Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
今作も楽しみにしていました。無理せず続けて頂けると嬉しいです。
ありがとうございます!次作も励みます!
松永や明智の心中に迫る一本。意外と天王寺の戦いとその戦後処理って大きな影響だったんだなと興味深かったです。
キターーー!!!待ちわびたぜ!!!!!
お待たせしました!ありがとうございます!!
岐阜に信忠、坂本に明智、長浜に羽柴って最高の布陣だなw
#1の頃から感じていますが、当時の地図の再現がすばしいですね熱田は海に面していた京都には小椋池があった大阪には河内湖の湿地帯で上町台地の突端にのちの大阪城ができる本願寺があった地図でしめしてもらえるとイメージがわきやすくてありがたいです
いつもありがとうございます地味に地図が一番時間がかかっているのでありがたいお言葉です完全には再現できませんが可能な限り再現していきたいと思います
投稿ありがとうございます13:27の家臣団の勢力図など見ていて面白いです
ありがとうございます励みになります
浪曲・講談では、信長は光秀救出のために数十騎の供回りのみで天王寺砦の救援向かって、戦局を打開した如く語られていますが、実際は結構な陣立てで、天王寺砦の救援に臨んだのですね。松永が裏切った理由も理解できました。
天王寺砦の救援部隊は兵数が少ないですが、部将の顔ぶれは贅沢ですよね。
お疲れ様です。今回もありがとうございます。次回も楽しみにしております。
ありがとうございます!次回も励みます。
塙直政(の遺族)に対する処分はチョット信長らしくない冷酷さですね似た状況の簗田広正は加賀を失陥する大失態でしたが本領である沓掛城主(九之坪も)は保証され信忠付にするなど挽回の機会は与えているんですよね簗田は押されて加賀から撤退したものの、最初に援軍を要請し最後まで軍編成を維持したままで織田軍の反転の拠点は残した。一方、塙はほぼ戦線を崩壊させたのが信長の癇にさわったのでしょうかね塙は大和守護と言っても直轄領も成敗した大和国人衆の僅かな領土しかなく馬回り上りと直臣が少なかったのも痛かったですね。恐らく軍勢指揮に長けた者も居なかったのでは
塙直政の処分はちょっと厳しいですよね。確かに史料上でも軍勢指揮の記録が少ないですよね。
@@tunach 信長のその性格が彼の命取りになってしまうのは、どんな説を支持するにせよ根っこの部分にはあるのかなぁと思います。
この処分、史料に残ってない何か理由があったように思えて仕方ない。例えば信長が極度に嫌ってたであろう敵勢力への物資横流しとか。後年突如追放になった安藤守就?とかそれが理由でしょ。
最近の研究では信長の人物像は違ったとよく言われるが足利義昭を奉じるあたりまではそうだなと思ってても、この頃になると充分昔からイメージにある修羅信長になってくる。
天王寺は信長の特殊性というか、信長じゃなきゃダメな理由を出した戦だと思います。おそらくその辺の大名だと「天王寺は落ち、明智らは討たれたが、怒りの君主は大軍で抗戦して本願寺勢を大坂に押し戻した」ってなるはずが、信長の異常な局地戦を見通すセンスでどうにかした感じです。現代で言えば興が乗った社長のトップダウンで負け事業をなんとか収支つけるとこまで戻した感じ
確かに天王寺の戦いは信長の力量が光る戦いでしたね。
稲生、桶狭間、天王寺しかり、信長は青年期から晩年まで戦術レベルでも強いのがすごい。
天王寺砦が陥落して光秀も討ち死にしていたら、京都支配が揺らいだ戦いでしたね。信長はやはり戦機を見極める力が非常に強い。信長自身がこんなに前線で指揮した戦いは桶狭間以来なのでは?と思いますが、それくらいの危機感があったのでしょうね。
信長の素早い判断と行動は秀逸ですよね。ここで本願寺を食い止めたのは大きいと思います。
8:50 「領国が東に広がり」は「領国が西に広がり」が正しいのでは?
ありがとうございます!
この信長の若江からの天王寺救出ルートって大坂夏の陣と似通ってるのが因果を感じるね信長、荒木、松永、細川らで攻めるルートを40年後に徳川、伊達、藤堂、井伊らでなぞるんだもんね
やっぱ信長やべえよ。怒ったらどうしようもない
7:24 一色藤長は義昭から「おめえは紀伊に残って連絡役をしろって言っただろ」って怒られたそうですよ。
なるほど。どうりで遅れて合流した訳なのですね。
ここで大和を筒井に与えたのは失策だと感じますね。信長の直臣の下につけとけば松永も裏切らなかったのでは
こういった人事は難しいですよね。
@ 難しいですがこれは反発が予想できると思います。信長ってこういう人の心を急に軽視するところがありますよね。松永の力を削ぎたかったのかな。
2:20 京都は守りに向かんからなあ
ばんなおまさ😢
今作も楽しみにしていました。無理せず続けて頂けると嬉しいです。
ありがとうございます!
次作も励みます!
松永や明智の心中に迫る一本。意外と天王寺の戦いとその戦後処理って大きな影響だったんだなと興味深かったです。
キターーー!!!
待ちわびたぜ!!!!!
お待たせしました!
ありがとうございます!!
岐阜に信忠、坂本に明智、長浜に羽柴って最高の布陣だなw
#1の頃から感じていますが、当時の地図の再現がすばしいですね
熱田は海に面していた
京都には小椋池があった
大阪には河内湖の湿地帯で上町台地の突端にのちの大阪城ができる本願寺があった
地図でしめしてもらえるとイメージがわきやすくてありがたいです
いつもありがとうございます
地味に地図が一番時間がかかっているのでありがたいお言葉です
完全には再現できませんが可能な限り再現していきたいと思います
投稿ありがとうございます
13:27の家臣団の勢力図など見ていて面白いです
ありがとうございます
励みになります
浪曲・講談では、信長は光秀救出のために数十騎の供回りのみで天王寺砦の救援向かって、戦局を打開した如く語られていますが、実際は結構な陣立てで、天王寺砦の救援に臨んだのですね。松永が裏切った理由も理解できました。
天王寺砦の救援部隊は兵数が少ないですが、部将の顔ぶれは贅沢ですよね。
お疲れ様です。今回もありがとうございます。次回も楽しみにしております。
ありがとうございます!
次回も励みます。
塙直政(の遺族)に対する処分はチョット信長らしくない冷酷さですね
似た状況の簗田広正は加賀を失陥する大失態でしたが本領である沓掛城主(九之坪も)は保証され信忠付にするなど挽回の機会は与えているんですよね
簗田は押されて加賀から撤退したものの、最初に援軍を要請し最後まで軍編成を維持したままで織田軍の反転の拠点は残した。一方、塙はほぼ戦線を崩壊させたのが信長の癇にさわったのでしょうかね
塙は大和守護と言っても直轄領も成敗した大和国人衆の僅かな領土しかなく馬回り上りと直臣が少なかったのも痛かったですね。恐らく軍勢指揮に長けた者も居なかったのでは
塙直政の処分はちょっと厳しいですよね。
確かに史料上でも軍勢指揮の記録が少ないですよね。
@@tunach 信長のその性格が彼の命取りになってしまうのは、どんな説を支持するにせよ根っこの部分にはあるのかなぁと思います。
この処分、史料に残ってない何か理由があったように思えて仕方ない。例えば信長が極度に嫌ってたであろう敵勢力への物資横流しとか。
後年突如追放になった安藤守就?とかそれが理由でしょ。
最近の研究では信長の人物像は違ったとよく言われるが足利義昭を奉じるあたりまではそうだなと思ってても、この頃になると充分昔からイメージにある修羅信長になってくる。
天王寺は信長の特殊性というか、信長じゃなきゃダメな理由を出した戦だと思います。
おそらくその辺の大名だと「天王寺は落ち、明智らは討たれたが、怒りの君主は大軍で抗戦して本願寺勢を大坂に押し戻した」ってなるはずが、信長の異常な局地戦を見通すセンスでどうにかした感じです。
現代で言えば興が乗った社長のトップダウンで負け事業をなんとか収支つけるとこまで戻した感じ
確かに天王寺の戦いは信長の力量が光る戦いでしたね。
稲生、桶狭間、天王寺しかり、信長は青年期から晩年まで戦術レベルでも強いのがすごい。
天王寺砦が陥落して光秀も討ち死にしていたら、京都支配が揺らいだ戦いでしたね。
信長はやはり戦機を見極める力が非常に強い。信長自身がこんなに前線で指揮した戦いは桶狭間以来なのでは?と思いますが、それくらいの危機感があったのでしょうね。
信長の素早い判断と行動は秀逸ですよね。
ここで本願寺を食い止めたのは大きいと思います。
8:50 「領国が東に広がり」は「領国が西に広がり」が正しいのでは?
ありがとうございます!
この信長の若江からの天王寺救出ルートって大坂夏の陣と似通ってるのが因果を感じるね
信長、荒木、松永、細川らで攻めるルートを40年後に徳川、伊達、藤堂、井伊らでなぞるんだもんね
やっぱ信長やべえよ。怒ったらどうしようもない
7:24 一色藤長は義昭から「おめえは紀伊に残って連絡役をしろって言っただろ」って怒られたそうですよ。
なるほど。
どうりで遅れて合流した訳なのですね。
ここで大和を筒井に与えたのは失策だと感じますね。
信長の直臣の下につけとけば松永も裏切らなかったのでは
こういった人事は難しいですよね。
@
難しいですがこれは反発が予想できると思います。
信長ってこういう人の心を急に軽視するところがありますよね。
松永の力を削ぎたかったのかな。
2:20 京都は守りに向かんからなあ
ばんなおまさ😢