江戸時代の町火消の1日ルーティン!あまりにもヤバすぎた暮らしぶりとは!?

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  • Опубліковано 22 жов 2024

КОМЕНТАРІ • 8

  • @水色乃そら
    @水色乃そら 7 днів тому +7

    力士に喧嘩で負けたり、火事の消火活動後に家を失った人に「心配するな。俺が家を建ててやる」とかかっこよすぎ。

  • @ならおみの
    @ならおみの 7 днів тому +8

    火消しの1日とか考えたことがなかったので、大変ためになりました。火消しの心意気、カッコイイですね。動画の初めの方で、火事が起こった時の状況説明の際、画面に大雑把な地図が出たら良かったなと思いました。当方、東京在住ではないので、地図が頭に入っていないのです😂。

  • @iTchannelll
    @iTchannelll 5 днів тому +3

    破壊消防で延焼拡大を防ぎながら江戸の人命を守りつつ、俺たちが建て直してやるってカッコ良すぎでしょ!しかも見返りを求めないって。。。
    今を生きる日本人として見習いたい、ってか見習わなきゃならない。

  • @shanxia_0110
    @shanxia_0110 6 днів тому +2

    北島三郎を思い出しました

  • @高矩-s9k
    @高矩-s9k 7 днів тому +2

    江戸時代の町火消しは当初は鳶職で後に町火消しとして町火消しを組織化された事か実態は、仕組みは次のとおりです。 
    装束は木綿製の長半天や法被、刺子の股引、ひざ下までの刺子半天、大きな猫頭巾、親指だけが分かれる長めの手袋、コハゼのない足袋などでした。
    火事場では、厚い布でできた半袖半纏を着て水をかぶり、鳶口や大のこなどの道具を使って家を壊していました。
    火事場では、火事場に近い家の屋根で「纏」で風向き知り風吹を知らせて振り回して、早くついて、早くから消火にあたっていることを町の人達に知らせていました。
    纏は戦国時代に敵味方を区別する目印として武士が掲げていた旗印や馬印(うまじるし)が、江戸時代になると火事現場で使う目印へ変化したものです。
    町消火消しは、享保3年(1718)に創設され、享保5年(1720)には、町奉行大岡忠相によってい は47組(後に48組)と、本所奉行の本所、深川16組が本格的に組織されました。後に南町奉行所に統合されて総勢およそ1万人で、係る費用は町の負担でした。後に徳川吉宗や大岡忠相より俸給として支払われます。

  • @もさ-h2e
    @もさ-h2e 4 дні тому +1

    え、加賀鳶って地元だけじゃなく江戸だったの!?

  • @P_lr_
    @P_lr_ 7 днів тому +2

    jinで南方仁に偉そうにしてた火消しの親分が一日中消防活動したのに一面焼け野原で、ドヤ顔で俺たちは仕事したけどお前たちはどうなんだ?みたいなこと南方に言ってきたシーンガチ吹いた。いやいや、焼け野原やん、一晩中お前ら何してたんねんってツッコミたくなった

  • @333redredred
    @333redredred 5 днів тому

    「破天荒」の使い方が間違ってるんじゃない? 意味わかってます?