Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
お疲れさまです。親の世代と重なることもあり複雑な心境です。戦禍を超え戦後復興を為した日本人の皆さんには感謝しかありません。
アルバムの乙女たちがあの戦火の中でなくなられた方も居られたのではないかと想うと切なくなります
アルバムシリーズ。。。いつも泣いてしまう。
古さを感じませんね。戦前も江戸、明治、大正時代も私達が思ってる以上に多分華やかで賑やかだったと思います。江戸時代の華やかな写真色々と見たいですね。
全てに親しみを感じて、本当に感動します。いつも楽しみにしています。私たちが生きる時代も、いつかこうして懐かしまれる時が来るのでしょうか。
小田急TIMEさんいつも楽しみにしています、80年前に確かに女学生達の学校生活がそこにあったと思うと、時の流れ、歴史は今に繋がっていると実感できます、有難うございます。
お疲れ様です。何時も、楽しみで見ています。何か懐かしい気持ちで見ています。タイムスリップした感じです。時代と文化があったんだなぁって見ています。どうかお元気でまた動画を見せて下さい。毎回感謝してます。
娘が中学受験で落ちた学校で苦い思い出があり見る事を躊躇したのですがチャンネルの魅力には勝てず最後まで拝見いたしました😊
お客様で昭和18年に府立第一高等女学校に入学された方がいて、戦時中のことを話してくださったことがありました。第一高女は昭和19年に学校ごと白馬に疎開したのだそうです。その方は日本橋生まれの日本橋育ちでそこでご商売をずっとされているのですが、お年を召しても慎ましやかで上品な方でした。
いつも有難う御座います。皆さんご存命なら98歳でしょうか。私の母は95歳。同じく女学校卒です。辛い青春時代でしたが、乗り越えて生き抜いて来たんですね。今日もトイレの電球が切れたので取り替えに行って来た処です。頑張って生きてます。
亡くなった母と全くの同年代です。樺太真岡の女学校と洗足の師範学校に通ってた当日の話しを時々してくれました。きっとこの様な日々を過ごしてたのだろう…と目頭を熱くしながら拝見させて頂きました。有難う御座います。
驚くほどきれいな女性ばかりですね、正に才色兼備、理想的です❗
何が理想的なのでしょうか、富裕層の勉強が出来る女の子が、そんなに価値があり、称賛することですか。私は違うと思います。とくに、公教育を、正しく、公平に行うべき公立にもかかわらず、経済的問題で進学を諦めた、多くの有能な女子を救う手立てが全くなされていないとを、おかしいと思いませんか。この時代も、今も、東京都の公教育は、経済格差による教育格差を是正どころか、推進しています。富裕層の才媛?やおぼっちゃまに依存しても、日本はよくなりません。現に、太平洋戦争に突入させたし、現在は、先進国から転落し、貧困国入り一歩手前です。
昭和20年3月の空襲を思うと、何とも言えない気持ちになります。
女学生、今と違って清楚で上品
全く同感です。今は化粧やカラーリング、アクセサリー等など当たり前なんですよね。今が1番素顔が美しいのに、本当に勿体ない😢
あの頃は一女二女以外は良いとこのお嬢さんが私立へという時代だったので 今とは違いますよね
まぁ中身はそれほど違いは無いと思いますが、清楚で上品というイメージはしますし、事実上品でしたね。
亡母の母校です。昭和7年11月生でした。このアルバムの校舎で学んでいたのですね。学年で自分で一番頭が良かったと言ってました(同級生のご学友からも聞いてます)。東京薬科大学→三楽病院と進み、外科医の亡父親と結婚しました。有難う御座います。
映画『彼岸花』で田中絹代が防空壕に逃げる時、これほど家族の一体感を感じたことはないと言うシーンがありますが、なぜか印象に残っています。
8:59 の教室の机などを見ると今とほとんどまったく変わってないことを感じます。 卒業してもう80年たってもきっと当時のことを鮮明に覚えてるでしょうね
いつも貴重な確認調査をして貰いお疲れ様です、そして有難うございます。このチャンネルを拝見させて貰うと亡くなった祖父母両親叔父叔母達や長兄を思い出します、何故か優しい気持ちになれます、今後も宜しくお願いします。
私は悲しくなります。だって、もう、いないんだもの。
母はこの学校ではありませんが第一女学校の卒業生でした(戦後すぐの入学で旧制女学校の最後の卒業でした)。学校の思い出は本当に素晴らしいものだったようです。皆さん達筆で和歌や俳句を友達同士でたしなみ、友情を育んでいたとのこと。その友情は生涯続いていました。話を聞いて羨ましく思ったものです。
戦後教育で日本人は劣化してしまった感じがします。ワタシの父母も達筆でしたが、ワタシは拙筆で手書きの書き物などは他人様にお見せできるようなものではありません。戦前の教育に戻すべきだと強く思いますね・・
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et très bon week-end ! ✨✨
空き地があれば食糧増産のために畑にしてたのでは?
戦前の当時御徒町の周辺にこれだけの緑が残っていたことにビックリ。都会も真ん中でも意外と牧歌的な学生時代を送れたのかな。しかし女学生たちもキリッとした利発そうな表情をしている。
ワタシもそう感じたんですが、@user-zz7lw4iq1hさんの書き込みに戦中学校ごと白馬の方に疎開されていたということで、そちらの方の写真ではないですかね?
6:48この時代に既にバスケットゴールがあったとはびっくりです
制服のデザインが今にない物。セーラーでもブレザーでもない、独特の制服。この時代でも、旅行と運動会等、行事は同じなんだぁ。
面立ちが才媛系だね。東京大空襲でどうなったんだろう、、、皆、将来にいろんな希望描いてたよね。
空襲ではまる焼けになってしまったエリアですね。昭和15年頃にタイムスリップしてミッドウエー以降の悲惨さを伝え戦争を止めさせたい。
大学の友人2名が上野高校と学校群を組んでいた時代の卒業生、でした。
戦前の景色や写真を見とぃると自分の育った時代、1965年後半から1970年にかけてとそっくりな場面がよくあります。戦争のため日本は20年以上時が止まっていたのかもしれません。
不安な時代だけど楽しそうな写真もありますね。このあと東京大空襲、敗戦。みんな、どんな人生を歩んだのかな?
皇紀2602年は1942年ですからアルバム制作は大平洋戦争が始まる前後。まだその後苦難(食糧難,軍需工場への勤労奉仕,空襲)が待ち構えているとは,誰も想像しなかった
さすが東京のお嬢さん。戦時中なのに垢抜けてますね。
時代的には、世間もきな臭くなり、現在では想像つかない大変な時代であった事でしょう。でも、そんな中でも精一杯に青春を謳歌しようとしていた姿が伝わってきます。しかし、こうした彼女たちにも、これから戦争という荒波は容赦なく襲ってきたのでしょう。どれだけの生徒が無事に戦後を迎えられたか…また、命を落としてしまった方々もこの中にはいる事でしょう。こうした事を考えると、なんだか、どう言葉で言い表わせたらよいか、なんだか切ない思いを禁じえない。
現在の都立深川高等学校も元府立高女だったと聞きますが第何高女だったのでしょうか?
第一東京市立高等女学校です。1924年創立。
1:45 から移ってるおねーさん?が気になる。
見るからに利発そうな面立ち… セーラー服ではなかったんですね。
母校でした~🥹
いまナンバースクールとして残っているのは浦和第一女子だけですね
ここに写るほとんどの方がもうご存命ではないと思うとなんとも言えない気持ちになります。ちなみに亡き祖母は大正13年生まれですが府立第六高女卒業生です。写真の皆さんよりほんの少しだけ年長でしょうか。当時の卒業生の進路は、クラスのうち師範学校などへの進学と就職が各2〜3人ずつで、あとの大半は卒業までに嫁ぎ先が決まっていったのだそうです。決まると朝の、今で言うホームルームの時間に「〇〇さんは〇〇(職業)の〇〇さんとのご結婚が決まりました」と先生から発表があったのだとか。第一高女だともう少し進学する方が多かったかもしれませんが、黒板に「育児」の文字があったのも、卒業してすぐお嫁に行くのが大半だった時代だと思うと納得です。(余談ですが祖母は数少ない就職組でした。飛行機を作る会社の人事部で働いていました。木村屋のあんぱんを自分でに買えるようになりたかったのだそうです。)動画を見ながら女学校の合格発表を見に行ったときの話とか、昔の話をたくさん聞かせて貰ったことを懐かしく思い出しました。ありがとうございました😊
美人の集団ですね?
皇紀2602年か! なんの数字かと思った。
初めまして、私は、Shin nazo cinema'sと申します。よろしくお願いします。
お疲れさまです。親の世代と重なることもあり複雑な心境です。戦禍を超え戦後復興を為した日本人の皆さんには感謝しかありません。
アルバムの乙女たちがあの戦火の中でなくなられた方も居られたのではないかと想うと切なくなります
アルバムシリーズ。。。いつも泣いてしまう。
古さを感じませんね。戦前も江戸、明治、大正時代も私達が思ってる以上に多分華やかで賑やかだったと思います。江戸時代の華やかな写真色々と見たいですね。
全てに親しみを感じて、本当に感動します。いつも楽しみにしています。私たちが生きる時代も、いつかこうして懐かしまれる時が来るのでしょうか。
小田急TIMEさんいつも楽しみにしています、80年前に確かに女学生達の学校生活がそこにあったと思うと、時の流れ、歴史は今に繋がっていると実感できます、有難うございます。
お疲れ様です。
何時も、楽しみで見ています。何か懐かしい気持ちで見ています。タイムスリップした感じです。時代と文化があったんだなぁって見ています。どうかお元気でまた動画を見せて下さい。毎回感謝してます。
娘が中学受験で落ちた学校で苦い思い出があり見る事を躊躇したのですがチャンネルの魅力には勝てず最後まで拝見いたしました😊
お客様で昭和18年に府立第一高等女学校に入学された方がいて、戦時中のことを話してくださったことがありました。
第一高女は昭和19年に学校ごと白馬に疎開したのだそうです。
その方は日本橋生まれの日本橋育ちでそこでご商売をずっとされているのですが、お年を召しても慎ましやかで上品な方でした。
いつも有難う御座います。皆さんご存命なら98歳でしょうか。私の母は95歳。同じく女学校卒です。
辛い青春時代でしたが、乗り越えて生き抜いて来たんですね。
今日もトイレの電球が切れたので取り替えに行って来た処です。頑張って生きてます。
亡くなった母と全くの同年代です。樺太真岡の女学校と洗足の師範学校に通ってた当日の話しを時々してくれました。きっとこの様な日々を過ごしてたのだろう…と目頭を熱くしながら拝見させて頂きました。有難う御座います。
驚くほどきれいな女性ばかりですね、正に才色兼備、理想的です❗
何が理想的なのでしょうか、富裕層の勉強が出来る女の子が、そんなに価値があり、称賛することですか。私は違うと思います。とくに、公教育を、正しく、公平に行うべき公立にもかかわらず、経済的問題で進学を諦めた、多くの有能な女子を救う手立てが全くなされていないとを、おかしいと思いませんか。この時代も、今も、東京都の公教育は、経済格差による教育格差を是正どころか、推進しています。富裕層の才媛?やおぼっちゃまに依存しても、日本はよくなりません。現に、太平洋戦争に突入させたし、現在は、先進国から転落し、貧困国入り一歩手前です。
昭和20年3月の空襲を思うと、何とも言えない気持ちになります。
女学生、今と違って清楚で上品
全く同感です。今は化粧や
カラーリング、アクセサリー等など当たり前なんですよね。今が
1番素顔が美しいのに、本当に勿体ない😢
あの頃は一女二女以外は良いとこのお嬢さんが私立へという時代だったので 今とは違いますよね
まぁ中身はそれほど違いは無いと思いますが、清楚で上品というイメージはしますし、事実上品でしたね。
亡母の母校です。昭和7年11月生でした。このアルバムの校舎で学んでいたのですね。学年で自分で一番頭が良かったと言ってました(同級生のご学友からも聞いてます)。東京薬科大学→三楽病院と進み、外科医の亡父親と結婚しました。有難う御座います。
映画『彼岸花』で田中絹代が防空壕に逃げる時、これほど家族の一体感を感じたことはないと言うシーンがありますが、なぜか印象に残っています。
8:59 の教室の机などを見ると今とほとんどまったく変わってないことを
感じます。 卒業してもう80年たってもきっと当時のことを鮮明に
覚えてるでしょうね
いつも貴重な確認調査をして貰いお疲れ様です、そして有難うございます。このチャンネルを拝見させて貰うと亡くなった祖父母両親叔父叔母達や長兄を思い出します、何故か優しい気持ちになれます、今後も宜しくお願いします。
私は悲しくなります。だって、もう、いないんだもの。
母はこの学校ではありませんが第一女学校の卒業生でした(戦後すぐの入学で旧制女学校の最後の卒業でした)。学校の思い出は本当に素晴らしいものだったようです。皆さん達筆で和歌や俳句を友達同士でたしなみ、友情を育んでいたとのこと。その友情は生涯続いていました。話を聞いて羨ましく思ったものです。
戦後教育で日本人は劣化してしまった感じがします。ワタシの父母も達筆でしたが、ワタシは拙筆で手書きの書き物などは他人様にお見せできるようなものではありません。戦前の教育に戻すべきだと強く思いますね・・
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et très bon week-end ! ✨✨
空き地があれば食糧増産のために畑にしてたのでは?
戦前の当時御徒町の周辺にこれだけの緑が残っていたことにビックリ。都会も真ん中でも意外と牧歌的な学生時代を送れたのかな。しかし女学生たちもキリッとした利発そうな表情をしている。
ワタシもそう感じたんですが、@user-zz7lw4iq1hさんの書き込みに戦中学校ごと白馬の方に疎開されていたということで、そちらの方の写真ではないですかね?
6:48
この時代に既にバスケットゴールがあったとはびっくりです
制服のデザインが今にない物。
セーラーでもブレザーでもない、独特の制服。
この時代でも、旅行と運動会等、行事は同じなんだぁ。
面立ちが才媛系だね。東京大空襲でどうなったんだろう、、、皆、将来にいろんな希望描いてたよね。
空襲ではまる焼けになってしまったエリアですね。昭和15年頃にタイムスリップしてミッドウエー以降の悲惨さを伝え戦争を止めさせたい。
大学の友人2名が
上野高校と学校群を組んでいた時代の卒業生、でした。
戦前の景色や写真を見とぃると自分の育った時代、1965年後半から1970年にかけてとそっくりな場面がよくあります。戦争のため日本は20年以上時が止まっていたのかもしれません。
不安な時代だけど楽しそうな写真もありますね。このあと東京大空襲、敗戦。
みんな、どんな人生を歩んだのかな?
皇紀2602年は1942年ですからアルバム制作は大平洋戦争が始まる前後。まだその後苦難(食糧難,軍需工場への勤労奉仕,空襲)が待ち構えているとは,誰も想像しなかった
さすが東京のお嬢さん。
戦時中なのに垢抜けてますね。
時代的には、世間もきな臭くなり、現在では想像つかない大変な時代であった事でしょう。でも、そんな中でも精一杯に青春を謳歌しようとしていた姿が伝わってきます。しかし、こうした彼女たちにも、これから戦争という荒波は容赦なく襲ってきたのでしょう。どれだけの生徒が無事に戦後を迎えられたか…また、命を落としてしまった方々もこの中にはいる事でしょう。こうした事を考えると、なんだか、どう言葉で言い表わせたらよいか、なんだか切ない思いを禁じえない。
現在の都立深川高等学校も元府立高女だったと聞きますが第何高女だったのでしょうか?
第一東京市立高等女学校です。1924年創立。
1:45 から移ってるおねーさん?が気になる。
見るからに利発そうな面立ち… セーラー服ではなかったんですね。
母校でした~🥹
いまナンバースクールとして残っているのは浦和第一女子だけですね
ここに写るほとんどの方がもうご存命ではないと思うとなんとも言えない気持ちになります。
ちなみに亡き祖母は大正13年生まれですが府立第六高女卒業生です。写真の皆さんよりほんの少しだけ年長でしょうか。
当時の卒業生の進路は、クラスのうち師範学校などへの進学と就職が各2〜3人ずつで、あとの大半は卒業までに嫁ぎ先が決まっていったのだそうです。
決まると朝の、今で言うホームルームの時間に「〇〇さんは〇〇(職業)の〇〇さんとのご結婚が決まりました」と先生から発表があったのだとか。
第一高女だともう少し進学する方が多かったかもしれませんが、黒板に「育児」の文字があったのも、卒業してすぐお嫁に行くのが大半だった時代だと思うと納得です。
(余談ですが祖母は数少ない就職組でした。飛行機を作る会社の人事部で働いていました。木村屋のあんぱんを自分でに買えるようになりたかったのだそうです。)
動画を見ながら女学校の合格発表を見に行ったときの話とか、昔の話をたくさん聞かせて貰ったことを懐かしく思い出しました。ありがとうございました😊
美人の集団ですね?
皇紀2602年か! なんの数字かと思った。
初めまして、私は、Shin nazo cinema'sと申します。よろしくお願いします。