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この当時、最後の10系寝台の活躍を見れたのは今思えば幸せです。上野からの夜行急行は高崎線経由秋田行きの「鳥海」福井行きの「越前」金沢行きの「能登」の三羽烏が旧型客車+10系寝台の組み合わせで鉄道ファンの注目でした。特に「能登」は寝台車多めで、往年の夜行寝台急行の風情を醸し出していましたね。上野駅の薄暗い地平ホームとの相性も抜群で、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していました。
この車掌長さん、夜行で急行だと特に停車時間を予めよく案内していましたなあ。津軽3・4号、おが3・4号、🌠天の川、この鳥海…他に秋田区持ちはあったかな。
1982年だと、自分まだ幼稚園生でした。上野寄りから1号車と2号車がB寝台、3号車がA寝台、4号車がグリーン車、5号車~10号車が自由席で、平日でも自由席は高崎ぐらいまでは必ず4人掛けと言った感じでしたか?
旧型客車再末期の頃かな?鳥海は寝台車の両数が少な目で、荷物車と自由席が多かったんですよね。パレットの積み降ろしが懐かしいです。
水上6分停車で補機連結
この頃、小6で豆鉄道博士でした。鉄道ジャーナルの鳥海ルポは面白かった。
秋田の車掌は夜行は停車時間言ってませんでしたかね。鳥海のこの放送も何度かききました。あとおが2ですね。渋川に止まるのが、上越慣れの私でもナゾでしたが、今にして思うと工業都市・渋川への東京終電なんですね。後の夜行佐渡は渋川通過沼田停車でした。もっとわからないのが天の川の3時半小千谷停車で、あの街にこんな夜行需要があったんですかねえ
早朝の停車駅は新聞・荷物・郵便などの扱いが影響しています。
@@railway-sound 鳥海は新津、新発田、村上あたりに新聞運んでましたね。
@@railway-sound ただ、天の川って荷物扱ってましたっけ?
新聞輸送の絡みでしょうな。今でも小千谷IC付近で早朝に新聞店のクルマが関東から新聞を持ってくるバンやトラックを待ち構えていますな。
発車ベルと汽笛
天井の扇風機が何とも言えないですね。東日本(まだ国鉄ですが。)で、直流区間の機関車は、やはりこの色なのですね。夜間の停車時間がかなり長いですが、機関車のつなぎ替えなどがあるのでしょうね。
82年9月の録音時はEF64で高崎でもEF64同士の機関車交換、水上では補機の連結もあったかと思います。半年前の3月は写真の通りEF58でした。夜間の停車は新聞など荷物の積み下ろしですね。旧型客車で運行のこの種の夜行列車の重要な役割は新聞・郵便などの輸送でした。
かつて大社駅まで乗り入れていた「だいせん」にも郵便車がついていましたが、そういう役目もあったのですね。上り下りのすれ違いにしては多いし、長いと思いました。もうこの頃は鳥海の走っていた区間は、すべて複線だったのでしょう。
停車時間を前もって教えて頂ける車掌さん珍しいじゃないかなあ!国鉄時代にこんな車掌さん珍しい方じゃないかなと思います!
国鉄時代には停車時間をいうのが普通でした。「ホームは右側で僅か30秒の停車です」。「降り口は左側で5分止まります」といった感じ。
サムネの画像は函館のオハフ33ですよね
残念ながら違います
写真に35系の車内の写真がありますが、鳥海に35系は付いていなかったハズです
なんで長時間停車なんですか(・・?
機関車の交換や荷物の積み込み積み下ろし作業の為です。
この当時、最後の10系寝台の活躍を見れたのは今思えば幸せです。上野からの夜行急行は高崎線経由秋田行きの「鳥海」福井行きの「越前」金沢行きの「能登」の三羽烏が旧型客車+10系寝台の組み合わせで鉄道ファンの注目でした。特に「能登」は寝台車多めで、往年の夜行寝台急行の風情を醸し出していましたね。上野駅の薄暗い地平ホームとの相性も抜群で、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していました。
この車掌長さん、夜行で急行だと特に停車時間を予めよく案内していましたなあ。
津軽3・4号、おが3・4号、🌠天の川、この鳥海…他に秋田区持ちはあったかな。
1982年だと、自分まだ幼稚園生でした。上野寄りから1号車と2号車がB寝台、3号車がA寝台、4号車がグリーン車、5号車~10号車が自由席で、平日でも自由席は高崎ぐらいまでは必ず4人掛けと言った感じでしたか?
旧型客車再末期の頃かな?
鳥海は寝台車の両数が少な目で、荷物車と自由席が多かったんですよね。
パレットの積み降ろしが懐かしいです。
水上6分停車で補機連結
この頃、小6で豆鉄道博士でした。鉄道ジャーナルの鳥海ルポは面白かった。
秋田の車掌は夜行は停車時間言ってませんでしたかね。鳥海のこの放送も何度かききました。あとおが2ですね。渋川に止まるのが、上越慣れの私でもナゾでしたが、今にして思うと工業都市・渋川への東京終電なんですね。後の夜行佐渡は渋川通過沼田停車でした。もっとわからないのが天の川の3時半小千谷停車で、あの街にこんな夜行需要があったんですかねえ
早朝の停車駅は新聞・荷物・郵便などの扱いが影響しています。
@@railway-sound 鳥海は新津、新発田、村上あたりに新聞運んでましたね。
@@railway-sound
ただ、天の川って荷物扱ってましたっけ?
新聞輸送の絡みでしょうな。今でも小千谷IC付近で早朝に新聞店のクルマが関東から新聞を持ってくるバンやトラックを待ち構えていますな。
発車ベルと汽笛
天井の扇風機が何とも言えないですね。東日本(まだ国鉄ですが。)で、直流区間の機関車は、やはりこの色なのですね。夜間の停車時間がかなり長いですが、機関車のつなぎ替えなどがあるのでしょうね。
82年9月の録音時はEF64で高崎でもEF64同士の機関車交換、水上では補機の連結もあったかと思います。半年前の3月は写真の通りEF58でした。夜間の停車は新聞など荷物の積み下ろしですね。旧型客車で運行のこの種の夜行列車の重要な役割は新聞・郵便などの輸送でした。
かつて大社駅まで乗り入れていた「だいせん」にも郵便車がついていましたが、そういう役目もあったのですね。上り下りのすれ違いにしては多いし、長いと思いました。もうこの頃は鳥海の走っていた区間は、すべて複線だったのでしょう。
停車時間を前もって教えて頂ける車掌さん珍しいじゃないかなあ!国鉄時代にこんな車掌さん珍しい方じゃないかなと思います!
国鉄時代には停車時間をいうのが普通でした。「ホームは右側で僅か30秒の停車です」。「降り口は左側で5分止まります」といった感じ。
サムネの画像は函館のオハフ33ですよね
残念ながら違います
写真に35系の車内の写真がありますが、鳥海に35系は付いていなかったハズです
なんで長時間停車なんですか(・・?
機関車の交換や荷物の積み込み積み下ろし作業の為です。