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ありがとうございました。ずっとモヤモヤしていたんですよく分からない事件、物語だなと本当にありがとうございます。
大変ためになる御話ありがとうございました。赤穂浪士の演劇でどうにも腑に落ちないところが今回のご説明で納得しました。続きも楽しみにしております。
小名木先生ありがとうございます。今回のお話は聴いていて涙がとまりませんでした、この様な深い真実があったとは!内匠頭のご皇室への思い、そして家来に対する思いの結果だったのですね。
ウイキペディアによると、山鹿流陣太鼓は劇の作り話で実際はありませんでした。山鹿素行は吉良上野介ととても仲が良く一緒に旅したりしたことが記されています。赤穂市史には、山鹿素行が浅野、大石、藩士らに教育は行っていないとなってます。
最高です!本当の歴史を学ぶ度に「日本てなんてカッコいい❗️」と叫びたくなります🙇♀️
とまたゎや~わや~しあかか
もし浅野が我慢して抜刀しなかったら歴史が変わったと思います❗
赤穂の人達はこの話を知っているのでしょうか。知ったらきっと赤穂の殿様に誇りを持ちますよね。小名木先生には是非テレビでお話いただきたいところです。
赤穂の近くに知人が居ますが知らないのではないかなぁ⁉︎
テレビは小名木さんをよびませんよ、きっと😡💢❌‼️
👏👏👏👏👏ありがとう御座いました。素晴らしい講談を聞かせて頂き思わず拍手です。真実を知ると今まで以上に日本の歴史は素晴らしくドラマチックでした。引き続き楽しみにしております。
楽しく興味深くききいってしまいましたありがとうございます‼️
初めてお聞きしました、今まで色々な説を聞きました、正論を聞いた思いです 有り難う御座いました、
一昨日の3/13、大石神社と花岳寺に参詣しました。義士たちの遺品ひとつひとつ静かな迫力がありました。ざっくり赤穂浪士の話を知っているつもりでしたが、小名木先生の講義でより深く理解ができました。有難うございます。
勅使の接待役に関して、室町時代からの伝統であった事がとても勉強になりました。
素晴らしい動画ですね👍感動しました。まさに『日本をカッコよく❗️』のテーマそのものだと思います。大変勉強になりました🙇
いつも日本人の真実の歴史を解説してくださる小名木先生のお話には魂が打ち震えます。涙が出ます。義務教育に取り入れて貰えればどんなに子供たちの心の糧になることか。
赤穂浪士で蕎麦屋といえば、微かな記憶ですが、俵星玄蕃。今回小名木先生の見事な語り口調に、往年の三波春夫さんの名調子を思い出しました。ありがとうございました。赤穂浪士の物語を通して世の表と裏を後世に語り継いだ日本の庶民は立派ですね。現代は何時でも誰でも多様な意見、解釈を社会で共有できますが、それは多様な意見にアクセスできる媒体があってこそ。世の中の価値観が一部の国家的思想やメディアを通してある方向へ傾向しつつあるようにも感じます。その価値観が100年後に本当に通用するかなんて誰にもわかりません。UA-camさんには後世まで真に多様な言論を守るプラットフォームであり続けてほしいです。
俵星玄蕃→昨日の時代劇専門チャンネルの忠臣蔵でこの人が出ました
そばもんでやってましたな蕎麦食ったかは不明だけどと
忠臣蔵で今までややすっきりしなかった部分が晴れた思いがしました!演劇では、いじめる側、いじめられる側、とやや民衆受けする設定ですが、実際はもっと深いのですね。知る事が出来て良かったです。ありがとうございました!
何時もありがたいお話しありがとうございます。浅野内匠頭の気持ちを知る事ができました。
本当の感動の極みでございます。ありがとうございました。
吉良上野介は殺されなくてはならなかったのか?松の廊下で本当に私怨は無かったのか? 知識が簡単に手に入る今現在、若造が目上に食ってかかるのを見るたびかなしくなる。知識は必要だが、若造がそれを相手(吉良)に強要するのははたしていいことだったのだろうか?吉良上野介は幕府から認められた作法指南役…不憫でなりません。
席次が発端とは目から鱗、長年の謎が解けすっきりしました。これは浅野内匠頭の名誉回復につながる広く世に知られるべき内容ですね。綱吉の100年後の約束にも感動しました。大変興味深い講義をありがとうございました!
やはり今の日本のテレビ局は外国資本で成り立っているから年末に忠臣蔵をやらなくなったんでしょうね。
この度は、席次が事の発端で有ったとの解説に、目からウロコでありました。山鹿素行先生と浅野家三代の名誉と赤穂浪士の方々の名誉を回復して頂きまして、、心からありがたく感謝申し上げます。山鹿素行生誕の地〜会津の地より、いつも拝聴致しております。益々のご活躍をご祈念申し上げます。合掌礼拝🙏🙏🙏
確かに学校でも、ドラマでも、沢山の歴史学者からも、浅野内匠頭長矩の言い掛かり説、乱心説、被害妄想説など、的外れな説が語られて来ました、、戦乱から泰平の世を迎えて武断政治から文治政治に変遷した元禄泰平の頃、赤穂浪士達が命を掛けて守りたかった【武士の一分❗】【やむにやまれぬ士道の誇り❗】を貫いた、藩学の教え〜山鹿素行の【古学思想】と【山鹿兵学】の実戦によって、、私心をこえ、尊皇への畏敬の念を貫いた、赤穂の武士道精神は、他藩もうらやむほどの、すさまじい【もののふ集団】ですね🙏🙏🙏幕府は、この山鹿思想を危惧し、赤穂へ素行を流罪とした訳ですね、、、
明治、郡長政殿を受け入れ、切腹させた豊前国豊津高校です。会津尊敬しています。
@@RT-qq3jj 郡長正(満14歳)は、己の弱さを恥て命よりも大切な事の為に、、士道を貫き腹を斬り自刃した人物、、会津藩の教えの中に【ならぬ事はならぬもので有ります】(=幼児訓・什の掟)武家の子供達は、幼少より自分をいましめる為、【什の掟】(じゅうのおきて)を徹底的に教えこまれました。封建時代の教えなので、、狭い意味でとらえると、【ダメな事はダメなのだ】大変に窮屈な理屈にはめてしまう教えであり、人材を救えないと言う意味で、当時の朱子学の限界でも有るわけです。朱子学では、人は救えない!反対に、日本的陽明学(=藤樹学)は朱子学の限界を超え、命を活かす為に、心を磨き、世の中の為に役に立つ生き方を追求する学問で、会津藩にあっても藩校日新館の教授者に、藤樹学徒が採用され、民間でも藤樹学がひろまっていました。江戸時代初期、初代会津藩主保科正之公は朱子学の最右翼である山崎闇斎を教授に招き、、徳川家守護の為の朱子学を幕末の戊辰戦争に至るまで徹底的に実践して来た雄藩なのですが、、江戸時代中頃になると、藩校では陽明学(藤樹学)や天文学、医学、水練、など最先端の学問を学んだおりました。江戸時代中頃に、藤樹学の最北端は会津喜多方地方で、【北方藤樹学】が盛んに広まり、1000人を超える程の学徒の規模であった様です。
今では時代劇は全滅してしまいました。昔は水戸黄門、暴れん坊将軍、銭形平次、大岡越前等々沢山放送されていたのに。少し前の記事で驚きましたが、最近の子供達は忠臣蔵を知らないのだそうです。昔は年末に必ず放送されていた忠臣蔵もなくなってしまいました。そのうち、日本に昔サムライがいたことを知らない子供達が誕生して来るのではないかと本気で危惧しています。今後も老若男女が熱狂する時代劇・歴史ドラマを沢山放送して欲しいものです。~ ~ ~少し前にネット記事を読んで驚きましたが、ポーランド海軍では武士道と忠臣蔵が重要な教育プログラムとして採用されているそうです。本家本元の日本で、皆が忘れ去ろうとしているのは悲しいお話です。
赤穂浪士が吉良に討ち入りしたのは吉良への憎しみの感情ではないのですか?朝廷に対する想いを訴えたいというだけで四十七士が討ち入りをしたとは考え難いです。
武士ましては大名が江戸城下で事件を起こす事に違和感がありましたのでスッキリしました。更に勅使の席次の変化まで教えていただき本当にありがとうございました。ますます日本人は立派だと感じます。学校の歴史教育のなんと無残奈な事と改めて思います。
忠臣蔵の話って好きでは無かったんですが、今回の動画を拝見して見方が180度変わりました。素晴らしい動画、ありがとうございました。
忠臣蔵といえば年末でよくテレビでやるの人気歴史物でストーリーはお決まりでその時の大物俳優の演技を楽しみに父親が見ているのをなんとなく横からみていました。単なる主君が理不尽な目にあってその仇討ちではない。今回のお話で大変勉強になりありがとうございました。それぞれの立場で自分を優先しないで公の事国民のことを考える政治。そのころ商人も自分の利益だけ求めない商人道もあったし階級制度はあったとは言えそれぞれの立場で公のこと民のことも考えて行動する民度の高さに、そのころ外国列強諸国の支配層と奴隷の関係を思うと日本は豪華な暮らしはしてなかったですが日本は民度の高さでカッコ良かったですね。
忠臣蔵の真実、ありがとうございます。どうも忠臣蔵とは何の物語か分からなかったのですが、こういうことだったのですね。100年後の約束を果たされた将軍家にも感動しました。
先生、『花さそう』じゃなくて『風さそう』です。
実際の松の廊下は日光を取り入れる窓はありましたが、事件が起こった時間帯は人の識別も困難なぐらい薄暗い状況だったようです。その状況で、狙って額に傷をつけるというのは無理だったかもしれませんね。あと、討ち入り時の太鼓も、実際は太鼓は叩かれていないという説があり、門を打ち破る為に丸太で門を突いた音を、太鼓と勘違いして伝えられたという話もあります。
元々歴史好きなのですが、小名木先生の講義は分かりやすく目から鱗なものばかりです。天皇を大切にする日本人の魂が、密かに赤穂藩に受け継がれていたことに感動しました。それが後の尊皇攘夷に繋がっていくのでしょう...先生の講義に目が離せません!
立派な方々のお話し、ありがとうございます。
なるほど〜浅野内匠頭の暴挙とも思える行動を誤解していました、今日までも語り継がれ芝居になる程の魅力が何故有るのかと思っていました、素晴らしい殿様であった事に間違いありませんね、勉強になりました。
お9
浪曲広沢虎三
なぜ、内匠頭が上野介に切りかかったかは、今でも分からない、というのが定説でしょう。将軍と勅使の席次の問題という小名木先生のお説は大変ユニークですが、証拠がありますか。赤穂浪士はたくさん手紙を書き残していますが、一行でもそんなこと書いていますか。それが裏の話、ということかもしれませんが、裏付けがなければ単なる想像ですよね。想像ならなんだって言えます。事実認識も間違っています。接待役は大名であって、上野介は接待役ではない。指南役です。片岡源五右衛門が切腹の直前に廊下で内匠頭に会ったというのは、作り話です。「風さそう」の辞世の句も多門伝八郎覚書にしか出てこないので、多門の創作だとするのが定説です。
このセンセイの話も講談レベルの話。
小名木先生の解釈は素晴らしいと思いますが。内匠頭は「強迫性障害」だったという医者の意見もあります。あの時代、家臣の意見に突き上げられて、という点については疑問が残ります。
浅野内匠頭の辞世の句花さそう ❌風さそう ⭕ ですよ。by 赤ペン先生
なるほどです。今までで一番スッキリした説明でした。素晴らしい推論です。
浅野家に討ち入りする時に大石が山鹿流の太鼓を叩いたと言っているが、正に討ち入りしようとするのにこちらの行動を知らせる者がいるでしょうか?現在では討ち入りの時は太鼓は叩かなかったと言われれてますが?(討ち入りを感ずかれれば急襲にはならないのでは)
赤穂市在住の者として、本当に素晴らしい有難い講話内容でした。このような史実について、赤穂市民全てが理解はされていない現状であります。泉秀樹さんという方の、天皇の四十七士という著書があるのですが、このような内容が書かれており、松の廊下での刃傷の事を知り、当時の東山天皇は、手を叩いて喜んだと書かれております。最近、テレビで忠臣蔵が放送されない理由は、東大教授などで構成される、強大な権力を持つ中央義士会という赤穂義士の研究機関が、物語としての忠臣蔵に対して、きちんと史実を伝えろ!と執拗なクレームを出す為、スポンサーが嫌がって、忠臣蔵を取り上げ無くなったといわれております。映画 決算忠臣蔵は、パロディだからだと、中央義士会からおとがめ無しであったと。いずれにせよ、年末に義士の番組が放送されない事を寂しく思います。
中央義士会のウェブには忠義の心などを軽視する風潮で視聴率が低いので放送されないのコメントですが、そうなんですか?中村吉右衛門様ご逝去で放送されるかもです。
BSで放映されてましたよ。大川橋蔵や中村錦之助が出演していて懐かしく思い、今の若僧とは比べ物に成らぬ迫力でした。東映映画大ファンだった👏🎌
大変勉強になりました。テレビは真実を語らない。語れない。後世に残して行かねばならないと感じました。ありがとうございます。
面白かった。こういう話をちゃんと引き継いでいかないと。建前と本音の折り合いを付けた江戸幕府、建前と本音の間で義勇を貫いた赤穂浪士に賞賛を送り語り継いだ江戸の人々。現代人よりよほどリテラシー高かったと思う。
こういう気風が後の勝ち目のない戦争の一因
ホント小名木さんの解説は面白くて聞き入っちゃう 歴史に詳しくなって自分もカッコよくなっちゃう(自惚れ)
いい話でした。やはり日本は素晴らしい。
★★★ 浅野内匠頭の辞世の句は、【 風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん 】です。弘法も筆の誤り、「花さそふ」では御座いませんので、ご訂正下さい・・・・
ですよね。これ見てから文献あさりましたけど、「花さそふ」と書いている文献はなかったです。
感動致しました🙏❇️私も毎年、年末に放送される「忠臣蔵」楽しみにして、見ながら涙していた者として、その様な大切な日本人の持つ尊い精神性等の語り継がれるべき歴史が、無くなって行く事に、非常に無念の思いを抱いております🙏❇️❇️ありがとうございました🙏❇️
足利義満が日本国王と称したのは、明国への朝貢貿易のためであり、その時の国内での作法が徳川幕府に引き継がれ、忠臣蔵の事件の原因であるとの由、良く理解できました。
幕府としても自ら席次を入れ替えるきっかけもなく内実としては困っていたのでは、と思いました。結果として命がけで変えるきっかけを作ってくれた赤穂藩に感謝したのかもしれません。赤穂藩も幕府も素晴らしい。政とは確固たる信念をもち。命がけで行うとしかるべき結果となるんでしょう。素晴らしいお話をありがとうございます。
お話としては面白く、小名木善行氏の話術も講談師並の上手さだが、内容には明かな間違いも多く、「真実」として信用する気にはとてもなれない。・山鹿素行を浅野家の家臣として迎えたのは、浅野内匠頭(長矩)の父(長友)ではなく祖父(長直)で、その期間は1652年〜1660年。・その後、素行が朱子学批判により播磨国赤穂藩お預かりとなったのは1665年〜1675年で、父(長友)の治世から。・内匠頭(長矩)は1667年に江戸で生まれ育ち、1675年に家督を継ぎ藩主となったが、所領の赤穂に初めて入ったのは1683年で、従って赤穂で素行に会ったことは無い。・大石良雄ら家臣が素行から山鹿流を学んだという史実も無い。・逆に、山鹿素行と吉良義央(上野介)が昵懇の間柄だったことは、山鹿素行日記の記述から紛れもない事実。・「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作。・内匠頭の辞世の句は「花さそう・・・」ではなく「風さそう・・・」であるが、この句自体が後世の創作という説も根強い。
この人の動画はどこまでが推測でどこまでが記録に基づいたものなのかわからないので、いまいち信用できない。出典を出してほしい。
いつも歴史を考える大切さを学ばせて戴いております。赤穂浪士は何故、江戸幕府鉄壁の麹町の厳重な密偵(隠密網)を欺き潜伏できたのか。どの様にして目立つ多人数で討ち入りを果たせたのか。何故、吉良邸は討ち入り前に城郭内から寂しい本所へ転居させられていたのか。切腹を命ぜられた浅野と赤穂四十七士は、何故江戸幕府の重要な泉岳寺へ埋葬されたのか。その後、高家である吉良家が何故衰退したのか。江戸幕府の思惑たるや恐るべしです。
とても勉強になりました🤗ありがとうございます😊
後世に語り継いでもらいたい素晴らしいお話を有難うございます。各所に日本人の魂が感じられて感動しました。金銭力100%で世界支配を遂行したい連中にとっては日本人のこの心こそが障害でありましょう。日本が狙われる理由もわかる気がします。
今までは漫然と赤穂浪士を見ていましたが、討ち入りの背後関係がよく分かり、大変ためになる講座でした。
この世との惜別の情を歌った浅野内匠頭の辞世の句を知った忠義の心の熱い家臣たちは、決意するものがあったろうなぁと今の私でも感じる。
初めて知りました。奥が深い話をありがとうございます。
今まで忠臣蔵に関するいくつもの考察などを聞いてきましたが、その度に「なるほど。」と納得するのですが、どこか少し違和感を感じていました。しかし今回聞いた講義で今までと比べ物にならないくらい、すっきりと納得できました。浅野内匠頭が愚かな大名でもなく、吉良上野介が意地の悪い権威を笠に着た人物でもなく、お互いが信じる思想によって不幸にも落命する事になってしまったとこが良くわかりました。特に吉良上野介に関しては恨みを買って切りつけられるような自分物に思えなかったので、事件の原因がわかってすっきりしました。現代でも吉良上野介の領地だった場所では名君だったと言われているようです。一番、今回聞いて驚いたのが事件を受けての幕府の対応です。100年後という日本人にしてはとても長い時間的スパンではありますが、席次を正規に戻すと約束しそれを実行したことです。この律義さこそ「日本人」なのだな、と強く思いました。今回、浅野内匠頭、吉良上野介、二人の生真面目さと不器用さを知ったとき涙が出てきました。そして二人に敬意と哀惜を感じました。また幕府も統治上の苦難と武士としての苦渋があったことも想像に難くありませんでした。幕府としても決して朝廷(天皇)を軽んじているわけでもなく、臣下としての分はわきまえていたと思います。今回の講義で三者三様の立場があったことに胸が痛みました。
凄い…。凄すぎます。知りませんでした。全てが腑に落ちました。貴重なお話ありがとうございます。ぜひ子供達にも伝えたい。
全く興味がなかった忠臣蔵について調べなくてはならず、この動画に辿り着きました。大変分かりやすく、且つ今までのイメージを覆していただけて、一気に忠臣蔵に興味を持てました。感謝いたします。
楽しい授業は聞き入ってしまう。話しを聞いていると「それで」「それから」という気持ちを感じました。話しの中に笑い有り涙有りでこの授業内容を誰かとディスカッションしたくなりました。ありがとうございます。
なるほど、腑に落ちる説明だ。幕府が流布した浅野内匠頭の乱心説には説得力が無かったのでようやくカラクリがわかった。
多くの人が命を亡くした歴史的なことだけど、命が軽い時代ではなかったと思う命と同じくらい大切なものが多かった時代
わかりやすい動画をありがとうございます!浅野内匠頭や赤穂浪士たちの思いに感動しました。やっぱり忠臣蔵は良いですね!
諸説有り。(エグスプロージョン😊)殿中松の廊下刃傷事件は歴史学者によって、色々な説が唱えられており、断定されておりません。それから、山鹿流陣太鼓は打ってません。討ち入りを盛り上げる為のフィクションです。
「花さそう~」でしたっけ?「風さそう~」と認識していましたが……。ともあれ、長年の謎が解けました。なぜ刃傷に及んだのか、なぜ討ち入りをしたのか、どう考えても納得できませんでした。素晴らしい動画、ありがとうございました。
「風さそう~」が正しいですね。もっともその辞世の句も本人作ではないと言う話もありますが
「何故100年後?」と思ったけれど、調べもせずに考えてみました。当時の人が、人生50年として、単純にその時代に居合わせた人が亡くなるのが50年後。居合わせた人から直接話を聞けた人が亡くなるのが、更に50年。合わせて100年。あながち間違った解釈には成っていないのではないかと、考えた次第です。
そうですね!!風誘う、花よりも尚我は復た、春の名残をいかにとやせん!!だろうと思います!この解説をしている人も間違いを気付かない!
なぜ揉めたかなぜここまでに至ったか、今までで一番すっと納得出来ました。耳タコの話のはずなのに、どのポイントを押さえて説明すれば良いかで随分理解が変わることをしみじみ感じました。ありがとうございます。
忠臣蔵は 大好きで12月になると 楽しみにしていました。奥の深い 史実を お聴きし感銘し 胸ドキドキ💖しました。有り難うございました。🙇
普段、気にも止めていなかった赤穂浪士の話の裏側、というか真実を聞かせて頂いて大変勉強になりました。しかし、今までの如く勧善懲悪のストーリーならば劇が終わって、あースッキリ、面白かった!で済んでいたものが、今回の話を聞いてしまった後では、誰も浮かばれない、何ともやり切れぬ話であるなぁとしか言いようがありません。それぞれがそれぞれの立場において実直に忠義を通した果ての顛末劇。吉良も災難、赤穂藩も災難。まあ、これでは劇には出来ませぬなぁ・・
大変興味深い内容でした。忠臣蔵は奥がふかいですねそしてこの内容に触れて、京都守護職を受け入れ戊辰戦争で敗北を喫した会津藩そして、その決断をした主君 松平容保を思い出しました。そこにもいろいろ隠れた真実があるんでしょうね
目から鱗です。二度おいしい、の一度目だけが世に出回ってしまったのですね。吉良系、浅野家、そして徳川幕府に対する考えがガラッと変わりました。日本史は奥が深い。いつも素晴らしい動画をありがとうございます!
今まで様々な「忠臣蔵」をドラマや映画、考察などで見てきましたが、山鹿素行のことと、勅使と将軍の席次について語ったものは無かったと思います。一番のキモなのに―――ここを語らずして何の忠臣蔵でしょう~~❕❕かくして忠臣蔵は天晴な仇討ちものとして語り継がれ、それでも十分、武士道を感じられて胸のすく物語なのですが語りつくされた感がしていました。小名木先生の説に感激です!!本当に目から鱗です。それにしても山鹿素行様の素晴らしい事。そして赤穂の塩は美味しい😂赤穂と浅野家がより好きになりました。席次の件を取り入れた物語を作って欲しいですね―――浅野内匠頭が、ただのトチ狂ったお殿様ではなかった😭。。。勉強になりました🙏
今まで聞いたものは、⓵水戸藩絡み②内匠頭素行悪③塩の利権、だったけど④番目は説得力ありますね。山鹿流を貫いた先の「以って瞑すべし」なのですね。
「山鹿流陣太鼓」 が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である?らしい。小名木さんどうなの?
なんて素晴らしい動画でしょうか。素晴らしすぎて私の貧弱な語彙では言い表せない。。ありがとうございます。
講談師見てきたような○○を言い!まさにその通りだわな!
@@shoichishirai7671 嘘であってもそこに真実が含まれているならいい。紫式部が源氏物語に書いている。
吉良町民の私は、小名木先生と同じ考えをしておりました。しかし、本当の真実をはなしても信じて貰えなく悔しい思いをしていました。このような話をUA-camでして頂くことで、誤認が少しでも無くなる事を切に願います。ありがとうございました。
私は忠臣蔵とは江戸時代の創作であろうと考えていましたが、詳しく解説して頂き良く理解することが出来ました、誠に有難うございました。
とても勉強になりました。目から鱗です。学校の歴史教育が如何に出鱈目だったか、テレビの歴史ドラマに洗脳されて生きてきた自分を変えてくださった。ねず先生にいつも感謝しております。今ではテレビは観ない新聞は要らない。おむすび大学の大ファンになってしまってます😅
芝居の時代を鎌倉時代に変えて芝居をしてる。
刃傷の場は、松の廊下ではなく、柳の間であったはずです。
この事件の詳細を聞くと、日本人の賢さ、思慮深さ等々が良く分かります。
「当時の裁きは(ケンカなら)ケンカ両成敗が当たり前なのに、沙汰は浅野家だけで、吉良家はお咎めなし」「山鹿流兵法“一向二裏”」「吉良の屋敷替え(幕府の謎の譲歩)」「上杉家の謎の暗黙の不干渉」「実際に忠臣蔵が評価されたのは明治政府から」など、断片的には色々知識はありましたがこの動画ですべての点が線で結ばれました。これぞ正しく“むすび”大学ですねw
殿中での刃傷沙汰は歴史上9件有ったけど全て加害者が罰せられて被害者はお咎め無しですよ?喧嘩両成敗が当たり前は何処情報ですか?
う~ん、諸説あり、ですね。いかに勅使・将軍の席次が重要問題であっても城中で高家を殺害するほどの理由にはならないと思います。席次は足利時代からの踏襲であればなおさらで、浅野家という小さな大名がとやかくいう問題(ましてや、吉良が留守の間に踏襲慣例を破って席次を変えてしまったのであればなおさら、内匠頭の手落ちでしょう)ではないでしょう。また、刃傷は切腹、藩取りつぶしになる可能性ある(前例がある)ことは内匠頭も知っていただろうし、何百もの家臣が路頭に迷うことになるわけで、藩主という責任ある立場にある人間の行動ではないですね。相手を殺せなかった状況を見ても、私はやっぱり、それまでいろいろ吉良との間に苦難苦労があって、瞬間的にかっときた行動と理解しています。山鹿素行が赤穂藩御預かりとなった時は内匠頭はまだ生まれていませんが、大石内蔵助らは薫陶を受けたかもしれません。また素行が幕府より許されて江戸に戻ってから内匠頭(その時8歳)は素行に教えを受けたのかもしれませんが、まだ若輩の身、思想家ぶれするほどの年齢ではないと思いますが、。当時はまだ、尊王ということについてそれほどその思想は世の中に広まっていないと思いますし、そういう世の状況の中で席次問題をうんぬんしても相手をしかも城中で殺傷するほどの問題だったとは私には思えません。いづれにしてもまだまだ詳細不明です。
後期高齢者で有りながら、裏の話、二度目の味わいを此の期に及んで堪能致しました。過日、入試科目から歴史が外されることをどれ程願った事か・・。退職後、UA-camから掘り下げた史実を学ぶにつれ、歴史が如何に面白く人生の導きにさえ為り得ると気付く恥ずかしさ。週刊誌の記述にさえ劣るオールドメディアは朝ドラと天気予報に限定し、午前中を動画からの情報収集に嵌って居ります。深い話を今後とも宜しくお願い致します。
途中で挟んでいただいた宿場はきっと妻籠宿と思います。たまたまですが故郷にハッとなりこちらに書いてしまいました。お許しください。小さな頃からこの時期の赤穂浪士を楽しみに見てきました。何て自分勝手な殿様だろうと思っていましたが、大石以下赤穂浪士が本当に果たしたかった気持ち理解できて嬉しいです。秀吉に弾圧されても、意志を貫いた播磨武士の姿ですね。子ども心に熱く成ったのを思い出させていただきました。有り難うございます。
今の国会議員に聞いてもらいたいお話です。吉良のお殿様も、赤穂のお殿様とその家臣、大君綱吉公も御立派です。
ほんとうにかっこよかったです。笑いあり、涙あり、そして最後に感動あり。
皆様こんばんは~、桜田門通り沿いの元の赤羽接遇所「徳川家屋敷」を昭和に入り購入した者です、四十七士の方々は、私の家の前を切腹する前に一往復半されています、色々と深い話を有り難う御座います。
すごい、幕府の姿勢も感動した。現代の日本人からは考えも及ばぬほど高潔な武士。まさに武士道。確かに私情で刀を抜いて、失敗するなんてあり得ない。そんな状態で部下が討ち入りするなんてあり得ない。
赤穂浪士の話は、ほんと面白い。日本人素晴らしいです。
その素晴らしい日本文化と日本人を今、自民党は全力で潰しにかかっている。出世する政治家は全部売国奴。
浅野内匠頭の母方、叔父の内藤忠勝が増上寺で刃傷に及んでいますね。切れやすい性格は有るかも知れないですね。
赤穂藩の面々も、吉良様も、朝廷も、将軍様も、皆かっこいい。それぞれの立場を大切にしながら、公(おおやけ)を慮り、きちっと筋を通す生き方。そして庶民もそれを知っていながら秩序が保たれるように気をつかっている。日本人って本当に素晴らしい気質を持っているのだなあと感じます。現代の僕らも先人や子孫に恥じぬ様生きていきたいものだと思います☺️
きちんと史実に基づいた筋と理屈が通っていると同時に日本人の琴線に触れる素晴らしい講義を拝聴いたしました。
「おのおの方!」の「長谷川一夫さん」が想い出されています。確か「大映」が作った「赤穂浪士」を映画館で20歳代のころ観て感動したのをよく覚えています。今回の先生のお話になった「裏話」はぜんぜん今でも知らなかったです。「吉良上野介さん」が名君であったことはその後知りました。「面白いお話でした」では「見識に欠ける」ことを今回教えていただきました有り難うごいます。
武士の長い時代の深い思いが詰まっていたんですね。
確かにその筋の説明だと納得できるところ大いに有ります。
昔の日本人の素晴らしさを知って、今の我々日本人がどう目覚めるか、が一番大事ですね。
感動しました、ただこれ本当に真実ならなんで歴史教科書で教えないんですかね。浅野内匠頭が乱心したことになってるのが不憫だ。それに歴史のなかにも結構嘘があるなら、歴史なんていい加減なものだと知っている必要がある。
面白い説ですね。ただ大石は近隣他藩取潰しの時、幕府から城受け取りの役を命じられており、当時の藩取潰しで失業する他藩藩士の悲劇を見ております。藩士も幕府に逆らうリスクは取らないと思います。
お疲れ様です。何時も楽しく拝見して居ります。ホワイトボードに書いて有ります、内匠頭の辞世の句は「花さそふ」で始まるのでは無く「風さそふ」では無かったでしょうか。言い掛かりでは有りません。先生の勘違いかなと思って書きました。お気を悪くしませんよう。
私もそう思います
目から鱗の話で凄く面白かったです。忠臣蔵大好きです。
兵庫県出身です。仕事で赤穂市に週一で行きます。勉強になりました。ありがとうございます!
話としては面白い説ですが、やはり五万石の小藩の外様大名が幕府や朝廷の先例を勝手に変更し家臣が殿にそれを半強制するのは無理があるかと思います。
ですね。家臣自らが幕府の印象悪くし失業のリスクを高める意味がわからない。
@@cando4707 今と違い誰でも政治に関与いたり意見具申ができるわけではありませんから、御三家でさえ幕政に意見できないのに本当にしようとするのは、藩全体が狂人でしょう。
@@蒼い月-k1j 家老の大石は備中松山の藩主交代の手伝いを幕府から命じられ城受取りの任についた事があります。赤穂藩士も当然参加してますので、藩取り潰しで無禄になった藩士の境遇は見てますからね。それでも幕府に勤王を意見する藩は狂信的でしょう。ましてや広島に浅野本家もありますからまずあり得ませんよ。
峰打ちは嘘ですね。峰打ち自体がドラマの世界でしかありませんから、峰打ちなら士道不覚悟どころか刀の作法さえ知らないことになってしまいますね。取り押さえた人の証言では2回切り付けて3回目に取り押さえられてます。
上杉鷹山も吉良上野介の子孫ですね。歴史って深いな〜
小名木先生の動画はいつも楽しみにしております。私の歴史の勉強は、この動画です。が。今回は、少し引っかかることがありましたので、、、Q:なぜ?赤穂浪士は、吉良義央を切らねばならないのか?仇討ちならば、吟味もせずに「即日切腹」を申し付けた者への復讐=将軍(?)とか老中柳沢とか、誰か、ではないのかなあー。この成り行きなら、処分を決めた人だと思います。(井伊直弼みたく)浪士の実力がなかったので、処分のない吉良に八つ当たり?また、赤穂浪士が起こしたこと=討ち入りをして義央の首をとること「仇討ち」ではなく、殿(長矩)がしようとした、慣習を変える「席次を改めることにこだわるための行動」例えば、将軍、老中など幕閣へ直訴をするなどでないと、やっぱり、家来が「殿の切腹・お取り潰しの恨み」で、吉良に討ち入りという単純な理由にしか見えない気がします。殿の行動は、吉良を利用した行動(沙汰)であって、吉良に対してうっぷんを晴らそうと刀を抜いた訳ではないことであるならば、家臣たちには殿の行動が解からなかったということなのか??Q:殿の行動どおりならば、「吉良殺害」ではなく「尊王を強く訴える」「殿の席次は正しい運動(行動)」「なぜ殿の話を聞かず切腹を申し付けた!中朝事実を否定する幕府は、間違っているー」とか、浪士の具体的な行動は、なんとも将軍・老中への直訴しか思いつかないのですが、吉良への討ち入りではない気がします。しかし、結果的には殿の席次を100年後に採用すると綱吉が言ったという。何か筋が通っていないごたごたがあって、結果オーライなのが、江戸時代の武士の世界なのか。という印象。・吉良上野介は、何とも可哀そう、当時から現在まで。
大変面白い見解ですね😃説得力が有りますね。
いや〜小名木さんがいちばんカッコいいな!
ありがとうございました。
ずっとモヤモヤしていたんです
よく分からない事件、物語だなと
本当にありがとうございます。
大変ためになる御話ありがとうございました。赤穂浪士の演劇でどうにも腑に落ちないところが今回のご説明で納得しました。続きも楽しみにしております。
小名木先生ありがとうございます。今回のお話は聴いていて涙がとまりませんでした、この様な深い真実があったとは!内匠頭のご皇室への思い、そして家来に対する思いの結果だったのですね。
ウイキペディアによると、山鹿流陣太鼓は劇の作り話で実際はありませんでした。
山鹿素行は吉良上野介ととても仲が良く一緒に旅したりしたことが記されています。
赤穂市史には、山鹿素行が浅野、大石、藩士らに教育は行っていないとなってます。
最高です!本当の歴史を学ぶ度に「日本てなんてカッコいい❗️」と叫びたくなります🙇♀️
とまたゎや~わや~しあかか
もし浅野が我慢して抜刀しなかったら歴史が変わったと思います❗
赤穂の人達はこの話を知っているのでしょうか。知ったらきっと赤穂の殿様に誇りを持ちますよね。
小名木先生には是非テレビでお話いただきたいところです。
赤穂の近くに知人が居ますが知らないのではないかなぁ⁉︎
テレビは小名木さんをよびませんよ、きっと😡💢❌‼️
👏👏👏👏👏ありがとう御座いました。
素晴らしい講談を聞かせて頂き思わず拍手です。
真実を知ると今まで以上に日本の歴史は素晴らしくドラマチックでした。
引き続き楽しみにしております。
楽しく興味深くききいってしまいました
ありがとうございます‼️
初めてお聞きしました、今まで色々な説を聞きました、正論を聞いた思いです 有り難う御座いました、
一昨日の3/13、大石神社と花岳寺に参詣しました。義士たちの遺品ひとつひとつ静かな迫力がありました。ざっくり赤穂浪士の話を知っているつもりでしたが、小名木先生の講義でより深く理解ができました。有難うございます。
勅使の接待役に関して、室町時代からの伝統であった事がとても勉強になりました。
素晴らしい動画ですね👍
感動しました。
まさに『日本をカッコよく❗️』のテーマそのものだと思います。大変勉強になりました🙇
いつも日本人の真実の歴史を解説してくださる小名木先生のお話には魂が打ち震えます。涙が出ます。義務教育に取り入れて貰えればどんなに子供たちの心の糧になることか。
赤穂浪士で蕎麦屋といえば、微かな記憶ですが、俵星玄蕃。今回小名木先生の見事な語り口調に、往年の三波春夫さんの名調子を思い出しました。ありがとうございました。
赤穂浪士の物語を通して世の表と裏を後世に語り継いだ日本の庶民は立派ですね。現代は何時でも誰でも多様な意見、解釈を社会で共有できますが、それは多様な意見にアクセスできる媒体があってこそ。世の中の価値観が一部の国家的思想やメディアを通してある方向へ傾向しつつあるようにも感じます。その価値観が100年後に本当に通用するかなんて誰にもわかりません。UA-camさんには後世まで真に多様な言論を守るプラットフォームであり続けてほしいです。
俵星玄蕃→昨日の時代劇専門チャンネルの忠臣蔵でこの人が出ました
そばもんでやってましたな
蕎麦食ったかは不明だけどと
忠臣蔵で今までややすっきりしなかった部分が晴れた思いがしました!
演劇では、いじめる側、いじめられる側、とやや民衆受けする設定ですが、実際はもっと深いのですね。
知る事が出来て良かったです。ありがとうございました!
何時もありがたいお話しありがとうございます。
浅野内匠頭の気持ちを知る事ができました。
本当の感動の極みでございます。ありがとうございました。
吉良上野介は殺されなくてはならなかったのか?
松の廊下で本当に私怨は無かったのか?
知識が簡単に手に入る今現在、若造が目上に食ってかかるのを見るたびかなしくなる。
知識は必要だが、若造がそれを相手(吉良)に強要するのははたしていいことだったのだろうか?
吉良上野介は幕府から認められた作法指南役…不憫でなりません。
席次が発端とは目から鱗、長年の謎が解けすっきりしました。これは浅野内匠頭の名誉回復につながる広く世に知られるべき内容ですね。
綱吉の100年後の約束にも感動しました。大変興味深い講義をありがとうございました!
やはり今の日本のテレビ局は外国資本で成り立っているから年末に忠臣蔵をやらなくなったんでしょうね。
この度は、席次が事の発端で有ったとの解説に、目からウロコでありました。
山鹿素行先生と浅野家三代の名誉と赤穂浪士の方々の名誉を回復して頂きまして、、心からありがたく感謝申し上げます。
山鹿素行生誕の地〜会津の地より、いつも拝聴致しております。
益々のご活躍をご祈念申し上げます。
合掌礼拝🙏🙏🙏
確かに学校でも、ドラマでも、沢山の歴史学者からも、浅野内匠頭長矩の言い掛かり説、乱心説、被害妄想説など、的外れな説が語られて来ました、、
戦乱から泰平の世を迎えて武断政治から文治政治に変遷した元禄泰平の頃、赤穂浪士達が命を掛けて守りたかった【武士の一分❗】【やむにやまれぬ士道の誇り❗】を貫いた、藩学の教え〜山鹿素行の【古学思想】と【山鹿兵学】の実戦によって、、私心をこえ、尊皇への畏敬の念を貫いた、赤穂の武士道精神は、他藩もうらやむほどの、すさまじい【もののふ集団】ですね🙏🙏🙏
幕府は、この山鹿思想を危惧し、赤穂へ素行を流罪とした訳ですね、、、
明治、郡長政殿を受け入れ、切腹させた豊前国豊津高校です。会津尊敬しています。
@@RT-qq3jj 郡長正(満14歳)は、己の弱さを恥て命よりも大切な事の為に、、士道を貫き腹を斬り自刃した人物、、会津藩の教えの中に【ならぬ事はならぬもので有ります】(=幼児訓・什の掟)
武家の子供達は、幼少より自分をいましめる為、【什の掟】(じゅうのおきて)を徹底的に教えこまれました。
封建時代の教えなので、、狭い意味でとらえると、【ダメな事はダメなのだ】
大変に窮屈な理屈にはめてしまう教えであり、人材を救えないと言う意味で、当時の朱子学の限界でも有るわけです。
朱子学では、人は救えない!
反対に、日本的陽明学(=藤樹学)は朱子学の限界を超え、命を活かす為に、心を磨き、世の中の為に役に立つ生き方を追求する学問で、会津藩にあっても藩校日新館の教授者に、藤樹学徒が採用され、民間でも藤樹学がひろまっていました。
江戸時代初期、初代会津藩主保科正之公は朱子学の最右翼である山崎闇斎を教授に招き、、徳川家守護の為の朱子学を幕末の戊辰戦争に至るまで徹底的に実践して来た雄藩なのですが、、
江戸時代中頃になると、藩校では陽明学(藤樹学)や天文学、医学、水練、など最先端の学問を学んだおりました。
江戸時代中頃に、藤樹学の最北端は会津喜多方地方で、【北方藤樹学】が盛んに広まり、1000人を超える程の学徒の規模であった様です。
今では時代劇は全滅してしまいました。
昔は水戸黄門、暴れん坊将軍、銭形平次、大岡越前等々沢山放送されていたのに。
少し前の記事で驚きましたが、最近の子供達は忠臣蔵を知らないのだそうです。
昔は年末に必ず放送されていた忠臣蔵もなくなってしまいました。
そのうち、日本に昔サムライがいたことを知らない子供達が誕生して来るのではないかと本気で危惧しています。
今後も老若男女が熱狂する時代劇・歴史ドラマを沢山放送して欲しいものです。
~ ~ ~
少し前にネット記事を読んで驚きましたが、ポーランド海軍では武士道と忠臣蔵が重要な教育プログラムとして採用されているそうです。
本家本元の日本で、皆が忘れ去ろうとしているのは悲しいお話です。
赤穂浪士が吉良に討ち入りしたのは吉良への憎しみの感情ではないのですか?
朝廷に対する想いを訴えたいというだけで四十七士が討ち入りをしたとは考え難いです。
武士ましては大名が江戸城下で事件を起こす事に違和感がありましたので
スッキリしました。更に勅使の席次の変化まで教えていただき本当にありがとうございました。
ますます日本人は立派だと感じます。
学校の歴史教育のなんと無残奈な事と改めて思います。
忠臣蔵の話って好きでは無かったんですが、今回の動画を拝見して見方が180度変わりました。
素晴らしい動画、ありがとうございました。
忠臣蔵といえば年末でよくテレビでやるの人気歴史物でストーリーはお決まりでその時の大物俳優の演技を楽しみに父親が見ているのをなんとなく横からみていました。単なる主君が理不尽な目にあってその仇討ちではない。今回のお話で大変勉強になりありがとうございました。それぞれの立場で自分を優先しないで公の事国民のことを考える政治。そのころ商人も自分の利益だけ求めない商人道もあったし階級制度はあったとは言えそれぞれの立場で公のこと民のことも考えて行動する民度の高さに、そのころ外国列強諸国の支配層と奴隷の関係を思うと日本は豪華な暮らしはしてなかったですが日本は民度の高さでカッコ良かったですね。
忠臣蔵の真実、ありがとうございます。どうも忠臣蔵とは何の物語か分からなかったのですが、こういうことだったのですね。100年後の約束を果たされた将軍家にも感動しました。
先生、『花さそう』じゃなくて『風さそう』です。
実際の松の廊下は日光を取り入れる窓はありましたが、事件が起こった時間帯は人の識別も困難なぐらい薄暗い状況だったようです。その状況で、狙って額に傷をつけるというのは無理だったかもしれませんね。
あと、討ち入り時の太鼓も、実際は太鼓は叩かれていないという説があり、門を打ち破る為に丸太で門を突いた音を、太鼓と勘違いして伝えられたという話もあります。
元々歴史好きなのですが、小名木先生の講義は分かりやすく目から鱗なものばかりです。
天皇を大切にする日本人の魂が、密かに赤穂藩に受け継がれていたことに感動しました。
それが後の尊皇攘夷に繋がっていくのでしょう...
先生の講義に目が離せません!
今では時代劇は全滅してしまいました。
昔は水戸黄門、暴れん坊将軍、銭形平次、大岡越前等々沢山放送されていたのに。
少し前の記事で驚きましたが、最近の子供達は忠臣蔵を知らないのだそうです。
昔は年末に必ず放送されていた忠臣蔵もなくなってしまいました。
そのうち、日本に昔サムライがいたことを知らない子供達が誕生して来るのではないかと本気で危惧しています。
今後も老若男女が熱狂する時代劇・歴史ドラマを沢山放送して欲しいものです。
~ ~ ~
少し前にネット記事を読んで驚きましたが、ポーランド海軍では武士道と忠臣蔵が重要な教育プログラムとして採用されているそうです。
本家本元の日本で、皆が忘れ去ろうとしているのは悲しいお話です。
立派な方々のお話し、ありがとうございます。
なるほど〜浅野内匠頭の暴挙とも思える行動を誤解していました、今日までも語り継がれ芝居になる程の魅力が何故有るのかと思っていました、素晴らしい殿様であった事に間違いありませんね、勉強になりました。
お9
浪曲広沢虎三
なぜ、内匠頭が上野介に切りかかったかは、今でも分からない、というのが定説でしょう。将軍と勅使の席次の問題という小名木先生のお説は大変ユニークですが、証拠がありますか。赤穂浪士はたくさん手紙を書き残していますが、一行でもそんなこと書いていますか。それが裏の話、ということかもしれませんが、裏付けがなければ単なる想像ですよね。想像ならなんだって言えます。事実認識も間違っています。接待役は大名であって、上野介は接待役ではない。指南役です。片岡源五右衛門が切腹の直前に廊下で内匠頭に会ったというのは、作り話です。「風さそう」の辞世の句も多門伝八郎覚書にしか出てこないので、多門の創作だとするのが定説です。
このセンセイの話も講談レベルの話。
小名木先生の解釈は素晴らしいと思いますが。内匠頭は「強迫性障害」だったという医者の意見もあります。あの時代、家臣の意見に突き上げられて、という点については疑問が残ります。
浅野内匠頭の辞世の句
花さそう ❌
風さそう ⭕
ですよ。by 赤ペン先生
なるほどです。今までで一番スッキリした説明でした。素晴らしい推論です。
浅野家に討ち入りする時に大石が山鹿流の太鼓を叩いたと言っているが、正に討ち入りしようとするのにこちらの行動を知らせる者がいるでしょうか?
現在では討ち入りの時は太鼓は叩かなかったと言われれてますが?(討ち入りを感ずかれれば急襲にはならないのでは)
赤穂市在住の者として、本当に素晴らしい有難い講話内容でした。
このような史実について、赤穂市民全てが理解はされていない現状であります。
泉秀樹さんという方の、天皇の四十七士という著書があるのですが、このような内容が書かれており、松の廊下での刃傷の事を知り、当時の東山天皇は、手を叩いて喜んだと書かれております。
最近、テレビで忠臣蔵が放送されない理由は、東大教授などで構成される、強大な権力を持つ中央義士会という赤穂義士の研究機関が、物語としての忠臣蔵に対して、きちんと史実を伝えろ!と執拗なクレームを出す為、スポンサーが嫌がって、忠臣蔵を取り上げ無くなったといわれております。映画 決算忠臣蔵は、パロディだからだと、中央義士会からおとがめ無しであったと。
いずれにせよ、年末に義士の番組が放送されない事を寂しく思います。
中央義士会のウェブには忠義の心などを軽視する風潮で視聴率が低いので放送されないのコメントですが、そうなんですか?中村吉右衛門様ご逝去で放送されるかもです。
BSで放映されてましたよ。大川橋蔵や中村錦之助が出演していて懐かしく思い、今の若僧とは比べ物に成らぬ迫力でした。東映映画大ファンだった👏🎌
大変勉強になりました。テレビは真実を語らない。語れない。後世に残して行かねばならないと感じました。ありがとうございます。
面白かった。こういう話をちゃんと引き継いでいかないと。建前と本音の折り合いを付けた江戸幕府、建前と本音の間で義勇を貫いた赤穂浪士に賞賛を送り語り継いだ江戸の人々。現代人よりよほどリテラシー高かったと思う。
こういう気風が後の勝ち目のない戦争の一因
こういう気風が後の勝ち目のない戦争の一因
ホント小名木さんの解説は面白くて聞き入っちゃう 歴史に詳しくなって自分もカッコよくなっちゃう(自惚れ)
いい話でした。やはり日本は素晴らしい。
★★★ 浅野内匠頭の辞世の句は、
【 風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん 】です。
弘法も筆の誤り、「花さそふ」では御座いませんので、ご訂正下さい・・・・
ですよね。これ見てから文献あさりましたけど、「花さそふ」と書いている文献はなかったです。
感動致しました🙏❇️
私も毎年、年末に放送される「忠臣蔵」楽しみにして、見ながら涙していた者として、その様な大切な日本人の持つ尊い精神性等の語り継がれるべき歴史が、無くなって行く事に、非常に無念の思いを抱いております🙏❇️❇️
ありがとうございました🙏❇️
足利義満が日本国王と称したのは、明国への朝貢貿易のためであり、その時の国内での作法が徳川幕府に引き継がれ、忠臣蔵の事件の原因であるとの由、良く理解できました。
幕府としても自ら席次を入れ替えるきっかけもなく内実としては困っていたのでは、と思いました。結果として命がけで変えるきっかけを作ってくれた赤穂藩に感謝したのかもしれません。赤穂藩も幕府も素晴らしい。政とは確固たる信念をもち。命がけで行うとしかるべき結果となるんでしょう。素晴らしいお話をありがとうございます。
お話としては面白く、小名木善行氏の話術も講談師並の上手さだが、内容には明かな間違いも多く、「真実」として信用する気にはとてもなれない。
・山鹿素行を浅野家の家臣として迎えたのは、浅野内匠頭(長矩)の父(長友)ではなく祖父(長直)で、その期間は1652年〜1660年。
・その後、素行が朱子学批判により播磨国赤穂藩お預かりとなったのは1665年〜1675年で、父(長友)の治世から。
・内匠頭(長矩)は1667年に江戸で生まれ育ち、1675年に家督を継ぎ藩主となったが、所領の赤穂に初めて入ったのは1683年で、従って赤穂で素行に会ったことは無い。
・大石良雄ら家臣が素行から山鹿流を学んだという史実も無い。
・逆に、山鹿素行と吉良義央(上野介)が昵懇の間柄だったことは、山鹿素行日記の記述から紛れもない事実。
・「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作。
・内匠頭の辞世の句は「花さそう・・・」ではなく「風さそう・・・」であるが、この句自体が後世の創作という説も根強い。
この人の動画はどこまでが推測でどこまでが記録に基づいたものなのかわからないので、いまいち信用できない。出典を出してほしい。
いつも歴史を考える大切さを学ばせて戴いております。
赤穂浪士は何故、江戸幕府鉄壁の麹町の厳重な密偵(隠密網)を欺き潜伏できたのか。
どの様にして目立つ多人数で討ち入りを果たせたのか。
何故、吉良邸は討ち入り前に城郭内から寂しい本所へ転居させられていたのか。
切腹を命ぜられた浅野と赤穂四十七士は、何故江戸幕府の重要な泉岳寺へ埋葬されたのか。
その後、高家である吉良家が何故衰退したのか。
江戸幕府の思惑たるや恐るべしです。
とても勉強になりました🤗
ありがとうございます😊
後世に語り継いでもらいたい素晴らしいお話を有難うございます。各所に日本人の魂が感じられて感動しました。金銭力100%で世界支配を遂行したい連中にとっては日本人のこの心こそが障害でありましょう。日本が狙われる理由もわかる気がします。
今までは漫然と赤穂浪士を見ていましたが、討ち入りの背後関係がよく分かり、大変ためになる講座でした。
この世との惜別の情を歌った浅野内匠頭の辞世の句を知った忠義の心の熱い家臣たちは、決意するものがあったろうなぁと今の私でも感じる。
初めて知りました。奥が深い話をありがとうございます。
今まで忠臣蔵に関するいくつもの考察などを聞いてきましたが、その度に「なるほど。」と納得するのですが、どこか少し違和感を感じていました。しかし今回聞いた講義で今までと比べ物にならないくらい、すっきりと納得できました。
浅野内匠頭が愚かな大名でもなく、吉良上野介が意地の悪い権威を笠に着た人物でもなく、お互いが信じる思想によって不幸にも落命する事になってしまったとこが良くわかりました。
特に吉良上野介に関しては恨みを買って切りつけられるような自分物に思えなかったので、事件の原因がわかってすっきりしました。現代でも吉良上野介の領地だった場所では名君だったと言われているようです。
一番、今回聞いて驚いたのが事件を受けての幕府の対応です。100年後という日本人にしてはとても長い時間的スパンではありますが、席次を正規に戻すと約束しそれを実行したことです。この律義さこそ「日本人」なのだな、と強く思いました。
今回、浅野内匠頭、吉良上野介、二人の生真面目さと不器用さを知ったとき涙が出てきました。そして二人に敬意と哀惜を感じました。また幕府も統治上の苦難と武士としての苦渋があったことも想像に難くありませんでした。幕府としても決して朝廷(天皇)を軽んじているわけでもなく、臣下としての分はわきまえていたと思います。今回の講義で三者三様の立場があったことに胸が痛みました。
凄い…。凄すぎます。知りませんでした。全てが腑に落ちました。貴重なお話ありがとうございます。ぜひ子供達にも伝えたい。
全く興味がなかった忠臣蔵について調べなくてはならず、この動画に辿り着きました。
大変分かりやすく、且つ今までのイメージを覆していただけて、一気に忠臣蔵に興味を持てました。感謝いたします。
楽しい授業は聞き入ってしまう。
話しを聞いていると「それで」
「それから」という気持ちを感じました。話しの中に笑い有り涙有りで
この授業内容を誰かとディスカッションしたくなりました。
ありがとうございます。
なるほど、腑に落ちる説明だ。幕府が流布した浅野内匠頭の乱心説には説得力が無かったのでようやくカラクリがわかった。
多くの人が命を亡くした歴史的なことだけど、命が軽い時代ではなかったと思う
命と同じくらい大切なものが多かった時代
わかりやすい動画をありがとうございます!浅野内匠頭や赤穂浪士たちの思いに感動しました。やっぱり忠臣蔵は良いですね!
諸説有り。(エグスプロージョン😊)
殿中松の廊下刃傷事件は歴史学者によって、色々な説が唱えられており、断定されておりません。
それから、山鹿流陣太鼓は打ってません。討ち入りを盛り上げる為のフィクションです。
「花さそう~」でしたっけ?
「風さそう~」と認識していましたが……。
ともあれ、長年の謎が解けました。
なぜ刃傷に及んだのか、なぜ討ち入りをしたのか、どう考えても納得できませんでした。
素晴らしい動画、ありがとうございました。
「風さそう~」が正しいですね。
もっともその辞世の句も本人作ではないと言う話もありますが
「何故100年後?」
と思ったけれど、調べもせずに考えてみました。
当時の人が、人生50年として、
単純にその時代に居合わせた人が亡くなるのが50年後。
居合わせた人から直接話を聞けた人が亡くなるのが、更に50年。
合わせて100年。
あながち間違った解釈には成っていないのではないかと、考えた次第です。
そうですね!!風誘う、花よりも尚我は復た、春の名残をいかにとやせん!!だろうと思います!この解説をしている人も間違いを気付かない!
なぜ揉めたかなぜここまでに至ったか、今までで一番すっと納得出来ました。
耳タコの話のはずなのに、どのポイントを押さえて説明すれば良いかで随分理解が変わることをしみじみ感じました。
ありがとうございます。
忠臣蔵は 大好きで
12月になると 楽しみにしていました。
奥の深い 史実を お聴きし
感銘し 胸ドキドキ💖
しました。
有り難うございました。🙇
普段、気にも止めていなかった赤穂浪士の話の裏側、というか真実を聞かせて頂いて大変勉強になりました。
しかし、今までの如く勧善懲悪のストーリーならば劇が終わって、あースッキリ、面白かった!で済んでいたものが、今回の話を聞いてしまった後では、誰も浮かばれない、何ともやり切れぬ話であるなぁとしか言いようがありません。
それぞれがそれぞれの立場において実直に忠義を通した果ての顛末劇。吉良も災難、赤穂藩も災難。まあ、これでは劇には出来ませぬなぁ・・
大変興味深い内容でした。忠臣蔵は奥がふかいですね
そしてこの内容に触れて、京都守護職を受け入れ戊辰戦争で敗北を喫した
会津藩そして、その決断をした主君 松平容保を思い出しました。
そこにもいろいろ隠れた真実があるんでしょうね
目から鱗です。二度おいしい、の一度目だけが世に出回ってしまったのですね。吉良系、浅野家、そして徳川幕府に対する考えがガラッと変わりました。日本史は奥が深い。いつも素晴らしい動画をありがとうございます!
今まで様々な「忠臣蔵」をドラマや映画、考察などで見てきましたが、山鹿素行のことと、勅使と将軍の席次について語ったものは無かったと思います。一番のキモなのに―――ここを語らずして何の忠臣蔵でしょう~~❕❕かくして忠臣蔵は天晴な仇討ちものとして語り継がれ、それでも十分、武士道を感じられて胸のすく物語なのですが語りつくされた感がしていました。小名木先生の説に感激です!!本当に目から鱗です。それにしても山鹿素行様の素晴らしい事。そして赤穂の塩は美味しい😂赤穂と浅野家がより好きになりました。席次の件を取り入れた物語を作って欲しいですね―――浅野内匠頭が、ただのトチ狂ったお殿様ではなかった😭。。。勉強になりました🙏
今まで聞いたものは、⓵水戸藩絡み②内匠頭素行悪③塩の利権、だったけど④番目は説得力ありますね。山鹿流を貫いた先の「以って瞑すべし」なのですね。
「山鹿流陣太鼓」 が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である?らしい。
小名木さんどうなの?
なんて素晴らしい動画でしょうか。素晴らしすぎて私の貧弱な語彙では言い表せない。。ありがとうございます。
講談師
見てきたような○○を言い!
まさにその通りだわな!
@@shoichishirai7671 嘘であってもそこに真実が含まれているならいい。紫式部が源氏物語に書いている。
吉良町民の私は、小名木先生と同じ考えをしておりました。
しかし、本当の真実をはなしても信じて貰えなく悔しい思いをしていました。
このような話をUA-camでして頂くことで、誤認が少しでも無くなる事を切に願います。
ありがとうございました。
私は忠臣蔵とは江戸時代の創作であろうと考えていましたが、詳しく解説して頂き良く理解することが出来ました、誠に有難うございました。
とても勉強になりました。目から鱗です。
学校の歴史教育が如何に出鱈目だったか、テレビの歴史ドラマに洗脳されて生きてきた自分を変えてくださった。
ねず先生にいつも感謝しております。
今ではテレビは観ない新聞は要らない。おむすび大学の大ファンになってしまってます😅
芝居の時代を鎌倉時代に変えて芝居をしてる。
刃傷の場は、松の廊下ではなく、柳の間であったはずです。
この事件の詳細を聞くと、日本人の賢さ、思慮深さ等々が良く分かります。
「当時の裁きは(ケンカなら)ケンカ両成敗が当たり前なのに、沙汰は浅野家だけで、吉良家はお咎めなし」
「山鹿流兵法“一向二裏”」「吉良の屋敷替え(幕府の謎の譲歩)」「上杉家の謎の暗黙の不干渉」「実際に忠臣蔵が評価されたのは明治政府から」
など、断片的には色々知識はありましたがこの動画ですべての点が線で結ばれました。
これぞ正しく“むすび”大学ですねw
殿中での刃傷沙汰は歴史上9件有ったけど全て加害者が罰せられて被害者はお咎め無しですよ?喧嘩両成敗が当たり前は何処情報ですか?
う~ん、諸説あり、ですね。いかに勅使・将軍の席次が重要問題であっても城中で高家を殺害するほどの理由にはならないと思います。席次は足利時代からの踏襲であればなおさらで、浅野家という小さな大名がとやかくいう問題(ましてや、吉良が留守の間に踏襲慣例を破って席次を変えてしまったのであればなおさら、内匠頭の手落ちでしょう)ではないでしょう。また、刃傷は切腹、藩取りつぶしになる可能性ある(前例がある)ことは内匠頭も知っていただろうし、何百もの家臣が路頭に迷うことになるわけで、藩主という責任ある立場にある人間の行動ではないですね。相手を殺せなかった状況を見ても、私はやっぱり、それまでいろいろ吉良との間に苦難苦労があって、瞬間的にかっときた行動と理解しています。山鹿素行が赤穂藩御預かりとなった時は内匠頭はまだ生まれていませんが、大石内蔵助らは薫陶を受けたかもしれません。また素行が幕府より許されて江戸に戻ってから内匠頭(その時8歳)は素行に教えを受けたのかもしれませんが、まだ若輩の身、思想家ぶれするほどの年齢ではないと思いますが、。当時はまだ、尊王ということについてそれほどその思想は世の中に広まっていないと思いますし、そういう世の状況の中で席次問題をうんぬんしても相手をしかも城中で殺傷するほどの問題だったとは私には思えません。いづれにしてもまだまだ詳細不明です。
後期高齢者で有りながら、裏の話、二度目の味わいを此の期に及んで堪能致しました。
過日、入試科目から歴史が外されることをどれ程願った事か・・。
退職後、UA-camから掘り下げた史実を学ぶにつれ、歴史が如何に面白く人生の導きにさえ為り得ると気付く恥ずかしさ。
週刊誌の記述にさえ劣るオールドメディアは朝ドラと天気予報に限定し、午前中を動画からの情報収集に嵌って居ります。
深い話を今後とも宜しくお願い致します。
途中で挟んでいただいた宿場はきっと妻籠宿と思います。たまたまですが故郷にハッとなりこちらに書いてしまいました。お許しください。
小さな頃からこの時期の赤穂浪士を楽しみに見てきました。何て自分勝手な殿様だろうと思っていましたが、大石以下赤穂浪士が本当に果たしたかった気持ち理解できて嬉しいです。秀吉に弾圧されても、意志を貫いた播磨武士の姿ですね。
子ども心に熱く成ったのを思い出させていただきました。有り難うございます。
今の国会議員に聞いてもらいたいお話です。
吉良のお殿様も、赤穂のお殿様とその家臣、大君綱吉公も御立派です。
ほんとうにかっこよかったです。
笑いあり、涙あり、そして最後に感動あり。
皆様こんばんは~、桜田門通り沿いの元の赤羽接遇所「徳川家屋敷」を昭和に入り購入した者です、四十七士の方々は、私の家の前を切腹する前に一往復半されています、色々と深い話を有り難う御座います。
すごい、幕府の姿勢も感動した。
現代の日本人からは考えも及ばぬほど高潔な武士。まさに武士道。
確かに私情で刀を抜いて、失敗するなんてあり得ない。そんな状態で部下が討ち入りするなんてあり得ない。
赤穂浪士の話は、ほんと面白い。
日本人素晴らしいです。
その素晴らしい日本文化と日本人を今、自民党は全力で潰しにかかっている。出世する政治家は全部売国奴。
浅野内匠頭の母方、叔父の内藤忠勝が増上寺で刃傷に及んでいますね。
切れやすい性格は有るかも知れないですね。
赤穂藩の面々も、吉良様も、朝廷も、将軍様も、皆かっこいい。それぞれの立場を大切にしながら、公(おおやけ)を慮り、きちっと筋を通す生き方。そして庶民もそれを知っていながら秩序が保たれるように気をつかっている。
日本人って本当に素晴らしい気質を持っているのだなあと感じます。
現代の僕らも先人や子孫に恥じぬ様生きていきたいものだと思います☺️
きちんと史実に基づいた筋と理屈が通っていると同時に日本人の琴線に触れる素晴らしい講義を拝聴いたしました。
「おのおの方!」の「長谷川一夫さん」が想い出されています。確か「大映」が作った「赤穂浪士」を映画館で20歳代のころ観て感動したのをよく覚えています。今回の先生のお話になった「裏話」はぜんぜん今でも知らなかったです。「吉良上野介さん」が
名君であったことはその後知りました。「面白いお話でした」では「見識に欠ける」ことを今回教えていただきました有り難うごいます。
武士の長い時代の深い思いが詰まっていたんですね。
確かにその筋の説明だと納得できるところ大いに有ります。
昔の日本人の素晴らしさを知って、今の我々日本人がどう目覚めるか、が一番大事ですね。
感動しました、ただこれ本当に真実ならなんで歴史教科書で教えないんですかね。浅野内匠頭が乱心したことになってるのが不憫だ。
それに歴史のなかにも結構嘘があるなら、歴史なんていい加減なものだと知っている必要がある。
面白い説ですね。ただ大石は近隣他藩取潰しの時、幕府から城受け取りの役を命じられており、当時の藩取潰しで失業する他藩藩士の悲劇を見ております。藩士も幕府に逆らうリスクは取らないと思います。
お疲れ様です。何時も楽しく拝見して居ります。ホワイトボードに書いて有ります、内匠頭の辞世の句は「花さそふ」で始まるのでは無く「風さそふ」では無かったでしょうか。言い掛かりでは有りません。先生の勘違いかなと思って書きました。お気を悪くしませんよう。
私もそう思います
目から鱗の話で凄く面白かったです。忠臣蔵大好きです。
兵庫県出身です。
仕事で赤穂市に週一で行きます。
勉強になりました。
ありがとうございます!
話としては面白い説ですが、やはり五万石の小藩の外様大名が幕府や朝廷の先例を勝手に変更し家臣が殿にそれを半強制するのは無理があるかと思います。
ですね。家臣自らが幕府の印象悪くし失業のリスクを高める意味がわからない。
@@cando4707 今と違い誰でも政治に関与いたり意見具申ができるわけではありませんから、御三家でさえ幕政に意見できないのに本当にしようとするのは、藩全体が狂人でしょう。
@@蒼い月-k1j 家老の大石は備中松山の藩主交代の手伝いを幕府から命じられ城受取りの任についた事があります。赤穂藩士も当然参加してますので、藩取り潰しで無禄になった藩士の境遇は見てますからね。それでも幕府に勤王を意見する藩は狂信的でしょう。ましてや広島に浅野本家もありますからまずあり得ませんよ。
峰打ちは嘘ですね。
峰打ち自体がドラマの世界でしかありませんから、峰打ちなら士道不覚悟どころか刀の作法さえ知らないことになってしまいますね。取り押さえた人の証言では2回切り付けて3回目に取り押さえられてます。
上杉鷹山も吉良上野介の子孫ですね。歴史って深いな〜
小名木先生の動画はいつも楽しみにしております。私の歴史の勉強は、この動画です。
が。今回は、少し引っかかることがありましたので、、、
Q:なぜ?赤穂浪士は、吉良義央を切らねばならないのか?
仇討ちならば、吟味もせずに「即日切腹」を申し付けた者への復讐=将軍(?)とか老中柳沢とか、誰か、ではないのかなあー。
この成り行きなら、処分を決めた人だと思います。(井伊直弼みたく)浪士の実力がなかったので、処分のない吉良に八つ当たり?
また、赤穂浪士が起こしたこと=討ち入りをして義央の首をとること「仇討ち」ではなく、
殿(長矩)がしようとした、慣習を変える「席次を改めることにこだわるための行動」例えば、将軍、老中など幕閣へ直訴をするなどでないと、
やっぱり、家来が「殿の切腹・お取り潰しの恨み」で、吉良に討ち入りという単純な理由にしか見えない気がします。
殿の行動は、吉良を利用した行動(沙汰)であって、吉良に対してうっぷんを晴らそうと刀を抜いた訳ではないことであるならば、
家臣たちには殿の行動が解からなかったということなのか??
Q:殿の行動どおりならば、「吉良殺害」ではなく「尊王を強く訴える」「殿の席次は正しい運動(行動)」「なぜ殿の話を聞かず切腹を
申し付けた!中朝事実を否定する幕府は、間違っているー」とか、浪士の具体的な行動は、なんとも将軍・老中への直訴しか思いつかないのですが、
吉良への討ち入りではない気がします。
しかし、結果的には殿の席次を100年後に採用すると綱吉が言ったという。何か筋が通っていないごたごたがあって、結果オーライなのが、
江戸時代の武士の世界なのか。という印象。
・吉良上野介は、何とも可哀そう、当時から現在まで。
大変面白い見解ですね😃説得力が有りますね。
いや〜
小名木さんがいちばんカッコいいな!