岩手県奥州市水沢【阿弖流為 母禮 慰霊碑】〈蘭陵王の舞〉令和四年十月二十四日

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  • Опубліковано 18 жов 2024
  • 2022年10月24日、岩手県奥州市水沢に御座います【阿弖流為 母禮 慰霊碑】にて、初の「陵王の舞」をご奉納させて頂きました。
    古代この地は、東北北上川流域を日高見国といい、大和政府の勢力圏外にあり、独自の生活と文化を形成していました。朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄・毛人・蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、
    八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。
    坂上田村麻呂は、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願しました。
    しかし、公家たちの反対により二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。                 
          
    私は、予てより蝦夷(エミシ)の歴史に触れたいと思っていました。この羽黒山に登り景色を見渡すと、アテルイとモレ達は、どんな思いだったのだろうかと涙が込み上げてきました。
    時代の背景には、色々なことがあり、言葉にできない程の重みを感じます。私は、この地の郷土を愛し、守り抜こうと戦った蝦夷(エミシ)のアテルイ•モレを始めとする先人の方々へ
    初めての陵王の舞奉納は、蝦夷(エミシ)の地にと決めておりました。
    陵王の舞には、士気を高めるという意味合いがあります。
    まだ荒削りですが、思いを込めてご奉納舞させて頂きました。
    ありがとう御座いました。心より感謝お礼申し上げます。

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