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このチャンネルのナレーションは、とても聞きやすくて良いです。
色々納得できる話です。特に、頼朝が流人だった頃は兎も角、征夷大将軍になっても政子が正室のままであったことは、政子の実家の格が低くないことを示すという話は、重大だと思います。比企家の娘が頼家の正室になれなくて、北条の娘政子が頼朝の正室だったわけですから。政子の側室に対する行動のエピソードで惑わされて、もっと肝心なこの点に気が付きませんでした。
時の風栄華は何時も留まらず風の流れに枯れゆく華よ
単に 頼朝の外戚だから執権になれたわけではなく それに相応しい 実力家格 人脈を有していたと
北條寺に家系図有ったと思います。平姓で書かれていたと思います。
平直方はそもそも平家嫡流で伊勢平氏より家格が上。源氏は直方に繋がることで関東に地盤を持ち坂東平氏の棟梁になった。直方子孫の時政の家格はかなり高い。武士でなく将軍の家格だから戦場働きしないのも当然であり、直轄の所領が小さいのも当たり前
頼朝は河内源氏の嫡流でなく、父、義朝の簒奪で源氏棟梁になってるので家格的には弱い。義朝が坂東平氏の首領だった上総広常と繋がりが深く、その縁で関東平定出来たのに広常を排除。北条が頼朝にマウント出来たのは家格だけでなく、広常切りも原因
~と言われているだと何でも言えてしまうので、出典を明示して頂いた方がより良くなると思います。
小土豪説の根拠→官位を得ていた形跡がない。実力があったという根拠→漢字すらかけない御家人が多い中、見事な文書がたくさん残っている。土豪時代の建物跡地の発掘の結果、経済的に豊かであっただろうと想定されている。実際に証拠があるので、文官的な能力も経済力もあったのでしょうね。
上総氏、千葉氏、三浦氏、畠山氏より上という証拠は全くないですねただ、伊東氏との婚姻など伊豆地方の有力土豪の一つだったのではないでしょうかまた、平家の一門とはいっても平家自体が源氏に対抗させるべく白河法皇によって取り立てられた新興武家集団であり、坂東に基礎地盤はなかったでしょう坂東平氏ともかなり早く袂をわかっており、坂東平氏は源氏の勢力下にいたのでしょう坂東平氏が平家に付き従ったのは義朝が平家の負け亡くなってからであり、平家というより後白河法皇に与していたと思った方がよいでしょう頼朝挙兵の時に京都で大番をしていた一族の方が本来機を見て敏な対応をしていた一族なのかもしれません
頼朝の死後に安定した政権を保ってたのも時政の実力の賜物ですね。その後の執権を継いだ義時、泰時を見れば納得ですね。
時政の血筋は、鎌倉幕府を滅ぼした室町幕府以降に分かりにくくなって(されて?)しまったけれど、姻戚関係や行動のファクトを時系列で見ると平直方子孫で間違いないと思います
北条重時直系益時の子孫です。足利尊氏の妻は北条登子の実家です。実家の近くに願成就寺があり、そこにある北条家のお墓は地中に埋めてありました。足利家にとって都合悪い事があるのか?北条家である事を隠す為なのか?私の家は鎌倉幕府滅亡後は北条ではなく別の苗字に変えて公家で続きますが、謎が多いです。
足利尊氏にしてみたら、北条の娘婿の立場で鎌倉幕府を滅ぼしているんですから、都合が悪いでしょうね。しかし、墓を地中に埋めるって初めて知りました。ありがとうございました。
平家の系譜なのは自称だから怪しいってのをWikiで読んで信じ込んでたけど違うのかこういうのはちゃんとした本読まなきゃいかんな
北条遠江守時政、官位は従五位の下でしたかね?
そうですね!従五位下です。
我が杉並・阿佐ヶ谷には大宮八幡宮(頼義)と宝仙寺(義家、今は中野に移転)という秀郷流や奥州に地理的に縦に繋がるラインが有り、前者は鈴木三郎・九郎、坂東武士を熊野に連れていった先達・中野殿との関連が深そうです。あさかや氏もカリスマを持った旦那として、連れて行かれてます。義経の系譜に思えてならないのですよね。中野殿の属した一門・江戸氏は、鎌倉時代に港湾権を奪われ衰弱したようですが、ソレに、今回の時政・比企・河越の事情が絡んでいそうで、興味深いです。宝仙寺は太田道灌の豊島氏攻略に阿佐ヶ谷・馬橋(馬走)の道を譲る形で鬼門の中野坂上に移りますが、すぐ近くに中野長者・鈴木九郎(三郎の子孫)の成願寺が有ります。鈴木九郎は、突然商人として現れたかのよう語り継がれていますが、元々、大宮八幡・宝仙寺の雑色だった多田源氏に支えられた、この地の実力者だったように思えます。図書館で「堀ノ内の謎」という謎本に出遭い、10年ほど追って来たテーマです
清和源氏の中の摂津源氏の家系に似ているね。清和源氏の本来の嫡流は長男系の摂津源氏だけど、朝廷に近い場所での活躍を重視した京武者の家系だったので、家格は高いが、地方への土着度が低いので武士団としての小規模だった。
色んなお寺などに残された家系図が違うので、時政が平家一族ではなくただの土豪が最近の学者の定説だと他の所でキッパリ言われました。何故?どうして?が多くなりモヤモヤしていましたが、納得のいく答えがここにありました。
所々家系図が違うのはそうなのですが、それを踏まえても平家一族の可能性が非常に高いですね。この辺りについては、本動画でも参考とした野口実氏の『北条時政』が詳しいのでぜひ!
えっ、マジで平直方の系譜だったの!(同じく直方の子孫を自称していた熊谷氏との違いは…)
直方の系譜に、平家に近い時家が婿に入ったことで、源氏とも関係のある京武者の系譜という他の坂東武士では及ばない家格が出来上がったという感じですかね。
熊谷は本当に直方子孫だったのか疑問です
北条氏は、伊勢平氏と比較的には血統は近いけど、伊勢平氏ではないよな。この動画では、平正衡の兄の平維盛(駿河守)の子孫だとしているけど。。。それは源平合戦の100年後に関東で成立した軍記物語『源平闘諍録』に記載がある「伊勢平氏の祖・平維衡の子孫」という記述から解釈しているのか?『源平闘諍録』は「平維衡」を弟の「平維衡」と間違って記述しただけではないのか?
こんばんは
せめて、りく(牧の方)だけでも尼寺へ押し込めていれば…。時政はどちらかと言うと、りくにそそのかされた部分があるようだし…。
そうですね。平賀朝雅擁立については牧の方勢力が主導したといえるので牧の方こそ封じるべきだったのかもですが。結局は時政の妻でしかなく、時政が許される以上牧の方も許されたというところなのでしょうね。
@@rekishock いやいや、それでも牧の方の罪は重く、「北条得宗家の家政を私物化した罪」として厳しく断罪されるべきです。マジで、トウというアサシンによって抹殺されて然るべきものがあった。
このチャンネルのナレーションは、とても聞きやすくて良いです。
色々納得できる話です。特に、頼朝が流人だった頃は兎も角、征夷大将軍になっても政子が正室のままであったことは、政子の実家の格が低くないことを示すという話は、重大だと思います。比企家の娘が頼家の正室になれなくて、北条の娘政子が頼朝の正室だったわけですから。政子の側室に対する行動のエピソードで惑わされて、もっと肝心なこの点に気が付きませんでした。
時の風
栄華は何時も
留まらず
風の流れに
枯れゆく華よ
単に 頼朝の外戚だから執権になれたわけではなく それに相応しい 実力家格 人脈を有していたと
北條寺に家系図有ったと思います。
平姓で書かれていたと思います。
平直方はそもそも平家嫡流で伊勢平氏より家格が上。源氏は直方に繋がることで関東に地盤を持ち坂東平氏の棟梁になった。直方子孫の時政の家格はかなり高い。武士でなく将軍の家格だから戦場働きしないのも当然であり、直轄の所領が小さいのも当たり前
頼朝は河内源氏の嫡流でなく、父、義朝の簒奪で源氏棟梁になってるので家格的には弱い。義朝が坂東平氏の首領だった上総広常と繋がりが深く、その縁で関東平定出来たのに広常を排除。北条が頼朝にマウント出来たのは家格だけでなく、広常切りも原因
~と言われているだと何でも言えてしまうので、出典を明示して頂いた方がより良くなると思います。
小土豪説の根拠→官位を得ていた形跡がない。
実力があったという根拠→漢字すらかけない御家人が多い中、見事な文書がたくさん残っている。土豪時代の建物跡地の発掘の結果、経済的に豊かであっただろうと想定されている。
実際に証拠があるので、文官的な能力も経済力もあったのでしょうね。
上総氏、千葉氏、三浦氏、畠山氏より上という証拠は全くないですね
ただ、伊東氏との婚姻など伊豆地方の有力土豪の一つだったのではないでしょうか
また、平家の一門とはいっても平家自体が源氏に対抗させるべく白河法皇によって取り立てられた新興武家集団であり、坂東に基礎地盤はなかったでしょう
坂東平氏ともかなり早く袂をわかっており、坂東平氏は源氏の勢力下にいたのでしょう
坂東平氏が平家に付き従ったのは義朝が平家の負け亡くなってからであり、平家というより後白河法皇に与していたと思った方がよいでしょう
頼朝挙兵の時に京都で大番をしていた一族の方が本来機を見て敏な対応をしていた一族なのかもしれません
頼朝の死後に安定した政権を
保ってたのも時政の実力の賜物ですね。
その後の執権を継いだ義時、泰時を
見れば納得ですね。
時政の血筋は、鎌倉幕府を滅ぼした室町幕府以降に分かりにくくなって(されて?)しまったけれど、姻戚関係や行動のファクトを時系列で見ると平直方子孫で間違いないと思います
北条重時直系益時の子孫です。
足利尊氏の妻は北条登子の実家です。実家の近くに願成就寺があり、そこにある北条家のお墓は地中に埋めてありました。
足利家にとって都合悪い事があるのか?
北条家である事を隠す為なのか?
私の家は鎌倉幕府滅亡後は北条ではなく別の苗字に変えて公家で続きますが、謎が多いです。
足利尊氏にしてみたら、北条の娘婿の立場で鎌倉幕府を滅ぼしているんですから、都合が悪いでしょうね。
しかし、墓を地中に埋めるって初めて知りました。ありがとうございました。
平家の系譜なのは自称だから怪しいってのをWikiで読んで信じ込んでたけど違うのか
こういうのはちゃんとした本読まなきゃいかんな
北条遠江守時政、官位は従五位の下でしたかね?
そうですね!従五位下です。
我が杉並・阿佐ヶ谷には大宮八幡宮(頼義)と宝仙寺(義家、今は中野に移転)という秀郷流や奥州に地理的に縦に繋がるラインが有り、前者は鈴木三郎・九郎、坂東武士を熊野に連れていった先達・中野殿との関連が深そうです。あさかや氏もカリスマを持った旦那として、連れて行かれてます。義経の系譜に思えてならないのですよね。中野殿の属した一門・江戸氏は、鎌倉時代に港湾権を奪われ衰弱したようですが、ソレに、今回の時政・比企・河越の事情が絡んでいそうで、興味深いです。宝仙寺は太田道灌の豊島氏攻略に阿佐ヶ谷・馬橋(馬走)の道を譲る形で鬼門の中野坂上に移りますが、すぐ近くに中野長者・鈴木九郎(三郎の子孫)の成願寺が有ります。鈴木九郎は、突然商人として現れたかのよう語り継がれていますが、元々、大宮八幡・宝仙寺の雑色だった多田源氏に支えられた、この地の実力者だったように思えます。図書館で「堀ノ内の謎」という謎本に出遭い、10年ほど追って来たテーマです
清和源氏の中の摂津源氏の家系に似ているね。清和源氏の本来の嫡流は長男系の摂津源氏だけど、朝廷に近い場所での活躍を重視した京武者の家系だったので、家格は高いが、地方への土着度が低いので武士団としての小規模だった。
色んなお寺などに残された家系図が違うので、時政が平家一族ではなくただの土豪が最近の学者の定説だと他の所でキッパリ言われました。
何故?どうして?が多くなりモヤモヤしていましたが、納得のいく答えがここにありました。
所々家系図が違うのはそうなのですが、それを踏まえても平家一族の可能性が非常に高いですね。
この辺りについては、本動画でも参考とした野口実氏の『北条時政』が詳しいのでぜひ!
えっ、マジで平直方の系譜だったの!(同じく直方の子孫を自称していた熊谷氏との違いは…)
直方の系譜に、平家に近い時家が婿に入ったことで、源氏とも関係のある京武者の系譜という他の坂東武士では及ばない家格が出来上がったという感じですかね。
熊谷は本当に直方子孫だったのか疑問です
北条氏は、伊勢平氏と比較的には血統は近いけど、伊勢平氏ではないよな。この動画では、平正衡の兄の平維盛(駿河守)の子孫だとしているけど。。。それは源平合戦の100年後に関東で成立した軍記物語『源平闘諍録』に記載がある「伊勢平氏の祖・平維衡の子孫」という記述から解釈しているのか?『源平闘諍録』は「平維衡」を弟の「平維衡」と間違って記述しただけではないのか?
こんばんは
せめて、りく(牧の方)だけでも尼寺へ押し込めていれば…。
時政はどちらかと言うと、りくにそそのかされた部分があるようだし…。
そうですね。平賀朝雅擁立については牧の方勢力が主導したといえるので牧の方こそ封じるべきだったのかもですが。
結局は時政の妻でしかなく、時政が許される以上牧の方も許されたというところなのでしょうね。
@@rekishock
いやいや、それでも牧の方の罪は重く、「北条得宗家の家政を私物化した罪」として厳しく断罪されるべきです。マジで、トウというアサシンによって抹殺されて然るべきものがあった。