Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
周南市出身者ですが、この話は知りませんでした。実家は、この緑地公園から徒歩10分くらいの場所にあり、子供の頃から遊び場や通学路になっていました。ただ、戦後まで無傷で残ったと動画では出ていましたが、戦艦大和を含めた、天一号作戦参加艦艇が徳山で給油を行った際、燃料廠のありったけの重油を大和に入れても足らず随伴の軽巡や駆逐艦から重油を抜いてまで、大和に給油したと言われています当時、この地下油槽群が生きていたなら、ここの油も給油したと思われますがすでに、昭和20年4月の段階で空になっていたのか?また、隣県にあった呉軍港には、当時、燃料切れとなっていた戦艦の伊勢、日向、榛名などが健在でしたがこちらの重油を給油するということも想定されていなかったのか?仮に重油が空になっていたとすると、出光氏の石油回収のエピソードとも矛盾するし、結局、どうだったのか、興味は尽きません
ご視聴ありがとうございました。20年4月の大和寄港時の燃料については「徳山海軍燃料廠史」P387に次のように記載されております。「昭和20年4月6日の燃料廠の日誌によると、この時点における重油の残量は、1万5000トンと記録されており、~省略~この日徳山に寄港した戦艦大和(満載積載量6300トン)はタンクに4000トン、矢矧は1250トン、護衛艦は900から500トンを給油した。(ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』P167-168、新潮社)」また、「徳山海軍燃料廠史」P386には、「敗戦時はタンクは空であった。」とも書かれています。ただ、タンクの底には構造上電動ポンプが届かない部分があり、(灯油缶の底が汲みにくい的な…)ここにエマルジョン状の底油200トンが残存しており、この除去回収を、出光興産が請け負われたそうです。ちなみに「徳山海軍燃料廠史」P432(戦艦大和への給油)には、当初の「片道分の燃料搭載指令」を無視して、バルブ全開でタンクが空になるまで給油して送り出したとの、担当官の手記が記載されています。
@@yamatan-CH 返信ありがとうございます。なかなか興味深い内容ですね。子供の頃は、社会の教科書レベル程度の知識しかなかったのですが最近、「艦隊これくしょん」というゲームをするようになって、個別の軍艦の経歴に興味を持つようになりその流れで、最後の給油のエピソードを知りました。
@@sY-ll9pu お爺さんの証言にとても興味があります。いろいろと辻褄があった気がします。何かのネットニュースで見た記憶があるんですが、今から30年くらい前に燃料廠の極秘資料が発見されてそこでは、当時の所長の独断で、燃料廠のありったけの重油を大和に給油したと書いてあったそうです。つまり命令違反をしてでも、自分達の出来得る限りのはなむけを、大和らに渡したかったということだと思います。実際、上層部から発令された天一号作戦では、大和を沖縄の海岸に座礁させ、そこで大和を砲台にして、米軍を迎え撃つというものだったので命令では、沖縄までの燃料を給油するというものだったのかもしれませんね。艦隊司令官も、この命令を受けて、特攻じゃないかと、最初は拒否したと言われています。最後は、大和に死に場所を与えてやってくれ、と説得されたんじゃないかと思っています。
偶然動画を拝見しました隣の下松市ですが昔少年野球大会でよく利用していたので驚きました
Wikipediaにも記載なくてとても興味深く視聴しました。
あそこらへんは地面が頑丈らしいんですよ。今でもガス会社がタンク置いていたりしていますね。燃料廠の痕跡は他にもあって、周南市長公邸は旧燃料廠長官舎とのこと。しかし、それらくらいしか痕跡がない様です。燃料廠は相当大きな組織だったらしく、工兵部隊以外にも、防備隊などが居たとの話なので、もしかしたら防備隊などの警備部隊が防空の為に使った、監視台や高射砲があるのではないかなと。私は予想だと、高射砲跡の一部は太華山中、大津島付近にあるのではないかと。で、他にもあると思います。光工廠とよくセットにされていたようですね。油が染み出している人造水路、あそこから人なりドローンなり入れて中を調査することはできないだろうか。油が出ていると言うことは、まだ未確認のタンクがあったり隙間から在るのかも知れないからやるべきじゃないのかいと私は思いますがね。
初めてしった。勉強になりました。
四角く作っておけば見つからなかったのかな
徳山市のホウガぴんと来る。爺ちゃんが徳山ソーダの工場で働いてた。
ご視聴ありがとうございました。おお、徳山ソーダ。 2:24 の右側の米軍資料に出てくる会社ですね。歴史ある企業と伺っております。
@@yamatan-CH じーちゃんは、中国戦線へ2度目の徴兵中(徴兵中も出張手当が出てる資料が手元にある)ばーちゃんは、防府の親戚の元へ工場経由で手に入った物資を担いで持っていく途中のトンネルから空爆が始まった光景を見ていた。親戚宅に1日でも行くのを遅らせていたら私は、この世に生まれていない。
海賊の男を読んでて徳山製油所などは見たことあったけど地下タンクの場所はよく分かって無かったから知れて良かった
昭和31年徳山生で、現在神奈川県川崎市に住んでいますが、小学3~4年頃当時造成中の周南団地が遊び場でタンクも何回か見たこともあります。当時を懐かしく思い出しながら見させて頂きました。
"海賊と呼ばれた男"戦後出光の出発点だな
すぐ近くの周陽中学校の卒業生です。タンクがあるとは知らずに上で遊んでました。壊す時も見ました。グランドになってからもよくソフトボールをして遊びました。
徳山市民ですが知りませんでした!ありがとうございます!m(_ _"m)海軍の使用する給油所があった事は知ってましたが周南緑地がタンクの跡地だったのは初耳です!
有難う。楽しく拝見しました。
昔、同様な施設の天蓋が崩れ、その上で作業していた重機が作業員諸共転落する事故があったな。事故があるまでその施設は認識されておらず公園緑地の一部と認識されていたらしい。また、その施設は埋め立てされておらずヘドロ化した地下水で満たされていたみたい。
今でも大雨が降ると、タンクや配管の中に残った油が川や海(櫛ケ浜方面)に流出します。9:50 あたりの画像はそのシーンですね。緑地公園とその周辺には野犬が多く住み着いており、周辺住民やそこの子供たちがたまに襲われたりします。木々が多いと悪いこともあります。
戦艦大和の沖縄特攻作戦の直前に徳山沖で停泊している航空写真が米軍によって撮られていましたが、そういうことだったんですね。勉強になりました。
この話、おもしろすぎだろ
実に興味深い。今度父親の実家の帰省時に見に行こう。
私のご先祖のお墓があります。知りませんでした感謝。
主さんよ、もしかしてコウイチTV好きかい?
徳山の爆撃は今の代々木公園が最も悲惨だったらしい。旧日本軍で言うと、光の爆撃で犠牲者がひどかった。
出光興産社長だった出光佐三氏の話とは違いますか?
米軍は航空写真撮ったけどタンク群に気づいていなかったと昔の周南市の展示施設では書かれてたが、実はちゃんと気づいていて爆撃予定だったんだね参考になりました
地下タンクの跡で壁当てしてた😂
偽装が下手に見えました。木を植えて森にしておけばバレなかった気がします。
戦時下で、男たちは多数徴兵されたり工場で生産したり、女たちも農業で食糧生産に追われてたから、偽装するための多量の労働力は確保できなかったと思うそれに、偽装するにも多量の資材が必要だが、先ず軍需品生産のために資材は回されたから、資材にも欠いただろうな
森にしてしまうと蓋があったそうですから、タンクのメンテナンスが困難になったのでは?
ここにも戦争遺跡が。これは初めて聞きました。
燃料工廠を紹介した本では。空爆があるまでは、黒字決算で、アメリカ海軍機が襲来して。赤字になってしまったと記載されていました。
??
どういうことですか?
徴用工では作業を進める事が出来ず、職工を呼んで人件費をオーバーしたのでしょう。違うところですが、宇品の造船所の徴用工の食堂では。一食当たり、今のレートで240円から300円を取ってました。
周南緑地には明治時代に創設された徳山海軍練炭製造所を起源に徳山第三海軍燃料廠及びタンク群が存在していました。動画にもある様に徳山湾の粭島沖に大和を主力とした第二艦隊が沖縄突入直前に給油で停泊しているところを米偵察機に撮影されています(映画この世界の片隅にに空撮シーンあり)徳山市街地を含め米軍による空爆を受けた旧第三海軍燃料廠及び大浦地区のタンク群跡には動画にもある様に戦後出光興産が進出し、他のコンビナート企業と力を合わせて徳山の石油精製と石油化学コンビナートの中核として日本国の復興と発展反映に微力ながら貢献してきた歴史があり、出光興産徳山事業所及び大浦地区には今でも慰霊碑や爆撃により損壊したトンネルが残っているそうです。今日の地球温暖化対策によるカーボンニュートラルとCNXに対応すべくコンビナート各社が既存の常識に囚われず様々な新規事業を模索し活動を進めているそうですが、今後も先の大戦から紡いできたエネルギーを生み出す街として発展していって貰いたいと思います。
もっと厳重に防空しとけよ格好の標的になるに決まってるのに
上空から見てタンクの形状がここまで見事に露呈してしまっていては地下に秘匿していた意味がないように思えてしまいますね。日本側も上空から見ることはしていたでしょうし、これで問題ないという認識だったのでしょうかね。建設段階ではまさか本土上空を自由に偵察機に侵入されるとは思っていなかったのか。
防衛省の施設にするべき石油備蓄基地にしたほうがいいんじゃないの
今や緑地公園は野犬の住処になってる
周南市出身者ですが、この話は知りませんでした。
実家は、この緑地公園から徒歩10分くらいの場所にあり、子供の頃から遊び場や通学路になっていました。
ただ、戦後まで無傷で残ったと動画では出ていましたが、
戦艦大和を含めた、天一号作戦参加艦艇が徳山で給油を行った際、燃料廠のありったけの重油を大和に入れても足らず
随伴の軽巡や駆逐艦から重油を抜いてまで、大和に給油したと言われています
当時、この地下油槽群が生きていたなら、ここの油も給油したと思われますが
すでに、昭和20年4月の段階で空になっていたのか?
また、隣県にあった呉軍港には、当時、燃料切れとなっていた戦艦の伊勢、日向、榛名などが健在でしたが
こちらの重油を給油するということも想定されていなかったのか?
仮に重油が空になっていたとすると、出光氏の石油回収のエピソードとも矛盾するし、
結局、どうだったのか、興味は尽きません
ご視聴ありがとうございました。
20年4月の大和寄港時の燃料については「徳山海軍燃料廠史」P387に次のように記載されております。
「昭和20年4月6日の燃料廠の日誌によると、この時点における重油の残量は、1万5000トンと記録されており、~省略~
この日徳山に寄港した戦艦大和(満載積載量6300トン)はタンクに4000トン、矢矧は1250トン、護衛艦は900から500トンを給油した。
(ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』P167-168、新潮社)」
また、「徳山海軍燃料廠史」P386には、「敗戦時はタンクは空であった。」とも書かれています。
ただ、タンクの底には構造上電動ポンプが届かない部分があり、(灯油缶の底が汲みにくい的な…)ここにエマルジョン状の底油200トンが残存しており、この除去回収を、出光興産が請け負われたそうです。
ちなみに「徳山海軍燃料廠史」P432(戦艦大和への給油)には、
当初の「片道分の燃料搭載指令」を無視して、バルブ全開でタンクが空になるまで給油して送り出したとの、担当官の手記が記載されています。
@@yamatan-CH
返信ありがとうございます。なかなか興味深い内容ですね。
子供の頃は、社会の教科書レベル程度の知識しかなかったのですが
最近、「艦隊これくしょん」というゲームをするようになって、個別の軍艦の経歴に興味を持つようになり
その流れで、最後の給油のエピソードを知りました。
@@sY-ll9pu
お爺さんの証言にとても興味があります。いろいろと辻褄があった気がします。
何かのネットニュースで見た記憶があるんですが、今から30年くらい前に燃料廠の極秘資料が発見されて
そこでは、当時の所長の独断で、燃料廠のありったけの重油を大和に給油したと書いてあったそうです。
つまり命令違反をしてでも、自分達の出来得る限りのはなむけを、
大和らに渡したかったということだと思います。
実際、上層部から発令された天一号作戦では、
大和を沖縄の海岸に座礁させ、そこで大和を砲台にして、米軍を迎え撃つというものだったので
命令では、沖縄までの燃料を給油するというものだったのかもしれませんね。
艦隊司令官も、この命令を受けて、特攻じゃないかと、最初は拒否したと言われています。
最後は、大和に死に場所を与えてやってくれ、と説得されたんじゃないかと思っています。
偶然動画を拝見しました隣の下松市ですが昔少年野球大会でよく利用していたので驚きました
Wikipediaにも記載なくてとても興味深く視聴しました。
あそこらへんは地面が頑丈らしいんですよ。今でもガス会社がタンク置いていたりしていますね。
燃料廠の痕跡は他にもあって、周南市長公邸は旧燃料廠長官舎とのこと。しかし、それらくらいしか痕跡がない様です。
燃料廠は相当大きな組織だったらしく、工兵部隊以外にも、防備隊などが居たとの話なので、もしかしたら防備隊などの警備部隊が防空の為に使った、監視台や高射砲があるのではないかなと。
私は予想だと、高射砲跡の一部は太華山中、大津島付近にあるのではないかと。で、他にもあると思います。
光工廠とよくセットにされていたようですね。
油が染み出している人造水路、あそこから人なりドローンなり入れて中を調査することはできないだろうか。
油が出ていると言うことは、まだ未確認のタンクがあったり隙間から在るのかも知れないからやるべきじゃないのかいと私は思いますがね。
初めてしった。勉強になりました。
四角く作っておけば見つからなかったのかな
徳山市のホウガぴんと来る。
爺ちゃんが徳山ソーダの工場で働いてた。
ご視聴ありがとうございました。
おお、徳山ソーダ。 2:24 の右側の米軍資料に出てくる会社ですね。
歴史ある企業と伺っております。
@@yamatan-CH
じーちゃんは、中国戦線へ2度目の徴兵中(徴兵中も出張手当が出てる資料が手元にある)
ばーちゃんは、防府の親戚の元へ工場経由で手に入った物資を担いで持っていく途中のトンネルから空爆が始まった光景を見ていた。親戚宅に1日でも行くのを遅らせていたら私は、この世に生まれていない。
海賊の男を読んでて徳山製油所などは見たことあったけど地下タンクの場所はよく分かって無かったから知れて良かった
昭和31年徳山生で、現在神奈川県川崎市に住んでいますが、小学3~4年頃当時造成中の周南団地が遊び場でタンクも何回か見たこともあります。
当時を懐かしく思い出しながら見させて頂きました。
"海賊と呼ばれた男"
戦後出光の出発点だな
すぐ近くの周陽中学校の卒業生です。タンクがあるとは知らずに上で遊んでました。壊す時も見ました。グランドになってからもよくソフトボールをして遊びました。
徳山市民ですが知りませんでした!
ありがとうございます!m(_ _"m)
海軍の使用する給油所があった事は知ってましたが周南緑地がタンクの跡地だったのは初耳です!
有難う。
楽しく拝見しました。
昔、同様な施設の天蓋が崩れ、その上で作業していた重機が作業員諸共転落する事故があったな。
事故があるまでその施設は認識されておらず公園緑地の一部と認識されていたらしい。
また、その施設は埋め立てされておらずヘドロ化した地下水で満たされていたみたい。
今でも大雨が降ると、タンクや配管の中に残った油が川や海(櫛ケ浜方面)に流出します。9:50 あたりの画像はそのシーンですね。緑地公園とその周辺には野犬が多く住み着いており、周辺住民やそこの子供たちがたまに襲われたりします。木々が多いと悪いこともあります。
戦艦大和の沖縄特攻作戦の直前に徳山沖で停泊している航空写真が米軍によって撮られていましたが、そういうことだったんですね。勉強になりました。
この話、おもしろすぎだろ
実に興味深い。
今度父親の実家の帰省時に見に行こう。
私のご先祖のお墓があります。知りませんでした感謝。
主さんよ、もしかしてコウイチTV好きかい?
徳山の爆撃は今の代々木公園が最も悲惨だったらしい。
旧日本軍で言うと、光の爆撃で犠牲者がひどかった。
出光興産社長だった出光佐三氏の話とは違いますか?
米軍は航空写真撮ったけどタンク群に気づいていなかったと昔の周南市の展示施設では書かれてたが、実はちゃんと気づいていて爆撃予定だったんだね
参考になりました
地下タンクの跡で壁当てしてた😂
偽装が下手に見えました。木を植えて森にしておけばバレなかった気がします。
戦時下で、男たちは多数徴兵されたり工場で生産したり、女たちも農業で食糧生産に追われてたから、偽装するための多量の労働力は確保できなかったと思う
それに、偽装するにも多量の資材が必要だが、先ず軍需品生産のために資材は回されたから、資材にも欠いただろうな
森にしてしまうと蓋があったそうですから、タンクのメンテナンスが困難になったのでは?
ここにも戦争遺跡が。これは初めて聞きました。
燃料工廠を紹介した本では。空爆があるまでは、黒字決算で、アメリカ海軍機が襲来して。赤字になってしまったと記載されていました。
??
どういうことですか?
徴用工では作業を進める事が出来ず、職工を呼んで人件費をオーバーしたのでしょう。違うところですが、宇品の造船所の徴用工の食堂では。一食当たり、今のレートで240円から300円を取ってました。
周南緑地には明治時代に創設された徳山海軍練炭製造所を起源に徳山第三海軍燃料廠及びタンク群が存在していました。動画にもある様に徳山湾の粭島沖に大和を主力とした第二艦隊が沖縄突入直前に給油で停泊しているところを米偵察機に撮影されています(映画この世界の片隅にに空撮シーンあり)
徳山市街地を含め米軍による空爆を受けた旧第三海軍燃料廠及び大浦地区のタンク群跡には動画にもある様に戦後出光興産が進出し、他のコンビナート企業と力を合わせて徳山の石油精製と石油化学コンビナートの中核として日本国の復興と発展反映に微力ながら貢献してきた歴史があり、出光興産徳山事業所及び大浦地区には今でも慰霊碑や爆撃により損壊したトンネルが残っているそうです。
今日の地球温暖化対策によるカーボンニュートラルとCNXに対応すべくコンビナート各社が既存の常識に囚われず様々な新規事業を模索し活動を進めているそうですが、今後も先の大戦から紡いできたエネルギーを生み出す街として発展していって貰いたいと思います。
もっと厳重に防空しとけよ
格好の標的になるに決まってるのに
上空から見てタンクの形状がここまで見事に露呈してしまっていては地下に秘匿していた意味がないように思えてしまいますね。
日本側も上空から見ることはしていたでしょうし、これで問題ないという認識だったのでしょうかね。
建設段階ではまさか本土上空を自由に偵察機に侵入されるとは思っていなかったのか。
防衛省の施設にするべき
石油備蓄基地にしたほうがいいんじゃないの
今や緑地公園は野犬の住処になってる