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余部鉄橋の列車転落事故から令和2年12月28日で34年になります。当時の国鉄の内規規定では余部鉄橋で風速が25メートルを超えた場合、下り列車に対して余部鉄橋手前にある東下谷トンネル内にある五角形の形をした特殊信号発行機を点灯させて運転士、機関士に停止合図を出す仕組みになっていました。しかし、事故の起きた余部鉄橋から100キロ離れた当時の国鉄福知山鉄道管理局内にあるCTCセントライズドトラフィックコントロール列車集中装置に勤務していた3人の指令員は列車停止の措置をとりませんでした。風速が25メートルを超えると私達人間でも前に進めないくらいの風です。それとも風速が25メートル以上の風でも大丈夫行けるという風に対する風を甘くみて列車を止めなかったのではないのでしようか、余部鉄橋の列車転落事故は列車を当時の国鉄の内規規定に従って列車を止めていれば未然に防ぐ事ができた事故です。また、旧国鉄の大阪、天王寺、福知山、米子、岡山、広島の6の鉄道管理局を引き継いだJR西日本旅客鉄道の幹部職員も毎年事故の起きた12月28日には事故の起きた余部鉄橋の慰霊観音に足を運んで安全第一を誓ってください、
普通に考えて鉄橋の下は危ないよ何があるか分からない
餘部駅、高度経済成長期に需要が高まったことで開設された請願駅。自動車の時代の到来で早くに専ら通学のためになり、高度経済成長期の後は少子化で通学利用が少なくなりほぼ完全に役割が失われている。そのまましなびていくのか…。しかし隣接する旧余部鉄橋が本駅を牽引しているに違いない。
写真を見て「強風に煽られたらアウトだな」と思ったら本当にそんな事故が起こってしまったよ。
祥彦君は今どうしているだろうか?立派に生きていてほしい。
www.google.com/amp/s/www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201812/sp/0011927552.shtml%3fpg=ampもし見ていただけたら
雄平山口 お父さまはシングルファザーとして頑張ってお子様三人を育てていらっしゃたんですね。記事を読んで涙が出ました。天国で頑張っている姿を奥様は見ていたと思いました。
@@雄平山口 ありがとう御座います。閲覧致しました。この時の祥彦君は自分自身と同年代です。他人事には思えませんでした。
あの事故考えれば架け替えは仕方がないとは思う。鉄橋の真下の食堂で食った40年前の山ウドの味は多分生涯忘れないだろうと思う。
おっしゃるとおりです、吹きっさらしの環境ですから、頑丈な橋への掛け替えは事故前に行うべきでした風情としては古い赤い鉄橋がいいですけれどね
33mの風って木も簡単に折れるし、大型トラックも薙ぎ倒せるくらいの力があるんですよね。
12,3年くらい前ギリギリ、コンクリート前の余部駅と隣りの鎧駅に行ったなぁ。この風光明媚な2つの駅が隣同士なんてすごいことだと思った。
コメントありがとうございます学生が作ったとは思えませんね
列車が既に鉄橋に差し掛かっていた際に25m以上の風による警報に気付き、すぐに押したが間に合わず、列車が転落したって事だったら指令員達は減刑( 罪が軽くなる。)され、無罪になった筈なのに。その例の場合は、列車を止める処置をしたが間に合わず、列車が転落した自責の念を駆けられ、指令員が自殺しても可笑しく無かった筈。
この餘部橋梁も、今はコンクリートの橋に変わっています。
ほとんどの人が知っています
定期的に繰り返し観たくなる、お気に入りの映像です。今では見られない、トンネルからまっすぐ続く橋上の線路がとても良いですね。0:21かつての赤い鉄橋を見たことはありませんが、事故や建替のことを知り、景色や気動車の音に惹かれて、餘部を何度も訪れています。何度行っても飽きない、素晴らしい場所です。道の駅では、鉄橋の赤いかけらで作った文鎮とかも買えますよ。
とても嬉しいコメントありがとうございます私も何度かわたりましたが、赤い鉄橋時代は迫力がありましたよこの動画もきっかけにして頂き、本当にありがとうございます
鉄橋は余部、駅は餘部です。姫新線の余部(よべ)駅と区別するために駅名は餘部になりました。
ありがとうございます説明には「山陰本線・余部鉄橋と餘部駅」と書いたのですが、タイトルが間違っていますね
自分姫新線の余部に毎日降りて登校してるので最初「よべてっきょう」と読んでました....w
今では、コンクリートの橋に架け替えられていますが、道の駅、旧鉄橋の一部が残っていて、駅までは エレベータで上がることができます。
自分の考えがブレないしっかりした校長先生だなぁ。
この当時(昭和62年)は客レがあった時代ですね。
もしもその事故さえなければ、みやびももっと長生きしてたし、コンクリート橋にもなってなかったでしょう。
鉄橋の掛替はわかりませんが、みやびはもっと利用されたことでしょう
@@九州の関西人 私はその列車転落事故でコンクリート橋になったという話もチラホラ聞いておりまして。
数年前にコンクリート橋になっております他の方の投稿でも数多くみられますよ旧鉄橋の横に建設したため、トンネルを出るとすぐ急カーブになります
この事故を教訓にしていなかったから、1991年信楽高原鐵道正面衝突事故や2005年福知山線脱線事故、2018年N700系台車破断事故につながってしまったと考えます。
1:32ママ友会議は今と変わらんね。
みやびを引いてた(ディーゼル)機関車は重かった理由から落ちなかったんですよねぇ。
そのディーゼル機関車は、岡山県津山市鉄道博物館に保存されています。
うーん、ここも付け替えられてしまいましたねぇ。かなり好きでしたが……。
返事遅れました、最近まで私気づきませんでした私の中ではまだあの赤い鉄橋でしたしかしFB友達がサロンカーなにわ「くらよし」で撮影してきた動画を見てはじめて見学スペースになっている新しい橋梁を見ました
トワイライトエクスプレス瑞風が走っている写真もいいですが、蒸気機関車が客車を引っ張っている旧橋梁は情緒あったでしょうね。
蒸気機関車ではありませんが、客車で渡ったことはありますよ
ここってブルートレインも通ってたんですか?
大昔は知りませんが、当時は走ってなかったような
寝台特急出雲というブルートレインが走ってましたよ。つい十数年前まで
@@リリフランキー-k7n 様お返事ありがとうございました出雲は、山陰本線経由だったんですね
サンライズは岡山駅から伯備線経由ですが、寝台特急出雲は京都から山陰本線経由で余部鉄橋を通過していました。私も何度か乗りました。
ブルートレインの定義が各々ですが寝台特急出雲2往復(20系〜14系24系客車)と急行だいせん(20系〜14系客車)は通行していました。寝台車連結なら普通列車山陰など。城崎電化まではなんだかんだで山陰本線はメインルートでしたので優等列車は相当数運転されていました。
また何年後したら、コンクリートから違う素材に変わるんやろうね!
新しくした鉄橋は直進ではなくカーブがあるから怖い。
たしかにありますね
余部鉄橋の先にある磯は鯛が釣れる🎉
えりい事故やね 2:13
空から列車が降ってきた信頼していたカニ工場の人達が可愛そうです
撮り鉄の一人としては以前の余部橋梁が好きですね..景色は別として..
確かに今現在の橋梁は安全性は評価しますが味気ないですよね…😞😅
あの有名な橋を渡っていたディーゼル急行やDD51が牽く12系客車列車も懐かしいですよね。
そもそも世の中、撮り鉄中心に動いてないってことだよ
自然には勝てない。だからこそ安全第一で運行していれば事故は防げたはず。高校1年生の年末ニュースで見た事を憶えてます。何十年か後に、たまたま車で余部鉄橋の下を走りました。あれから37年がたったのか。自分も年食いますわ。
キハ181系の普通列車間合い運用だな。もったいない(/ω\)。
大昔は変な編成も多くて面白かったです
今は橋はどうなってるの?
コンクリート製の頑丈な橋にかけ直されておりますが旧鉄橋の横に造ったため、トンネルを出てすぐ急カーブになっています
余部鉄橋の列車転落事故から令和2年12月28日で34年になります。当時の国鉄の内規規定では余部鉄橋で風速が25メートルを超えた場合、下り列車に対して余部鉄橋手前にある東下谷トンネル内にある五角形の形をした特殊信号発行機を点灯させて運転士、機関士に停止合図を出す仕組みになっていました。しかし、事故の起きた余部鉄橋から100キロ離れた当時の国鉄福知山鉄道管理局内にあるCTCセントライズドトラフィックコントロール列車集中装置に勤務していた3人の指令員は列車停止の措置をとりませんでした。風速が25メートルを超えると私達人間でも前に進めないくらいの風です。それとも風速が25メートル以上の風でも大丈夫行けるという風に対する風を甘くみて列車を止めなかったのではないのでしようか、余部鉄橋の列車転落事故は列車を当時の国鉄の内規規定に従って列車を止めていれば未然に防ぐ事ができた事故です。また、旧国鉄の大阪、天王寺、福知山、米子、岡山、広島の6の鉄道管理局を引き継いだJR西日本旅客鉄道の幹部職員も毎年事故の起きた12月28日には事故の起きた余部鉄橋の慰霊観音に足を運んで安全第一を誓ってください、
普通に考えて鉄橋の下は危ないよ何があるか分からない
餘部駅、高度経済成長期に需要が高まったことで開設された請願駅。
自動車の時代の到来で早くに専ら通学のためになり、高度経済成長期の後は少子化で通学利用が少なくなりほぼ完全に役割が失われている。
そのまましなびていくのか…。
しかし隣接する旧余部鉄橋が本駅を牽引しているに違いない。
写真を見て「強風に煽られたらアウトだな」と思ったら本当にそんな事故が起こってしまったよ。
祥彦君は今どうしているだろうか?立派に生きていてほしい。
www.google.com/amp/s/www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201812/sp/0011927552.shtml%3fpg=amp
もし見ていただけたら
雄平山口
お父さまはシングルファザーとして頑張ってお子様三人を育てていらっしゃたんですね。
記事を読んで涙が出ました。
天国で頑張っている姿を奥様は見ていたと思いました。
@@雄平山口 ありがとう御座います。閲覧致しました。この時の祥彦君は自分自身と同年代です。他人事には思えませんでした。
あの事故考えれば架け替えは仕方がないとは思う。
鉄橋の真下の食堂で食った40年前の山ウドの味は多分生涯忘れないだろうと思う。
おっしゃるとおりです、吹きっさらしの環境ですから、頑丈な橋への掛け替えは
事故前に行うべきでした
風情としては古い赤い鉄橋がいいですけれどね
33mの風って木も簡単に折れるし、大型トラックも薙ぎ倒せるくらいの力があるんですよね。
12,3年くらい前ギリギリ、コンクリート前の余部駅と隣りの鎧駅に行ったなぁ。
この風光明媚な2つの駅が隣同士なんてすごいことだと思った。
コメントありがとうございます
学生が作ったとは思えませんね
列車が既に鉄橋に差し掛かっていた際に25m以上の風による警報に気付き、すぐに押したが間に合わず、列車が転落したって事だったら指令員達は減刑( 罪が軽くなる。)され、無罪になった筈なのに。その例の場合は、列車を止める処置をしたが間に合わず、列車が転落した自責の念を駆けられ、指令員が自殺しても可笑しく無かった筈。
この餘部橋梁も、今はコンクリートの橋に変わっています。
ほとんどの人が知っています
定期的に繰り返し観たくなる、お気に入りの映像です。今では見られない、トンネルからまっすぐ続く橋上の線路がとても良いですね。0:21
かつての赤い鉄橋を見たことはありませんが、事故や建替のことを知り、景色や気動車の音に惹かれて、餘部を何度も訪れています。何度行っても飽きない、素晴らしい場所です。
道の駅では、鉄橋の赤いかけらで作った文鎮とかも買えますよ。
とても嬉しいコメントありがとうございます
私も何度かわたりましたが、赤い鉄橋時代は迫力がありましたよ
この動画もきっかけにして頂き、本当にありがとうございます
鉄橋は余部、駅は餘部です。姫新線の余部(よべ)駅と区別するために駅名は餘部になりました。
ありがとうございます
説明には「山陰本線・余部鉄橋と餘部駅」と
書いたのですが、タイトルが間違っていますね
自分姫新線の余部に毎日降りて登校してるので最初「よべてっきょう」と読んでました....w
今では、コンクリートの橋に架け替えられていますが、道の駅、旧鉄橋の一部が残っていて、駅までは エレベータで上がることができます。
自分の考えがブレないしっかりした校長先生だなぁ。
この当時(昭和62年)は客レがあった時代ですね。
もしもその事故さえなければ、みやびももっと長生きしてたし、コンクリート橋にもなってなかったでしょう。
鉄橋の掛替はわかりませんが、みやびは
もっと利用されたことでしょう
@@九州の関西人 私はその列車転落事故でコンクリート橋になったという話もチラホラ聞いておりまして。
数年前にコンクリート橋になっております
他の方の投稿でも数多くみられますよ
旧鉄橋の横に建設したため、トンネルを出るとすぐ急カーブになります
この事故を教訓にしていなかったから、1991年信楽高原鐵道正面衝突事故や2005年福知山線脱線事故、2018年N700系台車破断事故につながってしまったと考えます。
1:32ママ友会議は今と変わらんね。
みやびを引いてた(ディーゼル)機関車は重かった理由から落ちなかったんですよねぇ。
そのディーゼル機関車は、岡山県津山市鉄道博物館に保存されています。
うーん、ここも付け替えられてしまいましたねぇ。かなり好きでしたが……。
返事遅れました、最近まで私気づきませんでした
私の中ではまだあの赤い鉄橋でした
しかしFB友達がサロンカーなにわ「くらよし」で撮影してきた動画を見てはじめて見学スペースになっている
新しい橋梁を見ました
トワイライトエクスプレス瑞風が走っている写真もいいですが、蒸気機関車が客車を引っ張っている旧橋梁は情緒あったでしょうね。
蒸気機関車ではありませんが、客車で渡ったことはありますよ
ここってブルートレインも通ってたんですか?
大昔は知りませんが、当時は走ってなかったような
寝台特急出雲というブルートレインが走ってましたよ。
つい十数年前まで
@@リリフランキー-k7n 様
お返事ありがとうございました
出雲は、山陰本線経由だったんですね
サンライズは岡山駅から伯備線経由ですが、寝台特急出雲は京都から山陰本線経由で余部鉄橋を通過していました。私も何度か乗りました。
ブルートレインの定義が各々ですが寝台特急出雲2往復(20系〜14系24系客車)と急行だいせん(20系〜14系客車)は通行していました。
寝台車連結なら普通列車山陰など。
城崎電化まではなんだかんだで山陰本線はメインルートでしたので優等列車は相当数運転されていました。
また何年後したら、コンクリートから違う素材に変わるんやろうね!
新しくした鉄橋は直進ではなくカーブがあるから怖い。
たしかにありますね
余部鉄橋の先にある磯は鯛が釣れる🎉
えりい事故やね 2:13
空から列車が降ってきた
信頼していたカニ工場の人達が可愛そうです
撮り鉄の一人としては以前の余部橋梁が好きですね..景色は別として..
確かに今現在の橋梁は安全性は評価しますが味気ないですよね…😞😅
あの有名な橋を渡っていたディーゼル急行やDD51が牽く12系客車列車も懐かしいですよね。
そもそも世の中、撮り鉄中心に動いてないってことだよ
自然には勝てない。だからこそ安全第一で運行していれば事故は防げたはず。高校1年生の年末ニュースで見た事を憶えてます。何十年か後に、たまたま車で余部鉄橋の下を走りました。あれから37年がたったのか。自分も年食いますわ。
キハ181系の普通列車間合い運用だな。
もったいない(/ω\)。
大昔は変な編成も多くて面白かったです
今は橋はどうなってるの?
コンクリート製の頑丈な橋にかけ直されておりますが
旧鉄橋の横に造ったため、トンネルを出てすぐ急カーブになっています