上杉謙信の素顔に迫る

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  • Опубліковано 8 вер 2024

КОМЕНТАРІ • 39

  • @lx1125
    @lx1125 11 місяців тому +2

    どんなに汚い面があろうが戦の天才であった事には変わりないし、越後が尾張ほどではないにしろ佐渡金山を発掘できてないのにも関わらずものすごい利益を得ていた事実は変わらない。上杉謙信が凄い事には変わりないからねw

  • @user-yx4de2zq9r
    @user-yx4de2zq9r Рік тому +3

    上杉謙信特集ありがとう!

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan

    謙信は結構美化されてますよね笑
    逆に信長様は残虐者に描かれ過ぎですね

    • @user-tj5pn2tf2y
      @user-tj5pn2tf2y Рік тому +6

      「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」での織田信長の風評被害が大きすぎる😅

    • @SMK皇帝ファントム陛下Japan
      @SMK皇帝ファントム陛下Japan Рік тому +3

      確かに😆

    • @coocoo1435
      @coocoo1435 Рік тому +8

      晩年の秀吉のほうが信長よりも余程残虐ですよね。

    • @SMK皇帝ファントム陛下Japan
      @SMK皇帝ファントム陛下Japan Рік тому +4

      👍同感ですな

    • @user-mm5qh7se9c
      @user-mm5qh7se9c Рік тому +1

      信長は裏切った相手にも、きちんと謝ったり事情を話せば基本的に許している。
      家康は裏切った相手には、数十年たとうが絶対に許していない。
      秀吉はその日の気分次第。

  • @crowold3025
    @crowold3025 Рік тому +6

    景虎は12歳まで寺で僧として修業をしていた身だったが父の死後、お家騒動と内乱が起き、まだ13歳の少年の景虎が瞬く間に反乱を鎮圧してしまう。これには周囲の家臣団が驚き、兄を差し置いて彼を「軍神」として祭り上げ、家督をつがせて18歳の時には少年城主と大名になる。 確かに頭はよく、戦は天才的に強いが、まだ社会経験がなく、世間知らずで周囲の家臣達に言いようにされ続けた少年時代だったのだろう。その点は青年時代から戦国の政治力を身に着け生存競争を勝ち抜いた信玄や信長とは全然ちがう。ついに26歳の時、自分の意にならない家臣団に腹をたて高野山に本当に出家してしまう。ある意味、彼の本望は仏教に帰依し、僧として生涯を終える事だったのだろう。しかし、戦をさせれば誰にも負けない自信と,仏神を信じるあまり恐怖心を克服しているので、彼と戦をする相手はたまったものではない。彼が三国峠をでて関東に出陣するのは30歳をすぎてからだが、彼はわずか1年で関東をほぼ制圧し、小田原城を包囲してしまうが、政治力がない彼から諸大名はすぐに離反してしまう。翌年には川中島で信玄と対決する。彼は初陣から17年間も越後にとどまり、関東に出陣後、本格的な戦をしたのも死ぬまでの17年間だった。彼は戦の前に仏堂にこもり好きな酒を断ち、戦場にむかったというが、戦場では再び大酒を飲んだという。おそらく、いやな家臣同士のゴタゴタ騒ぎから逃れるため戦闘に没頭していたのかもしれない。戦場では癖のつよい家臣達も素直に自分の意向にしたがうからだ。彼は30歳までに二度も上洛している。秩序と信仰を重んじる、中世の時代を代表するような古臭い武将だった。それはまるでキリスト教の僧でありながら、戦闘と殺人を好む中世ヨーロッパの騎士のようだ。思えば日本にはめずらしい不思議な武将だ。そこが魅力なのかもしれない。

  • @user-tj5pn2tf2y
    @user-tj5pn2tf2y Рік тому +4

    上杉謙信の人格がちょっと 美化されすぎですね😅

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk Рік тому +7

    義・義煩くてウザいイメージが。
    実際はちゃんと実利を見ていたんだろうけど。
    戦いが強かったのは事実。

  • @0110to0710
    @0110to0710 Рік тому +5

    さらにその残念なイメージを覆す新解釈も出てきていますし、次の時代にはやっぱり人の良い武将だったと言われるかもしれません。
    私は北条推しですが、前時代にカウンターバランスを取るかのような過度な謙信下げには疑問があるので、乃至政彦氏らの解釈が好きです。
    そして商人気質であれば、塩を売って金を得るより、後々巨額の戦費と人材を失うことを考えて、やはり塩を止めることに協力したと思うのです。

    • @user-mm5qh7se9c
      @user-mm5qh7se9c Рік тому

      他国の領民や捕虜を人質にして身代金を受け取っていたのは武田信玄も同じ。

  • @evil-flower009
    @evil-flower009 Рік тому +2

    誰もツッコミが無いから私が言いましょう。冒頭の上杉謙信の肖像画、トンデモ顔してた。w

  • @tiizuka2422
    @tiizuka2422 Рік тому +1

    後世において美化されるにはそれ相応の理由がある。

  • @user-wn3gw4lk7o
    @user-wn3gw4lk7o Рік тому +5

    映像化で一番美化されてるのはルックス、肖像画の謙信は普通にデブなのに何故か細身の俳優が演じてることが多い

    • @sugisinfkk
      @sugisinfkk Рік тому +5

      似た話で上杉憲政は武田晴信や北条氏康よりだいぶ若いのに、ドラマなどではそれより年上みたいな扱いされている。

  • @bluestreak5470
    @bluestreak5470 Рік тому +1

    謙信に限らず劉備もそうだけど、善人イメージを前に出し過ぎた結果、現代では逆にアンチに回る奴が増えてしまった感じ。
    信長は逆に延暦寺などの敵対勢力がアレ過ぎたのが発覚してファンが増えたな。まあ増えた結果がフリー素材化なんだけど。

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan

    謙信とて人間ですから仕方ないですね

  • @nobuaki7790
    @nobuaki7790 Рік тому +3

    何があっても無くても我らが謙信公m(_ _)m

    • @user-or4lk1bx9k
      @user-or4lk1bx9k Рік тому +1

      同感です!上杉の危機には、必ず世の中で大きな出来事が起きます。織田の越後侵攻では、本能寺の変。徳川の会津征伐の時は、関ヶ原の合戦。毘沙門天に相応しい神がかってますね。

    • @nobuaki7790
      @nobuaki7790 Рік тому

      @@user-or4lk1bx9k まさに運をも味方に付けた上杉家!私、栃尾でございますm(_ _)m

  • @user-it9wu2gt7b
    @user-it9wu2gt7b Рік тому +1

    実際、信濃と越後の国境まで塩を受け取りに行った人の末裔が、今 甲府で米穀店を商っていますね。
    私の友人(甲府在住)が、そのお店をよく知っています。

  • @user-sq1fo9lj9j
    @user-sq1fo9lj9j Рік тому +3

    美化、神格化するのは勝手ですが史実や当時の常識をもっと皆さん勉強して欲しいですね。漫画やゲームしか知らない人が本当に多くてゲンナリしますw

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan

    実は戦争大好き略奪者

  • @user-or4lk1bx9k
    @user-or4lk1bx9k Рік тому +1

    謙信公は、天下を取りたいという野望がなかったんですね。父から、出家させられ、お寺で仏門を学んでいて、その時に、戦術を学んでいた為、若くして軍神と謳われた大大名です。日本海の貿易を手に入れ、秩序の回復のみに戦をしたと思いますね。本当は、仏門で人々達に悟りを開かせる為に生まれてきた人だと思います。戒名が、宗心ですから。ちなみに景勝公も宗心と戒名しています。字の如く、戦国時代に生まれなければ、立派な、今で言う易者みたいな感じが天命だったのかなと思います。景勝公も、減封されても、1人の家臣も見放さず、毛利とは、真逆の政策を取っていますが、義を重んじる上杉らしくていいじゃないですか?参勤交代の際には、貧乏大名と言われても家臣を思いやるなんて立派です。家康公が、最も恐れた上杉家臣団。米沢版を見張れと、水戸、伊達、会津、最上に見張らせて、大政奉還の際には、クーデターを起こした毛利に、島津、前田が付き、尾張藩は初代当主の言葉のとおり朝廷と幕府が揉めたら、朝廷には逆らうなと。そんな中、上杉は朝廷軍にと入り、天皇陛下と内乱をやめさせようとしたら、長州が、上杉は駄目だと。長州は天皇陛下が、上杉をお気に入りなのを知っていますからね。そこで、天皇陛下に、海外の力を借りてクーデターを起こすような、卑怯者に錦の旗印を掲げるのか?それなら、上杉は、最後の1人まで幕府軍として戦うぞ。そうしたら、何も関係ない民も沢山死ぬぞ。そうなってもいいんですか?と天皇陛下を納得して頂いて、ただ、薩長が力ずくで幕府軍に勝ちたいと言って聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをして欲しい。上杉からの条件は、慶喜公を重要なポストに入れる事。それを、慶喜公に伝えたら、島津、加賀に続いて上杉までと言われ、上杉は違うと。幕府軍で戦うが、この戦は相手のトップから、クーデターみたいな事をさせてしまいと、お言葉を貰っているから意味が無いと。慶喜公はその時に、梅じゃなかった杉だった。260年間、虐げて申し訳なかった。と言われる上杉の祖ですから。大政奉還の時に、長州は、減封された際、家臣を百姓にしたり、商売人にしたりして、主力は商売人からなる軍隊でした。その時に、俺たちは幕府に侍に勝ったと大はしゃぎしたのを、天皇陛下が清と一喝したのが、天の声。発音はセイなんですけど。徳川の直轄領が、約600万石あるのに、本気出したら、お前らは皆殺しにされている。お前らは、イギリスの力を借り、クーデターという卑怯な事をしただけだ、と押さえ付けたのが真実。皆、天の声で下向いていたみたいですよ。上杉最高です。上杉謙信公家訓 16箇条、心 見たら謙信公が思い描いていた世の中がわかります。

  • @user-mm5qh7se9c
    @user-mm5qh7se9c Рік тому

    「関八州古戦録」によると、和田喜兵衛は群馬・高崎城主・和田兵衛大夫の弟で、「兵衛大夫が武田信玄に内通し、謀反を企んでいます」という情報が喜兵衛から
    同僚の小野伝助を通じ謙信へ伝わった。鳥川という所で喜兵衛が現れ、「兄の謀反は私の聞き違いでした」と知らせてきた。それを聞いた謙信は出陣させられたことに大激怒。
    引っ込みがつかなかったため喜兵衛と小野伝助をまとめて成敗した。ついでに高崎城にまで攻め込んだが兵衛大夫も必死に抵抗。そのうち謙信も、軍勢もクタクタになったので
    城の外に放火し、早々に引き上げました。
    弁当を食べている途中、敵に間近から鉄砲を撃たれたのに微動だにせず、護衛の部下も動けないので、部下だけが巻き込まれて撃たれ放題になった!
    ケンカする部下二人を止めずにまとめて成敗し、ついでに「あまりひどい」と言った部下も成敗!
    「神です」と紹介された大蛇を「蛇やろ!」と成敗 その日の夜高熱で倒れた。

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan

    謙信と同列時期の名将だと
    謙信 信玄 氏康 義元 元就達ですかねやっぱ
    この中で一人だけ選ぶならやはり氏康ですかね2番目が信玄です

  • @Ryu-qm3tp
    @Ryu-qm3tp Рік тому +2

    ガッカリ

  • @user-gh5ri8th5o
    @user-gh5ri8th5o Рік тому +2

    結婚しなかった謙信。実際の謙信は女好きで、あちらこちらの女に手を出し子供を産ませてそう。

  • @user-ke3em6bb2z
    @user-ke3em6bb2z Рік тому

    サムねが素顔だと思ちゃいました😅

  • @user-nh1bh5wr8i
    @user-nh1bh5wr8i Рік тому +1

    謙信公 柴田恭兵さんのイメージが強くて…

  • @user-gy3uj2no1s
    @user-gy3uj2no1s Рік тому

    可愛い❤