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二戸市が実家なのでとても嬉しい紹介ありがとうございます!九戸城の高台からの景色は素晴らしいです!
大体の大河ドラマで奥州仕置の一言で片付けられてしまう九戸城の戦い…
ありがとうございます!
「信長の野望」でいつも東北地方から始めるんだけど、政実の騎馬隊が結構強くて毎度お世話になってる。
毎回簡単に引き抜けるので南部家以外でプレイしてもお世話になるw
大変、分かり易い動画配信を有難う
母親の実家なので何度も行きました。実際に見ると、九戸城は本当に要害堅固だったんだろうなと感じます。騙し討ちも、現地の説明だと”奥州仕置軍も攻めあぐねて…”といった風な説明だったと思います。10年ほど前バイクで出かけて現地で数時間昼寝して夕方に目が覚めた時、ひどい悪夢にうなされたのはいい思い出自分は霊感ゼロだと思ってたけど、あの場所だけは”誰かいる!?”と思っちゃったんですよね。
本筋とは離れるけどこれ豊臣秀次が総大将というのが肝なんよね。この戦の帰りに最上家に寄り、駒姫を見初めて側室にするように義光にせまり数年後輿入れさせるが、ちょうど秀次事件の最中で会ったこともないのに助命の連絡が間に合わず他の側室と共に処刑されてしまう。心労で駒姫の母は死んだとも、自殺したとも言われている。このことで最上義光は非常に豊臣家を恨らんで徳川へなびき、長谷堂城の戦いにつながっていく。
駒姫の話は知っていたけど秀次がここで東北に出張って来たせいで側室話につながったというのは初めて知りました。ホント義光パッパは身内の女性との縁が薄くて可哀そう( ^ω^)・・・。この悲劇を知ってから東北の大名で最上義光公が一番好きになりました。いつか墓参りに行きたいですね。
秀次が東北に出張ってきて、山形に顔を出したばかりに、美女と言われた駒姫は余計な事に巻き込まれてしまったわけですね。秀次は本当に余計な事ばかりしやがるw
これ最上が悪く言われないの不思議日本人の感覚では身内の恨みで陣営まで決めるなんてアホの極みだろう秀次が割と同情の余地がないのと最終的に勝ち組になったので許されてる感が強いな
@@福正之 まあ最上家はその後身内同士の争いで改易されたけど
@@tomohiroino6553 それでも秀吉よりは人物的にマシだったと評価されている。しかし、それ依然にろくでもないこの兄弟。
ちなみに関係ありませんが信直派の筆頭家老の北信愛ちゃんは64歳で信直のお使いで加賀まで外交に行ったり77歳で関ヶ原の戦いの際にたった十数人で500〜1000の兵相手に守り切ったり91歳まで生きた高性能じいちゃんであります
現代だと「ノアちゃん」て名前になりそうなキラキラお爺ちゃん。
南部家の相続争いがもとで津軽為信と九戸政実は南部家から独立した。為信は石田三成を頼って秀吉からの安堵を取り付けたが、九戸はその工作をしなかったために南部への反逆者とされ、追討の対象となってしまった。為信は家の存続のために包囲軍に入ったが、落城時に政実の子を密かに保護した。関ヶ原戦後に恩人である三成の息子を匿って家老にしたり、娘辰姫が為信の息子信枚の妻となりその子信義が次の藩主になるなど、実は津軽家には義理堅いところがあることがわかる。
義理堅いとは…石川高信を謀殺した事はお忘れなきよう…
@@dorel9267 それと義理堅いのは別でしょう。たとえば毛利元就や尼子経久もそういう両面性がある。
小田原攻めの前か後かとか、一門衆か氏族かとか、一部地域の奪還か総領家相続かとかいろいろあるけど津軽氏と九戸氏は同じに考えない方が良いと思うよ。あと、歴史は勝者が書いたフィクションで、特にこの頃の歴史で義理なんて無いからあんまり使わない方が良いと思うよ。
世の中が豊臣方、徳川方のどちらに転がっても津軽家が生き残れるような作戦だったんだろうと思われる。真田みたいな感じで。ちなみに長男は豊臣方で3男が徳川方に付いてた。3男2代目の正室は徳川家で側室は石田家(隠してるけど)😂ちなみに長男ができたのは…側室の石田家だったw2代目正室(満天姫)のおかげで幕末まで津軽家は生き残れたみたい。
@@月たかの 少なくとも南部家からの離反は両方とも南部信直の家督継承が原因。歴史が勝者によって都合よく書き換えられるのは百も承知だが、この時代でも義理はあるよ。命がけだからこそ裏切りも多かったが、それでも命を懸けて義理を貫いた例はいくらでもある。
秀吉に色々な大名たちが抗う理由は大きく分けて3つある1.その出自から舐められている2.主君敵討ちとはいえ実権を握ると主家を乗っ取る3.多くの条約を無視して氏政や政実などを殺したりと約束反故が多いこれらがあったからでしょうな
九戸城、行きました。断崖の下から見ると存在感はかなりありました。ちょうど発掘調査をしているところでその様子を見ることが出来ました。布陣図を見ると、この時代にしかありえない武将たちが揃っていますよね。
取り上げてくださりありがとうございました。
「三日月の丸くなるまで南部領」を支えた陸奥の勇将・九戸政実だったけど、処世術が悪かったね。同じく南部から独立した津軽為信みたいに早くから秀吉相手に誼を通じてれば、あるいは生き残る道もあったかもね。
同意です。要領が悪すぎましたね。
戦国の世でも処世術のない武将たちは淘汰される存在でしたからね。武勲と忠義だけでは生き残れなかった。調略と外交手腕が必要だったわけです。降伏すれば助命するとそそのかして相手を騙し討ちにして皆殺しにして殲滅させるのは、戦国時代の常とう手段でした。一人でも取り逃がして生き延びさせてしまえば、それが新たな反乱分子として残ってしまうのでね。まさに殺るか殺られるかの世界ですからね。だから、家中の男子はもちろん、女子供まですべて殺すわけです。か弱い物として容赦することはできないですからね。
九戸政実は現在でも地元では名君・猛将として慕われており三戸から盛岡に移った南部本家の領地でも裏切り者扱いする人は少ないよ。
ちなみに当然だが津軽家は南部家では仇敵と見られており江戸時代以前の民話では悪役・愚か者と設定されてることが多い。青森県では南部と津軽でいくらか対抗意識があると聞いた。岩手県では南部と伊達の対抗意識はあまりないが藩境の旧江刺市(現在の奥州市の一部)には伊達家の一族が置かれて現在まで家系が残っており男の子が産まれると「宗」の地を入れると以前県職員の方に聞いた。
岩手二戸に住む人間としてはアテルイ・奥州藤原氏・源義経(平泉)・九戸政実側です。
九戸政実は高橋克彦先生の「天を衝く」という小説で知りました。とても面白い本なので、興味のある方は是非ご一読ください
あの本面白いですよね。
九戸政実の奥さんはこの反乱に反対してたそうです。奥州最強の武将、九戸政実、もしも生きて朝鮮の役に参加してたらどうなってたんでしょうね。秀吉の奥州仕置が厳しかったのは、大和朝廷から続く中央の奥州に対する差別意識が影響してるそうです。前九年後三年の役でも降伏した奥羽勢は残虐な殺され方されたそうです。
秀吉は平泉に納められていた(金銀を混ぜた墨で書かれた)納経を金剛峯寺に持っていってしまいましたね。
南部信直「上方は俺たちを田舎侍だの何その方言だのバカにしてくるから月一の利家殿の面会以外は屋敷から出たくない…orz」最上義光「上杉景勝の庄内侵攻(十五里ヶ原の戦い)明らかに惣無事令違反なのに放置して、挙句の果てに駒まで…怒」伊達政宗「愛の実家が…(田村家改易)」 小峰義親・石川昭光「くそ~…政宗経由で貢物送ったけどダメだったか…(直に参陣しなかったため改易)」
実はこれはかなり根深くて佐治のエミシ発言などかなり最近まで例がある。自分は東北に差別意識は全くないのでやる奴の気が知れないが。
@@フォード-i1w政宗のは明らかにお前のせいじゃんw(従属、与力大名には「自分が代表で行くからお前ら小田原行かなくていいよ」って行くのを止めさせてた)
大河ドラマの炎立つが好きなので奥羽勢に肩入れしてしまいます。信長の野望で、安倍氏の子孫安東氏から始めて東北統一した後ひたすら独立国家のように引きこもる縛りゲーを楽しんでますw
確か安倍龍太郎氏の「冬を待つ城」の作品のモデルとなった戦いですね。あれめっちゃいい本でした。
「天を衝く」と言う小説で九戸政実を知りました。東北地方は伊達、最上、津軽ぐらいしか有名人いないと思ったら本家そして天下人にも逆らった気骨ある男がいたんだと思いました。
最強最後の戦国武将、という描かれ方をしていましたよね。
@@狂壱 さん本家の継承問題や、弟の一人と袂を分つなど失敗もありましたが天下に対し一年近く反抗したと言うこと自体が凄いですよね。
ま、当の秀吉さん自身は聚楽第で能や茶の湯で優雅にくつろいでいただろうけどね。
うーん、我が地元の事情をこんなに詳しく解説してくれるとは😮ちなみに二戸市は日本一の人口の少ない市政地として山川出版の社会資料に載ってましたさ3万人越えて市政になってすぐ2万人台になって名誉の記載されました。古戦場跡は結構あります。
のぼうの城 傑作でしたね🎥
政実と繋がりがありながら討伐軍に参加した津軽為信ですが、乱の終結間際に逃亡してきた政実の庶子を匿ったという話があったり、関ケ原の合戦後に石田三成の次男を引き取り名前を変えさせて家臣として雇うなど冷酷なだけではないようにも感じます。
三成の子達の話は可愛がっていた長男信建の伝手だったはず
九戸氏は分家筋だが家臣とも言えない。室町時代は家臣みたいな同族、家臣、従属的同盟者、旗頭としての同盟者と入り乱れる、あやふやな関係の軍制だったからね。
西の天下無双の立花宗茂の大津城の撤回から柳川に帰還してからの、黒田孝高(如水)・加藤清正・鍋島直茂との戦いを解説してほしいな
変な茶番がない 前振りもない 内容が濃い 最高かよ
信長の野望で九戸政実は知っていましたがNHKの番組で九戸政実の乱の詳細を知り、同番組で紹介された小説、天を衝くを購入して読み、九戸政実って凄いなと思いました。構成がとても良かったのでチャンネル登録させていただきました(^_^)
岩手県では演劇の主人公になったりしてるし地元の九戸村では英雄扱いです。
岩手県は本土で一番広い県なので昔の権力はあったんでしょうね。今はもう人が居なくなって哀しいです。
四国より広いですからね。
総理大臣を輩出されております🥰羽振りが最高🙌
とんでもない厨パ組む秀吉で笑ってしまった
この戦いが事実上豊臣政権の完成だったんですよね。もっともその後の肝心の土台固めを朝鮮出兵や千利休豊臣秀次粛清で潰してしまったので長く続きませんでしたが。
高橋克彦氏の 天を衝く を読んでいた所だから面白かった
地元にこんな凄い武将がいたとは
んだな〜
んだ!
んだんだっ。元々は、三戸南部を支えてた精鋭武士団だでねぇっ。それを失ったんだから、この後の奥州南部家は勢力が衰えたしっ。オラの出身の九戸地方では、今でも英雄として語り継がれてるべなすっ。ちなみに、九戸政実公の客将の「小軽米氏」は、元の名は「武田姓」です。
推しの小野寺氏が参戦した、数少ない有名な合戦
九戸城からある重臣の娘が母と下男と一緒に脱出。それについての悲話もあります。
色々と知らない歴史を学べて👍です。秀次が総大将とは意外でした。小牧・長久手の戦いの因縁の相手とコンビを組んでいるのも面白いなと思いました。
南部信直の父親の石川高信を罠に嵌めて倒したのは…津軽為信です。父親の仇が隣に居たらあなたならどうしたいですか?南部信直は九戸政実より津軽為信に攻撃仕掛けたかったみたいです。😂しかも津軽為信は分かってて南部信直を挑発してた。南部信直は蒲生氏郷や浅野長政に津軽為信への攻撃を願い出てた。この因縁もお忘れなく。🤣
信長の野望に出て来る武将なんか出てきて面白いですね。
南部氏は下手に広い土地と支族が多過ぎて大混乱だったと思いますよ自分の家も南部支族扱いです。九戸氏から土地を貰い、この頃には信直公の命令を直々に受けていたりで板挟みだった思います形は九戸側に付く事を表明し、しかし参戦はせず当主の切腹により戦闘を回避しました他の中立を選んだ家は取り潰される中、自分の家は九戸側に付いたにも関わらず続いています実は南部支族と言っても家には武田の落ち武者と伝わっており、武田狩りから逃げて来たのであれば秀吉軍とは無理ゲと思っていたかも。切腹するなら最初から三戸南部に付けばよかったのかもですが形だけでも御先祖は義理は通したかったのだろうか?とか結果からの妄想ではありますけれど
高橋克彦先生ファンもよく知っています、「まつろわぬ東北」愛がガチです(^^)
九戸は「まさか辺境のこんな所まで豊臣家は来ないだろう、周辺の連中だけなら自分は負けない」と思ったんでしょうね。同じ南部氏から独立目指した大名でも津軽為信は苦労して秀吉にに名馬と鷹を献上、独立した大名として秀吉に認められています。逆に九州の西郷氏は秀吉が九州に赴いた時に九戸と同様に無視した為に,討伐受けて滅亡しています。外交を軽く見た武将の末路ですね。
まあ、小田原攻めを見れば一目瞭然なんですよね。
そうだよね~。現代ならそうでもないけど、道の奥(みちのく)だもの~! 九戸の生まれです。
九戸城の戦いが終わった日は10月21日。偶然にも次の戦いとなる関ヶ原の戦いが起きたのが9年後の10月21日(9月15日は旧暦)。同日は日本問わず世界的にもターニングポイントになる出来事が結構起きていてトラファルガーの戦い、東京専門学校(早稲田大学)の開校、学徒出陣壮行会、神風特攻隊初出撃、世界反戦デー、新宿騒乱、全日本プロレス旗揚げ、そしてワイの誕生日。
天を衝くも良いけど安部龍太郎が書いた冬を待つ城もいいゾ
津軽「信直さん、大変ですね~」
津軽も南部の後継者争いの被害者なんだけど、いち早く独立の正当性を主張した上に、秀吉と義兄弟になるとゆう裏技で独立を勝ち取ったんですよね、信直も分家(当主、晴政の叔父、高信の子)から当主になった為に他の分家から不満が集中して、このような自体になりましたが、今川家のように滅んでないだけマシでしょう
南部信直は石川から三戸へ婿に行った後に父親(石川高信)を津軽為信に倒されてるから…南部信直が1番倒したかったのは…父親の仇である津軽為信だったりする😂
詳しく知らなかったので何故九戸氏は反乱したんだろ?と思っていたのでありがたいです
「○○の乱」は失敗に終わったもの、「○○の変」は成功したものと覚えておくといい
壬申の乱や禁門の変は逆の結果だけど何故か乱や変にカテゴライズされてんのなんでなんだろうね
確か厳密にはそういう区分はなかったはず>成功or失敗
薬子の変は失敗してるんだが……
本能寺の変は成功だったのか、、、
それ、嘘やで成功した乱も失敗した変もたくさんある
奥州仕置軍のメンツ凄いな大河ドラマにできそう
しかし、役者がおらん……😔
@@九戸政実-z6p 蒲生氏郷のように歴史上たいした実績を収めていない大名がこんな時に怒涛を組んでボコっただけで残念な戦いだったのかと思いますね。
@@お宮さん-r2t 蒲生氏郷は「一応」織田信長の娘婿として迎えられたから、無能ではねえなあ〜……。九戸政実公の武将としての力量が上だったと言う事ね……。
内容のまとめかたもさることながら、動画の時間も見やすい要因なんよなぁ💡
室町時代だと家督相続でもめて没落ってパターンがおおいけど逆に南部の場合はうまくいった形になりましたね
昔読んだ本に九戸政実の家臣が、「あの包囲軍の中に我々の身内がいるのか‥」って、遠回しに籠城は無意味って言ってのが、印象的でした。
天正18年7月27日付の朱印状での中に南部領確定・妻子の在京・城の破却・家臣らの三戸移住命令→「これらの異議唱える者は豊臣政権が成敗する」とかなり踏み込んだ内容で信直にとっちゃ三戸南部氏にとって九戸らが反対すれば成敗されるのは既定路線の確約を得て渡りに船。どこまでが信直の意思が絡んでるのか…(最後をねじ込ませたのなら先読みが凄い)「なんで信直は自力で討伐できてないのに改易されず存続できたのか?」→そうなった場合の確約を既に得ていたと考えると晴継暗殺疑惑持ちといい信直もかなり腹黒いし、上杉景勝みがある(景虎だけでなく上杉憲政も潰し、功労者の新発田重家も最終的に始末)
上杉景勝もかなり腹黒と言えば腹黒ですわな。上杉謙信亡き後に勃発した「御館の乱」(謙信の養子・上杉景勝と北条家からの養子・上杉景虎の間で起きた上杉家の家督相続をめぐる内乱)では家督争いの敵である景虎を、景勝にとって目障りだった関東管領・上杉憲政ごと叩き潰し、その後、大きな軍功を上げて景勝軍の勝利に貢献した新発田重家に対し、わざと軍功に見合わない少額の俸禄しか与えず、常々独立したがっていた新発田重家を伊達輝宗と蘆名盛隆が焚きつける形で乱が勃発したんですよね。ただ、新発田重家が伊達・蘆名の後ろ盾を得て思ったより抵抗が激しかった事、それと同時に西から織田信長の上杉征伐軍(柴田勝頼・佐々成政・森長可・滝川一益など)や信濃での北条氏直との領土争いに戦力を削がれた事が重なり、結局上杉景勝は新発田重家の討伐に6年半もかかってしまったけどね。
南部信直は石川から三戸へ婿に行った後に父親(石川高信)を津軽為信に倒された。父親の仇である津軽為信を倒したくて南部家当主にこだわった。南部信直は逆賊の津軽為信の土地も南部のもんだと秀吉に言ったが津軽家を認めちゃったあとだったから、それをなだめる意味で九戸領地は認めた。九戸城の戦いでも隣に陣取った津軽為信への攻撃を蒲生氏郷に願い出てた。(もちろんはぐらかされて却下)津軽家と南部家は犬猿の仲ってのは津軽為信と南部信直の関係から始まり江戸時代まで引きずってた。
政宗や為信にはさまれてるから目立ちにくいだけで信直利直父子もこの二人に負けないどころか実はそれ以上の腹黒かも。
母方の直系先祖が九戸の乱の政実方として参戦してます。撫で斬り、皆殺しとまではいかなくとも一族の新仏の墓を掘り起こしてことごとくその首を持ち去ったとの口伝が残っております。
13:55 ここの絶望感やばい
九戸政実の乱は九戸側が一方的に悪とは言えない反乱なんだよな😅南部信直の言い分が全部秀吉に通った結果として九戸一族は家臣扱いされてるけど、反乱の経緯考えると同盟関係のある自立して一族だったとしか思えん
騙し討ちにして城兵やその妻子を殺したのは事実だけど、農民に帰還命令出しているように、地下人含めた農民ではなくあくまで首に価値がある士分の人間が対象だったと思う。
撫で斬りと言われていますが、発掘された犠牲者の数が少ないですからね。やはり、領民は助命されたと考えるのが、自然でしょう。
皮肉な事だか反乱や一揆はある程度起きた方が鎮圧と事後処理がうまく行くのかもしれませんね
20年くらい前に「天を衝く」を読んだ後、行った城趾だけど、ある意味面白いのは、こんな虐殺があった場所なのに当たり前のように、城郭内に住宅があることなんだよね。
「大勢の人が殺された過去を持つ場所に」って話なら、東京なんて…ねえ
@@九戸牧市城跡なのに当たり前に個人の畑があるんだよこれでも史跡なんだが
5:33 小田原征伐に参加したこと自体が信直に世相を見る目があったということかな?13:40 百姓に帰還命令を出しただけでも当時としては寛大だったのかな?
「鳴かぬならタヒしてしまえ」と言うけど他領に逃げた敵は追わない等信長は優しいだよね、「鳴かぬならタヒしてしまえ」は残忍な秀吉か短気な家康にこそ相応しい。
秀吉に信長ほど優しくないって言われるくらいだし
裏切られても1回は許しちゃう信よりハゲネズミとたぬきの方がやべぇ
@@マスカット-p7u松永2回裏切っとるのに1回許して尚且つもう一回許そうとしとるし弟の信勝や柴田勝家が裏切った時に合戦にて打ち破ってて普通なら切腹させるか出家させるのにお咎めなしだし。使えないやつはすぐ追放するイメージだけど佐久間くんや林くんを追放したの結構終盤だし津田宗及やおねやヤマナカの猿等の話があるように信長って意外と優しい人物なのかも
信長がその様に言われるのは長島一向一揆で2万余、越前一向一揆で1万2千人、天正伊賀の乱で3万人の民を虐殺してるからだろうね。特に天正伊賀の乱は酷い。秀吉がした残忍な行為なんて信長に比べればかわいいものよ。こういう反乱事件をなあなあで許してたら天下に示しがつかない。まだ戦国気分が抜けてない奴らに対する見せしめの様な意味もあったのだろう。優しい一面もあったのだろうけど残酷な一面も持っていたわけであって、信長は優しいみたいな最近の風潮嫌いだわ。
@@アーク-q6w 秀吉はやらなくてもいい虐殺をやってる感じがどうしても…
冬を待つ城って小説だと、朝鮮出兵を見越して雪国での戦闘を経験させたい石田三成ととっとと終わらせたい蒲生氏郷の思惑が絡んだりしてたような気がします。ずっと前に読んだので記憶は曖昧ですが…。
討伐軍内にもう1つ爆弾があったと推察します。それは南部信直が暴走しそうだった。南部信直の父親(石川高信)を罠に嵌めて倒したのは津軽為信です。父親の仇が隣に居たら…?南部信直が蒲生氏郷や浅野長政に津軽為信の攻撃許可を願い出てたらしい。津軽と南部が犬猿の仲ってのは津軽為信と南部信直の関係からですね😂
読んでみたくなった
「天を衝く」は面白かったですただ、政実の行動に一貫性がないと思う場面が多くて…
和睦を断ったらどうなってましたかね?
こんなドラマあるのに、何故どこも映像化しない?
九戸城の戦いには諸説あり、10:50からの説明では9月2日〜9月4日の3日間ですが、私の手元の資料では九戸城を包囲したのは8月24日とあります恐らく、苦戦した記録を残したくないために早々に陥落したということにしたのではないかと思いますね
岩手県はときの中央政権に対抗し続けてきた歴史がありますからね。
岩手等の東北地方は義経の時代にはすでに中国との交易があり、京都につぐ文化大国として君臨していましたが、イロイロと目障りだったのか何度も討伐対象になったりしてますので必然的に反抗心が生まれたのだと思いす
前九年の役からですね。
立地的に中央の権利闘争から敗れた又は見限った人間が東北に逃れた事も多かったからね。まぁそんな連中に振り回される現地の人々から見ればどっちもどっちだろうけど。
アテルイの頃から
おお!!九戸政実😂😂高橋克彦先生の東北三部作のファンならば、「天を衝く」でお馴染みの武将てすね😂😂それと、ついでに言いたいのですが、高橋先生の名作、かの東北の英雄・阿弖流爲を描いた「火炎」を、是非とも大河ドラマでやって欲しいと、三重県民の僕は訴えたいのですm(_ _)m
南部の分家のため血族では無いけど、阿弖流為のような魂を持っている戦国武将だと思っています。
九戸政実は南部氏族ではなく二階堂氏(工藤氏)の可能性があります。
南部一族は清和源氏大江氏の出で元々は西国方面の出身です、大江の一族には毛利元就がいます、その後に甲州の南部地方に移動して南部性を名乗り奥州に移動します、甲州に残った一族は武田信玄等がいます
@@寺島忍 普通に武田、小笠原と同じ義光流ですし、大江は清和源氏じゃないです。
阿弖流為の転生でしょう
@@寺島忍大江さんが聞いたら気を悪くするな。清和源氏より古い家なのに。
正攻法ではなく騙し討ちをしてでも短期決着させたのは、大軍を投入し過ぎて補給線が危なかったとかそういう事情でもあるんでしょうかね。
朝鮮出兵の準備中だったから早めに片付けて出兵の準備を完了したかったのが理由ですよ。
勝ち目の無い中で戦う気になるのがスゴイ😅
南部家一の豪傑☆謀反しちゃったけど名将☆
攻撃する方も、秀吉からの指令を達成できない場合、自分が領地を失う事になる。今のロシアもそんな感じかも知れないね。
秀吉本人は会津若松までは進んだけれど、それが秀吉の最北端の到達地だそうなので、岩手県内のことは文書で指図したのだろう
黒田官兵衛の宇都宮だまし討ちと同じですね。戦とは総力戦、ウクライナも同じです。ただ露助のM癖は何とかしなくてわ!
そんなことがあったのね…。
あんだけ有名武将いっぱい引き連れて行ってやることが騙し討ちとはせこい天下人だよな。そんなんだから家康にやられるんだろうけど。
陸奥の加護は得られなかったか‥‥‥‥
時代的に陸奥(狛彦)と不破(虎彦)が分かれた後ですね。
陸奥のルーツは東北でも、特にどこかに定住はしてないからな。
日本史って、小学校では大雑把に時代の名称を順番に覚えるだけで精一杯。中学では、その転機となる出来事を肉付けし、高校では、その出来事の背景を肉付けする印象がある。ここまで来ると、大学で史学を専攻するか、地元の歴史愛好家レベルのお話しだと思ってます。公立図書館の書庫にでも眠っているような県史資料にでも当たらないと、なかなか詳細まで調べることが出来ないだけに、お疲れ様でした。参考になったよー。さて、秀吉の(この後の)最晩年については、朝鮮出兵は明への侵攻に当たって(海路より)便利だったからにすぎないというのが定説になりましたが、そもそも、その明への進出は、明への侵略が目的ではなかった、という最近の知見に注目しています。かつて信長が畿内を制圧し、鉄砲を輸入しはじめたころ、信長は同時にポルトガルとの交流も全面的に認めました。それに対し、秀吉をはじめとする信長家臣団の幾人かは「ポルトガルが東南アジアにおいて、鉄砲など為政者に喜ばれる品物を献上して取り入り、キリスト教の普及を認めさせると、宣教師を大量に送り込んで人民を手なづけた挙げ句、最終的には、その人民を組織化して蜂起させ、植民地にしてしまっていた」という経緯を察知していたようです。そのため、秀吉は天下統一の段階でポルトガルが明に触手しはじめていることを知り、日本と明が共同で、ポルトガルを追い返そうとしたのではないか、という意見が出てきています。個人的には、その知見には共感するものがあります。秀吉ほどの人間が、単に日本の統治だけに飽き足らず、朝鮮や中国までをも統治しようという野望を抱いた、とは思えないのです。秀吉とて、そのころには既に、これまでの日本・朝鮮・中国との歴史や関係性などは勉強していたでしょうから。誤解を恐れずにいえば、秀吉はこの反乱の鎮圧後、今風にいえば「日本と中国を盟主とした、北東アジア諸国連合」の形成をイメージしていたのではないか、と思えて仕方ない面があります。さて、次回以降の動画で、どのようにまとめてくださるか、楽しみです。
九戸政実っていま日本史の教科書に記載されてないの?戦国好きしか知らない、というくらいマイナーな存在になっているとは思わなかった。
自分の時はありましたよ先生がくのへまさみと読んでました
南部家はこんなに広大な領土もらったのに10万石なのね・・・
山林が多く、米の収穫はそんなに無かったからね……😔
領土の面積ではなく、米の取れ高だから。戦国時代。つまり、その本質は土地ではなく農民の支配権をめぐる争い。
江戸幕府の頃は実高二十万石。二万石八戸藩、一万二千石七戸藩。他に家老職の数家は軽く一万石超えてました。此処は一石とか使わず、一駄としてます。
なんなら今みたいな寒冷地向けの稲なんて無いから石高も超絶不安定だし…
米以外のものを含めたらそこそこ力があるんじゃない?信長の野望だと南部領は漁港が多くて米よりそっちが主要な糧食になってしまう。
おお まさか紹介されてるとは、、この話は地元二戸市の市民劇で何度か舞台化されてます知ってる人いるかなあ?地元以外で
豊臣方に反乱を起こしたら、ただでは済まさないという見せしめに、九戸家は根絶やしにされたんやろうなぁ割とどの国でも戦乱の世では普通のことなんだよねぇ
信長の野望新生でどこにでもいる男
勇猛だけど抜けやすいよんね、武田信虎みたい
気づいたら武田騎馬隊に加わってたりする
この乱の結果の虐殺の秀吉の意図はなんだったんだろう?
見せしめではないかな
秀吉の決定に逆らったらどういう結末になるかを見せしめ的な感じに虐殺したんじゃない?乱鎮圧に参加した大名は秀吉に臣従しているか色々と怪しい大名も参加していたし。
後味悪いっすね。だまし討ちだし。あとで南部信直が本拠地九戸城に移したのは、秀吉から移せって言われたんでしょうか?。めっちゃ恨まれてそうですよね。
まぁ、信長のやり方を散々見せられているしね。彼の手法を引き継いでいたとしても不思議じゃない。
天下の御掟「惣無事令」違反ですから、派手に処罰しないといけなかったのでしょう。
PS2信長の野望天下創生で計略コマンドの内応を九戸政実に仕掛けると引き抜きが出来るんだよな
この戦のあと南部信直が不来方城を紫波町と矢巾町の境に築城の申請を現在の不来方城に築城するよ言われて築城したと言われてますね
我が祖先の、下斗米、相馬大作さんは、二戸のでですが、どんな、関わりが、あったのでしょうか?九戸さんは、立派ですね。秀吉さんは、戦中ずですね。北条氏を、ほろぼすのと、おなじようなかんじですね。はいしゃは可愛そうだけど、なんか、八王子城野、戦いを、おもわされました。ひでよしつよし🤔🤔🤔アテルイ平将門の乱も、おもいました。😱☹️☹️☹️☹️☹️☹️
秀吉にとっては相当、屈辱な戦いだったことが伺い知れる。
晩年の秀吉は難癖をつけては改易、転封して恨みを買ったんだから2代で滅んでも仕方がない😅 やはり信長に仕えていた時に精神崩壊していたんだろうか…
家康もまあまあやりますが秀吉には及びませんね。
元からの気質な感じがしてます。秀吉はいまだに恨まれてそうですね。
秀吉のような教育を受けていないような者は上に立つと蛮行を繰り返すということなのでしょう。
武士ではなく呼び名の通り猿ですね
NHKさん 大河ドラマにしてください。
信長の野望で居たな上杉景勝でプレイする俺
助命の約束を反故にしての殺戮は規模の話はともかく、秀吉の晩年の老人性パラノイアの兆候何見られるね。人たらしだったのが嗜虐性を帯びる様になる変貌を見事に演じた「黄金の日日」の緒形拳の秀吉か演じるとしっくりくるだろうな、と思いました
戦国時代、全国各地で大なり小なり見られた光景かな?と。領国経営のために政治と軍事のバランスをどう操るか。信長以降政治力重視になりがちの中、脳筋重視?な武士(もののふ)の居場所は無くなりつつあったかと。戦の勝ち負けと、もののふ(武士)のプライドをはかりに掛けてプライドを選んだら相手はデカイ方が面白い。己の才覚を全開方出来るから。宗家の棟梁ではないから選べた選択。戦国武将にロマンを求める方なら、高橋氏の『天を衝く』お薦めです。
車で通ったことあるけど地名が面白かった
発掘しても人骨すらほぼないということは文献はかなり盛ってるでしょ
殺戮は無かったのか、単に埋葬しなかったから、鳥獣の餌になり、骨すらも風化して無くなったか?
これ実は軍記物では活躍盛られてて、騙し討ちとか起きてなくて普通に攻め滅ぼされた説。だとしたら人骨が少ないのも説明つくしそもそも5万の大軍に名将が揃っててそんなに手こずるとは思えん。
九戸勢はタヒ兵となってたから討伐軍は手を焼いてた。討伐軍はタヒにたく無いから士気も九戸勢より低い。大勢いても城への道は狭いから数で押し切れない。山城&タヒ兵を相手におそらく戦国時代最後の戦で誰が損失を出したいと思うか?しかも救援を求めてる南部信直は父親(石川高信)の仇である津軽為信をこの場で倒したくて蒲生氏郷や浅野長政に津軽為信への攻撃を願い出てた。😂有能な蒲生氏郷だって暴走しそうな味方がいたら手を焼くでしょ。そんな複雑な戦場になってた。
秀吉方、井伊直政が出てくるあたり北条攻めで溜まった鬱積を強兵相手に発散させたい思惑も感じられますね。
なるほど、だから秀吉は一代で終わったのか。
まぁ、信直は死んだとき棺がポルターガイスト?で浮くって話があるくらいだし。無能な奴だなぁと思う。政実は不器用だったなぁ。俺は好きだけども。
九戸政実がおじ姉帯大学兼興の家系です私😅
津軽為信は南部と九戸の対立に乗じて版図を広げ独立を果たした。当然連絡も取り合っていたと考えられるが九戸の乱ではシレっと征討軍に加わっている。この事を指して為信を表裏卑怯のものと(藤原姓や早くから津軽姓を名乗ってたり)されるが秀吉側は南部右京の介と呼称しバレバレであった。
南部と九戸の対立に乗じてというか恐らく南部晴政と九戸政実の策だと思っています。目的は信直の後ろ楯を失くすため、晴政サイドでも信直襲撃を行ってます。独立は晴政が没したのと八戸氏(根城南部)と小笠原氏が信直側に付いて太平洋側が信直支持で固まったから。
津軽為信の独立は九戸政実が唆したとも言われてるね。正月の年賀の挨拶で三戸を訪れた為信に「今津軽で何事が起きても三戸からの討伐軍は出ないだろう」とか言ってたとか。
二の丸の人骨は粗末であろうと墓穴に葬られているので、仕置き軍の凶行とは関係無いかも知れませんね。包囲中に城内で反乱が起き、政実に制圧された上で斬首にされたものの、城外には捨てに行けないのでとりあえず埋められたと言った感じなのかも。
蒲生氏郷は信長と秀吉に従ってフル稼働したおかげかどうかわからんが40で亡くなった。姉川の合戦、長篠の戦い、小牧長久手の戦い、九州征伐、会津転封、奥州仕置、朝鮮出兵名護屋城宿営など。
もっとゆっくり話して欲しいです話が早くてわからない
二戸市が実家なのでとても嬉しい紹介ありがとうございます!九戸城の高台からの景色は素晴らしいです!
大体の大河ドラマで奥州仕置の一言で片付けられてしまう九戸城の戦い…
ありがとうございます!
「信長の野望」でいつも東北地方から始めるんだけど、政実の騎馬隊が結構強くて毎度お世話になってる。
毎回簡単に引き抜けるので
南部家以外でプレイしても
お世話になるw
大変、分かり易い動画配信を有難う
母親の実家なので何度も行きました。
実際に見ると、九戸城は本当に要害堅固だったんだろうなと感じます。
騙し討ちも、現地の説明だと”奥州仕置軍も攻めあぐねて…”といった風な説明だったと思います。
10年ほど前バイクで出かけて現地で数時間昼寝して夕方に目が覚めた時、ひどい悪夢にうなされたのはいい思い出
自分は霊感ゼロだと思ってたけど、あの場所だけは”誰かいる!?”と思っちゃったんですよね。
本筋とは離れるけどこれ豊臣秀次が総大将というのが肝なんよね。この戦の帰りに最上家に寄り、駒姫を見初めて側室にするように義光にせまり数年後輿入れさせるが、ちょうど秀次事件の最中で会ったこともないのに助命の連絡が間に合わず他の側室と共に処刑されてしまう。心労で駒姫の母は死んだとも、自殺したとも言われている。このことで最上義光は非常に豊臣家を恨らんで徳川へなびき、長谷堂城の戦いにつながっていく。
駒姫の話は知っていたけど秀次がここで東北に出張って来たせいで側室話につながったというのは初めて知りました。
ホント義光パッパは身内の女性との縁が薄くて可哀そう( ^ω^)・・・。
この悲劇を知ってから東北の大名で最上義光公が一番好きになりました。
いつか墓参りに行きたいですね。
秀次が東北に出張ってきて、山形に顔を出したばかりに、美女と言われた駒姫は余計な事に巻き込まれてしまったわけですね。
秀次は本当に余計な事ばかりしやがるw
これ最上が悪く言われないの不思議
日本人の感覚では身内の恨みで陣営まで決めるなんてアホの極みだろう
秀次が割と同情の余地がないのと最終的に勝ち組になったので許されてる感が強いな
@@福正之 まあ最上家はその後身内同士の争いで改易されたけど
@@tomohiroino6553 それでも秀吉よりは人物的にマシだったと評価されている。
しかし、それ依然にろくでもないこの兄弟。
ちなみに関係ありませんが
信直派の筆頭家老の北信愛ちゃんは64歳で信直のお使いで加賀まで外交に行ったり
77歳で関ヶ原の戦いの際にたった十数人で500〜1000の兵相手に守り切ったり
91歳まで生きた高性能じいちゃんであります
現代だと「ノアちゃん」て名前になりそうなキラキラお爺ちゃん。
南部家の相続争いがもとで津軽為信と九戸政実は南部家から独立した。為信は石田三成を頼って秀吉からの安堵を取り付けたが、九戸はその工作をしなかったために南部への反逆者とされ、追討の対象となってしまった。為信は家の存続のために包囲軍に入ったが、落城時に政実の子を密かに保護した。関ヶ原戦後に恩人である三成の息子を匿って家老にしたり、娘辰姫が為信の息子信枚の妻となりその子信義が次の藩主になるなど、実は津軽家には義理堅いところがあることがわかる。
義理堅いとは…
石川高信を謀殺した事はお忘れなきよう…
@@dorel9267 それと義理堅いのは別でしょう。たとえば毛利元就や尼子経久もそういう両面性がある。
小田原攻めの前か後かとか、一門衆か氏族かとか、一部地域の奪還か総領家相続かとかいろいろあるけど津軽氏と九戸氏は同じに考えない方が良いと思うよ。あと、歴史は勝者が書いたフィクションで、特にこの頃の歴史で義理なんて無いからあんまり使わない方が良いと思うよ。
世の中が豊臣方、徳川方のどちらに転がっても津軽家が生き残れるような作戦だったんだろうと思われる。真田みたいな感じで。ちなみに長男は豊臣方で3男が徳川方に付いてた。3男2代目の正室は徳川家で側室は石田家(隠してるけど)😂ちなみに長男ができたのは…側室の石田家だったw2代目正室(満天姫)のおかげで幕末まで津軽家は生き残れたみたい。
@@月たかの 少なくとも南部家からの離反は両方とも南部信直の家督継承が原因。歴史が勝者によって都合よく書き換えられるのは百も承知だが、この時代でも義理はあるよ。命がけだからこそ裏切りも多かったが、それでも命を懸けて義理を貫いた例はいくらでもある。
秀吉に色々な大名たちが抗う理由は大きく分けて3つある
1.その出自から舐められている
2.主君敵討ちとはいえ実権を握ると主家を乗っ取る
3.多くの条約を無視して氏政や政実などを殺したりと約束反故が多い
これらがあったからでしょうな
九戸城、行きました。断崖の下から見ると存在感はかなりありました。ちょうど発掘調査をしているところでその様子を見ることが出来ました。布陣図を見ると、この時代にしかありえない武将たちが揃っていますよね。
取り上げてくださりありがとうございました。
「三日月の丸くなるまで南部領」を支えた陸奥の勇将・九戸政実だったけど、処世術が悪かったね。
同じく南部から独立した津軽為信みたいに早くから秀吉相手に誼を通じてれば、あるいは生き残る道もあったかもね。
同意です。要領が悪すぎましたね。
戦国の世でも処世術のない武将たちは淘汰される存在でしたからね。
武勲と忠義だけでは生き残れなかった。調略と外交手腕が必要だったわけです。
降伏すれば助命するとそそのかして相手を騙し討ちにして皆殺しにして殲滅させるのは、戦国時代の常とう手段でした。一人でも取り逃がして生き延びさせてしまえば、それが新たな反乱分子として残ってしまうのでね。まさに殺るか殺られるかの世界ですからね。
だから、家中の男子はもちろん、女子供まですべて殺すわけです。か弱い物として容赦することはできないですからね。
九戸政実は現在でも地元では名君・猛将として慕われており
三戸から盛岡に移った南部本家の領地でも裏切り者扱いする人は少ないよ。
ちなみに当然だが津軽家は南部家では仇敵と見られており
江戸時代以前の民話では悪役・愚か者と設定されてることが多い。
青森県では南部と津軽でいくらか対抗意識があると聞いた。
岩手県では南部と伊達の対抗意識はあまりないが
藩境の旧江刺市(現在の奥州市の一部)には伊達家の一族が置かれて
現在まで家系が残っており男の子が産まれると「宗」の地を入れると
以前県職員の方に聞いた。
岩手二戸に住む人間としてはアテルイ・奥州藤原氏・源義経(平泉)・九戸政実側です。
九戸政実は高橋克彦先生の「天を衝く」という小説で知りました。とても面白い本なので、興味のある方は是非ご一読ください
あの本面白いですよね。
九戸政実の奥さんはこの反乱に反対してたそうです。
奥州最強の武将、九戸政実、もしも生きて朝鮮の役に参加してたらどうなってたんでしょうね。
秀吉の奥州仕置が厳しかったのは、大和朝廷から続く中央の奥州に対する差別意識が影響してるそうです。
前九年後三年の役でも降伏した奥羽勢は残虐な殺され方されたそうです。
秀吉は平泉に納められていた(金銀を混ぜた墨で書かれた)納経を金剛峯寺に持っていってしまいましたね。
南部信直「上方は俺たちを田舎侍だの何その方言だのバカにしてくるから月一の利家殿の面会以外は屋敷から出たくない…orz」
最上義光「上杉景勝の庄内侵攻(十五里ヶ原の戦い)明らかに惣無事令違反なのに放置して、挙句の果てに駒まで…怒」
伊達政宗「愛の実家が…(田村家改易)」 小峰義親・石川昭光「くそ~…政宗経由で貢物送ったけどダメだったか…(直に参陣しなかったため改易)」
実はこれはかなり根深くて
佐治のエミシ発言などかなり最近まで例がある。
自分は東北に差別意識は全くないのでやる奴の気が知れないが。
@@フォード-i1w政宗のは明らかにお前のせいじゃんw(従属、与力大名には「自分が代表で行くからお前ら小田原行かなくていいよ」って行くのを止めさせてた)
大河ドラマの炎立つが好きなので奥羽勢に肩入れしてしまいます。信長の野望で、安倍氏の子孫安東氏から始めて東北統一した後ひたすら独立国家のように引きこもる縛りゲーを楽しんでますw
確か安倍龍太郎氏の「冬を待つ城」の作品のモデルとなった戦いですね。
あれめっちゃいい本でした。
「天を衝く」と言う小説で九戸政実を知りました。
東北地方は伊達、最上、津軽ぐらいしか有名人いないと思ったら本家そして天下人にも逆らった気骨ある男がいたんだと思いました。
最強最後の戦国武将、という描かれ方をしていましたよね。
@@狂壱 さん
本家の継承問題や、弟の一人と袂を分つなど失敗もありましたが天下に対し一年近く反抗したと言うこと自体が凄いですよね。
ま、当の秀吉さん自身は聚楽第で能や茶の湯で優雅にくつろいでいただろうけどね。
うーん、我が地元の事情をこんなに詳しく解説してくれるとは😮
ちなみに二戸市は日本一の人口の少ない市政地として山川出版の社会資料に載ってましたさ3万人越えて市政になってすぐ2万人台になって名誉の記載されました。古戦場跡は結構あります。
のぼうの城 傑作でしたね🎥
政実と繋がりがありながら討伐軍に参加した津軽為信ですが、乱の終結間際に逃亡してきた政実の庶子を匿ったという話があったり、関ケ原の合戦後に石田三成の次男を引き取り名前を変えさせて家臣として雇うなど冷酷なだけではないようにも感じます。
三成の子達の話は可愛がっていた長男信建の伝手だったはず
九戸氏は分家筋だが家臣とも言えない。
室町時代は家臣みたいな同族、家臣、従属的同盟者、旗頭としての同盟者と入り乱れる、あやふやな関係の軍制だったからね。
西の天下無双の立花宗茂の
大津城の撤回から柳川に帰還してからの
、黒田孝高(如水)・加藤清正・鍋島直茂との戦いを解説してほしいな
変な茶番がない 前振りもない 内容が濃い 最高かよ
信長の野望で九戸政実は知っていましたがNHKの番組で九戸政実の乱の詳細を知り、同番組で紹介された小説、天を衝くを購入して読み、九戸政実って凄いなと思いました。
構成がとても良かったのでチャンネル登録させていただきました(^_^)
岩手県では演劇の主人公になったりしてるし地元の九戸村では英雄扱いです。
岩手県は本土で一番広い県なので昔の権力はあったんでしょうね。今はもう人が居なくなって哀しいです。
四国より広いですからね。
総理大臣を輩出されております🥰
羽振りが最高🙌
とんでもない厨パ組む秀吉で笑ってしまった
この戦いが事実上豊臣政権の完成だったんですよね。もっともその後の肝心の土台固めを朝鮮出兵や千利休豊臣秀次粛清で潰してしまったので長く続きませんでしたが。
高橋克彦氏の 天を衝く を読んでいた所だから面白かった
地元にこんな凄い武将がいたとは
んだな〜
んだ!
んだんだっ。
元々は、三戸南部を支えてた精鋭武士団だでねぇっ。
それを失ったんだから、この後の奥州南部家は勢力が衰えたしっ。
オラの出身の九戸地方では、今でも英雄として語り継がれてるべなすっ。
ちなみに、九戸政実公の客将の「小軽米氏」は、元の名は「武田姓」です。
推しの小野寺氏が参戦した、数少ない有名な合戦
九戸城からある重臣の娘が母と下男と一緒に脱出。それについての悲話もあります。
色々と知らない歴史を学べて👍です。秀次が総大将とは意外でした。小牧・長久手の戦いの因縁の相手とコンビを組んでいるのも面白いなと思いました。
南部信直の父親の石川高信を罠に嵌めて倒したのは…津軽為信です。父親の仇が隣に居たらあなたならどうしたいですか?南部信直は九戸政実より津軽為信に攻撃仕掛けたかったみたいです。😂しかも津軽為信は分かってて南部信直を挑発してた。南部信直は蒲生氏郷や浅野長政に津軽為信への攻撃を願い出てた。この因縁もお忘れなく。🤣
信長の野望に出て来る武将なんか出てきて面白いですね。
南部氏は下手に広い土地と支族が多過ぎて大混乱だったと思いますよ
自分の家も南部支族扱いです。九戸氏から土地を貰い、この頃には信直公の命令を直々に受けていたりで板挟みだった思います
形は九戸側に付く事を表明し、しかし参戦はせず当主の切腹により戦闘を回避しました
他の中立を選んだ家は取り潰される中、自分の家は九戸側に付いたにも関わらず続いています
実は南部支族と言っても家には武田の落ち武者と伝わっており、武田狩りから逃げて来たのであれば秀吉軍とは無理ゲと思っていたかも。切腹するなら最初から三戸南部に付けばよかったのかもですが形だけでも御先祖は義理は通したかったのだろうか?とか結果からの妄想ではありますけれど
高橋克彦先生ファンもよく知っています、「まつろわぬ東北」愛がガチです(^^)
九戸は「まさか辺境のこんな所まで豊臣家は来ないだろう、周辺の連中だけなら自分は負けない」と思ったんでしょうね。同じ南部氏から独立目指した大名でも津軽為信は苦労して秀吉にに名馬と鷹を献上、独立した大名として秀吉に認められています。逆に九州の西郷氏は秀吉が九州に赴いた時に九戸と同様に無視した為に,討伐受けて滅亡しています。外交を軽く見た武将の末路ですね。
まあ、小田原攻めを見れば一目瞭然なんですよね。
そうだよね~。現代ならそうでもないけど、道の奥(みちのく)だもの~! 九戸の生まれです。
九戸城の戦いが終わった日は10月21日。偶然にも次の戦いとなる関ヶ原の戦いが起きたのが9年後の10月21日(9月15日は旧暦)。
同日は日本問わず世界的にもターニングポイントになる出来事が結構起きていてトラファルガーの戦い、東京専門学校(早稲田大学)の開校、学徒出陣壮行会、神風特攻隊初出撃、世界反戦デー、新宿騒乱、全日本プロレス旗揚げ、そしてワイの誕生日。
天を衝くも良いけど安部龍太郎が書いた冬を待つ城もいいゾ
津軽「信直さん、大変ですね~」
津軽も南部の後継者争いの被害者なんだけど、いち早く独立の正当性を主張した上に、秀吉と義兄弟になるとゆう裏技で独立を勝ち取ったんですよね、信直も分家(当主、晴政の叔父、高信の子)から当主になった為に他の分家から不満が集中して、このような自体になりましたが、今川家のように滅んでないだけマシでしょう
南部信直は石川から三戸へ婿に行った後に父親(石川高信)を津軽為信に倒されてるから…南部信直が1番倒したかったのは…父親の仇である津軽為信だったりする😂
詳しく知らなかったので
何故九戸氏は反乱したんだろ?と思っていたのでありがたいです
「○○の乱」は失敗に終わったもの、「○○の変」は成功したものと覚えておくといい
壬申の乱や禁門の変は逆の結果だけど何故か乱や変にカテゴライズされてんのなんでなんだろうね
確か厳密にはそういう区分はなかったはず>成功or失敗
薬子の変は失敗してるんだが……
本能寺の変は成功だったのか、、、
それ、嘘やで
成功した乱も失敗した変もたくさんある
奥州仕置軍のメンツ凄いな
大河ドラマにできそう
しかし、役者がおらん……😔
@@九戸政実-z6p
蒲生氏郷のように歴史上たいした実績を収めていない大名がこんな時に怒涛を組んでボコっただけで残念な戦いだったのかと思いますね。
@@お宮さん-r2t
蒲生氏郷は「一応」織田信長の娘婿として迎えられたから、無能ではねえなあ〜……。
九戸政実公の武将としての力量が上だったと言う事ね……。
内容のまとめかたもさることながら、動画の時間も見やすい要因なんよなぁ💡
室町時代だと家督相続でもめて没落ってパターンがおおいけど逆に南部の場合はうまくいった形になりましたね
昔読んだ本に九戸政実の家臣が、「あの包囲軍の中に我々の身内がいるのか‥」って、遠回しに籠城は無意味って言ってのが、印象的でした。
天正18年7月27日付の朱印状での中に南部領確定・妻子の在京・城の破却・家臣らの三戸移住命令→「これらの異議唱える者は豊臣政権が成敗する」とかなり踏み込んだ内容で信直にとっちゃ三戸南部氏にとって九戸らが反対すれば成敗されるのは既定路線の確約を得て渡りに船。どこまでが信直の意思が絡んでるのか…(最後をねじ込ませたのなら先読みが凄い)
「なんで信直は自力で討伐できてないのに改易されず存続できたのか?」→そうなった場合の確約を既に得ていたと考えると晴継暗殺疑惑持ちといい信直もかなり腹黒いし、上杉景勝みがある(景虎だけでなく上杉憲政も潰し、功労者の新発田重家も最終的に始末)
上杉景勝もかなり腹黒と言えば腹黒ですわな。
上杉謙信亡き後に勃発した「御館の乱」(謙信の養子・上杉景勝と北条家からの養子・上杉景虎の間で起きた上杉家の家督相続をめぐる内乱)では家督争いの敵である景虎を、景勝にとって目障りだった関東管領・上杉憲政ごと叩き潰し、その後、大きな軍功を上げて景勝軍の勝利に貢献した新発田重家に対し、わざと軍功に見合わない少額の俸禄しか与えず、常々独立したがっていた新発田重家を伊達輝宗と蘆名盛隆が焚きつける形で乱が勃発したんですよね。
ただ、新発田重家が伊達・蘆名の後ろ盾を得て思ったより抵抗が激しかった事、それと同時に西から織田信長の上杉征伐軍(柴田勝頼・佐々成政・森長可・滝川一益など)や信濃での北条氏直との領土争いに戦力を削がれた事が重なり、結局上杉景勝は新発田重家の討伐に6年半もかかってしまったけどね。
南部信直は石川から三戸へ婿に行った後に父親(石川高信)を津軽為信に倒された。父親の仇である津軽為信を倒したくて南部家当主にこだわった。南部信直は逆賊の津軽為信の土地も南部のもんだと秀吉に言ったが津軽家を認めちゃったあとだったから、それをなだめる意味で九戸領地は認めた。九戸城の戦いでも隣に陣取った津軽為信への攻撃を蒲生氏郷に願い出てた。(もちろんはぐらかされて却下)津軽家と南部家は犬猿の仲ってのは津軽為信と南部信直の関係から始まり江戸時代まで引きずってた。
政宗や為信にはさまれてるから目立ちにくいだけで信直利直父子もこの二人に負けないどころか実はそれ以上の腹黒かも。
母方の直系先祖が九戸の乱の政実方として参戦してます。
撫で斬り、皆殺しとまではいかなくとも一族の新仏の墓を掘り起こして
ことごとくその首を持ち去ったとの口伝が残っております。
13:55 ここの絶望感やばい
九戸政実の乱は九戸側が一方的に悪とは言えない反乱なんだよな😅
南部信直の言い分が全部秀吉に通った結果として九戸一族は家臣扱いされてるけど、反乱の経緯考えると同盟関係のある自立して一族だったとしか思えん
騙し討ちにして城兵やその妻子を殺したのは事実だけど、農民に帰還命令出しているように、地下人含めた農民ではなくあくまで首に価値がある士分の人間が対象だったと思う。
撫で斬りと言われていますが、発掘された犠牲者の数が少ないですからね。やはり、領民は助命されたと考えるのが、自然でしょう。
皮肉な事だか反乱や一揆はある程度起きた方が鎮圧と事後処理がうまく行くのかもしれませんね
20年くらい前に「天を衝く」を読んだ後、行った城趾だけど、ある意味面白いのは、こんな虐殺があった場所なのに当たり前のように、城郭内に住宅があることなんだよね。
「大勢の人が殺された過去を持つ場所に」って話なら、東京なんて…ねえ
@@九戸牧市城跡なのに当たり前に個人の畑があるんだよ
これでも史跡なんだが
5:33 小田原征伐に参加したこと自体が信直に世相を見る目があったということかな?
13:40 百姓に帰還命令を出しただけでも当時としては寛大だったのかな?
「鳴かぬならタヒしてしまえ」と言うけど他領に逃げた敵は追わない等信長は優しいだよね、「鳴かぬならタヒしてしまえ」は残忍な秀吉か短気な家康にこそ相応しい。
秀吉に信長ほど優しくないって言われるくらいだし
裏切られても1回は許しちゃう信よりハゲネズミとたぬきの方がやべぇ
@@マスカット-p7u
松永2回裏切っとるのに1回許して尚且つもう一回許そうとしとるし弟の信勝や柴田勝家が裏切った時に合戦にて打ち破ってて普通なら切腹させるか出家させるのにお咎めなしだし。
使えないやつはすぐ追放するイメージだけど佐久間くんや林くんを追放したの結構終盤だし津田宗及やおねやヤマナカの猿等の話があるように信長って意外と優しい人物なのかも
信長がその様に言われるのは長島一向一揆で2万余、越前一向一揆で1万2千人、天正伊賀の乱で3万人の民を虐殺してるからだろうね。特に天正伊賀の乱は酷い。秀吉がした残忍な行為なんて信長に比べればかわいいものよ。こういう反乱事件をなあなあで許してたら天下に示しがつかない。まだ戦国気分が抜けてない奴らに対する見せしめの様な意味もあったのだろう。
優しい一面もあったのだろうけど残酷な一面も持っていたわけであって、信長は優しいみたいな最近の風潮嫌いだわ。
@@アーク-q6w 秀吉はやらなくてもいい虐殺をやってる感じがどうしても…
冬を待つ城って小説だと、朝鮮出兵を見越して雪国での戦闘を経験させたい石田三成ととっとと終わらせたい蒲生氏郷の思惑が絡んだりしてたような気がします。
ずっと前に読んだので記憶は曖昧ですが…。
討伐軍内にもう1つ爆弾があったと推察します。それは南部信直が暴走しそうだった。南部信直の父親(石川高信)を罠に嵌めて倒したのは津軽為信です。父親の仇が隣に居たら…?南部信直が蒲生氏郷や浅野長政に津軽為信の攻撃許可を願い出てたらしい。津軽と南部が犬猿の仲ってのは津軽為信と南部信直の関係からですね😂
読んでみたくなった
「天を衝く」は面白かったです
ただ、政実の行動に一貫性がないと思う場面が多くて…
和睦を断ったらどうなってましたかね?
こんなドラマあるのに、何故どこも映像化しない?
九戸城の戦いには諸説あり、10:50からの説明では9月2日〜9月4日の3日間ですが、私の手元の資料では九戸城を包囲したのは8月24日とあります
恐らく、苦戦した記録を残したくないために早々に陥落したということにしたのではないかと思いますね
岩手県はときの中央政権に対抗し続けてきた歴史がありますからね。
岩手等の東北地方は義経の時代にはすでに中国との交易があり、京都につぐ文化大国として君臨していましたが、イロイロと目障りだったのか何度も討伐対象になったりしてますので必然的に反抗心が生まれたのだと思いす
前九年の役からですね。
立地的に中央の権利闘争から敗れた又は見限った人間が東北に逃れた事も多かったからね。まぁそんな連中に振り回される現地の人々から見ればどっちもどっちだろうけど。
アテルイの頃から
おお!!九戸政実😂😂
高橋克彦先生の東北三部作のファンならば、「天を衝く」でお馴染みの武将てすね😂😂
それと、ついでに言いたいのですが、高橋先生の名作、かの東北の英雄・阿弖流爲を描いた「火炎」を、是非とも大河ドラマでやって欲しいと、三重県民の僕は訴えたいのですm(_ _)m
南部の分家のため血族では無いけど、阿弖流為のような魂を持っている戦国武将だと思っています。
九戸政実は南部氏族ではなく二階堂氏(工藤氏)の可能性があります。
南部一族は清和源氏大江氏の出で元々は西国方面の出身です、大江の一族には毛利元就がいます、その後に甲州の南部地方に移動して南部性を名乗り奥州に移動します、甲州に残った一族は武田信玄等がいます
@@寺島忍 普通に武田、小笠原と同じ義光流ですし、大江は清和源氏じゃないです。
阿弖流為の転生でしょう
@@寺島忍
大江さんが聞いたら気を悪くするな。清和源氏より古い家なのに。
正攻法ではなく騙し討ちをしてでも短期決着させたのは、大軍を投入し過ぎて補給線が危なかったとかそういう事情でもあるんでしょうかね。
朝鮮出兵の準備中だったから早めに片付けて出兵の準備を完了したかったのが理由ですよ。
勝ち目の無い中で戦う気になるのがスゴイ😅
南部家一の豪傑☆
謀反しちゃったけど名将☆
攻撃する方も、秀吉からの指令を達成できない場合、自分が領地を失う事になる。
今のロシアもそんな感じかも知れないね。
秀吉本人は会津若松までは進んだけれど、それが秀吉の最北端の到達地だそうなので、岩手県内のことは文書で指図したのだろう
黒田官兵衛の宇都宮だまし討ちと同じですね。戦とは総力戦、ウクライナも同じです。ただ露助のM癖は何とかしなくてわ!
そんなことがあったのね…。
あんだけ有名武将いっぱい引き連れて行ってやることが騙し討ちとはせこい天下人だよな。そんなんだから家康にやられるんだろうけど。
陸奥の加護は得られなかったか‥‥‥‥
時代的に陸奥(狛彦)と不破(虎彦)が分かれた後ですね。
陸奥のルーツは東北でも、特にどこかに定住はしてないからな。
日本史って、小学校では大雑把に時代の名称を順番に覚えるだけで精一杯。中学では、その転機となる出来事を肉付けし、高校では、その出来事の背景を肉付けする印象がある。
ここまで来ると、大学で史学を専攻するか、地元の歴史愛好家レベルのお話しだと思ってます。公立図書館の書庫にでも眠っているような県史資料にでも当たらないと、なかなか詳細まで調べることが出来ないだけに、お疲れ様でした。参考になったよー。
さて、秀吉の(この後の)最晩年については、朝鮮出兵は明への侵攻に当たって(海路より)便利だったからにすぎないというのが定説になりましたが、そもそも、その明への進出は、明への侵略が目的ではなかった、という最近の知見に注目しています。かつて信長が畿内を制圧し、鉄砲を輸入しはじめたころ、信長は同時にポルトガルとの交流も全面的に認めました。それに対し、秀吉をはじめとする信長家臣団の幾人かは「ポルトガルが東南アジアにおいて、鉄砲など為政者に喜ばれる品物を献上して取り入り、キリスト教の普及を認めさせると、宣教師を大量に送り込んで人民を手なづけた挙げ句、最終的には、その人民を組織化して蜂起させ、植民地にしてしまっていた」という経緯を察知していたようです。
そのため、秀吉は天下統一の段階でポルトガルが明に触手しはじめていることを知り、日本と明が共同で、ポルトガルを追い返そうとしたのではないか、という意見が出てきています。個人的には、その知見には共感するものがあります。秀吉ほどの人間が、単に日本の統治だけに飽き足らず、朝鮮や中国までをも統治しようという野望を抱いた、とは思えないのです。秀吉とて、そのころには既に、これまでの日本・朝鮮・中国との歴史や関係性などは勉強していたでしょうから。誤解を恐れずにいえば、秀吉はこの反乱の鎮圧後、今風にいえば「日本と中国を盟主とした、北東アジア諸国連合」の形成をイメージしていたのではないか、と思えて仕方ない面があります。
さて、次回以降の動画で、どのようにまとめてくださるか、楽しみです。
九戸政実っていま日本史の教科書に記載されてないの?
戦国好きしか知らない、というくらいマイナーな存在になっているとは思わなかった。
自分の時はありましたよ
先生がくのへまさみと読んでました
南部家はこんなに広大な領土もらったのに10万石なのね・・・
山林が多く、米の収穫はそんなに無かったからね……😔
領土の面積ではなく、米の取れ高だから。
戦国時代。つまり、その本質は土地ではなく農民の支配権をめぐる争い。
江戸幕府の頃は実高二十万石。二万石八戸藩、一万二千石七戸藩。他に家老職の数家は軽く一万石超えてました。
此処は一石とか使わず、一駄としてます。
なんなら今みたいな寒冷地向けの稲なんて無いから石高も超絶不安定だし…
米以外のものを含めたらそこそこ力があるんじゃない?信長の野望だと南部領は漁港が多くて米よりそっちが主要な糧食になってしまう。
おお まさか紹介されてるとは、、
この話は地元二戸市の市民劇で何度か舞台化されてます
知ってる人いるかなあ?地元以外で
豊臣方に反乱を起こしたら、ただでは済まさないという見せしめに、九戸家は根絶やしにされたんやろうなぁ
割とどの国でも戦乱の世では普通のことなんだよねぇ
信長の野望新生でどこにでもいる男
勇猛だけど抜けやすいよんね、武田信虎みたい
気づいたら武田騎馬隊に加わってたりする
この乱の結果の虐殺の秀吉の意図はなんだったんだろう?
見せしめではないかな
秀吉の決定に逆らったらどういう結末になるかを見せしめ的な感じに虐殺したんじゃない?乱鎮圧に参加した大名は秀吉に臣従しているか色々と怪しい大名も参加していたし。
後味悪いっすね。だまし討ちだし。
あとで南部信直が本拠地九戸城に移したのは、秀吉から移せって言われたんでしょうか?。めっちゃ恨まれてそうですよね。
まぁ、信長のやり方を散々見せられているしね。彼の手法を引き継いでいたとしても不思議じゃない。
天下の御掟「惣無事令」違反ですから、派手に処罰しないといけなかったのでしょう。
PS2信長の野望天下創生で計略コマンドの内応を九戸政実に仕掛けると引き抜きが出来るんだよな
この戦のあと南部信直が不来方城を紫波町と矢巾町の境に築城の申請を現在の不来方城に築城するよ言われて築城したと言われてますね
我が祖先の、下斗米、相馬大作さんは、二戸のでですが、どんな、関わりが、あったのでしょうか?九戸さんは、立派ですね。秀吉さんは、戦中ずですね。北条氏を、ほろぼすのと、おなじようなかんじですね。はいしゃは可愛そうだけど、なんか、八王子城野、戦いを、おもわされました。ひでよしつよし🤔🤔🤔アテルイ平将門の乱も、おもいました。😱☹️☹️☹️☹️☹️☹️
秀吉にとっては相当、屈辱な戦いだったことが伺い知れる。
晩年の秀吉は難癖をつけては改易、転封して恨みを買ったんだから2代で滅んでも仕方がない😅 やはり信長に仕えていた時に精神崩壊していたんだろうか…
家康もまあまあやりますが秀吉には及びませんね。
元からの気質な感じがしてます。
秀吉はいまだに恨まれてそうですね。
秀吉のような教育を受けていないような者は上に立つと蛮行を繰り返すということなのでしょう。
武士ではなく呼び名の通り猿ですね
NHKさん 大河ドラマにしてください。
信長の野望で居たな
上杉景勝でプレイする俺
助命の約束を反故にしての殺戮は規模の話はともかく、秀吉の晩年の老人性パラノイアの兆候何見られるね。
人たらしだったのが嗜虐性を帯びる様になる変貌を見事に演じた「黄金の日日」の緒形拳の秀吉か演じるとしっくりくるだろうな、と思いました
戦国時代、全国各地で大なり小なり見られた光景かな?と。
領国経営のために政治と軍事のバランスをどう操るか。信長以降政治力重視になりがちの中、脳筋重視?な武士(もののふ)の居場所は無くなりつつあったかと。戦の勝ち負けと、もののふ(武士)のプライドをはかりに掛けてプライドを選んだら相手はデカイ方が面白い。己の才覚を全開方出来るから。宗家の棟梁ではないから選べた選択。
戦国武将にロマンを求める方なら、高橋氏の『天を衝く』お薦めです。
車で通ったことあるけど地名が面白かった
発掘しても人骨すらほぼない
ということは文献はかなり盛ってるでしょ
殺戮は無かったのか、単に埋葬しなかったから、鳥獣の餌になり、骨すらも風化して無くなったか?
これ実は軍記物では活躍盛られてて、騙し討ちとか起きてなくて普通に攻め滅ぼされた説。だとしたら人骨が少ないのも説明つくしそもそも5万の大軍に名将が揃っててそんなに手こずるとは思えん。
九戸勢はタヒ兵となってたから討伐軍は手を焼いてた。討伐軍はタヒにたく無いから士気も九戸勢より低い。大勢いても城への道は狭いから数で押し切れない。山城&タヒ兵を相手におそらく戦国時代最後の戦で誰が損失を出したいと思うか?しかも救援を求めてる南部信直は父親(石川高信)の仇である津軽為信をこの場で倒したくて蒲生氏郷や浅野長政に津軽為信への攻撃を願い出てた。😂有能な蒲生氏郷だって暴走しそうな味方がいたら手を焼くでしょ。そんな複雑な戦場になってた。
秀吉方、井伊直政が出てくるあたり北条攻めで溜まった鬱積を強兵相手に発散させたい思惑も感じられますね。
なるほど、だから秀吉は一代で終わったのか。
まぁ、信直は死んだとき棺がポルターガイスト?で浮くって話があるくらいだし。
無能な奴だなぁと思う。
政実は不器用だったなぁ。
俺は好きだけども。
九戸政実がおじ姉帯大学兼興の家系です私😅
津軽為信は南部と九戸の対立に乗じて版図を広げ独立を果たした。当然連絡も取り合っていたと考えられるが九戸の乱ではシレっと征討軍に加わっている。
この事を指して為信を表裏卑怯のものと(藤原姓や早くから津軽姓を名乗ってたり)されるが秀吉側は南部右京の介と呼称しバレバレであった。
南部と九戸の対立に乗じてというか恐らく南部晴政と九戸政実の策だと思っています。目的は信直の後ろ楯を失くすため、晴政サイドでも信直襲撃を行ってます。独立は晴政が没したのと八戸氏(根城南部)と小笠原氏が信直側に付いて太平洋側が信直支持で固まったから。
津軽為信の独立は九戸政実が唆したとも言われてるね。正月の年賀の挨拶で三戸を訪れた為信に「今津軽で何事が起きても三戸からの討伐軍は出ないだろう」とか言ってたとか。
二の丸の人骨は粗末であろうと墓穴に葬られているので、仕置き軍の凶行とは関係無いかも知れませんね。
包囲中に城内で反乱が起き、政実に制圧された上で斬首にされたものの、城外には捨てに行けないのでとりあえず埋められたと言った感じなのかも。
蒲生氏郷は信長と秀吉に従ってフル稼働したおかげかどうかわからんが40で亡くなった。
姉川の合戦、長篠の戦い、小牧長久手の戦い、九州征伐、会津転封、奥州仕置、朝鮮出兵名護屋城宿営など。
もっとゆっくり話して欲しいです話が早くてわからない