人』です。
    殺人の理由を聞かれたムルソーは「太陽がまぶしかったから」と答えました。ニヒルでもあり、キザったらしくもあるセリフですが、いままで今ひとつピンときていませんでした。
    しかし、今回「自由意志」と結びつけて考えてみるとかなりわかったような気になりました。このセリフは「自由意志」なんてものは無いんだという「自由意志」の否定とみてもいいでしょう。お天道様のせいだというんですから。責任転嫁もいいところですが。
    「自由意志」も無いですが、ライプニッツのような「自由意志」を保証する「神」もいない。つまり、無神論です。カミュにおける「主体」は「自由意志」を持たない。その状況(不条理)を引き受けて生きるのが「主体」であるという立場なんでしょう。
    その点、サルトルやボーヴォワールの場合は、「自由意志」はある。ただし、その「主体」は「神」ではなく「個人」である、ということになりそうですね。

  • @akiraooq8498
    @akiraooq8498 2 місяці тому +2

    貧乏ゆすりは、何故いけないのか。貧乏になるからです。そもそも、金持ちは、ストレスが無いですよね。

    • @MOS-mq9rq
      @MOS-mq9rq 2 місяці тому

      そんなの誰でも知ってるよw

    • @zeparhyfar5320
      @zeparhyfar5320 2 місяці тому +5

      貧乏ゆすりをするから貧乏になる。
      金持ちはストレスがないから貧乏ゆすりをしない。
      前段は因果関係、後段は相関関係、それぞれ根拠が希薄でしかもそれを併記してくるあたりが独特。
      そしてそう言われるとそんな気がしなくもない不思議さ。

    • @akiraooq8498
      @akiraooq8498 2 місяці тому

      @@MOS-mq9rqですよね。

    • @akiraooq8498
      @akiraooq8498 2 місяці тому

      @@zeparhyfar5320前段は受け狙いもありますけど、貧乏ゆすりというネーミングの問題かなと思って、金持ゆすりにすればいいんじゃないかと。でも、成金じゃないホントのお金持ちは、金持ゆすりさえしないくらいストレスが無いと思った次第です。

    • @akiraooq8498
      @akiraooq8498 2 місяці тому

      @@zeparhyfar5320前段はボケです。ネーミングの問題で金持ゆすりがいいんじゃないでしょうか。けど、成金じゃない本当の金持は、金持ゆすりさえしないほどストレスが無いんだろうと思います。