『三河一向一揆』とは? 原因は宗教ではなく家康だった!?

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  • Опубліковано 17 гру 2024

КОМЕНТАРІ • 99

  • @山田ゆう-h9n
    @山田ゆう-h9n Рік тому

    なるほどね

  • @pinocciokun
    @pinocciokun Рік тому +2

    現代でも大学に対する自治への介入や消費税増税でもめちゃくちゃ反発するのに、増税や警察権の行使やら、今川時代から比べたら家康はめちゃくちゃな事やってくるから、そりゃ反発するよね。

  • @及川和明-l7p
    @及川和明-l7p 7 місяців тому

    話が合わない、なぜかといえば、吉良勢の中から、浪人を雇い、寺の兵糧を盗ませ、浪人が家康の家臣に見つかり、兵糧を返しに行って、事件発覚、家康を僧が恨んでいくさになった

  • @MultiFomalhaut
    @MultiFomalhaut Рік тому +4

    戦争続きで疲弊した民衆が、統治者の家康に反発しということですね。今回の大河のストーリが納得できました。

  • @gracemntya
    @gracemntya Рік тому +5

    本当に楽しい動画ありがとうございます。おかげで歴史が楽しくなりました。一日も早く体調を整えて、これからも楽しく学べる動画の配信をお願いします。

  • @miocockatoo
    @miocockatoo Рік тому

    ドラマがちょうど今この内容なので復習しにまた戻ってきました😊私のような大河ドラマ好きの歴史素人がみたくなる時に既にこの動画を用意されてある武士道さん、さすがです

  • @lx1125
    @lx1125 Рік тому +1

    まぁそもそも皆さんご存知の通り一向宗は別の宗派で真宗なんだよね本当はw
    一番可哀想なのは200年以上もずっと真宗=一向宗って言われ、何も悪くないのに侍達から後ろ指を刺される本物の一向宗の人達だよw

  • @IndianCurryinJapan
    @IndianCurryinJapan Рік тому +10

    めちゃくちゃ勉強になりました、ありがとうございます!

  • @三宅猫之助
    @三宅猫之助 Рік тому +13

    神坂次郎さんの本で「鷹狩り中の家康が崖下を通ってるとき、浪人が上で用を足していて小便を引っかけられた。浪人が寺に逃げ込んだので引き渡しを要求したら『家康が不入の権を踏みにじるぞ!』と騒ぎになり、なんやかんやで大規模一揆になった」という説が紹介されてました。史実かどうかはさておき、本作の家康なら似合いそうな気がします。

  • @akihiro8811
    @akihiro8811 Рік тому +2

    なるほどね〜。歴史って面白い!

  • @ミラけん-p4k
    @ミラけん-p4k Рік тому +1

    ちょうど今回の大河の内容ですね

  • @坊ほい
    @坊ほい Рік тому +3

    一揆方の蜂屋さんの子孫が、NHKの家族に乾杯にでてましたね。

  • @はりきたかし
    @はりきたかし Рік тому +2

    良く分かりました、一揆を起こした人たちは宗教的な集団じゃなくて、その時の家康の治政に対して反対していたようですネ😅🙁🙁😫☹️

  • @nemunemu44
    @nemunemu44 Рік тому +3

    以前仏教史の先生に聞いた話でも似たようなことをおっしゃっていました。1400年代末~1500年中ごろの一向一揆(後の時代の名称)は宗教色は薄く、ミニチュア都市国家の機能を持っていた寺院やその周辺地域の政治的対立の色合いが濃かったと。
    ところで、本願寺(一向宗)は1602年頃に「お東とお西」に分裂しますが、この時「お東」に土地を与えて分裂を決定的なものにしたのは家康だったそうです。

    • @kato-takehito
      @kato-takehito Рік тому

      この「西本願寺」と「東本願寺」、おそらく近畿以外の人は、平安京の西寺・東寺と混同している人がかなり多いと思いますよ。

    • @古橋-n9b
      @古橋-n9b Рік тому +2

      歴史を各国の経済状況を調べてみると、新しい見方ができますね。三河の一向一揆も三河の国の経営を見てみたら面白いかもしれませんね。

  • @kokansetuitamu
    @kokansetuitamu Рік тому +17

    一向宗、元祖家系ラーメンみたいな話をしていたかと思ったら、営業方法はポテトも一緒にいかがですか販売だった。

  • @marineye1103
    @marineye1103 Рік тому +1

    本地垂迹ですね!

  • @chiekoasai
    @chiekoasai Рік тому +69

    僧籍です。浄土宗や浄土真宗は、従来の仏教の修行法で悟りに至るメソッドを、何回か転生して修行を積まねば目的を果たせない「難行道」に位置付けています(これ自体は当時の常識からも外れない)。こうした従来型の修行のハードルの高さを克服するため、『無量寿経』に説かれていた「阿弥陀仏の名を口にすれば、いまのその命の尽きるときすぐに悟りの浄土に至らせる」という阿弥陀仏のマニフェストに注目し、これに従って念仏をとなえるメソッドを「易行道」と位置付け、宗派の根幹に据えています。つまり、他の宗派のメソッドも最終的に悟りに至るものであることは認めつつ「うちらのメソッドの方が『すぐに』往生できまっせ」ということをウリに押し出した感じです。

    • @currylove
      @currylove Рік тому +7

      わかりやすい解説ありがとうございます😊

    • @たまてばこ-y8t
      @たまてばこ-y8t Рік тому +10

      インスタント化されたんですね。本来は時間を掛けなきゃ作れないラーメンを、お湯を注ぐだけで似たようなものが出来上がる感覚?

    • @chiekoasai
      @chiekoasai Рік тому +7

      @@たまてばこ-y8t 悟る為に本来かかる時間を「よこざまに飛び超える (横超といいます)」ことを志向する点において、まさしくご指摘の通りです。

    • @chiekoasai
      @chiekoasai Рік тому +12

      【浄土宗と浄土真宗の相違につき補記】法然の教えには「自分の意志により、努力して念仏をとなえる」「数をこなす」という自力的な要素が残っている点が指摘されます。いっぽう親鸞は「絶対他力」を説き、悟りの浄土に至る機縁となる「信心&念仏」さえ、自分の意思を超えたはたらきにより頂いたもの、と解します。この点において親鸞の思想にはプロテスタントの予定説に近いところがあります。法然の「メソッド全振り」の教えの方が、現代人からみて「分かりやすい」と感じる面はあるやもしれません。

    • @たまてばこ-y8t
      @たまてばこ-y8t Рік тому +6

      @@chiekoasai より安易に習得できる方に人気が集まるのは現代と変わらないですね・・・

  • @はりきたかし
    @はりきたかし Рік тому +1

    本證寺には、行った事あります❗️😅😅

  • @kattsunS
    @kattsunS Рік тому +11

    とても勉強になりました。参考文献の神田千里著『宗教で読む戦国時代』、興味深いので読んでみようと思います。
     東三河の住人として、
    「三河一向一揆って言ったって、あれ東三河は関係ないから!
     こっちは曹洞宗の勢力が圧倒的に強いから一揆は起こってないし、西三河だけでやっててね!」
    と対岸の火事のように思ってたんですけど、宗教勢力圏の問題じゃないのですね。あの段階で東三河はいまだに今川氏の勢力圏だったからこそ安泰だったわけだ。
     確かに東三河田原出身の戸田忠次ですが、東三河武士の御多分に漏れず彼の実家は曹洞宗なのに、何故か最初は一揆側に加担してるのですよね?
     田原戸田氏と岡崎松平氏が婚姻関係、同盟関係にあったことで疑いをかけられたために家康側に反旗を翻しましたが。
    一揆が、信仰心だけをもって一致団結していた集団では無い証左と言えるのではないでしょうか。

  • @engawanoneko2435
    @engawanoneko2435 Рік тому +10

    実は家康さん
    後の天正壬午から小牧長久手後の秀吉との和睦までの戦争続きの時期も三河に対してかなり厳しい統治を行ってたりするんですよね

  • @usai21
    @usai21 Рік тому +18

    武士道さんのご解説の通り、三河一向一揆はあまり宗教色はないという見方も史家の間にはあるようですね。
    家康の家臣団が一揆側に付いたのは信仰的な背景じゃなくて、一向宗の寺院側が武士達に金を貸し付けていて、家康と寺院サイドが敵対した時に借金の証文を盾に武士達を味方に付けたという背景もあります。
    (三河武士の借金が多かったのは武士道さんのご解説のとおり今川との戦いが長引いたこともあるかも知れません。)
    なので、信仰的な背景より金銭的な背景に着目するのもおもしろいかと思います。

    • @Kaito5327
      @Kaito5327 Рік тому +5

      『日本霊異記』にもあるように、寺から借りたものを返さないと地獄に墜ちるという考えもあったかと思われます。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому +5

      松平一門の深溝松平は、家康から「徳政令で寺からの借金はチャラにしてやる」ってお墨付きもらって、頑張って一揆と戦ったのに、和睦の後になって水野信元から「やっぱり借金は返さないといけなくなっちゃったから、利子は免除するから元本だけは少しづつでも返そうね」って手紙を貰ってるんですよw
      家康「あんなに頑張らせたのに・・・、僕の口からは言えない、叔父さんお願いします!」
      信元「・・・・・・、お、俺が言うの?」
      本作の元康君ならこんな情けないシーンを期待したいところw

    • @usai21
      @usai21 Рік тому +2

      @@kattsunS 水野信元は和睦の仲介役として家康の出しちゃった徳政令の扱いに苦慮していたようですね。
      家康も和議の後に借金の取り扱いに未だゴチャゴチャ言っている本願寺サイドにキレて弾圧したという解釈もありますね。

    • @ソラ-k3e
      @ソラ-k3e Рік тому

      お寺からの借金がらみと!!!お寺から借りた金返さないと地獄に落ちるw まじかー。これは本当にありそう。リアル。
      お寺側に松平の家臣たちが造反してついたのは借金問題があったとして、お寺と松平が対立した原因はお寺からは税を取らないみたいな決まりに反して、松平が米を強奪したことなんですかね。戦で、お寺も民草も松平も疲弊している中で松平が力に訴えたので強い反発が出た、と。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому

      @@usai21 さん はい。私も「借金の取り扱いに未だゴチャゴチャ言っている本願寺サイドにキレて弾圧」説を支持します。
       そもそも、本願寺側が主張する「寺内の不入権」とはどんなものか? なんですけど、その時、その地を支配している領主が許可を出して「お墨付き」を与えるからこそ意味を持つわけですよね。実際に松平広忠や今川義元に対しては、本願寺側は頭を下げて「お墨付き」をもらいに行ったようです。
       が、家康に対しては??? もらいに行ってなかったのでは? という疑いがあります。
      本願寺「今川様からお墨付きもらってるから、家康に頭下げる必要ないよね。」
      家康「あ、そう! 俺を新しい領主として認める気がないのね。じゃあ俺も不入権なんか認めません。」
      一揆の発端はこんな感じだったんじゃないかなあと、想像しています。

  • @daama1223
    @daama1223 Рік тому +4

    本多忠勝って桶狭間の戦い時は未だ13歳だったよな。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому +2

      そうですね。今大河の本多平八郎は厨二病を患った反抗期全開のヤンキー中学生のようでw、
      個人的に気に入ったキャラ設定です。

    • @知花信
      @知花信 Рік тому +3

      ぼくの田舎 一三祝いってあるけど
      13歳=元服って 七五三みたいな感じ

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому +1

      @@知花信 さん なぜか、そういう習俗に憧れがあるなぁ~・・・

  • @佐藤イチロー-u2p
    @佐藤イチロー-u2p Рік тому +2

    大河ドラマでは、蓮如上人と武田晴信との関係も注目している。

  • @engawanoneko2435
    @engawanoneko2435 Рік тому +14

    宗派変えについてですが
    特定の宗派に属するという考えは檀家制度を整えた近世以降に強くなったものなので眉唾なんですよね
    当時の寺社勢力の感覚としては単に主君としての寺社から家康に出戻ったという方が実態に近そうです

  • @かほるちゃん
    @かほるちゃん Рік тому +3

    昔々学生の時に歴史の授業では「一揆」としか習っていなかったような気がします。

    • @kato-takehito
      @kato-takehito Рік тому +1

      いや、それは逆に研究が進んでいなかったからかと。

    • @かほるちゃん
      @かほるちゃん Рік тому +1

      @@kato-takehito あ、そうか。なるほど!

  • @jodasow
    @jodasow Рік тому +1

    一向宗は「異安心」を否定しますし、垂迹思想が一般的だった当時おいて「神祇不拝」を唱えたむしろ珍しい部類です。法然の浄土宗では護摩を焚くような密教要素の取り入れもありますが、真宗にはそういうのはありません。
    法華宗との宗教戦争で京都が丸焼けになり、このとき一向宗が勝ったのでしばらく法華宗徒が京都への立ち入りが禁止になったりとか色々ありました。

  • @kato-takehito
    @kato-takehito Рік тому

    加賀は百姓の持ちたる国、と北陸を百年も支配したり、大坂の本拠地では断続的に10年も信長と戦っていたり、尾張伊勢の国境では信長の弟を攻め滅ぼしたり、で、その報復で万とも言われる戦死(虐殺)者が出ても、大坂が信長と最終和睦するまで戦い続けた。それが一向宗、一向一揆。
    それと比べると、やはり、ちょっと違う感じがしますね。
    もっとも、一向宗が信長と本気で戦ったのは、大坂が信長を仏敵認定したためだからですが。

  • @genji744
    @genji744 Рік тому

    一揆側は広忠、義元恩顧の者達で今川と切って織田に付くことに対して許さなかった者達ですよ。

  • @青野司
    @青野司 Рік тому +1

    この時代は、神仏習合じゃなかったんですか?

  • @hv3274
    @hv3274 Рік тому +3

    特定宗教を名指しするのは当時は今以上に危ういし、神仏を恐れるのが一般的な価値観で一向宗が一揆を先導して神君に弓引いたとは流石に書けないと思う。

  • @shion.y9358
    @shion.y9358 Рік тому +8

    鎌倉殿を見てきた者としては、裏切ったのに許してもらえてる道理が分からないのですが、これも時代なのですかね笑

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому +4

      たぶんですが、『鎌倉殿』の権力者ほどの「権力」を、「実力」を、「戦力」を、その時の家康は持ち合わせていなかった、のは間違いないと思います。
       「妥協せざるを得なかった」というのが実情かと、想像します。

    • @怠惰な貧乏神
      @怠惰な貧乏神 Рік тому

      鎌倉殿「裏切ったな?軍事力行使してお前の身内皆殺しにしてお前の勢力基盤は他のやつに任せるわ」
      若き家康「裏切ったな?…お前処分するために軍事力ぶつけたいけどそんな力ないし、そもそも土着のお前以外にお前の勢力基盤のやつら従わんし、許すから仲間になってや!」
      なお、晩年の家康は力も頭脳も段違いに向上したから、裏切るどころか裏切りそうなやつを先に潰せるまでになった

    • @kato-takehito
      @kato-takehito Рік тому +2

      信長も身内や家臣の裏切りを許してるんですよね。柴田勝家もその一人だし。
      戦国の世はそこら中で強き者になびき、裏切りが当たり前という酷いセカイですから、そんなので処刑していたら誰もいなくなってしまう。
      有能な人間はできるだけ再利用して残す、というのも戦国の一面ですかね。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому

      @@kato-takehito さん そう言えば、信長は松永久秀も一度は許してましたね。

  • @hisahitoh9037
    @hisahitoh9037 Рік тому +6

    いつも拝見しています。
    鳥居さんが鳥井になってますね。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому +1

      ケアレスミスですけど、戦国時代、当時の文書を読んでると、名前や地名の漢字間違いは「わざとやってるの?」って言いたくなるくらい頻出するんでwww 大目に見てくださいませ!

  • @invkn
    @invkn Рік тому +13

    宗教っていうと、私達は精神世界の領域の話と思いがちだけど、地域コミュニティの中心だったり、事実上の領主であったり、福祉団体的な役割があったり、いろいろな側面があったんですよね。
    放送大学で聞いた現代国際政治の授業で「宗教対立」というと教義をめぐる対立のようだけど、実際は宗教コミュニティ間の利害対立と見たほうがいい、と言っていたのが印象的でした。現代でもその辺は共通なのかもしれないですね。

    • @知花信
      @知花信 Рік тому +1

      経典の文字を理解させな宗教は成り立たなくなるから貧者の学校でもある。

    • @kato-takehito
      @kato-takehito Рік тому

      宗教は精神的なものだけど、教団になると維持するために経済的、政治的になってしまいますから。

  • @ソラ-k3e
    @ソラ-k3e Рік тому +3

    お寺さんには学のある人がいるから、相談に行くんだと思う。直訴する内容を紙にしたためてもらう必要もあるし。学がないと出来ない。するとお寺は相談先として真っ先に出てくる。多分。そんなこんなでお寺も絡んで一揆的な集まりができて、直訴してくる。そんな事件があって、力の衝突にも発展したって感じなんですかね、、
    戦で疲弊して日々の生活もままならんという、戦なんとかしろという不満はあったとして、松平家の家臣たちの中で親織田ト親今川っていう路線対立の衝突って、根強く残ってたりしなかったんですかね、、、それがずっと気になってる。後の築山どの、信康の話にもつながってゆくんじゃないかと。だから信長も口出ししたくなるんじゃないかと、、

  • @ハンニバルバルカ-v6v
    @ハンニバルバルカ-v6v Рік тому +2

    御館の乱に似た感じですかね?三条手切で反上杉景勝派(景勝の強引なやり方に反発)が生じて対抗馬として上杉景虎を担ぎ上げて景勝派と景虎派で内部分裂をした争いの様な。

  • @鷹-o6l
    @鷹-o6l Рік тому +4

    武士道さんこんばんは😎
    今回も興味深いですね。
    そうみたいですね。"宗教で団結した武装集団" というより、"武装集団がたまたま一向門徒" でした、みたいなね。
    信長も一向宗が嫌いなのではなく、武装集団と化して反抗してきたからこそ危険視したわけで。石山本願寺にも雑賀衆が助力したりしてますし。
    私は実を言うと、歴史好きな "お坊さん" なのですが、一向宗(つまり浄土真宗)・蓮如さんはそのあたり布教がウマいですね。
    ちなみにうちの宗派は浄土真宗高田派なのですが、武装集団化はしなかったので信長とも関係は良好だったみたいに学生時代に学びましたね。

  • @管釣りの紳士
    @管釣りの紳士 Рік тому +6

    宗教のことは難しいですよね

  • @中三川
    @中三川 Рік тому +1

    いっこういっきって民のみんなが不満あったから。もー我慢できないと不満爆発したのかな?現代なら暴動かな?私初めてだから謎です🐻

  • @flyback_2091
    @flyback_2091 Рік тому +2

    夏目漱石。夏目姓は、(子供の頃にもらわれて行った)養子だったはず。

  • @kutkytreyreea
    @kutkytreyreea Рік тому +2

    福井で蓮如上人の影響を強く受けた地域なので、とても興味深い内容でした

  • @ヨコハマさん
    @ヨコハマさん Рік тому +5

    「鳥井」って漢字違うと思う。
    「鳥居」が正解だよね?

  • @toshi-itou
    @toshi-itou Рік тому +8

    家は真宗大谷派なんですね
    蓮如上人は浄土真宗中興の祖って習ってるんです
    一向宗イコール浄土真宗では無い
    という説もあるようなんですが
    実際のところどう思われますか?

    • @権右衛門
      @権右衛門 Рік тому +3

      「一向宗」というのは、他宗の者が浄土真宗本願寺派(今は東本願寺(真宗大谷派)西本願寺(浄土真宗本願寺派)とに別れていますが)を指して言う言葉で、本願寺派門徒が自らのことを「一向宗」とは言いません。ですから一向宗イコール浄土真宗本願寺派と思ってましたが、そのような説があるのですか?

    • @kuni1557
      @kuni1557 Рік тому +4

      「一向宗」は元々は〔浄土〕真宗とは別の宗派の名称です。浄土宗の一派(後に時宗の一派)の名称です。
       他宗は「〔浄土〕真宗」と呼びたくないため「一向宗」という名前で呼んでいます(江戸幕府もそうです。)。〔浄土〕真宗は自らを「一向宗」とは呼びません。

    • @toshi-itou
      @toshi-itou Рік тому +4

      @@kuni1557 なるほど、他者が浄土真宗を勝手に一向宗と呼んでいたと言う理解が一番合って居ると言う事で良いですか
      一向宗は時宗だと僕が思いこんでいたのも完全な間違いでは無いのですね

    • @権右衛門
      @権右衛門 Рік тому +5

      @@toshi-itou そもそも一向宗というのは鎌倉時代の一向俊聖が創めた仏教宗派のことであったようですが、後の江戸幕府が浄土真宗のことを一向宗と呼ばせたことが三河一向一揆の時代までさかのぼらせたかもしれませんね。ただし、その時代より前、本願寺蓮如が本願寺派門徒に対し「自らを一向宗と言うな」と言ったそうですから、浄土真宗本願寺派のことを一向宗ということもあったのでしょう。私の解釈ではありますが。

    • @kuni1557
      @kuni1557 Рік тому +1

      @@toshi-itou はい,そういう理解でいいと思います。

  • @saao4131
    @saao4131 Рік тому +3

    三河一向一揆は三河武士が江戸幕府の譜代になったから、一向宗が主軸になったのではと思います。忠義の厚い三河武士が神君に楯突いたのは宗派による対立だった(それでも勝利は神君側だった)というストーリーにするためだと思います。
    実際は「どうする家康」2話で元康を狙った松平昌久の大草松平や、前々から松平宗家と対立する桜井松平家、親今川派だった西三河国人衆等が、守護不入で揉めていた三河三寺と結んで起きたことかと

  • @dindon1969
    @dindon1969 Рік тому +3

    ドラマでは一揆衆の家康との対立理由を何にするんですかね。
    義元急死直後は
    「岡崎の家族が心配だ」
    と公然とほざいてた連中が今度は、
    「今川といつまでも対立するの止めてくださいよ〜」
    とか言い出すんでしょうか?
    そりゃ一般人?は苛政をしなければ
    領主なんて誰でもいいんでしょうけど、
    領主側の家臣?が、
    「あん時は今川離脱で」
    「今度は親今川で」
    なんていい加減な言動を領主にしていいのか?
    三河一向一揆をどう描くんですかね。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому +3

      戦国時代の家臣ってそんなものですよ。
      気に入らない主君には反抗し、代わりになる人物がいれば平気で挿げ替えます。
       ドラマで描かれてる元康のような情けない、弱虫の、無能な主君だったら見限られても仕方がない。
      ただ、あの時の岡崎松平には代わりに主君として立てるにふさわしい人物がいなかったんですね。
       そういった主従関係のバランスがちょうどうまく描かれていると思います。

    • @dindon1969
      @dindon1969 Рік тому +1

      @@kattsunS
      遅レスですみません。
      元康の松平家はたしか2代続けて当主が若年死して、
      お家存亡の危機だったんですよね。
      しかも元康に代わる適当な後釜もいない。
      頼んない家康像には創作的な匂いが強いですけど、
      家臣からそういう扱いをされてしまう背景はあるわけですね。

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому

      @@dindon1969 さん もちろん! ドラマ内の家康は、ドラマのストーリーに都合の良いように作り上げられた存在です。 ですが、松嶋菜々子が言った
      「家臣や国のためならば、おのれの妻や子ごとき平気で打ち捨てなされ!」
      は、戦国の主君に求められる当然の決断です! 当り前ですよ! 妻子を思う気持ちなんぞ「私情」であり、主君という「公」の立場で「私」を優先するなんて許されるはずがありません。
       これは、現代でも同じでしょ? 総理大臣の妻子が敵国に誘拐されて「妻子の命が欲しくば降伏しろ!」って言われて、それに唯々諾々と従ったとしたら? 国民はどう思いますかね?

  • @山下哲司-t4g
    @山下哲司-t4g Рік тому +2

    一向一揆が詳しく描かれないのは、本願寺に遠慮してだと思う、現在でも漫画や小説などでは詳しく信長VS顕如の話が描かれるが、ドラマや映画では詳しく描かれることは少ない・・・現代社会においても業界では本願寺を悪く言うことはタブーな部分があると思われるが、本願寺は信長をよく言わないみたいである・・・・ことさら、江戸時代では本願寺は信長を悪く言うことで、本願寺の正当性を掲げたが、まさか家康を悪く言えない結局、江戸時代に記録の消去を本願寺側行った結果、三河一向一揆の資料の少なさになったと推測される・・・・さて、一向一揆の始まりは、戦争ばかりして領民を顧みない領主から農民達を救うため本願寺が指揮官を派遣したのが始まりだと思う、ただ、三河に派遣された指揮官があまり優秀な人物ではなかったため鎮圧されたのではないかと思う

  • @知花信
    @知花信 Рік тому +4

    実際 北陸加賀あたりで守護職を追い出して自治しとるから、あちこちで猛威を振るっていたんやろなぁ。
    越前朝倉氏も相当手を焼いていたらしいし、宣教師たちは十年戦争ってスペインに記録が残っているとか。
    麒麟が来るの時期に番組やってた記憶

  • @toshichika720
    @toshichika720 Рік тому +1

    一向一揆無い?

  • @犬犬-u7w
    @犬犬-u7w Рік тому +1

    宗教云々は最近知ったと思う
    比叡山の件もなんでそうなったのかわからんかったのでよく知りたい
    寺が武装勢力になってたから潰したのかなんだったのか

    • @知花信
      @知花信 Рік тому +1

      簡単に説明すると
      殿様とお寺を天秤にかけて
      お寺の坊さんの方が大事と家来や民が
      騒ぎ立てると殿様の立場が怪しくなる
      後白河法皇も川の流れとサイコロの出目と比叡山の坊さんは思い通りにならへんよとボヤいとるw

    • @kattsunS
      @kattsunS Рік тому

      比叡山も本願寺も、その他の大小宗教勢力も、宗教ゲリラ組織タリバンのような武装勢力であり、悪徳サラ金のような高利貸しであり、てら銭ショバ代みかじめ料をぼったくるヤクザとなんら変わらん存在でしたwwww
       ま、「てら銭ショバ代みかじめ料をぼったくるヤクザ」なのは、「寺」も「武士」も同じなんですけどねwww

  • @高須淳
    @高須淳 Рік тому +1

    三河や尾張は浄土真宗で一向宗とは別なのでは?
    一向宗は一向俊聖が開いた仏教の宗派だっと思うのですが・・・
    一向宗は坦々と同じことを繰り返すような業を行っておりその様が、
    一向一揆を起こした人たちが南無阿弥陀仏と繰り返し唱えてたから、
    一向宗みたいだという点で一向一揆って呼ばれてたと記憶していたました。蓮如やそれに連なる僧が一向宗と自称してのでしょうか?
    織田信長が戦ってたのも浄土真宗の石山本願寺だったと記憶しています。
    三河一向一揆も勝鬘寺(浄土真宗)と
    のいざこざ(兵糧米の徴収に対する強訴の定で戦になった)だったと思ったのですが

  • @takeshifujii2118
    @takeshifujii2118 Рік тому +1

    勉強不足です。

    • @コロ助でござる
      @コロ助でござる Рік тому +3

      知らんがな!!

    • @岩本猛-k9o
      @岩本猛-k9o Рік тому +1

      この世がどんなに辛く苦しくても死んで極楽浄土に行って平等に修業しようというのが浄土宗系の教えと授業で習った記憶があります。しかし良く考えれば極楽浄土の存在を誰も証明していません。本当にお釈迦さんは説いたのでしょうか?今風で云えば切り取り誇張したので現実を変革しより良い世界を創る本来の教えではないと思います。江戸時代に流行った心中も浄土宗の影響です。日本人の精神風土に蔓延った現実逃避、他力本願は為政者にとっては利用しやすかったに違いありません。