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徹底的行動主義と機能的文脈主義に強い関心を抱いているので、プラグマティズムの解説楽しみです。
韓国で見ています!ありがとうございます!
「記号抜きで何かを認識することができない」はたしかにそうかもしれません。一方、デカルトの「我思う〜」の面白さは、認識するはたらき(意識、認識主体)に注目した点にあると思います。ここで重要なのは、認識作用=意識ではないと言う点にあります。りんごを食べた時に「りんごの味がする!」とか認識しようがしまいが、考えようが考えまいが、(それはそれとして)その時のまぎれもない経験、甘酸っぱいと言おうがなんと表現しようが、それとは関係なく、そこで起きている経験があるのは事実だと思います。この経験の主体を意識と言い表しているんだと思います。つまり、デカルトは認識作用(「りんごだ!」とか「甘酸っぱい!」とか)を真理であるとは主張していないのではないかと思うんです。そうではなくて、認識をとらえている経験主体を中心に据えてすべてをとらえようとする世界観を提示したのではないでしょうか。そして、そのような経験主体を絶対的なものであると主張するなら、そこは反論する人がいても当然だと思います。意識は「純粋に存在する内面的なものではなく、外界に影響される外在的な存在」とするパースの主張は共感できます。意識という概念でとことん語るとするなら、そこには外も内もなくなってしまうと思います。外界から切り離されて存在しうる絶対的な内面的意識も、意識と切り離されて存在する絶対的な外界も証明できない。
宗教心理学の側面からしかウィリアムジェームズを学んでいないので、次回が楽しみです!
デカルトとかカントとか哲学なんて何が何だかさっぱり分からん!というタイプの私ですが、このプラグマティズムというのはものすごく素直にすんなり納得がいきます
投稿ありがとうございます。プラグマティズムという言葉しか知らなかったのですが、他の考え方とどのような関係性にあるのか、少し理解ができた気がします。次も楽しみです
世界史を勉強している身からすると、とても感慨深いですね
絶対的な真理が存在しないという、絶対的な真理が存在してますね🤔
自己矛盾文ってやつだね笑
分かりやすすぎて泣きそう
うら覚えですが、一般に言われる「演繹推論」と「帰納推論」に加えて、一種の創造的推論の形式として「abduction」(奪取推論とでもいいますか?)を加えたのがパースさんだったかな?と覚えております。その後松本清張がその「abduction」を、多分無意識に、その小説のプロットに使っておるのを発見して衝撃を受けました。パースは真に天才的な哲学者だと思い、好きです。tychism(偶然主義)の着想とその展開とか、率直に素晴らしいと思います。
腐った手段によって実現される理想なんてのは、それだけの価値しかないってことだな。
「リゾーム的」なプラグマティズム的真理、何かコンピューターのニューラルネットワークに似ているなと素人感覚で感じました。大袈裟かもされませんが、その後アメリカでコンピューター産業が勃興する下地になったのではと感じました。最近、テレビでリチャード・ローティの話しを聞き、プラグマティズムの流れがバースから連綿と続いているのだと感じると同時に、プラグマティズムって何なのか知りたかったので、大変助かりました。お話し面白かったです。
パースというとプラグマティズムの始祖としてなんとなく謎めいた人物という印象でしたが、本動画を見て、ウィキペディアを読み直し、松岡正剛の解説(1182夜)を読んだ結果、とんでもない重要人物であるように思えてきました。プラグマティズムだけでなく、現象学の始祖でもあり、分析哲学の始祖でもあり、科学哲学の始祖でもあるという「始祖の巨人」であったと。まあ、文学でいうなら、アドガー・アラン・ポーのような存在なんじゃなかろうか。不遇な後半生なども含めて。思索対象が多岐にわたるだけでなく、言っている内容がいちいちもっともであり、まったく古びておらず、むしろ後継者たちよりも新しく、現代哲学の最先端のようにも思えます。現代哲学の主要な課題は、パースが蒔いた種から発芽し、枝分かれし、百数十年でそれなりに実った果実を回収して、パースが提起した問題を解決することなのではないか。そして、今ならそれもできそうな気が少しはしますね。「記号的思考」によるデカルト批判は当然として、松岡によれば、さらに「アブダクション(仮説形成)」という概念が重要らしい。人間の知的活動の本質は「推論」にあり、推論の様式としては、「演繹」「帰納」の他に「アブダクション」がある。私の理解では、「演繹」や「帰納」は静的な推論であり、そこに至る前駆的あるいは遡及的な推論が「アプダクション」であって、そこで必要となるのが「活動=プラグマ」みたいなことなんだろうと解釈します。つまり、動きがなければ何ごとも認知することはできないと。一般に「プラグマティズム」といえば「実用主義」というような世俗な理解をされがちですが、認識作用の中核に「プラグマ」があるというのが、プラグマティズムの本質的な理解なのだろうと推測します。
「アブダクション」という概念はシリーズ通して意図して利用していませんが、プラグマティズムの根底をずっと支えているものです!
絶対的な真理など存在しないが、一時的に絶対的な真理は存在するという真理が存在することは絶対的な真理である。とか…
それは結局「絶対的な真理、あるじゃん」と批判されてしまうんですよね。相対主義もそうで、「絶対的に正しいものなどない」というテーゼは絶対的に正しいのではないか、と言われてしまう。
…とか。
そういう論理の穴状態が常に存在しているという自己言及も含めて絶対的真理が存在しないと言っているのだと解釈してます。
おはようございます♪
絶対的な真理とは矛盾である。科学的な話であるが宇宙空間の果てを見つけるという問が矛盾ですね そこには果てがあるという仮定も、果てなどなく無限に空間が続くという仮定もまた矛盾なのです。即是矛盾こそが絶対の真理という事になります。
「政治的プラグマティズム」と言えば「目的のための手段の正当化」によって、テロも黙認されたりしないか?
「絶対的な真理はない」は「現実世界には絶対的な真理はない」とか「絶対的な真理はないとプラグマティストである私は考える」と言うべきでした。絶対的な真理は本当はありますよ😂
科学が絶対的真理を体現しているという思想は当時はもちろん、未だに根深いものがあります。一方で「相対性理論」などは、科学の理論でありながら、そのような絶対的真理がないというものではないでしょうか。そして私は、「相対主義」という語の「正しいものなどない」という意味が嫌いです。それはラディカルな相対主義です。「視点によって正しいものは異なり得る」という「相対性理論的相対主義」「穏当な相対主義」が好きですね。
徹底的行動主義と機能的文脈主義に強い関心を抱いているので、プラグマティズムの解説楽しみです。
韓国で見ています!ありがとうございます!
「記号抜きで何かを認識することができない」はたしかにそうかもしれません。
一方、デカルトの「我思う〜」の面白さは、認識するはたらき(意識、認識主体)に注目した点にあると思います。
ここで重要なのは、認識作用=意識ではないと言う点にあります。
りんごを食べた時に「りんごの味がする!」とか認識しようがしまいが、考えようが考えまいが、
(それはそれとして)その時のまぎれもない経験、甘酸っぱいと言おうがなんと表現しようが、それとは関係なく、そこで起きている経験があるのは事実だと思います。この経験の主体を意識と言い表しているんだと思います。
つまり、デカルトは認識作用(「りんごだ!」とか「甘酸っぱい!」とか)を真理であるとは主張していないのではないかと思うんです。
そうではなくて、認識をとらえている経験主体を中心に据えてすべてをとらえようとする世界観を提示したのではないでしょうか。
そして、そのような経験主体を絶対的なものであると主張するなら、そこは反論する人がいても当然だと思います。
意識は「純粋に存在する内面的なものではなく、外界に影響される外在的な存在」とするパースの主張は共感できます。
意識という概念でとことん語るとするなら、そこには外も内もなくなってしまうと思います。
外界から切り離されて存在しうる絶対的な内面的意識も、意識と切り離されて存在する絶対的な外界も証明できない。
宗教心理学の側面からしかウィリアムジェームズを学んでいないので、次回が楽しみです!
デカルトとかカントとか哲学なんて何が何だかさっぱり分からん!というタイプの私ですが、このプラグマティズムというのはものすごく素直にすんなり納得がいきます
投稿ありがとうございます。プラグマティズムという言葉しか知らなかったのですが、他の考え方とどのような関係性にあるのか、少し理解ができた気がします。次も楽しみです
世界史を勉強している身からすると、とても感慨深いですね
絶対的な真理が存在しないという、絶対的な真理が存在してますね🤔
自己矛盾文ってやつだね笑
分かりやすすぎて泣きそう
うら覚えですが、一般に言われる「演繹推論」と「帰納推論」に加えて、一種の創造的推論の形式として「abduction」(奪取推論とでもいいますか?)を加えたのがパースさんだったかな?と覚えております。
その後松本清張がその「abduction」を、多分無意識に、その小説のプロットに使っておるのを発見して衝撃を受けました。
パースは真に天才的な哲学者だと思い、好きです。tychism(偶然主義)の着想とその展開とか、率直に素晴らしいと思います。
腐った手段によって実現される理想なんてのは、それだけの価値しかないってことだな。
「リゾーム的」なプラグマティズム的真理、何かコンピューターのニューラルネットワークに似ているなと素人感覚で感じました。大袈裟かもされませんが、その後アメリカでコンピューター産業が勃興する下地になったのではと感じました。最近、テレビでリチャード・ローティの話しを聞き、プラグマティズムの流れがバースから連綿と続いているのだと感じると同時に、プラグマティズムって何なのか知りたかったので、大変助かりました。お話し面白かったです。
パースというとプラグマティズムの始祖としてなんとなく謎めいた人物という印象でしたが、本動画を見て、ウィキペディアを読み直し、松岡正剛の解説(1182夜)を読んだ結果、とんでもない重要人物であるように思えてきました。
プラグマティズムだけでなく、現象学の始祖でもあり、分析哲学の始祖でもあり、科学哲学の始祖でもあるという「始祖の巨人」であったと。まあ、文学でいうなら、アドガー・アラン・ポーのような存在なんじゃなかろうか。不遇な後半生なども含めて。
思索対象が多岐にわたるだけでなく、言っている内容がいちいちもっともであり、まったく古びておらず、むしろ後継者たちよりも新しく、現代哲学の最先端のようにも思えます。現代哲学の主要な課題は、パースが蒔いた種から発芽し、枝分かれし、百数十年でそれなりに実った果実を回収して、パースが提起した問題を解決することなのではないか。そして、今ならそれもできそうな気が少しはしますね。
「記号的思考」によるデカルト批判は当然として、松岡によれば、さらに「アブダクション(仮説形成)」という概念が重要らしい。人間の知的活動の本質は「推論」にあり、推論の様式としては、「演繹」「帰納」の他に「アブダクション」がある。私の理解では、「演繹」や「帰納」は静的な推論であり、そこに至る前駆的あるいは遡及的な推論が「アプダクション」であって、そこで必要となるのが「活動=プラグマ」みたいなことなんだろうと解釈します。つまり、動きがなければ何ごとも認知することはできないと。
一般に「プラグマティズム」といえば「実用主義」というような世俗な理解をされがちですが、認識作用の中核に「プラグマ」があるというのが、プラグマティズムの本質的な理解なのだろうと推測します。
「アブダクション」という概念はシリーズ通して意図して利用していませんが、プラグマティズムの根底をずっと支えているものです!
絶対的な真理など存在しないが、一時的に絶対的な真理は存在するという真理が存在することは絶対的な真理である。とか…
それは結局「絶対的な真理、あるじゃん」と批判されてしまうんですよね。
相対主義もそうで、「絶対的に正しいものなどない」というテーゼは絶対的に正しいのではないか、と言われてしまう。
…とか。
そういう論理の穴状態が常に存在しているという自己言及も含めて絶対的真理が存在しないと言っているのだと解釈してます。
おはようございます♪
絶対的な真理とは矛盾である。科学的な話であるが宇宙空間の果てを見つけるという問が矛盾ですね そこには果てがあるという仮定も、果てなどなく無限に空間が続くという仮定もまた矛盾なのです。即是矛盾こそが絶対の真理という事になります。
「政治的プラグマティズム」と言えば「目的のための手段の正当化」によって、テロも黙認されたりしないか?
「絶対的な真理はない」は「現実世界には絶対的な真理はない」とか「絶対的な真理はないとプラグマティストである私は考える」と言うべきでした。
絶対的な真理は本当はありますよ😂
科学が絶対的真理を体現しているという思想は当時はもちろん、未だに根深いものがあります。
一方で「相対性理論」などは、科学の理論でありながら、そのような絶対的真理がないというものではないでしょうか。
そして私は、「相対主義」という語の「正しいものなどない」という意味が嫌いです。それはラディカルな相対主義です。
「視点によって正しいものは異なり得る」という「相対性理論的相対主義」「穏当な相対主義」が好きですね。