Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
旬の物、子供頃に、祖母がよく言ってました。調理の授業でも【旬】聞きました。江戸時代では、無いですが、子供の頃は、魚豆腐、納豆等々業者の方々が、売りに来られてました。また、鍋釜、傘修理、包丁研ぎが、定期的に巡廻されておられました。懐かしい~ 本日も、講義ありがとうございます👍👍
h。?bvっっての。。
時計修理のおじさんも居ましたね。廃品回収も個別訪問してた。
地域にも、よりますが、色々な個別訪問が、有りましたね。
東北のものですが昔は玄米とか五分つきとか麦飯食べていたとか聞いたことがあります。 後動物タンパクはタヌキ、キツネ、むじな(アナグマ)、熊、鹿、ウサギ等々、春は山菜、秋はキノコや山の実等等食文化は今より豊かだったらしいですよ!
キツネは飢饉以外は食べてなく、ウサギ、ムジナ、イノシシ、鹿、熊と鳥肉だったと思います。
@@かずこ-u3q 様 いのししが我が方に登って来たのは昭和50年以降で福島あたりまではきてましたがそれ以前はいませんでした。 あとイナゴや蜂の幼虫やシマシマの柄に入っている黄色い虫なんかもストーブで焼いてたべさせられました。 赤カエルの足の塩焼きや蛇も皮を剥いて串刺しにして塩焼きでいただきました。 ヤギの乳を飲み、鶏肉はお正月や人集まりのときだけでしたね!(笑) ばあちゃんの作った芋汁やキノコ汁は今でも食べたくなる味でした!
昔は子供の皮膚病眼病などの感染症が多かったです。昭和30年代ですが僕もトラコーマに悩まされました。田舎の古い墓地に行くとおびただしい子供の墓があります。その自然淘汰を生き抜いてきた老人はめちゃくちゃ元気でした。
私も祖母から聞き取ってつくった家系図に、戦時中5才くらいでしんだ子供が結構いて、享年が「5、25、80」と両極端でした。第一波幼少期をクリアしたら、青年期に病気にかかって死ぬか生きるかになり、そこを超えた人はだいたい80近くまで生きてました。
いやいやさんまとか、イワシとか食べてたでしょ、後は、干物乾物とか海苔とかあと🥚野草よもぎとかも、食べてましたよね😁
大変勉になるお話しありがとうございます。子供の頃食事に不満を言うと祖母から、「武家の食事は一汁一菜が基本だ。」と言われ叱られました。祖母は加賀藩の武士の家系で、私の家系も長岡藩の武士の出身です。また、お茶碗に米粒が残っているのをみると「私達が生活出来るのはお百姓さん達のおかげなのに申し訳ないと思わないのか。」と、また叱られました。先生のお話しを 拝聴していると、祖母の言葉の意味がよくわかる気がします。
今の日本人は、お腹いっぱい食べて残す・・・もったいない精神が薄れてますね??でも、これもご先祖様が、頑張って日本を守ってくれた証だと思う。ありがとうございます。て、食事しましょうか・・・残さずにね
自称若者ですが、基本的に食事の時は米一粒残しません。米を残すと目が潰れると躾けられました。傷んでしまった食品は仕方なく捨てることもありますが…。悲しいかな、貧乏くさいとか神経質とか言われそうな世の中に変化しているのかも知れません。親の皿を見て、米が残っていると指摘して、鬱陶しがられる’’変’’な子に育ってしまいました(笑)
私はお米を残すと目が潰れるよ!と言われました(笑)武士は偉そうにしてたのではなく、そうやってちゃんと農民の人たちを敬いお互い様で上手くやっていましたね。
@@TheSakuraEspresso さんへ、僕も貴男と同じ様に躾けられて育った者です。でも、躾けてくれた親は間違ってなかったんだと大人になった今でも親に感謝しております。現代はあまりにも食べ物を粗末にし過ぎてると思います。食べ物には賞味期限やら消費期限などありますが昔は自分の嗅覚や舌で食べれるか食べれないか判断していたものです。今は賞味期限や消費期限が切れてると言っただけで安易に廃棄してしまう世の中です。かなり食べ物を無駄にしてると思ってますよ。
独り暮らしで自炊してても時々めんどくさくなるのに家族の為に毎日毎日ご飯を炊き料理を作ってくれたお母さんに感謝しています。これは時代は関係無くずっとあった事なんでしょうね。当たり前と言われることに気づき感謝しなければ良くないって思いました。
そんなの当たり前だろ?アホが
この頃の食事の味はまずいです。
作ったものを食べてくれる人がいるから、面倒な食事つくりも喜びの作業になってるんですよね。家族がいてくれるからこそ…
@@篠崎秀子 ふざけるなアホならお前が作れよ😂
私の家は元小作農です。子供のころの食事を思い出すと決して豊かな食生活ではありませんでしたね。自分の畑や田んぼで取れた野菜やコメが中心の自給自足の食生活でしたよ。お袋が嫁に来た時、洗濯ノリがなくて芋やコメからでんぷんを取り出してノリ代わりに使っていたのを見てびっくりした言っていました。だから、本当にそうなのという疑問符が付きますね。
糊は、鍋で煮て作っていました。昔は。 忘れませんね。刷毛で障子の桟に糊を塗り、紙を貼り付けるのを手伝った記憶があります。今は、両面テープですから、剥げますね。
私もそう思います。江戸の商人限定の話で、田舎の農家は別でしょうね。
この先生に限らず江戸時代の食事の話というと江戸に暮らしてる庶民、その中でもまずまず恵まれた層の人々の事情を日本の一般のようにニコニコ語る方が多いと思います。自分的には、考証できるはずもありませんが、youtubeでみられる『紋次郎食い』のイメージです。雑穀の流し込みに命をはったヤクザだから目刺しも付けられるのだろうと。
自分ははるかに現代より旨いものを食べていたんだと思っている。天日干しの米、農薬なしの野菜、美しい水、手作りの醤油や味噌旬の物、旬の魚。化学調味料などもない。質素でも絶対美味しかったはず!
同館です。水だけでかなりちがいますからね。煮物は砂糖を使い甘く煮ていたのか?疑問です。江戸時代の煮物で砂糖をつかうのかな?と。味噌とかかなりおいしそうです。
@@hariwe7251 >味噌とかかなりおいしそういや、これに関しては、まずかったというか、塩辛かったらしいですよ。今のような塩分を気にする社会ではなかったし、今のような冷蔵庫もなかった時代ですからまず、保存性を考えるのでどしても塩っぽくなってしまう。 したがって塩辛かったようです。
釜で炊いた米美味そう!
学校で教わらない日本の歴史を学ぶことが出来、アメリカでいつも楽しく学ばせていただいています。ありがとうございます。
江戸落語からも食生活は豊かだったことが分かります。物売りの種類もけっこう多いですね
語り口が解りやすく感情に伝わってくるものがあり、当時のイメージを湧き立たせ浮かび上がってくるようで、いいですね。
楽しく学ばせていただきました。ありがとうございました。
漬物も美味しく地域で、いろんなお漬物があります北海道で生まれ育ちましたニシン漬け、飯寿司 いずし たくわん 浅漬けコウジずけ、古漬け、などなど様々です魚は、ホッケを外に干して、乾物にしてました。
54のオッサンですが。この動画を観て思い出した事があるのですが、標準価格米って有ったのを思い出しました!当時、親からそればっかり買いに行かされたのを思い出しました。
堺の商家の出身ですけど家族や奉公人用の一人膳が沢山残って居ましたよ😃❗今とさほど変わらない食事をしていたように聞いて居ます👂‼️
米以外であっても、農家は日本で一番豊かな食生活を送っていたと思います。だって、野山に入れば四季折々の食材がいくらでもありますから目の前に美味しい物があるのに食べない訳が無く、獣肉、旬の山菜、塩付けなどの保存物など、今より楽しみが少ない時代において、日本人が凝らない訳がありません。
四季の料理は、日本の誇るべき食文化です。考えてみて? アメリカの四季の料理何て聞いたことある??日本かっこいいよね
@Y Y アメリカと言えば、クラムチャウダーホットドックミートローフとかですね、開拓時代はロブスターが沢山採れて、とても安く貧乏臭い食べ物とされていたとか。
@@チュンチュン丸-y5z 日本ほど四季のハッキリした国は世界にも滅多にありませんし、なおかつ雨が年中豊富に降っている。ほかの国に自慢してもいやらしいだけです。自慢より感謝して大事にしてほしいですね。そして自慢ではなく世界中の人をおもてなししてください。きっと喜ばれるでしょうから。
@@チュンチュン丸-y5z 、あるよ、いっぱい。私もアメリカに住むまでしらなかったけど。
アメリカの場合、パイとか瓶詰めが多かったイメージ。「大草原のちいさな家」とかが近いかな?資料には
昭和30年代米を買う時、米穀通帳を持って行って、お米屋さんで米を買っていた。お肉屋さんは、竹の皮で肉を包んで売っていた。魚屋さんは、刺身などは鉋屑の様な木を薄く切った幅広のものに包んで売っていた。豆腐は、八百屋さんの大きな水槽に浮かべられていて、鍋を持って行って一丁ほど買っていた。
鉋屑じゃなく…経木(きょうぎ)と呼ばれて居ましたよ〜❗️😅
@@kuma767483さん 石川県では「薄板(うすいた)」と呼んでいました。昭和50年代に入る直前まで使われていた記憶があります。スーパーのレジ袋も紙でしたね。
今は発泡スチロールのトレーでだいたいまかなえる
その時代へ行って買い物してみたい
私は時代劇が好きで落語が好きなんですが、まるで落語を聴いてるように江戸文化が学べるなんて、なんて楽しいんでしょうか☺️
江戸時代の食事美味しそう!これを毎日実践したら健康になるかも!マックや牛丼ばかり食ってちゃいかんと思った。
良いお話ですね、歴史の食事の大切な一巻ですねありがとうございます。
福島県の戦後生まれ田舎の農家育ちですが米はやはりいいものは全部売っていました。換金できるものは限られていますから、どちらかと言うとくず米〈等級が低い=安い〉がほとんででした。農家が一番贅沢と言うのはどの地域のどの時代のことかことか知りませんが、ジャガイモをこまかく切り刻んで米と一緒に炊いたご飯は嫌だったですね。随分年上の兄はじゃがいもはまだいい俺なんか大根を刻んだもので増やしたご飯だったぞ、と自慢(?)していたくらいです。但しカボチャを混ぜたご飯、サツマイモを混ぜたご飯は美味しかったです。母親の手は剃刀で切ったように何か所も切れていてバンソウコ(って言いましたっけ?)だらけ、洗濯も食器洗いも全て氷のように冷たい引水でしたから。子供たちは耳や手足が寒さや冷たさで紫色になって(しもやけ?)結構過酷な日常生活が至る所にありましたね。ジャー地獄だったのかと言うとみんな同じような生活でしたから、それは辛い時はありましたが不幸かと言うとそれも違うと思います。どなたか仰ったように季節季節の自然の恵みは山川にありましたから、楽しい思い出も山のようにあります。但し、そうした楽しいことはお金には替えることなどできませんから、田舎暮らしならではの贅沢な一面とはいえるかもしれません。但し、農家は豊かだったなどと経験していない人に気楽に言われると、あのねーと言いたくはなりますが。そう思うなラどうぞご自分でこそおやりになってくださいと言いたいです。以上は1948年生まれの僕の10歳ごろまでの体験上の話ですから頓珍漢な話にしか思えないかもしれませんね。
農家の家出身の80歳の人に聞いた話では、魚なんか盆と正月ぐらいしか食べれなかったと言ってました。そんなにいつも行商人が来るわけでもなし、と。なので先生の仰っている海のもの山のものお腹いっぱい&お米を食べられた(菜種油も買えた)という庶民というのは、文献に取り上げられるような(文献をとる人が居るような)文化の高い地域、恵まれた江戸の商人などのことなのかなと思いました。江戸から遠く離れた田舎の人の本当の生活を文献にしたものはあまり無さそうなイメージです。
@@user-pi1vuh8tv 私もそう思います地域ごとの差は今より遥かに大きいでしょうね
その混ぜご飯だと一番美味しそうなのが大根入りで次がじゃがいもなんですがご飯に甘いものが混ざっているの苦手なんですよね栗ご飯は甘くない栗を使いますがあれも苦手です食べられない事はないですけど
@@takeshiinoue3375 あー驚いた!そういう反論があるとは思ってもみなかったですね。但しこれは60年以上前の話で、例えば砂糖はまだ貴重品だったのです。甘さに溢れている現代の感覚では想像できないでしょうね。戦後間もなくの日本なんてかなり貧乏だったんですよ。そんなときに大根入りのご飯がうまいなんて思う人が、いや貴方が其処にいたとして思うかどうか?カボチャもくりも季節の物ですし、大根もジャガイモも単にご飯を増量するために入れたものなので味は付けておりません。自然の恵みはほぼすべて季節ものですからほとんどの日はそんな食材には恵まれません。ということです。
@@hideyukiyoshida2273 なるほど砂糖が普段手に入らない場合は確かにそう感じるかも知れません味付けされていない大根やじゃがいもは良く食べますし美味しいと感じますが品種にも依るでしょうね
いやーやっぱり、「昔のわたしたち」の経済活動の解説は最高!経済というとつい、為替と株を想像しがちですが、人々が何を用い、何を食べるかのことですからね。江戸時代が現代とは違う世界ではなく、確実に地続きの世界だと感じられます。
すごくためになる話で興味深く面白かったです!
他にも江戸時代は塩で歯磨きしてたとか、女性は生理痛対策におへそに塩を塗っていたとか現代人のための様なエピソードが豊富
佃の天安さんのお話ですが、最初佃煮は塩煮だったそうです。醤油が銚子の方から入手可能になってから、醤油煮のほうが、美味しいとなり、醬油煮に変わったそうです。
そうですよね、地域差はありますが自分の田舎は山奥の山間部の農家で、戦時中に白米を食べていたそうです。都市部では空爆があり大勢の人が飢餓状態だったころ、山間部の農家は米を隠しもっていて、酒まで作って飲んでいたそうです。空爆は山間部では行われていませんでしたので、農家の特権だったとこのとです。
ある書物の中に刺身はおおまかに東日本は熟成魚を、西日本は鮮度を好む傾向がある、と記してあった。なるほど!納得。
普通の家に氷室なんてないので、涼しい地域はまだ置いておけるけど、温かい地域は魚が腐ってしまうのでは。魚が傷む前に食うのが正解。傷み難い地なら熟成すれば旨いかも知れない。
私の親の実家は東北の漁村です。売れる魚は取れるしとります。スルメイカは当時沢山取れました。今ぐらいの時期にスルメイカは食卓に上ります。カツオも取れます。マグロも稀ですが取れます。毛ガニも取れます。でも換金性の高い魚は食卓に出るときは買ってきていました。イワシとゴマサバが食事の中心です。そんなもんですよね。でもあれだけ鮮度の良い魚、もっとおいしく食べるすべはあったのですが、漁師さんは疲れているし、イワシやサバは珍しくないから調理しなかった。今思うともったいないですね。イワシは生・焼き魚・煮魚・つみれ・焼き魚の身をほぐして、野菜とあえて、油揚げで巾着にしたら上等なおかずになりますよね。弁当にも入れられるしね。野菜の加護を受けられない人は野菜の加護で成り立っている動物を食すことで、生命を維持します。大豆たんぱくを消化吸収できないから牛や豚・鳥を食べる。アミでは生きられないからアミを食生にして、たんぱく異質を合成する魚を食します。タンパク質は細胞の合成に、炭水化物はエネルギーに脂質は皮脂を作るのに役立つようです。食べるって大事ですね。
ノ、??,,,,;;,;,/;/ ! / i。,.! 良 , 尋 !!! !! ,,.!,;! ! ! ; /。 , | | ., の., ; !!, ,!; , :; :1.。 ! {; , ! ! .!;,> !,!! !! !あ !!! . ! !! , !: ! !! ! ; ! ,: 焉:.; !; ! ! ! ! ! ! !! ! ! !.!; ! !/. ー / ナ ナ !! ! ! ; ! !; ! ! ! !! !! ! ! .: ., !.! !! ; !, ! ! ! : , ! , , ! !; ! ,!!; !!! ! , !; , ! ! ! ! ! !! . = ; ! ! ; ! !! 一 ;, !;, !! ! !! ;: ;,,; !!; ! !! ; !! !!, !! , :!シ 。 / ; ! ! ? . . ; ! ! ! ;! ! ,, ,!,!! ! ! ;! ;! ! ! ! ;!! ! !!! !; !! !! ! ! ;!,. ! ! ! ;! ! ! ! ! !! !, ;,!,!!
私の子供の頃も行商人が来てましたね。魚屋、トーフ屋、雑貨屋さんとか背負っておばさんが来てました。脚気予防に、将軍吉宗は玄米食を奨励してましたね。
新潟のほうからよくわかめ売りのおばさんが大きな荷物しょって行商に来ていましたね。おばさんの方言や家族の話などを聞くのが好きでした。
ご先祖様に感謝
白米を食べるようになってから、栄養不足で脚気になったのに、その原因が分からないから、あれを食べなきゃいけない、これを食べなきゃいけないと右往左往するようになったとの事。明治に入ってからは騙されて西洋食を自慢げにとるようになってもっとひどい状態になっていった。戦争に取られた人達もそんなひどい食事をさせられて脚気になったり免疫力が弱くなって色んな疫病にかかりやすくなっていった。石塚左げんは食生活を変えなきゃいけないと警鐘を鳴らしていた。
玄米最高ってことですね!
@@genbaacat2023 全粒穀物、身土不二、一物全体を基礎とした食生活を送っていると自然と体が喜んでくれ、健康を保つことが出来ますよね。ヒポクラテスも医食同源の大切さについて貴重な言葉を残してくれてます。
今でも日本には社会参画意識の中に「困っている人の役に立ちたい」「こうなれば喜ばれるに違いない」といった理念が少なからずあり、それが具現化された商品やサービスが多くあります。江戸庶民の社会にはそうした商品、サービスが既にたくさんあって、うまく社会が循環していたんですね。日本はカッコいい!
この話からも、江戸時代の日本は、GDPが世界各国の中ても高かったことが伺えますね。
欧米の資本主義でもない、共産主義でもない、向こう三軒両隣。日本独自の全体主義ですね。
江戸時代の火消しや番屋も、基本的にはボランティアだったそうです。
先生が途中でお味噌汁の具材を包丁で切るトントントンという仕草、まるで寄席をきいてるようだと思いました☺️
煮物には椎茸入るから、干し椎茸はビタミンD補給にはもってこいですからね。脚気予防には最適ですね。
たしかに。農家さんは自分ちのは無農薬野菜だと言いますね(笑)そして、ドラマJINがずっと浮かんでたところにそのお話が出て嬉しかったです😊
実家はそうです 農薬使わないと買ってくれないからだそうです
食卓は7〜8種惣菜、佃煮、漬物、など主菜の他のものが多い。大家族晩餐食は多くの好みを満たす。
医療費の圧迫に耐えかねた米国で、病気になりにくい食事について調査されたマクガバン・レポートでは、「日本で元禄時代(1688~1704年)以前に食べられていた玄米を中心とする食事が、理想の食事である、と記載されています。
でもまあ、これ、日本人のDNAがあってこその食事なので、アメリカ人が真似して食べても海苔は消化できないし、玄米も日本人と同じに消化できるとは限らないので、結局自国で売ってるものをたべるのがいいのではって思います。日本人だって背伸びして、外国の健康的な実とか、アサイーとか食べるけど、あまり効果ないような・・・・
問題は、今現在の日本の医療費が莫大に伸びていて、癌も先進国で唯一増えているしかも経済成長が先進国の中で最も低い数字である国にも関わらず食事の質が悪いことを今の老人、親の世代が言わないことですね。アメリカでさえオーガニックのスーパーが増えているのに日本しか知らない人は貧困なのを気づかない。
江戸時代は精白米はぜいたく品で玄米を食べていたので、ビタミンEが摂れて問題なかった。しかし江戸の町では精白米が当たり前に流通して、庶民も毎日当たり前に精白米を食べていたためビタミンE不足により脚気が流行。初めは「江戸患い」という風土病だと思われていたが、どうやら糠を除去したせいだと気付き生まれたのが糠漬け。糠は元々へしこ等に利用されていたが、今のように毎日簡単に漬物が作れるどぶ漬けは、脚気解消のために生まれた江戸漬物。
江戸時代にそこまでわかっていたのに森鴎外をはじめ明治の帝国陸軍はもう忘れていたんだね。
Bだろ。
@@midorimasuda6018その通り。うっかりしたました。
調理で言う『加熱』(焼く・煮る、、、60℃以上2分以上)の 最大の目的は『消毒・殺菌』が 目的だったような⁉️特に 煮る事は、、、『手間』要らずで 気苦労が少なく 大量にでき 失敗が少ない❗😁
富良野で農家(跡継ぎ見習い)をしています。考えて見れば、今現代は本当に文明に恵まれていますね💦畑を耕すのも、収穫も機械。しかし祖母や母が大切にしてる事があります🎵食材を無駄にしない事💡大根の菜っ葉だって立派な食材👍妻は母、祖母の下で料理見習い、俺は親父の元で農家見習い😁中々賑やかで楽しい物です。達成感や充実感があります。サラリーマンにならなくて良かったと思ってます🎵
江戸時代中期のお江戸では、屋台の前進「担ぎ屋台」でうどん、そば、押し寿司など直ぐ食べれるファストフードが出始めて来て人気、映画等で見る蕎麦屋、飯屋というものが気になります。いつかこの辺の食文化も取り上げて頂けたらと思います。
以前福島に農村実習に行ったとき、一番美味しいお米は自分たちで食べていた。仕事はキツかったけど、めしがおいしいかったので早く食事の時間にならないかなと思った。ちなみに昼は田んぼでおにぎり。
今は飽食で現代人は食べ過ぎですねー一日2食で十分なのだと思います農薬/添加物だらけで野菜の栄養も少ない江戸時代はアレルギーや癌などもあまりなかったのでは?身体は食で作られるので、江戸時代の食を見直すのも良いかもしれない
吉宗の時代に全国にサツマイモが広がったのも、日本人の食事事情には興味深いですよね!
日本語がおかしいです。言いたいことはわかりますが。
全国に広がったかなあ・・・・・???特産物みてたら、サツマイモはシラス台地のほうがうまく育つから一部しか定着してませんよ。
以前、出張が秋田で、兄の下宿先のおうちが米農家さんだったそうで、一回だけ「家で消費する用」の米を送ってきてくれたまーーーーーーーーーーーー美味しいこと美味しい事。当時、食の細い自分が、お代わり二回したのはいい思い出です
農薬も化学調味料も、化学保存料も添加物もなかった時代です。平成、令和の現代より、ずっと栄養価の高い、美味しいお米と野菜、豆類。魚も養殖や冷凍ではなく、近海ものの旬の美味しさを堪能していたことは、明らかですね。酸素濃度も高かったし、文化水準も、庶民の意識も、ずっと上の上。現代人が江戸時代に迷い込んだら、例え東大卒でも、頭悪すぎ、滑稽判らなすぎ、暗すぎ、古典知らなさすぎ、科学も植物の素人すぎ、などなど、長屋の皆さんの会話にさえついてゆけない、レベルでしょう。
いいお話。昭和40年代以前は、豆腐やさんが豆腐や油揚げをリヤカーに積んで、道を歩いて売っていました。当時の豆腐は、大豆の味がしっかりして、とてもおいしかったです。当時は、車も少なく、バス型の車に生鮮食料品を積んで、売りに来ていました。車を持っていない主婦は、そんな車で生鮮食料品を手に入れていました。
農家ですが、JA共販なので全部米は同じです、現代の農業に対する認識には疑問があります。種子までJAが握っているのがほとんどです、私の周りでは100%JAの種子共販の種子なのて、農家のメリットは新米を誰より早く楽しめるぐらいです現代の農業については誤解されていると存じます。失礼だとは思いましたが言わずにはいられませんでした。
楽しい動画に出会えました、有り難う御座います
名解説 ありがとうございました 頑張って下さい。
印象操作で思い出したけど、米国でも2食だったのをトースターを発明したエジソンが発明品を売る為に3食に変えたという逸話がありますよね。
江戸時代は無農薬、無化学肥料だったから、ある意味贅沢な食事だったと思うが。
白米よりも栄養がある玄米を食べていたので、江戸の庶民達は、現代人よりも体力があったと思っています。
江戸時代の日本では、1回の食事で玄米を平均茶碗5杯を食べたと聞きました。副食が少なかったので、米の量で補っていたそうです。
江戸患い。Edo disease…
脚気は、白米ばかり食べていた大名だけだと思っていました。庶民の食生活がこんなに豊かだとは知りませんでした。少し考えれば、当たり前です。寿司や蕎麦や天ぷらを生み出した江戸時代、庶民の食生活が貧しいだけではないはず。自分の歴史の知識を総ざらいする必要があります。
実家には魚屋さんが刺身、干物等売りにくるよ。やきとりもウリニクル(笑)
蕎麦などは当時のほうが美味しかったんだろうなー
取れた米の量を割り算すると、日本人全員に行きわたった量になるらしいですね、米は取っておける物ではないですからね、
標準価格米に古古米が大量に入ってたのは昭和40年代のごく短期間だけで、それ以前は余剰米在庫はあっても翌年には消費されてた、昭和50年代になると生産調整で古古米は消滅
江戸患いは精米技術が進んでビタミン豊富な発芽玄米を食わなくなって美味しい白米を食べるようになったから、、と聞いてます、おかずからビタミンを摂るのは大切ですね。
江戸時代には豆腐料理の全集、豆腐百珍(字が間違っているかも)とかスナック感覚で二八蕎麦屋、茶店とか寿司など、チョイと庶民が腹ごしらえ出来る商売が大繁盛した。その江戸時代の食生活多様性が八百善などの有名料理屋を産んだ
ありましたねー 寿司、天ぷらなどファーストフード、屋台ができたのが江戸。まあ、まだ食品に関する資格ができてない時代でしたから、食中毒がけっこう多かったと思われます。。漢字あってますよ。 落第忍者乱太郎で、豆腐好きキャラ、久々知がいろいろな豆腐料理を話てます。「八杯豆腐、豆腐飯」とか。室町時代から豆腐のいくつかのアレンジはあったようですね。
なんだかイーツより全然便利だな
私の子供のころの体験で午前中に2食一日4食の習慣がありましたその土地の習慣の名前もありましたがよく覚えていません食生活の歴史は面白い感じました
肉屋の知人宅は良い肉は肉屋が確保しちゃうんです。レバー嫌いだったけど美味しいレバー食べたら嫌いは無くなりましたが普通に売ってるのはダメです。
確かにご飯は美味しいですよね。
聞きやすい!
先生へ、確かに江戸、大坂、名古屋はそれなりの豊かな食生活が江戸中期よりでき始めた様ですね。地方、特に内陸の田舎ではそうも行かず生鮮漁獲類は塩漬けで内地に運ばれていました。自分は50代前半ですが、昭和50年代前半でさえ子供の頃はお祝い以外刺身を食べた記憶がないし牛肉も中学三年生の時に未だ食べた記憶が強烈でしたね。寿命も塩辛いおかずに過重労働、脳卒中やボットン便所のお陰で寿命が全国ワースト5でしたよ。ところが今やご長寿ベスト10に入る驚き‼️です。
飯と沢庵 目刺しが1番好きなんです私は。 座頭市の食べ物(爆笑!)
江戸煩い(脚気)は玄米を食わないからです、当時もお金持ちから罹ったようです
漫画「JIN」でありましたね。あずき、玄米、サツマイモなどビタミンを取ることで、改善するらしいですね。
まぁ電気がないからあれだけど、当時大忙しの主婦に白物家電プレゼントしたい今の時代は本当に恵まれてる
家事ばかりは電気万歳と思ってしまう。まじで家事の重労働のせいで、女性は学ぶこと、仕事、趣味もできず、子供と夫のために土、栄養分になってた。「男社会がしんどい」という田房永子さんのコミックエッセイ、めちゃくちゃ刺さりますよ
これは。とても大事なことですね。
おっしゃる内容は江戸やその他の都会の住民に限定されるのではないですか?田舎の食生活はそうとうひどかったという記録は多く残されている西郷隆盛の育った家庭など薩摩では最底辺より少しマシな程度でしたが、米など滅多に食べられず芋、豆ばかり、基本的に子供は常に腹をすかしていました民族学者・宮本常一は大正時代に日本各地をまわって古老の話を聞き書きしているが、貧困や食の窮乏は田舎では当たり前そもそも米や麦の品種改良が進むのはだいたい昭和になってからで、それまでは不作は当たり前でした2・26事件の原因にもなった東北の飢餓は昭和初期の話、まして江戸時代となればもっとひどかった事と思われます
おっしゃる通りだと思います。主様がどの地域・どの階層を標準としているかをはっきりさせるべきです。確かに江戸町民の多くは動画のような生活をしていたことは確かですが、頻発した農村部の飢饉では、大自然の旬の食材なんて認識ではなく、食べられるものは草の根まで食べても餓死する人が続出していたのですから。ただ、ある程度の収入のある江戸町民の生活は、世知辛い現在よりも、本来の人間的な生活であったことは事実だと思います。ただし、それも健康であればこそ。現在のような社会保障も高度医療もない時代ですから、一般庶民は、病気→貧困という生活。その点では現在の日本は恵まれていると思います。
全くの同感です。天下の台所の大阪や将軍のお膝元の江戸と地方はちょっと事情が違う、先生の話しは能天気過ぎる、江戸時代には有名な天明の大飢饉始め何度となく飢饉があった。どれだけの民が餓死したことか、藩の備蓄米も不作の年は不作分を補う為に回されたりして、飢えた民の口には入ら無かったとか。ことに、寒冷地である東北地方は悲惨だった、自分は岩手に住んでいるが、盛岡藩の記録によると江戸時代の270年間で数十回の飢饉があったそうですよ。
1日江戸人という本に江戸庶民の話が記録されてますが、江戸人は日本一豊かだったのかもしれませんね。当時、労働人口としての男性がめっちゃいましたし。その金を目指して遊女も商人も増えました。だけど江戸ってもともと湿地ですからね・・・・無理に地形を埋め立てて、王族と同じ風水にしてあれだけ発展してますが、東京湾によけいなもん増やしたから、氣が流れなくなって、不穏なものが近づいてますね。
面白い、確かに当時の日本人がどういう生活をしていたか知りたい
便利な時代だったんだな〜。江戸時代のメニュー食べてみたい!
日本の食べ物は素晴らしいでーす✧︎朝起き✧︎正直✧︎働き✧︎3つの宝です✧︎🌞😊🌞✧︎🌈🌻💓
江戸時代には何回か食糧飢饉がありましたが、その時の状況はどうだったんでしょうか?地方と大都市では状況は違っていたんでしょうか? 当時の悲惨な状況を描いた絵を見た記憶があります。
周りが山の処は、飢えなかったらしいと聴いた事あります。食料難がくるとそれぞれが山に入って、食べ物を調達確保したらしい。この話しは、確か山に囲まれた所の農家、生産者さんがお話くださった様に思います。だからここは飢えがなかったみたいな。江戸のような都会はどうだったのでしょうか?それなりに困った事があっても、今よりも多分濃い人間関係が存在した筈ですから。古古米から食べる習慣は、食料難対策にもなったでしょうか。
@@jps4062 へえー、そうだったんですか。山は食料供給所だったんですね。そう言えば、野生動物は山に住んでいますものね。
都会はヤバイ状況?なのかな?田舎や海の近くは食べ物豊富で困ることは困りますが、なんだかんだ食べ物は沢山あるので大丈夫だったらしいですね。
飢饉が発生しても都会にはそれなりに米があったようです。なぜなのか?飢饉が発生すると米の価格は暴騰する訳なので、各藩自分の領民の食い扶持を考えることもなく片っ端から江戸、大阪に米を廻しました。これによって藩の莫大な借金を返そうという算段です。結果として地方で餓死者が続出するという状況になりました。
米、釜と菜切り包丁、昭和時代は普通にありました!精進料理と冷蔵庫がないから魚の干物と貝の味噌汁やぁー?解説😉
火事の原因に行燈の火が危ないと仰るのと同じ理由で江戸の長屋には食事のための釜はありません。今で言うファーストフードと同じ天秤担ぎのそば屋が江戸庶民の朝食だったと言われてます。
畑仕事や山仕事する人によっては1日5食とかもあったそうです。また今はほぼ絶滅してしまった縄文米を作っている農家も多かったとか。一々精米するのが面倒だからと玄米を食していた人の方が多いとも聞きますし、江戸以外では脚気もほぼありませんでしたし。今の日本人の栄養面は戦後直後と同等しか採れていない人が大半だそうですから、摂取栄養面では今以上だったかもしれませんね。
すごく面白くてタメになりました。これが日本人のルーツですね✌️
江戸や大阪、京都はこう言う行商人が居たお陰で、年寄りで体悪くしても買い物難民にならずに済んだんだよねー。ザルやホウキ、鍋の修理やらいろいろ居たから、お買い物は本当に必要な時や量が要る時とかぐらいしか行かなかった。今で言う、その道のプロが行く様な専門店に行く感じ。
教科書関係は欧米側の言いなりなので開国したおかげで生活が良くなったとすり込みをやっています。おかずは江戸・大阪と地方の町人・武士の料理事情ですね。マグロは殺菌の為たまり醬油漬けにして酒のつまみかねぎまの具にしていましたし、金平牛蒡はご飯が進む様に味が濃く唐辛子が沢山入っていたので激辛でした。ただ、衛生観念とか新鮮さを重視するなら現代のオーガニックな和食の方が良いと思います。
イナゴ、蜂の子なども高タンパクで栄養価が高いです!
大名が小説で書かれてる様な食事秤だったら江戸患いだけで無く全国で脚気等が流行してる筈です❗田舎から比べ江戸は華やか何です参勤交代で江戸詰めの武士は誘惑にまみれていたのです上級武士や殿様の教育や規律は厳格なので江戸患いはやはり庶民の流行です‼️誰が何の目的で江戸時代を貧しいと伝えてるんですかね⁉️欧米と比較するのも止めた方が良い、、、🐒小名木先生の話は同感です😁
あくまで 江戸の町人の話でしょうね ドラマに出てくる長屋なんかの。田舎の人々は自給自足での生活だったと空想します。日持ちする様に加工した物を仕入れて売り歩く 行商人はいたと思いますね。そんなこんな考えて空想するのも楽しいですね。(ΦωΦ)!
現代も東京は、物価が高い。 高額所得者だけが住める世界だと思っている。当時は、白米がセレブの象徴だったようですね。 軍隊もそうでしたから。
昔のご飯は、栄養たっぷりの玄米ご飯でした。また、昔のお酒は酒粕がたっぷり入って、翌朝元気一杯になるどぶろくでした。
一番美味しいお米は生産者が食べる。一番美味しいボジョレー・ヌーボーは生産者が飲むと同じやな。季節ネタです。
古古米ってむかしの方がずっと臭かっただろうな。保管の悪い米って臭いよ。
考えてみれば、確かにそのとおりですね。電気がない生活を想像すれば。日が昇ってから調理して、片付けもあるから日が暮れる前に夕飯済ませる。昼食なんか食べる暇ないですよね。
震災の時はそうでしたね。暗くなる前に夕食。本格的に暗くなると明かりもないので寝るしかないと言う感じ
小名木先生もJINをご覧になっていたんですねwごはんは炭水化物だから太るって世間ではよく言われてましたけど、これって科学的根拠はあったんですかねぇ。江戸庶民は脚気になるくらい白ごはんばかり食べていたのに、幕末や明治初期の古写真には肥満体の人はいません。私は白ごはんを摂らないと夜お腹がすいて寝られないので毎日食していますが、健康上の理由から一時期副食は肉を避けて煮野菜とか魚類中心にしていたことがあったのですが、医者から「肉(たんぱく質)を摂れ」と言われるほど半年ほどで激やせしました。なので、太るというのは結局カロリー摂取量が多いってことだから、副食が豊富になった現代では白ごはんとの組み合わせでは単に摂取カロリー過多になるってことじゃないかと考えています。
いや、でも農民は日が暮れるまで作物の手入れをしていたと思いますよ。
同意します。日が暮れても藁編んだりしてたと思います。うちの祖母がそうだったので。
祖母に月明かりで畑耕したって聞いた事あります。
@@りか-d4hそんなアホな
@@菅野智之CBD ほんとだよ。で、月が出てる時は夜のうちにできる事をしておいたって。畑耕して畝作るのは昼間じゃなくてもできるから。
富良野で農家をしてます。祖母から良く似た話を聞きました💡特に戦後の苦労ですね💦野原の雑草だって立派な食材だったそうです💡
昭和でも十分明るい蛍光灯がありました。
今でも洗濯機につっこむだけでは襟とはそでの細かいよごれはとれないのでお湯で手洗いしてます。
お魚もそうです。薄給だけど、漁師と仲買人が良い魚食べてます。
江戸時代の貧相な食事を語る人の話の出所を探ってみると、決まって飢饉に行きつくんですよね。江戸時代に飢饉が数度あったのは事実ですが、豊作や大豊作もあったし新田開発や生産性の向上もあって総じては並み以上の収穫を得ていたそうです。貧相な食事の話は飢饉と言う異常で非常な事態に陥った時にあった事をあたかもそれが日常だったかの様に伝聞されてるんですよね。東日本大震災の避難生活が日本の日常だと言われたら誰しもが「それは違う!」と反論できますが、江戸時代の事となれば実体験の無い人ばかりなので誤解や曲解が世に蔓延るという訳です。
逆に現代人は1日2食で良いでしょう 行商は復活すべきでしょう
行商が復活すれば、特にお年寄りは助かりますよね。
煮しめ豆腐がメインだったと思います。
興味があったお話「成る程」聞けてよかったですありがとうございました😊「時代劇ファンより」
大変勉強になりました☺️
勉強になる話を落語家さんがしてる感。
江戸時代。江戸には六千軒の蕎麦屋が出来、そこで夕食を食べるのが普通だった、火を使うのは銭湯や蕎麦屋だけで夜回りでそれらの場所だけ回ればよかった。幕府は蕎麦の栽培を奨励した、蕎麦、蕎麦掻き10銭 ちなみにうどんは60銭だった、一家5人で食べても50銭いまで言えば500円程であった、埋め立て職人のお昼のお寿司は一文であった、行商は戦後まで続きスーパーの出現で消えた。八百屋もオート三輪車で売りに来た、豆腐屋、納豆売りは早朝、アルバイト学生中学生もやっていた、お昼頃にはホッカホッカ蒸気パン売りも来た午後3時ごろからは焼き芋屋、公園には紙芝居や来たり爆弾屋も来て大きなドッカンと音を立ててやっていた、綿菓子屋も来たり、飴細工屋も、、そんな生活があった、現在公園などで商売は禁止されている、なんでも文化を破壊して来たのが行政だった。その他、行商人が乾物、佃煮なども回って来た、富山の薬売りも、たまにはゴム紐割り箸などの押し売りも来た事がある。最も刑務所の出所者の校正策だったのだが、
小石を家庭で取り除いていたのは、江戸時代からピッキングは行われていたんですね!そこまで苦労していたのが衝撃でした!他にも1日2食とも限らないというのが勘違いしていました。この辺は自分に合わせて食事を大事にしたいと思います!
喜久蔵ばりの講談(笑)
旬の物、子供頃に、祖母がよく言ってました。調理の授業でも【旬】聞きました。江戸時代では、無いですが、
子供の頃は、魚豆腐、納豆等々業者の方々が、売りに来られてました。また、鍋釜、傘修理、包丁研ぎが、定期的に
巡廻されておられました。懐かしい~ 本日も、講義ありがとうございます👍👍
h。?bvっっての。。
時計修理のおじさんも居ましたね。廃品回収も個別訪問してた。
地域にも、よりますが、色々な個別訪問が、有りましたね。
東北のものですが昔は玄米とか五分つきとか麦飯食べていたとか聞いたことがあります。 後動物タンパクはタヌキ、キツネ、むじな(アナグマ)、熊、鹿、ウサギ等々、春は山菜、秋はキノコや山の実等等食文化は今より豊かだったらしいですよ!
キツネは飢饉以外は食べてなく、ウサギ、ムジナ、イノシシ、鹿、熊と鳥肉だったと思います。
@@かずこ-u3q 様 いのししが我が方に登って来たのは昭和50年以降で福島あたりまではきてましたがそれ以前はいませんでした。 あとイナゴや蜂の幼虫やシマシマの柄に入っている黄色い虫なんかもストーブで焼いてたべさせられました。 赤カエルの足の塩焼きや蛇も皮を剥いて串刺しにして塩焼きでいただきました。 ヤギの乳を飲み、鶏肉はお正月や人集まりのときだけでしたね!(笑) ばあちゃんの作った芋汁やキノコ汁は今でも食べたくなる味でした!
昔は子供の皮膚病眼病などの感染症が多かったです。
昭和30年代ですが僕もトラコーマに悩まされました。
田舎の古い墓地に行くとおびただしい子供の墓があります。
その自然淘汰を生き抜いてきた老人はめちゃくちゃ元気でした。
私も祖母から聞き取ってつくった家系図に、戦時中5才くらいでしんだ子供が結構いて、享年が「5、25、80」と両極端でした。
第一波幼少期をクリアしたら、青年期に病気にかかって死ぬか生きるかになり、そこを超えた人はだいたい80近くまで生きてました。
いやいやさんまとか、イワシとか食べてたでしょ、後は、干物乾物とか海苔とかあと🥚野草よもぎとかも、食べてましたよね😁
大変勉になるお話しありがとうございます。
子供の頃食事に不満を言うと祖母から、「武家の食事は一汁一菜が基本だ。」と言われ叱られました。
祖母は加賀藩の武士の家系で、私の家系も長岡藩の武士の出身です。
また、お茶碗に米粒が残っているのをみると「私達が生活出来るのはお百姓さん達のおかげなのに申し訳ないと思わないのか。」と、また叱られました。
先生のお話しを 拝聴していると、祖母の言葉の意味がよくわかる気がします。
今の日本人は、お腹いっぱい食べて残す・・・
もったいない精神が薄れてますね??
でも、これもご先祖様が、頑張って日本を守ってくれた証だと思う。
ありがとうございます。て、食事しましょうか・・・残さずにね
自称若者ですが、基本的に食事の時は米一粒残しません。米を残すと目が潰れると躾けられました。傷んでしまった食品は仕方なく捨てることもありますが…。悲しいかな、貧乏くさいとか神経質とか言われそうな世の中に変化しているのかも知れません。親の皿を見て、米が残っていると指摘して、鬱陶しがられる’’変’’な子に育ってしまいました(笑)
私はお米を残すと目が潰れるよ!と言われました(笑)
武士は偉そうにしてたのではなく、そうやってちゃんと農民の人たちを敬いお互い様で上手くやっていましたね。
@@TheSakuraEspresso さんへ、僕も貴男と同じ様に躾けられて育った者です。でも、躾けてくれた親は間違ってなかったんだと大人になった今でも親に感謝しております。現代はあまりにも食べ物を粗末にし過ぎてると思います。食べ物には賞味期限やら消費期限などありますが昔は自分の嗅覚や舌で食べれるか食べれないか判断していたものです。今は賞味期限や消費期限が切れてると言っただけで安易に廃棄してしまう世の中です。かなり食べ物を無駄にしてると思ってますよ。
独り暮らしで自炊してても時々めんどくさくなるのに家族の為に毎日毎日ご飯を炊き料理を作ってくれたお母さんに感謝しています。これは時代は関係無くずっとあった事なんでしょうね。当たり前と言われることに気づき感謝しなければ良くないって思いました。
そんなの当たり前だろ?アホが
この頃の食事の味はまずいです。
作ったものを食べてくれる人がいるから、面倒な食事つくりも
喜びの作業になってるんですよね。家族がいてくれるからこそ…
@@篠崎秀子
ふざけるなアホ
ならお前が作れよ😂
私の家は元小作農です。子供のころの食事を思い出すと決して豊かな食生活ではありませんでしたね。自分の畑や田んぼで取れた野菜やコメが中心の自給自足の食生活でしたよ。お袋が嫁に来た時、洗濯ノリがなくて芋やコメからでんぷんを取り出してノリ代わりに使っていたのを見てびっくりした言っていました。だから、本当にそうなのという疑問符が付きますね。
糊は、鍋で煮て作っていました。昔は。
忘れませんね。刷毛で障子の桟に糊を塗り、紙を貼り付けるのを手伝った記憶があります。
今は、両面テープですから、剥げますね。
私もそう思います。
江戸の商人限定の話で、田舎の農家は別でしょうね。
この先生に限らず江戸時代の食事の話というと江戸に暮らしてる庶民、その中でも
まずまず恵まれた層の人々の事情を日本の一般のようにニコニコ語る方が多いと思
います。自分的には、考証できるはずもありませんが、youtubeでみられる
『紋次郎食い』のイメージです。雑穀の流し込みに命をはったヤクザだから目刺し
も付けられるのだろうと。
自分ははるかに現代より旨いものを食べていたんだと思っている。天日干しの米、農薬なしの野菜、美しい水、手作りの醤油や味噌
旬の物、旬の魚。化学調味料などもない。
質素でも絶対美味しかったはず!
同館です。水だけでかなりちがいますからね。煮物は砂糖を使い甘く煮ていたのか?疑問です。江戸時代の煮物で砂糖をつかうのかな?と。味噌とかかなりおいしそうです。
@@hariwe7251
>味噌とかかなりおいしそう
いや、これに関しては、まずかったというか、塩辛かったらしいですよ。
今のような塩分を気にする社会ではなかったし、今のような冷蔵庫もなかった時代ですから
まず、保存性を考えるのでどしても塩っぽくなってしまう。
したがって塩辛かったようです。
釜で炊いた米美味そう!
学校で教わらない日本の歴史を学ぶことが出来、アメリカでいつも楽しく学ばせていただいています。
ありがとうございます。
江戸落語からも食生活は豊かだったことが分かります。物売りの種類もけっこう多いですね
語り口が解りやすく感情に伝わってくるものがあり、当時のイメージを湧き立たせ浮かび上がってくるようで、いいですね。
楽しく学ばせていただきました。ありがとうございました。
漬物も美味しく
地域で、いろんなお漬物があります
北海道で生まれ育ちました
ニシン漬け、飯寿司 いずし たくわん 浅漬け
コウジずけ、古漬け、などなど様々です
魚は、ホッケを外に干して、乾物にしてました。
54のオッサンですが。この動画を観て思い出した事があるのですが、標準価格米って有ったのを思い出しました!当時、親からそればっかり買いに行かされたのを思い出しました。
堺の商家の出身ですけど家族や奉公人用の一人膳が沢山残って居ましたよ😃❗今とさほど変わらない食事をしていたように聞いて居ます👂‼️
米以外であっても、農家は日本で一番豊かな食生活を送っていたと思います。
だって、野山に入れば四季折々の食材がいくらでもありますから
目の前に美味しい物があるのに食べない訳が無く、獣肉、旬の山菜、塩付けなどの保存物など、
今より楽しみが少ない時代において、日本人が凝らない訳がありません。
四季の料理は、日本の誇るべき食文化です。
考えてみて? アメリカの四季の料理何て聞いたことある??
日本かっこいいよね
@Y Y
アメリカと言えば、
クラムチャウダー
ホットドック
ミートローフ
とかですね、開拓時代はロブスターが沢山採れて、とても安く貧乏臭い食べ物とされていたとか。
@@チュンチュン丸-y5z 日本ほど四季のハッキリした国は世界にも滅多にありませんし、なおかつ雨が年中豊富に降っている。ほかの国に自慢してもいやらしいだけです。自慢より感謝して大事にしてほしいですね。そして自慢ではなく世界中の人をおもてなししてください。きっと喜ばれるでしょうから。
@@チュンチュン丸-y5z 、あるよ、いっぱい。私もアメリカに住むまでしらなかったけど。
アメリカの場合、パイとか瓶詰めが多かったイメージ。「大草原のちいさな家」とかが近いかな?資料には
昭和30年代米を買う時、米穀通帳を持って行って、お米屋さんで米を買っていた。お肉屋さんは、竹の皮で肉を包んで売っていた。魚屋さんは、刺身などは鉋屑の様な木を薄く切った幅広のものに包んで売っていた。豆腐は、八百屋さんの大きな水槽に浮かべられていて、鍋を持って行って一丁ほど買っていた。
鉋屑じゃなく…
経木(きょうぎ)と
呼ばれて居ましたよ〜❗️😅
@@kuma767483さん 石川県では「薄板(うすいた)」と呼んでいました。昭和50年代に入る直前まで使われていた記憶があります。スーパーのレジ袋も紙でしたね。
今は発泡スチロールのトレーでだいたいまかなえる
その時代へ行って買い物してみたい
私は時代劇が好きで落語が好きなんですが、まるで落語を聴いてるように江戸文化が学べるなんて、なんて楽しいんでしょうか☺️
江戸時代の食事美味しそう!これを毎日実践したら健康になるかも!
マックや牛丼ばかり食ってちゃいかんと思った。
良いお話ですね、歴史の食事の大切な一巻ですねありがとうございます。
福島県の戦後生まれ田舎の農家育ちですが米はやはりいいものは全部売っていました。
換金できるものは限られていますから、どちらかと言うとくず米〈等級が低い=安い〉
がほとんででした。農家が一番贅沢と言うのはどの地域のどの時代のことかことか知り
ませんが、ジャガイモをこまかく切り刻んで米と一緒に炊いたご飯は嫌だったですね。
随分年上の兄はじゃがいもはまだいい俺なんか大根を刻んだもので増やしたご飯だった
ぞ、と自慢(?)していたくらいです。但しカボチャを混ぜたご飯、サツマイモを混ぜ
たご飯は美味しかったです。母親の手は剃刀で切ったように何か所も切れていてバンソウコ
(って言いましたっけ?)だらけ、洗濯も食器洗いも全て氷のように冷たい引水でしたから。
子供たちは耳や手足が寒さや冷たさで紫色になって(しもやけ?)結構過酷な日常生活が
至る所にありましたね。ジャー地獄だったのかと言うとみんな同じような生活でしたから、
それは辛い時はありましたが不幸かと言うとそれも違うと思います。どなたか仰ったように
季節季節の自然の恵みは山川にありましたから、楽しい思い出も山のようにあります。
但し、そうした楽しいことはお金には替えることなどできませんから、田舎暮らしなら
ではの贅沢な一面とはいえるかもしれません。
但し、農家は豊かだったなどと経験していない人に気楽に言われると、あのねーと
言いたくはなりますが。そう思うなラどうぞご自分でこそおやりになってくださいと言い
たいです。
以上は1948年生まれの僕の10歳ごろまでの体験上の話ですから頓珍漢な話にしか思えない
かもしれませんね。
農家の家出身の80歳の人に聞いた話では、魚なんか盆と正月ぐらいしか食べれなかったと言ってました。そんなにいつも行商人が来るわけでもなし、と。
なので先生の仰っている海のもの山のものお腹いっぱい&お米を食べられた(菜種油も買えた)という庶民というのは、文献に取り上げられるような(文献をとる人が居るような)文化の高い地域、恵まれた江戸の商人などのことなのかなと思いました。
江戸から遠く離れた田舎の人の本当の生活を文献にしたものはあまり無さそうなイメージです。
@@user-pi1vuh8tv 私もそう思います
地域ごとの差は今より遥かに大きいでしょうね
その混ぜご飯だと一番美味しそうなのが大根入りで次がじゃがいもなんですが
ご飯に甘いものが混ざっているの苦手なんですよね
栗ご飯は甘くない栗を使いますがあれも苦手です
食べられない事はないですけど
@@takeshiinoue3375 あー驚いた!
そういう反論があるとは思ってもみなかったですね。但しこれは60年以上前の話で、例えば砂糖はまだ貴重品だったのです。甘さに溢れている現代の感覚では想像できないでしょうね。戦後間もなくの日本なんてかなり貧乏だったんですよ。そんなときに大根入りのご飯がうまいなんて思う人が、いや貴方が其処にいたとして思うかどうか?カボチャもくりも季節の物ですし、大根もジャガイモも単にご飯を増量するために入れたものなので味は付けておりません。
自然の恵みはほぼすべて季節ものですからほとんどの日はそんな食材には恵まれません。ということです。
@@hideyukiyoshida2273 なるほど
砂糖が普段手に入らない場合は確かにそう感じるかも知れません
味付けされていない大根やじゃがいもは良く食べますし美味しいと感じますが品種にも依るでしょうね
いやーやっぱり、「昔のわたしたち」の経済活動の解説は最高!
経済というとつい、為替と株を想像しがちですが、
人々が何を用い、何を食べるかのことですからね。
江戸時代が現代とは違う世界ではなく、確実に地続きの世界だと感じられます。
すごくためになる話で興味深く面白かったです!
他にも江戸時代は塩で歯磨きしてたとか、女性は生理痛対策におへそに塩を塗っていたとか現代人のための様なエピソードが豊富
佃の天安さんのお話ですが、最初佃煮は塩煮だったそうです。醤油が銚子の方から入手可能になってから、醤油煮のほうが、美味しいとなり、醬油煮に変わったそうです。
そうですよね、地域差はありますが自分の田舎は山奥の山間部の農家で、戦時中に白米を食べていたそうです。都市部では空爆があり大勢の人が飢餓状態だったころ、山間部の農家は米を隠しもっていて、酒まで作って飲んでいたそうです。
空爆は山間部では行われていませんでしたので、農家の特権だったとこのとです。
ある書物の中に刺身はおおまかに東日本は熟成魚を、西日本は鮮度を好む傾向がある、と記してあった。
なるほど!
納得。
普通の家に氷室なんてないので、涼しい地域はまだ置いておけるけど、温かい地域は魚が腐ってしまうのでは。魚が傷む前に食うのが正解。傷み難い地なら熟成すれば旨いかも知れない。
私の親の実家は東北の漁村です。売れる魚は取れるしとります。スルメイカは当時沢山取れました。今ぐらいの時期にスルメイカは食卓に上ります。カツオも取れます。マグロも稀ですが取れます。毛ガニも取れます。でも換金性の高い魚は食卓に出るときは買ってきていました。イワシとゴマサバが食事の中心です。そんなもんですよね。でもあれだけ鮮度の良い魚、もっとおいしく食べるすべはあったのですが、漁師さんは疲れているし、イワシやサバは珍しくないから調理しなかった。今思うともったいないですね。イワシは生・焼き魚・煮魚・つみれ・焼き魚の身をほぐして、野菜とあえて、油揚げで巾着にしたら上等なおかずになりますよね。弁当にも入れられるしね。野菜の加護を受けられない人は野菜の加護で成り立っている動物を食すことで、生命を維持します。大豆たんぱくを消化吸収できないから牛や豚・鳥を食べる。アミでは生きられないからアミを食生にして、たんぱく異質を合成する魚を食します。タンパク質は細胞の合成に、炭水化物はエネルギーに脂質は皮脂を作るのに役立つようです。食べるって大事ですね。
ノ、??,,,,;;,;,/;/
!
/
i。
,
.!
良
, 尋
!!
!
!! ,,
.!,;
! ! !
;
/
。
,
|
|
.
,
の
.,
;
!!,
,
!;
,
:
;
:
1.。
!
{;
,
! ! .
!;,>
!,!! !!
!あ !
!! .
!
!! , !:
!
!! !
; !
,:
焉
:.;
!; !
!
! !
!
! !! !
! !
.!
; !
!
/.
ー
/
ナ
ナ
!! !
!
; !
!;
!
!
!
!!
!!
!
!
.
: .
,
!.! !!
;
!,
!
! !
:
,
! ,
,
! !
;
! ,!!
;
!!! !
,
!; ,
!
!
! !
! !
!
. =
;
! ! ;
! !!
一
;,
!;,
!
! !
!!
;: ;,,;
!
!; !
!! ;
!! !!, !! ,
:!シ
。
/
; !
!
?
.
.
; !
! ! ;!
! ,, ,!,!! !
!
;!
;!
! !
!
;!! ! !
!!
!; !!
!! !
! ;!,
. !
! !
;! ! ! !
! !! !
, ;,!,!!
私の子供の頃も行商人が来てましたね。魚屋、トーフ屋、雑貨屋さんとか背負っておばさんが来てました。
脚気予防に、将軍吉宗は玄米食を奨励してましたね。
新潟のほうからよくわかめ売りのおばさんが大きな荷物しょって行商に来ていましたね。
おばさんの方言や家族の話などを聞くのが好きでした。
ご先祖様に感謝
白米を食べるようになってから、栄養不足で脚気になったのに、その原因が分からないから、あれを食べなきゃいけない、これを食べなきゃいけないと右往左往するようになったとの事。明治に入ってからは騙されて西洋食を自慢げにとるようになってもっとひどい状態になっていった。戦争に取られた人達もそんなひどい食事をさせられて脚気になったり免疫力が弱くなって色んな疫病にかかりやすくなっていった。石塚左げんは食生活を変えなきゃいけないと警鐘を鳴らしていた。
玄米最高ってことですね!
@@genbaacat2023 全粒穀物、身土不二、一物全体を基礎とした食生活を送っていると自然と体が喜んでくれ、健康を保つことが出来ますよね。ヒポクラテスも医食同源の大切さについて貴重な言葉を残してくれてます。
今でも日本には社会参画意識の中に「困っている人の役に立ちたい」「こうなれば喜ばれるに違いない」といった理念が少なからずあり、それが具現化された商品やサービスが多くあります。江戸庶民の社会にはそうした商品、サービスが既にたくさんあって、うまく社会が循環していたんですね。日本はカッコいい!
この話からも、江戸時代の日本は、GDPが世界各国の中ても高かったことが伺えますね。
欧米の資本主義でもない、共産主義でもない、向こう三軒両隣。
日本独自の全体主義ですね。
江戸時代の火消しや番屋も、基本的にはボランティアだったそうです。
先生が途中でお味噌汁の具材を包丁で切るトントントンという仕草、まるで寄席をきいてるようだと思いました☺️
煮物には椎茸入るから、干し椎茸はビタミンD補給にはもってこいですからね。
脚気予防には最適ですね。
たしかに。
農家さんは自分ちのは無農薬野菜だと言いますね(笑)
そして、ドラマJINがずっと浮かんでたところにそのお話が出て嬉しかったです😊
実家はそうです 農薬使わないと買ってくれないからだそうです
食卓は7〜8種惣菜、佃煮、漬物、など主菜の他のものが多い。
大家族晩餐食は多くの好みを満たす。
医療費の圧迫に耐えかねた米国で、病気になりにくい食事について調査されたマクガバン・レポートでは、「日本で元禄時代(1688~1704年)以前に食べられていた玄米を中心とする食事が、理想の食事である、と記載されています。
でもまあ、これ、日本人のDNAがあってこその食事なので、アメリカ人が真似して食べても
海苔は消化できないし、玄米も日本人と同じに消化できるとは限らないので、結局自国で売ってるものをたべるのがいいのではって思います。
日本人だって背伸びして、外国の健康的な実とか、アサイーとか食べるけど、あまり効果ないような・・・・
問題は、今現在の日本の医療費が莫大に伸びていて、癌も先進国で唯一増えている
しかも経済成長が先進国の中で最も低い数字である国にも関わらず
食事の質が悪いことを今の老人、親の世代が言わないことですね。
アメリカでさえオーガニックのスーパーが増えているのに
日本しか知らない人は貧困なのを気づかない。
江戸時代は精白米はぜいたく品で玄米を食べていたので、ビタミンEが摂れて問題なかった。しかし江戸の町では精白米が当たり前に流通して、庶民も毎日当たり前に精白米を食べていたためビタミンE不足により脚気が流行。初めは「江戸患い」という風土病だと思われていたが、どうやら糠を除去したせいだと気付き生まれたのが糠漬け。糠は元々へしこ等に利用されていたが、今のように毎日簡単に漬物が作れるどぶ漬けは、脚気解消のために生まれた江戸漬物。
江戸時代にそこまでわかっていたのに森鴎外をはじめ明治の帝国陸軍は
もう忘れていたんだね。
Bだろ。
@@midorimasuda6018
その通り。うっかりしたました。
調理で言う『加熱』(焼く・煮る、、、60℃以上2分以上)の 最大の目的は
『消毒・殺菌』が 目的だったような⁉️
特に 煮る事は、、、『手間』要らずで 気苦労が少なく 大量にでき 失敗が少ない❗😁
富良野で農家(跡継ぎ見習い)をしています。
考えて見れば、今現代は本当に文明に恵まれていますね💦
畑を耕すのも、収穫も機械。
しかし祖母や母が大切にしてる事があります🎵
食材を無駄にしない事💡
大根の菜っ葉だって立派な食材👍
妻は母、祖母の下で料理見習い、俺は親父の元で農家見習い😁
中々賑やかで楽しい物です。達成感や充実感があります。
サラリーマンにならなくて良かったと思ってます🎵
江戸時代中期のお江戸では、屋台の前進「担ぎ屋台」でうどん、そば、押し寿司など直ぐ食べれるファストフードが出始めて来て人気、映画等で見る蕎麦屋、飯屋というものが気になります。いつかこの辺の食文化も取り上げて頂けたらと思います。
以前福島に農村実習に行ったとき、一番美味しいお米は自分たちで食べていた。仕事はキツかったけど、めしがおいしいかったので早く食事の時間にならないかなと思った。ちなみに昼は田んぼでおにぎり。
今は飽食で現代人は食べ過ぎですねー
一日2食で十分なのだと思います
農薬/添加物だらけで野菜の栄養も少ない
江戸時代はアレルギーや癌などもあまりなかったのでは?
身体は食で作られるので、江戸時代の食を見直すのも良いかもしれない
吉宗の時代に全国にサツマイモが広がったのも、日本人の食事事情には興味深いですよね!
日本語がおかしいです。
言いたいことはわかりますが。
全国に広がったかなあ・・・・・???
特産物みてたら、サツマイモはシラス台地のほうがうまく育つから一部しか定着してませんよ。
以前、出張が秋田で、兄の下宿先のおうちが
米農家さんだったそうで、一回だけ「家で消費する用」の米を送ってきてくれた
まーーーーーーーーーーーー美味しいこと美味しい事。
当時、食の細い自分が、お代わり二回したのはいい思い出です
農薬も化学調味料も、化学保存料も添加物もなかった時代です。
平成、令和の現代より、ずっと栄養価の高い、美味しいお米と野菜、豆類。
魚も養殖や冷凍ではなく、近海ものの旬の美味しさを堪能していたことは、
明らかですね。
酸素濃度も高かったし、文化水準も、庶民の意識も、ずっと上の上。
現代人が江戸時代に迷い込んだら、例え東大卒でも、
頭悪すぎ、滑稽判らなすぎ、暗すぎ、古典知らなさすぎ、科学も植物の素人すぎ、
などなど、長屋の皆さんの会話にさえついてゆけない、レベルでしょう。
いいお話。昭和40年代以前は、豆腐やさんが豆腐や油揚げをリヤカーに積んで、道を歩いて売っていました。当時の豆腐は、大豆の味がしっかりして、とてもおいしかったです。
当時は、車も少なく、バス型の車に生鮮食料品を積んで、売りに来ていました。車を持っていない主婦は、そんな車で生鮮食料品を手に入れていました。
農家ですが、JA共販なので全部米は同じです、現代の農業に対する認識には疑問があります。種子までJAが握っているのがほとんどです、私の周りでは100%JAの種子共販の種子なのて、農家のメリットは新米を誰より早く楽しめるぐらいです現代の農業については誤解されていると存じます。失礼だとは思いましたが言わずにはいられませんでした。
楽しい動画に出会えました、有り難う御座います
名解説 ありがとうございました 頑張って下さい。
印象操作で思い出したけど、米国でも2食だったのをトースターを発明したエジソンが発明品を売る為に3食に変えたという逸話がありますよね。
江戸時代は無農薬、無化学肥料だったから、ある意味贅沢な食事だったと思うが。
白米よりも栄養がある玄米を食べていたので、江戸の庶民達は、現代人よりも体力があったと思っています。
江戸時代の日本では、1回の食事で玄米を平均茶碗5杯を食べたと聞きました。副食が少なかったので、米の量で補っていたそうです。
江戸患い。Edo disease…
脚気は、白米ばかり食べていた大名だけだと思っていました。庶民の食生活がこんなに豊かだとは知りませんでした。少し考えれば、当たり前です。寿司や蕎麦や天ぷらを生み出した江戸時代、庶民の食生活が貧しいだけではないはず。自分の歴史の知識を総ざらいする必要があります。
実家には魚屋さんが刺身、干物等売りにくるよ。やきとりもウリニクル(笑)
蕎麦などは当時のほうが美味しかったんだろうなー
取れた米の量を割り算すると、日本人全員に行きわたった量になるらしいですね、
米は取っておける物ではないですからね、
標準価格米に古古米が大量に入ってたのは昭和40年代のごく短期間だけで、それ以前は余剰米在庫はあっても翌年には消費されてた、昭和50年代になると生産調整で古古米は消滅
江戸患いは精米技術が進んでビタミン豊富な発芽玄米を食わなくなって美味しい白米を食べるようになったから、、と聞いてます、おかずからビタミンを摂るのは大切ですね。
江戸時代には豆腐料理の全集、豆腐百珍(字が間違っているかも)とかスナック感覚で二八蕎麦屋、茶店とか寿司など、チョイと庶民が腹ごしらえ出来る商売が大繁盛した。その江戸時代の食生活多様性が八百善などの有名料理屋を産んだ
ありましたねー 寿司、天ぷらなどファーストフード、屋台ができたのが江戸。
まあ、まだ食品に関する資格ができてない時代でしたから、食中毒がけっこう多かったと思われます。。
漢字あってますよ。 落第忍者乱太郎で、豆腐好きキャラ、久々知がいろいろな豆腐料理を話てます。「八杯豆腐、豆腐飯」とか。
室町時代から豆腐のいくつかのアレンジはあったようですね。
なんだかイーツより全然便利だな
私の子供のころの体験で午前中に2食一日4食の習慣がありましたその土地の習慣の名前もありましたがよく覚えていません食生活の歴史は面白い感じました
肉屋の知人宅は良い肉は肉屋が確保しちゃうんです。レバー嫌いだったけど美味しいレバー食べたら嫌いは無くなりましたが普通に売ってるのはダメです。
確かにご飯は美味しいですよね。
聞きやすい!
先生へ、
確かに江戸、大坂、名古屋はそれなりの豊かな食生活が江戸中期よりでき始めた様ですね。
地方、特に内陸の田舎ではそうも行かず生鮮漁獲類は塩漬けで内地に運ばれていました。
自分は50代前半ですが、昭和50年代前半でさえ子供の頃はお祝い以外刺身を食べた記憶がないし
牛肉も中学三年生の時に未だ食べた記憶が強烈でしたね。
寿命も塩辛いおかずに過重労働、脳卒中やボットン便所のお陰で寿命が全国ワースト5でしたよ。
ところが今やご長寿ベスト10に入る驚き‼️です。
飯と沢庵 目刺しが1番好きなんです私は。
座頭市の食べ物(爆笑!)
江戸煩い(脚気)は玄米を食わないからです、当時もお金持ちから罹ったようです
漫画「JIN」でありましたね。あずき、玄米、サツマイモなどビタミンを取ることで、改善するらしいですね。
まぁ電気がないからあれだけど、当時大忙しの主婦に白物家電プレゼントしたい
今の時代は本当に恵まれてる
家事ばかりは電気万歳と思ってしまう。
まじで家事の重労働のせいで、女性は学ぶこと、仕事、趣味もできず、子供と夫のために土、栄養分になってた。
「男社会がしんどい」という田房永子さんのコミックエッセイ、めちゃくちゃ刺さりますよ
これは。とても大事なことですね。
おっしゃる内容は江戸やその他の都会の住民に限定されるのではないですか?
田舎の食生活はそうとうひどかったという記録は多く残されている
西郷隆盛の育った家庭など薩摩では最底辺より少しマシな程度でしたが、米など滅多に食べられず芋、豆ばかり、基本的に子供は常に腹をすかしていました
民族学者・宮本常一は大正時代に日本各地をまわって古老の話を聞き書きしているが、貧困や食の窮乏は田舎では当たり前
そもそも米や麦の品種改良が進むのはだいたい昭和になってからで、それまでは不作は当たり前でした
2・26事件の原因にもなった東北の飢餓は昭和初期の話、まして江戸時代となればもっとひどかった事と思われます
おっしゃる通りだと思います。
主様がどの地域・どの階層を標準としているかをはっきりさせるべきです。
確かに江戸町民の多くは動画のような生活をしていたことは確かですが、頻発した農村部の飢饉では、大自然の旬の食材なんて認識ではなく、食べられるものは草の根まで食べても餓死する人が続出していたのですから。
ただ、ある程度の収入のある江戸町民の生活は、世知辛い現在よりも、本来の人間的な生活であったことは事実だと思います。
ただし、それも健康であればこそ。
現在のような社会保障も高度医療もない時代ですから、一般庶民は、病気→貧困という生活。
その点では現在の日本は恵まれていると思います。
全くの同感です。天下の台所の大阪や将軍のお膝元の江戸と地方はちょっと事情が違う、先生の話しは能天気過ぎる、江戸時代には有名な天明の大飢饉始め何度となく飢饉があった。どれだけの民が餓死したことか、藩の備蓄米も不作の年は不作分を補う為に回されたりして、飢えた民の口には入ら無かったとか。
ことに、寒冷地である東北地方は悲惨だった、自分は岩手に住んでいるが、盛岡藩の記録によると江戸時代の270年間で数十回の飢饉があったそうですよ。
1日江戸人という本に江戸庶民の話が記録されてますが、江戸人は日本一豊かだったのかもしれませんね。
当時、労働人口としての男性がめっちゃいましたし。
その金を目指して遊女も商人も増えました。だけど江戸ってもともと湿地ですからね・・・・無理に地形を埋め立てて、王族と同じ風水にして
あれだけ発展してますが、東京湾によけいなもん増やしたから、氣が流れなくなって、不穏なものが近づいてますね。
面白い、確かに当時の日本人がどういう生活をしていたか知りたい
便利な時代だったんだな〜。江戸時代のメニュー食べてみたい!
日本の食べ物は素晴らしいでーす✧︎朝起き✧︎正直✧︎働き✧︎3つの宝です✧︎🌞😊🌞✧︎🌈🌻💓
江戸時代には何回か食糧飢饉がありましたが、その時の状況はどうだったんでしょうか?
地方と大都市では状況は違っていたんでしょうか? 当時の悲惨な状況を描いた絵を見た記憶があります。
周りが山の処は、飢えなかったらしいと聴いた事あります。
食料難がくるとそれぞれが山に入って、食べ物を調達確保したらしい。
この話しは、確か山に囲まれた所の農家、生産者さんがお話くださった様に思います。だからここは飢えがなかったみたいな。
江戸のような都会はどうだったのでしょうか?
それなりに困った事があっても、今よりも多分濃い人間関係が存在した筈ですから。
古古米から食べる習慣は、食料難対策にもなったでしょうか。
@@jps4062 へえー、そうだったんですか。山は食料供給所だったんですね。そう言えば、野生動物は山に住んでいますものね。
都会はヤバイ状況?なのかな?
田舎や海の近くは食べ物豊富で困ることは困りますが、なんだかんだ食べ物は沢山あるので大丈夫だったらしいですね。
飢饉が発生しても都会にはそれなりに米があったようです。
なぜなのか?
飢饉が発生すると米の価格は暴騰する訳なので、各藩自分の領民の食い扶持を考えることもなく片っ端から江戸、大阪に米を廻しました。これによって藩の莫大な借金を返そうという算段です。
結果として地方で餓死者が続出するという状況になりました。
米、釜と菜切り包丁、昭和時代は普通にありました!精進料理と冷蔵庫がないから魚の干物と貝の味噌汁やぁー?解説😉
火事の原因に行燈の火が危ないと仰るのと同じ理由で江戸の長屋には食事のための釜はありません。
今で言うファーストフードと同じ天秤担ぎのそば屋が江戸庶民の朝食だったと言われてます。
畑仕事や山仕事する人によっては1日5食とかもあったそうです。また今はほぼ絶滅してしまった縄文米を作っている農家も多かったとか。
一々精米するのが面倒だからと玄米を食していた人の方が多いとも聞きますし、江戸以外では脚気もほぼありませんでしたし。
今の日本人の栄養面は戦後直後と同等しか採れていない人が大半だそうですから、摂取栄養面では今以上だったかもしれませんね。
すごく面白くてタメになりました。これが日本人のルーツですね✌️
江戸や大阪、京都はこう言う行商人が居たお陰で、年寄りで体悪くしても買い物難民にならずに済んだんだよねー。
ザルやホウキ、鍋の修理やらいろいろ居たから、お買い物は本当に必要な時や量が要る時とかぐらいしか行かなかった。
今で言う、その道のプロが行く様な専門店に行く感じ。
教科書関係は欧米側の言いなりなので開国したおかげで生活が良くなったとすり込みをやっています。
おかずは江戸・大阪と地方の町人・武士の料理事情ですね。マグロは殺菌の為たまり醬油漬けにして酒のつまみかねぎまの具にしていましたし、金平牛蒡はご飯が進む様に味が濃く唐辛子が沢山入っていたので激辛でした。
ただ、衛生観念とか新鮮さを重視するなら現代のオーガニックな和食の方が良いと思います。
イナゴ、蜂の子なども高タンパクで栄養価が高いです!
大名が小説で書かれてる様な食事秤だったら江戸患いだけで無く全国で脚気等が流行してる筈です❗田舎から比べ江戸は華やか何です参勤交代で江戸詰めの武士は誘惑にまみれていたのです上級武士や殿様の教育や規律は厳格なので江戸患いはやはり庶民の流行です‼️誰が何の目的で江戸時代を貧しいと伝えてるんですかね⁉️欧米と比較するのも止めた方が良い、、、🐒小名木先生の話は同感です😁
あくまで 江戸の町人の話でしょうね ドラマに出てくる長屋なんかの。田舎の人々は自給自足での生活だったと空想します。日持ちする様に加工した物を仕入れて売り歩く 行商人はいたと思いますね。そんなこんな考えて空想するのも楽しいですね。(ΦωΦ)!
現代も東京は、物価が高い。
高額所得者だけが住める世界だと思っている。
当時は、白米がセレブの象徴だったようですね。
軍隊もそうでしたから。
昔のご飯は、栄養たっぷりの玄米ご飯でした。また、昔のお酒は酒粕がたっぷり入って、翌朝元気一杯になるどぶろくでした。
一番美味しいお米は生産者が食べる。一番美味しいボジョレー・ヌーボーは生産者が飲むと同じやな。季節ネタです。
古古米ってむかしの方がずっと臭かっただろうな。保管の悪い米って臭いよ。
考えてみれば、確かにそのとおりですね。電気がない生活を想像すれば。
日が昇ってから調理して、片付けもあるから日が暮れる前に夕飯済ませる。昼食なんか食べる暇ないですよね。
震災の時はそうでしたね。暗くなる前に夕食。本格的に暗くなると明かりもないので寝るしかないと言う感じ
小名木先生もJINをご覧になっていたんですねw
ごはんは炭水化物だから太るって世間ではよく言われてましたけど、これって科学的根拠はあったんですかねぇ。
江戸庶民は脚気になるくらい白ごはんばかり食べていたのに、幕末や明治初期の古写真には肥満体の人はいません。
私は白ごはんを摂らないと夜お腹がすいて寝られないので毎日食していますが、健康上の理由から一時期副食は
肉を避けて煮野菜とか魚類中心にしていたことがあったのですが、医者から「肉(たんぱく質)を摂れ」と言わ
れるほど半年ほどで激やせしました。
なので、太るというのは結局カロリー摂取量が多いってことだから、副食が豊富になった現代では白ごはんとの
組み合わせでは単に摂取カロリー過多になるってことじゃないかと考えています。
いや、でも農民は日が暮れるまで作物の手入れをしていたと思いますよ。
同意します。日が暮れても藁編んだりしてたと思います。
うちの祖母がそうだったので。
祖母に月明かりで畑耕したって聞いた事あります。
@@りか-d4h
そんなアホな
@@菅野智之CBD
ほんとだよ。
で、月が出てる時は夜のうちにできる事をしておいたって。畑耕して畝作るのは昼間じゃなくてもできるから。
富良野で農家をしてます。
祖母から良く似た話を聞きました💡
特に戦後の苦労ですね💦
野原の雑草だって立派な食材だったそうです💡
昭和でも十分明るい蛍光灯がありました。
今でも洗濯機につっこむだけでは襟とはそでの細かいよごれはとれないのでお湯で手洗いしてます。
お魚もそうです。
薄給だけど、
漁師と仲買人が良い魚食べてます。
江戸時代の貧相な食事を語る人の話の出所を探ってみると、決まって飢饉に行きつくんですよね。江戸時代に飢饉が数度あったのは事実ですが、豊作や大豊作もあったし新田開発や生産性の向上もあって総じては並み以上の収穫を得ていたそうです。貧相な食事の話は飢饉と言う異常で非常な事態に陥った時にあった事をあたかもそれが日常だったかの様に伝聞されてるんですよね。
東日本大震災の避難生活が日本の日常だと言われたら誰しもが「それは違う!」と反論できますが、江戸時代の事となれば実体験の無い人ばかりなので誤解や曲解が世に蔓延るという訳です。
逆に現代人は1日2食で良いでしょう 行商は復活すべきでしょう
行商が復活すれば、特にお年寄りは
助かりますよね。
煮しめ豆腐がメインだったと思います。
興味があったお話「成る程」聞けてよかったです
ありがとうございました😊
「時代劇ファンより」
大変勉強になりました☺️
勉強になる話を落語家さんがしてる感。
江戸時代。江戸には六千軒の蕎麦屋が出来、そこで夕食を食べるのが普通だった、火を使うのは銭湯や蕎麦屋だけで夜回りでそれらの場所だけ回ればよかった。幕府は蕎麦の栽培を奨励した、蕎麦、蕎麦掻き10銭 ちなみにうどんは60銭だった、一家5人で食べても50銭いまで言えば500円程であった、埋め立て職人のお昼のお寿司は一文であった、行商は戦後まで続きスーパーの出現で消えた。八百屋もオート三輪車で売りに来た、豆腐屋、納豆売りは早朝、アルバイト学生中学生もやっていた、お昼頃にはホッカホッカ蒸気パン売りも来た午後3時ごろからは焼き芋屋、公園には紙芝居や来たり爆弾屋も来て大きなドッカンと音を立ててやっていた、綿菓子屋も来たり、飴細工屋も、、そんな生活があった、現在公園などで商売は禁止されている、なんでも文化を破壊して来たのが行政だった。その他、行商人が乾物、佃煮なども回って来た、富山の薬売りも、たまにはゴム紐割り箸などの押し売りも来た事がある。最も刑務所の出所者の校正策だったのだが、
小石を家庭で取り除いていたのは、
江戸時代からピッキングは行われていたんですね!
そこまで苦労していたのが衝撃でした!
他にも1日2食とも限らないというのが勘違いしていました。
この辺は自分に合わせて食事を大事にしたいと思います!
喜久蔵ばりの講談(笑)