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駿府つまり静岡は小京都と呼ばれて静岡県民としては何か嬉しい
桶狭間も地の利を知り尽くした信長に軍配が上がっただけで順当に行けば天下も取れた
大将たるもの軽々しく前線に出るべきではない、油断大敵の二つの教訓を教えてくれた人物
桶狭間で信長が躍進したのが運の尽きだったのかもね…おかげで引き立て役にされて公家というか道化師のような風貌にされたのだから…最近の大河、麒麟や家康では気品ある武将として描かれたのが良かったと思う
死に際というのが大事なんだなと痛感させられる
萬斎さん、90年代大河「花の乱」細川管領でしたな
今川義元って、やっぱり秀才。地道にコツコツ領国経営していく戦国武将。ただ、最後の最後で天候に恵まれなかった。織田信長は「うつけ者」と言われながらも、やっぱりコツコツと自分の足元を固めてた。初めての大決戦で天候に恵まれた。やっぱり歴史は面白い。
信長の引き立て役にされてかわいそうだよな(´・ω・)あの武田信玄が義元存命中には駿河には手を出させなかったというのに・・・
今年の大河ドラマが無かったらワシは今川義元=笑点の司会者になるところだった。
僧侶になるべく育てられ、当主になったのには上杉謙信もいるね
今川義元に限らず、戦国武将の大半は大河ドラマの役者さんのイメージになりがちですからね~。今回の野村萬斎さんの義元は格好いい感じで、義元の好感度が上がりましたね。
太原 雪斎 朝比奈 泰能がほぼ同時期に亡くなったのが今川義元の...桶狭間が戦国時代が終わるターニングポイントなんだよね
センゴクの今川義元編読んで見直したにわかです
私も公式アプリで全話読みました。
戦国時代大河ドラマで「今川義元すぐ死ぬ」もんだから。麒麟がくる では戦ってたな。
義元公は文化でもって相手を征したり、戦わずして勝つという強キャラにしかできないことをやってるからかなり好き。
30年前の役所幸司さん主演の新春大型時代劇「武田信玄」に松方弘樹さんが演じていた今川義元も公家装束でなかったのは覚えている
今川義元も氏真も好きよ
逆に武田・上杉とか知れば知るほど名将か?って疑問に思う
西上は何の目的だったのかな。俗説では天下取りの為の前哨戦みたいな扱いだが、仮に信長を破った後に畿内には三好長慶が健在で場合によっては幕府公認の敵になる可能性もある。長慶軍と敵対するにも兵站面でもキツいから、畿内というより尾張や伊勢が欲しかったのかな。
氏輝:24歳で謎死彦五郎:兄と同時期に謎死恵探:弟に討たれて戦士義元:(当時は)格下に奇襲されて戦士この兄弟呪われていない?
義元が上洛する前に寺に参ったら境内の奥から「哀れ悲しや…」と声が聞こえた義元は死んだ兄の亡霊だと言って寝込んでしまったらしい
桶狭間で修羅の如く踊り狂ってるイメージしかないわね
大河ドラマなど戦国時代の主役級の信長が家督を継いでからの噛ませ犬扱いで始まってますからね、文武両道で天下に一番近いと言われる位置だったのにね
太原雪斎に軍事は全て任せて、政策に従事していたからね。 雪斎が亡くなったのが信長の天運。 雪斎が亡くならなければ義元は駿河から出てこず、雪斎が総大将で討ち取られる事も無かった。
海運利権と熱田折衝だろうなぁ。金のなる木に、なまじっか権威のある存在。これは義元が直々に占領と交渉を行わないと、長引くと判断したんだろう。
今川氏は義元の曽祖父である範忠の時に永享の乱や結城合戦で功績を挙げ、今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」という恩賞を受けていた。これは江戸時代も引き継がれた。
確かに江戸時代に同じ高家になった分家は今川では無くて品川姓だった。
静岡県民としては今川が桶狭間で負けなかった歴史を見たかった。
そうなっていたら今川幕府ができて駿河が首都に・・・
徳川家康が関東に転封されなかった未来は……?
太原雪斎と言えば徳川家康も学んでいるし優秀な人だったんだわね
実際は雪斎の弟子とかがメインで教えてた可能性が高い。雪斎と家康が同じ場所にいた期間はかなり短いらしい
義元は不運やった…
センゴク外伝桶狭間戦記が面白かった
対したのが織田信長だという不運だなこの織田信長は尾張統一の時もだが畿内の平定で兵数揃わず危険な戦さを何度も勝利してる。織田信長は少数の兵を指揮する軍才があり軍略の天才今川義元もまさか本陣の軍営先を先に把握されていたり信長が今川軍を掻い潜り突撃してくるなんて予想出来なかった今川は1万前後の軍を各地に配置していたが織田軍は各砦に数百づつと援軍の六角勢が2千ほど信長は3千ほどでうち2千を動かして予め軍営を張ると予測していた桶狭間に軍を進め義元を討ち取った水野勢も織田方についており今川勢を牽制していた。
みんな、nhkの大河ドラマ見てるんだね
徳川兵学校が明治維新で廃藩置県で沼津兵学校に成りました。そこから築地兵学校に移りそれから日清・日露戦争です。それで徳川兵学校(沼津兵学校)には徳川慶喜の側近の西周(にしあまね)と江原素六と杉田玄白の子孫の2人がいました。それで杉田玄白の子孫の一人は福沢諭吉に招かれ慶応大学の医学部です。もう一人は沼津の町医者の武田が改名をして杉田姓に代わりました。もともと。徳川慶喜の側近の武田姓の医者が杉田姓に改名をして杉田玄白の子孫です。江原素六は横浜です。麻布中学・高校を作りました。他。日本の学校制度を作った人間です。東洋英和学校の村岡花子さんは赤毛のアンのモンゴメリーの翻訳をした方です。その東洋英和学校の校長が江原素六です。麻布十番の赤い靴の少女です。佐野きみちゃんは日本平です。久能山東照宮です。これ出雲大社も関連して居ます。お稲荷さんも関連して居ます。
義元も有能は有能だが、何より雪斎が有能過ぎた、雪斎有りきの街道一の弓取りだったんだよ、雪斎が死んで功績を焦った義元が無理に尾張征伐軍を起こして結果敗れた、今川当主で本当に文武に有能だったのは氏親だけだね、
雪斎は義元に「尾張の小坊主(信長の事)とは戦うな」と言ってたのに義元は戦って死んじゃったもんな
管仲ありきの斉の桓公のような存在。優れた人材を見出して委せるところは委せる、といった点は名君だとは思うが、その人材が一人だけでは、、、
義元の母ちゃんも強いぞ
ばあちゃんも強いんだよなあ
@@うにいくら北条早雲のお姉ちゃんだからね
やはり、大河ドラマの今川義元は公家装束+白粉+お歯黒+麿眉がお似合いです。ゲームで今川義元を担当する時は史実通りの強さが必要ですが、時代劇の中の義元は公家趣味丸出しの方が京風を好んだ彼らしいと思います。大体、清洲城を李氏朝鮮の宮城風に仕立て上げておいて、枝葉末節だけ史実を取り入れる偽善は要りません。
今で言うと、海外留学してたようなもの?
今川義元は源氏の名流として屋形号を許されていたので公家の装いと輿に乗るのが当然だったりするw現代とは違って昔は宗教は科学・学問でもあったので宗教家は知識人として政治に関わることも多かった。各家は知識人としての僧や陰陽師を抱えており、色々と言われる信長も津田天王社の堯照という真言僧を傍に置いていた。(後に堯照は安土摠見寺の開基を務める)
( -_・)ん? 太原雪斎が死んだのは桶狭間の10年前ではないよ 死んだのは1555年だね💦
「義元が知略に長けて居た事に異論は有りません」しかし、騎馬で移動出来ない程、足が短い事が行軍速度(輿の最大速度&移動距離)を把握される事になり、奇襲を受けた際の脱出を困難にしましたよね。
輿に乗ってたのも別に馬に乗れないわけではなく、格上アピールの一つともいられてますね
@@鈴麗リンリー 騎馬で走れ無い程、足が短かったとの話は有名ですよね。(落馬)
@@オダ吉法師 さんそれ、情報源どこですか落馬のトラウマで馬に乗れなくなるのはわかるけど、落馬した=馬に乗れない程短足とはならないと思います。何かの漫画かゲームの話ですか?
@@オダ吉法師 有名でおもしろい話には眉につばつけて聞いておいた方がいいw
駿府つまり静岡は小京都と呼ばれて静岡県民としては何か嬉しい
桶狭間も地の利を知り尽くした信長に軍配が上がっただけで順当に行けば天下も取れた
大将たるもの軽々しく前線に出るべきではない、油断大敵の二つの教訓を教えてくれた人物
桶狭間で信長が躍進したのが運の尽きだったのかもね…
おかげで引き立て役にされて公家というか道化師のような風貌にされたのだから…
最近の大河、麒麟や家康では気品ある武将として描かれたのが良かったと思う
死に際というのが大事なんだなと痛感させられる
萬斎さん、90年代大河「花の乱」
細川管領でしたな
今川義元って、やっぱり秀才。地道にコツコツ領国経営していく戦国武将。ただ、最後の最後で天候に恵まれなかった。
織田信長は「うつけ者」と言われながらも、やっぱりコツコツと自分の足元を固めてた。初めての大決戦で天候に恵まれた。
やっぱり歴史は面白い。
信長の引き立て役にされてかわいそうだよな(´・ω・)あの武田信玄が義元存命中には駿河には手を出させなかったというのに・・・
今年の大河ドラマが無かったら
ワシは今川義元=笑点の司会者
になるところだった。
僧侶になるべく育てられ、当主になったのには上杉謙信もいるね
今川義元に限らず、戦国武将の大半は大河ドラマの役者さんのイメージになりがちですからね~。
今回の野村萬斎さんの義元は格好いい感じで、義元の好感度が上がりましたね。
太原 雪斎 朝比奈 泰能がほぼ同時期に亡くなったのが今川義元の...桶狭間が戦国時代が終わるターニングポイントなんだよね
センゴクの今川義元編読んで見直したにわかです
私も公式アプリで全話読みました。
戦国時代大河ドラマで「今川義元すぐ死ぬ」もんだから。
麒麟がくる では戦ってたな。
義元公は文化でもって相手を征したり、戦わずして勝つという強キャラにしかできないことをやってるからかなり好き。
30年前の役所幸司さん主演の新春大型時代劇「武田信玄」に松方弘樹さんが演じていた今川義元も公家装束でなかったのは覚えている
今川義元も氏真も好きよ
逆に武田・上杉とか知れば知るほど名将か?って疑問に思う
西上は何の目的だったのかな。俗説では天下取りの為の前哨戦みたいな扱いだが、仮に信長を破った後に畿内には三好長慶が健在で場合によっては幕府公認の敵になる可能性もある。長慶軍と敵対するにも兵站面でもキツいから、畿内というより尾張や伊勢が欲しかったのかな。
氏輝:24歳で謎死
彦五郎:兄と同時期に謎死
恵探:弟に討たれて戦士
義元:(当時は)格下に奇襲されて戦士
この兄弟呪われていない?
義元が上洛する前に寺に参ったら
境内の奥から「哀れ悲しや…」と声が聞こえた
義元は死んだ兄の亡霊だと言って寝込んでしまったらしい
桶狭間で修羅の如く踊り狂ってるイメージしかないわね
大河ドラマなど戦国時代の主役級の信長が家督を継いでからの噛ませ犬扱いで始まってますからね、文武両道で天下に一番近いと言われる位置だったのにね
太原雪斎に軍事は全て任せて、政策に従事していたからね。 雪斎が亡くなったのが信長の天運。 雪斎が亡くならなければ義元は駿河から出てこず、雪斎が総大将で討ち取られる事も無かった。
海運利権と熱田折衝だろうなぁ。金のなる木に、なまじっか権威のある存在。これは義元が直々に占領と交渉を行わないと、長引くと判断したんだろう。
今川氏は義元の曽祖父である範忠の時に永享の乱や結城合戦で功績を挙げ、今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」という恩賞を受けていた。これは江戸時代も引き継がれた。
確かに江戸時代に同じ高家になった分家は今川では無くて品川姓だった。
静岡県民としては今川が桶狭間で負けなかった歴史を見たかった。
そうなっていたら今川幕府ができて駿河が首都に・・・
徳川家康が関東に転封されなかった未来は……?
太原雪斎と言えば徳川家康も学んでいるし優秀な人だったんだわね
実際は雪斎の弟子とかがメインで教えてた可能性が高い。雪斎と家康が同じ場所にいた期間はかなり短いらしい
義元は不運やった…
センゴク外伝桶狭間戦記が面白かった
対したのが織田信長だという不運だなこの織田信長は尾張統一の時もだが畿内の平定で兵数揃わず危険な戦さを何度も勝利してる。
織田信長は少数の兵を指揮する軍才があり軍略の天才
今川義元もまさか本陣の軍営先を先に把握されていたり信長が今川軍を掻い潜り突撃してくるなんて予想出来なかった
今川は1万前後の軍を各地に配置していたが織田軍は各砦に数百づつと
援軍の六角勢が2千ほど
信長は3千ほどでうち2千を動かして予め軍営を張ると予測していた桶狭間に軍を進め義元を討ち取った
水野勢も織田方についており今川勢を牽制していた。
みんな、nhkの大河ドラマ見てるんだね
徳川兵学校が明治維新で廃藩置県で沼津兵学校に成りました。そこから築地兵学校に移りそれから日清・日露戦争です。それで徳川兵学校(沼津兵学校)には徳川慶喜の側近の西周(にしあまね)と江原素六と杉田玄白の子孫の2人がいました。それで杉田玄白の子孫の一人は福沢諭吉に招かれ慶応大学の医学部です。もう一人は沼津の町医者の武田が改名をして杉田姓に代わりました。もともと。徳川慶喜の側近の武田姓の医者が杉田姓に改名をして杉田玄白の子孫です。江原素六は横浜です。麻布中学・高校を作りました。他。日本の学校制度を作った人間です。東洋英和学校の村岡花子さんは赤毛のアンのモンゴメリーの翻訳をした方です。その東洋英和学校の校長が江原素六です。麻布十番の赤い靴の少女です。佐野きみちゃんは日本平です。久能山東照宮です。これ出雲大社も関連して居ます。お稲荷さんも関連して居ます。
義元も有能は有能だが、何より雪斎が有能過ぎた、雪斎有りきの街道一の弓取りだったんだよ、雪斎が死んで功績を焦った義元が無理に尾張征伐軍を起こして結果敗れた、今川当主で本当に文武に有能だったのは氏親だけだね、
雪斎は義元に「尾張の小坊主(信長の事)とは戦うな」と言ってたのに
義元は戦って死んじゃったもんな
管仲ありきの斉の桓公のような存在。優れた人材を見出して委せるところは委せる、といった点は名君だとは思うが、その人材が一人だけでは、、、
義元の母ちゃんも強いぞ
ばあちゃんも強いんだよなあ
@@うにいくら
北条早雲のお姉ちゃんだからね
やはり、大河ドラマの今川義元は公家装束+白粉+お歯黒+麿眉がお似合いです。
ゲームで今川義元を担当する時は史実通りの強さが必要ですが、時代劇の中の義元は公家趣味丸出しの方が京風を好んだ彼らしいと思います。
大体、清洲城を李氏朝鮮の宮城風に仕立て上げておいて、枝葉末節だけ史実を取り入れる偽善は要りません。
今で言うと、海外留学してたようなもの?
今川義元は源氏の名流として屋形号を許されていたので公家の装いと輿に乗るのが当然だったりするw
現代とは違って昔は宗教は科学・学問でもあったので宗教家は知識人として政治に関わることも多かった。
各家は知識人としての僧や陰陽師を抱えており、色々と言われる信長も津田天王社の堯照という真言僧を傍に置いていた。(後に堯照は安土摠見寺の開基を務める)
( -_・)ん? 太原雪斎が死んだのは桶狭間の10年前ではないよ 死んだのは1555年だね💦
「義元が知略に長けて居た事に異論は有りません」
しかし、騎馬で移動出来ない程、足が短い事が行軍速度(輿の最大速度&移動距離)を把握される事になり、奇襲を受けた際の脱出を困難にしましたよね。
輿に乗ってたのも別に馬に乗れないわけではなく、格上アピールの一つともいられてますね
@@鈴麗リンリー
騎馬で走れ無い程、足が短かったとの話は有名ですよね。
(落馬)
@@オダ吉法師 さん
それ、情報源どこですか
落馬のトラウマで馬に乗れなくなるのはわかるけど、落馬した=馬に乗れない程短足とはならないと思います。
何かの漫画かゲームの話ですか?
@@オダ吉法師 有名でおもしろい話には眉につばつけて聞いておいた方がいいw