日本史年表 西暦587年 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 25 чер 2024
  • このチャンネルは、大学受験生や日本史を学び直したい人のためのチャンネルです。
    今回の動画をご覧いただけば、587年に起こったことや、蘇我氏、物部氏のことがよくわかるようになりますので、ぜひ最後までご覧ください。
    動画作成の励みになりますので、よろしければ、高評価やチャンネル登録をお願い致します。
    【この動画のトピック】
    日本史年表 西暦587年 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
    【日本史年表の動画一覧】
    ▼538年と552年 仏教公伝
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦538年と552年 仏教公伝
    ▼527年 筑紫国造磐井の乱
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦527年 筑紫国造磐井の乱
    ▼512年 大伴金村が任那四県を百済に割譲
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦512年 大伴金村が任那四県...
    ▼478年 倭王武が宋に遣使、上表文を奉り、安東大将軍倭王の称号を受ける
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦478年 倭王武が宋に遣使、...
    ▼463年 吉備氏の乱(難関大学で出題あり)
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦463年 吉備氏の乱(難関大...
    ▼239年 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦239年 邪馬台国の卑弥呼が...
    ▼107年 倭の国王帥升らが後漢に貢物を送る
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦107年 倭の国王帥升らが...
    ▼57年 倭の奴国王が後漢に貢物を送り、金印を授かる
    ↓↓↓
    • 日本史年表 西暦57年 倭の奴国王が後漢...
    【この動画の内容】
    仏教が正式に百済から日本にもたらされたあと、その仏教を支持する崇仏派の蘇我氏と、仏教を支持しない排仏派の物部氏が親子二代に渡って争っていました。父親の蘇我稲目と物部尾輿の対立では決着がつかず、子供の蘇我馬子と物部守屋のときに決着がつきました。
    ヤマト政権の中で、蘇我氏は大臣、物部氏は大連として権力をふるいました。お互いの存在が邪魔だったと思いますが、なんの理由もなしに対立するのは良くないので、仏教という新しく入ってきたものを理由に対立をしたと考えられます。蘇我氏が仏教を取り入れるべきだと主張したのに対して、物部氏は、日本には古来から日本の神々がいらっしゃるので仏教なんて必要ないよと言って反対しました。これが崇仏論争です。
    物部氏には、中臣氏という味方もいました。中臣氏は、のちに中臣鎌足を輩出する家柄です。この時は、朝廷の祭祀の仕事を担当していました。つまり、日本古来の神々を祭る仕事をしていたということになります。仏教が重宝されれば自分たちの仕事が奪われかねませんから、仏教を取り入れることに猛反対するのは当たり前ですね。
    崇仏論争が行われているさなかの587年に、時の天皇である用明天皇が崩御しました。物部氏は自分たちに都合の良い皇子を天皇に立てようとします。それを阻止するために蘇我氏がその皇子を攻め滅ぼしました。そしてついに、蘇我馬子が軍隊を率いて、物部守屋を討とうと守屋の屋敷を襲ったのでした。物部守屋は大連という姓を与えられ、朝廷の軍事や警察の仕事を担当していました。そのため、物部氏の軍隊はめちゃくちゃ強いのです。蘇我氏の軍隊は、物部氏に反撃され、窮地に追い込まれてしまいます。その時、蘇我氏の陣営に加わっていた人物がいました。厩戸皇子です。彼は聖徳太子とも呼ばれていますね。彼はその窮地を脱するために、4本の木から四天王像を彫り、「もしこの戦いに勝たせてもらえたのならば、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済いたします」と誓願しました。そして、木の上から指揮を執っていた物部守屋に、蘇我氏の軍隊が放った一本の矢が彼の体を貫き、守屋は絶命します。その結果、蘇我氏が大勝利をおさめました。厩戸皇子はその後、現在の大阪の地に四天王寺を創建しました。物部氏が滅びた後は、蘇我馬子が絶大な権力を持ち、政治を行っていくことになります。天皇も馬子に都合の良い天皇が擁立されることになります。そして、仏教に関してはというと、蘇我氏により日本初の飛鳥寺が建立されました。その後、仏教は日本にどんどん浸透していきます。豪族たちはこぞって氏寺を建立するようになり、立派な氏寺を作ることが権力の象徴のようになっていきます。
    大まかな流れはここまでになります。
    この後は、歴史好きな人の一般常識として、そして大学受験としても知っておきたいところを見ていきましょう。
    前にも少し触れましたが、物部氏は大連という姓で、蘇我氏は大臣という姓でしたね。姓とは、大王が豪族たちに授けたもので、家柄や地位を表す称号です。連というのは、大王家とは祖先が違う、つまり血のつながりがない家柄で、大王の直属の家来のような氏族です。連の氏族の中で最も有力な豪族が大連となります。大連は一つの家柄とは限りません。同じ時に2つの氏族が大連に任命されることもあります。一方、臣というのは、大王家から分かれたとされる氏族です。大臣も、臣の中で最有力の氏族が任命されます。わかりやすく考えれば、江戸幕府の譜代大名と親藩みたいなものですね。連が譜代大名で、臣が親藩です。大連と大臣はほぼ対等な地位にいると言ってよいでしょう。大臣の方が大王家から分かれたので地位が上であると思ってしまう人もいるでしょうが、大連は大王の直属の家臣ですから、大王の後ろ盾があります。だから、大連もかなり大きな力を持っていたようです。
    私が、日本史を高校で習っていたころ、蘇我氏の出自を調べたことがあります。
    蘇我氏は、仁徳天皇の時代に、百済から渡って来た渡来人だったとする説がありました。この説から考えれば、蘇我氏が崇仏派の筆頭になったのも頷けますね。仏教は渡来人が持ち込んだものです。蘇我氏が仏教を大切にするのは当たり前ですよね。ところが、現在では、『蘇我氏が渡来人』という学説は完全に否定されているとのことです。えーっ、ていう感じですよね。蘇我氏=崇仏派を示す非常にわかりやすい説だったのに、非常に残念です。
    蘇我氏の出自の学説は、他に2つありますが、動画の内容と離れてしまいますので、今回は省略させていただきます。
    最期に、蘇我馬子に敗れた物部守屋の一族はどうなったのでしょうか。推古天皇の世でも物部からの人物が役人として出てきていますので、完全には没落していないようです。『勝てば官軍負ければ賊軍』と言われるように、物部守屋が賊軍となったことで、やはり物部という名前を名乗っていると朝廷に居づらくなりますよね。そこで、天武天皇の時代からは、物部の宗家は、石上という名前に変えて政界に進出してきました。物部氏の氏神が石上神宮なので、そこから名前を取ったと言われています。大学入試では、奈良時代後期に現れた石上宅嗣が有名ですね。彼は自分の旧宅を図書館として、学問好きの人たちに公開しました。これが日本初の公開図書館である芸亭です。
    #歴史 #日本史 #年表 #大学入試 #学び直し #社会人 #蘇我 #物部 #推古天皇 #石上神宮 #守屋 #馬子 #厩戸皇子 #聖徳太子

КОМЕНТАРІ •