【ゆっくり解説】賤ケ岳の戦いに関する一考察(清州会議篇)

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  • Опубліковано 18 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 212

  • @phoenixgold3593
    @phoenixgold3593 Рік тому +9

    しかしこの動画作っている人、かなりセンスいいですね。感心!これからも楽しみデス。

  • @azusa7512
    @azusa7512 Рік тому +52

    賤ヶ岳は実際古戦場見に行きましたが
    1キロメートル程度の狭隘地に
    北陸本線、北陸自動車道、国道、県道が集中するとんでもない要衝を見下ろすところにありました
    北には余呉湖、南には琵琶湖
    古代から桁外れの要衝だったのでしょうね

    • @hirokage9427
      @hirokage9427 Рік тому +16

      まさに戦略的要地というやつなんですね

  • @muramasa9582
    @muramasa9582 Рік тому +79

    ここで秀吉が丹羽長秀を自陣側に引き込むことに成功しているの、地味だけど滅茶苦茶重要なんですよね。

    • @hirokage9427
      @hirokage9427 Рік тому +36

      だから100万石の領土を大判ぶるまいするわけですね
      本人が死んだら部下と領地は大部分没収しましたけど😂

  • @スネークピット
    @スネークピット Рік тому +19

    三谷幸喜監督の映画「清須会議」では滝川一益が清須に急ぐ際「ステキな金縛り」に登場した北条家の家臣更科六兵衛(西田敏行)に襲撃されそうになる小ネタが好き

  • @h-kws6843
    @h-kws6843 Рік тому +16

    賤ケ岳の戦いは本当にいろいろな思惑が絡んで進みますので考察するには一番面白いですね。

  • @racbase
    @racbase Рік тому +12

    分かりやすい!素晴らしい!

  • @shijisuzuki8377
    @shijisuzuki8377 Рік тому +38

    戦国史を勉強すると三国志で赤壁より官渡の戦いこそが重要って言われてるのと同様、関ケ原や長篠より賤ヶ岳の方が天下分け目の決戦だったように感じる。

  • @卵三六
    @卵三六 Рік тому +8

    長男が家督継ぐと思ってたのに急死して父親も死んだ時の次男のプレッシャーえげつないな
    誰を頼ればいいかわからん

  • @きょうへー
    @きょうへー Рік тому +10

    漫画センゴクの清須会議は流れも分かりやすいしおもしろかった

  • @a-1031
    @a-1031 Рік тому +19

    本能寺の動画でうp主さんも言ってたけど滝川一益マジで良く無事に帰ってくれたな…
    会議に呼ばれなかったの本当に可哀想。

  • @うみねこ-u4b
    @うみねこ-u4b Рік тому +57

    秀吉が勝家に長浜を、その戦略的価値を知りながら敢えて譲るのが本当にすごいと思う。これが凡将なら長浜を譲ったことが起因となって戦役が長引いたり、下手すれば負けて後世に舐めプ認定されるところだと思う。

    • @hiron114
      @hiron114 Рік тому +10

      うん。
      マジでこの秀吉の判断は神懸ってる。

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Рік тому +2

      勝豊だから籠絡できると思ったから差し出したんじゃないの?他になんかあったっけ?

    • @木花咲耶姫-f5w
      @木花咲耶姫-f5w Рік тому +6

      @@pianochandaisuki 後半の動画で勝家の所領の北陸は、冬の時期には雪が降って進軍が滞るから、簡単に長浜城を奪えると考えていたからではと言ってたね。

    • @路地原彦
      @路地原彦 Рік тому +4

      @@pianochandaisuki 一説では秀吉は別に織田家乗っ取るつもりなかったけど、政治に参加しやすい京に近い長浜じゃなくて一乗谷に勝家が入ったから野望が鎌首をもたげちゃった、みたいな話もありましたね

    • @ねこちん-y8k
      @ねこちん-y8k 5 місяців тому

      上杉の脅威

  • @mshima2579
    @mshima2579 Рік тому +9

    25:50 ①「敵に敵意をもたせないこと」②「敵を孤立させて無力化すること」
    武力でケンカするのはそのあと

  • @scipio99
    @scipio99 Рік тому +11

    三法師擁立は織田家中では既定路線で、三法師の後見人を信考と信雄のどちらにするか話し合ったのが清洲会議の実態だと思っていました。

  • @戸田賢司
    @戸田賢司 Рік тому +10

    昔は秀吉がぐぬぬしたイメージだったお市の再婚だが、近年では秀吉サイドも歓迎してたらしいな。

  • @山本太郎-j4c
    @山本太郎-j4c Рік тому +3

    三国志もだけど浸透さんの動画、戦役ものがやはり面白いなあ。他の方のコメントにもあるけど小牧・長久手もやって欲しい。

  • @ヒロ-q6r2f
    @ヒロ-q6r2f Рік тому +6

    いつも楽しく動画を拝見しております。
    うp主様も途中で言われていたように、当主の信忠の家系が相続するので三法師が当主なのは私も最新の研究で聞いております。
    北畠信雄、神戸信孝も乗っ取りとはいえ他家の当主ですし。
    信雄、信孝は当主争いというよりは、どちらが実権を握るかですね。
    京都馬揃えの順番で織田家の序列が信長→信忠→信雄→信包(信長の弟)と地味に信包が4番目だったので、信包が何をしていたのかが気になります。

  • @モルモル-g2z
    @モルモル-g2z Рік тому +7

    滝川が柴田についたと言うより、滝川自身も清洲会議の領土分配に含まれなかったから不満を持ってて、同じく不満を持った信孝と組んだ(滝川が関東の領土をうしなったのでその代わりの地が欲しかった)
    →信孝が柴田と組んだので滝川も柴田方についたと見てもいい気がするのですがどうでしょうか

  • @モック処理
    @モック処理 Рік тому +55

    秀吉を担ぐ辺りが丹羽長秀の有能さを表してる

    • @柴犬-l4e
      @柴犬-l4e Рік тому +1

    • @でんどろびーむ
      @でんどろびーむ Рік тому +1

      「逆もまた然り」という好例ですな‼️

    • @muramasa9582
      @muramasa9582 Рік тому +3

      木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間
      当時の織田家中の風評にこういう言葉があるくらい、織田にとってなくてはならない存在だったんですよね。
      ※米はどのような人間にとっても絶対に必要なものという意味

    • @hirokage9427
      @hirokage9427 Рік тому +2

      自分が派閥のトップになる!つて言い出してもおかしくない立場なのにな

  • @100日後にケアマネに合格する

    次回、前田利家の行動をどう解釈するかが楽しみですね。
    出来れば小牧・長久手までやってくれるのを期待しています(´・ω・`)

    • @kirin4126
      @kirin4126 Рік тому +3

      何だかんだの世渡り上手の前田家ですからね

  • @道場門前
    @道場門前 Рік тому +14

    次男と三男は、この時点では北畠氏と神戸氏を継いでるからね・・。三法師しかいないのでここは決まってたってのは自然。

  • @784nagaokakyo
    @784nagaokakyo Рік тому +6

    このときの徳川は半従属から完全に独立大名化してるよなぁ
    清洲会議出ない辺りから今川からの独立のときと同じ感じで甲斐信濃に攻めこんだのかな?
    そして賤ヶ岳の外交戦では中立(もしくは甲斐信濃で忙しいから不干渉?)ということか

    • @ねこのしっぽ-r9p
      @ねこのしっぽ-r9p Рік тому +3

      信長に従属して以降は家康が完全に独立化するのは関ヶ原後までありませんよ。
      甲信侵攻はあくまで織田政権(清洲の宿老勢)の許可を仰いでます。力関係は変化してますが、徳川家はあくまで織田家当主に従属してる関係には変わりはないです。
      清須会議後の織田家当主の信雄への変更にも従ってますし、小牧・長久手の戦いもあくまで秀吉と敵対する織田家当主信雄の要請に応じて友軍として。
      結局信雄は秀吉に降伏して一時的に従属する対象が消え独立化しますが、外交的に秀吉に押し込まれ豊臣家の従属大名となります。

  • @chihayaharuka616
    @chihayaharuka616 Рік тому +2

    11:31
    フラン「一益は位置が悪かたね。」
    ノブナガ「せやな」

  • @白狐姫
    @白狐姫 Рік тому +40

    柴田勝家って、猛将と言われていますが、一次資料にはそんな事書いてないのですよね。実績を見ても彼は意外と戦いには強くありません。亀割柴田の話も作り話だし…。この柴田勝家像は後世に作られたものだと思います。

    • @オインク-t2l
      @オインク-t2l Рік тому +27

      ノッブの佐久間お仕置きお手紙だと、アイツは頑張ってるだけだけど良いんだ(笑)扱いでしたし

    • @twmjt9416
      @twmjt9416 Рік тому +8

      亀割り🐢はおもろい
      甕割りやろ😂

    • @tillc8092
      @tillc8092 Рік тому +4

      やっぱり秀吉神格化のためのライバル持ち上げ……?

    • @suefalcata
      @suefalcata Рік тому +8

      まあフロイス評もありますし、歴戦であることは間違いないので……
      なんなら名将でも智将でもない軍人=猛将なところもありますし。

    • @話ズ
      @話ズ Рік тому +5

      そもそも戦争に強い武将は智将とか謀将とよばれることのほうがおおいし。日本だと呂布や項羽が猛将で強いとされて信仰されてるけど、大抵は武勇に優れた猛将って大規模な戦争には強くない人の方が多い。

  • @BEKU02
    @BEKU02 Рік тому +14

    清洲会議の1番の肝は領地分配だったと思います。
    後継者や後見人の話は割とあっさり決まったみたいです。
    でなきゃこんないい加減な落とし所になりませんし。
    あと織田家の葬儀問題は思ってる以上に深刻だからもっと掘り下げて欲しかった。

  • @momopopo.
    @momopopo. Рік тому +3

    おはようございます。
    14:55辺りですが、信雄、信忠兄弟は(清洲会議に)参加してない
    と美鈴ちゃんが言ってましたが、話の流れから渦中の信孝さんのことですよね?

  • @山田カイチ
    @山田カイチ Рік тому +2

    賤ケ岳の戦いアップ記念 清須会議ホントの話(浸透襲撃さんの動画は清須会議について100点満点の動画ですが別の見方もあります)
    家臣が集まって後継未定の時に政権の後継を決めるのは鎌倉、室町、江戸全てで起きてる、織田政権でも起きて当然というか常識。直系が幼い場合幼君か兄弟相続でもめるのもあるある。清須会議くらいなのは織田家本家の分割、これで織田家が弱体し誰よりも秀吉の領土がデカくなった。信長が目指した一人の強大な主人と小さい家来の関係は清須会議で織田家から羽柴家に移る。関ヶ原の合戦後に豊臣家が領土を失い徳川家が信長の目指した巨大な主人になる、清須会議は関が原と同じ天下分け目だったが西軍の総指揮官不在の関ケ原のようなものだった。

  • @あめんぼう-n2t
    @あめんぼう-n2t Рік тому +2

    軌跡シリーズのbgmいいな。

  • @kiyotamu3298
    @kiyotamu3298 Рік тому +26

    北畠信意(織田信雄)、神戸信孝共に他家の当主になってたため織田家家督争いからはやっぱり外れてた感じですかね
    しかし信雄さん、清洲会議後に唐突に大大名になっても領地経営普通に回せてたり政務能力は高いっぽいんですよね
    信忠が存命なら一門衆としてどこかの大大名になるだろうから信長さんもそういう教育しかしてなかったんだろうなって
    隠れた本能寺で評価下げた一人の可能性

    • @津多英明
      @津多英明 Рік тому +12

      信雄は合戦ではやらかしが多いけど内政と外交は結構こなせてる。木造具政、滝川雄利、土方雄久といった有能な家臣もいたしな。

    • @フォード-i1w
      @フォード-i1w Рік тому +5

      ​@@津多英明 家康が池田撃破できたの信雄のお陰でもあるのよね 秀吉と接敵してたのにも関わらず信雄も対池田に参戦して短期で潰して秀吉の狙いだった家康の誘因という三方ヶ原の二の舞を未然に防いだ 滝川一益と九鬼嘉隆を寝返らせて水軍で蟹江城を強襲したり執拗に分断を狙ったがこれも失敗したし平凡が天才に勝った局面
      秀吉は小牧で勝った後に関東平らげる気でいたけど家康と信雄に思ったより苦戦して軍事的屈服を断念して和親・官位的優遇をせざるをえなくなった点では微妙な結果に

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Рік тому +3

      ​@@津多英明秀吉からの家康領への転封も信雄は従うつもりだったらしいが、家臣や領民の動揺を抑え切れなかったというのが最近の説らしい。信雄が領民に慕われていたともいえるのかもしれない😮

    • @ねこちん-y8k
      @ねこちん-y8k Рік тому +4

      知略60政治85くらいかな
      信孝は知略73政治70

  • @KisekI369
    @KisekI369 Рік тому +24

    織田信雄→一番何を考えてるか分からない、何も考えてないのかもしれない→こいし ってことか

  • @松平竹千代-z2p
    @松平竹千代-z2p Рік тому +2

    丹羽が羽柴の味方になったことが第一の僥倖
    まだ話に出てませんが前田の動きもはた羽柴のためとなった
    言うならば天運、運命、時代の流れ、なのだろう
    それを引き寄せるために互いになにかに命をかける…

  • @show_kazitani
    @show_kazitani Рік тому +17

    会議の前に結果は決まってる
    できるビジネスマンは違うねぇ

  • @飛行士F
    @飛行士F Рік тому +1

    今回も面白かったです。
    タイトルは賤ヶ岳の戦い(外交編)
    の方がわかりやすいのでは?😊

  • @rocket9448
    @rocket9448 Рік тому +2

    貴方のおかげで全然興味ない歴史にも興味がわいた。ありがとうございます

  • @雪枕-o7r
    @雪枕-o7r Рік тому +10

    この辺から天下統一までのサルの動きが鮮やかかつ見事過ぎるだけに晩年の醜態も映えるんだよなあ

    • @kaji1493
      @kaji1493 Рік тому

      老いたら、結構な確率で別の生物になるからね

  • @伝説の麻婆豆腐
    @伝説の麻婆豆腐 Рік тому +8

    こいし信雄がトリッキーさが良く出ていて面白い

  • @takuhash1925
    @takuhash1925 Рік тому +1

    体調大丈夫ですか?💦

  • @あぼぼです
    @あぼぼです Рік тому +11

    信長が死んだ時点で、秀吉は織田家への義理立てはなくなったんだろうな。明智を倒して手に入れた領地を返還して
    いまさらわずかばかりの加増なんて馬鹿げてるし、秀吉は竹中半兵衛が死んだら、息子は領地をいったん没収とかしてるし
    個人的に世話になった人間以外には結構冷淡な感じがする。

    • @mastsu379
      @mastsu379 Рік тому +11

      秀吉は天下取った後の動きみる限り、実態はかなり冷酷だよ。特に部下や家臣には。ただ自分が優位に立ってない外交ではフレンドリーを装ってたり明確な主君である信長には全力で媚びてたから表面上は温厚に見せてたけど。秀吉は織田家というより信長個人に仕えてたんだろうね。

    • @フォード-i1w
      @フォード-i1w Рік тому +2

      家族に対しても割と冷淡なのよね…→お母さんが病気で秀長の領で静養してたけど病み上がりの段階で家康のところへ人質行け。妹も40代だが家康に嫁げ 
      秀頼に対してだけは異様にダダ甘→「〇〇や〇〇とか女中が拾の気に背いたらしいね。母に伝えてその女中らを柱に縛っといてね。じいじがそいつら叩き殺してあげるからね!」
      秀吉死後に黒田官兵衛は吉川広家宛に愚痴の手紙書いてたりするんですよね…「自分は好待遇(嫌味?)でしたけど世間では評判悪い殿だった」

    • @nagoyashimin569
      @nagoyashimin569 Рік тому

      養子は信長の息子だからね、この会議で養子の織田の相続権に関しては放棄させたはず、織田に戻す気はさらさせなかったんだろうね。

    • @show_kazitani
      @show_kazitani Рік тому +2

      ま、最強のコミュ力を持っているが故、人間っていうのをよく分かっていたのかな

    • @kaji1493
      @kaji1493 Рік тому

      海外の偉人だと誰に近いんだろ
      朱元璋とか言われるけど、あんまピンとこない。互いに農家の出だから、農民の絞り方を熟知してた、ってのはわかる

  • @mssgkjmr2719
    @mssgkjmr2719 Рік тому +12

    信忠が生き残っていたら、秀吉は素直に織田家家臣のままでいただろうか。

    • @津多英明
      @津多英明 Рік тому +2

      信長という絶対者を失った織田家をどれだけ上手く統率出来たかで秀吉の独立or残留が決まりそう。

    • @kaji1493
      @kaji1493 Рік тому +2

      何だかんだ乗っ取りそう
      曹操や鎌倉の北条氏みたいに

  • @satumahayato7579
    @satumahayato7579 Рік тому +5

    清須会議はセンゴクの話が割としっくりきた

  • @名無し名無し-g3g
    @名無し名無し-g3g Рік тому +2

    唐突なハンターネタ…オレじゃなきゃ見落としちゃうね

  • @だーてーはりー
    @だーてーはりー Рік тому +19

    さすが織田家のトップ同士の争いってレベルで外交おもしろいですねぇ

  • @話ズ
    @話ズ Рік тому

    27:01
    誤植:紀伊から北上すると河内ではなく和泉に着きますね

  • @Masaki-qg6jw
    @Masaki-qg6jw Рік тому +5

    本能寺後秀吉が多数派工作の一環として、当時男子のいなかった秀長の跡継ぎに丹羽長秀三男を養子にしたことや、羽柴秀次の正室を池田恒興の娘としたことにも言及して欲しかった。
    丹羽池田を味方にしたことで丹羽妹婿の蜂屋、池田の娘婿の森とも繋がるわけだし。

  • @riiii5597
    @riiii5597 Рік тому +9

    織田家にとっての関ケ原

  • @yhaachoi1837
    @yhaachoi1837 Рік тому +2

    「明智光秀の呪い」が効いて「明智光秀の願望(怨恨説)」が間接的に成就しているように見える。

  • @路地原彦
    @路地原彦 Рік тому +1

    15:13家というよりも会社と考えるとわかりやすいですよ。次期社長は決まってるけどまだ幼いから専務とか常務とかの役員が会社の方針を決定します、は割とよくある話。社長は三法師。彼が成長するまでは役員が支えていきます、は前提として確定してるんで、後継者ではない社長の身内に口出しされても困るって認識かと。あとは信孝と信雄に秀吉達を押さえつけて遺領の配分をするほどの権限も発言力もないですからね。

  • @戸田賢司
    @戸田賢司 Рік тому +5

    いつの間にか秀吉の腹臣みたいな立場になっていた堀久さん。長生きしていれば大老扱いもあったかもしれない。

    • @ジュガシヴィリ
      @ジュガシヴィリ Рік тому +1

      長久手の戦いでも堀秀政だけ、榊原康政の部隊、撃退に成功したり有能すぎる

  • @dam5158
    @dam5158 Рік тому +16

    清洲会議の資料がロクに見当たらないのが当時の混乱を物語っている
    なんでそんな状況に追い込んでおきながら光秀はあっさり負けとんねん

    • @秋介-m7u
      @秋介-m7u Рік тому +10

      まあ、思いの外味方に付いてくれる者がすくなかったから・・・としか。
      「事前の根回し」なんて広げれば広げるだけ情報が洩れる穴も増えていくもの。
      「信長を討つ」のが目的ってんなら、結局「いきあたりばったり的に襲う」が最適解よ。

    • @muramasa9582
      @muramasa9582 Рік тому +5

      最近ふと思うのが、光秀襲撃を知った時の信長の「是非も無し(是非に及ばず)」の解釈、実は違ったのではないか説。
      大体は格好良く「是非も無し(そうか、光秀が裏切ったのか…であるならば仕方ない)」で一致しているあれ。
      でも個人的には「是非も無し(なんでやねん…)」だったのではないかと思うようになりました。

  • @MD-gx5jz
    @MD-gx5jz Рік тому +3

    原作が堺屋太一の大河ドラマ「秀吉」では、結構ベタな清洲会議の描き方でしたね。
    滝川一益は一応清洲会議には出てきていました(神流川の敗戦と逃走ですっかり白髪頭に変容)。で、畿内近くにおれば誰でも明智を討っていたはずと主張。しかし、介添の黒田官兵衛に、北条ごときに負けていながら、織田屈指の明智の強兵に勝てましたか?と反論され、おまけに柴田勝家からも、敗残者に用はないとばかりに、初めから評定から名を外してあるわと散々な言われよう。
    おい勝家、味方を掴んでおけよと思いましたね。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 Рік тому

      堺屋さんは、良くも悪くも役人気質が抜けないから、人間関係には目新しい観点はあまりないからな。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 Рік тому

      この場合の執権は、他の家の年寄りとかと同じ意味だろ。

  • @helixlord9014
    @helixlord9014 Рік тому +1

    織田家の相続の話ではあるけど、信孝・信雄は当事者、しかも敵対している2人なんて参加させたら話が進まないから宿老たちとしては参加者外にしたのでしょうかね。
    しかも当主に据えるのは三法師と方向性が事前に出ていたのならば尚更。
    「なぜ信雄様・信孝様ではなくて三法師様なのか」を激昂する2人に説得する場にしかならなさそう。
    「外敵が動く恐れもある故、滞りなく円滑な新体制の決定が肝要である」とでも秀吉が言えば、会議に信雄・信孝を呼ばないことで宿老たちもあっさりと賛意を示しそう。
    あとはそうして自分たちを蚊帳の外にして重大事を決定する宿老たちの意向に対し、抗うだけの力が無かったと、・・・大体そんな話なのかと考えてます。

  • @umakara55
    @umakara55 8 місяців тому +2

    信雄、信孝については同情できる面もある。それぞれ北畠と神戸の家を乗っとるために送り込まれたので両家からの反発は大きかったし、実際に北畠は当主一族の粛清、神戸は家臣の2割を追放している。こういう状態だと自分独自の子飼いの部下や軍隊が育ちにくい。この状況は諏訪家に送り込まれた武田勝頼の状況と共通するものがある。

  • @azusa7512
    @azusa7512 Рік тому +5

    織田信包とか信長の弟達も結構早くから秀吉派だったみたいだね

  • @japanquest7781
    @japanquest7781 Рік тому +25

    織田家が空中分解したことを考えると、
    明智光秀も有能だったんですね。

    • @tepflavius0476
      @tepflavius0476 Рік тому +7

      謀反して倒すだけなら味方増やす工作しない方が気づかれにくいですからね。
      プリゴジンなんかは味方増やそうと工作してたら気づかれたようですが。
      ただ味方増やす工作しないと倒した後が…

    • @ねこちん-y8k
      @ねこちん-y8k Рік тому +1

      羽柴に謀られた

    • @萬屋-d8t
      @萬屋-d8t Рік тому

      有能だからチャンスと思い謀反したかも?

    • @kaji1493
      @kaji1493 Рік тому +8

      光秀自身が織田家随一の家臣でしたからね
      そりゃバランス・オブ・パワーも崩れるなと

    • @fyilhlv
      @fyilhlv Рік тому +3

      信長を倒すことだけに特化すればベストな襲撃ではあったが、その先がね…
      仮に信忠がさっさと逃げて体制を立て直せしていた、、あっさりと織田家に鎮圧されて結局流れは何にも変わりませんでしたって展開もありえた。

  • @萬屋-d8t
    @萬屋-d8t Рік тому +21

    なんだかんだで信雄は生き残って血筋を残してるから結構有能だと想う。

    • @asakazefuji
      @asakazefuji Рік тому +11

      秀吉による転封に反対したのが最大のしくじりだろうなあ

    • @san-vk2xl
      @san-vk2xl Рік тому +5

      信雄はステータスを運に極振りしてそう。

    • @サトウり
      @サトウり Рік тому +3

      家康が天下をとれたのは信雄のおかげ

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Рік тому +1

      ​@@asakazefuji自分は反対はしてないけど、家臣団の動揺を鎮め切れなかったというのが最近の説😮

  • @ムライテンノ
    @ムライテンノ Рік тому +9

    丹羽長秀が無欲と言うけど。自分で天下取ったり織田のトップになりたいって欲はないけど、自分のお家存続>織田家って欲ぐらいは普通にありそう
    だから織田より羽柴を取ったと

    • @さるかわ-e2j
      @さるかわ-e2j Рік тому +1

      四国征伐軍がバラバラになったのを見ていた人だからなあ
      軍勢率いて戻ってきた秀吉に比べて自分と織田の力不足を直接感じていたはずだ

  • @keyma6310
    @keyma6310 Рік тому +1

    なんとなくなんだけど
    この後、毛利家って秀吉に終始
    協力的な気がする
    山崎の戦いでも追撃しない
    賤ヶ岳でも中立
    四国攻め、九州攻めにも参加
    まぁ見返りも大きかったんだろうけど
    五大老にまでなるしねー

  • @tanuu-ps7dx
    @tanuu-ps7dx Рік тому +13

    丹羽長秀は出自が低くて、実は元々秀吉サイドの人間だった説はありますね

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 Рік тому +5

      まあ、織田家家臣に名門出身なんていないから、秀吉と五十歩百歩だがな。

  • @megane-tetugaku
    @megane-tetugaku Рік тому +1

    では、会議でなにを決めたか?
    その、後見人を誰にするか?
    息子二人のどちらにするか?
    それとも、家臣の誰がするのか?
    その辺りが会議の問題点だったとか。
    それで勢力図が決まりますからね。
    結論的に言うなら、羽柴勢力か、柴田勢力か?どちらが跡取りの後見人になるのか?
    の話。
    ちなみに、息子二人が会議から外されたのは二人が居るとまとまらないから。
    重臣会議で決定事項として連絡すれば、黙らせることができるのでその条件等の綱引きも会議で有ったのでしょう。

  • @koubun8992
    @koubun8992 Рік тому +9

    年長で織田一門としての立場は高いはずなのに信包が全く絡んでこないのが不思議なんだよな
    既に信長から代替わりしちゃってるせいなのかなと思ってるけど

    • @hirokage9427
      @hirokage9427 Рік тому +2

      映画の清須会議では異様に存在感ありました

    • @Noya360Key
      @Noya360Key Рік тому

      高いと言うか 信孝より立場が上らしい(少なくとも京都馬揃えの時点では)けどね

    • @津多英明
      @津多英明 Рік тому +1

      信長の次男・三男で信忠の同母弟で伊勢に大きな所領を持ってる信雄と四国方面軍団長に任じられていてかつ光秀討伐の功績のある信孝と比べたら新当主から見て大叔父で血縁的に少し遠く、あくまで織田一門のまとめ役ポジの信包は直接的には関わるほどの立場じゃないと思います。

    • @ねこのしっぽ-r9p
      @ねこのしっぽ-r9p Рік тому

      その後の動きを見てると信包は秀吉派ですから、敢えて静観することで秀吉に味方したんでしょうかね。

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 Рік тому

      ヤクザの跡目相続でも、先代の舎弟なんて発言力はないからな。

  • @星の行商人リボク
    @星の行商人リボク Рік тому +4

    信長の弟たちにゃすでに山崎の戦い直後には根回しを進めていたと観るべきなのでしょうね(;・∀・)

  • @木村和雄-r7t
    @木村和雄-r7t Рік тому +3

    一応、信長の葬儀は於次丸秀勝を盾にやったみたいだけどねえ。
    信雄は大坂の陣まで周りに迷惑をかけ続けるおもろい奴の認識(面白いとは言ってない)

  • @miracle3739
    @miracle3739 Рік тому +3

    織田家の跡継ぎ問題に介入して成功したものの、秀吉自身の跡継ぎ問題にはは失敗している。

    • @ねこのしっぽ-r9p
      @ねこのしっぽ-r9p Рік тому +4

      秀次が後継者の体制のままなら、或いは百歩譲って秀次排除しても一門衆筆頭で実力者の秀長が秀頼の後見人として生きていれば問題はなかったんですがね。
      秀頼が赤ん坊だったから政権に空白状態が出来るのは秀吉が誰よりも分かっていたのに、この頃は別人のように耄碌してますね。
      実力者の外様(秀家除く)を政権の理事に据えた五大老制度も秀吉かその後継者がしっかりしてれば上手く働いたんでしょうが、赤ん坊だけ残して逝くのは、あとは取って食えと言うようなもの。

  • @あぼぼです
    @あぼぼです Рік тому +16

    すでに何年か前に信長から嫡男の信忠に家督継承していて、信忠の嫡男がいるんだから、この方を当主にして織田家を纏めればいいじゃないか
    というのはかなり強引だと思うが、長子相続性は江戸時代からだし、事前の根回しで会議に自分に借りがある人間を中心に
    出席者をまとめた時点で勝負はついていたと思う。※すでに家督継承自体は決まってたというのは今回で知った。でもどちらにせよ会議はしないといけない状態ですね

  • @ただの猫-n9h
    @ただの猫-n9h Рік тому +3

    当主信忠の息子がいる+信雄、信孝は他家の養子に入っているだから家督相続は揉める必要がないような、強いて上げるなら後見人か

  • @2i215
    @2i215 Рік тому +2

    丹羽長秀は本能寺の変を知った直後に光秀の娘婿である津田信澄(父は信長の実弟・織田信勝)を攻囲抹殺する程度には忠誠心高かったようですね。
    なお、信澄を手に掛けたのは某数寄者漫画で有名になった上田宗固。

  • @MUSASI40
    @MUSASI40 Рік тому +5

    こうしてみると この時期 信長の天下を引き継げるのは秀吉しかいなかった
    ことが十分理解できますね

  • @Area88x29
    @Area88x29 Рік тому +4

    池田が会議に出席出来たのが大きいよな……本来は出られる地位じゃなかった

  • @Extension_Cord894
    @Extension_Cord894 Рік тому +9

    すでに戦国屈指の名勝負の様相を呈している

  • @悠太伊藤-x8r
    @悠太伊藤-x8r Рік тому +1

    順番的に信雄、信孝、秀信となるから、あたらしい争いの火種になるから、信雄と信孝を清洲会議にださせないかわり信長の妹、彼らの、叔母お市の方の婚儀を斡旋したりしてます。

  • @受け師-y1e
    @受け師-y1e Рік тому +3

    池田恒興のところが滝川一益だったらなぁ…柴田陣営も少しは有利だったろうに

  • @健一飯岡
    @健一飯岡 Рік тому +2

    一か所、信雄が信長の弟信勝になっているかな?それはともかく、この時の織田家重臣は、微妙な序列なんですよね。昔からの重臣の柴田勝家(但し、昔信長に対抗)信頼度一番だが、地方軍団長で無い丹羽長秀(佐和山《彦根》城主=秀吉、家康の時の城主を考えればわかります)、毛利攻めで多大な功績がある秀吉。地方軍団長になったものの、伊勢に逃げている滝川一益。信長の乳母の子である池田恒興(微妙だけど、大野治長や稲葉正勝の事例もありますし・・・)かつ微妙な跡取り候補。うん揉めますねこれは。よくこれで戦乱の世に戻らなかったと思います。

  • @sakurasakura4412
    @sakurasakura4412 Рік тому +28

    生き残ったのは信雄ですしおすし。見方を変えれば有能。

    • @alpinistrascal
      @alpinistrascal Рік тому +6

      誰の脅威にも成りえなかった才能

    • @hiron114
      @hiron114 Рік тому

      まあ信雄にしても、俺よりは有能ではある。

  • @switchchallenger1928
    @switchchallenger1928 Рік тому +1

    滝川家が柴田陣営に付いたのは柴田勝家の与力だった前田家の影響では?前田慶次のモデルとされる前田利益は滝川一族から前田利久(利家の兄)に養子に出されているしそれ以外にも滝川・前田両家の付き合いはあったようなので、関東でボコられてボロボロの一益にとって頼れる縁はそれぐらいしか無かったのではないでしょうか?

  • @kappanouen
    @kappanouen Рік тому +1

    ビスケット・オリバ「自分ノ土俵(政治戦)ニ 引キズリ込ンデノ心理戦 ファンタスティック ダッタゼ」

  • @KisekI369
    @KisekI369 Рік тому +4

    秀吉→女好き→魔理沙 なるへそな。夷陵の戦いの黄権からえらい出世したなw

  • @影の政府
    @影の政府 Рік тому +2

    皮肉な事に同じ手で豊臣も徳川に天下を奪われるのだ

  • @しぐれん-v1d
    @しぐれん-v1d Рік тому +1

    重野なおき先生の「軍師黒田官兵衛」の4巻が山崎かから賤ケ岳の戦いまで書かれてるのでお勧めです

  • @momopopo.
    @momopopo. Рік тому +4

    無能な働き者って、四つにワケワケしたら、B層になりますね。
    モルトケの法則でいえば、部下にする登用優先では最下位の4位になるみたいです。
    生まれがいいだけになかなかに難しい状態の信雄さんですね。そんなん分析せずとも絵図面の大きさと緻密さがスゴい秀吉さんにはとっくにお見通しだったんでしょうね。

    • @BEKU02
      @BEKU02 Рік тому +2

      ただこの信雄がのちに大立ち回りすることになるとは秀吉は思わなかっただろう…

  • @kazumasuishikawa2733
    @kazumasuishikawa2733 Рік тому +11

    準備の無い会議は喫煙室でどうぞだな。

    • @p-rock5936
      @p-rock5936 Рік тому +3

      喫煙室での根回し文化は未だに管理職などにヤニカスが多い理由の1つ

  • @Hatta-tomonori
    @Hatta-tomonori Рік тому +1

    "長浜"を渡すのがミソなんだよね。北近江を織田領のヘソとして秀吉を抑えるには、長浜からより南の横山城まで抑える必要があるのよ。そこまで抑える兵力は対上杉・一向に力を割かれる柴田にはないと考えたのかもね。実際、横山城とかは戦闘の記録のないまま賤ヶ岳の戦いで秀吉側が使用してるし。

  • @ryuryu0928
    @ryuryu0928 Рік тому +4

    柴田勝家は豪腕ではあったが、
    魚津城攻めで虚言とエグい謀略で
    落として上杉の恨み買ったり
    家柄実績を鼻にかけて傲岸不遜
    丹羽が羽柴についたのは柴田
    の天下が嫌だったからとかなんとか

    • @龍鶴-q7b
      @龍鶴-q7b Рік тому

      柴田と天下というより勝家と仲が悪かった説が正しいと思ってる

  • @bono6070
    @bono6070 Рік тому +1

    この地名のパーキングエリアがありましてね、最初「ぜにがたけ?」とか読んだりしてましたw

  • @Bチャー
    @Bチャー Рік тому +1

    後半でタイトル回収するのは名作
    黒田官兵衛が裏でどう暗躍したのか
    本能寺の変で動揺してる秀吉を「チャンスですぜ」って煽ってるし

  • @ねこちん-y8k
    @ねこちん-y8k Рік тому +2

    フェイタンいたね。

  • @masahiru8726
    @masahiru8726 Рік тому +1

    お市の方が柴田勝家と心中する話か。なるほど(まだです)

  • @intelljp
    @intelljp Рік тому +15

    信雄は北畠家、信孝は神戸家の当主で、一旦養子に出した者を後継者になる可能性は最初から低いです。

    • @hirokage9427
      @hirokage9427 Рік тому +4

      だから武田勝頼も直接的には武田家家督を継げなかったそうですね

    • @BEKU02
      @BEKU02 Рік тому +2

      多分初めから除外されてたかも。

    • @megane-tetugaku
      @megane-tetugaku Рік тому +1

      家督は信忠に譲られていたので、後継順位としてはその息子が継ぐのが当然。
      あとはその後見人を決めるのが、もめた。
      息子二人のどちらかにするのか?それとも家臣の誰にするのか?

    • @えすい-v4q
      @えすい-v4q Рік тому

      そもそも織田弾正忠家が家格高くないけどな
      むしろ北畠、神戸のほうがいい
      もし二人が天下人になっていたら織田の名捨ててたかもね

  • @山田カイチ
    @山田カイチ Рік тому +3

    長浜の柴田の割譲は柴田が望んだと言われてるがこの時点で柴田が要求する理由がない。また柴田の要求の場合秀吉以外の織田家家臣団から信長の死に乗じ同僚の領土に強欲な要求をしたとみられる。長浜は秀吉の領土なのだから秀吉から提案される以外にありえない。くれると言われてもらったが持て余したので甥に預けてたら柴田が要求したとデマが流されて賤ヶ岳にgo

  • @777としとしし
    @777としとしし Рік тому +1

    裏切り上等で野心持ってなんぼな時代だからなぁ

  • @bykilt5970
    @bykilt5970 Рік тому +1

    >>織田家の相続の話なのにその相続人外して話し合ったって事?
    こ、これは欧州政治カラテの基本技にして奥義
    他人のモノ勝手に割り振り=ジツ・・・東アジアの彼方にまで伝播しているとは

  • @aamm11111
    @aamm11111 Рік тому +5

    ちょっと勤め先がゴタゴタしていて、いい加減、仮想敵をまともに相手すんのやめようかなと思ってたところですが、面従腹背を貫くことにしました。
    孫氏したほうが良いと決めておけば、いくらでも涼しい顔でいられて自分の仕事に集中できます。
    関わってしまったら組み込まれちゃいますからね、ここは家康で行こう。

  • @144sin
    @144sin Рік тому +1

    時代が時代だし信忠は当主になった際に遺言状ぐらいは、作成していて自分に何かあれば家督は嫡男が継げって書いていたからその通りにして、後はその体制での家臣団の序列を決めるだけの話が清須会議の本当の議題って所か?

  • @もるもる-b8y
    @もるもる-b8y Рік тому +4

    勝家からすれば身分の低かったペーペーのネズミがどさくさ紛れに領地を乗っ取ってる様にしか見えんから腹立つだろうなぁ
    そして秀吉に付いた裏切り者も討伐したい気持ちは分かる
    最終的に自分がやった街道整備が裏目に出るのも皮肉だわ

    • @戸田賢司
      @戸田賢司 Рік тому +1

      光秀を倒した功績だからどさくさとか言われましても・・。誰かさんが越中でモタモタしてたからですよ。

  • @戸田賢司
    @戸田賢司 Рік тому +1

    秀吉は信雄の母、生駒さんに恩があるからな。信孝の母には恩なんてないから普通にやっちゃうけど。

  • @サザビーB2
    @サザビーB2 Рік тому +2

    柴田が筆頭家老だったっていうのは諸説あるんじゃないの?
    自分が読んだ本だと本能寺前までの序列は明智、滝川、柴田、丹波、羽柴の順だったと書いてあったよ

    • @龍鶴-q7b
      @龍鶴-q7b Рік тому +1

      秀吉が賤ヶ岳に勝った時に自分の力を示すために柴田勝家を筆頭家老にでっちあげたかもですね

  • @フォード-i1w
    @フォード-i1w Рік тому +4

    通説だと「秀吉が野望で三法師擁立→対立」だけど、今は「三法師当主で信孝が後見人になったが秀吉が巻き返そうと『当主』を信雄に変更で協定を無視して勝家と対立」みたい
    勝家「我らは四方的に囲まれているんだ。仲間割れせず一致団結して敵を倒さないといけない。そうだろ!?」と秀吉の約束違反と家中分断&専横狙いに対して怒りを示してたみたいで…

  • @回覧板-h3t
    @回覧板-h3t Рік тому +1

    なんか輝元隆景ってこういうとこあるよなぁ

  • @うそねこ-e4f
    @うそねこ-e4f 9 місяців тому

    丹羽池田は濃尾閥。北畠や神戸の家臣団を抱えている信雄や信孝が主導権を握ると彼らの下風に立つことになりますよね

  • @KumazawaGonroku7th
    @KumazawaGonroku7th 10 місяців тому

    ドラマ等のストーリー設定やキャラクター設定と現実は違って、実際は清州会議で丹羽と池田が秀吉に味方したのは山崎の戦いを一緒に戦い、信長の敵討ちメンバーなので、秀吉の功績が低く評価されるわけにはいかない一蓮托生状態だったからと思います。
    そうしないと自分たちの取り分も減るだろうし、命懸けで戦ったことが自分達の家臣一同含め皆損になるからだと。
    それとそもそも秀吉は跡取りが信長の養子、丹羽長秀も妻が信長の姪で養女、息子の妻は信長の娘、池田恒興も信長の乳兄弟の上に母親が信長の父親信秀の側室、前田利家も息子の妻が信長の娘で織田家通して皆親戚の上に信長が少年の時からの付き合いで織田家の家臣というより信長の直臣組で仲が良かったんだと思います。

  • @デューク西郷-r5n
    @デューク西郷-r5n Рік тому +1

    三国志の魏に例えるならば
    》三法師(織田家後継)→曹魏皇帝か
    》柴田勝家→司馬昭(司馬懿次男)
    》羽柴秀吉→鍾会
    ここからの簒奪ならば、それほど無理ゲーでも無かったのでは?

  • @山田カイチ
    @山田カイチ Рік тому +1

    柴田が筆頭家老というのはある人物が清須会議で仕組んだデマ、安土や京都での信長の仕置きを見る限り柴田は羽柴滝川とどっこいどっこいで長年の信長の近臣の丹羽長秀が並ぶ
    主君の信長に信忠、さらに家中筆頭の明智の明確な上位三人がいない状況だと織田家との縁や功績や派閥の大きさで秀吉が一歩リード
    これを清須会議で柴田に織田家との縁をつくり山崎の合戦の総大将の神戸信孝と組ませて織田家筆頭家老というデマまで流して織田家の非羽柴派の領袖に祭り上げ一挙に刈り取ったのが賤ヶ岳谷の合戦