形而上学と構築主義の誤り【新実在論#2】

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  • Опубліковано 25 січ 2025

КОМЕНТАРІ •

  • @Taaa1216
    @Taaa1216 2 роки тому +8

    正直、本を読んでも中々理解が難しい内容ですが、ここの動画だと楽しく拝聴・拝見できます。動画主様に感謝です。次回の内容がとても楽しみです。

  • @ichikawatomo2862
    @ichikawatomo2862 2 роки тому +3

    素晴らしい動画、とても勉強になります。次回も楽しみにしています!

  • @hisakohasegawa4120
    @hisakohasegawa4120 2 роки тому +1

    まさに今マルクスガブリエルの新実存主義を読んでいるのですが、まったく頭に入ってこなくて打ちひしがれていました😅
    とっても分かりやすい動画で本当にうれしいです!
    そしてナレーションの声がまた良いんですよね😊

  • @naokiwabisabi2109
    @naokiwabisabi2109 2 роки тому +5

    観念自体も構築物に含まれるという自己矛盾…ってのはなかなか理解が難しいですね……。
    ただ、ここまではとても納得感があり、個人的な感覚とも矛盾がなくて楽しいです!
    続き楽しみにしています!

  • @ぱちゅみりんン
    @ぱちゅみりんン 19 днів тому +1

    カント先生のものすごいところは、宇宙に果てがあるか、という問題について、望遠鏡などを用いずに、思考実験だけで解を示したことです。哲学が科学技術に勝利したのです。

  • @シュガー-e2i
    @シュガー-e2i 2 роки тому +1

    ありがとうございます!

  • @洲山由紀子
    @洲山由紀子 2 роки тому +1

    二項対立脱構築主義から、新実在論の着実を目指すんですね。

  • @tormikinvauac
    @tormikinvauac 2 роки тому +3

    興味深く拝聴しました。 カントは、存在しないものを「物自体」と規定しているのではなく単に人間の感性では現象界で認識できないと言っているのだと思いますが、いかがでしょうか。

  • @stwe9059
    @stwe9059 2 роки тому +2

    参考文献を動画概要に乗せていただけるとさらなる学びにつながるのでありがたいです

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  2 роки тому +1

      次回のシリーズよりそのようにするようにいたします!
      今回に関しては主に『なぜ世界は存在しないのか』をはじめとして『わかりあえない他者と生きる 差異と分断を乗り越える哲学』『新実存主義 』『つながり過ぎた世界の先に』『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』あたりを参考にしています。
      その他の哲学者についての話は記憶を参考にしているので、誤りがあったらごめんなさい。

  • @洲山由紀子
    @洲山由紀子 2 роки тому +1

    二項対立の脱構築ですね。着実に、現実に成立していればいいですね。

  • @田舎の百姓-f3c
    @田舎の百姓-f3c 2 роки тому +5

    言語(概念)の発祥と論理的考察(たとえば哲学)は、密接に関連しているよう思えます。
    言語がなければ、「リンゴがある」と考えることも無かったでしょう…😄

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  2 роки тому +2

      同意です。
      将来何らかの方法で言語を超越したコミュニケーション(や思考)が発展したときに、古来からある非言語感覚(悟りとか)との関係がどう結ばれるのか、個人的に非常に興味があります。
      私は感覚的にその世界には居たくないんですけど笑

    • @田舎の百姓-f3c
      @田舎の百姓-f3c 2 роки тому

      @@哲学チャンネル
      あまりに繋がりすぎると、会話の楽しみか無くなってしまいますね!😄

  • @かか-u7u1j
    @かか-u7u1j 2 роки тому +1

    構築主義の主張自体が構築主義の自己矛盾、という点が良く分からない
    構築主義の主張自体が構築物である、という言明は単なる構築主義の主張の再言明にすぎないのでは?
    つまり、矛盾ではなくただのトートロジーではないのでしょうか?
    もちろん、それでは不満であるという点には同意しますが

  • @Karbosque
    @Karbosque 2 роки тому +1

    構築主義だと認識、知覚、理解できる全ては表象でしかあり得ず、結果的に全てが真理たり得ない(ここに自己矛盾がある)
    ってことですかね?

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  2 роки тому +3

      『認識、知覚、理解できる全て』はある範疇の話であって(この中の真理は知りうる)
      その外側の何かに関してはどう足掻いても知り得ない。というニュアンスかと思います。

  • @heroshihezaki3699
    @heroshihezaki3699 2 роки тому +2

    私の頭の悪さからか、形而上学も構築物のように聞こえました
    また、自家循環的で言ってることがちっちぇえことの指摘と思いましたが、構築主義も構築物だから自己矛盾というのは(よくある話の流れの気がしましたが、)矛盾点がわかりませんでした
    何にしても、触れることであったり、ものの表皮やら表面を意識するのが大事なのかな、と思いました
    全然どうでもいい話ですが、日本語だと認識は認める識と書くのだから、表出するが識から認められない物事を脱認識的物事として、識を何とするか、から考えてみるのも楽しいかも知れないな、と思いました

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  2 роки тому +2

      正直ですね、私自身もガブリエルの構築主義に対する反駁には少しだけ理解が及んでいない(納得がいっていないのか理解できていないのかは謎)ところがあります。
      そもそも構築主義の性質的にそれをまるっと反駁しようとすると「構築主義も構築物だから自己矛盾」と同じような循環論法に陥る危険性がありまして、ガブリエルもここについて必要以上に突っ込んでいない印象です。
      それよりも構築主義的な認識論を一旦脇において新しい認識論を模索するということ自体に価値があって、かつその議論をするためには暫定にでも構築主義を否定しないといけないので、必要に迫られてある材料で否定を試みている気配を感じます。

    • @heroshihezaki3699
      @heroshihezaki3699 2 роки тому

      @@哲学チャンネル なるほど、新実在論には、ポスト認識論的なものが含まれている、と考えてもよい、ということでしょうか。
      構築主義の段ですが、循環論法というのはなるほどではあるのですが、
      例えば、木の外殻(表面)は年輪なんかを見るに円を結んでいるように見えるが、ハエの軌跡は円を結ぶ(閉じた円)というより、弧を描いている(開いた螺旋)ように見えて、外殻がハエの体以上のものにはどうも見えない、という屁理屈対応させてください
      返信ありがとうございました

    • @philos-m8v
      @philos-m8v 2 роки тому +1

      形而上学では普遍的なもの、絶対的なものを想定しているので、構築主義とは真逆かなと思いました

    • @heroshihezaki3699
      @heroshihezaki3699 2 роки тому

      @@philos-m8v 理屈の上では上位の概念がある、程度に思っていました
      ご指摘ありがとうございます

  • @tosiasaitou3722
    @tosiasaitou3722 2 роки тому +1

    構築主義では、意識の向かう対象の存在を、意識内の表象として片付けようとします。しかし、そもそも意識とは、主体から対象へと向かう志向性をその性質として内在させているからこそ、意識と呼ぶことが出来るのです。対象の存在を意識内に還元させた場合、そこに志向性を持った本来の意識が形成されることはありません。
    対象の存在を意識内の表象として語ろうとする構築主義の立場は、意識という性質の立場を根本から履き違えた誤った理論ということになります。

  • @パーパテレーヌ
    @パーパテレーヌ 2 роки тому +4

    正直、形而上学も構築主義もそんなに間違っているとは思えない。おおまかに、モノが先で認識が後に表れると考えるか、認識が先でモノが後に表れると考えるかの違いなのではないか。

    • @KEN-xe1ib
      @KEN-xe1ib 2 роки тому

      哲学は理を突き詰める学問なので、最終的には一般的な主張の間違いを指摘し、新しい主張を提唱することになります。
      哲学者でない人は自分の好きな主張を信じたらいいと思いますよ。

    • @パーパテレーヌ
      @パーパテレーヌ 2 роки тому +1

      @@KEN-xe1ib 哲学者であれば理を突き詰めるのでしょうけど、自分の好きな主張を信じるという点においては哲学者も一般も変わりないと思います。

    • @KEN-xe1ib
      @KEN-xe1ib 2 роки тому +1

      @@パーパテレーヌ
      哲学者は自分が好きかに関わらず、主張を批判的に思考出来ます。それを突き詰めて考え、否定のしようが無いほど検証した説を自分の説として提唱します。それが自分が好きであるかはあまり関係ないと思います。フランスの思想家ガッサンディは物理学者、数学者であり、哲学者としては唯物論の大家でしたが、同時に熱心なカトリック教徒でした。

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  2 роки тому +8

      横レス失礼します。
      パーパテレーヌ様の主張もKEN様の主張もどちらも正しいと思います。
      ガブリエルの目的は新実在論の主張であって、厳密には形而上学と構築主義の否定ではありません。
      しかしながら新実在論を主張するにあたってそれまでの哲学を否定するのは義務というか必須項目なので、慣例に則ってそのような主張をしていると考えても間違いではないと思います。
      なので、私の目線から見ても「この理論を以て形而上学と構築主義が反駁された」とは到底思えません。
      ですので、重要なのは形而上学と構築主義に対する否定ではなくて、それに対しての対案(新実在論)です。
      拙い動画ではありますが、以降の動画もご覧になっていただけると幸いです。