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史実とフィクションがきちんと区別されている点がとても良いです。今後も応援しています。
SuperThanks ありがとうございます!励みになります ほーり―とお江戸いいねスタッフ一同
@@ilikeedo 、はらろ、る、ほさ、
@@ilikeedo 十手は正規の製法では鍵の部分を本体に開けた四角い穴に通してかしめてるのが本当の作り方です。現代なら溶接できますが 当時はその作り方が多かったそうです。母方の祖父の実家にあった古い十手も その作り方がされてました。
明治大学博物館、楽しそうですね。今度行ってみます。
ホーリーさんいつも5分で終わらないところが素敵
町奉行が非番の時。何をしていたか、理解しました。有難う。
初めて動画を拝見させていただきました!ご考察の内容、大変興味深くじっくり堪能出来ました!日本人女性としては希少な低音も響く声のお持ちのようで、非常に心地良く言葉が入ってきます。きっと呼吸筋や呼吸法、もしくは体軸姿勢が優れてらっしゃるのでしょうね!
町奉行について、わかりやすく詳しい解説、とても勉強になりました町奉行は、超エリートで業務は多岐に渡り大変な業務量だということは、聞いていましたが、詳しい内容まで知ることができ、よかったです。与力・同心・岡っ引についても勉強になりましたそして、明治大学博物館、ここで登場なんですね😲江戸時代の刑事部門の展示があるなんてびっくりです🤯素晴らしい施設ですね!続きの説明も楽しみです😄今回もとても楽しく有意義でした十手がどうして刀に対抗できるのか、私も疑問でしたが、これも納得できました。
江戸っ子も憧れるなりたい職業なだけあってファッションもイケてたんですね刀も良いけど十手も素敵✨
女性にモテたという意味で、なりたい職業という意味ではありません。江戸時代は身分社会なので、職業選択の自由は少なかった。あの中では、実力でなれたのは力士だけです。
分かりやすい解説ありがとうございました。チャンネル登録しました。次回作待ってます。
私の母校にこんな博物館があったとは知りませんでした。ホーリーさんが同窓とわかって尚更このサイトが好きになりましたよ。😄
ためになるね😊
4:40~いろはの出題が粋ですね。
閏月があるから奇数偶数は無理よね。時代劇で今月は南町だから北町は口を出すな!なんてセリフをよく聞く。本日はこれまで。←新八犬伝の語りを思い出しました。坂本九さん懐かしい。
与力と同心ではチョンマゲが違いますね🤔同心は町人と同じ髷にする事で羽織を脱げば変装が出来ますから☝尚、羽織の色も茶色に近かったので町人たちからは「茶羽織」の隠語で呼ばれていたようです。十手については貸与品なので、奉行所の手文庫に仕舞ったり役宅の神棚に安置して保管していました☝そこで私物の十手を購入したり調製して携帯しますが、袱紗に包んだり羅紗布で作られた十手袋に入れて懐に納めていたようですね🤔江戸の十手は真鍮製で鋳型に流し込んで作る鋳造品です。これに水銀と銀を坩堝に入れて溶解し、アマルガムを作ります👍十手にアマルガムを塗ったら直火に翳して水銀を蒸発させ、藁や布で刮ぎます☝この工程を繰り返して「銀引き」と呼ばれるメッキ加工を施すのです☝検視の際に十手の棒身で遺体の唾液や嘔吐物を搔き回すと、毒殺の場合には棒身が黒く変色するので、事件性の有無を調べるには効果的だった、とされていますね🤔また、大坂奉行所では鍛鉄製の十手に薄い銅板を張り付け、江戸の場合と同様にアマルガムを使ってメッキ加工をしていました👍捕りもの出自では、番屋や奉行所に戦闘用の長い十手が掛けられているので、その下の部分の名札を確認してから同心たちは現場に向かったのです👍出自用の着衣は鉄鎖を巻き込ませた白布の鉢巻きを額の部分で締め、黒色の着物の下に鎖帷子を着込んでいました☝岡っ引きや中間(ちゅうげん)のような小物も現場に向かいますが、犯罪者と戦うのは同心たちと指揮官である与力ですから兵站としての役割だったと考える人もいらっしゃるようですね🤔また、時代劇ではしつこいくらいに「御用」を連呼しますが、実際には「北町奉行所の者であ~る 神妙に縛につけ-い!」や「浪士山岡源八郎 御用である!」等と捕縛の意思を伝えているので何度も御用を言う必要はありません。ぞれと十手を使う際には「破邪顕正の構え」をとりますが、十手を額の前に立てて持ち、「破」の声を発し、左手は左腰に着けます。足は右足の爪先が相手に向くように、左足は右足と直角に近いくらい開いて踵をつけます👍次に両手を胸の前でクロスして「邪」を発し、更に両手を水平に開いて「顕」を発します☝この時の両足は爪先を外に向けて開脚し、膝を曲げる感じですね。そして最後に右足を大きく前に出しながら左足を曲げて腰を落とし十手を相手に向けながら「正」を発します👍 これが破邪顕正の構えですが、これですと相手が刀を持っていても斬られる事はありません。刀の斬撃ポイントは、振りかぶった位置に関係しますから同心の位置が低くなれば刀を持つ手が自分の頭よりも前に来るので腕だけで斬る事と成り、刀線刃筋が乱れます😅しかも同心は地面に近い位置から前方回転受け身をとりつつ一瞬で犯罪者に近付き、十手で犯罪者の足を叩き、怯んだ隙に仲間の同心や捕吏が持つ袖がらめや刺股で制圧してしまうのです。時代劇のように最初から大八車で押し込み、梯子や刺股で制圧できれば宜しいでしょうが江戸時代の夜は暗く、下手をすれば仲間を傷つける可能性があります。だからこそ腕の立つ同心が独りで対処して捕縛のきっかけを作るのです。最後に戦闘用十手や岡っ引きの十手にはメッキ加工がされておらず、使用後には木賊(とくさ)で磨いて名札のある場所に戻したり岡っ引きの場合には長屋に持ち帰るようにしていました(私物の場合)。
ほーりーさまなかなかな絵心もお持ちですね。今回も色々為になりました。次回の配信楽しみにしております。
奉行所の業務分担:TVドラマの「大岡越前」を見ていると”月番”という言葉が出てくる。ドラマ自体はフィクションだが、そういう言葉があるのは事実とみた方が良い。大岡越前は実在はしたし、好い人だったらしいが、ドラマのようなスーパーヒーローではないのは、ご存じ「水戸黄門」と一緒。
町奉行は旗本では最高位の職責ですよ旗本の中でもかなり上位の者しか務まりませんでした。大岡越前も三千石の大身旗本でした
与力は格式に合わせてそれなりに中間などの奉公人を抱えなきゃいけないし、同心は岡っ引きに手当を払わなきゃいけないし、この収入でも家計は楽じゃなかったと思う。
十手、警備で使っている特殊警棒よりも頑丈そうですね!警備員が会社より貸与されている特殊警棒はステンレス製で伸縮式ですが警察官が持っている警棒よりも短いです。しかも強く叩くと折れるそうです。まあ恐らく過剰防衛にならないように弱く作られていると思うのですが…
姫様定期配信お疲れ様です今回は地図を使った解説とても解りやすくとても❗次回も宜しくお願い致します
姫様評価有り難う御座います毎日お忙しい中ちょっとお手隙の時に地方の方々の為に姫様の母校明治大学の資料館迄の道案内等配信仕手は如何でしょうか
明治大学博物館には、江戸時代の捕り物三道具や刑罰に関するものも展示されているのです‼️三道具や十手の機能性と特色!奉行、与力、同心、岡っ引き、それぞれの特徴がよく分かりました
初めて拝見させて頂きました❤ちょー楽しいですね♪これからも楽しみにしてます♪
テーマ的にやはり〆の言葉は「今日はこれにて一件落着 !!」といって欲しかった😙
今日有楽町へ行ったら、南町奉行所跡と言う看板を見掛けた。ちゃちいなあ?と写真を撮ろうとしたら人が邪魔で避けようとしないので諦めた。
昔トリビアの泉で十手について解説があったな十手術という由緒正しい武術があったみたい。しっかりした型や構えもあったみたいね
中町奉行というのが一時期ありました。大岡能登守忠相が南町奉行に就任した時に中町奉行に坪内能登守鑑という人物がいまして、同役で官名が重なったために後任の大岡忠相は越前守に改めたんです。
浮世絵の顔はどの顔も同じに見えるのはなぜでしょう。ホーリーさん
次回に期待大
同心とは現代で言えば警察官,勿論公務員です。南町奉行所などの奉行所に所属しています。まあ,本所警視庁内に所属,ってな感じですね。彼らがポケットマネーで雇っているのが御用聞き(岡っ引き)。犯罪捜査に協力する仕事をするので,その道に詳しい非公務員の人たちです。 同心の上役は「与力」と呼ばれます。一人の与力は,4~5人の部下の同心を指揮監督します。この与力の上司が「町奉行」なのですね。これをちょいと図示しますね。 「町奉行・・・与力・・・同心(ここまで公務員)・・・御用聞き(非公務員)」江戸には民間の防犯組織もありました。地主が自身で番をしたから名前がついた「自身番」と「木戸番」です。自身番は大通りの四つ辻にあって,通りを挟んで反対側には木戸番がありました。自身番の上には火の見櫓まであって,火の用心のための夜回りまでします。だから自身番は現代の交番,区役所の出張所と消防署の機能を持ち合わせていたのです。江戸市中には1000箇所以上もあったそうですよ。地主が集めた「町入用」(ちょうにゅうよう)というお金で運営されました。木戸番は自身番のお手伝いといった感じで住み込みで役目を果たします。木戸(門)の番ですから,早朝は町の木戸を開け,暗くなったら閉めます。勿論この時刻は定められています。こんな程度の仕事ですから,給料も少ない。それでここで焼き芋やらあめ玉やら草履やらを売って生活の足しにしました。でも木戸番は誰でもなれるわけではありません。町内の人たちを良く知っている人,ですから長老がなるのです。そうでないと町の安全を守れませんからね。おかしな人が町内に入ろうとしたら,すぐ「あいつはおかしいぞ」と気付かないといけないのですから。旗本や大名が自分の屋敷内の大通りに面した側に置く番屋が「辻番」です。辻番にはとても怖い人が詰めていたそうです。こうして江戸の治安はほどよく守られていたのですね。
現在の区役所が役所業務+裁判+警察の各業務を一括で行って居たのが町奉行所だから区長+所長+署長の三位一体の主の権力の大きさは御立派なモノだね。旗本職も納得がいく。確かに警察捜査+裁定を下す場面はドラマ・映画=時代劇中のメインですが役所業務の様子は先ず、余り観ないwww岡っ引きに元犯罪者も成れる処は闇の犯罪組織に精通してるとは云えても、一歩間違えば悪の道へ入り兼ねないスレスレの境界線上にいる立場だ。なので同心の私的アルバイト要員なのね。与力の住居+土地面積が500坪前後は流石に御立派ですね。年収含め社長クラスは間違い無しだ。現代と照らし比べるのも面白い見方が出来て興味深いです。
傘のプレゼント!!当時は傘は安くても今の価値で5万円以上したから、凄いなー
ほーりーさん絵うまっ‼️
中町奉行所って期間は少なかったけど有ったよな
十手は空手で使われる「サイ」と使い方が似ていますよね?
江戸時代に入ってから徳川の膝元に抱えられていた甲賀武士達は城下の見廻り役をしていたそうです。視力・聴力・脚力などなど卓越した者もいたでしょうから、甲賀屋敷まで設えられ厚待遇をされていました。
逆に言えば伊賀や甲賀の者たちはその程度の扱いだったわけだろ旗本にはなれず。御家人扱いだったわけだ知名度のワリには伊賀や甲賀の忍者たちは冷遇されていたなやはり武将でなければ当時はあまり評価されなかったようだ
@@御神誉黎 伊賀や甲賀に限らず足軽で城下の屋敷に住まわされていただけでも良いかと。それ相当の者でない限りは武将の地位を獲得するのは難しいでしょうね。
十手の時の真顔、なんか良いです
大変わかりやすい解説、ありがとうございます。ところで江戸の中の町奉行とかは有名すぎますが、地方の藩の町奉行とかも同じだったのでしょうか?ご先祖が某藩町奉行所の町与力だったようなのですが…。
与力同心は、罪人に関わる仕事だから不浄の者として、将軍のお目見えが許されない冷遇がなされていましたが一方で、けっこうリッチだったらしいですよ幕府からの俸禄だけではなく庶民から用心棒代みたいなのをせしめたり色々とトラブルを避けたい大名家が金を送ったりしていたから同心は100俵5人扶持くらいの下級武士でしたが収入はそれなりによかったようです
捕縛用の十手は、警棒兼用の刃物拘束具なんですね!ひねる、ってこと思いつきませんでした。無術の相手には、長くて頑丈なほうで刃物の持ち手を叩いて叩き落し、心得のある打ち込みには長いほうで受けてひねって、刀を奪う。なるほど。ところで、捕縛に向かう同心は、刃のない刀を所持した、つまり、斬らずに叩きのめして生きたまま捕縛する、ということを聞いたことがありますが、事実なんでしょうか。
住みたい生きたい時代ですね。
ホーリー女史は、明大卒だったんですね~。
中村梅之助の主役の伝七捕物帖の主題歌に「房も紫この十手」と有りますが、何か特別な物なのですか?突然気になって····
その件を扱ったエピソードがありました…「同心と同様の職務権限」を特別に与えられた証として伝七本人が、「町方風情に拙者を捕縛することはできない!」とゴネる容疑者に説明してました…
町奉行は、江戸の行政全般を務める立場で、現在で言えば東京都知事と警視庁長官と最高裁判所裁判官を合わせたより大きな権力をもっていた3000石くらいの旗本がなった仕事だが、旗本がなれる幕臣の役職としては最高位だった与力は200石くらいの旗本が就任していたようだな。同心は100俵5人扶持くらいの御家人の仕事だったと思う。大名や商人から付け届けをもらったりしていたから、金回りはよかったようだがしかし良い事ばかりではなく、与力や同心は、罪人に携わる仕事をしていたから、幕臣の間では不浄のモノとされ。忌まれる立場にあり。将軍の直参でありながら、将軍にお目見えする事が許されず。他の幕臣からも忌避されていたから、仲間内で限られた地域に彼らは住むようになったから八丁堀とよばれる地域に与力同心の館が集中していたのだ岡っ引きの方は、これは幕府の公式な役職とはいえず。江戸の町民の中から与力や同心が私的に雇った人間だ。まあ、私的と言っても実際に犯罪捜査や罪人の捕縛などは岡っ引きが中心になって行った。雇い主の与力や同心から年間三両ほどの金を受け取って仕事を続けていたそうだが。これは当時の町民でもかなりの薄給だもちろん裏側があり。町民たちからユルリタカリを行って利益を得ていたわけであり。中には多数の子分を抱えた。親分と呼ばれるようなものだっていた。幕府もこの実態は知ってはいたし、度が過ぎれば締め上げたりもしただろうが。まあ、役に立っているからと、ほとんどの場合は黙認していたようだ
ホーリー可愛い!❤
明治大学博物館は、行ってみたい
江戸町奉行の同心の屋敷は門は無くて除戸から屋敷に入ってました。屋敷の廻は1メートル位の高さの垣根で仕切られてました。毎日縁側で髷を整えてました。毎日髪結床が八丁堀組屋敷に多数来て整えてました。出勤は毎日朝8時半に出て午後四時半には屋敷に帰ってました。家臣は居なくて町奉行所に雇われてる中間が一人付いてました。手札を与えてた岡っ引が、勝手に屋敷に来て垣根を修繕したり、庭の掃除をしたりしてました。三十俵二人扶持でしたが、町家からの付け届けや町奉行所に届けられる残献の分配で年三百両(今の価値で六千万円)の収入がありました。与力は千両(2億円)の収入でした。小伝馬町牢屋敷の牢屋下男は僅かに五両一人扶持でしたが牢屋名主からの買い物代行でひと月軽く十両(ニ百万円)儲けてました。歳を取り下男株を五百両で売り長年貯めた金子で農家の土地を借り二間続きの家を建て近郷から下男下女を雇いいきな黒塀見越しの松の生活でした。口入屋からは女中奉公の口実で妾を雇い此方も悠々自適な生活でした。庶民相手の御役は約得が多かったのです。
時代劇を👀👀見て居ると十手で悪人と戦う場面⁉️刀とアレだけ戦えるのか⁉️不思議でした😔
マイ十手。すごいです
十手欲しいなあ今東映チャンネルで遠山の金さん公開されてるから本当に欲しい。明治維新の際、町奉行所が消滅するときの流れもやってほしいです。意外に知らない人が多いので。
ガキの頃、兄貴が持ってたな。プラスチック製じゃなく金属製のやつ。今じゃ手に入るかわからんけど。
本物の十手もたまに骨董品店で見かける事があるがレプリカならお土産屋でも売っているし、Amazonでも買えるよ安いのは二千円くらいだが、さすがにこれはチャチな物のようだからもう少し金を出せば、けっこう見栄えの良いのも買えるようだ
こんにちは!ホーリーさん子供の頃は、江戸の町を北町奉行と南町奉行で半分ずつ分けて管轄していたと勘違いしていて、大人になり月番制で南町奉行と北町奉行交互に江戸全体を管轄していたと知りました。ただ、そうなると一つの疑問を感じました。そして未だに謎なのですが、、、その疑問は、何故わざわざ月番制にして南町奉行と北町奉行の二つの奉行所を作る必要があったのか、初めから一つの奉行所にして江戸全体を治めた方が効率が良いのでは、と言う疑問です。二つの方が何らかのメリットが有ったと言う事でしょうか?
十手カッコいいなぁ…
松村邦洋のDJ日本史聞いてました。次は火付盗賊改の解説が聴きたい
始めまして。時代劇マニア江戸吉(えどきち)でございます。岡っ引きの話で気になりましたが、天領を支配する代官がヤクザとグルになっていたり、実在した博徒、飯岡助五郎が関東取締出役から十手を預かったのは本当のことらしくこの事から御府内のロケ設定の時代劇でもこのような設定になったのでは?と私は思います。奉行の石高の話ですが、遠山金四郎は五百石程の小禄だったのに「北町奉行→大目付→南町奉行」と歴任したそうですね。私は時代劇で一番好きなのは暴れん坊将軍でその他御府内のロケ設定で幕府の役人を主人公にしたものも好きです。(必殺シリーズはあまり好まない)
ハントー人の作り話ですよ?それ。ヤクザは昭和から、だよね?当時はまだ、日本にはいません
ファッションがおもしろーい。ステイタスを今になぞらえてくれるのが解りやすいです。
同心は諸藩からの付け届けが沢山あり大名なみの暮らしだったそうです。幕府も認めていた。つまり中村主水は貧しくなかったんですよね。
同心が大名並とまではいかなかったとは思うが諸藩からのお金の他にも江戸の商家などからも金が届けられていたので同心や与力は財政的には豊かだった
北町と南町の業務分担の問題は、暴れん坊将軍を見てる人ならすぐわかるでしょう。「今月の月番は北町だったな」というセリフが時々出てきますので。
50万人都市を数十人の与力で治安の維持が出来ていたって事は犯罪がほとんど起こらなかったのかな?
外国人がいませんからね鍵も無いす。
なるほど・・・勉強に成ります。
十手は今の警棒、刀受けが付いている、銀流しといい十手の先に銀が被せて在る、毒殺の調べで口中に入れると黒く変色すると云う、位により十手の房色が変わる、同心は朱色、与力は紺色、奉行は白色、岡っ引きは同心の子飼手伝いなので同心から十手を預かっている、房色は同心、与力、奉行の使う色以外か鉄棒のまま、滑り止めなので着物の細紐や縄を巻いていたのもいたらしい?銭形平次は創作話し。
十手以外では鼻捻(ハナネジ)、万力鎖が捕り物ではよく使われてたそうな鼻捻は警棒の元祖みたいな物ほかにも近接戦で暴徒を鎮圧するのに効果有りそうな武具は鉄拳や角手とか有ったが、鉄拳(メリケンサックみたいな物)はともかく角手は時代劇で殆ど観た事がない💍仕置屋稼業で同心が1回殺しに使ったぐらいかな?漫画でも片山愁の忍者漫画で見たぐらいかな暗器(隠し武器)としてはかなり使い勝手がいい武器なのに殆どフィクションで使われてないのは珍しい
与力で200石とはいえ、馬を飼わなきゃいけないし、中間や奉公人・女中を抱えないといけない。季節毎の出費もあるしで大変ですね。幕末に直臣の多くが幕府に恩を感じないのも無理無い。。。
与力には、元々奉行所勤めの者と、選任された町奉行の家来がなる内与力があったと思いますが、いわゆる江戸三男の与力は元々奉行所勤めの与力のことですよね!?
十手って、犯罪捜査を行う与力や同心以外には与えられなかったの?今でいう、警察手帳や拳銃みたいなもの?
十手は今で言えば警察手帳みたいなもので武器ではなく時代劇のような捕物には使いません。実際の捕縛は同心以上の役職が捕縛史を指揮し岡っ引き捕物帖は時代劇の作り話。
江戸の対テロ対策組織機動隊でもある、火付盗賊改め役、通称「火盗改め」の説明動画もお願いしたいです😀
それ、中国やハントーの話ですよ?ほうか、は。中国やハントーでしかありませんよ?
火付盗賊改め役は先手組が兼務しており。システムとしてはトップが長官で、その下に与力同心がおり役目は町奉行と重なることから、奉行所と何かと対立していたようだ犯罪捜査を行うと言っても、そのやり方には容赦はなく。江戸の庶民から恐れられていたようだね。実際、いま大岡と呼ばれた長谷川平蔵以外は、火付盗賊改め役は時代劇でも悪役として描かれる事が多いし長谷川平蔵は500石の旗本だった。大岡越前や遠山の金さんは三千石の旗本だったと言うから火付盗賊改め役は町奉行より数段も下の役職であったわけだ
@@御神誉黎 ハントー人ですか?それはハントー人の作り話ですよ?
声がかわいい。
入れ墨判官のハシリと思われる、根岸鎮衛【ネギシカタモリ】を、解説してほしいです。白河藩主松平定信が、町奉行に、推挙した、しかも、遠山景元よりも前に、前科者には、入れ墨判官として、江戸時代の人々には大耳の奉行として、有名でした。ちなみに、入れ墨の絵柄は、赤鬼でした
昭和の半ばまで時代劇の”ミステリー物”の主役といえば岡っ引きでしたね。銭形平次を筆頭に、伝七・半七・新五・人形佐七・・・・・・。当時は子供だったのでよく分かっていませんでしたが、彼らは同心が雇った私立探偵だったのですね! 最近は”コンプライアンス”の都合?なのか、主役となる作品は見かけませんね。「明治大学博物館」の名物といえば”あれ”ですよね!! 来週は「閲覧注意!!」かな??
十手って今でも実用性有りそう。
刺股は、刃物を持った犯人を取り押さえるために、現在でも使われているみたいですよ。
👍
こんにちは。クイズ、正解しました〜。遠山の金さんのような、入れ墨を入れた役人は、居たのでしょうか? 十手は、これ一本で十人力だからかな〜? しかし、江戸時代は、え〜ど〜。ですよね。(笑)
浅田次郎さんの赤猫に出て来る、牢屋の話もお願いします(*^^*)
必殺仕事人の八丁堀の旦那は与力やったんですね🫢そんなに裕福に見せない演出やったんですね😁
中村主水は同心だったと思うが。与力は200石くらいの旗本が務めたが、同心は100俵五人扶持くらいの御家人が務めていた御家人の多くは知行地がなく、幕府から給与として支給されるお米で生活していた
「名字帯刀でないと傘はさせない」という江戸ルールはいつころ無くなったのですか?
南町と北町の業務分担は鬼平犯科帳にも書かれてますね。
町奉行と、火盗改方長官と❗どちらが、禄高が、上なのでしょうか❓
町奉行の役高は三千石、火盗長官は千五百石です
十手は相手の刀の横腹を叩いて折ったり曲げたりする闘い方の武器です
ホーリー近すぎ~~~
当時ははんざい者がほとんどいないので、警察とか100人ほど。どろぼーとかいない時代。今より治安いい時代。
八丁堀の旦那って本当に言っていたのかw婿殿…
岡っ引き と 下っ引き の区別が抜けています
大岡越前や金さんってそんな偉い人だったんですね。中村主水がなぜ仲間うちで「八丁堀」って呼ばれてるのかも納得。銭形平次はアルバイトだったというのが、今日一番の衝撃でした。
同心は罪人に携わる仕事だから、幕臣の間では不浄のモノとして忌み嫌われる立場だったのですよだから将軍の直参でありながら、将軍のお目見えは許されない立場でもあったわけでありそういう立場だから他の幕臣たちと同じ地域に住むことが出来なかったから、八丁堀と呼ばれる限れた場所に同心や与力は暮らしていたのです
@@御神誉黎 同心や与力は、町奉行所だけではなく伝馬町の牢屋敷にも牢屋同心がいましたよね。本来なら斬首刑の執行も牢屋同心がする仕事でだったんですが、いつのまにか、臨時雇いの試刀家の山田浅右衛門がやるようになったんですよね。
この時代にも賄賂とかあったと思うのですが、何か記録はありますか?
興味の視点がズレてませんか?
賄賂はハントーや中国の話ですよ?日本にはありません。まだ、外国人いないから
大岡裁きで一件落着、遠山桜で一件落着。中村主水も楽じゃないから仕事人。まあ中村主水はフィクションですが。江戸の役人も楽じゃあ無いですね。
楽ですよ。
はー。。かわいい笑
「通勤時間0」ではなく「24時間勤務」です
そっか、ヒガシはそんな高級取りだったのか。その割にはお家はしょぼいし、使用人も少ないね。お城に近いから将軍さまがしょっちゅう庭からくるのね。主水は中村さんちに婿にきたのは同心を継ぐためだったのかしら。岡っ引きの奥さんは飯屋や髪結いしてるものね。銭形さんちの奥さんは専業主婦。付け届け多かったのかな。
下っ引きについては余りはっきり判りません。彼らは公人なのでしょうか?それとも臨時雇いみたいなものでしょうか?若しくはボランティア?
Holy-san o sodae-ta Meiji University ni kokorokara keei o haraimasu. O-Migoto!!
の、鋸が怖すぎる・・・
八丁堀の七人!
奉行とは上の仰を奉はつて下へ行なうの義也。古事類苑13冊 p396(国会図書館)与力は馬上同心とし、それに付るを歩行同心というか。これは足軽と同じ事なるべし。古事類苑13冊p414 :江戸町方与力 佐久間長敬(おさひろ)(国会図書館)本物の幕末、南町与力が監修したらしい。他にも刑罪詳説等。憲教類典(第5之14)町奉行(国立公文書館)によると何か町家の方々がーーー。罪を犯した者を捕らへ 刑罰の 軽重の目安を示して欲しいと幕府に対して。8フレーム寛文三年では奉行所へーーー云々と。...亨保年間では老中たちが、三奉行を交え、罰則を。訴訟に対してはーーー。町家の自治といい、奉行所の立ち位置といい。このナガレで来ているのでしょうか?「吟味伺書進達留」というのもあります。 くずし字の得意な方。お願いします。
「Tの字」ではなくて、「丁字」ですね。若い人はTと丁を間違えるが、江戸の話題なのだから正確にお願いします。
逆だよ
1 大変興味深いお話です。どこでてにいれられるのですか?2 明大は法学の中で、刑法で有名な簡易がするという印象を持ち始めていましたが、博物館が紹介されて、やはり刑法・刑法史に注力しているようだと知りました。小説などでも・時代劇でも、短い十手を同心・与力が持っていますし、刀を十手でオルト記載があるので、そうかと思っていましたが、やはり嘘なのですね。ただ、町奉行所は犯人を殺さずに捕縛する方針だったようなので、捕縛術に優れていると聞きました。実際今でも、警察官の方は道場で体術を習っているようです。米警官のようにすぐに拳銃を撃たず、犯人を制圧する図がTVでも放映されていたように思います。江戸町奉行所から警察にひきすがれた電灯なのでしょう。3 江戸町奉行所は都庁、警視庁、裁判所に分かれてゆきますが、不平等条約改正ン向けて法治国家体制を整えるうえで、江戸町奉行所が吉宗のお定め書きをもとに、凡例主義で裁判していた経験は大きかったようですね。明治になってすぐ、東京都大阪に裁判所ができ、米国商人が明治4年に大阪裁判所にある藩商社を相手に訴訟を起こし、風解した岩崎弥太郎が土佐から上阪している記録があるようです。近代刑法が施行されるまではお定め書きを修正して用いる太政官富国が出されていたそうです。そんな時代に、大坂町奉行所に発する大阪裁判所で外国人が裁判を起こせたのは驚きです(ある意味、日本は早い時期に近代化しており、誇りでもあるということでしょう)。大阪町奉行所の管轄範囲は知りませんが、江戸町奉行所は関東近辺の裁判を扱っていたようです。どのあたりまでなのかなと関心を持っており、この辺も解説して頂けるとありがたかったです。4 一番驚くのは良く情報を探し出しますね。明治になって、江戸町奉行所の奉行、与力等から学者が聞き書きした資料が残っているとは言われますが、実際の者を見たことが無く、調査能力にも敬服します。
Holy-san, Jutte o motta sugata ga sugoi o-niai desu! Kakkeeeeeee!
Edo-no rekishi to seikatsu-bunka ni kanshite-wa saikoo no Kyooiku oyobi Entame UA-cam desu. Itsumo Hokade-wa manabenu benkyoo o sase-te itadai-te imasu. Kansha ni taemasen.
Rekishi, Seikatsu-Bunka no YouTobe to-shite saikoo no Kyooiku-Entertainment no program desu. Itsumo kansha ni taemasen.
町奉行と聞くと水戸黄門で悪いことする人というイメージがついちゃってました。
ホーリー
火付盗賊改めは?
それは、中国やハントーの話です。日本にはありません。
うむむむ、、今日もキャワイイ(≧▽≦) 目の保養、、ちなみに同い年(@^^)/~~~
十手の鈎部分の機能については、さすがに「殺陣の先生」だけあって、十手を「格好を付けた言い方」をされてるんだと思います。あくまで私見ではありますが、あの鈎部分にて実際に刀身を受け止める事は出来ない訳ではないが、一方向にしか付いてないので、上手く受けられる可能性は低く、また、もしも受ける事が出来ても、そこから捻って刀身を押さえ込むのは非常に困難であると思います。十手の柄は断面形状が殆ど真円で、しかも非常に細いので、捻ろうにも捻り力が続かず、また滑ってしまうはずです。柄に糸巻がされている物なら尚さら、本体と糸が滑ってしまうと推定されます。鈎の主な目的は、帯に差して歩き回っても簡単には脱落しない様にする為、だと私は考えています。
史実とフィクションがきちんと区別されている点がとても良いです。今後も応援しています。
SuperThanks ありがとうございます!励みになります ほーり―とお江戸いいねスタッフ一同
@@ilikeedo 、はらろ、る、ほさ、
@@ilikeedo 十手は正規の製法では鍵の部分を本体に開けた四角い穴に通してかしめてるのが本当の作り方です。
現代なら溶接できますが 当時はその作り方が多かったそうです。
母方の祖父の実家にあった古い十手も その作り方がされてました。
明治大学博物館、楽しそうですね。今度行ってみます。
ホーリーさんいつも5分で終わらないところが素敵
町奉行が非番の時。何をしていたか、理解しました。有難う。
初めて動画を拝見させていただきました!ご考察の内容、大変興味深くじっくり堪能出来ました!日本人女性としては希少な低音も響く声のお持ちのようで、非常に心地良く言葉が入ってきます。きっと呼吸筋や呼吸法、もしくは体軸姿勢が優れてらっしゃるのでしょうね!
町奉行について、わかりやすく詳しい解説、とても勉強になりました町奉行は、超エリートで業務は多岐に渡り大変な業務量だということは、聞いていましたが、詳しい内容まで知ることができ、よかったです。与力・同心・岡っ引についても勉強になりましたそして、明治大学博物館、ここで登場なんですね😲江戸時代の刑事部門の展示があるなんてびっくりです🤯素晴らしい施設ですね!続きの説明も楽しみです😄今回もとても楽しく有意義でした十手がどうして刀に対抗できるのか、私も疑問でしたが、これも納得できました。
江戸っ子も憧れるなりたい職業なだけあって
ファッションもイケてたんですね
刀も良いけど十手も素敵✨
女性にモテたという意味で、なりたい職業という意味ではありません。
江戸時代は身分社会なので、職業選択の自由は少なかった。
あの中では、実力でなれたのは力士だけです。
分かりやすい解説ありがとうございました。チャンネル登録しました。次回作待ってます。
私の母校にこんな博物館があったとは知りませんでした。ホーリーさんが同窓とわかって尚更このサイトが好きになりましたよ。😄
ためになるね😊
4:40~
いろはの出題が粋ですね。
閏月があるから奇数偶数は無理よね。時代劇で今月は南町だから北町は口を出すな!なんてセリフをよく聞く。
本日はこれまで。←新八犬伝の語りを思い出しました。坂本九さん懐かしい。
与力と同心ではチョンマゲが違いますね🤔同心は町人と同じ髷にする事で羽織を脱げば変装が出来ますから☝尚、羽織の色も茶色に近かったので町人たちからは「茶羽織」の隠語で呼ばれていたようです。
十手については貸与品なので、奉行所の手文庫に仕舞ったり役宅の神棚に安置して保管していました☝
そこで私物の十手を購入したり調製して携帯しますが、袱紗に包んだり羅紗布で作られた十手袋に入れて懐に納めていたようですね🤔
江戸の十手は真鍮製で鋳型に流し込んで作る鋳造品です。これに水銀と銀を坩堝に入れて溶解し、アマルガムを作ります👍
十手にアマルガムを塗ったら直火に翳して水銀を蒸発させ、藁や布で刮ぎます☝この工程を繰り返して「銀引き」と呼ばれるメッキ加工を施すのです☝検視の際に十手の棒身で遺体の唾液や嘔吐物を搔き回すと、毒殺の場合には棒身が黒く変色するので、事件性の有無を調べるには効果的だった、とされていますね🤔
また、大坂奉行所では鍛鉄製の十手に薄い銅板を張り付け、江戸の場合と同様にアマルガムを使ってメッキ加工をしていました👍
捕りもの出自では、番屋や奉行所に戦闘用の長い十手が掛けられているので、その下の部分の名札を確認してから同心たちは現場に向かったのです👍出自用の着衣は鉄鎖を巻き込ませた白布の鉢巻きを額の部分で締め、黒色の着物の下に鎖帷子を着込んでいました☝岡っ引きや中間(ちゅうげん)のような小物も現場に向かいますが、犯罪者と戦うのは同心たちと指揮官である与力ですから兵站としての役割だったと考える人もいらっしゃるようですね🤔
また、時代劇ではしつこいくらいに「御用」を連呼しますが、実際には「北町奉行所の者であ~る 神妙に縛につけ-い!」や「浪士山岡源八郎 御用である!」等と捕縛の意思を伝えているので何度も御用を言う必要はありません。
ぞれと十手を使う際には「破邪顕正の構え」をとりますが、十手を額の前に立てて持ち、「破」の声を発し、左手は左腰に着けます。足は右足の爪先が相手に向くように、左足は右足と直角に近いくらい開いて踵をつけます👍
次に両手を胸の前でクロスして「邪」を発し、更に両手を水平に開いて「顕」を発します☝この時の両足は爪先を外に向けて開脚し、膝を曲げる感じですね。
そして最後に右足を大きく前に出しながら左足を曲げて腰を落とし十手を相手に向けながら「正」を発します👍 これが破邪顕正の構えですが、これですと相手が刀を持っていても斬られる事はありません。
刀の斬撃ポイントは、振りかぶった位置に関係しますから同心の位置が低くなれば刀を持つ手が自分の頭よりも前に来るので腕だけで斬る事と成り、刀線刃筋が乱れます😅
しかも同心は地面に近い位置から前方回転受け身をとりつつ一瞬で犯罪者に近付き、十手で犯罪者の足を叩き、怯んだ隙に仲間の同心や捕吏が持つ袖がらめや刺股で制圧してしまうのです。時代劇のように最初から大八車で押し込み、梯子や刺股で制圧できれば宜しいでしょうが江戸時代の夜は暗く、下手をすれば仲間を傷つける可能性があります。
だからこそ腕の立つ同心が独りで対処して捕縛のきっかけを作るのです。最後に戦闘用十手や岡っ引きの十手にはメッキ加工がされておらず、使用後には木賊(とくさ)で磨いて名札のある場所に戻したり岡っ引きの場合には長屋に持ち帰るようにしていました(私物の場合)。
ほーりーさま
なかなかな絵心もお持ちですね。
今回も色々為になりました。次回の配信楽しみにしております。
奉行所の業務分担:TVドラマの「大岡越前」を見ていると”月番”という言葉が出てくる。ドラマ自体はフィクションだが、そういう言葉があるのは事実とみた方が良い。大岡越前は実在はしたし、好い人だったらしいが、ドラマのようなスーパーヒーローではないのは、ご存じ「水戸黄門」と一緒。
町奉行は旗本では最高位の職責ですよ
旗本の中でもかなり上位の者しか務まりませんでした。
大岡越前も三千石の大身旗本でした
与力は格式に合わせてそれなりに中間などの奉公人を抱えなきゃいけないし、同心は岡っ引きに手当を払わなきゃいけないし、この収入でも家計は楽じゃなかったと思う。
十手、警備で使っている特殊警棒よりも
頑丈そうですね!
警備員が会社より貸与されている特殊警棒
はステンレス製で伸縮式ですが
警察官が持っている警棒よりも短いです。
しかも強く叩くと折れるそうです。
まあ恐らく過剰防衛にならないように
弱く作られていると思うのですが…
姫様
定期配信お疲れ様です
今回は地図を使った
解説とても解りやすくとても❗
次回も宜しくお願い致します
姫様
評価有り難う御座います
毎日お忙しい中ちょっとお手隙の時に
地方の方々の為に
姫様の母校明治大学の
資料館迄の道案内等
配信仕手は如何で
しょうか
明治大学博物館には、江戸時代の捕り物三道具や刑罰に関するものも展示されているのです‼️三道具や十手の機能性と特色!奉行、与力、同心、岡っ引き、それぞれの特徴がよく分かりました
初めて拝見させて頂きました❤ちょー楽しいですね♪これからも楽しみにしてます♪
テーマ的にやはり〆の言葉は「今日はこれにて一件落着 !!」といって欲しかった😙
今日有楽町へ行ったら、南町奉行所跡と言う看板を見掛けた。ちゃちいなあ?と写真を撮ろうとしたら人が邪魔で避けようとしないので諦めた。
昔トリビアの泉で十手について解説があったな
十手術という由緒正しい武術があったみたい。しっかりした型や構えもあったみたいね
中町奉行というのが一時期ありました。
大岡能登守忠相が南町奉行に就任した時に中町奉行に坪内能登守鑑という人物がいまして、同役で官名が重なったために後任の大岡忠相は越前守に改めたんです。
浮世絵の顔はどの顔も同じに見えるのはなぜでしょう。ホーリーさん
次回に期待大
同心とは現代で言えば警察官,勿論公務員です。南町奉行所などの奉行所に所属しています。まあ,本所警視庁内に所属,ってな感じですね。彼らがポケットマネーで雇っているのが御用聞き(岡っ引き)。犯罪捜査に協力する仕事をするので,その道に詳しい非公務員の人たちです。
同心の上役は「与力」と呼ばれます。一人の与力は,4~5人の部下の同心を指揮監督します。この与力の上司が「町奉行」なのですね。これをちょいと図示しますね。
「町奉行・・・与力・・・同心(ここまで公務員)・・・御用聞き(非公務員)」
江戸には民間の防犯組織もありました。地主が自身で番をしたから名前がついた「自身番」と「木戸番」です。自身番は大通りの四つ辻にあって,通りを挟んで反対側には木戸番がありました。自身番の上には火の見櫓まであって,火の用心のための夜回りまでします。だから自身番は現代の交番,区役所の出張所と消防署の機能を持ち合わせていたのです。江戸市中には1000箇所以上もあったそうですよ。地主が集めた「町入用」(ちょうにゅうよう)というお金で運営されました。木戸番は自身番のお手伝いといった感じで住み込みで役目を果たします。木戸(門)の番ですから,早朝は町の木戸を開け,暗くなったら閉めます。勿論この時刻は定められています。こんな程度の仕事ですから,給料も少ない。それでここで焼き芋やらあめ玉やら草履やらを売って生活の足しにしました。でも木戸番は誰でもなれるわけではありません。町内の人たちを良く知っている人,ですから長老がなるのです。そうでないと町の安全を守れませんからね。おかしな人が町内に入ろうとしたら,すぐ「あいつはおかしいぞ」と気付かないといけないのですから。
旗本や大名が自分の屋敷内の大通りに面した側に置く番屋が「辻番」です。辻番にはとても怖い人が詰めていたそうです。こうして江戸の治安はほどよく守られていたのですね。
現在の区役所が役所業務+裁判+警察の各業
務を一括で行って居たのが町奉行所だから
区長+所長+署長の三位一体の主の権力の大
きさは御立派なモノだね。旗本職も納得が
いく。確かに警察捜査+裁定を下す場面はド
ラマ・映画=時代劇中のメインですが役所業
務の様子は先ず、余り観ないwww
岡っ引きに元犯罪者も成れる処は闇の犯罪
組織に精通してるとは云えても、一歩間違
えば悪の道へ入り兼ねないスレスレの境界
線上にいる立場だ。なので同心の私的アル
バイト要員なのね。
与力の住居+土地面積が500坪前後は流石に
御立派ですね。年収含め社長クラスは間違
い無しだ。現代と照らし比べるのも面白い
見方が出来て興味深いです。
傘のプレゼント!!当時は傘は安くても今の価値で5万円以上したから、凄いなー
ほーりーさん絵うまっ‼️
中町奉行所って期間は少なかったけど有ったよな
十手は空手で使われる「サイ」と使い方が似ていますよね?
江戸時代に入ってから徳川の膝元に抱えられていた甲賀武士達は城下の見廻り役をしていたそうです。視力・聴力・脚力などなど卓越した者もいたでしょうから、甲賀屋敷まで設えられ厚待遇をされていました。
逆に言えば伊賀や甲賀の者たちはその程度の扱いだったわけだろ
旗本にはなれず。御家人扱いだったわけだ
知名度のワリには伊賀や甲賀の忍者たちは冷遇されていたな
やはり武将でなければ当時はあまり評価されなかったようだ
@@御神誉黎 伊賀や甲賀に限らず足軽で城下の屋敷に住まわされていただけでも良いかと。
それ相当の者でない限りは武将の地位を獲得するのは難しいでしょうね。
十手の時の真顔、なんか良いです
大変わかりやすい解説、ありがとうございます。
ところで江戸の中の町奉行とかは有名すぎますが、地方の藩の町奉行とかも同じだったのでしょうか?
ご先祖が某藩町奉行所の町与力だったようなのですが…。
与力同心は、罪人に関わる仕事だから不浄の者として、将軍のお目見えが許されない冷遇がなされていましたが
一方で、けっこうリッチだったらしいですよ
幕府からの俸禄だけではなく
庶民から用心棒代みたいなのをせしめたり
色々とトラブルを避けたい大名家が金を送ったりしていたから
同心は100俵5人扶持くらいの下級武士でしたが
収入はそれなりによかったようです
捕縛用の十手は、警棒兼用の刃物拘束具なんですね!ひねる、ってこと思いつきませんでした。無術の相手には、長くて頑丈なほうで刃物の持ち手を叩いて叩き落し、心得のある打ち込みには長いほうで受けてひねって、刀を奪う。なるほど。ところで、捕縛に向かう同心は、刃のない刀を所持した、つまり、斬らずに叩きのめして生きたまま捕縛する、ということを聞いたことがありますが、事実なんでしょうか。
住みたい生きたい時代ですね。
ホーリー女史は、明大卒だったんですね~。
中村梅之助の主役の伝七捕物帖の主題歌に「房も紫この十手」と有りますが、
何か特別な物なのですか?突然気になって····
その件を扱ったエピソードがありました…「同心と同様の職務権限」を特別に与えられた証として伝七本人が、「町方風情に拙者を捕縛することはできない!」とゴネる容疑者に説明してました…
町奉行は、江戸の行政全般を務める立場で、現在で言えば東京都知事と警視庁長官と最高裁判所裁判官を合わせたより大きな権力をもっていた
3000石くらいの旗本がなった仕事だが、旗本がなれる幕臣の役職としては最高位だった
与力は200石くらいの旗本が就任していたようだな。
同心は100俵5人扶持くらいの御家人の仕事だったと思う。
大名や商人から付け届けをもらったりしていたから、金回りはよかったようだが
しかし良い事ばかりではなく、与力や同心は、罪人に携わる仕事をしていたから、幕臣の間では不浄のモノとされ。忌まれる立場にあり。
将軍の直参でありながら、将軍にお目見えする事が許されず。他の幕臣からも忌避されていたから、仲間内で限られた地域に彼らは住むようになったから
八丁堀とよばれる地域に与力同心の館が集中していたのだ
岡っ引きの方は、これは幕府の公式な役職とはいえず。江戸の町民の中から与力や同心が私的に雇った人間だ。
まあ、私的と言っても実際に犯罪捜査や罪人の捕縛などは岡っ引きが中心になって行った。
雇い主の与力や同心から年間三両ほどの金を受け取って仕事を続けていたそうだが。これは当時の町民でもかなりの薄給だ
もちろん裏側があり。町民たちからユルリタカリを行って利益を得ていたわけであり。
中には多数の子分を抱えた。親分と呼ばれるようなものだっていた。
幕府もこの実態は知ってはいたし、度が過ぎれば締め上げたりもしただろうが。まあ、役に立っているからと、ほとんどの場合は黙認していたようだ
ホーリー可愛い!❤
明治大学博物館は、行ってみたい
江戸町奉行の同心の屋敷は門は無くて除戸から屋敷に入ってました。
屋敷の廻は1メートル位の高さの垣根で仕切られてました。
毎日縁側で髷を整えてました。
毎日髪結床が八丁堀組屋敷に多数来て整えてました。
出勤は毎日朝8時半に出て
午後四時半には屋敷に帰ってました。
家臣は居なくて町奉行所に雇われてる中間が一人付いてました。
手札を与えてた岡っ引が、勝手に屋敷に来て垣根を修繕したり、庭の掃除をしたりしてました。
三十俵二人扶持でしたが、町家からの付け届けや町奉行所に届けられる残献の分配で年三百両(今の価値で六千万円)の収入がありました。
与力は千両(2億円)の収入でした。
小伝馬町牢屋敷の牢屋下男は
僅かに五両一人扶持でしたが
牢屋名主からの買い物代行で
ひと月軽く十両(ニ百万円)儲けてました。
歳を取り下男株を五百両で売り長年貯めた金子で農家の土地を借り二間続きの家を建て
近郷から下男下女を雇いいきな黒塀見越しの松の生活でした。
口入屋からは女中奉公の口実で妾を雇い此方も悠々自適な生活でした。
庶民相手の御役は約得が多かったのです。
時代劇を👀👀見て居ると十手で悪人と戦う場面⁉️刀とアレだけ戦えるのか⁉️不思議でした😔
マイ十手。すごいです
十手欲しいなあ
今東映チャンネルで遠山の金さん公開されてるから本当に欲しい。
明治維新の際、町奉行所が消滅するときの流れもやってほしいです。意外に知らない人が多いので。
ガキの頃、兄貴が持ってたな。
プラスチック製じゃなく金属製のやつ。
今じゃ手に入るかわからんけど。
本物の十手もたまに骨董品店で見かける事があるが
レプリカならお土産屋でも売っているし、Amazonでも買えるよ
安いのは二千円くらいだが、さすがにこれはチャチな物のようだから
もう少し金を出せば、けっこう見栄えの良いのも買えるようだ
こんにちは!ホーリーさん
子供の頃は、江戸の町を北町奉行と南町奉行で半分ずつ分けて管轄していたと勘違いしていて、大人になり月番制で南町奉行と北町奉行交互に江戸全体を管轄していたと知りました。
ただ、そうなると一つの疑問を感じました。そして未だに謎なのですが、、、
その疑問は、何故わざわざ月番制にして南町奉行と北町奉行の二つの奉行所を作る必要があったのか、初めから一つの奉行所にして江戸全体を治めた方が効率が良いのでは、と言う疑問です。
二つの方が何らかのメリットが有ったと言う事でしょうか?
十手カッコいいなぁ…
松村邦洋のDJ日本史聞いてました。次は火付盗賊改の解説が聴きたい
始めまして。時代劇マニア江戸吉(えどきち)でございます。
岡っ引きの話で気になりましたが、天領を支配する代官がヤクザとグルになっていたり、実在した博徒、飯岡助五郎が関東取締出役から十手を預かったのは本当のことらしくこの事から御府内のロケ設定の時代劇でもこのような設定になったのでは?と私は思います。
奉行の石高の話ですが、遠山金四郎は五百石程の小禄だったのに「北町奉行→大目付→南町奉行」と歴任したそうですね。
私は時代劇で一番好きなのは暴れん坊将軍でその他御府内のロケ設定で幕府の役人を主人公にしたものも好きです。(必殺シリーズはあまり好まない)
ハントー人の作り話ですよ?
それ。
ヤクザは昭和から、だよね?
当時はまだ、日本にはいません
ファッションがおもしろーい。
ステイタスを今になぞらえてくれるのが解りやすいです。
同心は諸藩からの付け届けが沢山あり大名なみの暮らしだったそうです。幕府も認めていた。
つまり中村主水は貧しくなかったんですよね。
同心が大名並とまではいかなかったとは思うが
諸藩からのお金の他にも江戸の商家などからも金が届けられていたので同心や与力は財政的には豊かだった
北町と南町の業務分担の問題は、暴れん坊将軍を見てる人ならすぐわかるでしょう。「今月の月番は北町だったな」というセリフが時々出てきますので。
50万人都市を数十人の与力で治安の維持が出来ていたって事は犯罪がほとんど起こらなかったのかな?
外国人がいませんからね
鍵も無いす。
なるほど・・・勉強に成ります。
十手は今の警棒、刀受けが付いている、銀流しといい十手の先に銀が被せて在る、毒殺の調べで口中に入れると黒く変色すると云う、位により十手の房色が変わる、同心は朱色、与力は紺色、奉行は白色、岡っ引きは同心の子飼手伝いなので同心から十手を預かっている、房色は同心、与力、奉行の使う色以外か鉄棒のまま、滑り止めなので着物の細紐や縄を巻いていたのもいたらしい?銭形平次は創作話し。
十手以外では鼻捻(ハナネジ)、万力鎖が捕り物ではよく使われてたそうな
鼻捻は警棒の元祖みたいな物
ほかにも近接戦で暴徒を鎮圧するのに効果有りそうな武具は鉄拳や角手とか有ったが、鉄拳(メリケンサックみたいな物)はともかく角手は時代劇で殆ど観た事がない💍
仕置屋稼業で同心が1回殺しに使ったぐらいかな?
漫画でも片山愁の忍者漫画で見たぐらいかな
暗器(隠し武器)としてはかなり使い勝手がいい武器なのに殆どフィクションで使われてないのは珍しい
与力で200石とはいえ、馬を飼わなきゃいけないし、中間や奉公人・女中を抱えないといけない。
季節毎の出費もあるしで大変ですね。
幕末に直臣の多くが幕府に恩を感じないのも無理無い。。。
与力には、元々奉行所勤めの者と、選任された町奉行の家来がなる内与力があったと思いますが、いわゆる江戸三男の与力は元々奉行所勤めの与力のことですよね!?
十手って、犯罪捜査を行う与力や同心以外には与えられなかったの?
今でいう、警察手帳や拳銃みたいなもの?
十手は今で言えば警察手帳みたいなもので武器ではなく時代劇のような捕物には使いません。実際の捕縛は同心以上の役職が捕縛史を指揮し岡っ引き捕物帖は時代劇の作り話。
江戸の対テロ対策組織機動隊でもある、火付盗賊改め役、通称「火盗改め」の説明動画もお願いしたいです😀
それ、中国やハントーの話ですよ?
ほうか、は。
中国やハントーでしかありませんよ?
火付盗賊改め役は先手組が兼務しており。システムとしてはトップが長官で、その下に与力同心がおり
役目は町奉行と重なることから、奉行所と何かと対立していたようだ
犯罪捜査を行うと言っても、そのやり方には容赦はなく。
江戸の庶民から恐れられていたようだね。
実際、いま大岡と呼ばれた長谷川平蔵以外は、火付盗賊改め役は時代劇でも悪役として描かれる事が多いし
長谷川平蔵は500石の旗本だった。
大岡越前や遠山の金さんは三千石の旗本だったと言うから
火付盗賊改め役は町奉行より数段も下の役職であったわけだ
@@御神誉黎
ハントー人ですか?
それはハントー人の作り話ですよ?
声がかわいい。
入れ墨判官のハシリと思われる、根岸鎮衛【ネギシカタモリ】を、解説してほしいです。白河藩主松平定信が、町奉行に、推挙した、しかも、遠山景元よりも前に、前科者には、入れ墨判官として、江戸時代の人々には大耳の奉行として、有名でした。ちなみに、入れ墨の絵柄は、赤鬼でした
昭和の半ばまで時代劇の”ミステリー物”の主役といえば岡っ引きでしたね。
銭形平次を筆頭に、伝七・半七・新五・人形佐七・・・・・・。当時は子供だったのでよく分かっていませんでしたが、
彼らは同心が雇った私立探偵だったのですね! 最近は”コンプライアンス”の都合?なのか、主役となる作品は見かけませんね。
「明治大学博物館」の名物といえば”あれ”ですよね!! 来週は「閲覧注意!!」かな??
十手って今でも実用性有りそう。
刺股は、刃物を持った犯人を取り押さえるために、現在でも使われているみたいですよ。
👍
こんにちは。クイズ、正解しました〜。遠山の金さんのような、入れ墨を入れた役人は、居たのでしょうか? 十手は、これ一本で十人力だからかな〜? しかし、江戸時代は、え〜ど〜。ですよね。(笑)
浅田次郎さんの赤猫に出て来る、牢屋の話もお願いします(*^^*)
必殺仕事人の八丁堀の旦那は与力やったんですね🫢
そんなに裕福に見せない演出やったんですね😁
中村主水は同心だったと思うが。
与力は200石くらいの旗本が務めたが、同心は100俵五人扶持くらいの御家人が務めていた
御家人の多くは知行地がなく、幕府から給与として支給されるお米で生活していた
「名字帯刀でないと傘はさせない」という江戸ルールはいつころ無くなったのですか?
南町と北町の業務分担は鬼平犯科帳にも書かれてますね。
町奉行と、火盗改方長官と❗どちらが、禄高が、上なのでしょうか❓
町奉行の役高は三千石、火盗長官は千五百石です
十手は相手の刀の横腹を叩いて折ったり曲げたりする闘い方の武器です
ホーリー近すぎ~~~
当時ははんざい者がほとんどいないので、
警察とか100人ほど。
どろぼーとかいない時代。
今より治安いい時代。
八丁堀の旦那って本当に言っていたのかw
婿殿…
岡っ引き と 下っ引き の区別が抜けています
大岡越前や金さんってそんな偉い人だったんですね。中村主水がなぜ仲間うちで「八丁堀」って呼ばれてるのかも納得。銭形平次はアルバイトだったというのが、今日一番の衝撃でした。
同心は罪人に携わる仕事だから、幕臣の間では不浄のモノとして忌み嫌われる立場だったのですよ
だから将軍の直参でありながら、将軍のお目見えは許されない立場でもあったわけであり
そういう立場だから他の幕臣たちと同じ地域に住むことが出来なかったから、八丁堀と呼ばれる限れた場所に同心や与力は暮らしていたのです
@@御神誉黎 同心や与力は、町奉行所だけではなく伝馬町の牢屋敷にも牢屋同心がいましたよね。本来なら斬首刑の執行も牢屋同心がする仕事でだったんですが、いつのまにか、臨時雇いの試刀家の山田浅右衛門がやるようになったんですよね。
この時代にも賄賂とかあったと思うのですが、何か記録はありますか?
興味の視点がズレてませんか?
賄賂は
ハントーや中国の話ですよ?
日本にはありません。
まだ、外国人いないから
大岡裁きで一件落着、遠山桜で一件落着。
中村主水も楽じゃないから仕事人。まあ中村主水はフィクションですが。
江戸の役人も楽じゃあ無いですね。
楽ですよ。
はー。。かわいい笑
「通勤時間0」ではなく「24時間勤務」です
そっか、ヒガシはそんな高級取りだったのか。
その割にはお家はしょぼいし、使用人も少ないね。
お城に近いから将軍さまがしょっちゅう庭からくるのね。
主水は中村さんちに婿にきたのは同心を継ぐためだったのかしら。
岡っ引きの奥さんは飯屋や髪結いしてるものね。
銭形さんちの奥さんは専業主婦。
付け届け多かったのかな。
下っ引きについては余りはっきり判りません。彼らは公人なのでしょうか?それとも臨時雇いみたいなものでしょうか?若しくはボランティア?
Holy-san o sodae-ta Meiji University ni kokorokara keei o haraimasu. O-Migoto!!
の、鋸が怖すぎる・・・
八丁堀の七人!
奉行とは上の仰を奉はつて
下へ行なうの義也。
古事類苑13冊 p396(国会図書館)
与力は馬上同心とし、
それに付るを歩行同心というか。
これは足軽と同じ事なるべし。
古事類苑13冊p414
:
江戸町方与力 佐久間長敬(おさひろ)
(国会図書館)本物の幕末、南町与力が監修したらしい。
他にも
刑罪詳説等。
憲教類典(第5之14)町奉行(国立公文書館)によると
何か町家の方々がーーー。
罪を犯した者を捕らへ 刑罰の 軽重の目安を示して欲しいと幕府に対して。
8フレーム
寛文三年では
奉行所へーーー云々と。
...
亨保年間では老中たちが、三奉行を交え、罰則を。
訴訟に対してはーーー。
町家の自治といい、
奉行所の立ち位置といい。
このナガレで来ているのでしょうか?
「吟味伺書進達留」というのもあります。
くずし字の得意な方。
お願いします。
「Tの字」ではなくて、「丁字」ですね。
若い人はTと丁を間違えるが、江戸の話題なのだから正確にお願いします。
逆だよ
1 大変興味深いお話です。どこでてにいれられるのですか?
2 明大は法学の中で、刑法で有名な簡易がするという印象を持ち始めていましたが、博物館が紹介されて、やはり刑法・刑法史に注力しているようだと知りました。小説などでも・時代劇でも、短い十手を同心・与力が持っていますし、刀を十手でオルト記載があるので、そうかと思っていましたが、やはり嘘なのですね。ただ、町奉行所は犯人を殺さずに捕縛する方針だったようなので、捕縛術に優れていると聞きました。実際今でも、警察官の方は道場で体術を習っているようです。米警官のようにすぐに拳銃を撃たず、犯人を制圧する図がTVでも放映されていたように思います。江戸町奉行所から警察にひきすがれた電灯なのでしょう。
3 江戸町奉行所は都庁、警視庁、裁判所に分かれてゆきますが、不平等条約改正ン向けて法治国家体制を整えるうえで、江戸町奉行所が吉宗のお定め書きをもとに、凡例主義で裁判していた経験は大きかったようですね。明治になってすぐ、東京都大阪に裁判所ができ、米国商人が明治4年に大阪裁判所にある藩商社を相手に訴訟を起こし、風解した岩崎弥太郎が土佐から上阪している記録があるようです。近代刑法が施行されるまではお定め書きを修正して用いる太政官富国が出されていたそうです。そんな時代に、大坂町奉行所に発する大阪裁判所で外国人が裁判を起こせたのは驚きです(ある意味、日本は早い時期に近代化しており、誇りでもあるということでしょう)。大阪町奉行所の管轄範囲は知りませんが、江戸町奉行所は関東近辺の裁判を扱っていたようです。どのあたりまでなのかなと関心を持っており、この辺も解説して頂けるとありがたかったです。
4 一番驚くのは良く情報を探し出しますね。明治になって、江戸町奉行所の奉行、与力等から学者が聞き書きした資料が残っているとは言われますが、実際の者を見たことが無く、調査能力にも敬服します。
Holy-san, Jutte o motta sugata ga sugoi o-niai desu! Kakkeeeeeee!
Edo-no rekishi to seikatsu-bunka ni kanshite-wa saikoo no Kyooiku oyobi Entame UA-cam desu. Itsumo Hokade-wa manabenu benkyoo o sase-te itadai-te imasu. Kansha ni taemasen.
Rekishi, Seikatsu-Bunka no YouTobe to-shite saikoo no Kyooiku-Entertainment no program desu. Itsumo kansha ni taemasen.
町奉行と聞くと水戸黄門で悪いことする人というイメージがついちゃってました。
ホーリー
火付盗賊改めは?
それは、中国やハントーの話です。
日本にはありません。
うむむむ、、今日もキャワイイ(≧▽≦) 目の保養、、ちなみに同い年(@^^)/~~~
十手の鈎部分の機能については、さすがに「殺陣の先生」だけあって、十手を「格好を付けた言い方」をされてるんだと思います。
あくまで私見ではありますが、あの鈎部分にて実際に刀身を受け止める事は出来ない訳ではないが、一方向にしか付いてないので、上手く受けられる可能性は低く、また、もしも受ける事が出来ても、そこから捻って刀身を押さえ込むのは非常に困難であると思います
。
十手の柄は断面形状が殆ど真円で、しかも非常に細いので、捻ろうにも捻り力が続かず、また滑ってしまうはずです。柄に糸巻がされている物なら尚さら、本体と糸が滑ってしまうと推定されます。
鈎の主な目的は、帯に差して歩き回っても簡単には脱落しない様にする為、だと私は考えています。