Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
小学校の頃に東口に戦争で手足を失った人たちが白い服を着てアコーディオンを弾いてたのを鮮明に覚えてますね。昭和の40年代。
昭和30年代の後半に、親に連れられて池袋駅界隈によく出かけた。大ガード下には傷痍軍人が沢山いて、路地で寝そべったり、アコーディオンを弾いてお金を稼いでいた。当時はその風貌が怖くてまともに見る事は出来なかった。今思うと、命を懸けてお国の為に働き、傷付いて帰って来ても働けず、仕方なく故郷を出て、恵みを受けなければ生きて行けない人生は辛くて悲しいだろうと理解できる歳になった。その事をいつまでも忘れる事無く、先人達に感謝して自分で出来る事をして行きたい。
池田隼人や東知事の頃ですね。いろんな社寺のお会式の時にも集まっておられて、白い浴衣のような病衣が子供心に怖かった。亡母から5円10円をもらってさし上げてくると、母は空を見上げ、こぶしを握り締めて涙を堪えておりました。お話好きの母は、わたくしども子供らの見ていたマガジンの紫電改のタカのちばてつや先生に、お母さんや信ちゃんの戦後物語を、別冊の一本物でもいいので、どうか描いてくださいっていう趣旨のファンレターを送っていました。 インテリでもないのに、戦後すぐのアメリカ大使館や最高司令部で。英文やカナタイプしてたころ憶えた英語で、ルーカスやスピルバーグにファンレターを送るような少し変わった母も亡くなって半世紀が経ちました。末期がんだったけどもう少し生きてりゃいろいろ面白いものが見れたのにと残念です。新幹線ひかり号の雄姿を見ても、空を見上げてこぶしを握り締めてしまう亡母の姿が忘れられません。
お疲れ様です。私は西武池袋線沿線に住んでました。東口に西武百貨店、西口に東武百貨店。昭和48年頃の思い出で、屋上に遊戯施設があり、親に連れられて西武、東武とも頻繁におもちゃ売り場に行きました。今は、ほとんど行く事も無くなりましたが、思い出も沢山ありました。今は、もうキンカ堂や三越百貨店も無くなりましたね。時代は令和になり、とうに昭和は遠くなりました。57歳のおっさんの思い出です。
私は東武百貨店のターザンの木が大好きでした。
@@N_RH777 ありましたぁ!ねぇー!
昭和50年代頭に、昔の自衛隊赤羽駐屯地方面から、幼稚園の帰りにサンシャイン建設中の光景を見た記憶が今も鮮明に覚えてます。高い建物がドンドン上に向かって伸びていく様は忘れられません。隣で一緒に見た母もまだ若かった。亡き母を思い出すシーンもまたこの時の光景なのです。。。
1955年に池袋で生まれました。東武デパートの前には不二家と、のとやというレストランが有りました。小さい頃良く食事に行ってました。色々懐かしくて書ききれません。
のとや!懐かしいです、よく行きました。今はマクドナルドになっていて、時々行ってます。
長くても大丈夫なので、色々とお聞きしたいなと思いました!
いつも有難う御座います。東武百貨店の左側の三角屋根はうちの高校かな~。サンシャインは子供達を連れて水族館、プラネタリウムに良く行きました。今じじいになった私は健康診断に行っています。小田急TIMEさんの行く処は私のお気に入りが多く毎回楽しんでいます。
池袋サンシャインシティは、同人誌即売会がある時に行っていたこともあって、懐かしかったです。今も開催されているのかなと、当時の記憶が甦りますね。
みなさんのコメントの行が長いことが、思い出深い動画であることを物語っていますね。私は東京の人間ではありませんが、こういう動画は大好きです。
池袋を最寄りの遊び場として育った練馬区育ちのわたしにとっては、ビックカメラの歌「東が西武で西東武~♫」の歌詞を当たり前のように聞いて来ました。その西武百貨店も売却、再開発の運命に至るなんて、当時の私には考えられもしませんでした。時代はこうして移り変わっていくのでしょうね
東口に出るとさくらやの曲な鈴やの鈴の音を聞きながらキンカ堂で生地や毛糸を買いに行った思い出がサンシャインに入ると噴水広場の前にアクセサリーのワゴンがあっておじさんが300円を声を枯らしながら連呼していた思い出があります
3歳から東上沿線に住んで74年。池袋には語り尽くせないほどの、思い出があります。感無量の思いで拝見しました。有難うございます。有難うございました。
今から60年近く前になりますが、高校の卒業式を終えてすぐに、東口の西武デパートの屋上にあった遊園地(浅草の花やしきを経営していた東洋娯楽機㈱がやっていました)に勤めて働きました。働き出して1週間もしないころ、大雪がふって東上線で通っていた私が自宅に帰れなくなったとき、百貨店の屋上担当係長が赤羽に住んでいて、その人が私を赤羽の自宅に連れて行ってくれて(そのころは池袋~赤羽間を赤羽線が走っていた)一晩コタツの中に寝転がらせてくれて、次の日の朝早く、一人で池袋まで出勤したことを思い出しました。そのころ東口には西武と並んで丸物百貨店があり、その後その建物はパルコになりました。私は西口に東横百貨店があったことは知りませんでした。
サンシャイン60は開業当時は部屋がほとんど空いている状態でした。管理会社がやったのか、窓のカーテンの開け閉めでクリスマスツリーを浮き上がらせたりしていましたよ。写真は残っていないのでしょうね。撮っておけばよかった。ちなみに現池袋西武百貨店の前身を地元では「西武市場」と呼んでいました。西武の屋上には開業当時はヘリポートがあって遊覧飛行をやっていました。
40数年前です。学生だった頃にサンシャイン60へ行く途中の定食屋に立ち寄った時『三木のり平さん』の『江戸むらさき』をボトルキープできるお店あったの思い出しました。お金ない時は、ライス代だけで済んだ時代を…
昭和32年であれば椎名町から南長崎方面に歩けばあのトキワ荘が現存してて、のちの漫画界の大物たちが貧しくも明るい青春時代を過ごしていたのでしょうね。
昭和40年生まれでぶらんでーと東武が出来た時はワクワクしました。電車がビルの中に入っていくことだけでも当時は珍しかったので完成図など観ながらオープンを楽しみにしていました。高校時代は東口駅前にあった多店舗化する前の大戸屋に行くのが放課後の定番、福しんもまだ夫婦で切り盛りする普通の街中華で要町駅近くの千早町に1店舗で経営してました。
そうでしたね。東武百貨店は確かぶらんでーと東武でしたね。この時代の東武百貨店を知る人も少なくなってきましたかな。懐かし思い出です。
千早町(現千早)の福しん、お多福マークの後ろに「しん」の看板でしたね。手もみ麺(玉子入り)が売りだった記憶。確か、93年ごろに要町駅前に店ができて入れ違いに閉店したと思います。それがもう30年前とか・・・、自分も年を取るわけだ。
サンシャイン60が建設中でニョキニョキ伸びて来るのを尻目に池袋、文芸坐に通ったなぁ。落成してからも足繁く…’80年代初頭まで…以降は仕事が忙しくなって遠去かってしまったが、我が青春の池袋。
一階が洋画の文芸坐、地下が邦画の文芸地下でどちらもよく通いました。時々フェリーニなど監督シリーズや高倉健の昭和残侠伝など見た記憶があります。
落ち着いた構成が良かったです。この動画も、きっと数十年後には2020年代初頭のアーカイブとして観られるのでしょうね。
サンシャイン60あたりに巣鴨プリズンがあったことは知っていたのですが、このように戦後の時間の流れの中で見ることが出来て、現実として迫ってくるものがありました。有難うございました。
東京丸物の建物の壁面にモザイクタイルがあったのを覚えています。それと近くにあったマンモスプール、よく母親に連れて行ってもらいました。高校生の頃、サンシャイン60の工事中に忍び込んだのも良い思い出となっています。
60年代末、学生運動華やかなりし頃は、東京拘置所に収容された学友の差し入れに何度も訪れました。その筋とわかる方々と一緒に来た和服の綺麗なお姐さんが漆塗りのお重を風呂敷から取り出しているのに何度か出会って、あれはOKなのかと思いつつ、差し入れ専用店で肉まんとあんまんとかを注文していました。(自分では渡せない)サンシャインに建て替わったときは、あまりの違いに理解不能に陥りましたねぇ。
マルブツとかありましたよね。東口側の地下にろばた焼き屋があって、ビンビールを頼むと店の人が良い音で栓を抜いてくれたんですよね。その音が聞きたくて、ビールはビンを頼んでました。また、近くあった喫茶店にも良く行きました。確か、青江三奈の「池袋の夜」の舞台が近くだったよいな。
もう70年位前の池袋西口駅前はバラックのお店が連なりそのバラック街をまっすぐ進むと右側に蛇屋が有った何故か今でも強烈に覚えています、東口の東映映画の時代劇を観た後母に連れられて三越デパートの6階の大食堂でお子様ランチを食べた思い出、今は無き三越デパート、そして最近の話題としては西武デパートもアメリカ資本?に譲渡され今後はどうなるんでしょうか。
サンシャイン60はご説明の通り都心のビル街から離れていますし、標高30メートルほどの武蔵野台地東端上にあることもあり、見晴らしがいいですね。57階あたりのレストランもすごく眺望がいいですのでお勧めです。
Eine sehr schöne Dokumentation, vielen Dank dafür. Ich werde Ikebukuro bei meiner nächsten Reise besuchen und an Ihr Video denken.
昔はマルブツとかキンカ堂に買い物に行きました。サンシャインの以前の姿は巣鴨拘置所、とでも不気味でした。
この東口の西武デパートができる前の画像ははじめて見ました。東口にはマルブツの他に緑屋もありましたよね。デパートの屋上のダンボに乗って落っこちそうになりました。笑 東武の中間の屋上でバイトしてましたがステージと池があってレンジャーショーの桃レンジャーが池に落ちた事がありました。災難!笑
昭和10年生まれくらいの方が曾祖父ですか・・・・・・アップ主はお若いのですね。
終戦の1945年(昭和20年)からの20年の変化は大きなものだった。しかし、最近の20年間、2000年から今までの23年なら、変化はだいぶ小さくなった。
2:29東口にトロリーバスがいますね、ここからトロリーバスで浅草と品川に行けたんですよね。西武百貨店に入っていたシグナルハウスで模型買ってました。
東京の目白に住んでいたのでよく池袋は遊びに。そしておふくろに連れられて当時全盛だった時代劇を観に行きましたね、今のサンシャイン通りには映画館の東映そして西武デパートの横には丸物デパート、さらにその横には池袋西口方面に行く狭くて汚い通路(ビックリガード?)わきには日活、東宝映画館が有り西武デパートの前の明治道り(現在は305号線)を新宿方面に少し行った左側にはこれまた松竹映画館とよく映画に行きましたね、当時は本編の映画の前に確か毎日ニュースが少し流れて居ましたね。また東口からはトロリーバスが渋谷方面と浅草寿町?が走っていて浅草行のトロリーバスは池袋の北口から少し走った所の6又交差点では一旦電線から供給していたパンタグラフを下げてジーゼルに切り替え爆音を鳴らして渡り通過し終わった時に再びパンタグラフを上げて走り出す、そんなトロリーバスはすでに無くなってしまったが、懐かしい池袋を紹介して頂き有難うございます。
百貨店の屋上は子供たちの遊び場でしたね。地元中野の丸井の屋上にも小さな遊園地がありました。遊んだ覚えはもうありません。
屋上遊園地は蒲田東急プラザしか残って無いらしいですね。
もの心つかないころに池袋西口の店舗兼住宅に住んでいた。祖母が経営するお店には組のおじさんがよく出入りしてた。そのおじさんは僕にいつもお小遣いをくれた記憶がある。何年か前に見に行ったら僕が住んでたビルはまだ残っていて、SMクラブになっていた😨
池袋には10年くらい通ったなぁ、サンシャイン完成まじかの頃「池袋自動車練習所」で免許取得が懐かしい。
こんばんは。私の兄はそこで、免許の試験を受けたと思います。ただ。確か公認では無かったから、単なる練習で本試験は鮫洲でやったと、聞いてます。
昨日池袋に行ったので動画の写真を見ると隔世の感を覚えます自分は西武新宿線沿線なので新宿にはよく行っていたのですが池袋には小さい頃は全く言った覚えがなく高校時代の夏期講習が池袋の予備校だったのでそこからの記憶しかありませんがそれでも数十年経って池袋が様変わりしたのは実感できます
いつも癒やしのひとときをありがとうございます。池袋西口に東横百貨店があったことを初めて知りました。東急の資本が早い時期から進出していたんですね!そして、サンシャイン60。完成からもう50年近く経過するんですよね。。。これからも池袋のランドマークであり続けるんですね。
西武の屋上と言えば手打ちの店「かるかや」を語らない訳にはいかない!元々うどんが大好きだったので、LOFTや屋上に行くときには必ずここのつけうどんを食べてましたね😉😉😉
今より物も少なく不便さも多かったけど、なんか人の温もりを感じられる時代だったようにみえます。
東武百貨店が昔東横百貨店だったとは知らなかった。
渋谷や新宿と違って池袋は戦後になって急激に発展したのですね!
今は豊島清掃工場が建っていますが、以前は池袋マンモスプールでした。東上沿線に9歳から住んでいますが、結局1回も行った事が無かったです
今の街並み、建造物に比べて、昭和のそれはよかった、いつもそう思います。なぜなのか、自分でもうまく言えません。強いていえば、今の建造物は縦横垂直で無機質、高層建築のため遠くまで見渡せない、などの理由かもしれません。昭和は遠くなってしまいましたが、日本人は大事な大事な日本らしさを失ってしまったと感じます。今後の日本はどうなっていくのでしょうか?これが豊かさなのでしょうか?
初めて拝見しました。昭和44年~50年までは西武池袋線を良く使っていたので懐かしいです。西口の東武の前身が東横というのが意外で、東横と言えば東急系ですから東武と関係なかったはずです。東口西武の前身が2階建ての武蔵野デパートだというのも初めて知りました。西武池袋線の前身は武蔵野鉄道で、戦後西武新宿線の前身だった旧西武鉄道と合併して現在の西武鉄道になりました。吸収したのは堤康二郎率いる武蔵野鉄道でしたが、「西武の名前が消えると旧西武の社員が落ち込む」という理由から、敢えて吸収した西武の社名を残したと聞いたことがあります。東横など東急グループのトップは当時堤のライバルだった五島慶太で、東急は吸収した鉄道会社の名前は残さずに全て東急にしたのと対照的です。(池上線、目蒲線と路線名には社名が残っています)西武と競う意味で東横が残ってもおかしくないですが、どういう経緯で東武になったのか興味があります。今もたまに池袋に行きますが、昔の映像をありがとうございました。
当時の五島慶太さんが、池袋の東横については売り上げがよくなかったことと、東急の地盤とは離れていたこともあって、東武に売却したようですね。東急の二代目、五島昇さんの時には東武の取締役に五島さんが、東急の取締役に東武の根津さんが就任していますが、これもちょっと面白いなと思いました。
貴重な映像です
就職で81年に上京した先が板橋本町で池袋にはよく行きました サンシャインの水族館行ったね^ ^西武も東武もあたりを歩きまくった😂
以前、同じ会社に大塚が地元の方がいて(多分、今70代?)子供の頃、池袋駅にザリガニをとりに来た、って話を聞いた事があります。小川が流れてたとか?
現在の池袋のイメージがあるため昔の池袋だと想像がつかないある本を読んでいると池袋は、新宿よりも発展するのが遅かった、らしい都電も池袋に乗り入れさえも遅かったけどこの動画を見て最初に池袋と聞いてえっと、驚いてしまった。
池袋東口に行ったら駅前の信号渡ったところにある洋菓子、パンのタカセに必ず寄って、名物のハチミツパンを買います。
私も池袋に行けば、かならずタカセでハチミツパンを買うのが決まった行動で、楽しみでもありました。たしかあの店の「名物」と銘打っていたような記憶があります。この30年くらいはそれもしなくなりました。最近はいけぶくろにほとんど行ってないので。
丸物、トロリーバス、懐かしいですね東口の大塚寄りにあったチャンポンのボーチカという店(御徒町の線路端にもあった)もういちど行きたかったのになくなってしまった渋谷にあった北京料理・屯(たむろ)と同じような品ぞろえの東池袋・豊屯も行けぬうちに消えてしまった(´・ω・`)
4:36 今とこんなにもサンシャインの見え方が違うんですね。当時はかなりインパクトが凄かっただろうに
私の父(昭和九年)母(昭和五年)もう亡くなってしまいましたが父は護国寺が実家で、母は戦後、福島から上京して池袋東口の闇市をへて飲み屋を経営。そこで父と母が出会い、巣鴨プリズンの正門が窓から見えるアパートで二人しばらく暮らして結婚しました。当時の巣鴨プリズン付近は(日の出町)、護国寺、大塚あたりは(坂下)という住所でした。昭和50年初期、サンシャインがどんどん作られていく様を、文京区のマンション屋上から毎日眺めていました。サンシャイン60が完成してからはサンシャインの窓の明かりを利用して(こけし)の模様が作られたり(火の用心)と浮かんでいたりしました。傷痍軍人は昭和50年代のとげぬき地蔵入り口にもよくいました。
東武じゃなくて東横…つまり東急百貨店なわけですね。東口にあった丸物もPARCOになりましたが、丸物の本体(京都)は今の近鉄百貨店。もし歴史が歴史なら、東急百貨店と近鉄百貨店がある池袋?などという妄想も。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 🌟
西武百貨店のビルはいつ頃建ったか分かる方、居ましたら教えてください。。やはり池袋と言うとあのバカデカく長い西武百貨店が小さな頃から印象的ですね🏢
池袋は、東口に西武百貨店、西口に東武百貨店という笑い話のような立地ですよねよくお笑いのネタにされていました。
西口に東武で東口に西武が子どもの頃の疑問でした😅
サンシャインができる前は東池袋四丁目の電停のとなりにバスの折返所があった。池86系統。そこは旧都電17系統の日出町車庫だった。のか、大塚車庫日出町派出所というのか、、、だった場所。そして、春日通に面した旧時習小学校の校舎が昭和的な趣でよかった。いまは帝京平成大学となって校舎は新築され現存しない。
こんちゅわ😊
実家が西武池袋線沿いになります。まず池袋線にのって池袋駅に行かなければ、都心部のどこにも行けなかったです。でもなんで西口に西武百貨店を、東口に東武百貨店を作ってくれなかったんだろ?
そもそも、東上鉄道(東上線)は池袋ではなく巣鴨を起点にし、小石川まで進むつもりあった。下板橋から90度折れて池袋という何もない田舎の駅を基点にする羽目になったところ、その池袋に武蔵野鉄道(西武池袋線)がやってきた。あっという間にターミナル駅に成長してってわけさ・・
小学校の頃に東口に戦争で手足を失った人たちが白い服を着てアコーディオンを弾いてたのを鮮明に覚えてますね。昭和の40年代。
昭和30年代の後半に、親に連れられて池袋駅界隈によく出かけた。大ガード下には傷痍軍人が沢山いて、路地で寝そべったり、アコーディオンを弾いてお金を稼いでいた。当時はその風貌が怖くてまともに見る事は出来なかった。今思うと、命を懸けてお国の為に働き、傷付いて帰って来ても働けず、仕方なく故郷を出て、恵みを受けなければ生きて行けない人生は辛くて悲しいだろうと理解できる歳になった。その事をいつまでも忘れる事無く、先人達に感謝して自分で出来る事をして行きたい。
池田隼人や東知事の頃ですね。いろんな社寺のお会式の時にも集まっておられて、白い浴衣のような病衣が子供心に怖かった。亡母から5円10円をもらってさし上げてくると、母は空を見上げ、こぶしを握り締めて涙を堪えておりました。お話好きの母は、わたくしども子供らの見ていたマガジンの紫電改のタカのちばてつや先生に、お母さんや信ちゃんの戦後物語を、別冊の一本物でもいいので、どうか描いてくださいっていう趣旨のファンレターを送っていました。
インテリでもないのに、戦後すぐのアメリカ大使館や最高司令部で。英文やカナタイプしてたころ憶えた英語で、ルーカスやスピルバーグにファンレターを送るような少し変わった母も亡くなって半世紀が経ちました。末期がんだったけどもう少し生きてりゃいろいろ面白いものが見れたのにと残念です。新幹線ひかり号の雄姿を見ても、空を見上げてこぶしを握り締めてしまう亡母の姿が忘れられません。
お疲れ様です。私は西武池袋線沿線に住んでました。東口に西武百貨店、西口に東武百貨店。昭和48年頃の思い出で、屋上に遊戯施設があり、親に連れられて西武、東武とも頻繁におもちゃ売り場に行きました。今は、ほとんど行く事も無くなりましたが、思い出も沢山ありました。今は、もうキンカ堂や三越百貨店も無くなりましたね。時代は令和になり、とうに昭和は遠くなりました。57歳のおっさんの思い出です。
私は東武百貨店のターザンの木が大好きでした。
@@N_RH777 ありましたぁ!ねぇー!
昭和50年代頭に、昔の自衛隊赤羽駐屯地方面から、幼稚園の帰りにサンシャイン建設中の光景を見た記憶が今も鮮明に覚えてます。高い建物がドンドン上に向かって伸びていく様は忘れられません。隣で一緒に見た母もまだ若かった。亡き母を思い出すシーンもまたこの時の光景なのです。。。
1955年に池袋で生まれました。東武デパートの前には不二家と、のとやというレストランが有りました。
小さい頃良く食事に行ってました。色々懐かしくて書ききれません。
のとや!懐かしいです、よく行きました。今はマクドナルドになっていて、時々行ってます。
長くても大丈夫なので、色々とお聞きしたいなと思いました!
いつも有難う御座います。東武百貨店の左側の三角屋根はうちの高校かな~。
サンシャインは子供達を連れて水族館、プラネタリウムに良く行きました。
今じじいになった私は健康診断に行っています。
小田急TIMEさんの行く処は私のお気に入りが多く毎回楽しんでいます。
池袋サンシャインシティは、同人誌即売会がある時に行っていたこともあって、懐かしかったです。
今も開催されているのかなと、当時の記憶が甦りますね。
みなさんのコメントの行が長いことが、思い出深い動画であることを物語っていますね。私は東京の人間ではありませんが、こういう動画は大好きです。
池袋を最寄りの遊び場として育った練馬区育ちのわたしにとっては、ビックカメラの歌「東が西武で西東武~♫」の歌詞を当たり前のように聞いて来ました。その西武百貨店も売却、再開発の運命に至るなんて、当時の私には考えられもしませんでした。時代はこうして移り変わっていくのでしょうね
東口に出るとさくらやの曲な鈴やの鈴の音を聞きながらキンカ堂で生地や毛糸を買いに行った思い出が
サンシャインに入ると噴水広場の前にアクセサリーのワゴンがあっておじさんが300円を声を枯らしながら連呼していた思い出があります
3歳から東上沿線に住んで74年。
池袋には語り尽くせないほどの、思い出があります。
感無量の思いで拝見しました。
有難うございます。有難うございました。
今から60年近く前になりますが、高校の卒業式を終えてすぐに、東口の西武デパートの屋上にあった遊園地(浅草の花やしきを経営していた東洋娯楽機㈱がやっていました)に勤めて働きました。働き出して1週間もしないころ、大雪がふって東上線で通っていた私が自宅に帰れなくなったとき、百貨店の屋上担当係長が赤羽に住んでいて、その人が私を赤羽の自宅に連れて行ってくれて(そのころは池袋~赤羽間を赤羽線が走っていた)一晩コタツの中に寝転がらせてくれて、次の日の朝早く、一人で池袋まで出勤したことを思い出しました。そのころ東口には西武と並んで丸物百貨店があり、その後その建物はパルコになりました。私は西口に東横百貨店があったことは知りませんでした。
サンシャイン60は開業当時は部屋がほとんど空いている状態でした。管理会社がやったのか、窓のカーテンの開け閉めでクリスマスツリーを浮き上がらせたりしていましたよ。写真は残っていないのでしょうね。撮っておけばよかった。
ちなみに現池袋西武百貨店の前身を地元では「西武市場」と呼んでいました。西武の屋上には開業当時はヘリポートがあって遊覧飛行をやっていました。
40数年前です。学生だった頃にサンシャイン60へ行く途中の定食屋に立ち寄った時『三木のり平さん』の『江戸むらさき』をボトルキープできるお店あったの思い出しました。お金ない時は、ライス代だけで済んだ時代を…
昭和32年であれば椎名町から南長崎方面に歩けばあのトキワ荘が現存してて、のちの漫画界の大物たちが貧しくも明るい青春時代を過ごしていたのでしょうね。
昭和40年生まれでぶらんでーと東武が出来た時はワクワクしました。電車がビルの中に入っていくことだけでも当時は珍しかったので完成図など観ながらオープンを楽しみにしていました。
高校時代は東口駅前にあった多店舗化する前の大戸屋に行くのが放課後の定番、福しんもまだ夫婦で切り盛りする普通の街中華で要町駅近くの千早町に1店舗で経営してました。
そうでしたね。東武百貨店は確かぶらんでーと東武でしたね。この時代の東武百貨店を知る人も少なくなってきましたかな。懐かし思い出です。
千早町(現千早)の福しん、お多福マークの後ろに「しん」の看板でしたね。手もみ麺(玉子入り)が売りだった記憶。
確か、93年ごろに要町駅前に店ができて入れ違いに閉店したと思います。
それがもう30年前とか・・・、自分も年を取るわけだ。
サンシャイン60が建設中でニョキニョキ伸びて来るのを尻目に池袋、文芸坐に通ったなぁ。落成してからも足繁く…’80年代初頭まで…以降は仕事が忙しくなって遠去かってしまったが、我が青春の池袋。
一階が洋画の文芸坐、地下が邦画の文芸地下でどちらもよく通いました。時々フェリーニなど監督シリーズや高倉健の昭和残侠伝など見た記憶があります。
落ち着いた構成が良かったです。
この動画も、きっと数十年後には2020年代初頭のアーカイブとして観られるのでしょうね。
サンシャイン60あたりに巣鴨プリズンがあったことは知っていたのですが、このように戦後の時間の流れの中で見ることが出来て、現実として迫ってくるものがありました。有難うございました。
東京丸物の建物の壁面にモザイクタイルがあったのを覚えています。それと近くにあったマンモスプール、よく母親に連れて行ってもらいました。高校生の頃、サンシャイン60の工事中に忍び込んだのも良い思い出となっています。
60年代末、学生運動華やかなりし頃は、東京拘置所に収容された学友の差し入れに何度も訪れました。その筋とわかる方々と一緒に来た和服の綺麗なお姐さんが漆塗りのお重を風呂敷から取り出しているのに何度か出会って、あれはOKなのかと思いつつ、差し入れ専用店で肉まんとあんまんとかを注文していました。(自分では渡せない)サンシャインに建て替わったときは、あまりの違いに理解不能に陥りましたねぇ。
マルブツとかありましたよね。東口側の地下にろばた焼き屋があって、ビンビールを頼むと店の人が良い音で栓を抜いてくれたんですよね。
その音が聞きたくて、ビールはビンを頼んでました。また、近くあった喫茶店にも良く行きました。確か、青江三奈の「池袋の夜」の舞台が近くだったよいな。
もう70年位前の池袋西口駅前はバラックのお店が連なりそのバラック街をまっすぐ進むと右側に蛇屋が有った何故か今でも強烈に覚えています、東口の東映映画の時代劇を観た後母に連れられて三越デパートの6階の大食堂でお子様ランチを食べた思い出、今は無き三越デパート、そして最近の話題としては西武デパートもアメリカ資本?に譲渡され今後はどうなるんでしょうか。
サンシャイン60はご説明の通り都心のビル街から離れていますし、標高30メートルほどの武蔵野台地東端上にあることもあり、見晴らしがいいですね。57階あたりのレストランもすごく眺望がいいですのでお勧めです。
Eine sehr schöne Dokumentation, vielen Dank dafür. Ich werde Ikebukuro bei meiner nächsten Reise besuchen und an Ihr Video denken.
昔はマルブツとかキンカ堂に買い物に行きました。サンシャインの以前の姿は巣鴨拘置所、とでも不気味でした。
この東口の西武デパートができる前の画像ははじめて見ました。東口にはマルブツの他に緑屋もありましたよね。デパートの屋上のダンボに乗って落っこちそうになりました。笑 東武の中間の屋上でバイトしてましたがステージと池があってレンジャーショーの桃レンジャーが池に落ちた事がありました。災難!笑
昭和10年生まれくらいの方が曾祖父ですか・・・・・・
アップ主はお若いのですね。
終戦の1945年(昭和20年)からの20年の変化は大きなものだった。しかし、最近の
20年間、2000年から今までの23年なら、変化はだいぶ小さくなった。
2:29東口にトロリーバスがいますね、ここからトロリーバスで浅草と品川に行けたんですよね。西武百貨店に入っていたシグナルハウスで模型買ってました。
東京の目白に住んでいたのでよく池袋は遊びに。そしておふくろに連れられて当時全盛だった時代劇を観に行きましたね、今のサンシャイン通りには映画館の東映そして西武デパートの横には丸物デパート、さらにその横には池袋西口方面に行く狭くて汚い通路(ビックリガード?)わきには日活、東宝映画館が有り西武デパートの前の明治道り(現在は305号線)を新宿方面に少し行った左側にはこれまた松竹映画館とよく映画に行きましたね、当時は本編の映画の前に確か毎日ニュースが少し流れて居ましたね。
また東口からはトロリーバスが渋谷方面と浅草寿町?が走っていて浅草行のトロリーバスは池袋の北口から少し走った所の6又交差点では一旦電線から供給していたパンタグラフを下げてジーゼルに切り替え爆音を鳴らして渡り通過し終わった時に再びパンタグラフを上げて走り出す、そんなトロリーバスはすでに無くなってしまったが、懐かしい池袋を紹介して頂き有難うございます。
百貨店の屋上は子供たちの遊び場でしたね。地元中野の丸井の屋上にも小さな遊園地がありました。遊んだ覚えはもうありません。
屋上遊園地は蒲田東急プラザしか残って無いらしいですね。
もの心つかないころに池袋西口の店舗兼住宅に住んでいた。祖母が経営するお店には組のおじさんがよく出入りしてた。そのおじさんは僕にいつもお小遣いをくれた記憶がある。何年か前に見に行ったら僕が住んでたビルはまだ残っていて、SMクラブになっていた😨
池袋には10年くらい通ったなぁ、サンシャイン完成まじかの頃「池袋自動車練習所」で免許取得が懐かしい。
こんばんは。私の兄はそこで、免許の試験を受けたと思います。ただ。確か公認では無かったから、単なる練習で本試験は鮫洲でやったと、聞いてます。
昨日池袋に行ったので動画の写真を見ると隔世の感を覚えます
自分は西武新宿線沿線なので新宿にはよく行っていたのですが池袋には小さい頃は全く言った覚えがなく高校時代の夏期講習が池袋の予備校だったのでそこからの記憶しかありませんが
それでも数十年経って池袋が様変わりしたのは実感できます
いつも癒やしのひとときをありがとうございます。
池袋西口に東横百貨店があったことを初めて知りました。
東急の資本が早い時期から進出していたんですね!
そして、サンシャイン60。完成からもう50年近く経過するんですよね。。。
これからも池袋のランドマークであり続けるんですね。
西武の屋上と言えば手打ちの店「かるかや」を語らない訳にはいかない!
元々うどんが大好きだったので、LOFTや屋上に行くときには必ずここのつけうどんを食べてましたね😉😉😉
今より物も少なく不便さも多かったけど、なんか人の温もりを感じられる時代だったようにみえます。
東武百貨店が昔東横百貨店だったとは知らなかった。
渋谷や新宿と違って池袋は戦後になって急激に発展したのですね!
今は豊島清掃工場が建っていますが、以前は池袋マンモスプールでした。
東上沿線に9歳から住んでいますが、結局1回も行った事が無かったです
今の街並み、建造物に比べて、昭和のそれはよかった、いつもそう思います。なぜなのか、自分でもうまく言えません。強いていえば、今の建造物は縦横垂直で無機質、高層建築のため遠くまで見渡せない、などの理由かもしれません。昭和は遠くなってしまいましたが、日本人は大事な大事な日本らしさを失ってしまったと感じます。今後の日本はどうなっていくのでしょうか?これが豊かさなのでしょうか?
初めて拝見しました。昭和44年~50年までは西武池袋線を良く使っていたので懐かしいです。西口の東武の前身が東横というのが意外で、東横と言えば東急系ですから東武と関係なかったはずです。東口西武の前身が2階建ての武蔵野デパートだというのも初めて知りました。西武池袋線の前身は武蔵野鉄道で、戦後西武新宿線の前身だった旧西武鉄道と合併して現在の西武鉄道になりました。吸収したのは堤康二郎率いる武蔵野鉄道でしたが、「西武の名前が消えると旧西武の社員が落ち込む」という理由から、敢えて吸収した西武の社名を残したと聞いたことがあります。東横など東急グループのトップは当時堤のライバルだった五島慶太で、東急は吸収した鉄道会社の名前は残さずに全て東急にしたのと対照的です。(池上線、目蒲線と路線名には社名が残っています)西武と競う意味で東横が残ってもおかしくないですが、どういう経緯で東武になったのか興味があります。今もたまに池袋に行きますが、昔の映像をありがとうございました。
当時の五島慶太さんが、池袋の東横については売り上げがよくなかったことと、東急の地盤とは離れていたこともあって、東武に売却したようですね。東急の二代目、五島昇さんの時には東武の取締役に五島さんが、東急の取締役に東武の根津さんが就任していますが、これもちょっと面白いなと思いました。
貴重な映像です
就職で81年に上京した先が板橋本町で池袋にはよく行きました サンシャインの水族館行ったね^ ^
西武も東武もあたりを歩きまくった😂
以前、同じ会社に大塚が地元の方がいて(多分、今70代?)
子供の頃、池袋駅にザリガニをとりに来た、って話を聞いた事があります。小川が流れてたとか?
現在の池袋のイメージがあるため昔の池袋だと想像がつかないある本を読んでいると池袋は、新宿よりも発展するのが遅かった、らしい都電も池袋に乗り入れさえも遅かったけどこの動画を見て最初に池袋と聞いてえっと、驚いてしまった。
池袋東口に行ったら駅前の信号渡ったところにある洋菓子、パンのタカセに必ず寄って、名物のハチミツパンを買います。
私も池袋に行けば、かならずタカセでハチミツパンを買うのが決まった行動で、楽しみでもありました。たしかあの店の「名物」と銘打っていたような記憶があります。この30年くらいはそれもしなくなりました。最近はいけぶくろにほとんど行ってないので。
丸物、トロリーバス、懐かしいですね
東口の大塚寄りにあったチャンポンのボーチカという店(御徒町の線路端にもあった)もういちど行きたかったのになくなってしまった
渋谷にあった北京料理・屯(たむろ)と同じような品ぞろえの東池袋・豊屯も行けぬうちに消えてしまった(´・ω・`)
4:36
今とこんなにもサンシャインの見え方が違うんですね。
当時はかなりインパクトが凄かっただろうに
私の父(昭和九年)母(昭和五年)
もう亡くなってしまいましたが父は護国寺が実家で、
母は戦後、福島から上京して池袋東口の闇市をへて飲み屋を経営。
そこで父と母が出会い、巣鴨プリズンの正門が窓から見えるアパートで二人しばらく暮らして結婚しました。
当時の巣鴨プリズン付近は(日の出町)、護国寺、大塚あたりは(坂下)という住所でした。
昭和50年初期、サンシャインがどんどん作られていく様を、
文京区のマンション屋上から毎日眺めていました。
サンシャイン60が完成してからはサンシャインの窓の明かりを利用して
(こけし)の模様が作られたり(火の用心)と浮かんでいたりしました。
傷痍軍人は昭和50年代のとげぬき地蔵入り口にもよくいました。
東武じゃなくて東横…つまり東急百貨店なわけですね。
東口にあった丸物もPARCOになりましたが、丸物の本体(京都)は今の近鉄百貨店。
もし歴史が歴史なら、東急百貨店と近鉄百貨店がある池袋?などという妄想も。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 🌟
西武百貨店のビルはいつ頃建ったか分かる方、居ましたら教えてください。。
やはり池袋と言うとあのバカデカく長い西武百貨店が小さな頃から印象的ですね🏢
池袋は、東口に西武百貨店、西口に東武百貨店という笑い話のような立地ですよねよくお笑いのネタにされていました。
西口に東武で東口に西武が子どもの頃の疑問でした😅
サンシャインができる前は
東池袋四丁目の電停のとなりにバスの折返所があった。
池86系統。
そこは旧都電17系統の日出町車庫だった。のか、大塚車庫日出町派出所というのか、、、だった場所。
そして、春日通に面した旧時習小学校の校舎が昭和的な趣でよかった。いまは帝京平成大学となって校舎は新築され現存しない。
こんちゅわ😊
実家が西武池袋線沿いになります。まず池袋線にのって池袋駅に行かなければ、都心部のどこにも行けなかったです。でもなんで西口に西武百貨店を、東口に東武百貨店を作ってくれなかったんだろ?
そもそも、東上鉄道(東上線)は池袋ではなく巣鴨を起点にし、小石川まで進むつもりあった。下板橋から90度折れて池袋という何もない田舎の駅を基点にする羽目になったところ、その池袋に武蔵野鉄道(西武池袋線)がやってきた。あっという間にターミナル駅に成長してってわけさ・・