邪馬台国論争を年代論争として考える(2024年版)

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  • Опубліковано 21 жов 2024
  • あくまでも諸説の一説です。年代について考えると、こういった項目にぶち当たるという参考にしていただければと思います。
    今、動画を見ていて気付きましたが、椿井大塚山古墳と言うべきところを椿井城山古墳と言ってしまってます。年を取ると、記憶がこんな感じです。(TT)
    01.魏志倭人伝(城、柵)
    02.炭素年代法
    03.年輪年代法
    04.酸素年代法
    05.庄内式土器と布留式土器
    06.弁辰韓土器と古式新羅伽耶土器
    07.楽浪土器
    08.百済土器
    09.古越磁(原始青磁)
    10.良洞里と大成洞。木槨墓。
    11.楽浪郡の塼室墓
    12.晋式帯金具
    13.洛陽焼溝漢墓と洛陽晋墓
    14.双頭龍文鏡(位至三公鏡)
    15.三角縁神獣鏡
    16.華北東部鏡と楽浪鏡と上方作鏡
    17.箸墓古墳周濠出土の木製輪鐙(おまけ)
    #邪馬台国論争,#年代論,#考古学

КОМЕНТАРІ • 102

  • @ラピス-n1g
    @ラピス-n1g 4 місяці тому +9

    おはようございます。今日や昨日考古学や古代史に興味を持った者が有名先生の本を読むより、このチャンネルを基礎に見識知識を広げた方が良いと拝見しながらいつも思っています。ハルキーさんの積み上げのいいとこ取りで恐縮ですが、見解と言う名の偏りに気付くまで途方もない時間を要しますから。古代人は思った以上に移動し行動していて、そこから人間関係・繋がりが見えてくるものがあると思います。話は逸れますが、日本海側がハブ港であった時代にもっと日本人が興味を持っても良いと思いますし、光が当たることで地方の遺跡の保存や国家観などにも良い影響が出るのではと思う昨今です。ありがとうございます。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +4

      ありがとうございます。このチャンネルで興味をもった内容について、実際に論文を見たりして確かめるというのもありかも。私自身の見解はともかく、年代論の注目すべき項目としては、なかなか粋なところをアップしているかも。弥生時代は日本海ルートの方が先進的だったと思います。先進文化が九州、日本海、琵琶湖、東海といった感じで、やや大和を素通りして流れていく印象があります。

  • @岡上佑の古代史研究室
    @岡上佑の古代史研究室 4 місяці тому +4

    アップ有難う御座います。勉強になりますね。分からないものは敬して之を遠ざける、のが賢明ですね。科学的な手法というのは、自分で検証を放棄した時点で盲信する以外なくなってしまいますので、慎重に対応しているところがすごく共感できます。とって、ずっと判断から逃げまくっているのが私は情けないですが、古代史の射程というのが広すぎるので、やっぱり一点突破だよなぁー、と思ってみたり。笑 とにかく色んな視点があることがわかるだけでも勉強になりました。有難う御座います。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      ありがとうございます。それぞれの研究者で順序が違うだけで、時間はかかるけれど、最終的にはお互いに同じものを見るような気がします。先に着手したものとして、みんなが近道ができるよう、注目ポイントを列挙したような感じです。基本、私の説と通説と両方で語っているので、視聴者が私の説のみに染まることはないはず。学者が100年かけても出せない問題だから、私自身も気長に構える予定です。

  • @あまべまろ
    @あまべまろ 4 місяці тому +2

    ハルキーさん、4〜5回は見ましたよ。難問に挑戦する、興味深い動画をいつもありがとうございます。
    弥生時代後期から古墳時代にかけての全体的な流れを掴むのは、本当に難しいのですね。この国が生まれる過程、少しでも解明されるといいですね😊

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      ありがとうございます。このあたりの年代研究は前途多難です。でも、素人なりに疑問をもってチャレンジし、研究を続ければ、いつか納得できる答えにたどり着く気がします。

  • @ancientJapanesehistorywithMAP
    @ancientJapanesehistorywithMAP 4 місяці тому +5

    壮大な 伽藍を見るようですね!これらのことが全部頭に入って古代史を見ている武田さんは
    まるで ニュータイプのように素早く深く反応しながらガンダムを操縦しているかのようです

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +2

      ありがとうございます。(^^) でも、実際は常に背伸びしながら、情報集めています。考古学は難しいです。専門的なところがあったり、曖昧な世界だったり。いつも悩まされています。(^^)

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju 4 місяці тому +3

    ご発信いただきましてありがとうございます。確かに分母が多いほど真実に近づく可能性が高まりますね。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      いろいろな視点で見たりしています。どれか一説に確定するのは難しいのですが、いろいろ勉強しているうちに見えてくるかなと、淡い期待で勉強中です。

  • @YO-high
    @YO-high 4 місяці тому +4

    怒濤の寄りでしたね。
    出てくる証拠が証拠足り得るのは、年代の整合性が確かであるしかないからね。年代が確定出来ないのならば仮説になるしかない。
    文献と整合性を合わせて、他の証拠と合わせて確定していくのは気の遠くなるような話ですが、最近は大変面白いと思うようになりました。
    が、ワイもまだまだわからんことが多いです。とくにこの動画を100回見てもわからんだろうなぁ。 面白かったです。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      ありがとうございます。年代論になった時、注目されるであろう項目を列挙し、自分なりの見解を入れてみました。真の邪馬台国論争はこういったところにあるような気がしています。

  • @トミヤマサキオ
    @トミヤマサキオ 4 місяці тому +4

    相変わらず面白い、そして興味深い話しが多いです。ちなみに私も箸墓三世紀後半説の立場です。
    ただあの規模なら最終的に成立するのは20年はかかるのではないか?と思っています。卑弥呼死後は時期も国内が荒れた時代ですからね。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +2

      ありがとうございます。私自身は箸墓を四世紀くらいに考えているのですが、それはさておき、純粋に考古学的に考えるなら、箸墓247年説は苦しく、箸墓280年説が許容できるギリギリのラインかなと考えています。

    • @トミヤマサキオ
      @トミヤマサキオ 4 місяці тому +3

      @@takedaharuki 例えば年代決定の材料となっている古墳頂上部の特殊器台には場所による時間差が、埴輪に転化する前の物などどうも10年から20年の時間差があるのではないか?という話もありますからね。
      国が安定してから再整備なんて話しは決して否定は出来ないように思います。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      @@トミヤマサキオ 箸墓古墳に共伴する出土物に20年もの時代差がある場合、ますます年代確定は難しそうです。埴輪の場合、古い方で築造年代を見るべきなのかな。

    • @トミヤマサキオ
      @トミヤマサキオ 3 місяці тому

      @@takedaharuki そうですね、箸墓は後円墳側に特殊器台の破片が多数、前方部に埴輪に転化する直前の物がというはずなので、やはりある程度年代の幅は見るべきではないかと私は思います。
      何より普通に考えてもあの大きさですからやはり最終形になるのは時間がかかるのでは?
      ただやはり中を見ないと何も言えない点と、特殊器台の存在から古墳本体の四世紀建造は少し無理があるのではという感想です。

  • @tetsuro6733
    @tetsuro6733 4 місяці тому +3

    まさに「動画百編意自ずから通ず」ですな
    むかし三国志の偉い人が言いました

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +2

      作っている私も、繰り返し勉強しているうちに、少しづつ考えがまとまってきたような気がします。

  • @夏羽-o2j
    @夏羽-o2j 4 місяці тому +3

    朝おきてみたら動画がアップされてました❗️
    早いですね(笑)
    邪馬台国論争は深いですね
    年代 文献 発掘 風土 土器
    銅鏡などあげれきりがないですね たとえ金印が発掘されたとしても論争になります 九州殻でれば九州説が有利ですが近畿説から反論がでる 日田の鉄鏡がいい例です 近畿からもたらされたと 卑弥呼が名前ではなく、呼称なら台与はなぜ卑弥呼とならなかったのかも疑問です
    また動画楽しみです

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +2

      ありがとうございます。自分自身の考えを整理すべく、今、年代観について思っていることをひとまとめにアップしました。日田の鉄鏡。これも曹操の時代を示す遺物なので、いつか調べたいです。

    • @夏羽-o2j
      @夏羽-o2j 4 місяці тому

      返信ありがとうございます
      動画とは関係ないのですが
      自分のいる山口県萩市大井地区にはグロと呼ばれる山を石で囲む防塁跡があります 元冦の防塁とか長門城跡とか 地元民も知らなく文献もなく調査もされてないので全く不明です
      案外 こんな遺跡が日本には散らばっているのでしょうね しかしながら邪馬台国論争は盛り上がります(笑)

    • @夏羽-o2j
      @夏羽-o2j 4 місяці тому

      追伸です 萩の近くに須佐地区があり そこで採れる剣先イカをミコトイカとしてブランド化してます
      スサノオウノミコトから来てます なかなか旨いです(笑)

  • @J-history
    @J-history 4 місяці тому +5

    朝からとても濃厚な動画でした!
    わたしは箸墓古墳の築造年代については、特定を保留(放置)しています。
    とにかく、早く詳細な調査をするなりして、考古学界で統一見解を示してほしいです。
    わたしは倭迹迹日百襲姫命の薨去を260年代前半頃と考えていますから、
    箸墓古墳がそのころ築造なら「箸墓古墳が箸墓」でよいですし、もっと新しい築造なら「纒向石塚古墳などが箸墓」の可能性が高いというスタンスです。あくまでも、『日本書紀』の復元紀年優先ということで。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      「もっと新しい築造なら纒向石塚古墳などが箸墓」。さすがです。私も同じ考えです。箸墓古墳って延喜式にも載っていないから、多少のゆらぎがあっても不思議ではないと考えています。

    • @J-history
      @J-history 4 місяці тому +3

      @@takedaharuki
      私見ですが、いろいろな失敗を繰り返さない限り、あのような完成形の箸墓古墳は造れないと思っています。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      @@J-history 箸墓古墳は最初の巨大前方後円墳なのに、完成度が高い点は、私も不思議に思っています。一点、失敗点を予想するなら規模が大きすぎて、予算オーバーだったであろうなという点かな。続く西殿塚は少し小さくなっています。

  • @moto1269
    @moto1269 4 місяці тому +1

    慶尚北道の良洞里は昔、行ったことあり興味深く思いました。今回も独創的な見解ありがとうございます。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      良洞里に行ったことがあるなんて! 凄いです。私は大成洞どまりだから、まだまだです。もっと見聞を広げたいです。

  • @AtomMonado
    @AtomMonado 4 місяці тому +2

    銅鏡はサイズが気になります。魏志倭人伝の頃のサイズは、魏で製造して広めるなら公定尺24.3cmを直径にすると思います。度量衡の統一は統治の基本です。
    ところが、海洋測量体系の方が合理的であるのに、大陸中華は周代から殷の尺度(咫)約16cm~17cmを誤解して混迷させてしまった、と気づき始めて、倭人の尺度で作らせたら約30cmとなったとか。これが後に唐の大尺に採用される。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      中国でも大きな銅鏡はあるにはありますが、確かに倭の銅鏡は中国に比して大型のものが多いです。度量衡がどうなっていたのか、古墳の設計なども含め、いろいろ気になるところではあります。

  • @TAJIRI-123
    @TAJIRI-123 4 місяці тому +3

    今回の動画が、過去イチ判り易、、そうな印象です。途中で2回、意識が飛びかけましたが、、、。
    昨夜の古荘さんのライブ見てて思ったんですが、「魏志倭人伝」の情報って、「ピンポイントに卑弥呼の朝貢時代」だけじゃないかも?
    文化・習俗的には-150年~∔50年の巾、人口的に+100年~150年頃の情報か、又は盛られた感。魏志の中でも最後に纏められたのかな?まさか、後年誰かに加筆されてない?

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      ありがとうございます。今回のは特に自分の思いのままに作ったので、容赦ない内容になった気もしますが、こういう項目があるのだと、まったり楽しめる内容になっているかも。おっしゃるとおり、魏志倭人伝の内容は複数の時代の情報がパッチワークされていると思います。そう考えると、卑弥呼の住まうところと、卑弥呼の墓だけが確実に卑弥呼と結び付けられるけど、持斎とか傍国とか、果たしてほんとうに卑弥呼の時代なのかといった疑問は私にもあります。

  • @MrDeha6450
    @MrDeha6450 4 місяці тому +2

    土器と鏡でだいたい動画の8割ぐらいだった印象がありますが、武田さんはいずれも学会の通説とされているものより後の時代のものと考えられているようですね。改めて見てみると、土器も鏡も一気に語ろうとすると情報量が多すぎて整理がつかなくなるようにも思えます。ただ、いずれにしても黄巾の乱~孫呉滅亡の戦乱の影響も、土器や鏡にもあった可能性を考えてみたいです。例えば位至三公鏡の文様が簡略化されたのは、三国志のうち続く戦争で職人の技術が失伝したみたいなことが頭に浮かびましたが、私の妄想にとどまることではないと思いたいです。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      私自身の年代観は「昔の考古学会の年代観」なので、たぶん、日本以外の方に同じ年代観の人がいる感じです。以前から、晋式帯金具、楽浪墓、洛陽焼溝漢墓の動画を作ろうと思っていたのですが、待ちきれず、一本の動画としてアップしました。鏡の変化は確かにおっしゃる通りの理由のような気がします。

  • @golpie
    @golpie 4 місяці тому +2

    段々、説が進歩していますね 凄いものです

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      ありがとうございます。ライフワークなので、毎年、考えを深めていっています。なかなか難しい問題です。

  • @takeshi492
    @takeshi492 4 місяці тому +1

    お疲れ様です、中国と半島の土器と照らし合わせて3〜4世紀の絶対年代を推測する試みはもの凄く大変だと思います。この様な動画を無料で視聴できるありがたみを心から感じています。ありがとうございます。
    甲敬澈氏が古式新羅伽耶土器と布留0を280年程度と評価していたのは意外でした、彼は須恵器MT15を西暦530年頃と評価していた人物なので中期から後期にかけての年代観は僕と全然違うなぁなんて思っていたのですが 笑
    布留0の開始時期は僕の感覚に近いので意外でした。
    甲氏は半島の土器編年は日本のものに比べてまだまだ粗く流動的なことも多いと言っていたことも印象に残っていますのでそこは今後の成果を注目したいと思っています。
    武田先生は通貨と伴う土器に関しては鵜呑みにしないという姿勢なのですね、ごもっともと思います。
    個人的には王莽の貨泉のみ混ざりの無い出土の場合は多少の推測を許してもいいのかなと、割と緩めに考えています。大和Vの始まりが亀井遺跡で貨泉と伴っていますので…
    僕は邪馬台国はあまり興味がないのでどちらかというと大和Vと庄内の境目の方に興味があります。
    庄内式と大和Vは地域別に併存していた時期があるのではないかというのが僕の想像なんですがそれはまあ、邪馬台国やこのチャンネルのコンセプト的には的にはどうでもいいことですね 笑

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      申敬澈。古式新羅伽耶土器については、西晋の両耳付短頸壺の影響と考えているようです。そのため、そういった見解になっていますが、結構、賛否両論があります。韓国でも諸説あるのですが、確かに前半は納得できても、後半は納得できないなど、丸々受け入れられる学者はいないです。貨泉。まさにこれが良い例です。後の時代まで流通しています。さすがお詳しいですね。庄内式と大和Vの併存。確かに考えるべきことかも。

    • @takeshi492
      @takeshi492 4 місяці тому +1

      @@takedaharuki 西晋の両耳付短頸壺のお話は掘り下げると面白そうですね、このチャンネルの知見に触れると自分もまだまだ勉強不足だなぁと思う次第ですσ(^_^;)
      貨泉は結構中世の遺構からも出てくるんですよね…学者は同伴した出土物と総合的に判断して出土地の年代を判定しているみたいですが、この辺は文字情報だけではわからない微妙な研究者の判断が入るので不確定要素を結構含んでいるとは思います。
      おっしゃる通り古墳時代前半は甲氏に近く後半は白石氏に近く、その逆は受け入れ難いです 笑
      UA-cam界隈だとどうも240年説と360年説の両極端が主流なのはちょっと不思議です…

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      @@takeshi492 両耳付短頸壺。それが古越磁の影響で誕生したことになっています。四世紀説だと東晋から直接、三世紀末説だと燕経由みたいな違いがあるようです。247説は卑弥呼の墓にしたいから。350年説は安本美典の影響かな。

  • @user-kattak
    @user-kattak 4 місяці тому +2

    室墓について韓国でも考古学的再調査が必要ではというニュースが最近出ているから年代編年が再定義必要が確かにあると思いました

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      一国論に終わらない、アジア的な視点での年代観が必要と私も思います。

  • @ushun11
    @ushun11 4 місяці тому +1

    豪華舟盛りをドン、でお腹と相談しながらいただいてますが、ところどころサビも効いてて大変美味しゅうございます

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      ありがとうございます。私の見解の方はともかく、個々のテーマは俎板に乗せねばならないテーマと考え、世に知らしめようとしています。(^^)

  • @黄金のオルダ
    @黄金のオルダ 4 місяці тому +1

    年代論によって所在地は変わるので九州か畿内か断言できないが、邪馬台国とヤマト王権が連続していることは確かだと主張している動画をこの間ほかで見ました
    ハルキーさんも同じ考えですか?

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      邪馬台国とヤマト王権が連続。私もそう考えています。邪馬台国論争では、便宜上、邪馬台をヤマタイと読みますが、当然、私自身もヤマトと読むと考えています。ただ、私自身は邪馬台国東遷説です。現代の考古学会の年代観だったら、プレ邪馬台国東遷説とか伊都国東遷説とか、そういうったあたりになる気がします。しかし、それらの説とは年代観の違いがあるだけで、結構、共感するとことがあります。

    • @かたひらかたひら-s1l
      @かたひらかたひら-s1l 4 місяці тому

      失礼します。
      邪馬台国東遷とすると何故記紀に邪馬台国の事や卑弥呼、台与のことが全く書かれなかったのか?
      その謎が解明されない限り、邪馬台国ではなく例えば投馬国など邪馬台国とは別の九州(宮崎県、鹿児島県)にあった国(もしかしたら邪馬台国連合には属していたが不満もあった)が東遷したとも考えられます。
      そうなると他の人の動画のように神武東征は邪馬台国より後の時代の物語なのかそれともホントに紀元前の事なのか。。。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      @@かたひらかたひら-s1l そういったあたりは100年たっても水掛け論です。なので私は年代論に重きをおいています。そんなのは憶測だと非難するのなら、あなたの言っていることも憶測に過ぎないのではありませんか? 憶測を一切認めぬなら、憶測が入る発言はせず、そういった会話には加わるべきではないと思います。

  • @thornym
    @thornym 4 місяці тому +3

    異論に気を遣う必要は何も無いと思いますけどね。「嫌われる勇気」が無いと何もできませんから。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      そうかも知れませんね。

  • @隆一西
    @隆一西 4 місяці тому +1

    こんにちは!今回もマニアックな上半期考察を何度も観返させて頂きましたw改めて、魏志倭人伝や邪馬台国時代に思いを馳せれました😚特に伊都国の今宿五郎江遺跡や壱岐の原の辻遺跡のどちらからも楽浪系土器が出土してますので、壱岐−三雲貿易の信憑性も高いですね( ・ิω・ิ)なお、出雲地方になりますが、7/12㈮〜9/8㈰まで古代出雲歴史博物館で荒神谷遺跡など出雲の弥生時代展があるみたいですので、一応お知らせ致します(¯―¯٥)笑

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      年代論について1年の決算的な部分があって、少しマニアックになってしまいました。(^^; 邪馬台国論争については、専ら、今回の内容みたいなことを考えています。ありがとうございます。出雲にも行きたいです。行きたいところがいっぱいあって、いろいろ悩みどころです。

    • @隆一西
      @隆一西 4 місяці тому +1

      ​@@takedaharuki確かに今年は古代旅候補地が多いですよね(¯―¯٥)余談ですが昨日のLIVEでコメントさせて頂いた、青谷上寺地遺跡の少年の名前考えまして本日応募予定ですwなお青谷上寺地朗さんの名刺もスゴく気になります(笑)

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      @@隆一西 お、楽しみですね。名刺はネットで検索すると出てきます。博物館でもらいました。

    • @隆一西
      @隆一西 4 місяці тому +1

      ありがとうございます😚後日、応募した名前を公表させて頂きます(¯―¯٥)なお、上地朗さんの名刺イケメン&ユニークですね🤣

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      @@隆一西 どういう名前に決まるのか楽しみですね。

  • @sunsun2181
    @sunsun2181 4 місяці тому +3

    面白かったです。箸墓って280年くらいなのですね。それは、あるあるな気がします。240年代だと、早すぎる。第7代孝霊天皇だから、240年だと早いなあ・・・。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +2

      私自身は箸墓を320年くらいに考えていますが、最近、ようやく畿内説の中の280年説派が目立ってきました。以前は247年派に遠慮していた感じ。九州説の立場で言うのもなんですが、考古学的な矛盾が小さくなるので、これはこれで良い傾向のような気がします。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 4 місяці тому +1

      @@takedaharuki さん 次、ぜひ、天照大神の墓がどこか、研究してください。
      東小田峰遺跡 っていうのでは、どうですか? ガラス璧が出てるんですよ(ガラス璧は、金印並みのハイグレード出土品)。あと、でっかい鉄器も。
      よろしくお願いします。
      ウガヤフキアエズの墓も探しているのですが・・・。糸島市の住宅の下にありそう(苦笑)。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому

      @@sunsun2181 東小田峰遺跡。興味深い遺跡です。ガラス壁を持っているということは中国通の王で、甕棺墓で清白鏡が出土しているから、奴国王ちょい前くらいの王かな。

  • @journey3451
    @journey3451 4 місяці тому +2

    考古学が適当な感じがしてきて最近嫌いになってきています。
    動画を見ていても年代間の「幅」がありすぎて現代人の感覚では
    いいかげんな感じを受けてしまいます。
    特に有史以降には向かない学問なのではないでしょうかね。。。(あくまで個人の感想です。)
    炭素の測定とか自分がそれを知ってから進歩しているのか??みたいな印象です。
    ハルキーさんの別の動画の疑問に賛成です。
    この学問は他の科学的なものを拒んでいるのでは?と勘繰ります。
    確かにお金を生み出す学問ではないので夢とロマンが拠りどころだと思いますが、
    「1500年前から2000年前のしろもので。。。」なんて説明がありますが500年も
    差があって科学的の要素が感じられない。つまりは500年は無価値という判断なのでしょうかね。。。(皮肉)
    今の世の中、AIを使って文献とか歴史書とか世界比較、考古学的な資料の物品比較などで科学的な見地を
    入れて欲しいと思うけど、じゃあ誰がやるのかともめそうですよね。
    結局じゃあ誰がまとめるが残るので永遠に片付かないのかもしれません。
    また、こういうスタートアップには金が付かないでしょうね。
    ということで結論はハルキーさんの功績は高いです。
    引き続きよろしくお願いいたします。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +2

      ありがとうございます。年代観の幅がある割に、年代が確定となってしまっている点に不安を感じています。今、箸墓280年説が目立ってきましたが、その説は昔からありました。でも、箸墓247年説に遠慮している印象でした。考古学会は権威に遠慮する傾向が特に強い世界にも見えます。

    • @user-kattak
      @user-kattak 4 місяці тому +2

      考古学がというよりマスコミとかの印象の影響でしょう、多くの考古学の研究者は邪馬台国論争は中立的考えをしています

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      @@user-kattak 確かにまともな考古学者は邪馬台国についてはノーコメントが基本かも知れません。昔は特にそうでした。

  • @ダリウェン
    @ダリウェン 4 місяці тому +3

    そもそも実在するんでしょうか?
    最近は実在を疑っています。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 4 місяці тому +6

      さすがに、こうるさい文書主義の中国に記録にあるので・・・・。
      むしろ、どうも卑弥呼の墓とかって、戦国時代とか大昔に、知らないまに破壊されて、田畑にされているんじゃないかなと思います。鏡も、鋳つぶして、鍬とかになってるかも?
      室町時代とか江戸時代に、「古墳は重要」とかっていう意識はないですからねえ・・・。

    • @megane-tetugaku
      @megane-tetugaku 4 місяці тому +5

      ​@@sunsun2181
      文献に残してあるので、実在はしたでしょうね。
      言われる通り古代の古墳や墓は、潰された可能性は高いですね。戦乱の鎌倉から戦国時代までの間にも陣を張る場所にはもってこいですから。
      確か、戦国時代だったかどこかの古墳に陣を張るって記録があったみたい。
      それこそ、砦や城の基礎に使われたかもね?

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      実在したと思います。

    • @Hayato_Takezawa
      @Hayato_Takezawa 4 місяці тому +2

      安閑天皇の皇后の墓とされる古墳が、高屋城として砦にされていたそうな。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      @@Hayato_Takezawa 高屋城。戦国ファンには特に有名な城です。古墳めぐりをしていると結構、城めぐりも兼ねてしまっています。

  • @kinjisi
    @kinjisi 4 місяці тому +1

    投稿者の倭人条に対する信用度は何%ぐらいなんだろう。所在に関する一家言の持ち主は100パーセントということなんだろうかな。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      100%なんてことを言う人がいたら、たぶん、その人は『気違い』だと思います。そういった憶測で他人を評価すること自体、たいへん失礼なことだと考えています。まず、そういった点から考えを改め、よくよく考えてから書き込みをすべきと私は考えます。邪馬台国の所在地について考えたら、倭人伝が100%正しいと考えているというのは、私には理解できません。

  • @sunsun2181
    @sunsun2181 4 місяці тому +1

    三国時代の中国の鏡が、日本国内で一番出土しているのはどこなのですか? その場所を整理したら、その真ん中あたりが、邪馬台国じゃないんでしょうか?

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +3

      鏡の量で考えると、弥生時代は九州、古墳時代は畿内となるので、時代が確定すれば、おのずと邪馬台国が分かるということになります。

    • @greendolphin7085
      @greendolphin7085 4 місяці тому +2

      下記の動画、結構参考になりました。 ご参考まで😊
      鑑からみた古墳時代のはじまりと山陰
      しまこだチャンネル
      ua-cam.com/video/rjb1VpG3qHM/v-deo.html

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      @@greendolphin7085 確かにその動画は専門的で参考になります。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 4 місяці тому

      @@greendolphin7085 さん リンクありがとうございます。勉強します。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 4 місяці тому +1

      @@takedaharuki さん 九州は単純に私がプレ皇室と呼ぶ分が多く、それは天皇家のものです(日向三代)。前漢、後漢の鏡です。内行花文鏡なんかは八咫鏡と同じデザインです。
      邪馬台国は、三国時代だから、三国時代特有のデザインの中国産の鏡が多いところが、邪馬台国本拠地な気がします。
      ちょっと勉強してみます。

  • @袈裟丸平三
    @袈裟丸平三 4 місяці тому +1

    チックルなんて覚えてるやついねえよw(いた

    • @takedaharuki
      @takedaharuki  4 місяці тому +1

      思わず唱えた呪文。思い出しました。確かにチックルです。子供の頃に見てました。二人は双子。似てない双子(血が繋がっていないから)。