Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
仮名手本の意味はそう言う事だったのですね。とかなくてしす・・・。本当に江戸時代の人々の知恵は奥が深い。
さらに、イロハが47文字であることも、四七士の討ち入りを示唆しています。
ほーりーさんの着物姿まぶしいです😆忠臣蔵とても大好きです。一説には山鹿素行の影響が大きいという話も聞きました。いつもおもしろい動画ありがとうございます😊
赤穂事件から仮名手本忠臣蔵について、詳しく解説されていて興味深く見させていただきました実際の事件と物語の対比が面白かったです 数年前、愛知県西尾市の吉良氏ゆかりの寺院等を巡る経験をしましたが、地元では名君として崇められており、忠臣蔵のイメージとは違うなぁと感じました。今回も見どころたっぷりの素晴らしい動画でした
名君としてはプロパガンダしているのは反動です。そりゃあんだけ悪者にされたら名君にしたい気持ちはわかる。当時の吉良を名君として見ている資料は0です。資料が出てこないのはもう当時の旗本は領地を統治ほぼしないで、専ら代官が政治やってたというのもあるのかも。吉良は名君だったと思いたいばかりに、伝承のみが残っているだけ。そういう資料が出てくるな私の意見を変えます。
そりゃ名君だよ。立派な人だよ。当時の日本人は全員そうだよ
子どもの頃から12月になると どこかの映画会社の忠臣蔵がTVで放映されていましたね大映の忠臣蔵が好きでいつも見ていました 史実というよりファンタジーとして楽しんでいました そういえばもう長い事見てないなぁ・・
松村さんの時にから面白いと思っていましたが、それにしても良く知っている
本日松平健主演の忠臣蔵を見た所でした!昔テレビで忠臣蔵を初めて見た時私が忠臣蔵を知らないので、父に信じられないと言わんばかりの顔をされた思い出(笑)あの頃は昼に時代劇の再放送なんかも見てたから、今頃時代劇にのめり込むきっかけの一つになんだろうな😊
吉良側の話として、星新一の小説「ああ吉良家の忠臣」という話が記憶に残っています。そこでは吉良様は名君として描かれていましたが、あながち間違いでは無かったと思います。
確か寝坊して参戦出来ず生き残った人が居ましたよね。駆け付けた時には、塀によじ登って観戦してる町民とかが屋敷を囲んではやし立ててて、恥ずかしくて中に入れなかったんでしたね。
毛利小平太だっけ
忠臣蔵については宮部みゆきさんの「鳴る石」に出てくる解釈がユニークで好き
とても勉強になりました❗️ が 、その前に ほーりーとさんがとてもかわいいですね😊
まだまアメリカに居た数年前ですが、地元の大学の日本文学の教授がドナルド・キーン教授の弟子で、非日本人では数少ない歌舞伎の専門家でして、大学で英語歌舞を演ってしまいました。定年前に是非忠臣蔵を演りたい、と言うのを実現して仕舞い、僕は義太夫の三味線を担当しました。日本から参加して下さった清元の方々に、英語の義太夫の意味をキチンと理解してそれに伴奏が付けられるのは世界で貴方だけだ、と言われました(笑)。
ほえー、すんげえなアメリカ的価値観だとやられっぱなしではすまされねえという考え方もあるのでしょうか
英語の義太夫!
@@michinobuiimori1894 忠臣蔵が史実に基づくかどうかは別にして歌舞伎の演目として日本人文化の一部となってきたのは事実ですよね。でも忠臣蔵が日本文化からフェイドアウトしていくと主張する人もいます。忠臣蔵の真実とは浅野内匠頭がサイコパスだったという事実につきますね。それに吉良さんや大石さんが不幸にも翻弄されて運命が狂わされた。それにしても殿中で刀抜いて斬りかかるなんてスゲ~ことすると思いますよ😏
@@user-sealseal 復讐というのは世界共通語のようです。でもどこかで断ち切らないと人類の未来はありませんね。
吉良は地元では評判がいいって話だけど
吉良側の評判も伺いたかったです。いつも楽しい江戸紀行、ありがとうございます。楽しませて頂いております。
高校時代劇には歌舞伎教室が有りました。今、振り返れば「もっと真面目に勉強してから観れば良かったなぁ~😂」と思いますねー後は能の夏公演は安価で能楽堂も近かったので、良くお邪魔しました。嫁いでからも能楽堂で研修会(❓️🤔)があると、興味が無い主人を巻き込み通ってました😊😊😊
浅野内匠頭が、女色に耽りキレやすい性格だったのは知ってました。あと3月14日の天気が曇天で、江戸城松の廊下が非常に暗く内匠頭の心を陰鬱にしたのでは?という説もTVで見ました。
忠臣蔵って現代人の感覚からすると何故人気があるのか不思議だったけど言われてみれば、江戸時代の人々は時代も違う脚色されたフィクションのほうを楽しんでいたんだよね高師直なら吉良どころではない政権中枢の権力者だし、遺臣の恨みの矛先が向く展開も無理がないこれを史実に寄せてしまうのは、かえって本来の楽しみ方ではないのかもしれないなあ
庶民が反幕府、反政府演劇として利用したから。実際に物理で反政府運動した大塩平八郎、高杉晋作らは忠臣蔵のファン。
史実がー!とか新説ではー!とか聞く度に、従来から語り継がれてる歴史って、お話として面白く出来てるんだなぁと思いますね。
私の先祖は関宿藩本所下屋敷にいたそうです。代々言われていることには、父から聞いた事では、吉良様にはなんの引け目はないとの事、それなりの良い殿様だと聞かされてきました。忠臣蔵はあくまでも劇だよ、毎年年末が迫るときかされてきました。上野戦争までは住んでいたそうです。
@@takaokuramochi7567 すみませんコメントさせていただきます実は・・私兵庫在住でして、赤穂へは車で30分くらいで行けるとこに住んでるのですが・・おおっぴらに浅野内匠頭の批判しずらいのです・・私の浅野内匠頭像は・・「逆接の日本史」で成り立ってます。すなわち浅野内匠頭は統合失調症だったのではなかったのか、恨みが積もり積もって狼藉に及んだのではなく、発作的に切りつけたのではないかと・・あまりにも証拠となる事実がないので話が飛躍しすぎていると思われるかもしれませんが・・いっぽう吉良上野介はどうか・・今の愛知県に領地があったんですかね。これも「逆接の日本史」に載っていたかと思うのですが、奥さんを深く愛し、開発された新田に自分の奥さんの名前を入れた「お富新田」と名付けたとか・・領民に慕われた名君だったと聞いたのですが・・それと殿中で切りつけられても、刀を抜かなかったと・・刀を抜いて対応してれば喧嘩両成敗になるが、吉良さんはそうしなかったので、お咎めなしは当然かと。★なぜ当然悪人と断定して良い、浅野内匠頭と四十七士が、庶民の中で良くやったともてはやされたのか(これは後の田沼意次にもいえますが)がよくわかりません。
忠臣蔵は討ち入り後すぐに、いくつもの演目があちこちで上演されたらしいですが、全て幕府から禁止命令が出されたそうです。
会社で例えると、おかしな点がある。①・江戸城(本社)で、地方の営業所の所長が、本社の役員(吉良上野介)を斬り付ける②・ほぼ営業所長(浅野内匠頭)が悪いのに、幕府(本社)が内匠頭に切腹(制裁)するのは当たり前なのに、部下の大石内蔵助らが、吉良上野介を仇討ちする理不尽さ。③・仇討ちを果たした四十七士が、英雄扱いされ、吉良上野介が極悪人にされて、数百年変わらんかった。会社と江戸時代を一緒にすな!と言われそうだけど、どう考えても、吉良上野介が不憫過ぎ。
ブラボー江戸紫のほうりー様源氏物語の少女巻で紫の上に取り留めのない虚構話が事実よりも生き生きと日常を描ける、と。 悪役を悪く、悲劇的に描くことこで盛り上がる、と。 小説の真髄を語っておりました🥰 江戸紫ほうり様は令和の紫の上に成長してくださいませ👌
新年の忠臣蔵また見たいけど 今度は吉良上野介視点で見てみたいわ。
赤穂藩は山鹿流を取り入れていて、天皇の使者の上座と下座の事でその事に意義を申し立てるためとも言われてますね。🙄
前期水戸学にも関わっていた山鹿素行が幕府推奨の朱子学を認めないから水戸藩を追放されて赤穂藩に匿われ、赤穂藩に尊王思想が根付いた、という話はどこかで見たような実際には山鹿素行は赤穂藩に半年くらいしか居らず、しかも浅野の対応に不満で自ら出て行っており、後にボロクソ不満書き残してます。動画内の浅野家悪評に近い内容です。浅野長矩に対しては、しきたりや慣習にこだわらず誹りを受けた、とあるので、吉良が言う「浅野が言うこと聞かない」に共通するものを感じます面白いのは、山鹿素行はその後朱子学批判で蟄居させられて、赦免後に一番良くしてくれたのが吉良だったことですね。お互いの秘伝書を書き写すくらい仲良かったようです
赤穂の民は重税で酷い目にあっていたので、主君が亡くなつて喜んだ、、と言う話しもありますよね。
吉良側にいた武士たちが刀を持ったされていたら状況が違っていたかもね。
大河ドラマ、1999年の元禄繚乱を見る限りでは吉良が真の仇ではないと思う。どうしても徳川綱吉がラスボスに思えてならない。
そうですね…。私も、この赤穂事件をいろいろな映画やドラマ、それに、ネットや実際に播州赤穂に昔行ってきて調べてみたところ、「浅野も吉良もともに被害者であり、加害者および、この赤穂事件の最悪の責任者は“犬(ころ)公方”こと徳川綱吉!」としか考えようがないですね…。
綱吉もだけど側近の柳沢吉保辺りもなかなか怪しい。騒動を利用して結局吉良本人も隠居させてるし。
@@もりぃ-f9h 元禄繚乱本編では吉良邸討ち入りを利用して芸州浅野本家と上杉家の双方を改易に追い込んで幕府の天領にしようと画策していた。
@@大坂智義 少し前の特集でも幕府の思惑が少なからずありそうな考察も出ていましたね。お芝居の話と実際の話の混ざってしまっているので分けて考えるのが難しい事件ですよね。
私の出身校は元をたどれば上杉藩の藩校ではありましたが成人以前は赤穂事件について特になにも思うところはありませんでした。しかしながら生きていれば91歳になる母親の子供の頃、米沢周辺では忠臣蔵の上演は禁じられていたそうです。今は吉良方には非がなく、元赤穂藩士によるテロ行為のすべての責任は、平成6年に398年ぶりに和解するまで儀礼的な挨拶すらしない不通を保ち絶交状態だった伊達家と浅野家に勅使饗応役を命じた幕府にあると思っています。
そりゃ米沢藩は吉良上野介の子孫ですからね。ぶっちゃけ言えば今川氏真の子孫。
小学生の頃にテレビで良く年末に忠臣蔵のドラマを毎年観ていたけど、最近は忠臣蔵を全く放送していないけど、この動画を観たら忠臣蔵がどんな出来事か良く分かりやすかったです。
ただいま2作目を視聴し終えましたいやいや、とっても楽しいですね!引き続き、視聴続けたいと思ってますよ✌️さて、赤穂浪士かなり以前に歴史を現代から読み解いてゆく手法の本で読んだ事なのですが塩の販売権を巡るいざこざから始まったと書いてありましたどちらかと言えば、後追いの赤穂藩が市場を奪ってしまったと捉えていますまた、江戸城では刀を抜くことが禁止されており、処罰はそれに対するものとも書いてあった記憶があります劇中や浮世絵での四十七士の服装も、実際には見窄らしいものとも有りましたなんだか否定的なものばかりですね笑ただ、書では、古事記にまで遡るのですが、事実はまた別なものと捉えており、それらが様ざな形で受け継がれてきたことは確かなものであると作者は述べています面白いですね
吉良上野介も気の毒だが、モデルになった高師直も、相当お気の毒!😢太平記からね
ホーリーさんこうした事実と向き合った歴史検証、さすがですね。事実と向かい合っての動画、嬉しいです。当地、米沢では吉良家と上杉家の間で3重の縁があり、愛知の旧吉良町とともに山形県米沢市でも忠臣蔵が上映されない街です。歴史の裏に迫ると、事実と歯異なる歴史か多すぎますね。幕末の歴史も事実に基づき描き出してほしい会津人の一人ですラジオも毎週聞いてますよ~
「仮名手本」なのはいろは47文字と赤穂浪士47人が同じ数だからだ、という説もありますね。咎なくて○すなのは吉良の方だったりする…(^_^;)
「傷害事件の加害者(=浅野内匠頭)が(幕府に)切腹を命じられた腹いせに、加害者の家臣が傷害事件の被害者(=吉良上野介)を惨殺した」って話なんですね。 こりゃ、たまげた😆😆
それはちょっと違います。当時は、喧嘩両成敗という慣例や制度がありました。浅野だけが切腹で吉良はお咎めなしという裁きは、やはり片手落ちであるという世論がありました。
これはかなりメンドクサイ話であるのだがそもそも、室町時代の価値観が相当にヤバいのだ。「道すがら、狭い場所ですれ違う際に立ち止まって会釈した」この会釈で、「お前誰や?」で斬り合いになり斬り合った当事者そっちのけで双方の勢力が衝突、小競り合い(戦)になったりしていた。この様な価値観から、状況を見て過失割合を考えて裁定すると片方が揉めるので、「もう裁定するのめどくせぇわ、取り敢えず双方腹切っておけよ」ってのが室町時代から江戸時代にかけて生まれた「連帯責任」とかもその一環だ。「もうめどくせぇからお前ら全員処罰な」という傾向が生じたしかし、まぁ実際は喧嘩両成敗とか言っても、実際は異なる。当然一方的に切りかかってきた方が悪いってのは、江戸時代人にも広く理解できる道理である。だから、他の刃傷沙汰ては喧嘩両成敗とはなっていない事の方が普通だ。同時に、江戸時代を迎え、徳川幕府は家臣に家臣たるものの心得を説くようになる。簡単な話「主従関係」の意識が変わる。事を面倒にしてるのは、主従関係のこの価値観の変更だ。室町時代なら、播州赤穂藩に浅野内匠頭を切腹させて、赤穂藩は本家浅野家の管理下に置くで揉める事は無い。当時者の所属するグループに当事者本人を処分させることで、グループ全体の体面を保ち納得させる。吉良上野介の処罰などは関係無かった。しかし、主君の主君(徳川家)の裁定に処分に従うのが道理だろうと、徳川幕府が勝手にさっさと浅野内匠頭を切腹させてしまった事により、「主君に対する仇討し、赤穂藩士の体面維持しなければならない」という当時の武士道にも沿った大義が生まれてしまった。江戸時代初期だと、加藤嘉明や最上義明など息子の代で潰れているが、家臣らが「主君、そんなの関係ねぇ」で揉めた結果のお取り潰しだが、彼らがお家の存続より家臣団の面目優先した結果とも言える。この面目、意地の張り合いは、井伊家二代目の相続にも非常に色濃く影響している。江戸時代に生じた主君への忠義や、室町時代からの武士の面目を果たす方向性がどこへ向くのか?赤穂浪士の場合は、「主君の仇討」という形になっていった。
@@silversurfer512さまそもそも喧嘩ではありません。切れやすい人間だった浅野内匠が、吉良の指導に切れて一方的に斬りつけたのです。現在なら信号無視の車に跳ねられた老人を、「事故が起きたからにはお前にも責任がある」と責めるようなものです。吉良は「全く身に覚えがない」と言っており、浅野は弁解すら出来ませんでした。浅野が「好色、悋嗇、士を愛さない」大名であることは、既に綱吉に報告がいっており、その札付きの男が、この直前京に上って、生母桂昌院の未曾有の昇位を成し遂げた功労者の吉良に、こともあろうに勅使を迎えての式典の場で、饗応役の身で斬りつけたのですから、即日切腹は免れません。浅野は17歳の時に勅使饗応役を経験しており、「吉良が意地悪をして必要な知識を伝えなかった」は成り立ちません。むしろその経験に慢心した浅野が、持ち前のケチぶりを発揮し、その後荻原重秀の貨幣改鋳に物価が騰貴したことを理解せず、費用を惜しんで吉良を苦しめ、再三の吉良の指導に切れたというのが真相でしょう。「忠臣蔵」の一夜の畳替えのエピソードなどこの辺を突いているのかもしれません。
吉良がお咎め無しのは、生類憐みの令も間接的に影響してると思います。あれは、もう戦国ではないという事で殺生を禁じようとした法令で、なにも犬だけ保護しようとする法令では無いのです。実際は、松の廊下事件では、吉良は防御のための刀を抜いてなく。それが綱吉に伝わり、浅野の一方的な攻撃と判断したのではないですかね。😊
@@silversurfer512😢
ほーりーさんの動画分かりやすくて、楽しく拝聴しています♪歴史好きの視聴者さんの、マニアックなコメント見てるのも面白いものです😊コメントでさえも勉強になる動画なんて、中々見かけません。
東京都立博物館の蔵書はすごいですね!
これは私の私見ですが、浅野内匠頭は本当はそういう性格の殿様だったと思います。ちょっとの事でキレてしまう性格。本当に遺恨が相当に深くて刃傷、切腹なら違う方法を選択するはず、しかしながら些細な事でキレてしまって刃傷事件を起こした、このままでは赤穂の面子は丸潰れである、士官の先も無い。この事件を第三者のせいにする事により解決しようと考えた。なので元々面子丸潰れの浪人が表舞台に出て来れて切腹は御の字である。上手い事を考えた。と思っております。
咎無くて死んだのはむしろ吉良上野介なんだよなぁ
吉良上野介は高家で大名と同等。地元では名君として崇められていて、神社まであるそうです😅 小説「無念吉良上野介」を執筆中です。現代でも逆恨みされて自殺に追い込まれるなんてことありそうですよね。
罪はあるじゃん。奥さん(三姫)の兄の上杉綱勝を毒殺しているし。泥棒も人殺しもしている吉良上野介が、殺されたのも仕方なし。
@@kuru-qg1iu 根拠なき妄説。権力者になればあれこれ噂を流すものはいる。上杉綱勝は生来病弱で死因は持病の内臓疾患といわれてる。
@@ヒライアツシ-q2y 上杉綱勝は生来病弱。死因は内臓疾患
@@kuru-qg1iu吉良のそういう話はみんな赤穂浪士の討ち入りが成功して拍手喝采となった後に吉良を悪人にし立てるための作り話。討ち入りが起こるまでは浅野がただの頭がおかしい殿様だった。
浅野内匠頭の刃傷を行った本当の意味を確り調べた方が良いでしょう。更に奥深い壮大なスケールの内容が出て来ます。
ならば一度、吉良上野介義央(よしひさ)側からの目線で描かれたドラマ「忠臣蔵」も見てみたいモノだ…(* ̄∇ ̄*)😁👍❗️かなりの名君だったらしいから✨️
北野武監督のものはそれに近いかもしれません。
絶対吉良側から見たドラマや映画が放映されるべきです。あさの 内匠頭は統合失調症だったらしいとのことも。
あ~、そうですよね。なぜ他でこのような発想をする意見が出てこないのかと今思いました。
@user-ff1dg1nf7qパヨってるの?大丈夫?病院いく?
ドキュメントになっても?? 映画・ドラマには ならないでしょう。全然おもしろくな~い
「仮名手本忠臣蔵」の話はよくわかりました。永代橋かぁ~(^-^)。今日のほーりーの着物の色が良かったです❗
綺羅上野介は地元紙では名君と言われていたとか・・・😮
私の知っている忠臣蔵は、「上座に座るべきか下座にすべきか」を問うたのに「そんなことも知らんのか?と」頭を勺で何度もパンパン叩き、「おのれ!おなじ場所を何度も何度も!」と斬りつけた話し。😂ナツカシ
吉良上野介というと強欲で陰険というイメージを持つ人が多いのではないか。忠臣蔵で事実以上に悪役にされてしまったのは不本意でしょう。
ちなみに吉良上野介は地元では名君なんだよね。
@@ジャックスミス-x2r 様へ 領民の言葉が真実でしょ。(地元人ですけど)
@@鈴木典子-q4wあんないい殿様をのお…。というので赤い馬に乗った吉良様というおもちゃが残っている。
@@夕刻夕刻 様へ 討ち入りの日は吉良様の命日なので、供養があるそうですね。市町村合併でも吉良の名前を守る子孫たちが真実でしょうね。
@@鈴木典子-q4w あなたは立派ですが
ほーりーさん初めまして、ねねです。そーだったんですね。私「浅野」と言うんです。なんか微妙!?👍ボタン、チャンネル登録しましたよ。これからも面白いお話聞かせてくださいね😊 もうすぐ10万人頑張って❤
今年もその季節ですか!早いですね!
先祖が浅野家に仕えていました。我が家に伝わる話では、殿様が馬鹿なことをしでかして処分を受け、「敵討ち? はぁっ!? 付き合ってらんねえよ」と刀を捨てて百姓になったらしいです。巻き添えを食うのを避けたかったのでしょうかね。身分も軽かったのかもしれません。忠臣蔵を見るたびに、吉良家に対してはいつも「うちの先祖の主君とその家臣がご迷惑をおかけしてすみません」という気持ちになります。
生活と見栄とどちらかを選択せねばならぬ・・・いつの時代も同じですね。ただそこを深く見た大石は「去る者は去れ」と慈悲の心を。そして本懐も仕損じたときのことを考え二番手を。深き人物だったんでしょうね、大石良雄さんは。
忠臣蔵のキーワードは現実には存在しない「山鹿流の陣太鼓」かも知れんと思ってる。山鹿素行は尊王思想の人。
当時のお芝居では結構ダ・ヴィンチ・コードな感じでやってたんですね まあ現代もこういうのありますか😅浅野偶像ガラガラになりました
南出喜久治「皇道忠臣蔵」によれば、忠臣蔵は尊皇討幕運動の先駆とされる。吉良の高家は禁裏御所御定目(=禁中並公家諸法度の上書き)を定めるなど皇室の行動を規制した。一方赤穂浅野家は山鹿素行の薫陶を受け、皇室に多額の出費をするなど尊皇思想を貫いていた。朝廷勅使の扱いをめぐる確執があったとされ、この問題は終始皇室をどうか扱うかの問題だった。大石内蔵助の出自も中臣家の親戚、儀式を司る家系とされ、尊皇的だった。秦氏の影響下で赤穂藩はそもそも山鹿素行以前から尊皇志向だったと思われる。そうでなければ山鹿素行を招くはずがない。山鹿素行は『中朝事実』を記し、皇室と日本の独自性と重要性を示す論理を展開していた。山鹿流陣太鼓は虚構としてもその精神的影響は無視できない。この問題は明治維新まで続く。
勅使供応の場で刃傷事件を起こしておいて尊皇もナニも無いモンだ。皇家に対する最大の侮辱行為でしょうに。
まかり間違えばお上への反逆、腹いせによる暴挙、と取られかねない討ち入りを「義挙」にまで認知バイアスをプレゼンした大石内蔵助の手腕に驚愕しています。五代将軍自ら「あっぱれ」と評価してしまう(苦笑)
亡くなった方の血縁である身内が仇討ちを行うのは「合法」でした。大石内蔵助はじめ藩士達は浅野内匠頭の身内では無いので、合法とはなりません。ここでお触れを無視して仇討ちすべしという急進派15名と、弟の浅野大学(浅野長広)を立てて御家再興を目指す大石ら主流派93名に割れます。浅野大学は浅野内匠頭の罪に連座して閉門(自宅軟禁)されましたが、規定では3年後には連座により閉門が解かれます。その後に浅野大学を立てて御家再興を成して、浅野大学の命で仇討ちをすれば合法となるので、それまで待て、という形で大石は急進派を説得し、かの有名な「血判」を作成します。この時には120名が血判捺印しています。ところが浅野大学を閉門処分のまま本家の広島に返し、吉良上野介も引退して米沢に帰る、ということが決定してしまったため、大石プラン「合法的仇討ち」は実現不可能であることが確定してしまいました。行き詰った大石は血縁では無い浅野内匠頭を「君父」と呼ぶことを決め、正当な仇討ちであると主張し、仇討ち後の幕府の取り調べでもそう答えています。当然ながらこの理屈は通らず全員死刑となった史実はご存知の通りです。将軍綱吉の施政に窮屈さに庶民が苦しんでいた時代、最初に急進派が仇討ちをするという噂が立った頃から庶民からは絶大な支持を得ており、これが大石の判断を後押しした、と私は考えております。動画にもあった通り、仮名手本忠臣蔵が完成して大人気の演目となったのは討入の45年後です。実に45年間も人気というか庶民の支持が衰えなかったということでもあり、もはやドラえもんやガンダムやジブリ並みのコンテンツだったと言えると思います。
そもそも殿中で 刀を抜くなどとすればお家断絶と決められていました。朝廷への接待役が 接待中に上司?を 斬り付ける事件などを 起こせば 当然の責任を問われます。将軍様の顔に泥を 塗った事と同じです。それを「喧嘩両成敗」にする大石氏には 随分と無理があると思います。庶民が 「忠臣」ともてはやした事で 幕府もそれに乗ったのでしょうけれども 討ち入り後、なぜか上杉家が 更に減俸された事から 刃傷事件からの1年間で 幕府も赤穂浪士を 利用した事で 全て丸く片付けられたのではないかと思います。
松の廊下は刃傷沙汰御法度だったのでは?単なる廊下では無く、江戸幕府の威厳を示すような意味合いを持った廊下で、そんな場所で刀を振りかざし血で汚した事が、切腹の理由ですよね。それと、浅野内匠頭も江戸に来た当初は良い藩主だったのが、江戸での生活が続く中で上手く取り入って美味しい思いをしようとする人間に囲まれて堕落して行ってしまったのかな。吉良上野介の寸評も聞きたかったですね。
赤穂浅野長矩が切腹のとき領民が喜んだらしい←苛烈な政治してたのかな?二度目の仕事で、さらに金銭払うだけの立場なのに、吉良義央から直には指示がなかったんだろうて、思われるからますます刃傷に及んだのかわからない事件
それと戦後になって反動で、吉良が善政をやっていたという根拠に基づかないプロパガンダもやめたほうがいいと思う。またねじ曲がったしまった。
内匠頭は2度目で勝手がわかっているのに以前より物入りな饗応準備に反発していて家臣が困っていた、との話もありましたね。気鬱の持病もあって扱いにくい人だったのかもしれませんね。
愛知県西尾市では吉良さんは名君ですよー
「仮名手本忠臣蔵」の内容は知らなかったです それに浅野内匠頭の実像はショックでした でも、そんな人物だったから刃傷事件を起こしてしまったのですね今年の、義士祭に行って来ました 大石内蔵助は中村雅俊さんで、背が高くて威厳がありました。 パレードの最後にカチドキを「エイエイオー」ってみんなで大合唱して大いに盛り上がっておりました。
ありがとうごさいました。吉良様と浅野は、喧嘩?ではなく、一方的に切付けられたもの。吉良様は、刀に手をかけてさえいないので、お咎め無しでした。
最近は吉良上野介は再評価されて優秀な人物で地元の人々から慕われていたことが分かってますね。
城内の刃傷沙汰が沢山あった中で赤穂浪士がこんなに有名になったのは歌舞伎と講談のおかげです。 坂本竜馬が人気者になったのも司馬遼太郎のおかげです。
今晩は!ホーリーさん今回は人気の忠臣蔵ですね自分も子供の頃から相当な数の忠臣蔵を見てますね確かに松の廊下刃傷事件だけ見ると、ホーリーさんの言う様に浅野が一方的に吉良に斬りつけて吉良は逃げただけ、なので浅野は切腹で吉良はお咎めなしは当然の処置ですね。ただ何故に即日切腹だったのでしょう、両者や関係者からの詳しい取り調べをするべきだったと思いますよ、吉良を斬り付ける際「この間の遺恨覚えたるか」と浅野が言ったと言う周りの証言も有りますから、浅野と吉良の間に何かしらの確執が有った事は明らかです、事件の事の発端を探ろうとせずに浅野は即日切腹で吉良はお咎めなしでは赤穂藩士にすれば絶対に許せないし幕府側の落ち度と思ったんだと思いますよ。浅野は短気(精神疾患?)で女ぐせが悪い事は当時の資料から解りましたが、一方の吉良はどうでしょうか?領民に好かれていたと言う資料が有ると伴に悪い評判の資料も有る様です、ホーリーさんには吉良側の資料も明らかにして欲しかったですね。それにしても水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、忠臣蔵が大人気なのはホーリーさんが言う様に勧善懲悪が大好きな日本人だからでしょうかね。
真実がどうこうというより庶民の感情移入先が変わったのでしょうね。秀吉を嫌ったり田沼を好んだりする風潮とも関係が強いと思います。さらにはマスゴミ嫌いとも通じるかもしれません。
浅野内匠頭は前回も勅使接待役を経験している為吉良に相談しなくてもやり方は知っていたはず
ホーリーさん、ぜひ飛脚について詳しく教えてください🙇🏻🙏🏻
12月14日は討ち入りの日、蕎麦を食って一力で遊ぶ、京都生まれはいいもんだ
喧嘩両成敗と言うけど、吉良は一方的に斬りつけられただけで、自分の刀には手をかけてない。喧嘩ではない。
髪型可愛い!
面白かったです。昔から、大石内蔵助は幕府に対してこそ、戦いを挑むべきだと思っていました。吉良を殺害した後、切腹をせずに、その先を幕府に決めさせることが、幕府へのささやかな抵抗という話も聞きますが、死ぬ覚悟があるなら、やはり江戸城を襲撃するべきでしょう。
志村けんと加藤茶の松の廊下のコントを思いだしてしまうんですよね、あれがある意味インパクトが強烈だった。
江戸詰めだった堀部安兵衛が江戸市中の内匠頭評を知っていたにも関わらず仇討ちを強く主張したのは、彼自身が内匠頭の命で御三家の尾張藩への弔問使に抜擢されたことへの恩を重んじたのが理由の1つだと思う。
視点を変えると、殺された吉良とその家臣達は、300年経っても仇が英雄視されたままでさぞ無念だろう。
いいね👍
吉良家は徳川の(家系図での)本家。浅野の分家が話せるわけがない。十代だった浅野は対応にキレ、40歳手前になって、復讐。わがままな若殿が逆恨みしただけ。綱吉が嫌われてなきゃ、なんの問題にもされなかった。
忠臣蔵関係の映像、書籍などから なぜ浅野と吉良が対立するか比較していただければ面白いと思いますドラマ、映画3,4本見ただけですがいろんな見方ができて面白かったです
吉良上野介は被害者なんですよね。吉良の領民からは善政で慕われていたそうで。ただ、足利直系の高家の吉良家は徳川幕府と朝廷を取り次ぐ重鎮である一方、徳川の目の上のたんこぶでもあったよう。徳川家は代々矢作川上流の領地、吉良家は下流の領地。下流は矢作川の土砂で塩田、田んぼの広がる豊かな地で、上流の徳川にとっては我慢ならぬ存在。矢作川の付け替えをもしてしまう。元の本流は細くなり現矢作古川。幕府にとっては本来許しがたい殿中でのテロ行為も、意図せず吉良つぶしとなったことで、忠臣蔵が人気を博したことがまんざらではなかったのですかね。竹村公太郎先生の著書にありました。何か納得しました。
詳しく話されて楽しかったです、新歴だと1月30日だから雪景色の中の討ち入りになってるけど真相はどうなんですか?
こらゃ
くだものおお。😊😊😊😊😊
討入は元禄15年12月14日寅の上刻で、西暦1703年1月31日午前4時頃で、快晴で月齢13.6と満月に近いとても月が明るい状況だったようです。幕府の記録では道端に溶け残った泥まみれの雪がチラホラ残っていた程度、だそうです。「しんしんと雪が降りしきる中」というのは後世の脚色です。
愛知県住民だから吉良贔屓する気は有りませんが。地元では、塩田の整備などを行い名君と言われています。例の松の廊下事件については、内匠頭は、家督をついでだ19歳の時勅使の接待役を務めており、式次第等は頭に入っているはずですが、二度目のときには指南役の上野介のパワハラにブチギレて刃傷沙汰に及んでいる。これは、浅野の失態ですよ。ある意味、吉良は逆恨みとも言うべきもので傷を負わされ、その後、命を奪われてしまい!後世には悪役にされて憎まれる!まさに「踏んだり、蹴ったり!」ですよね。それと、ある意味、56気で吉良に斬り掛かりながら、その目的を果たせない武士に有るまじき失態ですよ。
群馬県藤岡市白石は吉良さまが産湯をつかった井戸があり吉良さまの領地。吉良さまは名君だったらしく領民に慕われ、今でも白石の人は忠臣蔵を視ない。
今回の本筋とはあんまり関係はないけど、吉良上野介の本名って実は違うって言われてるね。義央の読みが「よしなか」じゃなくて「よしひさ」の可能性が高いって文献の分析で解ったようだけど。
1:20 2:12 絵と名前が逆!
ちょっと吉良さんがかわいそすぎだろう あきらかに被害者なのに仇討されちゃうなんて 浅野内匠頭の言い分もきかないで切腹させたことも問題があるよな
吉良は普通に考えて被害者なんだろうけど、武士の価値観は極端な軍人みたいな感じなのでなんともいえません。ちなみに反撃しなかった吉良も武士としては有罪らしいです。
@@vuytskkさま「場所柄をわきまえ、身斬られながらも抵抗をしなかったのは、神妙である」てされています。
@@vuytskkあそこで吉良が反撃してたら、それこそ弁解の余地無しで両家改易だったでしょうね。
墓も諏訪大社本宮の横にある法華寺の裏山に寂しく立っている。逆恨みで殺され、無念だったはず。
殿中沙汰の日が綱吉の実母である桂昌院の誕生祝いの日でそれをぶち壊すマネをした内匠頭に切腹を命じるのも納得。
桂昌院の従一位の座がかかっていたからな。
この直前桂昌院の従一位昇位の話を京に上ってまとめてきた功労者が吉良上野介義央ですし。
仮名手本 いろは47字と47士をかけてるのがすごいな
史実と違うと言えば、堀部安兵衛は下戸で酒に弱かったこと。また赤垣源蔵も下戸で、兄はなく、訪ねたのは妹夫婦の家だった。
浅野内匠頭は上司(将軍)が江戸城内で勅使相手の大切な行事を行っている最中に、城内の廊下で禁じられている抜刀をして刃傷事件まで起こしている。後ろから吉良に襲いかかったのだ。吉良は難を逃れようとしただけで、それでも抜刀はしていない。これは傷害事件の加害者と被害者であって、両者が喧嘩したのではない。現行犯の浅野が将軍の裁定で極刑に処されたのもやむ負えない。元浅野家家臣の浪人達は将軍の裁定への不満を吉良に転嫁しただけだ。彼等は吉良を襲撃した後は自決する覚悟を持っていたのだから、主君が犯した禁令違反への謝罪と裁定への無念の思いを、将軍宛ての血判状にしたためて上奏するくらいしてこそ忠臣ではないか。例え将軍がその行為に激怒したとしても、これ以上失うものなど何もないのだから。「とかなくてしす」は、浪人達のテロ行為の被害者になった吉良の方だと思う。
自分も忠臣蔵の話は懐疑的、否定的で美談とは思いません。喧嘩両成敗が適用されなかったのは浅野が一方的にしかも背後から抜刀して無抵抗の吉良に襲い掛かっているので喧嘩とはみなさなかったというもっともな理由がある。そもそも十分な詮議をせずに感情任せに即日切腹の沙汰を下した綱吉がそもそのの原因だろうに吉良が悪役とされているのは理不尽としか思えない。
戦国時代、背後からから切り掛かった者は卑怯者とみなされ味方から切腹を申し渡されたそうです。江戸時代でもそういう風習が残っていたのでしょう。
@@齋藤元気-s9c 一緒に勉強しましょう。浅野がよくなければ四七士は起ったただろうかという事も。
@@齋藤元気-s9c 浅野さんもさあ、遠い故郷から江戸詰にされたんだろ?心を病んでもしょうがねえかもしれんね。これでも誠意を持って対応しています。
ハラスメント体質"挑戦愚等"現代劇版カルト公庵👮♂️やって漫画な🇯🇵
まともに賄賂を送らないから、それで嫌がらせをしたと、徳川実記にも書いてあるのだが?
そもそも 浅野内匠頭が何を血迷ったか 松の廊下で血を流させた事が 綱吉にとって許しがたい事でしたからねなので人情問題としてではなく 江戸城で血を流した事が切腹の理由ですからねそう言う意味で 吉良上野介は全くとばっちりでしか有りませんね その上 殺されたんですからね尚、松の廊下は昼間でも真っ暗でしたからね 雨戸が閉まったままですから
確かに吉良上野介はここでは被害者と言えなくもないのですが、それでもあまり同情されないのは、吉良の普段の行いが相当に酷かったからなんですよね。広く言われている通り地方大名へのイビリでも知られ、そのターゲットは浅野内匠頭だけではありませんでした。また度を超える程の図々しさについても言われており、訪問先で高価な骨董品や美術品を目にする度に譲るように何度もせがんだそうです。そりゃあ好かれないよね…
本当にダメな主君の仇を家臣がいるのだろうか?
人々に受けるように盛りに盛られたストーリーは何十年とテレビ・映画で見てきたが事実の忠臣蔵とはどんなものか今もよくわからない。
本質は、綱吉に対する反発ですよね。吉良ではない。朱子学に基づく体制の安定=階級の固定化ですから。江戸の町人から見れば、不満だったんだと思いますね。
忠臣蔵は「将軍○し」なのかについては、丸谷才一さんらによる延々とした議論がありましたが、最後に井沢元彦さんが、「高師直は武蔵守であり、武蔵守は将軍である」の一言で締めてしまいましたね。
吉良が勅使饗応役を指導するのは親切心とかではなくれっきとしたお役目で、どちらにせよ浅野が失態やらかせば吉良もお咎めを受ける。 勅使を巻き込むなんてハイリスクな真似してまで嫌がらせなんてするかね?と言う話もありますね。
@@柿ナハ 実際の所は頑なに理由を言わなかったそうですが、お芝居や講談では庶民に受けの良い嫌がらせや横恋慕が原因だとしているので、松の廊下事件として見ると辻褄が合わないのも当然だと思います。当時の武家の日誌などにも書かれているものを読み合わせて見ると全然印象が違いますよ。
赤穂には、仕事で何十回と行きました🙂お城にも何度か行きましたが、小さいお城とお堀で「へぇ😮」って感じですネ😔とても、大事件を惹き起こすとは思えない感じです😔但し、赤穂全体で四十七士を盛り上げる感じで、旗織物が多く立ってます🙂
そういえば最近年末になっても忠臣蔵が放映される事がない…。年末の風物詩だった。北斗の拳が地上波で放送できないのと同じかもしれない。
藤原隆家の刀伊の入寇もスカッとするぜ!
浅野内匠頭が切れたことは間違いない ただ重度の精神疾患を病んでいらしたのでは?
過去に愛知県の吉良上野介の墓所に行ってきました。領地では上野介は名君で領民の評判も良かったらしい。ただ江戸では気位が高く評判は今一つだったらしい。
地元では誰でも名君の筈です。高家の吉良はきっと自分より高禄な大名に意地悪だったと思います。
現代では忘れられているのが浄瑠璃坂の仇討ち、宇都宮藩で亡き主君の法要での刃傷事件からの仇討ち事件喧嘩両成敗ではなかったこと、浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に匿われていたところに火事装束を着て討ち入ったことなど大石内蔵助は、この仇討ちを参考にしていると思われます大きく違うのは仇討ちに成功した後、生き延びて他の藩に請われて仕官していること大石内蔵助は仇討ちに成功すれば、自分たちも他の藩に仕官できると思っての打算的な仇討ちだった可能性も大石内蔵助の切腹の際も立ち会った人の目撃談では見苦しかったとか、否定する人もいるけど仕官するための仇討ちだとしたら予想外の結末に動揺していたのかも
吉良亭討ち入りは路頭に迷った赤穂浪人の再就職活動の一環だったと思います。浅野家そのものは分家の旗本2家が残ってますから討ち入りの直線的な原因と言われる「御家再興の望みが断たれた」というのも言いがかりに聞こえます。
松の廊下の刃傷、これには綱吉の正室信子と姑桂昌院の争いがあるとか。信子は皇室から嫁にきており“従三位”も位をもっている。桂昌院は“八百屋の娘”なのに“正一位”という高い位を授かろうとしていた。皇室の娘より八百屋の娘の方が高い?普段から仲が悪く、この高い位に怒った信子が刃傷事件を仕組んだとする話もあります。浅野内匠頭の叔父さんだったか増上寺で同じような刃傷事件を起こしており“短期”“乱心”は遺伝なのかもしれません。そこを信子に利用されたのかも?
小学校二年生のころ、泉岳寺にお参りした。それから、十年後くらいに、ほど遠くないところにある大学に入学した。何かのご縁があったのかも知れない。
そうそう!今度コメディの忠臣蔵の映画が上映されますよね!ほーりーさんは見に行きますか?
徳川家は今の西尾市の吉良の領地に流れていた矢作川を、洪水対策と称して自分の領地に流れるように河川改修工事をして、わざと干拓工事で領地が増えないようにしてるから、家臣なのに権威は有るから1度目は仕方なく吉良家に味方したけど、世論が許さなかったから、それなら良い取り潰しにするチャンスと極秘の仇討許可が有ったのかも知れないですね。
数年前迄正月と成ると必ずと言って😮忠臣蔵を゙テレビで放映していたがこの頃観なく成りましたね🤔映画で忠臣蔵上映して居たのが最後かな😲❓
いいや、クリスロックの事件もあったし、また...!?
やるからにはショボイ出演者という訳にはいかないので出演料が馬鹿にならない。ドラマに掛ける費用が縮小傾向なのにセットの費用も飛び抜けて掛かるからと聞いた事があります
最近は年末の忠臣蔵が放映されず寂しい限りです😢忠臣蔵だけでなく年末の風景がドンドン失われていきます😢古き良き文化は残したいものですね😊
だって普通に考えたらただの逆恨みで47人で寄って集って人を殺して、それを日本中で喜ぶって異常事態ですから。そもそも喧嘩両成敗どころか一方的にムカつくからってだけで斬りつけられてますから。
@@綿帽子-x4s 病気だったらしいよ。
仮名手本の意味はそう言う事だったのですね。
とかなくてしす・・・。
本当に江戸時代の人々の知恵は奥が深い。
さらに、イロハが47文字であることも、
四七士の討ち入りを示唆しています。
ほーりーさんの着物姿まぶしいです😆忠臣蔵とても大好きです。一説には山鹿素行の影響が大きいという話も聞きました。いつもおもしろい動画ありがとうございます😊
赤穂事件から仮名手本忠臣蔵について、詳しく解説されていて興味深く見させていただきました実際の事件と物語の対比が面白かったです 数年前、愛知県西尾市の吉良氏ゆかりの寺院等を巡る経験をしましたが、地元では名君として崇められており、忠臣蔵のイメージとは違うなぁと感じました。
今回も見どころたっぷりの素晴らしい動画でした
名君としてはプロパガンダしているのは反動です。
そりゃあんだけ悪者にされたら名君にしたい気持ちはわかる。
当時の吉良を名君として見ている資料は0です。
資料が出てこないのはもう当時の旗本は領地を統治ほぼしないで、専ら代官が政治やってたというのもあるのかも。
吉良は名君だったと思いたいばかりに、伝承のみが残っているだけ。
そういう資料が出てくるな私の意見を変えます。
そりゃ名君だよ。
立派な人だよ。
当時の日本人は全員そうだよ
子どもの頃から12月になると どこかの映画会社の忠臣蔵がTVで放映されていましたね
大映の忠臣蔵が好きでいつも見ていました 史実というよりファンタジーとして楽しんでいました そういえばもう長い事見てないなぁ・・
松村さんの時にから面白いと思っていましたが、それにしても良く知っている
本日松平健主演の忠臣蔵を見た所でした!昔テレビで忠臣蔵を初めて見た時私が忠臣蔵を知らないので、父に信じられないと言わんばかりの顔をされた思い出(笑)あの頃は昼に時代劇の再放送なんかも見てたから、今頃時代劇にのめり込むきっかけの一つになんだろうな😊
吉良側の話として、星新一の小説「ああ吉良家の忠臣」という話が記憶に残っています。
そこでは吉良様は名君として描かれていましたが、あながち間違いでは無かったと思います。
確か寝坊して参戦出来ず生き残った人が居ましたよね。
駆け付けた時には、塀によじ登って観戦してる町民とかが屋敷を囲んではやし立ててて、恥ずかしくて中に入れなかったんでしたね。
毛利小平太だっけ
忠臣蔵については宮部みゆきさんの「鳴る石」に出てくる解釈がユニークで好き
とても勉強になりました❗️
が 、その前に ほーりーとさんがとてもかわいいですね😊
まだまアメリカに居た数年前ですが、地元の大学の日本文学の教授がドナルド・キーン教授の弟子で、非日本人では数少ない歌舞伎の専門家でして、大学で英語歌舞を演ってしまいました。定年前に是非忠臣蔵を演りたい、と言うのを実現して仕舞い、僕は義太夫の三味線を担当しました。日本から参加して下さった清元の方々に、英語の義太夫の意味をキチンと理解してそれに伴奏が付けられるのは世界で貴方だけだ、と言われました(笑)。
ほえー、すんげえな
アメリカ的価値観だとやられっぱなしではすまされねえという考え方もあるのでしょうか
英語の義太夫!
@@michinobuiimori1894 忠臣蔵が史実に基づくかどうかは別にして歌舞伎の演目として日本人文化の一部となってきたのは事実ですよね。でも忠臣蔵が日本文化からフェイドアウトしていくと主張する人もいます。忠臣蔵の真実とは浅野内匠頭がサイコパスだったという事実につきますね。それに吉良さんや大石さんが不幸にも翻弄されて運命が狂わされた。それにしても殿中で刀抜いて斬りかかるなんてスゲ~ことすると思いますよ😏
@@user-sealseal 復讐というのは世界共通語のようです。でもどこかで断ち切らないと人類の未来はありませんね。
吉良は地元では評判がいいって話だけど
吉良側の評判も伺いたかったです。いつも楽しい江戸紀行、ありがとうございます。楽しませて頂いております。
高校時代劇には歌舞伎教室が有りました。
今、振り返れば「もっと真面目に勉強してから観れば良かったなぁ~😂」と思いますねー
後は能の夏公演は安価で能楽堂も近かったので、良くお邪魔しました。
嫁いでからも能楽堂で研修会(❓️🤔)があると、興味が無い主人を巻き込み通ってました😊😊😊
浅野内匠頭が、女色に耽りキレやすい性格だったのは知ってました。
あと3月14日の天気が曇天で、江戸城松の廊下が非常に暗く内匠頭の心を陰鬱にしたのでは?という説もTVで見ました。
忠臣蔵って現代人の感覚からすると何故人気があるのか不思議だったけど
言われてみれば、江戸時代の人々は時代も違う脚色されたフィクションのほうを楽しんでいたんだよね
高師直なら吉良どころではない政権中枢の権力者だし、遺臣の恨みの矛先が向く展開も無理がない
これを史実に寄せてしまうのは、かえって本来の楽しみ方ではないのかもしれないなあ
庶民が反幕府、反政府演劇として利用したから。
実際に物理で反政府運動した大塩平八郎、高杉晋作らは忠臣蔵のファン。
史実がー!とか新説ではー!とか聞く度に、従来から語り継がれてる歴史って、お話として面白く出来てるんだなぁと思いますね。
私の先祖は関宿藩本所下屋敷にいたそうです。代々言われていることには、父から聞いた事では、吉良様にはなんの引け目はないとの事、それなりの良い殿様だと聞かされてきました。忠臣蔵はあくまでも劇だよ、毎年年末が迫るときかされてきました。上野戦争までは住んでいたそうです。
@@takaokuramochi7567 すみませんコメントさせていただきます
実は・・私兵庫在住でして、赤穂へは車で30分くらいで行けるとこに住んでるのですが・・おおっぴらに浅野内匠頭の批判しずらいのです・・
私の浅野内匠頭像は・・「逆接の日本史」で成り立ってます。すなわち浅野内匠頭は統合失調症だったのではなかったのか、恨みが積もり積もって狼藉に及んだのではなく、発作的に切りつけたのではないかと・・あまりにも証拠となる事実がないので話が飛躍しすぎていると思われるかもしれませんが・・
いっぽう吉良上野介はどうか・・
今の愛知県に領地があったんですかね。これも「逆接の日本史」に載っていたかと思うのですが、奥さんを深く愛し、開発された新田に自分の奥さんの名前を入れた「お富新田」と名付けたとか・・領民に慕われた名君だったと聞いたのですが・・
それと殿中で切りつけられても、刀を抜かなかったと・・刀を抜いて対応してれば喧嘩両成敗になるが、吉良さんはそうしなかったので、お咎めなしは当然かと。
★なぜ当然悪人と断定して良い、浅野内匠頭と四十七士が、庶民の中で良くやったともてはやされたのか(これは後の田沼意次にもいえますが)がよくわかりません。
忠臣蔵は討ち入り後すぐに、いくつもの演目があちこちで上演されたらしいですが、全て幕府から禁止命令が出されたそうです。
会社で例えると、おかしな点がある。
①・江戸城(本社)で、地方の営業所の所長が、本社の役員(吉良上野介)を斬り付ける
②・ほぼ営業所長(浅野内匠頭)が悪いのに、幕府(本社)が内匠頭に切腹(制裁)するのは当たり前なのに、部下の大石内蔵助らが、吉良上野介を仇討ちする理不尽さ。
③・仇討ちを果たした四十七士が、英雄扱いされ、吉良上野介が極悪人にされて、数百年変わらんかった。
会社と江戸時代を一緒にすな!と言われそうだけど、どう考えても、吉良上野介が不憫過ぎ。
ブラボー江戸紫のほうりー様
源氏物語の少女巻で紫の上に
取り留めのない虚構話が事実よりも生き生きと日常を描ける、と。 悪役を悪く、悲劇的に描くことこで盛り上がる、と。 小説の真髄を語っておりました🥰
江戸紫ほうり様は令和の紫の上に成長してくださいませ👌
新年の忠臣蔵また見たいけど 今度は吉良上野介視点で見てみたいわ。
赤穂藩は山鹿流を取り入れていて、天皇の使者の上座と下座の事でその事に意義を申し立てるためとも言われてますね。🙄
前期水戸学にも関わっていた山鹿素行が幕府推奨の朱子学を認めないから水戸藩を追放されて赤穂藩に匿われ、赤穂藩に尊王思想が根付いた、という話はどこかで見たような
実際には山鹿素行は赤穂藩に半年くらいしか居らず、しかも浅野の対応に不満で自ら出て行っており、後にボロクソ不満書き残してます。動画内の浅野家悪評に近い内容です。
浅野長矩に対しては、しきたりや慣習にこだわらず誹りを受けた、とあるので、吉良が言う「浅野が言うこと聞かない」に共通するものを感じます
面白いのは、山鹿素行はその後朱子学批判で蟄居させられて、赦免後に一番良くしてくれたのが吉良だったことですね。お互いの秘伝書を書き写すくらい仲良かったようです
赤穂の民は重税で酷い目にあっていたので、主君が亡くなつて喜んだ、、と言う話しもありますよね。
吉良側にいた武士たちが刀を持ったされていたら状況が違っていたかもね。
大河ドラマ、1999年の元禄繚乱を見る限りでは吉良が真の仇ではないと思う。
どうしても徳川綱吉がラスボスに思えてならない。
そうですね…。
私も、この赤穂事件をいろいろな映画やドラマ、それに、ネットや実際に播州赤穂に昔行ってきて調べてみたところ、
「浅野も吉良もともに被害者であり、加害者および、この赤穂事件の最悪の責任者は“犬(ころ)公方”こと徳川綱吉!」としか考えようがないですね…。
綱吉もだけど側近の柳沢吉保辺りもなかなか怪しい。騒動を利用して結局吉良本人も隠居させてるし。
@@もりぃ-f9h 元禄繚乱本編では吉良邸討ち入りを利用して芸州浅野本家と上杉家の双方を改易に追い込んで幕府の天領にしようと画策していた。
@@大坂智義 少し前の特集でも幕府の思惑が少なからずありそうな考察も出ていましたね。お芝居の話と実際の話の混ざってしまっているので分けて考えるのが難しい事件ですよね。
私の出身校は元をたどれば上杉藩の藩校ではありましたが成人以前は赤穂事件について特になにも思うところはありませんでした。しかしながら生きていれば91歳になる母親の子供の頃、米沢周辺では忠臣蔵の上演は禁じられていたそうです。
今は吉良方には非がなく、元赤穂藩士によるテロ行為のすべての責任は、平成6年に398年ぶりに和解するまで儀礼的な挨拶すらしない不通を保ち絶交状態だった伊達家と浅野家に勅使饗応役を命じた幕府にあると思っています。
そりゃ米沢藩は吉良上野介の子孫ですからね。ぶっちゃけ言えば今川氏真の子孫。
小学生の頃にテレビで良く年末に忠臣蔵のドラマを毎年観ていたけど、最近は忠臣蔵を全く放送していないけど、この動画を観たら忠臣蔵がどんな出来事か良く分かりやすかったです。
ただいま2作目を視聴し終えました
いやいや、とっても楽しいですね!
引き続き、視聴続けたいと思ってますよ✌️
さて、赤穂浪士
かなり以前に歴史を現代から読み解いてゆく手法の本で読んだ事なのですが
塩の販売権を巡るいざこざから始まったと書いてありました
どちらかと言えば、後追いの赤穂藩が市場を奪ってしまったと捉えています
また、江戸城では刀を抜くことが禁止されており、処罰はそれに対するものとも書いてあった記憶があります
劇中や浮世絵での四十七士の服装も、実際には見窄らしいものとも有りました
なんだか否定的なものばかりですね笑
ただ、書では、古事記にまで遡るのですが、事実はまた別なものと捉えており、それらが様ざな形で受け継がれてきたことは確かなものであると作者は述べています
面白いですね
吉良上野介も気の毒だが、モデルになった高師直も、相当お気の毒!😢
太平記からね
ホーリーさん
こうした事実と向き合った歴史検証、さすがですね。事実と向かい合っての動画、嬉しいです。
当地、米沢では吉良家と上杉家の間で3重の縁があり、愛知の旧吉良町とともに山形県米沢市でも忠臣蔵が上映されない街です。
歴史の裏に迫ると、事実と歯異なる歴史か多すぎますね。
幕末の歴史も事実に基づき描き出してほしい会津人の一人です
ラジオも毎週聞いてますよ~
「仮名手本」なのはいろは47文字と赤穂浪士47人が同じ数だからだ、という説もありますね。
咎なくて○すなのは吉良の方だったりする…(^_^;)
「傷害事件の加害者(=浅野内匠頭)が(幕府に)切腹を命じられた腹いせに、加害者の家臣が傷害事件の被害者(=吉良上野介)を惨殺した」って話なんですね。 こりゃ、たまげた😆😆
それはちょっと違います。
当時は、喧嘩両成敗という慣例や制度がありました。
浅野だけが切腹で吉良はお咎めなしという裁きは、やはり片手落ちであるという世論がありました。
これはかなりメンドクサイ話であるのだが
そもそも、室町時代の価値観が相当にヤバいのだ。
「道すがら、狭い場所ですれ違う際に立ち止まって会釈した」この会釈で、「お前誰や?」で斬り合いになり
斬り合った当事者そっちのけで双方の勢力が衝突、小競り合い(戦)になったりしていた。
この様な価値観から、状況を見て過失割合を考えて裁定すると片方が揉めるので、「もう裁定するのめどくせぇわ、取り敢えず双方腹切っておけよ」ってのが室町時代から江戸時代にかけて生まれた
「連帯責任」とかもその一環だ。「もうめどくせぇからお前ら全員処罰な」という傾向が生じた
しかし、まぁ実際は喧嘩両成敗とか言っても、実際は異なる。当然一方的に切りかかってきた方が悪いってのは、江戸時代人にも広く理解できる道理である。
だから、他の刃傷沙汰ては喧嘩両成敗とはなっていない事の方が普通だ。
同時に、江戸時代を迎え、徳川幕府は家臣に家臣たるものの心得を説くようになる。
簡単な話「主従関係」の意識が変わる。
事を面倒にしてるのは、主従関係のこの価値観の変更だ。
室町時代なら、播州赤穂藩に浅野内匠頭を切腹させて、赤穂藩は本家浅野家の管理下に置くで揉める事は無い。
当時者の所属するグループに当事者本人を処分させることで、グループ全体の体面を保ち納得させる。吉良上野介の処罰などは関係無かった。
しかし、主君の主君(徳川家)の裁定に処分に従うのが道理だろうと、徳川幕府が勝手にさっさと浅野内匠頭を切腹させてしまった事により、「主君に対する仇討し、赤穂藩士の体面維持しなければならない」という当時の武士道にも沿った大義が生まれてしまった。
江戸時代初期だと、加藤嘉明や最上義明など息子の代で潰れているが、家臣らが「主君、そんなの関係ねぇ」で揉めた結果のお取り潰しだが、彼らがお家の存続より家臣団の面目優先した結果とも言える。この面目、意地の張り合いは、井伊家二代目の相続にも非常に色濃く影響している。
江戸時代に生じた主君への忠義や、室町時代からの武士の面目を果たす方向性がどこへ向くのか?
赤穂浪士の場合は、「主君の仇討」という形になっていった。
@@silversurfer512さま
そもそも喧嘩ではありません。
切れやすい人間だった浅野内匠が、吉良の指導に切れて一方的に斬りつけたのです。
現在なら信号無視の車に跳ねられた老人を、「事故が起きたからにはお前にも責任がある」と責めるようなものです。
吉良は「全く身に覚えがない」と言っており、浅野は弁解すら出来ませんでした。
浅野が「好色、悋嗇、士を愛さない」大名であることは、既に綱吉に報告がいっており、その札付きの男が、この直前京に上って、生母桂昌院の未曾有の昇位を成し遂げた功労者の吉良に、こともあろうに勅使を迎えての式典の場で、饗応役の身で斬りつけたのですから、即日切腹は免れません。
浅野は17歳の時に勅使饗応役を経験しており、「吉良が意地悪をして必要な知識を伝えなかった」は成り立ちません。
むしろその経験に慢心した浅野が、持ち前のケチぶりを発揮し、その後荻原重秀の貨幣改鋳に物価が騰貴したことを理解せず、費用を惜しんで吉良を苦しめ、再三の吉良の指導に切れたというのが真相でしょう。
「忠臣蔵」の一夜の畳替えのエピソードなどこの辺を突いているのかもしれません。
吉良がお咎め無しのは、生類憐みの令も間接的に影響してると思います。あれは、もう戦国ではないという事で殺生を禁じようとした法令で、なにも犬だけ保護しようとする法令では無いのです。実際は、松の廊下事件では、吉良は防御のための刀を抜いてなく。それが綱吉に伝わり、浅野の一方的な攻撃と判断したのではないですかね。😊
@@silversurfer512😢
ほーりーさんの動画分かりやすくて、楽しく拝聴しています♪
歴史好きの視聴者さんの、マニアックなコメント見てるのも面白いものです😊コメントでさえも勉強になる動画なんて、中々見かけません。
東京都立博物館の蔵書はすごいですね!
これは私の私見ですが、浅野内匠頭は本当はそういう性格の殿様だったと思います。ちょっとの事でキレてしまう性格。
本当に遺恨が相当に深くて刃傷、切腹なら違う方法を選択するはず、
しかしながら些細な事でキレてしまって刃傷事件を起こした、このままでは赤穂の面子は丸潰れである、士官の先も無い。
この事件を第三者のせいにする事により
解決しようと考えた。
なので元々面子丸潰れの浪人が表舞台に出て来れて切腹は御の字である。
上手い事を考えた。と思っております。
咎無くて死んだのはむしろ吉良上野介なんだよなぁ
吉良上野介は高家で大名と同等。地元では名君として崇められていて、神社まであるそうです😅 小説「無念吉良上野介」を執筆中です。現代でも逆恨みされて自殺に追い込まれるなんてことありそうですよね。
罪はあるじゃん。奥さん(三姫)の兄の上杉綱勝を毒殺しているし。
泥棒も人殺しもしている吉良上野介が、殺されたのも仕方なし。
@@kuru-qg1iu 根拠なき妄説。権力者になればあれこれ噂を流すものはいる。上杉綱勝は生来病弱で死因は持病の内臓疾患といわれてる。
@@ヒライアツシ-q2y 上杉綱勝は生来病弱。死因は内臓疾患
@@kuru-qg1iu吉良のそういう話はみんな赤穂浪士の討ち入りが成功して拍手喝采となった後に吉良を悪人にし立てるための作り話。討ち入りが起こるまでは浅野がただの頭がおかしい殿様だった。
浅野内匠頭の刃傷を行った本当の意味を確り調べた方が良いでしょう。
更に奥深い壮大なスケールの内容が出て来ます。
ならば一度、吉良上野介義央(よしひさ)側からの目線で描かれたドラマ「忠臣蔵」も見てみたいモノだ…(* ̄∇ ̄*)😁👍❗️
かなりの名君だったらしいから✨️
北野武監督のものはそれに近いかもしれません。
絶対吉良側から見たドラマや映画が放映されるべきです。あさの 内匠頭は統合失調症だったらしいとのことも。
あ~、そうですよね。なぜ他でこのような発想をする意見が出てこないのかと今思いました。
@user-ff1dg1nf7q
パヨってるの?
大丈夫?病院いく?
ドキュメントになっても?? 映画・ドラマには ならないでしょう。全然おもしろくな~い
「仮名手本忠臣蔵」の話はよくわかりました。永代橋かぁ~(^-^)。今日のほーりーの着物の色が良かったです❗
綺羅上野介は地元紙では名君と言われていたとか・・・😮
私の知っている忠臣蔵は、「上座に座るべきか下座にすべきか」を問うたのに「そんなことも知らんのか?と」頭を勺で何度もパンパン叩き、「おのれ!おなじ場所を何度も何度も!」と斬りつけた話し。😂ナツカシ
吉良上野介というと強欲で陰険というイメージを持つ人が多いのではないか。
忠臣蔵で事実以上に悪役にされてしまったのは不本意でしょう。
ちなみに吉良上野介は地元では名君なんだよね。
@@ジャックスミス-x2r 様へ 領民の言葉が真実でしょ。(地元人ですけど)
@@鈴木典子-q4wあんないい殿様をのお…。というので赤い馬に乗った吉良様というおもちゃが残っている。
@@夕刻夕刻 様へ 討ち入りの日は吉良様の命日なので、供養があるそうですね。市町村合併でも吉良の名前を守る子孫たちが真実でしょうね。
@@鈴木典子-q4w あなたは立派ですが
ほーりーさん初めまして、ねねです。そーだったんですね。私「浅野」と言うんです。なんか微妙!?
👍ボタン、チャンネル登録しましたよ。これからも面白いお話聞かせてくださいね😊 もうすぐ10万人頑張って❤
今年もその季節ですか!
早いですね!
先祖が浅野家に仕えていました。
我が家に伝わる話では、殿様が馬鹿なことをしでかして処分を受け、「敵討ち? はぁっ!? 付き合ってらんねえよ」と刀を捨てて百姓になったらしいです。
巻き添えを食うのを避けたかったのでしょうかね。身分も軽かったのかもしれません。
忠臣蔵を見るたびに、吉良家に対してはいつも「うちの先祖の主君とその家臣がご迷惑をおかけしてすみません」という気持ちになります。
生活と見栄とどちらかを選択せねばならぬ・・・いつの時代も同じですね。ただそこを深く見た大石は「去る者は去れ」と慈悲の心を。そして本懐も仕損じたときのことを考え二番手を。深き人物だったんでしょうね、大石良雄さんは。
忠臣蔵のキーワードは現実には存在しない「山鹿流の陣太鼓」かも知れんと思ってる。
山鹿素行は尊王思想の人。
当時のお芝居では結構ダ・ヴィンチ・コードな感じでやってたんですね まあ現代もこういうのありますか😅浅野偶像ガラガラになりました
南出喜久治「皇道忠臣蔵」によれば、忠臣蔵は尊皇討幕運動の先駆とされる。
吉良の高家は禁裏御所御定目(=禁中並公家諸法度の上書き)を定めるなど皇室の行動を規制した。一方赤穂浅野家は山鹿素行の薫陶を受け、皇室に多額の出費をするなど尊皇思想を貫いていた。朝廷勅使の扱いをめぐる確執があったとされ、この問題は終始皇室をどうか扱うかの問題だった。大石内蔵助の出自も中臣家の親戚、儀式を司る家系とされ、尊皇的だった。秦氏の影響下で赤穂藩はそもそも山鹿素行以前から尊皇志向だったと思われる。そうでなければ山鹿素行を招くはずがない。山鹿素行は『中朝事実』を記し、皇室と日本の独自性と重要性を示す論理を展開していた。山鹿流陣太鼓は虚構としてもその精神的影響は無視できない。この問題は明治維新まで続く。
勅使供応の場で刃傷事件を起こしておいて尊皇もナニも無いモンだ。
皇家に対する最大の侮辱行為でしょうに。
まかり間違えばお上への反逆、腹いせによる暴挙、と取られかねない討ち入りを
「義挙」にまで認知バイアスをプレゼンした大石内蔵助の手腕に驚愕しています。
五代将軍自ら「あっぱれ」と評価してしまう(苦笑)
亡くなった方の血縁である身内が仇討ちを行うのは「合法」でした。大石内蔵助はじめ藩士達は浅野内匠頭の身内では無いので、合法とはなりません。ここでお触れを無視して仇討ちすべしという急進派15名と、弟の浅野大学(浅野長広)を立てて御家再興を目指す大石ら主流派93名に割れます。
浅野大学は浅野内匠頭の罪に連座して閉門(自宅軟禁)されましたが、規定では3年後には連座により閉門が解かれます。その後に浅野大学を立てて御家再興を成して、浅野大学の命で仇討ちをすれば合法となるので、それまで待て、という形で大石は急進派を説得し、かの有名な「血判」を作成します。この時には120名が血判捺印しています。
ところが浅野大学を閉門処分のまま本家の広島に返し、吉良上野介も引退して米沢に帰る、ということが決定してしまったため、大石プラン「合法的仇討ち」は実現不可能であることが確定してしまいました。
行き詰った大石は血縁では無い浅野内匠頭を「君父」と呼ぶことを決め、正当な仇討ちであると主張し、仇討ち後の幕府の取り調べでもそう答えています。当然ながらこの理屈は通らず全員死刑となった史実はご存知の通りです。
将軍綱吉の施政に窮屈さに庶民が苦しんでいた時代、最初に急進派が仇討ちをするという噂が立った頃から庶民からは絶大な支持を得ており、これが大石の判断を後押しした、と私は考えております。
動画にもあった通り、仮名手本忠臣蔵が完成して大人気の演目となったのは討入の45年後です。実に45年間も人気というか庶民の支持が衰えなかったということでもあり、もはやドラえもんやガンダムやジブリ並みのコンテンツだったと言えると思います。
そもそも殿中で 刀を抜くなどとすればお家断絶と決められていました。
朝廷への接待役が 接待中に上司?を 斬り付ける事件などを 起こせば 当然の責任を問われます。将軍様の顔に泥を 塗った事と同じです。
それを「喧嘩両成敗」にする大石氏には 随分と無理があると思います。
庶民が 「忠臣」ともてはやした事で 幕府もそれに乗ったのでしょうけれども
討ち入り後、なぜか上杉家が 更に減俸された事から 刃傷事件からの1年間で 幕府も赤穂浪士を 利用した事で 全て丸く片付けられたのではないかと思います。
松の廊下は刃傷沙汰御法度だったのでは?
単なる廊下では無く、江戸幕府の威厳を示すような意味合いを持った廊下で、そんな場所で刀を振りかざし血で汚した事が、切腹の理由ですよね。
それと、浅野内匠頭も江戸に来た当初は良い藩主だったのが、江戸での生活が続く中で上手く取り入って美味しい思いをしようとする人間に囲まれて堕落して行ってしまったのかな。
吉良上野介の寸評も聞きたかったですね。
赤穂浅野長矩が切腹のとき領民が喜んだらしい←苛烈な政治してたのかな?
二度目の仕事で、さらに金銭払うだけの立場なのに、吉良義央から直には指示がなかったんだろうて、思われるからますます刃傷に及んだのかわからない事件
それと戦後になって反動で、吉良が善政をやっていたという根拠に基づかないプロパガンダもやめたほうがいいと思う。
またねじ曲がったしまった。
内匠頭は2度目で勝手がわかっているのに以前より物入りな饗応準備に反発していて家臣が困っていた、との話もありましたね。気鬱の持病もあって扱いにくい人だったのかもしれませんね。
愛知県西尾市では吉良さんは名君ですよー
「仮名手本忠臣蔵」の内容は知らなかったです それに浅野内匠頭の実像はショックでした でも、そんな人物だったから刃傷事件を起こしてしまったのですね
今年の、義士祭に行って来ました 大石内蔵助は中村雅俊さんで、背が高くて威厳がありました。 パレードの最後にカチドキを「エイエイオー」って
みんなで大合唱して大いに盛り上がっておりました。
ありがとうごさいました。
吉良様と浅野は、喧嘩?ではなく、一方的に切付けられたもの。
吉良様は、刀に手をかけてさえいないので、
お咎め無しでした。
最近は吉良上野介は再評価されて優秀な人物で地元の人々から慕われていたことが分かってますね。
城内の刃傷沙汰が沢山あった中で赤穂浪士がこんなに有名になったのは歌舞伎と講談のおかげです。 坂本竜馬が人気者になったのも司馬遼太郎のおかげです。
今晩は!ホーリーさん
今回は人気の忠臣蔵ですね
自分も子供の頃から相当な数の忠臣蔵を見てますね
確かに松の廊下刃傷事件だけ見ると、ホーリーさんの言う様に浅野が一方的に吉良に斬りつけて吉良は逃げただけ、なので浅野は切腹で吉良はお咎めなしは当然の処置ですね。
ただ何故に即日切腹だったのでしょう、両者や関係者からの詳しい取り調べをするべきだったと思いますよ、吉良を斬り付ける際「この間の遺恨覚えたるか」と浅野が言ったと言う周りの証言も有りますから、浅野と吉良の間に何かしらの確執が有った事は明らかです、事件の事の発端を探ろうとせずに浅野は即日切腹で吉良はお咎めなしでは赤穂藩士にすれば絶対に許せないし幕府側の落ち度と思ったんだと思いますよ。
浅野は短気(精神疾患?)で女ぐせが悪い事は当時の資料から解りましたが、一方の吉良はどうでしょうか?領民に好かれていたと言う資料が有ると伴に悪い評判の資料も有る様です、ホーリーさんには吉良側の資料も明らかにして欲しかったですね。
それにしても
水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、忠臣蔵が大人気なのはホーリーさんが言う様に勧善懲悪が大好きな日本人だからでしょうかね。
真実がどうこうというより庶民の感情移入先が変わったのでしょうね。秀吉を嫌ったり田沼を好んだりする風潮とも関係が強いと思います。さらにはマスゴミ嫌いとも通じるかもしれません。
浅野内匠頭は前回も勅使接待役を経験している為吉良に相談しなくてもやり方は知っていたはず
ホーリーさん、ぜひ飛脚について詳しく教えてください🙇🏻🙏🏻
12月14日は討ち入りの日、蕎麦を食って一力で遊ぶ、京都生まれはいいもんだ
喧嘩両成敗と言うけど、吉良は一方的に斬りつけられただけで、自分の刀には手をかけてない。喧嘩ではない。
髪型可愛い!
面白かったです。
昔から、大石内蔵助は幕府に対してこそ、戦いを挑むべきだと思っていました。
吉良を殺害した後、切腹をせずに、その先を幕府に決めさせることが、幕府へのささやかな抵抗という話も聞きますが、死ぬ覚悟があるなら、やはり江戸城を襲撃するべきでしょう。
志村けんと加藤茶の松の廊下のコントを思いだしてしまうんですよね、あれがある意味インパクトが強烈だった。
江戸詰めだった堀部安兵衛が江戸市中の内匠頭評を知っていたにも関わらず仇討ちを強く主張したのは、彼自身が内匠頭の命で御三家の尾張藩への弔問使に抜擢されたことへの恩を重んじたのが理由の1つだと思う。
視点を変えると、殺された吉良とその家臣達は、300年経っても仇が英雄視されたままでさぞ無念だろう。
いいね👍
吉良家は徳川の(家系図での)本家。浅野の分家が話せるわけがない。十代だった浅野は対応にキレ、40歳手前になって、復讐。わがままな若殿が逆恨みしただけ。綱吉が嫌われてなきゃ、なんの問題にもされなかった。
忠臣蔵関係の映像、書籍などから なぜ浅野と吉良が対立するか比較していただければ面白いと思います
ドラマ、映画3,4本見ただけですがいろんな見方ができて面白かったです
吉良上野介は被害者なんですよね。吉良の領民からは善政で慕われていたそうで。
ただ、足利直系の高家の吉良家は徳川幕府と朝廷を取り次ぐ重鎮である一方、徳川の目の上のたんこぶでもあったよう。
徳川家は代々矢作川上流の領地、吉良家は下流の領地。下流は矢作川の土砂で塩田、田んぼの広がる豊かな地で、上流の徳川にとっては我慢ならぬ存在。
矢作川の付け替えをもしてしまう。元の本流は細くなり現矢作古川。
幕府にとっては本来許しがたい殿中でのテロ行為も、意図せず吉良つぶしとなったことで、忠臣蔵が人気を博したことがまんざらではなかったのですかね。
竹村公太郎先生の著書にありました。何か納得しました。
詳しく話されて楽しかったです、新歴だと1月30日だから雪景色の中の討ち入りになってるけど真相はどうなんですか?
こらゃ
くだもの
おお。😊😊😊😊😊
討入は元禄15年12月14日寅の上刻で、西暦1703年1月31日午前4時頃で、快晴で月齢13.6と満月に近いとても月が明るい状況だったようです。
幕府の記録では道端に溶け残った泥まみれの雪がチラホラ残っていた程度、だそうです。
「しんしんと雪が降りしきる中」というのは後世の脚色です。
愛知県住民だから吉良贔屓する気は有りませんが。地元では、塩田の整備などを行い名君と言われています。例の松の廊下事件については、内匠頭は、家督をついでだ19歳の時
勅使の接待役を務めており、式次第等は頭に入っているはずですが、二度目のときには指南役の上野介のパワハラにブチギレて刃傷沙汰に及んでいる。これは、浅野の失態ですよ。
ある意味、吉良は逆恨みとも言うべきもので傷を負わされ、その後、命を奪われてしまい!後世には悪役にされて憎まれる!まさに「踏んだり、蹴ったり!」ですよね。
それと、ある意味、56気で吉良に斬り掛かりながら、その目的を果たせない武士に有るまじき失態ですよ。
群馬県藤岡市白石は吉良さまが産湯をつかった井戸があり吉良さまの領地。吉良さまは名君だったらしく領民に慕われ、今でも白石の人は忠臣蔵を視ない。
今回の本筋とはあんまり関係はないけど、吉良上野介の本名って実は違うって言われてるね。
義央の読みが「よしなか」じゃなくて「よしひさ」の可能性が高いって文献の分析で解ったようだけど。
1:20 2:12 絵と名前が逆!
ちょっと吉良さんがかわいそすぎだろう あきらかに被害者なのに仇討されちゃうなんて 浅野内匠頭の言い分もきかないで切腹させたことも問題があるよな
吉良は普通に考えて被害者なんだろうけど、武士の価値観は極端な軍人みたいな感じなのでなんともいえません。
ちなみに反撃しなかった吉良も武士としては有罪らしいです。
@@vuytskkさま
「場所柄をわきまえ、身斬られながらも抵抗をしなかったのは、神妙である」てされています。
@@vuytskkあそこで吉良が反撃してたら、それこそ弁解の余地無しで両家改易だったでしょうね。
墓も諏訪大社本宮の横にある法華寺の裏山に寂しく立っている。逆恨みで殺され、無念だったはず。
殿中沙汰の日が綱吉の実母である桂昌院の誕生祝いの日でそれをぶち壊すマネをした内匠頭に切腹を命じるのも納得。
桂昌院の従一位の座がかかっていたからな。
この直前桂昌院の従一位昇位の話を京に上ってまとめてきた功労者が吉良上野介義央ですし。
仮名手本 いろは47字と47士をかけてるのがすごいな
史実と違うと言えば、堀部安兵衛は下戸で酒に弱かったこと。
また赤垣源蔵も下戸で、兄はなく、訪ねたのは妹夫婦の家だった。
浅野内匠頭は上司(将軍)が江戸城内で勅使相手の大切な行事を行っている最中に、城内の廊下で禁じられている抜刀をして刃傷事件まで起こしている。後ろから吉良に襲いかかったのだ。吉良は難を逃れようとしただけで、それでも抜刀はしていない。
これは傷害事件の加害者と被害者であって、両者が喧嘩したのではない。現行犯の浅野が将軍の裁定で極刑に処されたのもやむ負えない。
元浅野家家臣の浪人達は将軍の裁定への不満を吉良に転嫁しただけだ。彼等は吉良を襲撃した後は自決する覚悟を持っていたのだから、主君が犯した禁令違反への謝罪と裁定への無念の思いを、将軍宛ての血判状にしたためて上奏するくらいしてこそ忠臣ではないか。例え将軍がその行為に激怒したとしても、これ以上失うものなど何もないのだから。
「とかなくてしす」は、浪人達のテロ行為の被害者になった吉良の方だと思う。
自分も忠臣蔵の話は懐疑的、否定的で美談とは思いません。喧嘩両成敗が適用されなかったのは浅野が一方的にしかも背後から抜刀して無抵抗の吉良に襲い掛かっているので喧嘩とはみなさなかったというもっともな理由がある。そもそも十分な詮議をせずに感情任せに即日切腹の沙汰を下した綱吉がそもそのの原因だろうに吉良が悪役とされているのは理不尽としか思えない。
戦国時代、背後からから切り掛かった者は卑怯者とみなされ味方から切腹を申し渡されたそうです。江戸時代でもそういう風習が残っていたのでしょう。
@@齋藤元気-s9c 一緒に勉強しましょう。浅野がよくなければ四七士は起ったただろうかという事も。
@@齋藤元気-s9c 浅野さんもさあ、遠い故郷から江戸詰にされたんだろ?心を病んでもしょうがねえかもしれんね。
これでも誠意を持って対応しています。
ハラスメント体質"挑戦愚等"現代劇版カルト公庵👮♂️やって漫画な🇯🇵
まともに賄賂を送らないから、それで嫌がらせをしたと、徳川実記にも書いてあるのだが?
そもそも 浅野内匠頭が何を血迷ったか 松の廊下で血を流させた事が 綱吉にとって許しがたい事でしたからね
なので人情問題としてではなく 江戸城で血を流した事が切腹の理由ですからね
そう言う意味で 吉良上野介は全くとばっちりでしか有りませんね その上 殺されたんですからね
尚、松の廊下は昼間でも真っ暗でしたからね 雨戸が閉まったままですから
確かに吉良上野介はここでは被害者と言えなくもないのですが、それでもあまり同情されないのは、吉良の普段の行いが相当に酷かったからなんですよね。広く言われている通り地方大名へのイビリでも知られ、そのターゲットは浅野内匠頭だけではありませんでした。また度を超える程の図々しさについても言われており、訪問先で高価な骨董品や美術品を目にする度に譲るように何度もせがんだそうです。そりゃあ好かれないよね…
本当にダメな主君の仇を家臣がいるのだろうか?
人々に受けるように盛りに盛られたストーリーは何十年とテレビ・映画で見てきたが
事実の忠臣蔵とはどんなものか今もよくわからない。
本質は、綱吉に対する反発ですよね。吉良ではない。朱子学に基づく体制の安定=階級の固定化ですから。江戸の町人から見れば、不満だったんだと思いますね。
忠臣蔵は「将軍○し」なのかについては、丸谷才一さんらによる延々とした議論がありましたが、最後に井沢元彦さんが、「高師直は武蔵守であり、武蔵守は将軍である」の一言で締めてしまいましたね。
吉良が勅使饗応役を指導するのは親切心とかではなくれっきとしたお役目で、どちらにせよ浅野が失態やらかせば吉良もお咎めを受ける。 勅使を巻き込むなんてハイリスクな真似してまで嫌がらせなんてするかね?と言う話もありますね。
@@柿ナハ 実際の所は頑なに理由を言わなかったそうですが、お芝居や講談では庶民に受けの良い嫌がらせや横恋慕が原因だとしているので、松の廊下事件として見ると辻褄が合わないのも当然だと思います。当時の武家の日誌などにも書かれているものを読み合わせて見ると全然印象が違いますよ。
赤穂には、仕事で何十回と行きました🙂お城にも何度か行きましたが、小さいお城とお堀で「へぇ😮」って感じですネ😔とても、大事件を惹き起こすとは思えない感じです😔但し、赤穂全体で四十七士を盛り上げる感じで、旗織物が多く立ってます🙂
そういえば最近年末になっても忠臣蔵が放映される事がない…。年末の風物詩だった。
北斗の拳が地上波で放送できないのと同じかもしれない。
藤原隆家の刀伊の入寇もスカッとするぜ!
浅野内匠頭が切れたことは間違いない ただ重度の精神疾患を病んでいらしたのでは?
過去に愛知県の吉良上野介の墓所に行ってきました。領地では上野介は名君で領民の評判も良かったらしい。ただ江戸では気位が高く評判は今一つ
だったらしい。
地元では誰でも名君の筈です。
高家の吉良はきっと自分より高禄な大名に意地悪だったと思います。
現代では忘れられているのが浄瑠璃坂の仇討ち、宇都宮藩で亡き主君の法要での刃傷事件からの仇討ち事件
喧嘩両成敗ではなかったこと、浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に匿われていたところに火事装束を着て討ち入ったことなど大石内蔵助は、この仇討ちを参考にしていると思われます
大きく違うのは仇討ちに成功した後、生き延びて他の藩に請われて仕官していること
大石内蔵助は仇討ちに成功すれば、自分たちも他の藩に仕官できると思っての打算的な仇討ちだった可能性も
大石内蔵助の切腹の際も立ち会った人の目撃談では見苦しかったとか、
否定する人もいるけど仕官するための仇討ちだとしたら予想外の結末に動揺していたのかも
吉良亭討ち入りは路頭に迷った赤穂浪人の再就職活動の一環だったと思います。浅野家そのものは分家の旗本2家が残ってますから討ち入りの直線的な原因と言われる「御家再興の望みが断たれた」というのも言いがかりに聞こえます。
松の廊下の刃傷、これには綱吉の正室信子と姑桂昌院の争いがあるとか。信子は皇室から嫁にきており“従三位”も位をもっている。桂昌院は“八百屋の娘”なのに“正一位”という高い位を授かろうとしていた。皇室の娘より八百屋の娘の方が高い?普段から仲が悪く、この高い位に怒った信子が刃傷事件を仕組んだとする話もあります。浅野内匠頭の叔父さんだったか増上寺で同じような刃傷事件を起こしており“短期”“乱心”は遺伝なのかもしれません。そこを信子に利用されたのかも?
小学校二年生のころ、泉岳寺にお参りした。それから、十年後くらいに、ほど遠くないところにある大学に入学した。何かのご縁があったのかも知れない。
そうそう!今度コメディの忠臣蔵の映画が上映されますよね!ほーりーさんは見に行きますか?
徳川家は今の西尾市の吉良の領地に流れていた矢作川を、洪水対策と称して自分の領地に流れるように河川改修工事をして、わざと干拓工事で領地が増えないようにしてるから、家臣なのに権威は有るから1度目は仕方なく吉良家に味方したけど、世論が許さなかったから、それなら良い取り潰しにするチャンスと極秘の仇討許可が有ったのかも知れないですね。
数年前迄正月と成ると
必ずと言って😮
忠臣蔵を゙テレビで放映していたがこの頃
観なく成りましたね🤔
映画で忠臣蔵上映して居たのが最後かな😲❓
いいや、クリスロックの事件もあったし、また...!?
やるからにはショボイ出演者という訳にはいかないので出演料が馬鹿にならない。ドラマに掛ける費用が縮小傾向なのにセットの費用も飛び抜けて掛かるからと聞いた事があります
最近は年末の忠臣蔵が放映されず寂しい限りです😢
忠臣蔵だけでなく年末の風景がドンドン失われていきます😢
古き良き文化は残したいものですね😊
だって普通に考えたらただの逆恨みで47人で寄って集って人を殺して、それを日本中で喜ぶって異常事態ですから。
そもそも喧嘩両成敗どころか一方的にムカつくからってだけで斬りつけられてますから。
@@綿帽子-x4s 病気だったらしいよ。