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小早川はアルコール中毒にかかっていたもんな小学生のころから飲んでいたから
関ヶ原の戦後処理で毛利と島津を残してしまったことが、まさか260年後の徳川家に仇となって返ってくるとは、この時は想像できなかったでしょうね。
ただ、潰したら潰したで260年も続かなかったかも知れないのも、この戦いの細部の話を知れば考えられる話でもあります。
@@damedakorya1972 確かにそれはあるかもしれないですね。一方でこの時に西軍だった上杉が戊辰戦争の時は徳川に味方したというのもありますからね。なかなかこのあたりのさじ加減は難しかったでしょうね。
関ヶ原の戦いや大阪の陣は実質はねねと淀の戦いねねは家康に天下を譲ることが第一と思っていたが淀はまったくその気がなかったねねが大阪城を去り家康入城した時に豊臣の時代はそこで終わっていたが淀君はまったくわかっていなかった
改易後の小早川家の武士は「お前は小早川武士か?」と他の大名への就職も難しかったそうです。有名な春日局の元夫であった稲葉正成でさえ結構名門なのに中々再就職できなかったそうですから(嫁のコネ?で改易後5年で1万石の大名になる)。
😊
😄😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
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赤座の解説中の肖像画は脇坂のものです。朽木の解説中の肖像画は足利義輝です。
大谷勢は最後まで奮戦してて大谷吉治、木下頼継兄弟は小早川の奥まで突入し本陣が敵の旗指物で埋め尽くされてるのを知ると吉継を守ろうと後退したのが味方には敗走と勘違いされ崩れだしそれでも少なくなった手勢で防戦し吉継の自害を知ると落ちて後の夏の陣では真田幸村の指揮で天王寺の戦いで敗北が決定すると兄の吉治は自害頼継は松平忠直勢の中に最後の突入し討ち取られたんやね😮因みに平塚為広の子の為景も八尾若江で参陣し亡くなったんやて息子達でさえ裏切った連中とは偉い違いやね。。😢
北政所の実家って、木下長嘯子と秀秋の兄弟以外は、皆んな討死する人達が多いんだの〜、殺生関白の為に小牧長久手で討死した木下勝俊親子とか、その時、笹の才蔵は雨時の雨合羽で御座ると云う迷言を残して逃げているのにの〜。
ある意味で裏切ったのは毛利であり、石田かなと…豊臣政権からすると小早川は早死した分、損した感
勝敗は戦う前から決まってると孫子も言ってるしな。戦までの準備が最も重要
5分13秒の写真が違います。筒井順慶です。訂正が必要です。
三成は、秀頼に出陣して貰うために、御座所を用意していたと言う話があるそれを成し得なかったことと言い、様々な工作面でしくじってしまったんでしょうね秀秋に関しては元々は木下家の人間(おね派)なので、秀頼に尽くす義理は無かったんでしょう
戦場に毛利輝元がいたら吉川 小早川の裏切りはなかっただろう 大将がいない軍が勝てるわけがない 鳥羽伏見と同じ
まぁ輝元くんは岐阜落ちた時点で和睦という名の損切り始めてますからねー
関ヶ原はその通りですが、戊辰戦争には(やむなく籠城と一人の跳ねっ返りを除いて)藩主は出ていません。応仁の乱、関ヶ原、鳥羽伏見を見ると、大名家の内部的な変遷が顕著です。
@@micky1921 別の意味でやる気ありまくりよ
小早川は宇喜田秀家の祟りとか言われてたら、秀家が実は生きていたから大谷でってことになったのガバガバですき
『小早川叩き』は東西どちらにとっても都合が良かったという話なんでしょうね。元西側は「お前のせいで負けたんだ」と(実際には全く事実でなくても)言えるし、元東側としてもヘイトが自分に来ないのは良いことなので黙認してたと。
脇坂、朽木、小川、赤座とセットの名前ではかなり有名ですね。裏切り者の代表としてですが。
9:01 義輝の肖像やんけ、朽木元綱で調べたらなぜかこの画像が最初に出てくるけど
9:35・・・この4人のうち、脇坂以外の3人は戦前に家康への内応を伝えてはいなかったので、日和見を決め込み状況次第では自分に斬りかかってきてもおかしくないというものだったから、家康としてはそんな奴らは信用出来ないから力を持たせたまま自軍に組み込むなど無理、とでも思ったんだろうな。
裏切り者は小早川秀秋だけかと思ってました。勉強になりました。
あと裏切りではないのですが西軍が壊滅状態になり敗走して行く中、進撃して来る東軍へ向かって敵中突破を決行して撤退した西軍の島津義弘も合戦中は中立の立場を貫き全く動かず襲い掛かる東軍や戦いに動くよう三成が遣わした使者を追い返していたからな。元々秀吉の九州平定の件や朝鮮出兵の撤退戦等、秀吉に対してはあまり良く思っていなかった所に家康が近付き東軍として参戦するのだったのだが…。家康の要請で挙兵した三成等の動きを食い止める役割を担ったけど、三成の動きが予想以上に早く取り囲まれてしまいやむなく西軍として参戦する事になったからその経緯で合戦中は全く動かなかった。なのでもし義弘が西軍として動き東軍と戦っていたら秀明も裏切る事は無かったのだろうと思う。
毛利と吉川の関係と小早川の兵力については大きく間違えがある
秀秋は上意討ちさせた家老の亡霊に悩まされたが、祈祷によって終息したという話は「備前軍記」に記載があるとか。恨みの度合いがより高いであろう大谷吉継の亡霊が出た話はないので完全な創作だと判断できます。
秀秋は長生きすれば絶対裏切り者扱いになってないと思う…
二条城会見まで健在だったなら、元が付くけど秀頼の義兄なだけに清正に続く徳豊橋渡しとしての働きを期待できたかも。
私なら鉄砲なんか打ち込まれたらブチ切れて家康に襲いかかるだろうな
小早川秀秋は所詮は18歳の若造に過ぎない・・・それより前に豊臣の政争で心身共にズタズタにされてただろうし
後世の軍記物が出典の俗説ばかりですね。最新の説では、小早川勢は開戦と同時に前進中の大谷勢を背後から瞬殺していたようです。
最初は東軍が劣勢で、家康がイライラして爪を噛んでいたってのは小説なんですか?それとも予想以上に大谷吉継隊が頑張って小早川勢を跳ね返したってことなの?
@@masasimz今では東軍による一方的な蹂躙戦というのが一般的になりつつある
@@nichirowar そうなんですか。けど、それじゃあ、つまらんですね。やっぱり小早川秀秋が西軍を裏切るか迷う描写が面白くて。テレビのドラマで、秀秋「戦況はどうなってるのじゃ!」家来「お味方、やや優勢とのこと」秀秋「味方とはどっちじゃ!」とかやってたな。
トミーとマツの国広富之と久米明と云う声優の遣り取りだの〜、国広富之はダメ人間の役が多いの〜。
@@masasimz国広富之と久米明の遣り取りだの〜、国広富之はダメ人間の役が多いの〜。
歴史は面白いねぇ。
最終的に、信長さんの意思『天下布武』を、何処まで、理解したか。でしょう!天下は、天下の天下なり!
せっかく、返り忠をしたのにって、泣いていい・・・
朽木って信長のことも、一時裏切ってなかったっけ?
義昭に付こうとしたんだが、金ヶ崎から信長が撤退する時に松永に説得されて、安全に通過させたんだの〜。
小川のところで出てる絵って筒井順慶では?
そもそも三成がスケベ根性出さなかったら豊臣家はまだ安泰だったw三成が忠臣というのは間違いである。秀頼が大人になる前に自己拡大をはかろうとしたのは見え見え。だから西軍はやる気が出なかった。
でも実際家康は五大老の前田を屈服させ上杉も屈服させようとしていた。また福島正則に自分の養女を許可なく嫁がせて野心丸出しだったし
家康が一番のどくずだろ
秀吉…
だから、家康の子孫も処刑。東照宮も破壊した方がいいと!言っているんじゃ。
小早川はアルコール中毒にかかっていたもんな
小学生のころから飲んでいたから
関ヶ原の戦後処理で毛利と島津を残してしまったことが、まさか260年後の徳川家に仇となって返ってくるとは、この時は想像できなかったでしょうね。
ただ、潰したら潰したで260年も続かなかったかも知れないのも、この戦いの細部の話を知れば考えられる話でもあります。
@@damedakorya1972 確かにそれはあるかもしれないですね。一方でこの時に西軍だった上杉が戊辰戦争の時は徳川に味方したというのもありますからね。なかなかこのあたりのさじ加減は難しかったでしょうね。
関ヶ原の戦いや大阪の陣は実質はねねと淀の戦い
ねねは家康に天下を譲ることが
第一と思っていたが淀はまったくその気がなかった
ねねが大阪城を去り家康入城した時に
豊臣の時代はそこで終わっていたが淀君はまったくわかっていなかった
改易後の小早川家の武士は「お前は小早川武士か?」と他の大名への就職も難しかったそうです。有名な春日局の元夫であった稲葉正成でさえ結構名門なのに中々再就職できなかったそうですから(嫁のコネ?で改易後5年で1万石の大名になる)。
😊
😄😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
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赤座の解説中の肖像画は脇坂のものです。朽木の解説中の肖像画は足利義輝です。
大谷勢は最後まで奮戦してて
大谷吉治、木下頼継兄弟は小早川の奥まで突入し本陣が敵の旗指物で埋め尽くされてるのを知ると
吉継を守ろうと後退したのが味方には敗走と勘違いされ崩れだし
それでも少なくなった手勢で防戦し吉継の自害を知ると落ちて
後の夏の陣では真田幸村の指揮で天王寺の戦いで敗北が決定すると兄の吉治は自害
頼継は松平忠直勢の中に最後の突入し討ち取られたんやね😮
因みに平塚為広の子の為景も八尾若江で参陣し亡くなったんやて
息子達でさえ裏切った連中とは偉い違いやね。。😢
北政所の実家って、木下長嘯子と秀秋の兄弟以外は、皆んな討死する人達が多いんだの〜、殺生関白の為に小牧長久手で討死した木下勝俊親子とか、その時、笹の才蔵は雨時の雨合羽で御座ると云う迷言を残して逃げているのにの〜。
ある意味で裏切ったのは毛利であり、石田かなと…豊臣政権からすると
小早川は早死した分、損した感
勝敗は戦う前から決まってると孫子も言ってるしな。戦までの準備が最も重要
5分13秒の写真が違います。筒井順慶です。訂正が必要です。
三成は、秀頼に出陣して貰うために、御座所を用意していたと言う話がある
それを成し得なかったことと言い、様々な工作面でしくじってしまったんでしょうね
秀秋に関しては元々は木下家の人間(おね派)なので、秀頼に尽くす義理は無かったんでしょう
戦場に毛利輝元がいたら吉川 小早川の裏切りはなかっただろう 大将がいない軍が勝てるわけがない 鳥羽伏見と同じ
まぁ輝元くんは岐阜落ちた時点で和睦という名の損切り始めてますからねー
関ヶ原はその通りですが、戊辰戦争には(やむなく籠城と一人の跳ねっ返りを除いて)藩主は出ていません。
応仁の乱、関ヶ原、鳥羽伏見を見ると、大名家の内部的な変遷が顕著です。
@@micky1921 別の意味でやる気ありまくりよ
小早川は宇喜田秀家の祟りとか言われてたら、秀家が実は生きていたから大谷でってことになったのガバガバですき
😊
『小早川叩き』は東西どちらにとっても都合が良かったという話なんでしょうね。元西側は「お前のせいで負けたんだ」と(実際には全く事実でなくても)言えるし、元東側としてもヘイトが自分に来ないのは良いことなので黙認してたと。
脇坂、朽木、小川、赤座とセットの名前ではかなり有名ですね。
裏切り者の代表としてですが。
9:01 義輝の肖像やんけ、朽木元綱で調べたらなぜかこの画像が最初に出てくるけど
9:35・・・この4人のうち、脇坂以外の3人は戦前に家康への内応を伝えてはいなかったので、日和見を決め込み状況次第では自分に斬りかかってきてもおかしくないというものだったから、家康としてはそんな奴らは信用出来ないから力を持たせたまま自軍に組み込むなど無理、とでも思ったんだろうな。
裏切り者は小早川秀秋だけかと思ってました。勉強になりました。
あと裏切りではないのですが西軍が壊滅状態になり敗走して行く中、進撃して来る東軍へ向かって敵中突破を決行して撤退した西軍の島津義弘も合戦中は中立の立場を貫き全く動かず襲い掛かる東軍や戦いに動くよう三成が遣わした使者を追い返していたからな。元々秀吉の九州平定の件や朝鮮出兵の撤退戦等、秀吉に対してはあまり良く思っていなかった所に家康が近付き東軍として参戦するのだったのだが…。家康の要請で挙兵した三成等の動きを食い止める役割を担ったけど、三成の動きが予想以上に早く取り囲まれてしまいやむなく西軍として参戦する事になったからその経緯で合戦中は全く動かなかった。なのでもし義弘が西軍として動き東軍と戦っていたら秀明も裏切る事は無かったのだろうと思う。
毛利と吉川の関係と小早川の兵力については大きく間違えがある
秀秋は上意討ちさせた家老の亡霊に悩まされたが、祈祷によって終息したという話は「備前軍記」に記載があるとか。
恨みの度合いがより高いであろう大谷吉継の亡霊が出た話はないので完全な創作だと判断できます。
秀秋は長生きすれば絶対裏切り者扱いになってないと思う…
二条城会見まで健在だったなら、元が付くけど秀頼の義兄なだけに清正に続く徳豊橋渡しとしての働きを期待できたかも。
私なら鉄砲なんか打ち込まれたらブチ切れて家康に襲いかかるだろうな
小早川秀秋は所詮は18歳の若造に過ぎない・・・
それより前に豊臣の政争で心身共にズタズタにされてただろうし
後世の軍記物が出典の俗説ばかりですね。
最新の説では、小早川勢は開戦と同時に前進中の大谷勢を背後から瞬殺していたようです。
最初は東軍が劣勢で、家康がイライラして爪を噛んでいたってのは小説なんですか?
それとも予想以上に大谷吉継隊が頑張って小早川勢を跳ね返したってことなの?
@@masasimz
今では東軍による一方的な蹂躙戦というのが一般的になりつつある
@@nichirowar そうなんですか。けど、それじゃあ、つまらんですね。
やっぱり小早川秀秋が西軍を裏切るか迷う描写が面白くて。
テレビのドラマで、
秀秋「戦況はどうなってるのじゃ!」
家来「お味方、やや優勢とのこと」
秀秋「味方とはどっちじゃ!」
とかやってたな。
トミーとマツの国広富之と久米明と云う声優の遣り取りだの〜、国広富之はダメ人間の役が多いの〜。
@@masasimz国広富之と久米明の遣り取りだの〜、国広富之はダメ人間の役が多いの〜。
歴史は面白いねぇ。
最終的に、信長さんの意思『天下布武』を、何処まで、理解したか。でしょう!天下は、天下の天下なり!
せっかく、返り忠をしたのにって、泣いていい・・・
朽木って信長のことも、一時裏切ってなかったっけ?
義昭に付こうとしたんだが、金ヶ崎から信長が撤退する時に松永に説得されて、安全に通過させたんだの〜。
小川のところで出てる絵って筒井順慶では?
そもそも三成がスケベ根性出さなかったら豊臣家はまだ安泰だったw
三成が忠臣というのは間違いである。
秀頼が大人になる前に自己拡大をはかろうとしたのは見え見え。
だから西軍はやる気が出なかった。
でも実際家康は五大老の前田を屈服させ上杉も屈服させようとしていた。また福島正則に自分の養女を許可なく嫁がせて野心丸出しだったし
家康が一番のどくずだろ
秀吉…
だから、家康の子孫も処刑。
東照宮も破壊した方がいいと!言っているんじゃ。