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1/15発売の「週刊ポスト」は、一部地域では現在も発売中の1/15・22合併号とは異なり、1/29号(www.shogakukan.co.jp/magazines/2005501121) となりますので、お間違いのないよう、お願いします。目次でご確認いただけます。
先生のコメント、拝読いたしました。東大の本郷先生は、大将が戦で前面に立つことはないから光秀不在も十分あり得るとおっしゃっていますが、それはあくまで一般論ですからね。
こうした新説の見解についてすぐ小和田さんのような権威の方に聞けるなんて幸せだわ
小和田先生、毎回楽しみに拝見しております。大河ドラマで今まで持っていた光秀の印象が変わりましたが、このように都度詳しくお話が聞けて、さらに光秀のひととなりに厚みや親しみを感じでいます。ありがとうございます!
有識者の方から直ぐに解説を頂けて感謝。
小和田先生ありがとうございます!納得する説明でした!!
この記事見た時真っ先に小和田先生の見解が聞きたくなりました!聞けて嬉しい!
小和田先生解説ありがとうございます。大河での明智光秀の人物像の描かれ方がとても自然でしかも光秀さんがどんどん好きになってしまいます💦『悪役(?)なのにめっちゃいい人じゃん‼️』てな感じで。歴史を紐解く為の大量な古文書や手紙などを分析した上での人物像だと思いますので納得してしまうのです。400年以上も前の出来事ですが光秀本人が大河を観たらどう思うのか等と妄想しています。
早速この「新説」に関するコメントですか。小和田先生、相変わらずフットワークが切れていますね。
それから小和田先生にはコロナのこともありますのでくれぐれもご自愛下さい
3:25金ケ崎を逃れた信長は逃げ足が速いことで有名で、信長(信忠)が大坂に脱出したり、大坂にいる信孝・信澄・丹羽長秀や、大和の筒井順慶が信長(信忠)救出に駆けつけると大変なことになりますから、京阪間で、淀川堤と大和路の両方を抑えられる場所に本隊が陣取る必要はあったかも。本城惣右衛門ら足軽は、家康(小太り)を討つとばかり思っていたので、痩身の信長を発見するのに手間取り、その隙に遺体を焼かれてしまったのかもしれませんね。
「京阪間で、淀川堤と大和路両方を抑えられる場所に本隊が陣取る必要はあったかも」その可能性は、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員も「京から大阪に向かう途中である鳥羽に控えたと想定できます。」と指摘しており、可能性はありますね。
光秀の与力・大和郡山城の筒井順慶が裏切って、大坂にいる信孝・娘婿津田信澄・丹羽長秀と合流し、主君信長(信忠)救出のために大挙して京都に駆け付けたりしたら、もう光秀は万事休すですもんね。
@@defibrillator100 先生が仰る様に山崎の戦い混同説という可能性も十分あるとは思いますが、萩原大輔主査学芸員が主張する、明智光秀、鳥羽での即応部隊説という可能性も十分ありうるのではと思います。
幸い大坂では光秀の娘婿・津田信澄が疑われて、信孝と長秀に討たれ、順慶も奈良辰市まで出陣したものの、どちらの味方をすべきかで新旧の家臣が割れて様子見でしたから、結果としてそのリスクは消えましたが、むしろ光秀は、畿内にいる信孝・信澄・長秀・順慶への密告と、彼らの信長救出軍化を警戒していたのではないでしょうか。そうなると明智軍13,000が逆に心細く見えてきますね。
「大河ドラマ効果」は、すごいです。「おんな城主 直虎」の時も、そう感じました。そして脚本家の方も、すごい! 「説」を、違和感なく、組み上げて、ドラマを描いて行く。もちろん、そこにはきちんとした「時代考証」があってこそです。 きっと、まだまだ何処かに資料……光秀直筆の手紙や、関係する古文書が眠っているかもしれませんね。(ワクワク😃💕)
新たな史料により、通説が覆る‼︎当事者になって想いをはせてみて、そこから真実に迫る‼︎色々なアプローチ・角度から考えてみる🤩そして、新説が生まれる✨これだから歴史は面白いです😊光秀が秀吉を軽視していた⁉︎織田信長が明智光秀を重用していたら⁉︎とか考えたりしてみたり‼︎『本能寺の変』は、歴史のまさに転換点だった事には間違いないですね🌟🏯🦒✨
光秀が謀反を起こしたという事が全てであって、現場に行った行かなかったがイメージを変えることはほとんど無いのですがね。そもそも信長信忠討つのに1万3千も要らないわけで。
なるほどねー、これなら信長の首がなかったのも納得が行く。信長の顔を知ってる、信長と対面した事のある光秀の部下が何人居るだろう?信長の顔を知らないから、首が見つからなかったのも納得がいく。光秀が首を取り損なう、又は信長を探せ無かった、なんて事があるだろうか?あの光秀が、?とずっと疑問に思ってましたから、
本能寺の焼け跡には、信長の首の無い黒焦げの遺骸があったはずなんでしょうが…なぜ明智勢は見つけられなかったのですか?自害したとされる場所にいくつかの炭化した、遺骸があればそのどれかが信長だとして良かったと思いますが…、諦めたのか魔法のように消えてしまったのか…?混乱の最中に、信長の手下が首だけでなく全身を運びだす余裕は無い気がしますし。光秀謀叛の真意に増して、その辺りが知りたいです。
@@クエン酸足らんつーの 様信長の首はわざとに晒さなかったと考える事は出来ないだろうか?自分が天下を獲りたい訳ではなかった、信長の行動を諫めるにはこの方法しか無かった。と考える事は出来ないだろうか?この日本を救う為、誰かを救う為に謀反を起こした。となると信長の首はどうでも良い事になります。
@@白井こうよう さんなるほど、そんな考察もあり得るわけですね。言われてみれば光秀は、信長の敵将の首に対する非道な扱いには心を痛めていたのは事実のようですし。現代の火葬ほどに、人間の遺体が綺麗に灰のようになるとも思えないですしね。明智軍は、その遺骸を回収しながらも信長の間違いない死を確認したなら首の有無はそこまで意味をなさなかったのかもですね。仮にも長く支えた主君であるわけで。であれば、そこにはやはり光秀の人間味や哀愁を感じずにはいられません。
気になっていた記事なので興味深い拝見しました。確かに丹波から京都に入るのが五条辺りになるなら(もっと下、南の東寺あたりでも)、鳥羽は本能寺とは逆方向で、かつ本能寺よりも随分と遠くとなり、他方五条から本能寺は堀川通りまで行けば比較的近いので、先生の指摘には頷きました。
何か本当かはその当事者でしか分からないだろうけど謀叛を起こそうとしている人(この場合光秀)が、謀叛を起こして処分される人(信長)を仕留めないと謀叛は成立しないと思うけどな。生かして逃げられれば今度は自分の命が終得る。謀叛が成功するのは首検分した時。ならば、居なかったと言うことは有り得ないと思う。部下に任して逆に信長側に寝返るかもしれないこの時代。嘘とは言えないが信用は低いと思うけどね。
確かに、この説は「なんで鳥羽なの?」という部分が疑問点として挙げられます。確かに位置が変です。先生の指摘のように山崎の戦いと混同している可能性も十分考えられます。ただ、明智光秀が「本能寺の現場にはいなかった」とした場合、なぜ鳥羽にいたのか?、その辺を推察すると、織田信長を討ち漏らした場合、もしくは残存兵力がどこに向かうかと言えば、大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝軍、伊丹城にいる池田恒興軍の合流を阻止すべく、即応できる部隊を明智光秀隊が鳥羽周辺に展開していたという事は十分に考えられます。もしくは、本能寺の変が長引き、丹羽長秀、神戸信孝軍が援軍として大坂から駆けつけてきた時に、食い止める目的があったがかもしれません。そうであれば明智光秀隊が鳥羽周辺いても決して不思議ではありません。いずれにしても、鳥羽かどうかは解りませんが、明智光秀が本能寺にいたとする証拠はありません。明智光秀が現場いなかったので、織田信長の亡骸を徹底的に調べなかったも合点がいきます。ドラマ的には、明智光秀が本能寺いなかったとすれば盛り下がりますが、実際はどこにいたのでしょうかね?
先生が提示していただいた、NEWSポストセブン「新史料vs『麒麟がくる』論争 明智光秀は本能寺に行ったのか」という記事を今拝見しましたが、この文面を発見した、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員によりますと「当時、大阪には信長の三男である織田信孝が四国討伐軍を率いて駐屯していた。万が一、信長を本能寺で討ち逃した場合、信孝と合流する可能性があった。だから、京から大阪に向かう途中である鳥羽に控えたと想定できます。」という事で、討ち逃した場合に備えての即応部隊としての可能性を示唆されていますね。私も、混同の可能説もありつつも、この即応部隊説の可能性も十分ありかなと思います。上記にもリンクがありますが、こちらでも記載しておきます。www.news-postseven.com/archives/20210114_1627515.html/2
秀吉が書かせた【惟任(=光秀)退治記】にも、光秀は途中に控えたという記述が出てくるそうです。秀吉側と光秀側の記述が一致しており光秀が本能寺で指揮を取った史料は無いわけですから光秀が本能寺に向かわなかったことはほぼ確実でしょう。ちなみに秀光の部下の斎藤利三の妹は四国の長宗我部元親の嫁。その子どもの信親は甥。本能寺の変の6月2日は丹羽長秀と織田信孝が長宗我部征伐に出発する日であり、光秀の部下の利三が妹と甥を助ける為に信長を討つことを光秀に進言したとも言われていますね。
@@ラッキー純-h2x 四国説ですねぇ。今回報道した朝日新聞の記事には「斎藤利光が事件の前日の6月1日昼に亀山城を訪れ、光秀謀反の決断を知る」という事が書かれており、発見された文章によると、どーやら最終決断は光秀が行ったという事らしいです。人によっては斎藤利三が「暴発気味にやってしまい」という方もおられますが、実際はどーだったんでしょうかね?ただ、現場に赴かなかったのは理由は解りませんが「織田信長を殺してやりたい」という熱量はそれほど無かったのかもしれませんね。金沢市立玉川図書館ですか?早く企画展やって全文見てみたいです。興味ありますー
@@bure8552 四国攻めは以前から言われていることで利三が進言しているなら以前からでしょう。そもそも長宗我部元親の母親は土岐一族の出身であり秀光とも血縁関係。 そして明智ー長宗我部ラインは織田政権の中でも保持が必須。織田信長は能力主義から織田家血縁主義に移行しており有力武士ほど潰す対象になってましたからね。織田政権の中で確固たる地位を保つかそれが叶わないなら信長を討ってしまえと考えていたでしょう。秀吉も家康も。一族の進退がかかった決断に【一時の感情説】は僕は取らないです。ちなみに信長は火薬の売買組織【本能寺】で爆殺されて遺体が残らなかったのでしょう。やったのは朝廷かイエズス会の秀吉の間者か…。明智軍ではないでしょう。
光秀が鳥羽に居たのはあり得る話だと思います。そもそも桂川を渡って本能寺に15000人近い軍団が集結できるとは思えません。いくら明け方でもそんな大軍団は足音だけで大騒ぎです。単純に秀吉の援軍に信長も一緒に行くので迎えに来い言われて、光秀は軍団を待機する為に鳥羽で待っただけ。織田軍四国征伐隊に妹と甥が殺されそうな利三親子が足軽を連れて信長を迎えに行ったときにそのまま信長親子をやってしまったのではないかと。
本当にタイムリーな情報への即座の見解をお聞きでき、歴史への興味が広がります。情報のスクランブルのような小和田先生から疑問を解くヒントをいただいたような感じです。大河放映の前にいつもの解説をお聞きできればもっと放送ものめりこんで楽しめるのですが、それは無理な話ですね・・
なンと言うキャッチーな動画タイトル!(笑)うろ覚えですけど、20年ほど前だったと思うのですが、明智光秀さんか細川藤孝さんかの御子孫の御方に「明智光秀謀反説を覆す」と言う野心に燃えておられる御方がおられて、あれこれ怪気炎を放っておられる光景を目にしたような記憶がございます。今回の小和田先生の取り上げておられる「話題」も、あのような「試み」が生み出した現象のひとつなのかな?と、なんとなく感じました。「歴史」には、ああ言った側面もありますよね。まさに「人間ドラマ」と言ったところでしょうか。私には「人の命の生み出した鼓動の残響が木霊し合っている光景」に見えます。先生の御顔も、心なしかいつもより以上に「活き活きとしておられる」ように見えて、わくわくしておられるのが伝わって参りました。ほっこり。今回も、楽しいひとときを、有難うございました。
せんせ。ありがとうございます!
私も、全軍を挙げて敵大将(信長)を打ち取りに行くのに味方の大将(光秀)が行かなかった、というのは想像ができません(忠臣蔵の大石内蔵助と重ねているだけかもしれませんが……笑)ひょっとしたら本能寺と二条城だけではなくもっと多方面に信長方の勢力があって、もっと他にもたくさんの戦いが六月二日にあったのかも?とも思いましたが、いくら本能寺のインパクトが強かったからと言っても今までその存在が出てこなかったというのは考えられませんものね。。もしくは信長が大阪や安土方面に逃走した場合を考えて、ということもあったかもしれませんが…………。その場合も、大阪方面には良いかもしれませんが安土方面には適当とは言えないので、まだ他にも京都の東側を固めた武将がいたのかもしれませんね。もし、亀山城から秀吉のいる中国地方に移動する際、いったん京都に迂回して行く場合もあるとすると、光秀はちゃんと秀吉の元に向かっていますよ、ということを示すために主軍を予定通り行軍させ、その日の宿場のようなものが鳥羽に設けられていた、というのはどうでしょう?私の素人考えではやはりどれも決定打にはならないようですので、結局は光秀は本能寺に向かったのではないかなと思います。軍を2つ以上に分けたのでは、というのは分かる気もしますが。。
解説ありがとうございました。たしかに大軍をもって本能寺に攻め寄せれば光秀本人がいなくても信長は討ち取れるとしても、部下には信長を討つ理由がないのですから、やはり光秀本人がいなければ士気が上がらないと思います。光秀が取ったルートは今でも追うことができますが(山陰街道→桂川→七条通→西洞院通北上)、先生のおっしゃる通り、鳥羽へは西洞院通を南下しないといけないので方向違いですね。
JR京都駅と亀岡駅を結ぶ京阪京都交通バスは、当時の光秀とほぼ同じルートを走っています。
秀光の部下の斎藤利三の妹は四国の長宗我部元親の嫁。その子どもの信親は甥。本能寺の変の6月2日は丹羽長秀と織田信孝が長宗我部征伐に出発する日であり、光秀の部下の利三が妹と甥を助ける為に信長を討つという動機は十分にありますよ。
@@ラッキー純-h2x 私は光秀がと言うより、信長親子討ちは利三が暴走したのではないかと思っています。自分の妹と甥がそんな状態なら手薄な信長を討つくらい当時の利三なら他愛無い。現場には利三の子利宗もいました、妹の春日局と共に徳川家でVIP待遇も家康からしたら前妻築山・長男信康の仇を討ち果たした英雄になるので合点がいきます。家康は恩義の報いが生涯常に過剰ですし。
@@ささきころのすけ 僕は利三に動機はあっても暴走は無いと思いますよ。たとえ信長を討っても、そのあと信長の家来に妹や甥を討たれるからです。利三もそんなバカじゃないでしょう。
@@ラッキー純-h2x 正直私もそう思うのですが、結果的には当時この日本を掌握しかけた日本国王に近い織田家筆頭武将の明智光秀がその暴走をするわけでして。その光秀の動機は本人曰く「次の世代の為」だそうです。ところがその理由は大名皆理解不能w
織田長益をはじめ本能寺から脱出できた武将が何人もいた事からも、打ち漏らした場合に備えて網を張る事が光秀の戦略的優先順位の中で高くなかった事は明らかで、謀反を決意した時点で打ち漏らすことなど微塵も考えていなかったし、その恐れがあると思えば動かなかったのでしょう。信長と信忠を打ち取り京の街に首級を晒せば畿内の敵など物の数ではないと思っていたと思われます。実際信孝勢は秀吉勢にも後れを取ったわけですし。鳥羽は戊辰戦争を思い返しても大阪方面からやってくる敵を迎え撃つ為に陣を張るには適した場所なんでしょうが、光秀が敗走の末に僅かな味方と共に小栗栖で最期を迎えたのが事実ならばやはり山崎に出陣していないとは考えられないですよね。
秀吉は明智無謀の真実を墓場まで持って豊臣栄華を夢見た!因果応報、信長の怨念が家康に託された。摩訶不思議、信長と家康の同盟の賜物であった!秀吉並みの末路は現代にも掃いて捨てるほど有る!英雄、有終の美を飾るを飾る者、これまれなり!!
小和田さんがチャンネルをお持ちだったのが驚きです
山崎の合戦と混同していたかどうかは、わからないですよね。その聞き取りの文書の中で、斉藤が山崎のときの状況についてどう言っていたのか、そこを見てみないと。
先生がおっしゃる通り、私も、6月2日当日、丹波亀山から本能寺へ向かうルートととして、鳥羽は、京都の南端で伏見に近い場所なので、大きく外れていて、光秀が鳥羽に居たというのは、あり得ないと思います🙋
残るはあと3話ですか。諸説ある本能寺の変のいわれですが、NHKの解釈、即ち先生の解釈が見えてきたようです。
ふむ、又聞きね現場にいないとするとしても本能寺で織田信長を討ったのは明智勢で間違いないのでしょうし命令、差配はしてるはず
光秀で鳥羽といえば山崎の戦い直前まで古墳を陣城に改装してたって説(その指揮を執ってた)もありますしね。記憶違いは確かにありそうですしね・・・。加賀藩っていえばなんか昔もそんな騒動があった記憶があるんですが何だったか忘れましたけども・・・。
凄いなとんでも通説だね🐐私も初めて知ったからびっくり‼️
週間ポスト、買います。
ありがとうございます。なお、固定のコメントにも記しましたが、1/15発売の「週刊ポスト」は、一部地域では現在も発売中の1/15・22合併号とは異なり、1/29号(www.shogakukan.co.jp/magazines/2005501121) となりますので、お間違いのないよう、お願いします。お近くの売り場でどちらが発売されているかわかりませんので、目次でもご確認の上、1/29号をご購入いただければと思います。2ページだけの扱いなので、コメントの分量は多くないようです。よろしくお願いします。
光秀を政治家とすればそうかも知れない、でも本当とすれば、それはゲームのような世界。素人としては想像の世界が膨らんでいきますが、これまでに無い大河の世界を楽しみたいと思います。
それにしても「乙夜之書物(いつやのかきもの)」ってすごくシャレたタイトルですね。今でも通用するネーミングかも。
信忠が脱出をした場合、安土方面は坂本城にも近づくことになるので、信孝軍のいる方面に逃げてくるだろうと光秀が察していたのかもしれません。
この報道には驚きました
室町幕府的な哲学を持っていた人物ですよね?
大河ドラマは今から書きかえて貰おう
本能寺に光秀が行ったかは永遠のナゾなんですね......。言い方悪いですけど足軽の証言ですからね距離的な関係からも6月2日に鳥羽にいたとは考えずらいですね
秀吉が書かせた【惟任(=光秀)退治記】にも、光秀は途中に控えたという記述が出てくるそうです。秀吉側と光秀側の記述が一致しており光秀が本能寺で指揮を取った史料は無いわけですから光秀が本能寺に向かわなかったことはほぼ確実でしょう。ちなみに秀光の部下の斎藤利三の妹は四国の長宗我部元親の嫁。その子どもの信親は甥。本能寺の変の6月2日は丹羽長秀と織田信孝が長宗我部征伐に出発する日であり、光秀の部下の利三が妹と甥を助ける為に信長を討つことを光秀に進言したとも言われていますね。(言継鄕記)
この学説を出した萩原大輔学芸員が、ラジオでこの話をしています。しゃべりがめちゃめちゃうまい人ですので、聞いていても飽きませんね。ua-cam.com/video/h2TlF-xoczQ/v-deo.html
おー貴重な情報有難うございます。早速聞きました。富山市郷土博物館なのに流ちょうな関西弁喋っていましたね。もとは関西出身なのかな?このラジオによりますと、来月正式な論文を発表されるということで、こちらも楽しみにしています。非常に面白い話だったので気になっておりましたが、本人から直接解説が聞けて良かったです。
@@bure8552 萩原学芸員は滋賀県出身で、山口大学から京都大学大学院で博士号を取得したようです。元々は、大内氏の研究をしていて、富山に来てからは、上杉謙信、佐々成政の研究をされているようです。
@@doctorDammyおーーーー詳しく有難うございます。京都大学大学院、頭いい子ちゃんなんでしょうか?ラジオを聴いている限りでは、なかなか柔軟な人のような印象は受けますね。上杉謙信、佐々成正でもなんか面白い発見してくれるのか楽しみです。
井戸敏三じゃないよね(笑)
1/15発売の「週刊ポスト」は、一部地域では現在も発売中の1/15・22合併号とは異なり、1/29号(www.shogakukan.co.jp/magazines/2005501121) となりますので、お間違いのないよう、お願いします。目次でご確認いただけます。
先生のコメント、拝読いたしました。東大の本郷先生は、大将が戦で前面に立つことはないから光秀不在も十分あり得るとおっしゃっていますが、それはあくまで一般論ですからね。
こうした新説の見解についてすぐ小和田さんのような権威の方に聞けるなんて幸せだわ
小和田先生、毎回楽しみに拝見しております。大河ドラマで今まで持っていた光秀の印象が変わりましたが、このように都度詳しくお話が聞けて、さらに光秀のひととなりに厚みや親しみを感じでいます。ありがとうございます!
有識者の方から直ぐに解説を頂けて感謝。
小和田先生ありがとうございます!納得する説明でした!!
この記事見た時
真っ先に小和田先生の見解が聞きたくなりました!
聞けて嬉しい!
小和田先生解説ありがとうございます。大河での明智光秀の人物像の描かれ方がとても自然でしかも光秀さんがどんどん好きになってしまいます💦『悪役(?)なのにめっちゃいい人じゃん‼️』てな感じで。歴史を紐解く為の大量な古文書や手紙などを分析した上での人物像だと思いますので納得してしまうのです。400年以上も前の出来事ですが光秀本人が大河を観たらどう思うのか等と妄想しています。
早速この「新説」に関するコメントですか。小和田先生、相変わらずフットワークが切れていますね。
それから小和田先生にはコロナのこともありますのでくれぐれもご自愛下さい
3:25金ケ崎を逃れた信長は逃げ足が速いことで有名で、信長(信忠)が大坂に脱出したり、大坂にいる信孝・信澄・丹羽長秀や、大和の筒井順慶が信長(信忠)救出に駆けつけると大変なことになりますから、京阪間で、淀川堤と大和路の両方を抑えられる場所に本隊が陣取る必要はあったかも。本城惣右衛門ら足軽は、家康(小太り)を討つとばかり思っていたので、痩身の信長を発見するのに手間取り、その隙に遺体を焼かれてしまったのかもしれませんね。
「京阪間で、淀川堤と大和路両方を抑えられる場所に本隊が陣取る必要はあったかも」その可能性は、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員も「京から大阪に向かう途中である鳥羽に控えたと想定できます。」と指摘しており、可能性はありますね。
光秀の与力・大和郡山城の筒井順慶が裏切って、大坂にいる信孝・娘婿津田信澄・丹羽長秀と合流し、主君信長(信忠)救出のために大挙して京都に駆け付けたりしたら、もう光秀は万事休すですもんね。
@@defibrillator100 先生が仰る様に山崎の戦い混同説という可能性も十分あるとは思いますが、萩原大輔主査学芸員が主張する、明智光秀、鳥羽での即応部隊説という可能性も十分ありうるのではと思います。
幸い大坂では光秀の娘婿・津田信澄が疑われて、信孝と長秀に討たれ、順慶も奈良辰市まで出陣したものの、どちらの味方をすべきかで新旧の家臣が割れて様子見でしたから、結果としてそのリスクは消えましたが、むしろ光秀は、畿内にいる信孝・信澄・長秀・順慶への密告と、彼らの信長救出軍化を警戒していたのではないでしょうか。そうなると明智軍13,000が逆に心細く見えてきますね。
「大河ドラマ効果」は、すごいです。「おんな城主 直虎」の時も、そう感じました。そして脚本家の方も、すごい! 「説」を、違和感なく、組み上げて、ドラマを描いて行く。もちろん、そこにはきちんとした「時代考証」があってこそです。
きっと、まだまだ何処かに資料……光秀直筆の手紙や、関係する古文書が眠っているかもしれませんね。(ワクワク😃💕)
新たな史料により、通説が覆る‼︎当事者になって想いをはせてみて、そこから真実に迫る‼︎色々なアプローチ・角度から考えてみる🤩そして、新説が生まれる✨これだから歴史は面白いです😊
光秀が秀吉を軽視していた⁉︎
織田信長が明智光秀を重用していたら⁉︎
とか考えたりしてみたり‼︎
『本能寺の変』は、歴史のまさに転換点だった事には間違いないですね🌟🏯🦒✨
光秀が謀反を起こしたという事が全てであって、現場に行った行かなかったがイメージを変えることはほとんど無いのですがね。
そもそも信長信忠討つのに1万3千も要らないわけで。
なるほどねー、これなら信長の首がなかったのも納得が行く。信長の顔を知ってる、信長と対面した事のある光秀の部下が何人居るだろう?
信長の顔を知らないから、首が見つからなかったのも納得がいく。
光秀が首を取り損なう、又は信長を探せ無かった、なんて事があるだろうか?あの光秀が、?
とずっと疑問に思ってましたから、
本能寺の焼け跡には、信長の首の無い黒焦げの遺骸があったはずなんでしょうが…なぜ明智勢は見つけられなかったのですか?自害したとされる場所にいくつかの炭化した、遺骸があればそのどれかが信長だとして良かったと思いますが…、諦めたのか魔法のように消えてしまったのか…?
混乱の最中に、信長の手下が首だけでなく全身を運びだす余裕は無い気がしますし。
光秀謀叛の真意に増して、その辺りが知りたいです。
@@クエン酸足らんつーの 様
信長の首はわざとに晒さなかったと考える事は出来ないだろうか?自分が天下を獲りたい訳ではなかった、信長の行動を諫めるにはこの方法しか無かった。と考える事は出来ないだろうか?
この日本を救う為、誰かを救う為に謀反を起こした。となると信長の首はどうでも良い事になります。
@@白井こうよう さん
なるほど、そんな考察もあり得るわけですね。言われてみれば光秀は、信長の敵将の首に対する非道な扱いには心を痛めていたのは事実のようですし。現代の火葬ほどに、人間の遺体が綺麗に灰のようになるとも思えないですしね。
明智軍は、その遺骸を回収しながらも信長の間違いない死を確認したなら首の有無はそこまで意味をなさなかったのかもですね。仮にも長く支えた主君であるわけで。
であれば、そこにはやはり光秀の人間味や哀愁を感じずにはいられません。
気になっていた記事なので興味深い拝見しました。確かに丹波から京都に入るのが五条辺りになるなら(もっと下、南の東寺あたりでも)、鳥羽は本能寺とは逆方向で、かつ本能寺よりも随分と遠くとなり、他方五条から本能寺は堀川通りまで行けば比較的近いので、先生の指摘には頷きました。
何か本当かはその当事者でしか分からないだろうけど謀叛を起こそうとしている人(この場合光秀)が、謀叛を起こして処分される人(信長)を仕留めないと謀叛は成立しないと思うけどな。生かして逃げられれば今度は自分の命が終得る。謀叛が成功するのは首検分した時。ならば、居なかったと言うことは有り得ないと思う。部下に任して逆に信長側に寝返るかもしれないこの時代。嘘とは言えないが信用は低いと思うけどね。
確かに、この説は「なんで鳥羽なの?」という部分が疑問点として挙げられます。確かに位置が変です。先生の指摘のように山崎の戦いと混同している可能性も十分考えられます。ただ、明智光秀が「本能寺の現場にはいなかった」とした場合、なぜ鳥羽にいたのか?、その辺を推察すると、織田信長を討ち漏らした場合、もしくは残存兵力がどこに向かうかと言えば、大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝軍、伊丹城にいる池田恒興軍の合流を阻止すべく、即応できる部隊を明智光秀隊が鳥羽周辺に展開していたという事は十分に考えられます。もしくは、本能寺の変が長引き、丹羽長秀、神戸信孝軍が援軍として大坂から駆けつけてきた時に、食い止める目的があったがかもしれません。そうであれば明智光秀隊が鳥羽周辺いても決して不思議ではありません。いずれにしても、鳥羽かどうかは解りませんが、明智光秀が本能寺にいたとする証拠はありません。明智光秀が現場いなかったので、織田信長の亡骸を徹底的に調べなかったも合点がいきます。ドラマ的には、明智光秀が本能寺いなかったとすれば盛り下がりますが、実際はどこにいたのでしょうかね?
先生が提示していただいた
、NEWSポストセブン「新史料vs『麒麟がくる』論争 明智光秀は本能寺に行ったのか」という記事を今拝見しましたが、この文面を発見した、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員によりますと「当時、大阪には信長の三男である織田信孝が四国討伐軍を率いて駐屯していた。万が一、信長を本能寺で討ち逃した場合、信孝と合流する可能性があった。だから、京から大阪に向かう途中である鳥羽に控えたと想定できます。」という事で、討ち逃した場合に備えての即応部隊としての可能性を示唆されていますね。私も、混同の可能説もありつつも、この即応部隊説の可能性も十分ありかなと思います。上記にもリンクがありますが、こちらでも記載しておきます。www.news-postseven.com/archives/20210114_1627515.html/2
秀吉が書かせた【惟任(=光秀)退治記】にも、光秀は途中に控えたという記述が出てくるそうです。
秀吉側と光秀側の記述が一致しており光秀が本能寺で指揮を取った史料は無いわけですから光秀が本能寺に向かわなかったことはほぼ確実でしょう。
ちなみに秀光の部下の斎藤利三の妹は四国の長宗我部元親の嫁。
その子どもの信親は甥。
本能寺の変の6月2日は丹羽長秀と織田信孝が長宗我部征伐に出発する日であり、光秀の部下の利三が妹と甥を助ける為に信長を討つことを光秀に進言したとも言われていますね。
@@ラッキー純-h2x 四国説ですねぇ。今回報道した朝日新聞の記事には「斎藤利光が事件の前日の6月1日昼に亀山城を訪れ、光秀謀反の決断を知る」という事が書かれており、発見された文章によると、どーやら最終決断は光秀が行ったという事らしいです。人によっては斎藤利三が「暴発気味にやってしまい」という方もおられますが、実際はどーだったんでしょうかね?ただ、現場に赴かなかったのは理由は解りませんが「織田信長を殺してやりたい」という熱量はそれほど無かったのかもしれませんね。金沢市立玉川図書館ですか?早く企画展やって全文見てみたいです。興味ありますー
@@bure8552
四国攻めは以前から言われていることで利三が進言しているなら以前からでしょう。
そもそも長宗我部元親の母親は土岐一族の出身であり秀光とも血縁関係。
そして明智ー長宗我部ラインは織田政権の中でも保持が必須。
織田信長は能力主義から織田家血縁主義に移行しており有力武士ほど潰す対象になってましたからね。
織田政権の中で確固たる地位を保つかそれが叶わないなら信長を討ってしまえと考えていたでしょう。
秀吉も家康も。
一族の進退がかかった決断に【一時の感情説】は僕は取らないです。
ちなみに信長は火薬の売買組織【本能寺】で爆殺されて遺体が残らなかったのでしょう。
やったのは朝廷かイエズス会の秀吉の間者か…。
明智軍ではないでしょう。
光秀が鳥羽に居たのはあり得る話だと思います。そもそも桂川を渡って本能寺に15000人近い軍団が集結できるとは思えません。いくら明け方でもそんな大軍団は足音だけで大騒ぎです。
単純に秀吉の援軍に信長も一緒に行くので迎えに来い言われて、光秀は軍団を待機する為に鳥羽で待っただけ。織田軍四国征伐隊に妹と甥が殺されそうな利三親子が足軽を連れて信長を迎えに行ったときにそのまま信長親子をやってしまったのではないかと。
本当にタイムリーな情報への即座の見解をお聞きでき、歴史への興味が広がります。情報のスクランブルのような小和田先生から疑問を解くヒントをいただいたような感じです。大河放映の前にいつもの解説をお聞きできればもっと放送ものめりこんで楽しめるのですが、それは無理な話ですね・・
なンと言うキャッチーな動画タイトル!(笑)うろ覚えですけど、20年ほど前だったと思うのですが、明智光秀さんか細川藤孝さんかの御子孫の御方に「明智光秀謀反説を覆す」と言う野心に燃えておられる御方がおられて、あれこれ怪気炎を放っておられる光景を目にしたような記憶がございます。今回の小和田先生の取り上げておられる「話題」も、あのような「試み」が生み出した現象のひとつなのかな?と、なんとなく感じました。「歴史」には、ああ言った側面もありますよね。まさに「人間ドラマ」と言ったところでしょうか。私には「人の命の生み出した鼓動の残響が木霊し合っている光景」に見えます。先生の御顔も、心なしかいつもより以上に「活き活きとしておられる」ように見えて、わくわくしておられるのが伝わって参りました。ほっこり。今回も、楽しいひとときを、有難うございました。
せんせ。ありがとうございます!
私も、全軍を挙げて敵大将(信長)を打ち取りに行くのに味方の大将(光秀)が行かなかった、というのは想像ができません(忠臣蔵の大石内蔵助と重ねているだけかもしれませんが……笑)
ひょっとしたら本能寺と二条城だけではなくもっと多方面に信長方の勢力があって、もっと他にもたくさんの戦いが六月二日にあったのかも?とも思いましたが、いくら本能寺のインパクトが強
かったからと言っても今までその存在が出てこなかったというのは考えられませんものね。。
もしくは信長が大阪や安土方面に逃走した場合を考えて、ということもあったかもしれませんが…………。その場合も、大阪方面には良いかもしれませんが安土方面には適当とは言えないので、まだ他にも京都の東側を固めた武将がいたのかもしれませんね。
もし、亀山城から秀吉のいる中国地方に移動する際、いったん京都に迂回して行く場合もあるとすると、光秀はちゃんと秀吉の元に向かっていますよ、ということを示すために主軍を予定通り行軍させ、その日の宿場のようなものが鳥羽に設けられていた、というのはどうでしょう?
私の素人考えではやはりどれも決定打にはならないようですので、結局は光秀は本能寺に向かったのではないかなと思います。軍を2つ以上に分けたのでは、というのは分かる気もしますが。。
解説ありがとうございました。たしかに大軍をもって本能寺に攻め寄せれば光秀本人がいなくても信長は討ち取れるとしても、部下には信長を討つ理由がないのですから、やはり光秀本人がいなければ士気が上がらないと思います。
光秀が取ったルートは今でも追うことができますが(山陰街道→桂川→七条通→西洞院通北上)、先生のおっしゃる通り、鳥羽へは西洞院通を南下しないといけないので方向違いですね。
JR京都駅と亀岡駅を結ぶ京阪京都交通バスは、当時の光秀とほぼ同じルートを走っています。
秀光の部下の斎藤利三の妹は四国の長宗我部元親の嫁。
その子どもの信親は甥。
本能寺の変の6月2日は丹羽長秀と織田信孝が長宗我部征伐に出発する日であり、光秀の部下の利三が妹と甥を助ける為に信長を討つという動機は十分にありますよ。
@@ラッキー純-h2x 私は光秀がと言うより、信長親子討ちは利三が暴走したのではないかと思っています。自分の妹と甥がそんな状態なら手薄な信長を討つくらい当時の利三なら他愛無い。現場には利三の子利宗もいました、妹の春日局と共に徳川家でVIP待遇も家康からしたら前妻築山・長男信康の仇を討ち果たした英雄になるので合点がいきます。家康は恩義の報いが生涯常に過剰ですし。
@@ささきころのすけ
僕は利三に動機はあっても暴走は無いと思いますよ。
たとえ信長を討っても、そのあと信長の家来に妹や甥を討たれるからです。
利三もそんなバカじゃないでしょう。
@@ラッキー純-h2x 正直私もそう思うのですが、結果的には当時この日本を掌握しかけた日本国王に近い織田家筆頭武将の明智光秀がその暴走をするわけでして。
その光秀の動機は本人曰く「次の世代の為」だそうです。ところがその理由は大名皆理解不能w
織田長益をはじめ本能寺から脱出できた武将が何人もいた事からも、打ち漏らした場合に備えて網を張る事が光秀の戦略的優先順位の中で高くなかった事は明らかで、謀反を決意した時点で打ち漏らすことなど微塵も考えていなかったし、その恐れがあると思えば動かなかったのでしょう。信長と信忠を打ち取り京の街に首級を晒せば畿内の敵など物の数ではないと思っていたと思われます。実際信孝勢は秀吉勢にも後れを取ったわけですし。鳥羽は戊辰戦争を思い返しても大阪方面からやってくる敵を迎え撃つ為に陣を張るには適した場所なんでしょうが、光秀が敗走の末に僅かな味方と共に小栗栖で最期を迎えたのが事実ならばやはり山崎に出陣していないとは考えられないですよね。
秀吉は明智無謀の真実を墓場まで持って豊臣栄華を夢見た!
因果応報、信長の怨念が家康に託された。
摩訶不思議、信長と家康の同盟の賜物であった!
秀吉並みの末路は現代にも掃いて捨てるほど有る!
英雄、有終の美を飾るを飾る者、これまれなり!!
小和田さんがチャンネルをお持ちだったのが驚きです
山崎の合戦と混同していたかどうかは、わからないですよね。その聞き取りの文書の中で、斉藤が山崎のときの状況についてどう言っていたのか、そこを見てみないと。
先生がおっしゃる通り、私も、6月2日当日、丹波亀山から本能寺へ向かうルートととして、鳥羽は、京都の南端で伏見に近い場所なので、大きく外れていて、光秀が鳥羽に居たというのは、あり得ないと思います🙋
残るはあと3話ですか。諸説ある本能寺の変のいわれですが、NHKの解釈、即ち先生の解釈が見えてきたようです。
ふむ、又聞きね
現場にいないとするとしても
本能寺で織田信長を討ったのは
明智勢で間違いないのでしょう
し命令、差配はしてるはず
光秀で鳥羽といえば山崎の戦い直前まで古墳を陣城に改装してたって説(その指揮を執ってた)もありますしね。記憶違いは確かにありそうですしね・・・。加賀藩っていえばなんか昔もそんな騒動があった記憶があるんですが何だったか忘れましたけども・・・。
凄いなとんでも通説だね🐐私も初めて知ったからびっくり‼️
週間ポスト、買います。
ありがとうございます。なお、固定のコメントにも記しましたが、1/15発売の「週刊ポスト」は、一部地域では現在も発売中の1/15・22合併号とは異なり、1/29号(www.shogakukan.co.jp/magazines/2005501121) となりますので、お間違いのないよう、お願いします。お近くの売り場でどちらが発売されているかわかりませんので、目次でもご確認の上、1/29号をご購入いただければと思います。2ページだけの扱いなので、コメントの分量は多くないようです。よろしくお願いします。
光秀を政治家とすればそうかも知れない、でも本当とすれば、それはゲームのような世界。素人としては想像の世界が膨らんでいきますが、これまでに無い大河の世界を楽しみたいと思います。
それにしても「乙夜之書物(いつやのかきもの)」ってすごくシャレたタイトルですね。今でも通用するネーミングかも。
信忠が脱出をした場合、安土方面は坂本城にも近づくことになるので、信孝軍のいる方面に逃げてくるだろうと光秀が察していたのかもしれません。
この報道には驚きました
室町幕府的な哲学を持っていた人物ですよね?
大河ドラマは今から書きかえて貰おう
本能寺に光秀が行ったかは永遠のナゾなんですね......。
言い方悪いですけど足軽の証言ですからね
距離的な関係からも6月2日に鳥羽にいたとは考えずらいですね
秀吉が書かせた【惟任(=光秀)退治記】にも、光秀は途中に控えたという記述が出てくるそうです。
秀吉側と光秀側の記述が一致しており光秀が本能寺で指揮を取った史料は無いわけですから光秀が本能寺に向かわなかったことはほぼ確実でしょう。
ちなみに秀光の部下の斎藤利三の妹は四国の長宗我部元親の嫁。
その子どもの信親は甥。
本能寺の変の6月2日は丹羽長秀と織田信孝が長宗我部征伐に出発する日であり、光秀の部下の利三が妹と甥を助ける為に信長を討つことを光秀に進言したとも言われていますね。(言継鄕記)
この学説を出した萩原大輔学芸員が、ラジオでこの話をしています。
しゃべりがめちゃめちゃうまい人ですので、聞いていても飽きませんね。
ua-cam.com/video/h2TlF-xoczQ/v-deo.html
おー貴重な情報有難うございます。早速聞きました。富山市郷土博物館なのに流ちょうな関西弁喋っていましたね。もとは関西出身なのかな?このラジオによりますと、来月正式な論文を発表されるということで、こちらも楽しみにしています。非常に面白い話だったので気になっておりましたが、本人から直接解説が聞けて良かったです。
@@bure8552 萩原学芸員は滋賀県出身で、山口大学から京都大学大学院で博士号を取得したようです。元々は、大内氏の研究をしていて、富山に来てからは、上杉謙信、佐々成政の研究をされているようです。
@@doctorDammyおーーーー詳しく有難うございます。京都大学大学院、頭いい子ちゃんなんでしょうか?ラジオを聴いている限りでは、なかなか柔軟な人のような印象は受けますね。上杉謙信、佐々成正でもなんか面白い発見してくれるのか楽しみです。
井戸敏三じゃないよね(笑)