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ありがとうございます。懐かしいです。「まつかぜ」は最初は京都駅発福知山線山陰本線経由松江駅行きでした。その後博多駅まで延長されたと思います。私も若い頃に京都から博多まで乗り通したこと記憶しています。今では考えられない特急ですね。
すごい、京都から博多まで乗ったのですか?だんだん飽きて来なかったですか?山陰本線の日本海が飽きさせなかったのかな?
まつかぜ1.4号私が高校入学前に短縮されましたが山陰住まいながら大阪・博多に親戚多く、当時の親の話によるとわたし兄弟が乗り換えを嫌がるのでこの列車と急行さんべ2・3・5・6号を多用しておりましたので記憶にはっきり刻まれています。特に上りのまつかぜ号、福知山線に入ってキシ80でカレーライスを食べてる写真がたくさんあります。宝物であり、棺桶に持ってゆきます。 いい時代でした、、、
メッセージありがとうございます。キシ80でカレーを食べた思い出ですか。ちょうどそんな時間帯なのですね。昔は、特別急行には、食堂車が付きものでしたからね。ほんと、良い時代でした。
半泣きです。事情あって小学校2年の時、3つ下の弟を連れ、大阪から母の育ての親のいる出雲市まで、このまつかぜに乗って行きました。冒頭の車内放送。これを、僕はどんな思いで聴いておったでしょう。忘れません。心細さ限界MAX、「いずも」の名前が出るまで必死で耳をすまして聴いていたのを覚えています。(これに乗っていたら出雲までいける、出雲までいける、出雲でおりるのを間違えなければ必ずいける…)大阪を出た時、そんな思いでした。進行方向左側の席に、弟を前に、僕はその向かいに進行方向に向かって座っておりました。子供の二人連れでしたので、いろんな人が話しかけてきたのを、内容はさっぱり覚えておりませんけれども、覚えております。僕はこの動画をみるまで、出雲にはずっと二時に着いたと記憶していたのですが、車内放送では二時半といっておりましたね。それで、思い出しました。二時半だったかもしれません。年齢と誕生日から考えて1974年の夏だったはずです。余部の鉄橋を渡る時、今からわたるとかなんとかの放送があったはずです。それも思い出しました。とにかくこの大阪を出た時の車内放送、マジの半泣きで御座いましたアップロード、本当におおきにどうもありがとう御座いました!!いやあ、泣けもうした!!!!!
+松田昌彦 さん メッセージありがとうございます。小学校2年で大阪から特急で出雲までの旅は、すごいですね。私は、一人で列車に乗ったのは、小学校4年が初めてでした。普通列車で、姫新線の本竜野から姫路往復でした。まあ、4年と言う事もあって、また本竜野と姫路間は、親と何回も乗っていたので、子どもだけでも慣れたもんでした。それに比べると大阪から出雲市は、小学校2年にしてみれば、大旅行だったのでは、無いでしょうか?でも、2度と帰ってこない幼い頃の思い出。貴重な経験されたと思います。いろんな人が、私の動画番組を見てくれて、みなさん、いろんな人生の思い出を語ってくれます。本当に、鉄道って人生を運んでいるのですね。
えええ!大阪から出雲を子供(というか幼児??)二人で!?そりゃ周囲も話しかけますって。一体何時間かかったことやら。車掌さんとか来ませんでしたか?知っていれば多分保護というか、気にかけてくれたと思うのですが・・。とにかくお疲れさまでした。今だとtwitterに上げられちゃう案件ですよね‥世も変わりました。
ディアゴスティー二の鉄道プロジェクトのCMをみて、なんだか昔を思い出し、ここにたどり着きました。中学生の時に博多から新大阪まで乗り通しました。あの頃は長距離の普通列車もたくさんあって楽しかったなぁ。
中学生の時に博多から新大阪まで行かれたのですか?これまた凄い旅行ですね。私は中学生の時は・・・・・ほとんど自転車ばかり乗っていました(笑)
当時 既に新幹線が博多まで開通していたのにこの特急が走っていたのは驚きだ。
+99kc501 さん メッセージありがとうございます。この列車は、山陰経由で博多へ行くために、鳥取や米子などの日本海側の人を運ぶために有ったのだと思います。当然、大阪から博多へ行く人でこの列車に乗る人は、私以外にはいないかもね(笑)
@@HobbyVideos しかしその後、米子以西は「いそかぜ」として分離され、2005年3月まで運転が継続されました。
自分も大阪〜博多乗り通しましたが、そんな乗り方するアホは物好きだけでしたよ。関西〜山陰がメインでしたね。山陰〜九州は少なかったですね。食堂車もあって昼間の景色よくていい特急
懐かしい!!ありがとう!!本当にありがとうまつかぜ1号は今から40年近く前私が小学校2~6年の頃、当時福岡の祖父母の家に毎年夏休みに3週間ほど一人で行っていた時に乗っていた特別急行ですたしか大阪8:00発じゃなかったかな?途中福知山駅でホーム上にあるうどん屋さんに大急ぎで月見うどんを買いに行くのが毎回の日課でしたあと、5年生の頃だったと思いますが、宝塚駅から乗ってき、浜田で降りた隣り合わせになったおじさんに食堂車でお昼をおごってもらったを今でも覚えてますいい時代だったな~
+sugashi 12 さん あけましておめでとうございますすごいですね。私も、小学校の頃、一人で列車には乗ったことがありますが、普通列車か、または近鉄の無料特急くらいです。大阪を8時発を覚えておられると言う事は、大阪から乗車して福岡まで行かれたのですね。東海道本線、山陽本線にもっと速い特急などが、一杯有ったと思うのですが、山陰回りのまつかぜで福岡に行くと言うのは、時間に追われた大人の人生には出来ない経験ですね。確かに、いい時代でしたね。
sugashi 12
まつかぜ1号は浜坂駅に止まらない高級な特別急行でした。あれは昭和52年だったか、中学2年だった私はたまたま駅近くを自転車で走っていたら、やけに長い82が来たと思ったら、1号車、2号車、3号車、・・・・と途中にグリーン車と真ん中あたりに先頭車同士がくっついていて初めて見るキシ80の食堂車まで繋がっていて何と13号車まで繋がっていた。浜坂駅を通過するときに超低速でアイドリングのカラカラと言う音を立てながらゆっくりと通り過ぎていきました。衝撃でした。それから鉄道の本を買ってプチマニアになりました。貴重な映像をありがとうございました。
メッセージありがとうございます。浜坂での思い出が鮮明によみがえってくるようです。13輌と言う事は結構古いですね。私も13両のまつかぜは、1カットしかまともな映像はありません。あの当時、特急は城崎から鳥取まで止まらなかったのです。浜坂には、あさしおなどが停車していますが、昔山陰本線に特急まつかぜが走り始めた頃は、1日に1往復しか走っておらず、後は急行と普通列車でした。急行が、浜坂や香住などを停車していて、まつかぜは城崎から鳥取まで止まらない列車・・・・当たり前の特別急行だったのです。時刻表に1日に1往復のまつかぜが、普通列車と急行列車の中に1つだけ輝いていました。それが次第に特別急行が増え、急行が減り、城崎と鳥取間にも停車する特急が出来て、まつかぜは、普通の特急から高級な特急になったのですね。私は、このキハ80系82型と言う車両が大好きで、今でも80分の1の13mmゲージ(JMゲージ)の鉄道模型を作っています。ただ、キシ80が無いのでこれも作りたいと思っています。
母の実家に帰省する際によく乗った、懐かしい。初めて一人で乗ったのが小学校四年生の時、嬉しくて眠れなかった。東浜の画像も今は昔ですね。あの頃駅近くにあった学校も今は廃校、通過駅ですが妙に頭に残ってます。風光明媚だから豪華列車の停車駅になりましたが、随分と変わりました。
私は、この列車を撮影しによく山陰へ行きました。東浜の駅、学校は、もう変わってしまったのですか?数年前に久々に余部に行ったのですが、とにかくさびれていましたね。ただ、余部鉄橋は、観光化されているようでした。今は、能登半島地震と水害のボランティアに行ったりと、ろくにUA-camをやっている暇がないのですが、復興したら、また山陰の方へ行ってみたいと思います。話変わりますが、能登半島へ、遠い所から、ボランティアが一杯来てくれているのですが、最近少し減ってきています。能登半島は、まだまだボランティアが必要です。だれか、このメッセージを読まれた方、ボランティアに行こう!と言う方がおられましたら、能登半島を元気にしに来てください。お願いします。
中学生だった1978年と1979年の夏休み九州の祖父母のところに行くのに憧れのまつかぜ1号に大阪から小倉まで乗車しました。食堂車でポークカツレツを食べたのが今となっては貴重な思い出です。
うわー!ポークカツレツは、高価だったでしょう?それは、素晴らしい思い出ですね。大阪から小倉って長くなかったですか?でも、良い経験ですね。私は、幼稚園に入る前、山陰本線に初めて特急が走ると言う日、おやじに駅まで連れて行ってもらい、見た特急がこのまつかぜでした。小さい時の思い出って鮮明に残っている物ですね。
特急「まつかぜ」いろんな思い出が込み上げてまいります。祖父母が島根県在住で当時、小学生の私は夏休み、冬休みには大阪から帰りは大田市から乗車しておりました。映像ほんとありがとうございます。まもなく還暦、いまでも好きな特急→まつかぜ 好きな車両→キハ82は変わらないです。
私と同じキハ82型が好きなんですね。私は、今その車両の模型を作っています。作成動画もいずれアップする予定ですが、まだ、なかなか完成しません。
素晴らしい映像記録の数々ありがとうございます。泣けますね。。。小6の時にたまたま本屋で見かけた山陰本線の特集本を購入して、首都圏ではお目にかかれなくなった長距離旧客普通やDC急行、DC特急の数々に一変にとりこになりました。次の年、中一になった夏休みに両親の実家である鹿児島へ行くのに、単独で山陰まわりで行きました。横浜から出雲3号で香住まで行き、普通に乗り換え餘部鉄橋へ。そして鳥取から「まつかぜ1号」に乗り博多まで乗りました。山陰のクイーンからの車窓はダイナミックで素晴らしく、特に長門市~下関の玄界灘に落ちる夕陽は絶景でした。博多からは同じく今は無き夜行急行「開門」で鹿児島へ。1985年のことですから「まつかぜ」としても末期でぎりぎり乗れたのでしょうか?ともあれ貴重な素晴らしい映像と思い出をありがとうござました。
+ejaki さん メッセージありがとうございます。青春を思いっきり楽しめたようで、良かったですね。私自身、ビデオカメラを買った時点ではもう社会人でした。でも、子どもの思い出、そして青春時代の一こまを何とか記録できないかと、ビデオを撮影しました。 私のもう一つのチャンネルで、Japanese rail sound と言うチャンネルでつい最近、津和野から米子までの特急「おき」での車窓風景をアップしました。益田からしばらく、日本海に落ちる夕陽。たぶん、進行方向は逆ですが、「まつかぜ」から見えた風景に近いのではないでしょうか。 2015年もあと1日ですね。今は今でやっぱ、年いっても心は青春でいたいですね。では、良いお年を。
ワァー、とても懐かしい。涙が出ました。小学生時代、川西市に住んていました。小学校の沿線沿いに福知山線が走っていました。ちょうど小学生時代、朝礼が始まっている時に毎日、この特急列車が走っていました。福知山に知り合いがいる時に良く乗車させていただきました。とても懐かしい思い出です。アップありがとうございます。
どういたしまして!福知山線も、この車両が走っていた当時は、旧線でまるで高山本線のようなところがありましたね。しかも、それが、関西の町の中から急に山の中へと走っていたように思います。
@@HobbyVideos そうでしたね。またこの頃、毎日、福知山線で特急通過後はディーゼル機関車の2両客車で今は無き尼崎港〜川西池田までの普通列車が走ってました。
上野・青森間時代の583系はつかりを、身近に見続けた子供時代でしたが、同じ食堂車付き13両編成の、函館・釧路間の80系おおぞらとともに、このまつかぜも遠い世界の存在のような憧れがありました。寝台列車も含めて、これら超長距離列車を駆使した日本一周旅行を、時刻表とにらめっこしながら妄想したのが懐かしいです。
なるほど、時刻表をにらめっこ・・・・と言うか、時刻表の見方を知らない人が多いのではないでしょうか。今では、スマホで何でも出来てしまうので。
貴重な映像ですね。投稿ありがとうございます。学生の時、松江⇒博多を利用しました。遠い思い出です。距離も遠かったな。笑。
松江から博多ですか?山陰本線は、あまりスピード出せないけど九州に入ったら、猛スピードで走っていたのではないでしょうか。
これまた懐かしい!中一の時初めて憧れの急行銀河(大阪駅0800着)に乗って、大阪駅に着いた時に、ギリギリでまつかぜとの並びを撮影できました!
メッセージありがとうございます中一ですか!私も、そんな若い頃、このまつかぜが、全てキハ82型で走っていたのです。京都発のあさしおも。まつかぜと、銀河の並びの写真、二度と帰らない時間の記録ですね。
懐かしいですね。子供の頃、博多へ帰省する選択肢に到着時刻の関係で断念せざるを得なくて大阪から博多まで完乗するのが夢でした。乗車されて食堂車に行けた方々が羨ましいです。
博多に、着くのが遅かったのですね。でも、大阪から博多まで乗る人はいなかったのではないでしょうか?
@@HobbyVideos さん、ご返信ありがとうございます。S59年当時、小学5年生でした。福岡へ帰省する選択肢には新幹線、まつかぜ、S58から運行が開始された夜行バス“ムーンライト号”があり、後者を選択した結果、乗らずじまいとなってました。おっしゃる通り、全区間を通しての完乗される方はなかったと思うのですが、昼行特急での長距離乗車に惹かれる思いが合わさって選択肢に入れていた次第です。あの当時は寸分の時間でも列車に乗っていたい(特にディーゼル特有のエンジン音、振動を感じていたい)想いが強かったです。“まつかぜ”への乗車は叶いませんでしたが数年後に小郡から“おき”に乗車して回り道して博多へ帰省した思い出があります。
当時は、特急券は300KM以上はいくら遠くても上限の金額で下から、長距離に乗れば乗るほどとくでしたね。私もまつかぜに乗っておけばよかったかなって思っています。
大阪〜博多乗り通しましたが、親からは新幹線あるのにわざわざ丸一日汽車乗ってアホちゃうか?言われましたね。結局のところ往復とも乗りました。当時高校生でしたが、厚かましく食堂車乗って、大学生か?って聞かれたのでその勢いでビール🍺頼んで飲んでましたね。色々緩くていい時代でした。
@@sunami808 さま羨ましい限りです。山陽新幹線と違って車窓も綺麗な山陰線の旅、食堂車もあった古き良い時代ですね。
懐かしい列車です。母方の田舎が島根県の江津で小さい頃にまつかぜ1号に乗って帰省したことがあります。確か当時は食堂車も連結されていました。もっぱら帰省するのは新幹線で岡山、伯備線の特急やくもがメインだったのですがまつかぜに乗りたいって両親に頼んだ記憶があります。一昨年、湯村温泉に行くことがあり浜坂駅で鉄子の部屋という簡易な博物館のご主人と話す機会があり特急まつかぜのことを懐かしく語っておられました。今思えば、山陰には名列車がたくさん走っていましたよね。
メッセージありがとうございます。この まつかぜ は、私が子どもの頃に初めて山陰本線に走った特急だったのです。それまでは、キハ55の急行列車に普通は、茶色のDF50牽引牽引の旧型客車だったのです。そんな山陰に東海道本線の特急こだまと同じ色のまつかぜが食堂車を連結して走り始めた時は、もう感激しました。私の住んでいる家の2階から遠くにまつかぜが通るのが見えたのですが、キノコ型クーラーを背の高い水タンクでまつかぜだ!ってすぐにわかりました。その当時から私はこの車両キハ80系82型の大ファンになったのです。もう50年以上も前のことです。
懐かしい映像をありがとうございます。博多まつかぜって「特別急行」って感じがする列車ですね。13両編成でキハ、キロ、キシときちんと入っています。停車駅も少なくて本当に良いと思います。かもめがなくなってからは気動車特急はローカル特急って感じになってしまいましたから、博多まつかぜは別格だと思います。昭和48年に向日町から181系電車がなくなってからはあの雰囲気を味わえるのは80系気動車しかありませんでした。それも「くろしお」や「はまかぜ」等ありましたがやっぱり違います。80系は配置された機関区で大切に使われていた車両です。地方都市で初めて「特別急行」がやって来たというのは80系気動車が多いのです。風光明媚な所を優雅に走る!それが80系気動車だったと思います。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。おっしゃる通り、80系の魅力をずばり言っていただきましたね。私も子どもの頃、鳥取県の上井と言う駅の所に住んでいました。その時に山陰本線に初めて特急が走るからと、父親に駅まで見せに連れて行ってもらった事があります。 これが、私の80系との初めての出会いでした。と、同時に山陰本線に特急まつかぜが走り始めた記念日だったのです。当時私はまだ、幼稚園に入る前の年齢でした。そんな、子どもの時の思い出が忘れられなくて、そして、子どもの思い出を何とか残しておきたくて、旧型客車と同時に何度も山陰に行きました。そして、撮影出来た映像がこれなのです。本当は、おおとり を撮影したように、全区間の撮影をしたかったのですが、実現できませんでした。
キハ82大好きです。山陰本線大好きです。だから、まつかぜ1号(博多行き13両編成)大好きです。
尼崎〜城崎間がまだ電化されていない頃微かに記憶に残ってますが、これはもうそれをも超越した貴重映像ですね。
本当は、大阪から博多までのドキュメンタリーを作りたかったのですが、これだけの映像で終わってしまったのです。やはり、働いていたら、なかなか時間が取れず撮影出来ないものですね。やる気の問題かもしれませんが。
字数が足りなくなったので2度に分けますが、やはり餘部鉄橋と国鉄車両はベストマッチングですね。風景にも非常に良く合う。スチール画像の餘部鉄橋キハ82はやっぱり美しい!山陰の奇麗な海とのコントラストにはついついウットリしてしまいます。大阪発山陰線経由博多行き…もう2度と現れない列車ですね。九州1週デラックス車両とか言うのが開発されたそうですが、私はそれよりずっと「まつかぜ1号」に大阪から博多まで乗りたいですよ。(勿論豊岡か香住辺りで駅弁買って、更に浜田か出雲市でも駅弁を買って食べます!)
懐かしい。友達のところへこれに乗りました.食堂車での食事美味しかった.時間はかかったけど、その流れる時間も良かった。
今は、食堂車がないし、昔は時間もかかったけど、それなりに、昔は、それが当たり前だったのですね。
その昔、大阪から東萩まで乗車しました。新幹線で「小郡」まで行って防長バスで東萩バスセンターという手もあったんですけどね。朝のコーヒー 昼食 夕方のコーヒーと3回食堂車を利用しました。出雲市を過ぎると小さな町と港、浜辺、入江の連続でした。ある意味日本の原風景でした。今でもあまり変化がないことを祈ってます。あの独特のディーゼルエンジンの振動と音は今でもよく覚えています。
当時は、福知山線も旧線ではなかったでしょうか?今は山陰本線も様変わりしてしまいましたね。周りの風景はさほど変わっていないのかもしれませんけど、余部鉄橋が変わりました。独特のディーゼル音、カセットテープに大阪から城崎までの録音ならあります。でも、こんなの音だけだしアップしてもあまりアクセスないだろうなと思い、一人で聞いています。
懐かしいです。城崎温泉に行く時に乗車の経験もありますが、電化前の福知山線の北伊丹ー川西池田あたりに、子供の頃よく見に行きました。
北伊丹ー池田間。このような都会に、非電化の鉄道があった時代。ちょっと旅情を掻き立てられる感じだったのではないでしょうか。
貴重な動画を有難うございます。私の世代だと「まつかぜ」は1日1往復の京都発山陰本線経由博多ゆきで、確か既に食堂車はありませんでした。そのもう少し前っぽい時期ですね。この列車の名を聞くたび、スコットランドから来日中の鉄ちゃんが外国人向けの国鉄全線乗り放題切符(7日間有効)を利用して、全区間乗車した方を思い出すマスw とにかく日本の長距離気動車特急が大好きで、この他には北海道を集中的にまわると仰っていました。短区間しか同席できませんでしたが、今でもお元気かなぁと…。(因みに、日本語が日本人以上に堪能でしたw)
その、スコットランドの人、日本がとっても好きなんですね。この当時は、まつかぜは、1日に数往復走っていて、大阪博多間の長距離が食堂車連結の80系82型、大阪から米子付近までの列車が、食堂車なしの181系でした。
ありがとうございます大変貴重な映像幼少の頃、祖父母とお盆の時にまつかぜで倉吉(上井)まで毎年乗ってました車掌さんの到着時間の案内の行の所で涙が頬をつたいました祖父母がいつも優しくしてくれて必ず窓際に座らせてくれて大阪駅の水了軒の幕の内弁当と朝ご飯のハムサンドの味を思い出しました途中 余部鉄橋を通過する時は進行方向右側に座席がある時はキラキラ輝く日本海で海水浴をする子供達が、まつかぜが鉄橋を渡る時に手を振ってくれたりしてたので私も車窓から海辺に向かって手を振ってました祖父は鳥取駅に着くとお昼ご飯として😅 11:24 アベ鳥取堂のカニ寿司を買って倉吉に着くまでに食べるのがルーチンでして途中駅の湖山、泊、松崎ではなにかしらの説明をしてくれてたみたいですが忘れてしまいました冷水機の水も珍しいので飲んだり、その紙コップをお土産に持ってかえったりしたこともありました松崎を過ぎると2回、3回トンネルを超えたら倉吉に到着し祖父母に手を握ってもらってタラップを降りてキップと特急券を駅員さんに渡すのが儀式でした墓参りと海水浴も終わり帰りの倉吉駅から上りまつかぜに乗る時はさみしい感じかしたものです今 文面で書いたことが走馬灯のように思い出されてとても嬉しく思い文章に起こしましたありがとうございました
へえ~~~~~!この映像で、そんな色んな事が思いうかぶなんて、それだけ、思い出深い列車だったのですね。余部鉄橋を渡る時、海水浴の子どもたちが手を振ってくれる・・・・もしかして、当時1日に1往復の時代だったのかな?いい思い出ですね。私も、2度を戻らない思い出を出来るだけビデオやカメラで記録しています。今は電話で記録しています。電話ってスマホですね。時代も変わったもんだ!
サムネから飛び込んで行きました。今までの中では最高の内容に仕上がっていると思います。本当に感動しました。
昔、出張で乗ってたけど、この容姿で、まつかぜ1号は、大阪出たら、福知山まで止まらんかった、最高に、かっこええ時代でした💞
一度、乗って見たかった列車でした。懐かしいです。山陰線が大好きなので何故乗らなかったのか悔やまれます。同じ山陰線の急行「さんべ号」は乗った事が有ります。これだけ長い区間を走る気動車特急はその当時でも珍しかったのでは?臨時運転でも季節運転でも復活してくれないかと期待しているところです。
メッセージありがとうございます。私も、山陰が大好きなんですが、特急は、ほとんど乗っていません。山陰の特急には、この番組のオープニングの車内放送の時に大阪から城崎まで乗ったのと、益田から米子まで特急「おき」に、米子から京都まで特急「あさしお」にそれぞれ1回づつ計3回乗っただけで、後はほとんど旧型客車に乗りまくっていました。 復活してくれたとしても、キハ82では復活出来ないでしょう。
国鉄時代の鉄道ファン車両は今の可能な車両で良いんです。大阪~博多間を走って頂きたいのです。ちなみにそう言えば急行寝台の「だいせん号」にも全線乗りました、懐かしいです。機会が有れば各駅停車で山陰線全線制覇もやってみたいです。1日では無理ですから2日かけて。何時出来る事やら?(笑)
***** さん メッセージありがとうございます。そか、今可能な車輛って何があるのかな?やっぱり気動車ですよね。だいせんは、もしかして20系だったのかな?各駅停車で山陰本線全線制覇ですか。ダイヤを良く見ないと、意外と各駅停車は、意地悪く乗り継ぎが悪かったりしている事があるから、2日で行けるかどうか心配です。でも、どうせ乗るのなら、景色の見える時間帯での旅が良いですよね。そうすると、日が長い6月だね。
素敵な動画を拝見させていただきありがとうごさいます。特別急行「まつかぜ号」は、幼い頃に父母の帰省先の山陰へと幾度も乗車したことのある思いで深い列車でした。特に80系気動車は好きな車で、特別な急行という優雅さと貫禄があったように思います。新幹線が岡山まで延伸し、メインルートが伯備線経由になってからは乗る機会もなくなりました。車内放送を聞きながら当時のことを懐かしく思い出します。私のチャンネルでは、昔の記憶を頼りに3Dで国鉄時代の鉄道風景を再現しています。拙い作品ではありますが、こちらの動画を参考にさせて頂き当時の雰囲気を少しでも再現できればと思っています。ありがとうございました。
+minori iwata さん メッセージありがとうございます。そうなんですか。私は、子どもの頃鳥取に住んでいて、大阪の親戚の家に行く時に、乗りたいと言っていたのですが、当時のまつかぜは、1日に1往復で大阪行は、鳥取を夕方発車して、鳥取には夜に着くため、乗れないじまいでした。キハ82は、私も大好きな車両で、学生になってから、わざわざ大阪から城崎まで乗りました。車内放送は、その時の録音です。本当は大阪から博多までの追跡映像を撮影したかったのですが、お金と時間が無く、夢は叶いませんでした。まあ、この映像が精いっぱいの記録なのです。
大阪発朝8時まつかぜ1号威厳ある風格新幹線車両よりカッコ良かったのを、いまでも覚えております。昭和55年冬に山陰旅行をしました。余部鉄橋、鳥取砂丘思いでが、たくさんあります。なつかしい映像ありがとうございます。
メッセージありがとうございます冬の山陰ってまた素敵なんですよね。寒い駅のホーム。列車に乗ったら、暖かい車内が癒してくれる。日本海は、大きな波が打ち寄せる。何か、演歌が似合う風景ですね。
特急まつかぜ号、大阪・博多間山陰線経由、同じ時代?に走っていたディーゼル特急ではおおとり号やつばさ号とともに長距離を走っていたと思うと凄いと思いました。やはりあの国鉄色の塗装が私には憧れと大人になったら絶体に乗ってやる!と思っていました。コロナが終息したらイベントでもいいので復活運転して欲しいです。
日本って、こういう古いものを残そうとする考えが無いみたいですね。なんとか、大井川鉄道が本当によく頑張ってやってくれていると思います。とにかく、採算の合わない事は全てしないと言うのが日本人の考え方なのでしょうかね。
懐かしい。小学生の頃毎年夏に田舎の倉吉まで利用していました。停車中のアイドリング音は今でも大好きです。あさかぜよろしくです。
毎年利用していたって幸せですね。私は、余り特急には乗れなかったので羨ましいです。所で、私は子どもの頃倉吉に住んでいたのですが、昔は、打吹駅が倉吉駅で、今の倉吉駅は上井駅だったのを知っていますか?私が住んでいた頃は、上井駅だったのです。
国鉄時代の鉄道ファンさんすいません。知りませんでした。子供の頃利用していた頃は倉吉駅だったと思います。島根在住の時、東京出張には出雲を利用していました。DD51がなくなり寂しいかぎりですが動画を見て楽しんおります。
意外と、早く倉吉駅になったみたいですね。調べてみたら1972年に倉吉駅になったそうです。
わざわざ調べていたいてあえりがとうごじます。これかも楽みしています。
朝8時頃、博多駅で写真を取りました。山陰周りの大阪行きってのが素敵でした。
メッセージありがとうございます。そうですね。考えてみれば、博多から大阪まで行く人は、新幹線を使うでしょうし、そう考えると、ほとんどが、山陰の都市に用事がある人が乗る列車だったので、大阪まで運転する必要が無かったと言えばなかったのかも知れませんね。 そう言う列車が走っていたと言うのも、国鉄の名残なのかもしれませんね。
懐かしい映像、ありがとうございます。私も山陰好きで、「まつかぜ1号」の食堂車廃止を前にその雄姿を撮りに行きました。東京からですと、寝台急行「銀河」の大阪到着と「まつかぜ1号」の発車が同時刻8:00なので残念ながら乗換えができず、行程を悩みました。 キハ82は外観こそ優雅ですが、内装は結構簡素で、シートもペラペラという印象でした。食堂車では「謝恩特別ランチ」なるものを記念に食べました。車内放送は観光案内付きでそれも印象深かったです。 餘部鉄橋は大好きなところです。静寂を破りけたたましく轟音を響かせて列車は鉄橋を渡る。特に超大編成は圧巻で、音も凄まじく圧倒されながらシャッターを切ったものです。トンネルに消えるとまた静寂が訪れ、山の向こうから、去っていった列車の汽笛が遠くに聞こえてくる・・・本当に懐かしいです。
なるほど、私も、この「まつかぜ」が好きでした。というか、子どもの頃初めてまじかに見た特急がこの「まつかぜ」だったのです。この列車の大阪から博多までを撮影したかったのですが、出来ずじまいで終わってしまいました。何とか残ったのが、この映像だったのです。この当時のシートは、これが特急列車のシートだったのです。電車の181系や485系も、当初は似たようなシートではなかったかと思います。
懐かしい映像ありがとうございます。「まつかぜ」の食堂車、乗りたかったけど、夢叶わず。石破代議士の講演で5回に1回は「まつかぜのビーフシチュー」の話が出てきます。安全保障の話だと険しい表情になるけど、「まつかぜ」「出雲」の話になると途端に表情が変わるのは面白いですよ。
メッセージありがとうございます。ははは!そうなんですか?まつかぜによく乗られてたんですね。それも、食堂車が連結していたのは、キハ82の古い車両ですね。
凄い列車ですよね。鉄道ジャーナルか何かの本でレポがあったけど、筆者以外乗り通しは居なかった、というオチだったような。鳥取県も人口60万人を切ったそうで・・・。2両編成のSまつかぜを見ると寂しいけど、頑張って欲しいとエールを送ってしまいます。ちなみに、石破先生はシチューについて、何と仰せなんでしょうか?
メッセージありがとうございます。石破先生の事は、あまり分かりませんが、2輌編成のSまつかぜって、それだけ、鉄道を利用する人が減ったと言う事ですね。言い換えれば、車の方が便利になってしまったと言う事かな。
石破代議士、小学生の時、生まれて初めて乗った「特別急行列車」との由。
「こんな美味しいものがこの世にあるのか!!」と感動の連続だったらしいです。
小学校の時に鳥取の祖父母のところへ行くときにいつも乗っていました。高速バスに乗れば2時間30分で行けるところをあえて両親にわがままを言って4時間ほどの道のりを旅したことが懐かしく思い出されます。まさか動画が残っているなんて・・・感謝感激の至りです!本当にありがとうございました
+秋本徹 さん メッセージありがとうございます。この当時は、仕事に追われて、これだけしか撮影していませんが、喜んでいただいてありがとうございます。この当時は、宝塚から、川沿いの旧線を走っていました。とっても良い景色でいつか撮影に来ようと思いつつ終わってしまいました。
旧線!電化されて美しさに気付いたにがーい思い出がありますね
+秋本徹 さん メッセージありがとうございます。そうなんです。なくなると分かっていれば、もっと撮影しておいたのにと思います。
まつかぜ号には、子供の頃に、よく利用しました。大阪に親戚があって、夏休みや冬休みに、行きは、夜行のだいせん号、帰りはまつかぜ1号と決まっていました。子供の頃から鉄道ファンで、今でも暇さえあれば、日帰り旅をしています。懐かしいですね。あの頃を思い出します。
メッセージありがとうございます。私も、子どもの頃は鳥取に住んでいて、大阪に親せきがあったのですが、行きも帰りも急行「みささ」か「但馬」でした。「まつかぜ」は、鳥取を夕方発車して、大阪は朝発車するので、時間的に逆になるので、乗れなかったのです。私が、鳥取に住んでいた頃は、特急は、この「まつかぜ」1報復だけでした。車色の旧型客車の普通列車に、キハ55、58系の急行列車。そんなかな、1日に1本だけ、特別急行の「まつかぜ」がかがやいていた時代だったのです。
生瀬と武田尾駅間の福知山線の廃線跡を歩くとまつかぜ、急行丹波号が汽笛鳴らしてトンネルから出てくるとこを想像しますね。
メッセージありがとうございます。なるほど、私はあの辺はあまり詳しくないのですが、この音を録音したときは、ちょうど今は廃線になっている所を走っていました。川沿いにとっても良い風景でした。高山本線と、似ていた場所ですね。
貴重な映像、ありがとうございました。懐かしさに思わず見入ってしまいました。記憶を辿ればおそらく1980年前後、私は小学高学年か中学生でしたが、物好きにも名古屋から小倉まで、既に山陽新幹線が全通していたにも関わらず寝台急行銀河とまつかぜを乗り継いで行ったことがありました。この映像のアナウンスでは小倉19時56分着、伯父伯母が迎えに来てくれたのには迷惑をかけたんですね。深夜の名古屋駅まで送ってくれた両親にもですが。ところで、このまつかぜ、当時から「なんでこんな区間設定の特急があるんだ?」くらいに思っていましたが、改めて調べたら山陽新幹線開通までは大きな需要があったんですね。
山陽新幹線開通まで、大きな需要があったのですか?山陽本線にも、つばめ、しおじ、かもめ等、特急列車がいっぱいはしっていたと思うんだけど、やはりそれだけではなく、山陰方面への旅行者も多かったのでしょうかね。今は、大阪からは城崎までは充実しています。また鳥取から西へも充実しているみたいで、つまり鳥取へは、新幹線経由での旅行スタイルに変わっているみたいですね。・・・・智頭急行とやらを走るルートで。
もう何度この動画を見たのでしょうか、おそらくは私の生涯で最も印象深い列車であることは間違いないと思います。最初に乗ったのは昭和30年代後半、この列車が走り始めて間もない夏休みに父と一緒に鳥取まで持ったのを覚えています。以降ほぼ毎年、かかさずに大阪から鳥取まで、8時発で往路、復路は17時鳥取発で帰阪した覚えがあります。最も長く乗ったのも出雲市までで、博多まで乗らなかったことが悔やまれてなりません。181系よりもやはり82系がいいですね。
メッセージありがとうございます。昭和30年後半と言うと、まだ山陰本線にこの特急が1往復しか走っていなかった時代ですね。ほとんどが急行でこのまつかぜだけが特急で、輝いていた時代ですね。私は、この当時鳥取に住んでいて、大阪の親戚の家に時々行くことが有ったのですが、朝、鳥取を出て、昼過ぎに大阪に着く時間での移動がほとんどだったので、とうとうまつかぜには乗らないままで終わってしまいました。 関西に住んでいて鳥取へ行くのだったら乗っていたかもしれませんね。乗れなかったけど、1日に1往復と言うか1日に2回しか見る事が出来ないキハ82は、外から見ているだけで子ども心にも遠い旅を思い浮かべて駅で見送ったりしていました。でも、忘れられない事があって、子どもの頃、鳥取駅の構内の中で見ていたために、運転助手に大声で「こらー!」って叱られたことがあります。あの時は、ショックでした。でも今はいい思い出ですね。今なら駅の構内に入るなんてとんでもない事ですよね。
13編成!豪華すぎます!食堂車運営!すごすぎます!
メッセージありがとうございます。13輌編成って珍しいですよね。普通は在来線はなぜか12両編成が主流でしたね。今は、特急と言っても、短い編成でやっぱ、国鉄と私鉄の違いなんでしょうね。 国鉄時代は、特急は、窓が開かないので、駅弁も買えない。小さなテーブルしかない椅子に座って、膝の上に弁当を置いて食べるのではなく、特別急行なんだからちゃんとダイニングテーブルで食事をしてもらおうと、作られたのが、食堂車なのではないでしょうか。でも、それは国鉄時代の特別急行列車の原点。もう、遠い昔の話になってしまったようです。
キハ82系の13輌はかつて北海道でもありました函館⇔滝川 が13輌切り離しで滝川⇔旭川 が6輌滝川⇔釧路 が7輌おおぞら でしたな
@@HobbyVideos 自分の故郷である長崎(&佐世保)にも「かもめ」として来てました、もしかしたらこれだったかもしれないですね。まつかぜも京都発の時代がありましたので。
昭和59年の夏にまつかぜに乗る機会があったのでまつかぜの指定席を取ったのですが私自身小倉~米子迄急行さんべ52号という12系の夜行急行に乗ったのですが米子~大阪迄特急まつかぜ2号を取ってしまった為181系のまつかぜでした。その後は特急南紀に乗車したのですがその時はキハ82系に乗れました。
急行さんべ52号は、良く分かりませんが、私は米子から長門市までさんべ3号に乗った事があります。旧型客車でした。あの時の走行音が、ありますよ。52号は臨時列車ですね。臨時列車の方が新型客車とは、でも、こういう時代でしたね。昔は。
懐かしいです、昔全区間乗りました(逆区間ですが)ディーゼル音や車内放送も👍鳥取で後ろを切り離して、切り離した車両は大阪に戻る運用で、夕刻は博多発が大阪から来た車両を連結して13両で大阪に戻る長大編成での運用だったと記憶しております🚂
おっしゃる通りですね。大阪からは、13両でした。でも、全区間乗車されたとは羨ましいです。
懐かしいです。 博多から(8:12発)大阪まで2回乗り通し(まつかぜ4号)、大阪乗り継ぎの急行きたぐにで青森→青函連絡船で北海道、急行銀河で東京へ行ったのを想い出しました。 現在九州から山陰への直通列車がなく、新山口や岡山での乗り継ぎを余儀なくされて大変不便ですね。 貴重な映像有難う御座いました。
なるほど!現在は新幹線を利用するようになっているのかな?時間的には、速く移動できるのであれば、まあ良いかもしれないですが、新幹線を使うと運賃が高くなるでしょうね。
@@HobbyVideos 遥か昔の思い出です。 今は利用したくなくても新幹線を利用せざるを得ませんね~
新幹線は、特急券が遠くへ行くにつれて、だんだんと高くなっていくから、鉄道会社としては儲かるようになっていますね。私は、さほど急がない時は、マイカーで移動します。ですから、この「まつかぜ」も、撮影はしているけどほとんど乗ったことが無いのです。
@@HobbyVideos 確か1200円位したと思います。中学生には、高価でしたね。
往年の「まつかぜ」感動しました。宝塚に在住していたころに遠足で道場に行き、旧線のいつでも飛び降り可能なディーゼルに引かれた客車に乗って、阪急慣れしていたので子供心にびっくりした事が思い出されます。旧線の思い出はただ一度。まさかあんなところにこんな汽車が走っていたなんて…。車内放送がおおだしではなく、おおたし(大田市)となっていることに気付きました。駅名は難しい…。
メッセージありがとうございます。飛び降り可能な・・・・・これは、旧型客車ですね。昔はこれが当たり前の普通列車だったのです。まあ、阪急電車など、私鉄と比べるとそれはびっくりするでしょうね。旧線から新しい線路になったのは良いけど、スピードがもっと出せる線路になって欲しいですね。
博多駅で見てました。憧れのキハ82でした。
そうですか。私は大阪駅で見てました。この列車が博多まで行っていたのですね。
「特急」ではなく、まさに『特別急行』と呼ぶべきその名にふさわしい風格の列車でしたね。私自身、祖母の生家が浜坂で、またその親戚縁者のほとんどが浜坂・香住に住んでいるのですが、この『まつかぜ1号』は城崎を出ると鳥取までノンストップ。だから乗れないんですよねー。でも一度だけ鉄道旅行が好きだった父親に連れられ、わざわざ城崎で乗り換えてグリーン車で大阪まで帰った記憶を今も鮮明に覚えています。つくしを袋一杯に持って帰った記憶がありますからたぶん春休みだったような。しかし、13両もの長大編成がよく停車することできたもんだなぁ・・・と、今の3両や6両編成の「はまかぜ」を思うと驚きですね。
80系まつかぜも何回か乗っています。冬に大阪から鳥取に行くのが通例だったので、その時に乗りました。
メッセージありがとうございます。まつかぜ は、そんなに乗られたのですか?私は鳥取に住んでいた時は、小学校1年で親戚が大阪だったのですが、当時1日1往復のまつかぜは、鳥取を16時くらいに発車するため、乗る機会がありませんでした。1回だけ、乗ったのが、この番組で車内放送が流れているのですが、あの放送を録音した時だけ乗っただけなのです。 大好きな列車、車輛キハ82型なんだけど、いつも外から見ていて、あこがれの列車でした。高校時代に鳥取にも何回か行ったのですが、やっぱり、旧型客車の普通で行きました。
保育園ー小学生の間、学校の先生をしていた叔父が生徒を連れて、夏は九州、冬は鳥取の若桜にスキー合宿をしていて、行きは夜行の山陰号、帰りがまつかぜというパターンが多かったです。
hase16335 さん メッセージありがとうございます。今だったら、バスと言う時代かもしれませんが、当時は鉄道が主な交通手段だったのですね。夜行の山陰号と言うのはもしかして旧型客車・・・・・だったら、ドアーが開けっ放しで危ない・・・・・・と思うのが、現在の人で、昔はそれが当たり前で危ない事をする人はだれもいなかったのだと思います。それだけ、今は変な時代になって来たのかなっと感じます。
山陰号は旧客の時代です。同行した小学生の上級生は京都を出でからしばらくデッキにぶら下ってふざけていました。今では考えられ無い、とはいえ、外国では先進国を含めてドアがあきっぱなしというのはよくあるので、日本が過保護なのでしょう。
hase16335 さん メッセージありがとうございます。まあ、アメリカなんかは、自由の国って言われているのですが、責任は、自己責任と言う事ですね。また、こういう考えらしいです。デッキにぶら下がってもし事故になったら、鉄道会社は事故防止のためにドアをあけっぱにして走る列車はなくするだろう。そうすると、自由にドアーを開けることが出来なくなる。だから、自由にドアーを開ける列車をなくされないために、私たち自身危ない事や事故などは起こさないでおこう。と、自由を守るために、自分自身で規制をしていると言うのです。それをしないために、過保護にならざるを得ないのでしょうね。デッキにぶら下がって事故が起きた時に、日本ではこんな列車を走らせている鐡道会社が悪いなんて言う親まで居そうですね。
大阪から博多まで一度乗り通してみたかったです。
わたしもです。
大阪駅に朝停車してる時のあの威厳ある風格が思い出されます。威風堂々と言いますか。行先は博多だしもう小さかった自分には憧れの人に出会った記憶が有ります。固定窓、ディーゼル音、食堂車、排気臭、客層、専務車掌の制服にメめまいすら覚えました。13両が出て行った後のあの雰囲気が優等列車なんだなーと感慨深いものでしたね。
メッセージありがとうございます。「13両が出て行った後のあの雰囲気」つまり、その特急に乗ることなく、駅で見送って、遠い旅路を夢見てる・・・・私も、良くありました。この写真を撮影した時もそうでした。この当時、ビデオを持っていたら・・・・そんなこと思ったら、今ではスマホでフルハイビジョンの動画が撮影出来るのですから、良い時代になりましたね。
そうなんです。そして時刻表を見て遥か遠くを旅したもんです。色んな列車有りましたし。今の時刻表は殺風景なもんですね。定期客車列車なんてもう二昔前なんですね、
定期客車列車。大阪駅にDD54牽引のドアーがアケッパの旧型客車が止まっていたり、EF58牽引の急行「しろやま」が止まっていたり、その隣には、自動ドアーの113系や103系が走っていて、そのギャップがすごかったですね。
小学3年生の時に、出雲市から下関まで、祖父母と乗りました。たしか、初めての列車旅行で、叔母の家に。車内販売で沢山買って貰った記憶と、浅利駅で、寝台特急出雲にすれ違った事しか覚えてません。
小学校3年ですか。私は、初めて特急に乗せてもらったのが、小学校5年でした。初めての特急の旅ってなにかが思い出に残るものですね。
キハ82系の特急まつかぜ、映像で気になったのが、1982年の秋以降の9両編成になったまつかぜが余部鉄橋を10両編成で走行していたこと。後ろ3両が米子で切り離されることになっていた時のまつかぜが、おそらくは多客期か何かで増結していたんだなあと思いました。そして、大阪を発車して間もなくなされる停車駅と到着時刻の車内放送、「あれ、川棚温泉駅がスキップされていて放送されていない、なぜ?」と思って、1975年の時刻表を調べたら、川棚温泉は通過になっていました。大好きな特急列車で、鉄道模型(Nゲージ)でも7両+6両(下りは鳥取で切り離して折り返し運用、上りはその逆で鳥取で併合)13両編成を再現したいんですが、自宅の部屋のスペースのこともあり、難しい。模型のほうは、1982年秋以降の9両編成をフル編成で再現ということに。自分の鉄道趣味や鉄道模型趣味は、「国鉄時代のキハ82系の特急まつかぜに始まり、いろいろなところを巡回して、キハ82系の特急まつかぜに終わるんだろうなあ」という感じです。大阪駅8時ジャストの発車というのも気持ちいい!! 貴重な資料提供してくださり、ありがとうございます!!
まつかぜの思いが強いのですね。私も初めてまじかで見た特急が、このまつかぜでした。山陰本線の上井と言う駅で、ダイヤ改正の特急が初めて山陰本線に走り始めた日だったのです。私は、今、13mmゲージでこの80系気動車を作っています。まつかぜには、こだわらないですが、まつかぜに始まった子どもの頃の思い出を模型で残したいのです。 この最初の録音の音ですが、大阪から城崎まで録音てープがあります。でも、特急の走行音ってなぜか、よけいな雑音だらけでいい音ではないですね。そのうち、音のアップも考えています。
昔私が幼少のころ母の実家、島根県三隅に帰省の際「まつかぜ1号」を利用していました。乗車区間は京都ー浜田です。浜田からは普通に乗り換え三隅に行きました。当時は浜田からの乗り継ぎでSLが現役で活躍していました。食堂車も利用していました。日本食堂のハンバーグ定食を食べたのを覚えています。夏休みの帰省でした。当時機動車のエアコンの効きが悪く暑かったのを覚えています。私もキハ82が大好きでHOゲージに「まつかぜ」のネームプレートを付けています。
メッセージありがとうございます。想い出のある列車なんですね。私は、まつかぜ ではないんですが、日本食堂のハンバーグ定食を食べましたよ。それと、ポタージュスープも。 キハ80系のエアコンは、1つ1つに調節ボタンが付いていて、それが、全開になっていなかったのではないでしょうか?・・・・誰でも触れるので、お客が勝手に弱めたのかも知れませんよ。それと、昔は、キハ82は、エアコンが4台しか乗っていなかったように思います。・・・・・・これ、昔のカツミのHOゲージのキハ82がエアコン4台の模型でした。 それと、HOゲージのキハ82が有るのですか?いいですね。私も、昔自作で作り始めたのですが、忙しくなって、だんだんほったらかしになっています。つくりさしの模型で良ければ、わたしの「国鉄時代の鉄道ファン」のホームページを見てください。そっちのホームページも最近ほったらかしなんですが・・・・
子供の頃から、キハ82型は大好きで、他のコメントにもあるように、自分も「かもめ」で、大阪から田舎の佐世保に行ったことが忘れられません。ただでさえ、時間がかかるのに、台風の影響で、しばらく止まったままになり、10時間以上かかったと思う。それでも、長崎行きと貫通していたと思うんですけど、その向き合った運転台が、もうかっこよくて、たまらない!! (今も記憶に刻み込まれています) そして、「かもめ」の車窓からは、中国地方を通過して行く時に見えるSLや茶色いEF15の群れ。顔をずっと窓にくっつけて見てました。そんな良き時代が蘇るような動画を見せていただき、本当に有り難うございます。昨日も、なんちゃって急行色を真ん中につないだ、気動車3両(ごちゃ混ぜの普通列車)を、仕事しながらチラっと見ただけでも、なんとなく嬉しいのだから、こんな動画を見たら、もうたまりません。長々と、失礼しました。
メッセージありがとうございます。みんな、このキハ82が好きなんですね。私も、子どもの頃初めてまじかに見た特急がまつかぜでした。以来、この車両が好きになりました。高校の時は、かもめで厚狭まで乗りに行きました。その時の山陽本線を爆走する列車。なんとなく、雰囲気はわかります。みんな、丹波、そして佐世保、田舎と行き来する時の思い出が詰まっているのですね。
なつかしい、と、同時に、やっぱ80系気動車特急は、かっこいいね!あのころ、ふるさとの駅を、このまつかぜは、いつも思いっきり通過していました。「いつか、いつか乗ってやるぞ!と」思って、下関駅や小倉駅で撮影したこともたびたび・・・そして、その日が来ました。大阪から博多までフル乗車。途中の山陰海岸の美しさは、824の雑客から見る風景とは違って見えました。気動車特急の食堂車を体験・・・そしていよいよ、下関を発車。関門トンネルに轟音とともに入っていく・・・夢にまで見た瞬間でした。ふるさとの駅を堂々と通過。博多までは、自分は今、「気動車の特急」に乗っているんだ!という喜びがありました。その後、廃止まで、ふるさとの駅の6番ホームを通過していく、まつかぜを何度となく撮影しました。それも遠い思い出となりました。「次の停車駅は小倉です」「えっ、門司は停まらんの?うそやん!!!どーしよ・・・」
メッセージありがとうございます。九州の方なのですね。私は、北陸地方に住んでいるため、九州の方は、良く分からないのですが、本当は、ざっくりと全区間の撮影をしたかったのですが、それもかなわぬ夢となってしまいました。門司から博多までは、交流電化されていて、ほとんどが電車の中、大阪から、非電化の山陰を走ってきて、今、架線の下を爆走する・・・・・もう、旅の終わりも近づいている。って、なんか、演歌になるような場面を思い浮かべてしまいますね。ふるさとの駅が6番ホームまであると言うのは、けっこう大きな駅なんですね。そんな、大きな駅を通過する特急って、やっぱり特急・・・・特別急行ですね。
メッセージありがとうございます。キハ82が好きな人は、山陰本線が好きな人が多いようで、私もその一人なのです。でも、不思議な事に、新しいキハ181系がなぜ長距離の博多行に使われなかったのか、不思議ですね。
子どもの頃、黒崎のおばあちゃんに会いに行くとき、このまつかぜか美祢線と山陰線に分かれる急行さんべでした。懐かしい!
子どもの頃に特急に乗れたなんて、羨ましいですね。私は、鳥取に住んでいたのですが、大阪のおばあちゃんに会いに行く時に当時1日に1本のまつかぜで、時間が合わないという事で、いつも急行ばかりでした。乗れなかった分、それだけこの列車に興味がわきました。
懐かしのキハ82系特急まつかぜ1号です 以前は長編成時代もありましたね~ 博多編成に連結している食堂車の映像は今を見ると甦りますね~(*^^*)
メッセージありがとうございます。大阪から13両編成で米子かどこかで切り離すのだったと思います。さらに昔、大阪から特急まつかぜが発車した後、同じキハ82型で特急かもめが走っていました。こちらも、長距離列車で13両だったと思います。山陰本線と山陽本線に13両のキハ82が、並走していたのですね。
いやあ、これも懐かしい。これはかっこいい車両でした。昔、上野~秋田間で走ってましたね。亡くなった母に切符もないのに大曲~秋田を立ちっぱなしで乗車させられました。いつか座ってみたいと思ってたんですが機会がなかったでした
メッセージありがとうございます。上野~秋田間と言うと、特急つばさですね。特急つばさは、のちにキハ181系になったので、私は、この車両キハ82の時代は知らないのですが、この車両の特急つばさに乗られたというのは、とっても貴重な思い出になったのでは無いでしょうか。 私は、学生時代に奥羽本線電化前に福島から秋田まで特急つばさに乗ったのですが、すでにキハ181になった時代でした。
古き良き時代を感じさせていただき、ありがとうございます。30年以上前に、松江から益田まで乗ったことがあります。この頃のように、その路線を地方を代表し、長大編成にグリーン車や食堂車を賑々しく連ねた、一つ頭の出た看板列車が次々と全国の鉄路から消え去って久しいですが、まさに山陰の女王とでも云うべき看板列車の存在は鉄道が交通の主流であった時代の貴重な証言者なのでしょうね。
メッセージありがとうございます。鉄道が交通の主流であった時代・・・・・・そうですね。今は、車社会、特に田舎になればなるほど車社会なのですね。でも、私は思うのですが、なぜ、車と鉄道がもっと連携できないのか?って思います。田舎の駅で車で駅に行って、駅に無料駐車場があって、そこに気軽に車を置いて、列車に乗ることができる駅って全国にどれだけあるでしょうか?鉄道が交通の主流であった時代、これからは、鉄道と車がうまく連携していく時代にならないといけないのではと思います。
両親の実家が鳥取だったので、まつかぜ号は憧れの存在でした。結局はキハ82時代には乗れなかったけど‥
やはり、まつかぜは、憧れの列車なんですね。私は鳥取には小学校1年の時までいたのですが、親戚が大阪にあって、まつかぜに乗りたいと言ったのですが、親は、時間が合わないので、いつも急行ばかりでした。ですから余計憧れるのですね。
ありがとうございます。懐かしいです。当初は
どういたしまして。
懐かしいですね。こちらでいうと、特急ひだですね。運転席の窓ガラスの湾曲が特徴的でした。一度だけですが、下呂まで乗ったことがあります。こういう長編成も昭和の国鉄ならではですね。
メッセージありがとうございます。そうですね。特急ひだ は、走行距離が短く、食堂車も連結していませんでしたが、80系として、最後まで走っていましたね。80系の一番最後は南紀で終わったみたいです。
多分80系がてきたばかりのころだと思いますが、昭和42年ころだったと思いますが、京都発長崎行の山陽線経由DC特急(「かもめ」に京都から広島まで乗車した記憶があります。僕もDC特急は大好きで182系は昭和57年ごろに岡山⇔出雲市の特急「やくも」に仕事でよく乗っていました。食堂車付きで何回が食べに行きましたが、いつもがら空きの車両でした。区間が短いのにキシをなぜ付けたのか不思議です。181系「やくも」は今もNケージでフル編成で保存しています。
メッセージありがとうございます。DC特急かもめに乗られたのですね。山陽新幹線が開業するまで、キハ82型で走っていたすばらしい特急ですね。 私も、山陽新幹線が開業する少し前に、大阪から厚狭まで乗りました。また、山陽新幹線開業前夜は、最後の山陽本線の特急、急行を撮影しに行って、広島から京都までかもめに乗って帰りました。当時は高校生でビデオなんてない時代だったので、写真をホームページにアップしています。国鉄時代の鉄道ファンで検索して、ホームページの鉄道写真から中国地方の鉄道へ入り、山陽本線入野 へ入れば、一番下の方にかもめの写真が出ています。 また、当時は特急には、普通食堂車を連結するのが普通だったから、やくもにも連結されていたのではないかなって思います。
国鉄時代の鉄道ファンかもめの写真拝見しました。懐かしいです。列車番号1Dだったのは貴ページを見て思い出しました。すごい番号です。私が初めて乗った長距離列車は昭和31年熊本→東京の昼夜急行「阿蘇」の最後尾一両だけのマロネ29に新飯塚駅でホームに列車がホームに収まらず、最後尾デッキに梯子を掛けて車掌さんに手で引っ張ってもらって乗った記憶がかすかに残っています。後は小学生の頃東京⇔名古屋を;i二等車でも冷房なしの153系準急「東海」には10回くらい乗りました。この153系準急「東海」も今もNケージでフル編成で保存しています。
まつかぜですか懐かしいですよねNHKブラタモリで萩やってまして大阪から東萩丸一日かけまつかぜ1号で行ったことをそして帰りは4号で帰ったこと思い出しましたまたこれとは全く別の時ですが、824列車で東萩駅から出雲市駅、824列車にそのまま乗っていてはその日大阪帰れないのでまつかぜ4号に出雲市駅で乗りかえました今の山陰本線はこういう本線的な機能は一部除き失われてしまってトワイライトエクスプレス瑞風で豪華な旅を豪遊でもしない限りは山陰本線本来の姿である山陰地方動脈としての山陰本線味わえないと言っても当時から宮脇俊三氏は偉大なるローカル線ではないかと揶揄してましたが実に残念ですね懐かしい動画有難うございました西城秀樹氏葬儀の日まさに秀樹氏全盛期の山陰本線見れ感無量です
メッセージありがとうございます。昔は、このような列車が当たり前のように走っていて、また乗客も多くにぎわっていた時代でしたが、今は道路が発達し、バスやマイカーの方が、便利になってしまいましたね。当然利用者が少なくなってしまい、山陰本線の使命も終わった時代になったのかもしれません。
キハ80系82型懐かしいですね!私は特急まつかぜには乗車した事はありませんがヤハリこの画像を見ると特急白鳥、大阪発~青森行と京都発~長崎行きの特急かもめ、が思い出します。勿論特急まつかぜも知っていました。確か私が小学生低学年の頃、秋田迄白鳥に乗りました。そして、運行距離が長いが故に食堂車で2回食事をしたのがとても記憶に残っています。まつかぜも大阪~博多迄の乗車なら多分、2回食堂車に行く事になるでしょうね!😊😊😊又、かもめに乗車した時は出発後確か三ノ宮か神戸を出た後食堂車のウエイトレスが食堂車で調理するお弁当の注文を取りに車内を回っていたと記憶しております。
メッセージありがとうございますかもめ には、私は2回乗りました。当時高校だったのですが、7歳年上の女性と旅行に行ったのです。この時は食堂車も満員だったのかな。どういうわけか行かなかったように思います。それが、最初で、2回目は最終日、広島の入野と言うところへ撮り鉄に行き、帰り広島から帰る列車が決まったおらず、時間的に「かもめ」に乗って京都まで帰りました。岡山までは、満員で立ってましたので食堂車には、行けませんでした。のではなく、もうお金も乏しかったため。この当時、ビデオカメラなんてなかったので、音と写真しかありません。白鳥は、京都の駅の連絡橋から京都駅の1番線に入って来て、発車して行く新潟行きの白鳥を小学校の時に見た事があります。秋田まで白鳥に乗ったのは、いい経験されましたね。この当時は、やはり特急は特急の風格がありましたが、今はまるで急行みたいな気軽に乗れるような特急で少し風格が感じにくくなったように思います。
まつかぜに乗って食堂車でご飯食べて博多まで行きたいって思ってました 当時中学生だったのでアルバイトできる年齢になったらいつか行きたいと思ってたら食堂車がなくなってしまいました ぎりぎり長距離昼行特急の食堂車に間に合いませんでした。
+takeda さん メッセージありがとうございます。そうですか。残念ですね。食堂車。これも、時代の流れなのかもしれませんね。私は、子どもの頃、特急なんてなかなか乗れませんでした。せいぜい急行列車ばかりだったのです。そして、窓を開けて、駅弁を買ってもらい、ボックス席で膝の上に弁当を置いて急行列車の中で食べた覚えがあります。当時は、クーラーも無く、急行は窓を開けるのが当たり前だった時代なんですね。そして、始めて特急に乗ったのが、小学校5年の時。家族で食堂車に行きました。でも、初めて行った食堂車。何故か、落ち着かなかったのです。でも、やっぱり、特別急行に乗ったんだ!って思いがしました。この当時は、特急は1時間以上ノンストップと言うのがざらでしたからね。さすが特急!って言う時代でした。今では、昔急行すら通過していた駅に特急が止まっているし、何でも特急にしとかないと、儲からないのかな(笑)
大阪から東海道本線~福知山線~山陰本線~山陽本線~鹿児島本線で博多まで約半日かけて運転する形態は昼の特急としては今では考えられないほどのスケールですね。結局85年3月改正あたりで米子以西で系統分割されていそかぜ創設されたのだが。これも西側が小倉に短縮され東側も益田に短縮を経て廃止になってしまいました。 あと、旧餘部鉄橋の走行シーンも圧巻でした。
この「まつかぜ」は、山陰本線に初めて走った特急列車で、当時は博多まで行っていませんでした。大阪と米子か松江で1往復でした。その後、博多と大阪を結ぶ山陰本線の特急列車になったのですが、その当時は、今とは違う交通網だったみたいです。今は、鉄道も変わりましたが、道路が発達して、鉄道利用者も変わってしまったようですね。
懐かしい、JNRのマーク。まつかぜの博多行きは、食堂車もつないでいましたね。長い編成でもさすがに途中、鳥取で切り離すのですね。
そうそう、この頃はキハ181系も有ったのに、長距離のまつかぜに80系を使っていました。なんか、聞くところによると、キハ181系は、故障が多かったみたいですね。
昭和51年に「まつかぜ1号」に乗った時は、全車指定席でした。
なるほど、さすが特別急行列車ですね。
大阪発福知山線、山陰線経由博多行き。すごいですね。特急おきでも今では長距離なのに、、、
この当時、この車両はキハ80系でキハ181系と言う新型車両があったにも関わらず、中距離に新型を、長距離に旧型を使っていました。まあ、色々と事情があったのでしょうね。
私が聞いたところキハ181系は故障が多く中央西線電化で高山線に白羽の矢が当たったとき信頼性の高いキハ80系を選んだと聞いてます。長距離は不安があったのでしょうか。
181系は、故障が多かったのですか?もし、故障が無かったら高山本線に使っていたのかな?それで、古い80系を長距離に使っていたのですか。なるほど。
@@HobbyVideos 181はつばさ時代に板谷峠でオーバーヒートがあってそれ以後敬遠されていたそうです、系統分割迄博多まつかぜが82系のままだったのも九州側が181の受け入れに難色を示していたかららしいです。
今は岡山を中心に新幹線と伯備線やくもで米子方面に行くのが殆どです。特急いそかぜでも博多から米子まで7時間は掛かりました。利用者が段々と少なくなりのぞみの台頭もあってか博多発は小倉発に益田まで短縮され福岡北九州のいそかぜは川棚温泉や長門、萩観光で利用するに過ぎず、高速道路の整備が進みマイカーやレンタカーで西山陰観光が多くなった。1999年についにまつかぜからの伝統の山陰特急のいそかぜは廃止になった。米子鳥取の新型ディーゼル特急の「スーパーまつかぜ」は生き残っている。
メッセージありがとうございます。高速道路の整備が進み・・・・・と言われるように、道路はどんどん高速化するのに対し、鉄道は明治か大正時代に建設した狭軌の単線のまま。これじゃーもう時代に乗り遅れていますね。新幹線まではいらないが、せめて標準軌、複線にして、最高速度200km/hくらいは出せる鉄道にしないといけない時代になっていると思います。そうすれば、マイカーで行く人のいれば、鉄道を利用する人も居ると思います。今の、狭軌の単線の山陰本線は、もう使命を終えたような感じですね。
「やっぱり運転していて楽しかったな、ゴッパーニッパーの「だいせん「はくと」、DD54で出雲も牽いたよ、キハ82まつかぜはよかったなぁ」 今日、丹後の鉄道の運転士さんから聞いた話。国鉄時代がそのままよみがえってくるようでした。 そんな気持ちで動画を探したらこちらへ。ありがとうございます
メッセージありがとうございます。それはそれは、楽しい思い出話をたくさん聞かれたそうで、良かったですね。国鉄時代は、今と比べてどうだったのか、分かりませんが、撮影する側からみても、あまり厳しくなかったのかなって思います。
そういえばそうですね。よく運転台に乗せてもらったものです。
うわ すごいじゃん!
大阪〜博多で使った。親がこんな時間かけてアホちゃうか?って言われましたね。山陰走破って点じゃ今あれば乗るけどなぁ‥食堂車もあって午前と夕方に行きました。
まあ、それは人それぞれ、時間をかけないで移動するだけが能じゃないと言う事でしょうね。
すっごく懐かしいです。1号だったかどうか忘れましたが、昭和59年、当時中学1年生。食堂車に乗りたくて、友達と鳥取→米子まで乗りました。今は187系が1時間を切る鳥取→米子間、営業キロ92.7キロを1時間20分ほどで駆け抜けるまつかぜは、当時としては早い列車でしたね~当時米子に住んでたので、列車名は忘れちゃったけど、キハ58系の急行で鳥取まで行って、まつかぜで米子へその時の指定券は、実家で眠ってるはず。お年玉をはたいての大冒険キシ80で食べたのは、カレーライスだったかな~?懐かしい記憶を思い出させてくれて、ありがとうございます!
メッセージありがとうございます。昔は、特急は、必ず食堂車が付いていて、だいたい12輌編成って言うのが特急だったですね。そして、1日に数本しかなく、特急が輝いて見えていました。そして、時代の流れとともに、食堂車の無い特急が増え、キハ82が少なくなり、どういう訳か、長距離の博多行の食堂車を連結したまつかぜの方が古い80系を使って、中距離の列車の方が、181系を使ってましたね。普通なら、長い距離を走る方に新しい車輛を使うと思うのですが、どんな理由があったのでしょうかね。私は、まつかぜには大阪から城崎までしか乗りませんでした。そこから、金沢の方へ行かないといけなかったので、普通なら雷鳥か立山で行くのですが、1度は乗っておこうと思って、まつかぜに乗ったのです。そうそう、私は、この時、城崎から、金沢行きの急行「大社」に乗ったのですが、もしかして、キハ58の急行ってこれかも知れませんね。お年玉をはたいての大冒険でも良かったじゃないですか?もう2度と乗れない列車にもう2度と帰ってこない青春の思い出が出来て。
国鉄時代の鉄道ファン本当にいい思い出になってますね~今では特急も2両編成だったりしますが、短くても9両とか、あの当時の特急は堂々としてて、輝いてましたよね普通列車は冷房も無い旧型客車でしたから、冷房がついてるっていうだけで、ものすごく豪華に感じてました。そうそう。ドアも手動の旧型客車。完全に止まる前にホームに飛び降りて、駅員にこっぴどく叱られたことがありました。これも、もう2度と体験できない思い出ですね~
青山英浩 さん メッセージありがとうございます。え~~ 特急も2両編成なんですか?まあ、近鉄特急なんかだったら、難波発の名古屋行きノンストップ特急なんて、2両でしたが、国鉄は、特急と言えば12両って言う時代でしたね。そして、1日に1本だけ走っていて、輝いていましたね。もう、私がビデオを撮影し始めた時代は、そんな国鉄から、少しづつ食堂車が消え、豪華だった特急が、誰でも乗れる庶民の足みたいな感じになりつつあったようです。食堂車はなく、急行よりも特急の方が一杯走っている。特急が庶民の足と言うか、私こんな経験があります。奈良駅で、奈良から東京まで普通と快速で行こうと思って、東京まで乗車券を買おうとしたら、「特急券は?」って聞かれて、「特急券が無いと、乗車券は売れません」って言われて、東京までの切符を売ってくれなかった事があります。つまり、誰でもみんな特急に乗れ!って事なんですね。仕方がないから、私は100円の切符を自動販売機で買って、東京へ行きました。後は、車内精算か、東京で精算するしかないって感じでしたね。完全に止まる前にホームに飛び降りる時は、駅員に見つからないようにやらないと・・・・・
国鉄時代の鉄道ファン 今では山陰の特急は2両が多いですよ~国鉄の終わり頃、昭和50年台の終わりくらいから、急行が特急に格上げになり、どんどん消えていったりして、一気に特急が「庶民の足」になった感じがしますよね~あの頃、米子を発着する鈍行は東は大阪・京都西は関門トンネルを越えて、門司まで行く列車もありました。終点まで乗ると、ゆうに10時間以上。当時小学生で、乗るだけのお小遣いはなかったけど、よく、友達と学校が終わった後に米子駅のホームに入場券で入って、いつか乗ってみたいな~って、思いながら眺めていたのを懐かしく思い出します。旧型客車を6両くらい連ねた鈍行も、「フリークエントサービス」の掛け声とともに、どんどん運転区間が短くなり、急行廃止で活躍の場を失ったキハ58系など、気動車に変わっていった記憶があります。今は故郷を離れて、帰省で新幹線やサンライズ出雲を使います。確かに、早く便利で快適にはなったな~って、思うけど、遠いところへ旅をする。っていう感じは、薄れてきたかな~って思います。ここの動画を見させてもらうたび、その失った感覚を思い出させてもらってます。あの、懐かしい国鉄。思い出させてくれてありがとうございます。動画、楽しみにしてます応援してます!
青山英浩 さん メッセージありがとうございます。山陰地方で育った方なのですね。私は、小学校1年の時まで鳥取にいたのですが、小学校2年からは兵庫県に引っ越しました。でも、その小学校1年の頃の長~い編成の1日1往復の特急まつかぜとDF50の牽引する旧型客車の普通列車、そして、キハ55/58の急行列車。それが大人になっても忘れられなくて、まだ残っているのならば、ビデオに残したいと山陰に撮影に行ったのです。 でも、12系の客車が普通列車に投入されるようになって、「ああ!これで終わった」って思いました。山陰の映像は、もう少し残っています。今、今までのパソコンが壊れて編集できませんが、復旧したらまだアップしていない映像をアップしますのでよろしくお願いします。
メッセージありがとうございます。お昼にアップロードしたばかりなのに、夜見るともう10件もアクセスがあるなんて、ビックリ。そんなに感激していただけるとは、こちらも嬉しいです。
この映像私の地元が映っています。小田~田儀の所、この頃まだ山陰本線は、いろんな特急、急行など走っていて賑やかでした。特に、いそかぜ、おき、急行さんべ、寝台列車出雲浜田~東京などこの映像は私が、高校生に撮影された時です。
まつかぜには乗ったことがありませんが、(いそかぜ)は 廃止されるまでよく利用してました(地元が長門市、住まいは小倉)私は鉄道に詳しくありませんが、(まつかぜ)と(いそかぜ)の車両が良く似ているなと感じました。猫のようなお顔の先頭車両、懐かしくて涙が出ました。
なるほど、私は いそかぜ は、知らなかったけど、今、インターネットで画像を検索したら、この まつかぜ よりも新しい車両ですね。この まつかぜ は、日本で最初に作られた特急用のディーゼルカーで80系なのです。しかし、出力の小さいエンジンでしたので、新しく大出力エンジンの車両を作ったのが、いそかぜ の車両で181系になります。形はよく似ていますね。181系と言い換えたら、大出力の新走行装置に、80系の車体をのせたようなものですね。
@@HobbyVideos さんお詳しい説明会ありがとうございました。また他動画も拝見させていただきます🙇♀️
国鉄時代は大阪からだと福知山線または播但線経由、京都からだと山陰本線経由がそれぞれメインでしたが、智頭急行が開業し特急「スーパーはくと」が走り出すと、関西対山陰のメインルートはそちらにシフトし、山陰本線城崎温泉以西は後に相谷信号場を失うどころか柴山・鎧・久谷・居組の4駅から交換設備が消え、さらに滝山信号場でさえ使用停止状態に陥るという、一転して二流ローカル線に陥落してしまいました。
やはり、スピードですよね。私の友達で、昔大隈重信がイギリスに鉄道を買いに行った時、時速130km/hで走る標準軌の汽車があったそうですが、その鉄道を買って来ておけば、鉄道は、こんなスピードで走るものだ!と言う事で、全国に線路を敷いて、スピードの出せる線路が全国に広まっていたと思うと言うのです。まさしく智頭急行のような線路だらけになっていたとしたら、今の廃線になるような事はなかったのではと言っています。
下の方が「大阪から博多まで乗り通したい」という気持ちほんと!!よーくわかります。私は当時は小学生。もちろん用事もないのに親戚の住む香住・浜坂を通過する『まつかぜ1号』など乗れるはずもないでしたし、今でしたら、それなりに余裕もあるのでほんと乗りたいですねー。もし・・・リバイバルとしてまったく同じ編成と当時の座席、そしてキハ82で運転してくれるとするならば、大阪~博多間をグリーン車で片道で50万円出してもぜんぜん惜しくないですね。あのよく糊のきいた腰まである座席のリネンカバーと臙脂色というのかワインレッドのような色に黒のストライプが入った段織りのモケットシート。思い出すだけでたまんないです。
jxfds369 さんメッセージありがとうございます。何か、昔の事を思い出させてしまったみたいですね。そうですね。特別急行 ですね。城崎から大阪というと、夕方から夜ですよね。実は、私も小学校1年のころ鳥取に住んでいました。よく、鳥取駅へ行ってまつかぜを見ました。当時は、山陰本線に唯一 1本の特急だったのです。DF50牽引の茶色の旧型客車とキハ55、58系の急行列車のなかに、1日に1本、赤とクリームの車体が輝いて見えました。 親戚が大阪にあって、大阪へ行くのに、まつかぜ に乗りたい って父に言ったら、時間帯が合わないからだめだ!って言われ全然乗れませんでした。その後、私は姫新線の本竜野に引っ越して、まつかぜ を見る事は無くなったのです。 でも、やっぱり子どもの頃に見た特急まつかぜ・・・・小学校の高学年になると、形式番号を覚え、キハ82だと言うことを知りました。そして、子どもの頃は紙でHOゲージのキハ82を作ったりしていました。 高校になって、少しづつ自由に行動できるようになって、山陰本線の写真を撮影したり、走行音を生録したり、そして、大人になって、ビデオと言うもので動画を記録できる機材を買うなり、私は思い出の山陰へと車を走らせていたのです。 jxfds369さんの父親も鉄道旅行が好きだったのですね。私の父親もそうでした。私は小学校5年の12月に、奈良に住んでいて、奈良から急行かすがで亀山へ行き、そこから天王寺まで特急くろしおに乗せてもらいました。まつかぜ ではなかったのですが、これが、私の生まれて始めて乗った特急でした。それが、キハ82型、当時は、900番台のキハ82が連結されていて、一見グリーン車が3輌って思いました。私の場合は普通車のキハ80だったのですが、同じように忘れられない思い出の車輌です。でもね、年配の鉄道好きな人って、みんな言いますよね。キハ82は名車だって。 ところで、グリーン車の車内。少しだけですが、今アップしてある おおとり の中に写っています。
再度、まつかぜ号を拝見させて頂きました。今のまつかぜ号は、スーパーまつかぜ号として、島根の益田市から鳥取県の鳥取市を3時間位で走っています。昔のまつかぜ号は、12両編成でしたが、今のスーパーまつかぜ号は、2両編成です。今の特急列車には、食堂車が無いし、移動販売も無いし、おまけに禁煙で愛煙家の人々には、キツイです。ディーゼル車の力強さ、出発の時に、黒煙を上げる時は、しびれる感じがします。昨年の夏に京都に行く時に、岡山駅から新幹線に乗りました。37年振り位に新幹線に乗りました。興奮しましたネェ、岡山から京都まで約1時間位で喫煙車両に行き、一服して、車内販売でコーヒーを買って、あっという間に京都に着いて、北海道から鹿児島まで日帰り出来そうですね。退職したら、実行します。
メッセージありがとうございます。まあ、国鉄時代は、親方日の丸って言われていて、赤字であろうが運転していたのでしょうけど、私鉄になるとそうはいかないようですね。乗らない列車は2両で運転したりするのでしょうね。昔、私が奈良に住んでいた時に、近鉄の特急がありました。ほとんどが2両編成で、大阪線の名古屋と大阪を結ぶノンストップ特急も2両でした。車内は当然禁煙だったと思います。新幹線で岡山から京都まで行かれたそうですが、300km/hで走った区間が有るようですね。でも、トンネルが多かったのではないでしょうか?
コレしか撮ってないんじゃなくて、コレを拝見する限り「ここまで粘って撮っていたのか!」としか思えませんよ。恐らく何日かに分けて数回ロケーションして撮られたんだと思いますが、よくぞ撮りましたね。しかも銀塩写真よりビデオの方が却って保存が難しかったのでは?その点も含めていちファンとして感謝の念が絶えません。それにしてもキハ82!やっぱり「国鉄」の風格と気品が漂いますね。それと到着駅(豊岡)の普段の駅員アナウンスが、一層旅情を掻立てますね。自動放送では決して醸し出せない心だと思います。私が高校生当時、上野駅(学校最寄り駅)に「鳴き」の名調子を聞かせる駅員さんがいらっしゃいましたが、今現在の鉄道ファンの中高生があの「鳴き」を耳にしたら、きっとカルチャーショックを受けるでしょうね。昔はどの主要駅にも必ず名調子の駅員さんが居たんですがねぇ。そうそう、京都行きの普通列車の離合場面の写真がありましたが、あの写真の普通客車列車の牽引機はDF50ですよね?
気動車特急の代表と言えばまつかぜ、いそかぜ、初期の頃のはつかり、白鳥、今も走っているおおぞら、北斗、南風、ひだ、はまかぜ等名列車ばかりです。私も乗り鉄です。
なるほど、それで京都から博多まで乗られたのですね。在来線の特急券は、これだけの長距離を乗っても上限が決まっているからよかったですね。
「まつかぜ」には1965年の8月に鳥取まで乗車しました。当時は京都発で大阪から福知山線経由で山陰線に入り博多まで運行していました。13両編成のキハ82系はさすが特急型気動車の迫力があります。鳥取なら終点博多まで乗車したい願いは叶わず1980年代に廃止され残念です。「まつかぜ」の食堂車から日本海の美しい景色を眺めたかったです。今の山陰線の気動車特急は2両編成の実用一点張りで魅力に欠ける車両で乗りたい気分になりませんね。往年の名車両キハ82系も今は無く、私がビル・ゲイツの様な大富豪ならば「まつかぜ」の1編成を購入してメインテナンス等を含む維持費の全てを負担して運行のみを国鉄(JR)に任せて年に数回はイベントで京都(大阪)⇔博多間を走行させればマニアは泣いて喜ぶのでは?
メッセージありがとうございます。そうですか、82型まつかぜには、特別な思い出があるようですね。私も、生まれた初めて目の前に停車した特急を見たのが、この まつかぜ でした。 それなりに、私もこのキハ82型は好きなんです。また、当時は、13両編成、12両編成が特急の定番で、それも長距離列車が定番でした。このまつかぜ を含め、白鳥など、とにかく子どもの頃には、この列車の終点ってどんなところだろう?なんて興味を持ったものでした。 今の山陰の事情はよく知らないのですが、特急が2両なんですか?この2両の特急と聞くと1つ思い出すのがあります。当時、国鉄の特急は12両などが定番だった時代に、2両の特急が私鉄ではしっていました。 それは、近鉄の難波と名古屋間を走るノンストップ特急なのです。難波と名古屋の間に止まる駅は、鶴橋だったのです。つまり、この特急は、途中の乗降をいっさい無しにして、大阪と名古屋の人だけを運ぶまるで飛行機のような感じに思えました。そか、ビル・ゲイツの様な大富豪だったら・・・・・マニアが泣いて喜びますよね。その前に、沿線は、パニックになるのでは(笑)出来れば、キハ181も12両食堂車付きで購入しておいたらいいかも。上りを82で下りを181で、交換する場所は、どこかの信号所・・・なんて。でも、パニックにならない程度にしておかないと・・・・・私は、貧乏人なので、HOですら変えない(笑)
HOのキハ82系、クロ151系、クモハ157系、C58SL、ナハ10系、オユ11系を小学生時代に購入して今でも大切にしています。キハ181系「はまかぜ」には7年前に浜坂から和田山まで乗車しました。食堂車も無い4両編成(最低8両編成でないと)は特急列車の魅力に欠けますね。キハ181系も今は無くなりましたがスタイル的には82系の方が私は好きです。キハ58系、クハ153系、20系客車、旧型客車、クハ86系、EF58、C62、EH10等国鉄時代の車両は個性が有り楽しかったですね。
Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。すごいですね。HOをそんなにいっぱい持っておられるとは。私は、貧乏人なので、完成品を買ってもせいぜいKATOのプラの車両でしかもモーターなしの車両を買って飾っている程度です。しかも1両づつ・・・編成にするとプラとは言え良い金額になるので。それで、自作でトワイライトエクスプレスを1編成作りました。自作と言っても、やはりパーツ代だけでも3~4万円はかかったと思います。キハ181よりスタイル的には、82の方が好きと言う方は、多いですね。私もその1人なんです。でも、この便妙な違いって言うのが、ファンには、たまらなくて、模型を作って飾っておきたいのですが、キハ181系は、台車が変な台車で、屋根の上の黒いやつを作るのが面倒でどうも自作には手が出ません。 また、キハ181系の方が新しいにも関わらず、まつかぜの博多行などの長距離列車に古い82を使っていたと言うのも、なぜか興味深いですね。
長距離列車が少なくなったのは寂しい
これも、時代の流れなのでしょうね。
大阪始初の前は京都が始発で長い編成でした。
メッセージありがとうございます。確か、そうだったかなって思い私の持っている一番古い時刻表を見てみると京都 7:20発ってなっています。そして、時刻表には まつかぜ としか書かれておらず、1日に1往復だったのですね。1号車から6号車までが博多まで行き、7号車から12号車までが京都から米子までの車輛って書いています。ちょっと不思議なのは、キハ82は、キロ80を連結しないと、3・4位(お手洗い側)同士の連結が出来ないって聞いたんだけど、米子切り落としの編成は、キロは繋がっていませんね。キハ80にお手洗い側同士の連結が出来る様に改造した車両もあるって聞いたのですが、もしかして、まつかぜは、その改造車を使っていたのかも知れませんね。私も、そこまでは分かりません。
@@HobbyVideos 付属は昭和57年7月(伯備電化)迄は鳥取回転、以後米子回転でした。増発分は初代「やくも」(大阪⇔米子)からの改名ですね。
高校時代に朝通学時に高架の下を博多発のまつかぜ号上りが通過していました。乗ったことは無いけど、懐かしいですね。
メッセージありがとうございます。朝の通学時に上りが通過すると言う事は、九州なのかな?この列車、走る距離が長いから、色んな人が色んな所で見ていて、色んな思い出を作ってくれた列車なんですね。
@@HobbyVideos 当時博多から3つ目の香椎駅ですね。もう40何年前の話です(笑)
上り、まつかぜ4号は、博多から、終点大阪迄あります・・・全区間指定席利用ですが、途中昼夜食堂車と利用した事がありますが。車内販売もコーヒーが何杯飲んだことやら。
メッセージありがとうございます。上りのまつかぜに全区間乗られたと言う事で、とってもうらやましいです。私も、山陰本線の風景は、海沿いを走ったりして、とっても美しい風景があるのは知っていますが、私は、普通のDF50牽引のオハ61で通ったり、特急に乗っても、おき で夕暮れの山陰本線を走ったくらいです。季節は、いつだったのでしょうか?日が長ければ、結構風景も楽しめたと思います。
国鉄時代の鉄道ファン全区間乗車は、紅葉が見頃な頃ですから、10月か11月上旬でしたね。最初は日本海沿岸を見ながらですが。日本食堂の乗務員も、米子で交代しでいた記憶があるのですが。終点、大阪で下車しで新大阪から新幹線で岡山経由で倉敷迄戻りました。
この動画は単に”特急まつかぜの記録“に留まらず、明治時代の鉄道黎明期から現在に至るのでの日本の鉄道の歴史を語り継ぐ上に於いて欠かすことの出来ない極めて歴史的資料価値の高い貴重な物だと思いました。今では新大阪~博多間は新幹線で二時間半弱で結ぶ所を(九州新幹線ならば大阪から鹿児島中央駅まで日帰りも十分可能ですね。)旧国鉄時代は、京都・大阪~博多間を在来線を走り、しかも山陽本線では無く山陰本線を経由して13時間以上掛けて(走行距離も800キロ近く!!)毎日定期運行されていた事に驚きます。食堂車も連結し、最大12~13両編成で走行していたとは・・・。長大な車両編成ならば当然停車駅のホームも長大で、さぞかし壮観な光景が日常見られたのでしょうね。山陰の白砂青松の風光明媚な美しい日本海の景色を眺めながら、食堂車にて食べる食事は一層格別で筆舌に尽くし難い程、美味しく贅沢な物だったのでしょう。食堂車で食事をする事を知らぬ世代にとっては本当に羨ましい限りです。国鉄時代の時刻表を眺めると、山陰本線を走り通す鈍行列車も存在し一部は夜行で寝台も連結して、中には昼行の"超"長距離鈍行列車も毎日定期設定されていたとは・・・。今現在の山陰本線の時刻表を紐解き眺めると、山陰本線を走る特急列車も分断され、益田~下関間は優等列車の設定も無く、乗客もほとんど居ない錆び取り列車が細々と走るのみ。人口の閑散な区間を走る路線の抱く宿命とは云え、本当に寂しい限りです。比較的経営が堅調なJR西日本も、毎年莫大な赤字を垂れ流す赤字ローカル路線は本音では直ぐにでも廃止、バス転換したいのでしょうが、地元の反対も有り、中々”赤字路線廃止”には踏み切れぬ様ですが、JR西日本も公共性が高いとは云え、一民間企業としても維持するのは矢張限界があり中々難しい様ですね。鉄道も電気、ガス、水道等と並ぶ重要な社会的インフラですので、国、行政からの支援、補助もお願い申し上げたいですね。
メッセージありがとうございます。昔は、クルマよりも鉄道で移動する時代でしたが、今は多くの国民がマイカーを持ち、高速道路も発達し、鉄道よりもクルマで移動するようになってきました。高速バスもその1つですね。道路は、高速道路も含め、一般道やバイパスなど、どんどんスピードアップ出来るように改良されている中で、鉄道は明治時代に開通して、ほんの1部が高架になったり、トンネルで高速化できるようになったりしているが、やはり速度は、120km/h程度が限度みたいですね。新幹線は別として、ほくほく線や、京成スカイライナーなどは、160km/hのスピードで走っているけど、やはり、今の山陰本線の運行スピードでは、クルマで移動する方が便利ではないかと思います。つまり、移動するのに時間がかかる鉄道はだれも利用しなくなり赤字になっているのでしょうね。もし、この在来線を時速200km/hで走る事が出来たら、クルマで移動する人も居るでしょうけど、鉄道で移動する人も残ると思います。つまり、もう今の在来線の狭軌の鉄道、明治時代の鉄道の時代は終わったのではないでしょうか?中途半端に営業してないで、一旦廃止にして、もっと高速運転が出来る鉄道を作り直すべきですね。今のクルマ社会の時代は、やはり200km/hで走れる鉄道を作らないと時代にそぐわないと思います。もう一つは、クルマで駅に行って、駅に無料でクルマを停めておいて鉄道に乗れるかどうかと言うのも利用者の増減に影響すると思います。
特急まつかぜは、S36.10の改正ダイヤの目玉特急として誕生しました。当時は京都〜松江、はくちようと同じ運用であり、車庫は京都向日町運転所が新たに設置された。城崎と豊岡停止は上りと下りでビッコだった。台車のDT31はよくパンクし、処女運転ではパンクした82系の代わりにキハ58に取り替えたこぼれ話がある。
へえ~DT31がよくパンクしたのですか?キハ58に取り換えたのは、知りませんでした。
あの当時は朝早く8時から夜遅く20時までを長距離を走っていらっしゃったそうですね。のんびりゆっくりもいいかも。のんびりお昼寝もしたり景色を見たり、買いだめした弁当やパン、ジュースにお茶も必需品ですよね。(^_^)
メッセージありがとうございます。大阪から、九州の博多までそれも非電化区間を走るのですからね。今の新幹線からしてみれば、のんびりゆっくりの旅なのかも知れませんね。でも、この当時は、やはり特急列車だったので、それなりに速かったのだと思います。 この当時、山陰本線がキハ82型で走っていたのと同時に、山陽本線にも、キハ82型が走っていました。それは、特急「かもめ」なのです。山陽本線は、さすがにスピードを出していました。私は、大阪から山口県の厚狭までしか乗らなかったのですが、「かもめ」の最終日にも、広島から京都まで乗りました。
それなら、なおさらの事。長距離をよく頑張って走っていただいたことは偉大だと思います。
MultiFutami さんメッセージありがとうございます。ですよね。しかも、この車輛、初代ディーゼル特急キハ80系なんですからね。 国鉄マンにとっては、特急としては、パワー不足と言う事で、キハ181系を作ったらしいですが、この長距離特急にキハ181系が使われることが無く、キハ80系が走っていたと言うのも、何か名車と言われる要素があるのかもしれません。てっちゃんの間では、名車と言われているようです。
もう自由に行動できるようになった頃には何もかもが引退していた。あと十年早く生まれたかった。乗らずして185系も引退してしまった。やくもだけは乗りたい。
やくもですね。乗りましょう。私はもう北陸に住んでいるのでこちらも乗りたい車両は無くなってしまいました。
小学生の頃を、思い出す。いつも米子に帰省列車は、急行大山。特急まつかぜに乗車したくて、母親にお願いした。念願の特急まつかぜで米子に帰省する前日、熱発し結局まつかぜに乗る事は、なかった。それでも「帰る!」と言ってゴネた事が思い出される。
メッセージありがとうございます。発熱して、帰らなかったのかな?私も、鳥取に居た時、大阪の親戚の家に行く時、まつかぜに乗りたいって言ったけど、当時1日に1往復しかない列車で、時間が合わなかったため、乗る事はありませんでした。学生になって、大阪から、城崎まで乗ったのが1回だけです。
メッセージありがとうございます。いやいや、九州まではいくら何でも足を伸ばせないので、せめて、大阪駅の発車シーン、東海道本線から福知山線へのオーバーパスするシーン、などなど、を撮影しようと思っていたのです。でも、ビデオも無かった時代に、大阪から城崎まで、まつかぜの走行音を録音しておいて良かったと思いました。まさか、こんなところで使うとは考えても居ませんでした。香住の駅弁は、美味しいのですか?そうそう、食堂車にも行かないと・・・・・まつかぜに乗った事にならないよ!
博多到着時刻を聞くと気が遠くなりそうな到着時刻案内。
メッセージありがとうございます。そうですね、でも昔はこれが当たり前だったようで、でも、大阪から博多まで新幹線の開通している時代にまた、飛行機もいっぱい飛んでいる時代に、このまつかぜに乗って始発から終点まで行く人は、私以外にいないかも・・・・でも、昔は特急も普通列車も結構長距離の列車がいっぱいありました。気が遠くなる・・・・・でも、乗ってみたいのは私ぐらいかな(笑)
こんなにいい映像でしたら、もっと閲覧数行くでしょうね。関門トンネル内は、自走だったのでしょうか?
takai1971jp さんメッセージありがとうございます。閲覧数行くのは、最初だけなんですね(笑)関門トンネル内は、分かりませんが、たぶん自走ではないでしょうか?ディーゼルなので、交直切り替えも関係ないから。
国鉄時代の鉄道ファンぼくが、宣伝します! 自走かどうかについてですが、海底トンネルは、陸上トンネルより、防災上の制限が厳しい、と聞いていたので・・・
ご覧になられるかどうか分かりませんが。。。 自走してました。 博多-黒崎-小倉-下関の順で停車してました。 自走なので、門司には停車してませんでした。
私も小学生の頃良く写真撮りに行きましたよ。
そうですか。と言う事は、貴重な写真が一杯有るのですね。ネガを大事にしてね。
いますぐ復活させるべきです。自分も博多から鳥取まで乗りました。食堂車は良かったです。9時間かかりました
もう、新幹線の時代に無理でしょう。観光列車として、復活は、良いかもね。でも、鉄道車両にしろ、自動車にしろ、二度と同じデザインの車輛を作ろうとしないですね。人間って!
昭和の時代がよかったです😊
でも、今みたいに、4K動画をスマホで撮影できませんよ。
まことに申し訳ないのですがまつかぜごうには一回も乗ったことがありませんでした。
別に、誤る事なんかないですよ。私も、撮影はしている物の、乗っていない列車なんて一杯ありましから。
今じゃ考えられないくらい停車駅が少ない…
そりゃー、特急ですから。この当時は、急行が特急の止まらない駅をフォローしていました。
ありがとうございます。懐かしいです。「まつかぜ」は最初は京都駅発福知山線山陰本線経由松江駅行きでした。その後博多駅まで延長されたと思います。私も若い頃に京都から博多まで乗り通したこと記憶しています。今では考えられない特急ですね。
すごい、京都から博多まで乗ったのですか?だんだん飽きて来なかったですか?
山陰本線の日本海が飽きさせなかったのかな?
まつかぜ1.4号私が高校入学前に短縮されましたが山陰住まいながら大阪・博多に親戚多く、当時の親の話によるとわたし兄弟が乗り換えを嫌がるのでこの列車と急行さんべ2・3・5・6号を多用しておりましたので記憶にはっきり刻まれています。特に上りのまつかぜ号、福知山線に入ってキシ80でカレーライスを食べてる写真がたくさんあります。宝物であり、棺桶に持ってゆきます。 いい時代でした、、、
メッセージありがとうございます。
キシ80でカレーを食べた思い出ですか。ちょうどそんな時間帯なのですね。
昔は、特別急行には、食堂車が付きものでしたからね。ほんと、良い時代でした。
半泣きです。
事情あって小学校2年の時、3つ下の弟を連れ、大阪から母の育ての親のいる出雲市まで、このまつかぜに乗って行きました。
冒頭の車内放送。これを、僕はどんな思いで聴いておったでしょう。忘れません。心細さ限界MAX、「いずも」の名前が出るまで必死で耳をすまして聴いていたのを覚えています。(これに乗っていたら出雲までいける、出雲までいける、出雲でおりるのを間違えなければ必ずいける…)大阪を出た時、そんな思いでした。進行方向左側の席に、弟を前に、僕はその向かいに進行方向に向かって座っておりました。子供の二人連れでしたので、いろんな人が話しかけてきたのを、内容はさっぱり覚えておりませんけれども、覚えております。僕はこの動画をみるまで、出雲にはずっと二時に着いたと記憶していたのですが、車内放送では二時半といっておりましたね。それで、思い出しました。二時半だったかもしれません。年齢と誕生日から考えて1974年の夏だったはずです。余部の鉄橋を渡る時、今からわたるとかなんとかの放送があったはずです。それも思い出しました。とにかくこの大阪を出た時の車内放送、マジの半泣きで御座いました
アップロード、本当におおきにどうもありがとう御座いました!!
いやあ、泣けもうした!!!!!
+松田昌彦 さん メッセージありがとうございます。
小学校2年で大阪から特急で出雲までの旅は、すごいですね。
私は、一人で列車に乗ったのは、小学校4年が初めてでした。
普通列車で、姫新線の本竜野から姫路往復でした。
まあ、4年と言う事もあって、また本竜野と姫路間は、親と何回も乗っていたので、子どもだけでも慣れたもんでした。それに比べると大阪から出雲市は、小学校2年にしてみれば、大旅行だったのでは、無いでしょうか?でも、2度と帰ってこない幼い頃の思い出。貴重な経験されたと思います。
いろんな人が、私の動画番組を見てくれて、みなさん、いろんな人生の思い出を語ってくれます。
本当に、鉄道って人生を運んでいるのですね。
えええ!大阪から出雲を子供(というか幼児??)二人で!?そりゃ周囲も話しかけますって。一体何時間かかったことやら。
車掌さんとか来ませんでしたか?知っていれば多分保護というか、気にかけてくれたと思うのですが・・。
とにかくお疲れさまでした。今だとtwitterに上げられちゃう案件ですよね‥世も変わりました。
ディアゴスティー二の鉄道プロジェクトのCMをみて、なんだか昔を思い出し、ここにたどり着きました。中学生の時に博多から新大阪まで乗り通しました。あの頃は長距離の普通列車もたくさんあって楽しかったなぁ。
中学生の時に博多から新大阪まで行かれたのですか?
これまた凄い旅行ですね。
私は中学生の時は・・・・・ほとんど自転車ばかり乗っていました(笑)
当時 既に新幹線が博多まで開通していたのにこの特急が走っていたのは驚きだ。
+99kc501 さん メッセージありがとうございます。
この列車は、山陰経由で博多へ行くために、鳥取や米子などの日本海側の人を運ぶために有ったのだと思います。
当然、大阪から博多へ行く人でこの列車に乗る人は、私以外にはいないかもね(笑)
@@HobbyVideos しかしその後、米子以西は「いそかぜ」として分離され、2005年3月まで運転が継続されました。
自分も大阪〜博多乗り通しましたが、そんな乗り方するアホは物好きだけでしたよ。関西〜山陰がメインでしたね。山陰〜九州は少なかったですね。食堂車もあって昼間の景色よくていい特急
懐かしい!!
ありがとう!!本当にありがとう
まつかぜ1号は今から40年近く前私が小学校2~6年の頃、当時福岡の祖父母の家に毎年夏休みに3週間ほど一人で行っていた時に乗っていた特別急行です
たしか大阪8:00発じゃなかったかな?
途中福知山駅でホーム上にあるうどん屋さんに大急ぎで月見うどんを買いに行くのが毎回の日課でした
あと、5年生の頃だったと思いますが、宝塚駅から乗ってき、浜田で降りた隣り合わせになったおじさんに食堂車でお昼をおごってもらったを今でも覚えてます
いい時代だったな~
+sugashi 12 さん あけましておめでとうございます
すごいですね。
私も、小学校の頃、一人で列車には乗ったことがありますが、普通列車か、または近鉄の無料特急くらいです。大阪を8時発を覚えておられると言う事は、大阪から乗車して福岡まで行かれたのですね。東海道本線、山陽本線にもっと速い特急などが、一杯有ったと思うのですが、山陰回りのまつかぜで福岡に行くと言うのは、時間に追われた大人の人生には出来ない経験ですね。
確かに、いい時代でしたね。
sugashi 12
まつかぜ1号は浜坂駅に止まらない高級な特別急行でした。あれは昭和52年だったか、中学2年だった私はたまたま駅近くを自転車で走っていたら、やけに長い82が来たと思ったら、1号車、2号車、3号車、・・・・と途中にグリーン車と真ん中あたりに先頭車同士がくっついていて初めて見るキシ80の食堂車まで繋がっていて何と13号車まで繋がっていた。浜坂駅を通過するときに超低速でアイドリングのカラカラと言う音を立てながらゆっくりと通り過ぎていきました。衝撃でした。それから鉄道の本を買ってプチマニアになりました。貴重な映像をありがとうございました。
メッセージありがとうございます。
浜坂での思い出が鮮明によみがえってくるようです。
13輌と言う事は結構古いですね。
私も13両のまつかぜは、1カットしかまともな映像はありません。
あの当時、特急は城崎から鳥取まで止まらなかったのです。
浜坂には、あさしおなどが停車していますが、昔山陰本線に特急まつかぜが走り始めた頃は、1日に1往復しか走っておらず、後は急行と普通列車でした。
急行が、浜坂や香住などを停車していて、まつかぜは城崎から鳥取まで止まらない列車・・・・当たり前の特別急行だったのです。
時刻表に1日に1往復のまつかぜが、普通列車と急行列車の中に1つだけ輝いていました。
それが次第に特別急行が増え、急行が減り、城崎と鳥取間にも停車する特急が出来て、まつかぜは、普通の特急から高級な特急になったのですね。
私は、このキハ80系82型と言う車両が大好きで、今でも80分の1の13mmゲージ(JMゲージ)の鉄道模型を作っています。ただ、キシ80が無いのでこれも作りたいと思っています。
母の実家に帰省する際によく乗った、懐かしい。初めて一人で乗ったのが小学校四年生の時、嬉しくて眠れなかった。東浜の画像も今は昔ですね。あの頃駅近くにあった学校も今は廃校、通過駅ですが妙に頭に残ってます。風光明媚だから豪華列車の停車駅になりましたが、随分と変わりました。
私は、この列車を撮影しによく山陰へ行きました。
東浜の駅、学校は、もう変わってしまったのですか?
数年前に久々に余部に行ったのですが、とにかくさびれていましたね。
ただ、余部鉄橋は、観光化されているようでした。
今は、能登半島地震と水害のボランティアに行ったりと、ろくにUA-camをやっている暇がないのですが、復興したら、また山陰の方へ行ってみたいと思います。
話変わりますが、能登半島へ、遠い所から、ボランティアが一杯来てくれているのですが、最近少し減ってきています。
能登半島は、まだまだボランティアが必要です。
だれか、このメッセージを読まれた方、ボランティアに行こう!と言う方がおられましたら、能登半島を元気にしに来てください。お願いします。
中学生だった1978年と1979年の夏休み九州の祖父母のところに行くのに憧れのまつかぜ1号に大阪から小倉まで乗車しました。食堂車でポークカツレツを食べたのが今となっては貴重な思い出です。
うわー!ポークカツレツは、高価だったでしょう?それは、素晴らしい思い出ですね。
大阪から小倉って長くなかったですか?
でも、良い経験ですね。
私は、幼稚園に入る前、山陰本線に初めて特急が走ると言う日、おやじに駅まで連れて行ってもらい、見た特急が
このまつかぜでした。小さい時の思い出って鮮明に残っている物ですね。
特急「まつかぜ」
いろんな思い出が込み上げてまいります。
祖父母が島根県在住で当時、小学生の私は夏休み、冬休みには大阪から帰りは大田市から乗車しておりました。
映像ほんとありがとうございます。まもなく還暦、いまでも好きな特急→まつかぜ 好きな車両→キハ82は変わらないです。
私と同じキハ82型が好きなんですね。私は、今その車両の模型を作っています。作成動画もいずれアップする予定ですが、まだ、なかなか完成しません。
素晴らしい映像記録の数々ありがとうございます。泣けますね。。。小6の時にたまたま本屋で見かけた山陰本線の特集本を購入して、首都圏ではお目にかかれなくなった長距離旧客普通やDC急行、DC特急の数々に一変にとりこになりました。次の年、中一になった夏休みに両親の実家である鹿児島へ行くのに、単独で山陰まわりで行きました。横浜から出雲3号で香住まで行き、普通に乗り換え餘部鉄橋へ。そして鳥取から「まつかぜ1号」に乗り博多まで乗りました。山陰のクイーンからの車窓はダイナミックで素晴らしく、特に長門市~下関の玄界灘に落ちる夕陽は絶景でした。博多からは同じく今は無き夜行急行「開門」で鹿児島へ。1985年のことですから「まつかぜ」としても末期でぎりぎり乗れたのでしょうか?ともあれ貴重な素晴らしい映像と思い出をありがとうござました。
+ejaki さん メッセージありがとうございます。
青春を思いっきり楽しめたようで、良かったですね。
私自身、ビデオカメラを買った時点ではもう社会人でした。
でも、子どもの思い出、そして青春時代の一こまを何とか記録できないかと、ビデオを撮影しました。
私のもう一つのチャンネルで、Japanese rail sound と言うチャンネルでつい最近、津和野から米子までの特急「おき」での車窓風景をアップしました。
益田からしばらく、日本海に落ちる夕陽。たぶん、進行方向は逆ですが、「まつかぜ」から見えた風景に近いのではないでしょうか。
2015年もあと1日ですね。今は今でやっぱ、年いっても心は青春でいたいですね。
では、良いお年を。
ワァー、とても懐かしい。涙が出ました。小学生時代、川西市に住んていました。小学校の沿線沿いに福知山線が走っていました。ちょうど小学生時代、朝礼が始まっている時に毎日、この特急列車が走っていました。福知山に知り合いがいる時に良く乗車させていただきました。とても懐かしい思い出です。アップありがとうございます。
どういたしまして!
福知山線も、この車両が走っていた当時は、旧線でまるで高山本線のようなところがありましたね。
しかも、それが、関西の町の中から急に山の中へと走っていたように思います。
@@HobbyVideos そうでしたね。またこの頃、毎日、福知山線で特急通過後はディーゼル機関車の2両客車で今は無き尼崎港〜川西池田までの普通列車が走ってました。
上野・青森間時代の583系はつかりを、身近に見続けた子供時代でしたが、
同じ食堂車付き13両編成の、函館・釧路間の80系おおぞらとともに、
このまつかぜも遠い世界の存在のような憧れがありました。
寝台列車も含めて、これら超長距離列車を駆使した日本一周旅行を、
時刻表とにらめっこしながら妄想したのが懐かしいです。
なるほど、時刻表をにらめっこ・・・・と言うか、時刻表の見方を知らない人が多いのではないでしょうか。
今では、スマホで何でも出来てしまうので。
貴重な映像ですね。
投稿ありがとうございます。
学生の時、松江⇒博多を利用しました。遠い思い出です。距離も遠かったな。笑。
松江から博多ですか?山陰本線は、あまりスピード出せないけど九州に入ったら、猛スピードで走っていたのではないでしょうか。
これまた懐かしい!中一の時初めて憧れの急行銀河(大阪駅0800着)に乗って、大阪駅に着いた時に、ギリギリでまつかぜとの並びを撮影できました!
メッセージありがとうございます
中一ですか!
私も、そんな若い頃、このまつかぜが、全てキハ82型で走っていたのです。京都発のあさしおも。
まつかぜと、銀河の並びの写真、二度と帰らない時間の記録ですね。
懐かしいですね。子供の頃、博多へ帰省する選択肢に到着時刻の関係で断念せざるを得なくて大阪から博多まで完乗するのが夢でした。乗車されて食堂車に行けた方々が羨ましいです。
博多に、着くのが遅かったのですね。
でも、大阪から博多まで乗る人はいなかったのではないでしょうか?
@@HobbyVideos さん、ご返信ありがとうございます。
S59年当時、小学5年生でした。福岡へ帰省する選択肢には新幹線、まつかぜ、S58から運行が開始された夜行バス“ムーンライト号”があり、後者を選択した結果、乗らずじまいとなってました。おっしゃる通り、全区間を通しての完乗される方はなかったと思うのですが、昼行特急での長距離乗車に惹かれる思いが合わさって選択肢に入れていた次第です。あの当時は寸分の時間でも列車に乗っていたい(特にディーゼル特有のエンジン音、振動を感じていたい)想いが強かったです。“まつかぜ”への乗車は叶いませんでしたが数年後に小郡から“おき”に乗車して回り道して博多へ帰省した思い出があります。
当時は、特急券は300KM以上はいくら遠くても上限の金額で下から、長距離に乗れば乗るほどとくでしたね。
私もまつかぜに乗っておけばよかったかなって思っています。
大阪〜博多乗り通しましたが、親からは新幹線あるのにわざわざ丸一日汽車乗ってアホちゃうか?言われましたね。結局のところ往復とも乗りました。当時高校生でしたが、厚かましく食堂車乗って、大学生か?って聞かれたのでその勢いでビール🍺頼んで飲んでましたね。色々緩くていい時代でした。
@@sunami808 さま
羨ましい限りです。山陽新幹線と違って車窓も綺麗な山陰線の旅、食堂車もあった古き良い時代ですね。
懐かしい列車です。母方の田舎が島根県の江津で小さい頃にまつかぜ1号に乗って
帰省したことがあります。確か当時は食堂車も連結されていました。
もっぱら帰省するのは新幹線で岡山、伯備線の特急やくもがメインだったのですが
まつかぜに乗りたいって両親に頼んだ記憶があります。
一昨年、湯村温泉に行くことがあり浜坂駅で鉄子の部屋という
簡易な博物館のご主人と話す機会があり
特急まつかぜのことを懐かしく語っておられました。
今思えば、山陰には名列車がたくさん走っていましたよね。
メッセージありがとうございます。
この まつかぜ は、私が子どもの頃に初めて山陰本線に走った特急だったのです。それまでは、キハ55の急行列車に普通は、茶色のDF50牽引牽引の旧型客車だったのです。
そんな山陰に東海道本線の特急こだまと同じ色のまつかぜが食堂車を連結して走り始めた時は、もう感激しました。
私の住んでいる家の2階から遠くにまつかぜが通るのが見えたのですが、キノコ型クーラーを背の高い水タンクでまつかぜだ!
ってすぐにわかりました。
その当時から私はこの車両キハ80系82型の大ファンになったのです。もう50年以上も前のことです。
懐かしい映像をありがとうございます。博多まつかぜって「特別急行」って感じがする列車ですね。13両編成でキハ、キロ、キシときちんと入っています。停車駅も少なくて本当に良いと思います。かもめがなくなってからは気動車特急はローカル特急って感じになってしまいましたから、博多まつかぜは別格だと思います。昭和48年に向日町から181系電車がなくなってからはあの雰囲気を味わえるのは80系気動車しかありませんでした。それも「くろしお」や「はまかぜ」等ありましたがやっぱり違います。80系は配置された機関区で大切に使われていた車両です。地方都市で初めて「特別急行」がやって来たというのは80系気動車が多いのです。風光明媚な所を優雅に走る!それが80系気動車だったと思います。
+chibita32 さん メッセージありがとうございます。
おっしゃる通り、80系の魅力をずばり言っていただきましたね。
私も子どもの頃、鳥取県の上井と言う駅の所に住んでいました。その時に山陰本線に初めて特急が走るからと、父親に駅まで見せに連れて行ってもらった事があります。
これが、私の80系との初めての出会いでした。と、同時に山陰本線に特急まつかぜが走り始めた記念日だったのです。当時私はまだ、幼稚園に入る前の年齢でした。そんな、子どもの時の思い出が忘れられなくて、そして、子どもの思い出を何とか残しておきたくて、旧型客車と同時に何度も山陰に行きました。そして、撮影出来た映像がこれなのです。
本当は、おおとり を撮影したように、全区間の撮影をしたかったのですが、実現できませんでした。
キハ82大好きです。山陰本線大好きです。だから、まつかぜ1号(博多行き13両編成)大好きです。
尼崎〜城崎間がまだ電化されていない頃微かに記憶に残ってますが、これはもうそれをも超越した貴重映像ですね。
本当は、大阪から博多までのドキュメンタリーを作りたかったのですが、これだけの映像で終わってしまったのです。
やはり、働いていたら、なかなか時間が取れず撮影出来ないものですね。やる気の問題かもしれませんが。
字数が足りなくなったので2度に分けますが、やはり餘部鉄橋と国鉄車両はベストマッチングですね。風景にも非常に良く合う。スチール画像の餘部鉄橋キハ82はやっぱり美しい!山陰の奇麗な海とのコントラストにはついついウットリしてしまいます。
大阪発山陰線経由博多行き…もう2度と現れない列車ですね。
九州1週デラックス車両とか言うのが開発されたそうですが、私はそれよりずっと「まつかぜ1号」に大阪から博多まで乗りたいですよ。(勿論豊岡か香住辺りで駅弁買って、更に浜田か出雲市でも駅弁を買って食べます!)
懐かしい。友達のところへこれに乗りました.食堂車での食事美味しかった.時間はかかったけど、その流れる時間も良かった。
今は、食堂車がないし、昔は時間もかかったけど、それなりに、昔は、それが当たり前だったのですね。
その昔、大阪から東萩まで乗車しました。新幹線で「小郡」まで行って防長バスで東萩バスセンターという手もあったんですけどね。朝のコーヒー 昼食 夕方のコーヒーと3回食堂車を利用しました。出雲市を過ぎると小さな町と港、浜辺、入江の連続でした。ある意味日本の原風景でした。今でもあまり変化がないことを祈ってます。あの独特のディーゼルエンジンの振動と音は今でもよく覚えています。
当時は、福知山線も旧線ではなかったでしょうか?今は山陰本線も様変わりしてしまいましたね。周りの風景はさほど変わっていないのかもしれませんけど、余部鉄橋が変わりました。
独特のディーゼル音、カセットテープに大阪から城崎までの録音ならあります。
でも、こんなの音だけだしアップしてもあまりアクセスないだろうなと思い、一人で聞いています。
懐かしいです。
城崎温泉に行く時に乗車の経験もありますが、電化前の福知山線の北伊丹ー川西池田あたりに、子供の頃よく見に行きました。
北伊丹ー池田間。このような都会に、非電化の鉄道があった時代。ちょっと旅情を掻き立てられる感じだったのではないでしょうか。
貴重な動画を有難うございます。私の世代だと「まつかぜ」は1日1往復の京都発山陰本線経由博多ゆきで、確か既に食堂車はありませんでした。そのもう少し前っぽい時期ですね。
この列車の名を聞くたび、スコットランドから来日中の鉄ちゃんが外国人向けの国鉄全線乗り放題切符(7日間有効)を利用して、全区間乗車した方を思い出すマスw とにかく日本の長距離気動車特急が大好きで、この他には北海道を集中的にまわると仰っていました。短区間しか同席できませんでしたが、今でもお元気かなぁと…。(因みに、日本語が日本人以上に堪能でしたw)
その、スコットランドの人、日本がとっても好きなんですね。
この当時は、まつかぜは、1日に数往復走っていて、大阪博多間の長距離が食堂車連結の80系82型、大阪から米子付近までの列車が、食堂車なしの181系でした。
ありがとうございます
大変貴重な映像
幼少の頃、祖父母とお盆の時に
まつかぜで倉吉(上井)まで毎年
乗ってました
車掌さんの到着時間の案内の行の
所で涙が頬をつたいました
祖父母がいつも優しくしてくれて
必ず窓際に座らせてくれて
大阪駅の水了軒の幕の内弁当と
朝ご飯のハムサンドの味を思い出し
ました
途中 余部鉄橋を通過する時は
進行方向右側に座席がある時は
キラキラ輝く日本海で海水浴をする
子供達が、まつかぜが鉄橋を渡る時に
手を振ってくれたりしてたので
私も車窓から海辺に向かって手を振って
ました
祖父は鳥取駅に着くとお昼ご飯として😅 11:24
アベ鳥取堂のカニ寿司を買って
倉吉に着くまでに食べるのが
ルーチンでして
途中駅の湖山、泊、松崎では
なにかしらの説明をしてくれてた
みたいですが忘れてしまいました
冷水機の水も珍しいので
飲んだり、その紙コップをお土産に
持ってかえったりしたこともありました
松崎を過ぎると2回、3回トンネルを
超えたら倉吉に到着し
祖父母に手を握ってもらって
タラップを降りてキップと特急券を
駅員さんに渡すのが儀式でした
墓参りと海水浴も終わり
帰りの倉吉駅から上りまつかぜに
乗る時はさみしい感じかしたものです
今 文面で書いたことが
走馬灯のように思い出されて
とても嬉しく思い
文章に起こしました
ありがとうございました
へえ~~~~~!
この映像で、そんな色んな事が思いうかぶなんて、それだけ、思い出深い列車だったのですね。
余部鉄橋を渡る時、海水浴の子どもたちが手を振ってくれる・・・・
もしかして、当時1日に1往復の時代だったのかな?
いい思い出ですね。
私も、2度を戻らない思い出を出来るだけビデオやカメラで記録しています。
今は電話で記録しています。電話ってスマホですね。
時代も変わったもんだ!
サムネから飛び込んで行きました。
今までの中では最高の内容に仕上がっていると思います。
本当に感動しました。
昔、出張で乗ってたけど、この容姿で、まつかぜ1号は、大阪出たら、福知山まで止まらんかった、最高に、かっこええ時代でした💞
一度、乗って見たかった列車でした。懐かしいです。
山陰線が大好きなので何故乗らなかったのか悔やまれます。
同じ山陰線の急行「さんべ号」は乗った事が有ります。
これだけ長い区間を走る気動車特急はその当時でも珍しかったのでは?
臨時運転でも季節運転でも復活してくれないかと期待しているところです。
メッセージありがとうございます。
私も、山陰が大好きなんですが、特急は、ほとんど乗っていません。
山陰の特急には、この番組のオープニングの車内放送の時に大阪から城崎まで乗ったのと、益田から米子まで特急「おき」に、米子から京都まで特急「あさしお」にそれぞれ1回づつ計3回乗っただけで、後はほとんど旧型客車に乗りまくっていました。
復活してくれたとしても、キハ82では復活出来ないでしょう。
国鉄時代の鉄道ファン
車両は今の可能な車両で良いんです。大阪~博多間を走って頂きたいのです。
ちなみにそう言えば急行寝台の「だいせん号」にも全線乗りました、懐かしいです。
機会が有れば各駅停車で山陰線全線制覇もやってみたいです。
1日では無理ですから2日かけて。何時出来る事やら?(笑)
***** さん メッセージありがとうございます。
そか、今可能な車輛って何があるのかな?
やっぱり気動車ですよね。
だいせんは、もしかして20系だったのかな?
各駅停車で山陰本線全線制覇ですか。
ダイヤを良く見ないと、意外と各駅停車は、意地悪く乗り継ぎが悪かったりしている事があるから、2日で行けるかどうか心配です。
でも、どうせ乗るのなら、景色の見える時間帯での旅が良いですよね。
そうすると、日が長い6月だね。
素敵な動画を拝見させていただきありがとうごさいます。特別急行「まつかぜ号」は、幼い頃に父母の帰省先の山陰へと幾度も乗車したことのある思いで深い列車でした。特に80系気動車は好きな車で、特別な急行という優雅さと貫禄があったように思います。新幹線が岡山まで延伸し、メインルートが伯備線経由になってからは乗る機会もなくなりました。車内放送を聞きながら当時のことを懐かしく思い出します。私のチャンネルでは、昔の記憶を頼りに3Dで国鉄時代の鉄道風景を再現しています。拙い作品ではありますが、こちらの動画を参考にさせて頂き当時の雰囲気を少しでも再現できればと思っています。ありがとうございました。
+minori iwata さん メッセージありがとうございます。
そうなんですか。
私は、子どもの頃鳥取に住んでいて、大阪の親戚の家に行く時に、乗りたいと言っていたのですが、当時のまつかぜは、1日に1往復で大阪行は、鳥取を夕方発車して、鳥取には夜に着くため、乗れないじまいでした。
キハ82は、私も大好きな車両で、学生になってから、わざわざ大阪から城崎まで乗りました。車内放送は、その時の録音です。本当は大阪から博多までの追跡映像を撮影したかったのですが、お金と時間が無く、夢は叶いませんでした。まあ、この映像が精いっぱいの記録なのです。
大阪発朝8時まつかぜ1号威厳ある風格新幹線車両よりカッコ良かったのを、いまでも覚えております。昭和55年冬に山陰旅行をしました。余部鉄橋、鳥取砂丘思いでが、たくさんあります。なつかしい映像ありがとうございます。
メッセージありがとうございます
冬の山陰ってまた素敵なんですよね。
寒い駅のホーム。列車に乗ったら、暖かい車内が癒してくれる。
日本海は、大きな波が打ち寄せる。
何か、演歌が似合う風景ですね。
特急まつかぜ号、大阪・博多間山陰線経由、同じ時代?に走っていたディーゼル特急ではおおとり号やつばさ号とともに長距離を走っていたと思うと凄いと思いました。
やはりあの国鉄色の塗装が私には憧れと大人になったら絶体に乗ってやる!と思っていました。
コロナが終息したらイベントでもいいので復活運転して欲しいです。
日本って、こういう古いものを残そうとする考えが無いみたいですね。
なんとか、大井川鉄道が本当によく頑張ってやってくれていると思います。
とにかく、採算の合わない事は全てしないと言うのが日本人の考え方なのでしょうかね。
懐かしい。小学生の頃毎年夏に田舎の倉吉まで利用していました。停車中のアイドリング音は今でも大好きです。あさかぜよろしくです。
毎年利用していたって幸せですね。
私は、余り特急には乗れなかったので羨ましいです。
所で、私は子どもの頃倉吉に住んでいたのですが、昔は、打吹駅が倉吉駅で、今の倉吉駅は上井駅だったのを知っていますか?
私が住んでいた頃は、上井駅だったのです。
国鉄時代の鉄道ファンさん
すいません。知りませんでした。子供の頃利用していた頃は倉吉駅だったと思います。
島根在住の時、東京出張には出雲を利用していました。DD51がなくなり寂しいかぎりですが動画を見て楽しんおります。
意外と、早く倉吉駅になったみたいですね。調べてみたら1972年に倉吉駅になったそうです。
わざわざ調べていたいてあえりがとうごじます。
これかも楽みしています。
朝8時頃、博多駅で写真を取りました。山陰周りの大阪行きってのが素敵でした。
メッセージありがとうございます。
そうですね。
考えてみれば、博多から大阪まで行く人は、新幹線を使うでしょうし、そう考えると、ほとんどが、山陰の都市に用事がある人が乗る列車だったので、大阪まで運転する必要が無かったと言えばなかったのかも知れませんね。
そう言う列車が走っていたと言うのも、国鉄の名残なのかもしれませんね。
懐かしい映像、ありがとうございます。私も山陰好きで、「まつかぜ1号」の食堂車廃止を前にその雄姿を撮りに行きました。東京からですと、寝台急行「銀河」の大阪到着と「まつかぜ1号」の発車が同時刻8:00なので残念ながら乗換えができず、行程を悩みました。 キハ82は外観こそ優雅ですが、内装は結構簡素で、シートもペラペラという印象でした。食堂車では「謝恩特別ランチ」なるものを記念に食べました。車内放送は観光案内付きでそれも印象深かったです。
餘部鉄橋は大好きなところです。静寂を破りけたたましく轟音を響かせて列車は鉄橋を渡る。特に超大編成は圧巻で、音も凄まじく圧倒されながらシャッターを切ったものです。トンネルに消えるとまた静寂が訪れ、山の向こうから、去っていった列車の汽笛が遠くに聞こえてくる・・・本当に懐かしいです。
なるほど、私も、この「まつかぜ」が好きでした。というか、子どもの頃初めてまじかに見た特急がこの「まつかぜ」だったのです。
この列車の大阪から博多までを撮影したかったのですが、出来ずじまいで終わってしまいました。
何とか残ったのが、この映像だったのです。
この当時のシートは、これが特急列車のシートだったのです。電車の181系や485系も、当初は似たようなシートではなかったかと思います。
懐かしい映像ありがとうございます。「まつかぜ」の食堂車、乗りたかったけど、夢叶わず。石破代議士の講演で5回に1回は「まつかぜのビーフシチュー」の話が出てきます。安全保障の話だと険しい表情になるけど、「まつかぜ」「出雲」の話になると途端に表情が変わるのは面白いですよ。
メッセージありがとうございます。
ははは!
そうなんですか?
まつかぜによく乗られてたんですね。
それも、食堂車が連結していたのは、キハ82の古い車両ですね。
凄い列車ですよね。鉄道ジャーナルか何かの本でレポがあったけど、筆者以外乗り通しは居なかった、というオチだったような。鳥取県も人口60万人を切ったそうで・・・。2両編成のSまつかぜを見ると寂しいけど、頑張って欲しいとエールを送ってしまいます。ちなみに、石破先生はシチューについて、何と仰せなんでしょうか?
メッセージありがとうございます。
石破先生の事は、あまり分かりませんが、2輌編成のSまつかぜって、それだけ、鉄道を利用する人が減ったと言う事ですね。
言い換えれば、車の方が便利になってしまったと言う事かな。
石破代議士、小学生の時、生まれて初めて乗った「特別急行列車」との由。
「こんな美味しいものがこの世にあるのか!!」と感動の連続だったらしいです。
小学校の時に鳥取の祖父母のところへ行くときにいつも乗っていました。高速バスに乗れば2時間30分で行けるところをあえて両親にわがままを言って4時間ほどの道のりを旅したことが懐かしく思い出されます。まさか動画が残っているなんて・・・感謝感激の至りです!本当にありがとうございました
+秋本徹 さん メッセージありがとうございます。
この当時は、仕事に追われて、これだけしか撮影していませんが、喜んでいただいてありがとうございます。この当時は、宝塚から、川沿いの旧線を走っていました。とっても良い景色でいつか撮影に来ようと思いつつ終わってしまいました。
旧線!
電化されて美しさに気付いたにがーい思い出がありますね
+秋本徹 さん メッセージありがとうございます。
そうなんです。
なくなると分かっていれば、もっと撮影しておいたのにと思います。
まつかぜ号には、子供の頃に、よく利用しました。大阪に親戚があって、夏休みや冬休みに、行きは、夜行のだいせん号、帰りはまつかぜ1号と決まっていました。子供の頃から鉄道ファンで、今でも暇さえあれば、日帰り旅をしています。懐かしいですね。あの頃を思い出します。
メッセージありがとうございます。
私も、子どもの頃は鳥取に住んでいて、大阪に親せきがあったのですが、行きも帰りも急行「みささ」か「但馬」でした。
「まつかぜ」は、鳥取を夕方発車して、大阪は朝発車するので、時間的に逆になるので、乗れなかったのです。
私が、鳥取に住んでいた頃は、特急は、この「まつかぜ」1報復だけでした。
車色の旧型客車の普通列車に、キハ55、58系の急行列車。そんなかな、1日に1本だけ、特別急行の「まつかぜ」がかがやいていた時代だったのです。
生瀬と武田尾駅間の福知山線の廃線跡を歩くとまつかぜ、急行丹波号が汽笛鳴らしてトンネルから出てくるとこを想像しますね。
メッセージありがとうございます。
なるほど、私はあの辺はあまり詳しくないのですが、この音を録音したときは、ちょうど今は廃線になっている所を走っていました。
川沿いにとっても良い風景でした。
高山本線と、似ていた場所ですね。
貴重な映像、ありがとうございました。懐かしさに思わず見入ってしまいました。
記憶を辿ればおそらく1980年前後、私は小学高学年か中学生でしたが、物好きにも名古屋から小倉まで、既に山陽新幹線が全通していたにも関わらず寝台急行銀河とまつかぜを乗り継いで行ったことがありました。この映像のアナウンスでは小倉19時56分着、伯父伯母が迎えに来てくれたのには迷惑をかけたんですね。深夜の名古屋駅まで送ってくれた両親にもですが。ところで、このまつかぜ、当時から「なんでこんな区間設定の特急があるんだ?」くらいに思っていましたが、改めて調べたら山陽新幹線開通までは大きな需要があったんですね。
山陽新幹線開通まで、大きな需要があったのですか?
山陽本線にも、つばめ、しおじ、かもめ等、特急列車がいっぱいはしっていたと思うんだけど、やはりそれだけではなく、山陰方面への旅行者も多かったのでしょうかね。
今は、大阪からは城崎までは充実しています。また鳥取から西へも充実しているみたいで、つまり鳥取へは、新幹線経由での旅行スタイルに変わっているみたいですね。・・・・智頭急行とやらを走るルートで。
もう何度この動画を見たのでしょうか、おそらくは私の生涯で最も印象深い列車であることは間違いないと思います。最初に乗ったのは昭和30年代後半、この列車が走り始めて間もない夏休みに父と一緒に鳥取まで持ったのを覚えています。以降ほぼ毎年、かかさずに大阪から鳥取まで、8時発で往路、復路は17時鳥取発で帰阪した覚えがあります。最も長く乗ったのも出雲市までで、博多まで乗らなかったことが悔やまれてなりません。181系よりもやはり82系がいいですね。
メッセージありがとうございます。
昭和30年後半と言うと、まだ山陰本線にこの特急が1往復しか走っていなかった時代ですね。
ほとんどが急行でこのまつかぜだけが特急で、輝いていた時代ですね。
私は、この当時鳥取に住んでいて、大阪の親戚の家に時々行くことが有ったのですが、朝、鳥取を出て、昼過ぎに大阪に着く時間での移動がほとんどだったので、とうとうまつかぜには乗らないままで終わってしまいました。
関西に住んでいて鳥取へ行くのだったら乗っていたかもしれませんね。乗れなかったけど、1日に1往復と言うか1日に2回しか見る事が出来ないキハ82は、外から見ているだけで子ども心にも遠い旅を思い浮かべて駅で見送ったりしていました。
でも、忘れられない事があって、子どもの頃、鳥取駅の構内の中で見ていたために、運転助手に大声で「こらー!」って叱られたことがあります。あの時は、ショックでした。でも今はいい思い出ですね。今なら駅の構内に入るなんてとんでもない事ですよね。
13編成!豪華すぎます!食堂車運営!すごすぎます!
メッセージありがとうございます。
13輌編成って珍しいですよね。普通は在来線はなぜか12両編成が主流でしたね。
今は、特急と言っても、短い編成でやっぱ、国鉄と私鉄の違いなんでしょうね。
国鉄時代は、特急は、窓が開かないので、駅弁も買えない。小さなテーブルしかない椅子に座って、膝の上に弁当を置いて食べるのではなく、特別急行なんだからちゃんとダイニングテーブルで食事をしてもらおうと、作られたのが、食堂車なのではないでしょうか。でも、それは国鉄時代の特別急行列車の原点。もう、遠い昔の話になってしまったようです。
キハ82系の13輌は
かつて北海道でもありました
函館⇔滝川 が13輌
切り離しで
滝川⇔旭川 が6輌
滝川⇔釧路 が7輌
おおぞら でしたな
@@HobbyVideos
自分の故郷である長崎(&佐世保)にも「かもめ」として来てました、もしかしたらこれだったかもしれないですね。まつかぜも京都発の時代がありましたので。
昭和59年の夏にまつかぜに乗る機会があったのでまつかぜの指定席を取ったのですが私自身小倉~米子迄急行さんべ52号という12系の夜行急行に乗ったのですが米子~大阪迄特急まつかぜ2号を取ってしまった為181系のまつかぜでした。その後は特急南紀に乗車したのですがその時はキハ82系に乗れました。
急行さんべ52号は、良く分かりませんが、私は米子から長門市までさんべ3号に乗った事があります。
旧型客車でした。あの時の走行音が、ありますよ。52号は臨時列車ですね。臨時列車の方が新型客車とは、でも、こういう時代でしたね。昔は。
懐かしいです、昔全区間乗りました(逆区間ですが)
ディーゼル音や車内放送も👍
鳥取で後ろを切り離して、切り離した車両は大阪に戻る運用で、夕刻は博多発が大阪から来た車両を連結して13両で大阪に戻る長大編成での運用だったと記憶しております🚂
おっしゃる通りですね。
大阪からは、13両でした。でも、全区間乗車されたとは羨ましいです。
懐かしいです。 博多から(8:12発)大阪まで2回乗り通し(まつかぜ4号)、大阪乗り継ぎの急行きたぐにで青森→青函連絡船で北海道、急行銀河で東京へ行ったのを想い出しました。 現在九州から山陰への直通列車がなく、新山口や岡山での乗り継ぎを余儀なくされて大変不便ですね。 貴重な映像有難う御座いました。
なるほど!現在は新幹線を利用するようになっているのかな?
時間的には、速く移動できるのであれば、まあ良いかもしれないですが、新幹線を使うと運賃が高くなるでしょうね。
@@HobbyVideos 遥か昔の思い出です。 今は利用したくなくても新幹線を利用せざるを得ませんね~
新幹線は、特急券が遠くへ行くにつれて、だんだんと高くなっていくから、鉄道会社としては儲かるようになっていますね。
私は、さほど急がない時は、マイカーで移動します。
ですから、この「まつかぜ」も、撮影はしているけどほとんど乗ったことが無いのです。
@@HobbyVideos 確か1200円位したと思います。中学生には、高価でしたね。
往年の「まつかぜ」
感動しました。宝塚に在住していたころに遠足で道場に行き、旧線のいつでも飛び降り可能なディーゼルに引かれた客車に乗って、阪急慣れしていたので子供心にびっくりした事が思い出されます。
旧線の思い出はただ一度。まさかあんなところにこんな汽車が走っていたなんて…。
車内放送がおおだしではなく、おおたし(大田市)となっていることに気付きました。駅名は難しい…。
メッセージありがとうございます。
飛び降り可能な・・・・・これは、旧型客車ですね。昔はこれが当たり前の普通列車だったのです。
まあ、阪急電車など、私鉄と比べるとそれはびっくりするでしょうね。
旧線から新しい線路になったのは良いけど、スピードがもっと出せる線路になって欲しいですね。
博多駅で見てました。
憧れのキハ82でした。
そうですか。
私は大阪駅で見てました。
この列車が博多まで行っていたのですね。
「特急」ではなく、まさに『特別急行』と呼ぶべきその名にふさわしい風格の列車でしたね。私自身、祖母の生家が浜坂で、またその親戚縁者のほとんどが浜坂・香住に住んでいるのですが、この『まつかぜ1号』は城崎を出ると鳥取までノンストップ。だから乗れないんですよねー。でも一度だけ鉄道旅行が好きだった父親に連れられ、わざわざ城崎で乗り換えてグリーン車で大阪まで帰った記憶を今も鮮明に覚えています。つくしを袋一杯に持って帰った記憶がありますからたぶん春休みだったような。しかし、13両もの長大編成がよく停車することできたもんだなぁ・・・と、今の3両や6両編成の「はまかぜ」を思うと驚きですね。
80系まつかぜも何回か乗っています。
冬に大阪から鳥取に行くのが通例だったので、
その時に乗りました。
メッセージありがとうございます。
まつかぜ は、そんなに乗られたのですか?
私は鳥取に住んでいた時は、小学校1年で親戚が大阪だったのですが、当時1日1往復のまつかぜは、鳥取を16時くらいに発車するため、乗る機会がありませんでした。
1回だけ、乗ったのが、この番組で車内放送が流れているのですが、あの放送を録音した時だけ乗っただけなのです。
大好きな列車、車輛キハ82型なんだけど、いつも外から見ていて、あこがれの列車でした。高校時代に鳥取にも何回か行ったのですが、やっぱり、旧型客車の普通で行きました。
保育園ー小学生の間、学校の先生をしていた叔父が生徒を連れて、夏は九州、冬は鳥取の若桜にスキー合宿をしていて、行きは夜行の山陰号、帰りがまつかぜというパターンが多かったです。
hase16335 さん メッセージありがとうございます。
今だったら、バスと言う時代かもしれませんが、当時は鉄道が主な交通手段だったのですね。夜行の山陰号と言うのはもしかして旧型客車・・・・・
だったら、ドアーが開けっ放しで危ない・・・・・・
と思うのが、現在の人で、昔はそれが当たり前で危ない事をする人はだれもいなかったのだと思います。
それだけ、今は変な時代になって来たのかなっと感じます。
山陰号は旧客の時代です。
同行した小学生の上級生は京都を出でからしばらくデッキにぶら下ってふざけていました。
今では考えられ無い、とはいえ、外国では先進国を含めてドアがあきっぱなしというのはよくあるので、日本が過保護なのでしょう。
hase16335 さん メッセージありがとうございます。
まあ、アメリカなんかは、自由の国って言われているのですが、責任は、自己責任と言う事ですね。
また、こういう考えらしいです。
デッキにぶら下がってもし事故になったら、鉄道会社は事故防止のためにドアをあけっぱにして走る列車はなくするだろう。
そうすると、自由にドアーを開けることが出来なくなる。
だから、自由にドアーを開ける列車をなくされないために、私たち自身危ない事や事故などは起こさないでおこう。
と、自由を守るために、自分自身で規制をしていると言うのです。
それをしないために、過保護にならざるを得ないのでしょうね。
デッキにぶら下がって事故が起きた時に、日本ではこんな列車を走らせている鐡道会社が悪いなんて言う親まで居そうですね。
大阪から博多まで一度乗り通してみたかったです。
わたしもです。
大阪駅に朝停車してる時のあの威厳ある風格が思い出されます。威風堂々と言いますか。行先は博多だしもう小さかった自分には憧れの人に出会った記憶が有ります。固定窓、ディーゼル音、食堂車、排気臭、客層、専務車掌の制服にメめまいすら覚えました。13両が出て行った後のあの雰囲気が優等列車なんだなーと感慨深いものでしたね。
メッセージありがとうございます。
「13両が出て行った後のあの雰囲気」
つまり、その特急に乗ることなく、駅で見送って、遠い旅路を夢見てる・・・・私も、良くありました。
この写真を撮影した時もそうでした。
この当時、ビデオを持っていたら・・・・
そんなこと思ったら、今ではスマホでフルハイビジョンの動画が撮影出来るのですから、良い時代になりましたね。
そうなんです。そして時刻表を見て遥か遠くを旅したもんです。色んな列車有りましたし。今の時刻表は殺風景なもんですね。定期客車列車なんてもう二昔前なんですね、
定期客車列車。大阪駅にDD54牽引のドアーがアケッパの旧型客車が止まっていたり、EF58牽引の急行「しろやま」が止まっていたり、その隣には、自動ドアーの113系や103系が走っていて、そのギャップがすごかったですね。
小学3年生の時に、出雲市から下関まで、祖父母と乗りました。たしか、初めての列車旅行で、叔母の家に。車内販売で沢山買って貰った記憶と、浅利駅で、寝台特急出雲にすれ違った事しか覚えてません。
小学校3年ですか。私は、初めて特急に乗せてもらったのが、小学校5年でした。
初めての特急の旅ってなにかが思い出に残るものですね。
キハ82系の特急まつかぜ、映像で気になったのが、1982年の秋以降の9両編成になったまつかぜが余部鉄橋を10両編成で走行していたこと。後ろ3両が米子で切り離されることになっていた時のまつかぜが、おそらくは多客期か何かで増結していたんだなあと思いました。そして、大阪を発車して間もなくなされる停車駅と到着時刻の車内放送、「あれ、川棚温泉駅がスキップされていて放送されていない、なぜ?」と思って、1975年の時刻表を調べたら、川棚温泉は通過になっていました。大好きな特急列車で、鉄道模型(Nゲージ)でも7両+6両(下りは鳥取で切り離して折り返し運用、上りはその逆で鳥取で併合)13両編成を再現したいんですが、自宅の部屋のスペースのこともあり、難しい。模型のほうは、1982年秋以降の9両編成をフル編成で再現ということに。自分の鉄道趣味や鉄道模型趣味は、「国鉄時代のキハ82系の特急まつかぜに始まり、いろいろなところを巡回して、キハ82系の特急まつかぜに終わるんだろうなあ」という感じです。大阪駅8時ジャストの発車というのも気持ちいい!! 貴重な資料提供してくださり、ありがとうございます!!
まつかぜの思いが強いのですね。
私も初めてまじかで見た特急が、このまつかぜでした。山陰本線の上井と言う駅で、ダイヤ改正の特急が初めて山陰本線に走り始めた日だったのです。
私は、今、13mmゲージでこの80系気動車を作っています。
まつかぜには、こだわらないですが、まつかぜに始まった子どもの頃の思い出を模型で残したいのです。
この最初の録音の音ですが、大阪から城崎まで録音てープがあります。
でも、特急の走行音ってなぜか、よけいな雑音だらけでいい音ではないですね。そのうち、音のアップも考えています。
昔私が幼少のころ母の実家、島根県三隅に帰省の際「まつかぜ1号」を利用していました。
乗車区間は京都ー浜田です。浜田からは普通に乗り換え三隅に行きました。
当時は浜田からの乗り継ぎでSLが現役で活躍していました。
食堂車も利用していました。日本食堂のハンバーグ定食を食べたのを覚えています。
夏休みの帰省でした。当時機動車のエアコンの効きが悪く暑かったのを覚えています。
私もキハ82が大好きでHOゲージに「まつかぜ」のネームプレートを付けています。
メッセージありがとうございます。
想い出のある列車なんですね。
私は、まつかぜ ではないんですが、日本食堂のハンバーグ定食を食べましたよ。
それと、ポタージュスープも。
キハ80系のエアコンは、1つ1つに調節ボタンが付いていて、それが、全開になっていなかったのではないでしょうか?・・・・誰でも触れるので、お客が勝手に弱めたのかも知れませんよ。それと、昔は、キハ82は、エアコンが4台しか乗っていなかったように思います。・・・・・・これ、昔のカツミのHOゲージのキハ82がエアコン4台の模型でした。
それと、HOゲージのキハ82が有るのですか?いいですね。
私も、昔自作で作り始めたのですが、忙しくなって、だんだんほったらかしになっています。つくりさしの模型で良ければ、わたしの「国鉄時代の鉄道ファン」のホームページを見てください。そっちのホームページも最近ほったらかしなんですが・・・・
子供の頃から、キハ82型は大好きで、他のコメントにもあるように、自分も「かもめ」で、大阪から田舎の佐世保に行ったことが忘れられません。ただでさえ、時間がかかるのに、台風の影響で、しばらく止まったままになり、10時間以上かかったと思う。それでも、長崎行きと貫通していたと思うんですけど、その向き合った運転台が、もうかっこよくて、たまらない!! (今も記憶に刻み込まれています) そして、「かもめ」の車窓からは、中国地方を通過して行く時に見えるSLや茶色いEF15の群れ。顔をずっと窓にくっつけて見てました。そんな良き時代が蘇るような動画を見せていただき、本当に有り難うございます。昨日も、なんちゃって急行色を真ん中につないだ、気動車3両(ごちゃ混ぜの普通列車)を、仕事しながらチラっと見ただけでも、なんとなく嬉しいのだから、こんな動画を見たら、もうたまりません。長々と、失礼しました。
メッセージありがとうございます。
みんな、このキハ82が好きなんですね。
私も、子どもの頃初めてまじかに見た特急がまつかぜでした。
以来、この車両が好きになりました。
高校の時は、かもめで厚狭まで乗りに行きました。その時の山陽本線を爆走する列車。
なんとなく、雰囲気はわかります。
みんな、丹波、そして佐世保、田舎と行き来する時の思い出が詰まっているのですね。
なつかしい、と、同時に、やっぱ80系気動車特急は、かっこいいね!
あのころ、ふるさとの駅を、このまつかぜは、いつも思いっきり通過していました。
「いつか、いつか乗ってやるぞ!と」思って、下関駅や小倉駅で撮影したこともたびたび・・・
そして、その日が来ました。大阪から博多までフル乗車。
途中の山陰海岸の美しさは、824の雑客から見る風景とは違って見えました。
気動車特急の食堂車を体験・・・
そしていよいよ、下関を発車。関門トンネルに轟音とともに入っていく・・・
夢にまで見た瞬間でした。ふるさとの駅を堂々と通過。
博多までは、自分は今、「気動車の特急」に乗っているんだ!という喜びがありました。
その後、廃止まで、ふるさとの駅の6番ホームを通過していく、
まつかぜを何度となく撮影しました。
それも遠い思い出となりました。
「次の停車駅は小倉です」「えっ、門司は停まらんの?うそやん!!!どーしよ・・・」
メッセージありがとうございます。
九州の方なのですね。
私は、北陸地方に住んでいるため、九州の方は、良く分からないのですが、本当は、ざっくりと全区間の撮影をしたかったのですが、それもかなわぬ夢となってしまいました。
門司から博多までは、交流電化されていて、ほとんどが電車の中、大阪から、非電化の山陰を走ってきて、今、架線の下を爆走する・・・・・
もう、旅の終わりも近づいている。
って、なんか、演歌になるような場面を思い浮かべてしまいますね。
ふるさとの駅が6番ホームまであると言うのは、けっこう大きな駅なんですね。
そんな、大きな駅を通過する特急って、やっぱり特急・・・・特別急行ですね。
メッセージありがとうございます。
キハ82が好きな人は、山陰本線が好きな人が多いようで、私もその一人なのです。
でも、不思議な事に、新しいキハ181系がなぜ長距離の博多行に使われなかったのか、不思議ですね。
子どもの頃、黒崎のおばあちゃんに会いに行くとき、このまつかぜか美祢線と山陰線に分かれる急行さんべでした。懐かしい!
子どもの頃に特急に乗れたなんて、羨ましいですね。
私は、鳥取に住んでいたのですが、大阪のおばあちゃんに会いに行く時に当時1日に1本のまつかぜで、時間が合わないという事で、いつも急行ばかりでした。
乗れなかった分、それだけこの列車に興味がわきました。
懐かしのキハ82系特急まつかぜ1号です 以前は長編成時代もありましたね~ 博多編成に連結している食堂車の映像は今を見ると甦りますね~(*^^*)
メッセージありがとうございます。
大阪から13両編成で米子かどこかで切り離すのだったと思います。
さらに昔、大阪から特急まつかぜが発車した後、同じキハ82型で特急かもめが走っていました。こちらも、長距離列車で13両だったと思います。
山陰本線と山陽本線に13両のキハ82が、並走していたのですね。
いやあ、これも懐かしい。
これはかっこいい車両でした。昔、上野~秋田間で走ってましたね。
亡くなった母に切符もないのに大曲~秋田を立ちっぱなしで乗車させられました。
いつか座ってみたいと思ってたんですが機会がなかったでした
メッセージありがとうございます。
上野~秋田間と言うと、特急つばさですね。
特急つばさは、のちにキハ181系になったので、私は、この車両キハ82の時代は知らないのですが、この車両の特急つばさに乗られたというのは、とっても貴重な思い出になったのでは無いでしょうか。
私は、学生時代に奥羽本線電化前に福島から秋田まで特急つばさに乗ったのですが、すでにキハ181になった時代でした。
古き良き時代を感じさせていただき、ありがとうございます。
30年以上前に、松江から益田まで乗ったことがあります。
この頃のように、その路線を地方を代表し、長大編成にグリーン車や食堂車を賑々しく連ねた、一つ頭の出た看板列車が次々と
全国の鉄路から消え去って久しいですが、まさに山陰の女王とでも云うべき看板列車の存在は鉄道が交通の主流であった時代の
貴重な証言者なのでしょうね。
メッセージありがとうございます。
鉄道が交通の主流であった時代・・・・・・
そうですね。
今は、車社会、特に田舎になればなるほど車社会なのですね。
でも、私は思うのですが、なぜ、車と鉄道がもっと連携できないのか?って思います。
田舎の駅で車で駅に行って、駅に無料駐車場があって、そこに気軽に車を置いて、列車に乗ることができる駅って全国にどれだけあるでしょうか?
鉄道が交通の主流であった時代、これからは、鉄道と車がうまく連携していく時代にならないといけないのではと思います。
両親の実家が鳥取だったので、まつかぜ号は憧れの存在でした。
結局はキハ82時代には乗れなかったけど‥
やはり、まつかぜは、憧れの列車なんですね。
私は鳥取には小学校1年の時までいたのですが、親戚が大阪にあって、まつかぜに乗りたいと言ったのですが、
親は、時間が合わないので、いつも急行ばかりでした。
ですから余計憧れるのですね。
ありがとうございます。懐かしいです。当初は
どういたしまして。
懐かしいですね。
こちらでいうと、特急ひだですね。
運転席の窓ガラスの湾曲が特徴的でした。
一度だけですが、下呂まで乗ったことがあります。
こういう長編成も昭和の国鉄ならではですね。
メッセージありがとうございます。
そうですね。特急ひだ は、走行距離が短く、食堂車も連結していませんでしたが、80系として、最後まで走っていましたね。
80系の一番最後は南紀で終わったみたいです。
多分80系がてきたばかりのころだと思いますが、昭和42年ころだったと思いますが、京都発長崎行の山陽線経由DC特急(「かもめ」に京都から広島まで乗車した記憶があります。
僕もDC特急は大好きで182系は昭和57年ごろに岡山⇔出雲市の特急「やくも」に仕事でよく乗っていました。食堂車付きで何回が食べに行きましたが、いつもがら空きの車両でした。
区間が短いのにキシをなぜ付けたのか不思議です。
181系「やくも」は今もNケージでフル編成で保存しています。
メッセージありがとうございます。
DC特急かもめに乗られたのですね。山陽新幹線が開業するまで、キハ82型で走っていたすばらしい特急ですね。
私も、山陽新幹線が開業する少し前に、大阪から厚狭まで乗りました。
また、山陽新幹線開業前夜は、最後の山陽本線の特急、急行を撮影しに行って、広島から京都までかもめに乗って帰りました。当時は高校生でビデオなんてない時代だったので、写真をホームページにアップしています。国鉄時代の鉄道ファンで検索して、ホームページの鉄道写真から中国地方の鉄道へ入り、山陽本線入野 へ入れば、一番下の方にかもめの写真が出ています。
また、当時は特急には、普通食堂車を連結するのが普通だったから、やくもにも連結されていたのではないかなって思います。
国鉄時代の鉄道ファン
かもめの写真拝見しました。懐かしいです。
列車番号1Dだったのは貴ページを見て思い出しました。すごい番号です。
私が初めて乗った長距離列車は昭和31年熊本→東京の昼夜急行「阿蘇」の最後尾一両だけのマロネ29に新飯塚駅でホームに列車がホームに収まらず、最後尾デッキに梯子を掛けて車掌さんに手で引っ張ってもらって乗った記憶がかすかに残っています。
後は小学生の頃東京⇔名古屋を;i二等車でも冷房なしの153系準急「東海」には10回くらい乗りました。
この153系準急「東海」も今もNケージでフル編成で保存しています。
まつかぜですか懐かしいですよね
NHKブラタモリで萩やってまして大阪から東萩丸一日かけまつかぜ1号で行ったことをそして帰りは
4号で帰ったこと思い出しましたまたこれとは全く別の時ですが、824列車で東萩駅から出雲市駅、824列車にそのまま乗っていてはその日大阪帰れないのでまつかぜ4号に出雲市駅で乗りかえました
今の山陰本線はこういう本線的な機能は一部除き失われてしまってトワイライトエクスプレス瑞風で豪華な旅を豪遊でもしない限りは山陰本線本来の姿である山陰地方動脈としての山陰本線味わえないと言っても当時から宮脇俊三氏は偉大なるローカル線ではないかと揶揄してましたが実に残念ですね
懐かしい動画有難うございました西城秀樹氏葬儀の日まさに秀樹氏全盛期の山陰本線見れ感無量です
メッセージありがとうございます。
昔は、このような列車が当たり前のように走っていて、また乗客も多くにぎわっていた時代でしたが、今は道路が発達し、バスやマイカーの方が、便利になってしまいましたね。
当然利用者が少なくなってしまい、山陰本線の使命も終わった時代になったのかもしれません。
キハ80系82型懐かしいですね!
私は特急まつかぜには乗車した事はありませんがヤハリこの画像を見ると特急白鳥、大阪発~青森行と京都発~長崎行きの特急かもめ、が思い出します。勿論特急まつかぜも知っていました。
確か私が小学生低学年の頃、秋田迄白鳥に乗りました。
そして、運行距離が長いが故に食堂車で2回食事をしたのがとても記憶に残っています。
まつかぜも大阪~博多迄の乗車なら多分、2回食堂車に行く事になるでしょうね!😊😊😊
又、かもめに乗車した時は出発後確か三ノ宮か神戸を出た後食堂車のウエイトレスが食堂車で調理するお弁当の注文を取りに車内を回っていたと記憶しております。
メッセージありがとうございます
かもめ には、私は2回乗りました。
当時高校だったのですが、7歳年上の女性と旅行に行ったのです。この時は食堂車も満員だったのかな。どういうわけか行かなかったように思います。
それが、最初で、2回目は最終日、広島の入野と言うところへ撮り鉄に行き、帰り広島から帰る列車が決まったおらず、時間的に「かもめ」に乗って京都まで帰りました。
岡山までは、満員で立ってましたので食堂車には、行けませんでした。のではなく、もうお金も乏しかったため。
この当時、ビデオカメラなんてなかったので、音と写真しかありません。
白鳥は、京都の駅の連絡橋から京都駅の1番線に入って来て、発車して行く新潟行きの白鳥を小学校の時に見た事があります。
秋田まで白鳥に乗ったのは、いい経験されましたね。
この当時は、やはり特急は特急の風格がありましたが、今はまるで急行みたいな気軽に乗れるような特急で少し風格が感じにくくなったように思います。
まつかぜに乗って食堂車でご飯食べて博多まで行きたいって思ってました 当時中学生だったのでアルバイトできる年齢になったらいつか行きたいと思ってたら食堂車がなくなってしまいました ぎりぎり長距離昼行特急の食堂車に間に合いませんでした。
+takeda さん メッセージありがとうございます。
そうですか。残念ですね。
食堂車。これも、時代の流れなのかもしれませんね。
私は、子どもの頃、特急なんてなかなか乗れませんでした。
せいぜい急行列車ばかりだったのです。
そして、窓を開けて、駅弁を買ってもらい、ボックス席で膝の上に弁当を置いて急行列車の中で食べた覚えがあります。
当時は、クーラーも無く、急行は窓を開けるのが当たり前だった時代なんですね。
そして、始めて特急に乗ったのが、小学校5年の時。家族で食堂車に行きました。
でも、初めて行った食堂車。何故か、落ち着かなかったのです。でも、やっぱり、特別急行に乗ったんだ!って思いがしました。この当時は、特急は1時間以上ノンストップと言うのがざらでしたからね。さすが特急!って言う時代でした。
今では、昔急行すら通過していた駅に特急が止まっているし、何でも特急にしとかないと、儲からないのかな(笑)
大阪から東海道本線~福知山線~山陰本線~山陽本線~鹿児島本線で博多まで約半日かけて運転する形態は昼の特急としては今では考えられないほどのスケールですね。結局85年3月改正あたりで米子以西で系統分割されていそかぜ創設されたのだが。これも西側が小倉に短縮され東側も益田に短縮を経て廃止になってしまいました。
あと、旧餘部鉄橋の走行シーンも圧巻でした。
この「まつかぜ」は、山陰本線に初めて走った特急列車で、当時は博多まで行っていませんでした。
大阪と米子か松江で1往復でした。その後、博多と大阪を結ぶ山陰本線の特急列車になったのですが、その当時は、今とは違う交通網だったみたいです。
今は、鉄道も変わりましたが、道路が発達して、鉄道利用者も変わってしまったようですね。
懐かしい、JNRのマーク。まつかぜの博多行きは、食堂車もつないでいましたね。長い編成でもさすがに途中、鳥取で切り離すのですね。
そうそう、この頃はキハ181系も有ったのに、長距離のまつかぜに80系を使っていました。
なんか、聞くところによると、キハ181系は、故障が多かったみたいですね。
昭和51年に「まつかぜ1号」に乗った時は、全車指定席でした。
なるほど、さすが特別急行列車ですね。
大阪発福知山線、山陰線経由博多行き。すごいですね。
特急おきでも今では長距離なのに、、、
この当時、この車両はキハ80系でキハ181系と言う新型車両があったにも関わらず、中距離に新型を、長距離に旧型を使っていました。
まあ、色々と事情があったのでしょうね。
私が聞いたところキハ181系は故障が多く中央西線電化で高山線に白羽の矢が当たったとき信頼性の高いキハ80系を選んだと聞いてます。
長距離は不安があったのでしょうか。
181系は、故障が多かったのですか?もし、故障が無かったら高山本線に使っていたのかな?
それで、古い80系を長距離に使っていたのですか。なるほど。
@@HobbyVideos
181はつばさ時代に板谷峠でオーバーヒートがあってそれ以後敬遠されていたそうです、系統分割迄博多まつかぜが82系のままだったのも九州側が181の受け入れに難色を示していたかららしいです。
今は岡山を中心に新幹線と伯備線やくもで米子方面に行くのが殆どです。特急いそかぜでも博多から米子まで7時間は掛かりました。利用者が段々と少なくなりのぞみの台頭もあってか博多発は小倉発に益田まで短縮され福岡北九州のいそかぜは川棚温泉や長門、萩観光で利用するに過ぎず、高速道路の整備が進みマイカーやレンタカーで西山陰観光が多くなった。1999年についにまつかぜからの伝統の山陰特急のいそかぜは廃止になった。米子鳥取の新型ディーゼル特急の「スーパーまつかぜ」は生き残っている。
メッセージありがとうございます。
高速道路の整備が進み・・・・・と言われるように、道路はどんどん高速化するのに対し、鉄道は明治か大正時代に建設した狭軌の単線のまま。これじゃーもう時代に乗り遅れていますね。
新幹線まではいらないが、せめて標準軌、複線にして、最高速度200km/hくらいは出せる鉄道にしないといけない時代になっていると思います。
そうすれば、マイカーで行く人のいれば、鉄道を利用する人も居ると思います。
今の、狭軌の単線の山陰本線は、もう使命を終えたような感じですね。
「やっぱり運転していて楽しかったな、ゴッパーニッパーの「だいせん「はくと」、DD54で出雲も牽いたよ、キハ82まつかぜはよかったなぁ」 今日、丹後の鉄道の運転士さんから聞いた話。国鉄時代がそのままよみがえってくるようでした。 そんな気持ちで動画を探したらこちらへ。ありがとうございます
メッセージありがとうございます。
それはそれは、楽しい思い出話をたくさん聞かれたそうで、良かったですね。
国鉄時代は、今と比べてどうだったのか、分かりませんが、撮影する側からみても、あまり厳しくなかったのかなって思います。
そういえばそうですね。
よく運転台に乗せてもらったものです。
うわ すごいじゃん!
大阪〜博多で使った。親がこんな時間かけてアホちゃうか?って言われましたね。山陰走破って点じゃ今あれば乗るけどなぁ‥食堂車もあって午前と夕方に行きました。
まあ、それは人それぞれ、時間をかけないで移動するだけが能じゃないと言う事でしょうね。
すっごく懐かしいです。
1号だったかどうか忘れましたが、
昭和59年、当時中学1年生。
食堂車に乗りたくて、友達と鳥取→米子まで乗りました。
今は187系が1時間を切る鳥取→米子間、
営業キロ92.7キロを1時間20分ほどで駆け抜けるまつかぜは、
当時としては早い列車でしたね~
当時米子に住んでたので、列車名は忘れちゃったけど、
キハ58系の急行で鳥取まで行って、まつかぜで米子へ
その時の指定券は、実家で眠ってるはず。
お年玉をはたいての大冒険
キシ80で食べたのは、カレーライスだったかな~?
懐かしい記憶を思い出させてくれて、ありがとうございます!
メッセージありがとうございます。
昔は、特急は、必ず食堂車が付いていて、だいたい12輌編成って言うのが特急だったですね。
そして、1日に数本しかなく、特急が輝いて見えていました。
そして、時代の流れとともに、食堂車の無い特急が増え、キハ82が少なくなり、どういう訳か、長距離の博多行の食堂車を連結したまつかぜの方が古い80系を使って、中距離の列車の方が、181系を使ってましたね。
普通なら、長い距離を走る方に新しい車輛を使うと思うのですが、どんな理由があったのでしょうかね。
私は、まつかぜには大阪から城崎までしか乗りませんでした。
そこから、金沢の方へ行かないといけなかったので、普通なら雷鳥か立山で行くのですが、1度は乗っておこうと思って、まつかぜに乗ったのです。
そうそう、私は、この時、城崎から、金沢行きの急行「大社」に乗ったのですが、もしかして、キハ58の急行ってこれかも知れませんね。
お年玉をはたいての大冒険
でも良かったじゃないですか?
もう2度と乗れない列車にもう2度と帰ってこない青春の思い出が出来て。
国鉄時代の鉄道ファン本当にいい思い出になってますね~
今では特急も2両編成だったりしますが、
短くても9両とか、あの当時の特急は堂々としてて、輝いてましたよね
普通列車は冷房も無い旧型客車でしたから、
冷房がついてるっていうだけで、ものすごく豪華に感じてました。
そうそう。
ドアも手動の旧型客車。
完全に止まる前にホームに飛び降りて、駅員にこっぴどく叱られたことがありました。
これも、もう2度と体験できない思い出ですね~
青山英浩 さん メッセージありがとうございます。
え~~ 特急も2両編成なんですか?
まあ、近鉄特急なんかだったら、難波発の名古屋行きノンストップ特急なんて、2両でしたが、国鉄は、特急と言えば12両って言う時代でしたね。
そして、1日に1本だけ走っていて、輝いていましたね。
もう、私がビデオを撮影し始めた時代は、そんな国鉄から、少しづつ食堂車が消え、豪華だった特急が、誰でも乗れる庶民の足みたいな感じになりつつあったようです。
食堂車はなく、急行よりも特急の方が一杯走っている。
特急が庶民の足と言うか、私こんな経験があります。
奈良駅で、奈良から東京まで普通と快速で行こうと思って、東京まで乗車券を買おうとしたら、
「特急券は?」
って聞かれて、
「特急券が無いと、乗車券は売れません」
って言われて、東京までの切符を売ってくれなかった事があります。
つまり、誰でもみんな特急に乗れ!
って事なんですね。
仕方がないから、私は100円の切符を自動販売機で買って、東京へ行きました。
後は、車内精算か、東京で精算するしかないって感じでしたね。
完全に止まる前にホームに飛び降りる時は、駅員に見つからないようにやらないと・・・・・
国鉄時代の鉄道ファン 今では山陰の特急は2両が多いですよ~
国鉄の終わり頃、昭和50年台の終わりくらいから、
急行が特急に格上げになり、どんどん消えていったりして、
一気に特急が「庶民の足」になった感じがしますよね~
あの頃、米子を発着する鈍行は東は大阪・京都
西は関門トンネルを越えて、門司まで行く列車もありました。
終点まで乗ると、ゆうに10時間以上。
当時小学生で、乗るだけのお小遣いはなかったけど、
よく、友達と学校が終わった後に米子駅のホームに入場券で入って、
いつか乗ってみたいな~って、思いながら眺めていたのを懐かしく思い出します。
旧型客車を6両くらい連ねた鈍行も、
「フリークエントサービス」の掛け声とともに、
どんどん運転区間が短くなり、急行廃止で活躍の場を失ったキハ58系など、
気動車に変わっていった記憶があります。
今は故郷を離れて、帰省で新幹線やサンライズ出雲を使います。
確かに、早く便利で快適にはなったな~
って、思うけど、遠いところへ旅をする。
っていう感じは、薄れてきたかな~って思います。
ここの動画を見させてもらうたび、その失った感覚を思い出させてもらってます。
あの、懐かしい国鉄。
思い出させてくれてありがとうございます。
動画、楽しみにしてます
応援してます!
青山英浩 さん メッセージありがとうございます。
山陰地方で育った方なのですね。
私は、小学校1年の時まで鳥取にいたのですが、小学校2年からは兵庫県に引っ越しました。でも、その小学校1年の頃の長~い編成の1日1往復の特急まつかぜとDF50の牽引する旧型客車の普通列車、そして、キハ55/58の急行列車。それが大人になっても忘れられなくて、まだ残っているのならば、ビデオに残したいと山陰に撮影に行ったのです。
でも、12系の客車が普通列車に投入されるようになって、
「ああ!これで終わった」
って思いました。
山陰の映像は、もう少し残っています。
今、今までのパソコンが壊れて編集できませんが、復旧したらまだアップしていない映像をアップしますのでよろしくお願いします。
メッセージありがとうございます。
お昼にアップロードしたばかりなのに、夜見るともう10件もアクセスがあるなんて、ビックリ。
そんなに感激していただけるとは、こちらも嬉しいです。
この映像私の地元が映っています。小田~田儀の所、この頃まだ山陰本線は、いろんな特急、急行など走っていて賑やかでした。特に、いそかぜ、おき、急行さんべ、寝台列車出雲浜田~東京などこの映像は私が、高校生に撮影された時です。
まつかぜには乗ったことがありませんが、(いそかぜ)は 廃止されるまでよく利用してました
(地元が長門市、住まいは小倉)
私は鉄道に詳しくありませんが、(まつかぜ)と(いそかぜ)の車両が良く似ているなと感じました。
猫のようなお顔の先頭車両、懐かしくて涙が出ました。
なるほど、私は いそかぜ は、知らなかったけど、今、インターネットで画像を検索したら、
この まつかぜ よりも新しい車両ですね。
この まつかぜ は、日本で最初に作られた特急用のディーゼルカーで80系なのです。
しかし、出力の小さいエンジンでしたので、新しく大出力エンジンの車両を作ったのが、いそかぜ の車両で
181系になります。
形はよく似ていますね。181系と言い換えたら、大出力の新走行装置に、80系の車体をのせたようなものですね。
@@HobbyVideos さん
お詳しい説明会ありがとうございました。また他動画も拝見させていただきます🙇♀️
国鉄時代は大阪からだと福知山線または播但線経由、京都からだと山陰本線経由がそれぞれメインでしたが、智頭急行が開業し特急「スーパーはくと」が走り出すと、関西対山陰のメインルートはそちらにシフトし、山陰本線城崎温泉以西は後に相谷信号場を失うどころか柴山・鎧・久谷・居組の4駅から交換設備が消え、さらに滝山信号場でさえ使用停止状態に陥るという、一転して二流ローカル線に陥落してしまいました。
やはり、スピードですよね。私の友達で、昔大隈重信がイギリスに鉄道を買いに行った時、時速130km/hで走る標準軌の汽車があったそうですが、その鉄道を買って来ておけば、鉄道は、こんなスピードで走るものだ!と言う事で、全国に線路を敷いて、スピードの出せる線路が全国に広まっていたと思うと言うのです。まさしく智頭急行のような線路だらけになっていたとしたら、今の廃線になるような事はなかったのではと言っています。
下の方が「大阪から博多まで乗り通したい」という気持ちほんと!!よーくわかります。私は当時は小学生。もちろん用事もないのに親戚の住む香住・浜坂を通過する『まつかぜ1号』など乗れるはずもないでしたし、今でしたら、それなりに余裕もあるのでほんと乗りたいですねー。もし・・・リバイバルとしてまったく同じ編成と当時の座席、そしてキハ82で運転してくれるとするならば、大阪~博多間をグリーン車で片道で50万円出してもぜんぜん惜しくないですね。あのよく糊のきいた腰まである座席のリネンカバーと臙脂色というのかワインレッドのような色に黒のストライプが入った段織りのモケットシート。思い出すだけでたまんないです。
jxfds369 さん
メッセージありがとうございます。
何か、昔の事を思い出させてしまったみたいですね。
そうですね。特別急行 ですね。城崎から大阪というと、夕方から夜ですよね。
実は、私も小学校1年のころ鳥取に住んでいました。よく、鳥取駅へ行ってまつかぜを見ました。当時は、山陰本線に唯一 1本の特急だったのです。DF50牽引の茶色の旧型客車とキハ55、58系の急行列車のなかに、1日に1本、赤とクリームの車体が輝いて見えました。
親戚が大阪にあって、大阪へ行くのに、まつかぜ に乗りたい って父に言ったら、時間帯が合わないからだめだ!って言われ全然乗れませんでした。
その後、私は姫新線の本竜野に引っ越して、まつかぜ を見る事は無くなったのです。
でも、やっぱり子どもの頃に見た特急まつかぜ・・・・小学校の高学年になると、形式番号を覚え、キハ82だと言うことを知りました。そして、子どもの頃は紙でHOゲージのキハ82を作ったりしていました。
高校になって、少しづつ自由に行動できるようになって、山陰本線の写真を撮影したり、走行音を生録したり、そして、大人になって、ビデオと言うもので動画を記録できる機材を買うなり、私は思い出の山陰へと車を走らせていたのです。
jxfds369さんの父親も鉄道旅行が好きだったのですね。私の父親もそうでした。私は小学校5年の12月に、奈良に住んでいて、奈良から急行かすがで亀山へ行き、そこから天王寺まで特急くろしおに乗せてもらいました。まつかぜ ではなかったのですが、これが、私の生まれて始めて乗った特急でした。それが、キハ82型、当時は、900番台のキハ82が連結されていて、一見グリーン車が3輌って思いました。私の場合は普通車のキハ80だったのですが、同じように忘れられない思い出の車輌です。
でもね、年配の鉄道好きな人って、みんな言いますよね。
キハ82は名車だって。
ところで、グリーン車の車内。少しだけですが、今アップしてある おおとり の中に写っています。
再度、まつかぜ号を拝見させて頂きました。今のまつかぜ号は、スーパーまつかぜ号として、島根の益田市から鳥取県の鳥取市を3時間位で走っています。昔のまつかぜ号は、12両編成でしたが、今のスーパーまつかぜ号は、2両編成です。今の特急列車には、食堂車が無いし、移動販売も無いし、おまけに禁煙で愛煙家の人々には、キツイです。ディーゼル車の力強さ、出発の時に、黒煙を上げる時は、しびれる感じがします。昨年の夏に京都に行く時に、岡山駅から新幹線に乗りました。37年振り位に新幹線に乗りました。興奮しましたネェ、岡山から京都まで約1時間位で喫煙車両に行き、一服して、車内販売でコーヒーを買って、あっという間に京都に着いて、北海道から鹿児島まで日帰り出来そうですね。退職したら、実行します。
メッセージありがとうございます。
まあ、国鉄時代は、親方日の丸って言われていて、赤字であろうが運転していたのでしょうけど、私鉄になるとそうはいかないようですね。
乗らない列車は2両で運転したりするのでしょうね。
昔、私が奈良に住んでいた時に、近鉄の特急がありました。ほとんどが2両編成で、大阪線の名古屋と大阪を結ぶノンストップ特急も2両でした。
車内は当然禁煙だったと思います。
新幹線で岡山から京都まで行かれたそうですが、300km/hで走った区間が有るようですね。
でも、トンネルが多かったのではないでしょうか?
コレしか撮ってないんじゃなくて、コレを拝見する限り「ここまで粘って撮っていたのか!」としか思えませんよ。
恐らく何日かに分けて数回ロケーションして撮られたんだと思いますが、よくぞ撮りましたね。しかも銀塩写真よりビデオの方が却って保存が難しかったのでは?その点も含めていちファンとして感謝の念が絶えません。
それにしてもキハ82!やっぱり「国鉄」の風格と気品が漂いますね。それと到着駅(豊岡)の普段の駅員アナウンスが、一層旅情を掻立てますね。自動放送では決して醸し出せない心だと思います。私が高校生当時、上野駅(学校最寄り駅)に「鳴き」の名調子を聞かせる駅員さんがいらっしゃいましたが、今現在の鉄道ファンの中高生があの「鳴き」を耳にしたら、きっとカルチャーショックを受けるでしょうね。昔はどの主要駅にも必ず名調子の駅員さんが居たんですがねぇ。
そうそう、京都行きの普通列車の離合場面の写真がありましたが、あの写真の普通客車列車の牽引機はDF50ですよね?
気動車特急の代表と言えばまつかぜ、いそかぜ、初期の頃のはつかり、白鳥、今も走っているおおぞら、北斗、南風、ひだ、はまかぜ等名列車ばかりです。私も乗り鉄です。
なるほど、それで
京都から博多まで乗られたのですね。在来線の特急券は、これだけの長距離を乗っても上限が決まっているからよかったですね。
「まつかぜ」には1965年の8月に鳥取まで乗車しました。当時は京都発で大阪から福知山線経由で山陰線に入り博多まで運行していました。13両編成のキハ82系はさすが特急型気動車の迫力があります。鳥取なら終点博多まで乗車したい願いは叶わず1980年代に廃止され残念です。「まつかぜ」の食堂車から日本海の美しい景色を眺めたかったです。今の山陰線の気動車特急は2両編成の実用一点張りで魅力に欠ける車両で乗りたい気分になりませんね。往年の名車両キハ82系も今は無く、私がビル・ゲイツの様な大富豪ならば「まつかぜ」の1編成を購入してメインテナンス等を含む維持費の全てを負担して運行のみを国鉄(JR)に任せて年に数回はイベントで京都(大阪)⇔博多間を走行させればマニアは泣いて喜ぶのでは?
メッセージありがとうございます。
そうですか、82型まつかぜには、特別な思い出があるようですね。
私も、生まれた初めて目の前に停車した特急を見たのが、この まつかぜ でした。
それなりに、私もこのキハ82型は好きなんです。
また、当時は、13両編成、12両編成が特急の定番で、それも長距離列車が定番でした。
このまつかぜ を含め、白鳥など、とにかく子どもの頃には、この列車の終点ってどんなところだろう?なんて興味を持ったものでした。
今の山陰の事情はよく知らないのですが、特急が2両なんですか?
この2両の特急と聞くと1つ思い出すのがあります。
当時、国鉄の特急は12両などが定番だった時代に、2両の特急が私鉄ではしっていました。
それは、近鉄の難波と名古屋間を走るノンストップ特急なのです。
難波と名古屋の間に止まる駅は、鶴橋だったのです。つまり、この特急は、途中の乗降をいっさい無しにして、大阪と名古屋の人だけを運ぶまるで飛行機のような感じに思えました。
そか、ビル・ゲイツの様な大富豪だったら・・・・・
マニアが泣いて喜びますよね。その前に、沿線は、パニックになるのでは(笑)
出来れば、キハ181も12両食堂車付きで購入しておいたらいいかも。
上りを82で下りを181で、交換する場所は、どこかの信号所・・・なんて。
でも、パニックにならない程度にしておかないと・・・・・
私は、貧乏人なので、HOですら変えない(笑)
HOのキハ82系、クロ151系、クモハ157系、C58SL、ナハ10系、オユ11系を小学生時代に購入して今でも大切にしています。キハ181系「はまかぜ」には7年前に浜坂から和田山まで乗車しました。食堂車も無い4両編成(最低8両編成でないと)は特急列車の魅力に欠けますね。キハ181系も今は無くなりましたがスタイル的には82系の方が私は好きです。キハ58系、クハ153系、20系客車、旧型客車、クハ86系、EF58、C62、EH10等国鉄時代の車両は個性が有り楽しかったですね。
Emilio Dandy さん メッセージありがとうございます。
すごいですね。
HOをそんなにいっぱい持っておられるとは。
私は、貧乏人なので、完成品を買ってもせいぜいKATOのプラの車両でしかもモーターなしの車両を買って飾っている程度です。しかも1両づつ・・・編成にするとプラとは言え良い金額になるので。
それで、自作でトワイライトエクスプレスを1編成作りました。
自作と言っても、やはりパーツ代だけでも3~4万円はかかったと思います。
キハ181よりスタイル的には、82の方が好きと言う方は、多いですね。
私もその1人なんです。
でも、この便妙な違いって言うのが、ファンには、たまらなくて、模型を作って飾っておきたいのですが、キハ181系は、台車が変な台車で、屋根の上の黒いやつを作るのが面倒でどうも自作には手が出ません。
また、キハ181系の方が新しいにも関わらず、まつかぜの博多行などの長距離列車に古い82を使っていたと言うのも、なぜか興味深いですね。
長距離列車が少なくなったのは寂しい
これも、時代の流れなのでしょうね。
大阪始初の前は京都が始発で長い編成でした。
メッセージありがとうございます。
確か、そうだったかなって思い私の持っている一番古い時刻表を見てみると
京都 7:20発ってなっています。
そして、時刻表には まつかぜ としか書かれておらず、1日に1往復だったのですね。
1号車から6号車までが博多まで行き、7号車から12号車までが京都から米子までの車輛って書いています。
ちょっと不思議なのは、キハ82は、キロ80を連結しないと、3・4位(お手洗い側)同士の連結が出来ないって聞いたんだけど、米子切り落としの編成は、キロは繋がっていませんね。キハ80にお手洗い側同士の連結が出来る様に改造した車両もあるって聞いたのですが、もしかして、まつかぜは、その改造車を使っていたのかも知れませんね。私も、そこまでは分かりません。
@@HobbyVideos
付属は昭和57年7月(伯備電化)迄は鳥取回転、以後米子回転でした。増発分は初代「やくも」(大阪⇔米子)からの改名ですね。
高校時代に朝通学時に高架の下を博多発のまつかぜ号上りが通過していました。乗ったことは無いけど、懐かしいですね。
メッセージありがとうございます。
朝の通学時に上りが通過すると言う事は、九州なのかな?
この列車、走る距離が長いから、色んな人が色んな所で見ていて、色んな思い出を作ってくれた列車なんですね。
@@HobbyVideos
当時博多から3つ目の香椎駅ですね。もう40何年前の話です(笑)
上り、まつかぜ4号は、博多から、終点大阪迄あります・・・
全区間指定席利用ですが、途中昼夜食堂車と利用した事がありますが。
車内販売もコーヒーが何杯飲んだことやら。
メッセージありがとうございます。
上りのまつかぜに全区間乗られたと言う事で、とってもうらやましいです。
私も、山陰本線の風景は、海沿いを走ったりして、とっても美しい風景があるのは知っていますが、私は、普通のDF50牽引のオハ61で通ったり、特急に乗っても、おき で夕暮れの山陰本線を走ったくらいです。季節は、いつだったのでしょうか?
日が長ければ、結構風景も楽しめたと思います。
国鉄時代の鉄道ファン
全区間乗車は、紅葉が見頃な頃ですから、10月か11月上旬でしたね。
最初は日本海沿岸を見ながらですが。
日本食堂の乗務員も、米子で交代しでいた記憶があるのですが。
終点、大阪で下車しで新大阪から新幹線で岡山経由で倉敷迄戻りました。
この動画は単に”特急まつかぜの記録“に留まらず、明治時代の鉄道黎明期から現在に至るのでの日本の鉄道の歴史を語り継ぐ上に於いて欠かすことの出来ない極めて歴史的資料価値の高い貴重な物だと思いました。今では新大阪~博多間は新幹線で二時間半弱で結ぶ所を(九州新幹線ならば大阪から鹿児島中央駅まで日帰りも十分可能ですね。)旧国鉄時代は、京都・大阪~博多間を在来線を走り、しかも山陽本線では無く山陰本線を経由して13時間以上掛けて(走行距離も800キロ近く!!)毎日定期運行されていた事に驚きます。食堂車も連結し、最大12~13両編成で走行していたとは・・・。長大な車両編成ならば当然停車駅のホームも長大で、さぞかし壮観な光景が日常見られたのでしょうね。山陰の白砂青松の風光明媚な美しい日本海の景色を眺めながら、食堂車にて食べる食事は一層格別で筆舌に尽くし難い程、美味しく贅沢な物だったのでしょう。食堂車で食事をする事を知らぬ世代にとっては本当に羨ましい限りです。国鉄時代の時刻表を眺めると、山陰本線を走り通す鈍行列車も存在し一部は夜行で寝台も連結して、中には昼行の"超"長距離鈍行列車も毎日定期設定されていたとは・・・。今現在の山陰本線の時刻表を紐解き眺めると、山陰本線を走る特急列車も分断され、益田~下関間は優等列車の設定も無く、乗客もほとんど居ない錆び取り列車が細々と走るのみ。人口の閑散な区間を走る路線の抱く宿命とは云え、本当に寂しい限りです。比較的経営が堅調なJR西日本も、毎年莫大な赤字を垂れ流す赤字ローカル路線は本音では直ぐにでも廃止、バス転換したいのでしょうが、地元の反対も有り、中々”赤字路線廃止”には踏み切れぬ様ですが、JR西日本も公共性が高いとは云え、一民間企業としても維持するのは矢張限界があり中々難しい様ですね。鉄道も電気、ガス、水道等と並ぶ重要な社会的インフラですので、国、行政からの支援、補助もお願い申し上げたいですね。
メッセージありがとうございます。
昔は、クルマよりも鉄道で移動する時代でしたが、今は多くの国民がマイカーを持ち、高速道路も発達し、鉄道よりもクルマで移動するようになってきました。高速バスもその1つですね。
道路は、高速道路も含め、一般道やバイパスなど、どんどんスピードアップ出来るように改良されている中で、鉄道は明治時代に開通して、ほんの1部が高架になったり、トンネルで高速化できるようになったりしているが、やはり速度は、120km/h程度が限度みたいですね。
新幹線は別として、ほくほく線や、京成スカイライナーなどは、160km/hのスピードで走っているけど、やはり、今の山陰本線の運行スピードでは、クルマで移動する方が便利ではないかと思います。
つまり、移動するのに時間がかかる鉄道はだれも利用しなくなり赤字になっているのでしょうね。
もし、この在来線を時速200km/hで走る事が出来たら、クルマで移動する人も居るでしょうけど、鉄道で移動する人も残ると思います。
つまり、もう今の在来線の狭軌の鉄道、明治時代の鉄道の時代は終わったのではないでしょうか?
中途半端に営業してないで、一旦廃止にして、もっと高速運転が出来る鉄道を作り直すべきですね。
今のクルマ社会の時代は、やはり200km/hで走れる鉄道を作らないと時代にそぐわないと思います。
もう一つは、クルマで駅に行って、駅に無料でクルマを停めておいて鉄道に乗れるかどうかと言うのも利用者の増減に影響すると思います。
特急まつかぜは、S36.10の改正ダイヤの目玉特急として誕生しました。
当時は京都〜松江、はくちようと同じ運用であり、車庫は京都向日町運転所が新たに設置された。
城崎と豊岡停止は上りと下りでビッコだった。
台車のDT31はよくパンクし、処女運転ではパンクした82系の代わりにキハ58に取り替えたこぼれ話がある。
へえ~DT31がよくパンクしたのですか?
キハ58に取り換えたのは、知りませんでした。
あの当時は朝早く8時から夜遅く20時までを長距離を走っていらっしゃったそうですね。
のんびりゆっくりもいいかも。
のんびりお昼寝もしたり景色を見たり、買いだめした弁当やパン、ジュースにお茶も必需品ですよね。(^_^)
メッセージありがとうございます。
大阪から、九州の博多までそれも非電化区間を走るのですからね。
今の新幹線からしてみれば、のんびりゆっくりの旅なのかも知れませんね。
でも、この当時は、やはり特急列車だったので、それなりに速かったのだと思います。
この当時、山陰本線がキハ82型で走っていたのと同時に、山陽本線にも、キハ82型が走っていました。それは、特急「かもめ」なのです。山陽本線は、さすがにスピードを出していました。私は、大阪から山口県の厚狭までしか乗らなかったのですが、「かもめ」の最終日にも、広島から京都まで乗りました。
それなら、なおさらの事。長距離をよく頑張って走っていただいたことは偉大だと思います。
MultiFutami さんメッセージありがとうございます。
ですよね。
しかも、この車輛、初代ディーゼル特急キハ80系なんですからね。
国鉄マンにとっては、特急としては、パワー不足と言う事で、キハ181系を作ったらしいですが、この長距離特急にキハ181系が使われることが無く、キハ80系が走っていたと言うのも、何か名車と言われる要素があるのかもしれません。
てっちゃんの間では、名車と言われているようです。
もう自由に行動できるようになった頃には何もかもが引退していた。あと十年早く生まれたかった。乗らずして185系も引退してしまった。やくもだけは乗りたい。
やくもですね。乗りましょう。私はもう北陸に住んでいるのでこちらも乗りたい車両は無くなってしまいました。
小学生の頃を、思い出す。いつも米子に帰省列車は、急行大山。特急まつかぜに乗車したくて、母親にお願いした。念願の特急まつかぜで米子に帰省する前日、熱発し結局まつかぜに乗る事は、なかった。それでも「帰る!」と言ってゴネた事が思い出される。
メッセージありがとうございます。
発熱して、帰らなかったのかな?
私も、鳥取に居た時、大阪の親戚の家に行く時、まつかぜに乗りたいって言ったけど、当時1日に1往復しかない列車で、時間が合わなかったため、乗る事はありませんでした。学生になって、大阪から、城崎まで乗ったのが1回だけです。
メッセージありがとうございます。
いやいや、九州まではいくら何でも足を伸ばせないので、せめて、大阪駅の発車シーン、東海道本線から福知山線へのオーバーパスするシーン、などなど、を撮影しようと思っていたのです。
でも、ビデオも無かった時代に、大阪から城崎まで、まつかぜの走行音を録音しておいて良かったと思いました。
まさか、こんなところで使うとは考えても居ませんでした。
香住の駅弁は、美味しいのですか?
そうそう、食堂車にも行かないと・・・・・まつかぜに乗った事にならないよ!
博多到着時刻を聞くと気が遠くなりそうな到着時刻案内。
メッセージありがとうございます。
そうですね、でも昔はこれが当たり前だったようで、でも、大阪から博多まで新幹線の開通している時代にまた、飛行機もいっぱい飛んでいる時代に、このまつかぜに乗って始発から終点まで行く人は、私以外にいないかも・・・・
でも、昔は特急も普通列車も結構長距離の列車がいっぱいありました。
気が遠くなる・・・・・でも、乗ってみたいのは私ぐらいかな(笑)
こんなにいい映像でしたら、もっと閲覧数行くでしょうね。
関門トンネル内は、自走だったのでしょうか?
takai1971jp さん
メッセージありがとうございます。
閲覧数行くのは、最初だけなんですね(笑)
関門トンネル内は、分かりませんが、たぶん自走ではないでしょうか?
ディーゼルなので、交直切り替えも関係ないから。
国鉄時代の鉄道ファン
ぼくが、宣伝します! 自走かどうかについてですが、海底トンネルは、陸上トンネルより、防災上の制限が厳しい、と聞いていたので・・・
ご覧になられるかどうか分かりませんが。。。 自走してました。 博多-黒崎-小倉-下関の順で停車してました。 自走なので、門司には停車してませんでした。
私も小学生の頃良く写真撮りに行きましたよ。
そうですか。と言う事は、貴重な写真が一杯有るのですね。ネガを大事にしてね。
いますぐ復活させるべきです。自分も博多から鳥取まで乗りました。食堂車は良かったです。9時間かかりました
もう、新幹線の時代に無理でしょう。
観光列車として、復活は、良いかもね。
でも、鉄道車両にしろ、自動車にしろ、二度と同じデザインの車輛を作ろうとしないですね。人間って!
昭和の時代がよかったです😊
でも、今みたいに、4K動画をスマホで撮影できませんよ。
まことに申し訳ないのですがまつかぜごうには一回も乗ったことがありませんでした。
別に、誤る事なんかないですよ。
私も、撮影はしている物の、乗っていない列車なんて一杯ありましから。
今じゃ考えられないくらい停車駅が少ない…
そりゃー、特急ですから。
この当時は、急行が特急の止まらない駅をフォローしていました。