【ゆっくり解説】山崎の戦いに関する一考察 本能寺の変篇
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- Опубліковано 9 лют 2025
- 最近合戦場の近くに引っ越したので天王山登ったついでに動画化しました。
と言いながら今回は戦いの考察は次回。
今回は戦いの背景について、本能寺の変からご説明します。
■次回(天王山篇)
• 【ゆっくり解説】山崎の戦いに関する一考察 天王山篇
コメントは承認制です。
今回は登場人物多いので配役表です
解説:美鈴
解説:フランドール
羽柴秀吉:魔理沙
明智光秀:慧音
織田信孝:さとり
丹羽長秀:パルスィ
織田信長:霊夢
織田信忠:早苗
柴田勝家:藍
滝川一益:華扇
川尻秀隆:鈴仙
BGM:虚ろなる光の封土/英雄伝説 空の軌跡SC オリジナルサウンドトラック / Copyright © Nihon Falcom Corporation
■背景のゲーム
ファイナルファイト(カプコン ベルトアクション コレクション)
#戦国時代
#歴史
#ゆっくり解説
動画作成ツール:ゆっくりムービーメーカー3
manjubox.net/y...
立ち絵:キャラ素材(きつねゆっくり) - Nicotalk &キャラ素材配布所
www.nicotalk.co...
AquesTalkライセンス購入済み
まってました!!
凄い✨✨
ゆっくり勢力図で改めて見ると、本能寺の変直前て、光秀も含め有力な部下達は適材適所、孫までいたので後継者の心配はないし、家康への接待も戦略のうちだし、申し分のない状態ですね。続きも楽しみに待っています。
“専制君主は決して油断してはいけない”
って事ですかねぇ💦
@@Obora-usagi そうですねぇ。少し頼りない信孝には丹羽がついていたし、死角がありませんね。
本能寺を出発するとき、家康への対応はどうするつもりだったのでしょう。連れて行く訳にはいかないでしょうし。
備中に出発するまでに滝川一益にケリをつけておけとプレッシャー与えていたのかな?
続きの配信も待ち遠しいですが、こうして夢膨らませて待っているのもいいなと思っています。
別冊ヤングチャンピオンで光秀の子孫の人が家康共謀説の話やってるよな
のっぶは家康を排除するつもりが自分が排除されたと
@@yabusoba10 ヤンチャン読んでいないので、詳細がわかりませんが、光秀子孫側の希望のような気がしますねぇ。我が身が危ないからほうほうの体で三河に帰っている訳ですし。。。
でも、信長の家康排除説はありそうですね。一益が北条を攻略できる器量があれば、家康と同盟を続ける必要はなくなるので。そこから更に妄想すると、本能寺を出発するのは一益の攻略待ちで、マジで圧かけられいたかも(・・;)
更に更に妄想して、信長光秀共謀説なら考えられそうです。
本能寺の変直前の2日前とかに信長は他言無用と家康暗殺計画を光秀にだけ伝えた。
光秀は上様は悪魔に魂を売ってしまったのではないかと思うほどに心底驚いた。長宗我部のこととか神仏を恐れぬ所業など過去のやらかしから、信長ならきっとやるだろうと光秀は懊悩する。考える間もなく「その時」が来てしまった。ふと、脳裏によぎったことが、今を逃したらもう2度とない千載一遇のチャンスだと聡明な光秀は瞬時に理解し、踵を返した。
細川や筒井が動かなかったのは、信長の謀略を知らないから動きようがない。光秀が乱心したように見えていたのかも。
薮蕎麦さんの返信コメ読んでかなり暴走させていただきました。
動画中で謎とされていた、勝竜寺城、淀城の改修ですが、山崎での後詰、および敗退後の遅滞戦術の拠点にする意図があったと考えられます。
桂川での防衛戦は政治的には危険ですが、戦術的にまだアリなのは動画の通りで、付近に織田勢が展開するなら、明智の両国である丹波への街道を封鎖する事になります。
丹波には光秀の嫡男が滞在してそこそこ戦力を整えていた模様です。明智方は丹波に後詰の軍を急遽編成しつつあり、規模こそ不明ですが桂川ないし洛西で合戦となればこれに挟撃される恐れがあります。丹波への入り口の沓掛城は小規模ですが、立地的に短期で織田が制圧するのは難しいと思います。
京都から、西へ沓掛、丹波亀山。南へ長岡、勝竜寺城、淀城。更に当時は伏見湊に極小規模の水軍(海上警備隊?)もあり、これらを掌握していたら、山崎以降の秀吉軍の同行を把握、制限出来ます。
織田としては、一気に京都手前まで進軍できなくもないですが、敵の勢力下に突っ込むのは危険です。
小規模とはいえ、勝竜寺城と淀城、沓掛の城は攻城戦で制圧するか、包囲封鎖して街道の安全化に二択をせざるを得ないでしょう。
そうすると、時間と戦力をさかねばなりません。
光秀はまさにこの時間を欲していたと個人的に思います。もしくは包囲する分織田の本隊から戦力が減ることを狙った可能性もあるかと。
山崎では必ずしも短期での決戦になるとは限らないので、長期化させたり、織田の戦力を削りながら後退して上手く負けたりと、負ける事も考えていたのではないでしょうか?山崎の当日まで各勢力へ戦力を集めているようですし、山崎以降の日程にもある程度意識があったと個人的に思います。
結果は極短期で敗退したので京都を捨てて坂本へ敗走した形になりましたが、山崎が長期化した場合は明智方の不利が徐々に挽回される場合もあり得たのではないかと愚考いたします。
本能寺の変が起こると当時知らなかったのと同様に、山崎の戦いがあんな短期に終わることも、後世のわたしたちだから言える視点からのものですね。
細川政元「丸腰で京にいたらそら襲われるで」
三好元長「わかる」
足利義輝「ほんまそれ」
お三方も御愁傷様でした。
こいつらの実行犯も傭兵だろ
この三人の先例を信長が知らなかったはずはないので、よほど光秀を信頼していたのだろう。
北斗の拳状態の道中を全力で押し通ってダイナミック帰宅した家康の動画好き
徳川家康は先代も先々代も暗殺で命を落としていたので、「不意討ち受けても凌げる様に鍛えよう」と武芸を磨いたら、かなりの実力を身につけたそうです。
乱戦の最中、部下が討たれそうになった所を弓で助けた事があるみたいですし、暴徒の数人くらいなら返り討ちに出来るでしょう。
いつも、楽しみに拝見させていただいております。驚くほど慧眼な考証と、それをわかりやすく解説していただけるので勉強になります。何で天王山まで光秀が出て行ったのか、これほどわかりやすく納得のいく説明は見たことがありません。しかも図表とキャラで面白く見せている。歴史好きにはたまりません〜。
「本能寺の変」以降の諸勢力の動向が分かりやすくまとまっていて、本当に助かります。
特にこの時の「滝川一益」と「徳川家康」は花の慶次でも描かれていたので、情報が補完できました。
近年の研究だと秀吉が中国大返しで連れて返ってこれたのは騎兵だけで、山崎の戦いの主力となったのはあくまでも信孝・丹羽の四国方面軍だったという話も出てきてたようなものを読んだ記憶があります。
ただ秀吉が返ってきたことで摂津国衆が一気に旗色を決めて、秀吉の傘下で戦ったのは大きかったようなことも出ていたと思われます。
当時の軍役で騎兵のみ選別なんて無理じゃないか?
@@from4284 え、なんで選別が無理だと思うのですか?
別に各家から騎馬武者軍団を選別して戦え!って言ってるのではなくあくまでも、姫路または摂津までは秀吉と共に先行して行くってだけなので、そこで騎馬武者の口取りや小者と合流すればいいだけでは?
合戦の主力は摂津衆で秀吉軍の本隊は後ろに控えてるだけだから、要は合戦本番までに数がいればいいのよ。ギリギリ間に合った部隊も沢山いただろうな。
騎兵だけで10日230kmの移動はむしろ遅くね? それだと伝説的な大移動にはならんと思うのだが
ファイナルファイトが関係しているとなると、明智殿の死亡原因は落武者狩りと言うより自分が原因の無政府状態によるイッキやモヒカンどもにやられた感じなのかなぁ。
次回も楽しみに待ってる。
総司令官に関して当時は多数の兵力を動員した人物が務めるというのが一般的だったようです。なので秀吉は自軍に味方を呼びせ圧倒的多数の兵力を有してから信孝達と合流しています。この時点で戦後処理に関してもしっかり考えてかつ的確に行動してた秀吉の凄さだと考えています。
あと昔読んだ本に信忠は当初、信長よりも先に京都を離れる予定だったが信忠は京都に留まり、信長と一緒に行動するという選択をしたと書いてありました。その結果、非武装地帯になっていた京都に二人で同時に留まるという非常に危険な状態が出来上がってしまいました。
クーデターを成功させる絶対条件は信長だけではなく信忠を同時に排除する事なので光秀は偶然できたこのチャンスに思わず乗ってしまった。そんな感じだったのだと思っています。
最後に元自衛隊幹部で戦略や戦術を研究されていた方の著書に当時の光秀兵の動きを見れば信忠が逃げられないと判断して自害したのは妥当な判断だったと書いてました。
川中島とか官渡とかガウガメラとかインパールとか、これからも合戦の考察をやって欲しい。
恐らく解説内容的に、呉座先生のご本が資料の一つにあると思いますが(もし違えば、結構この動画の内容を補う部分があるのでおすすめします。書籍名は一応伏せますけど)あの本は視点がフラットでとても参考になります。内容だけでなく、先生の史料批判の姿勢に感銘をうけました。
26:06「詳しい方」とは言えませんが、これについては、
①単純に史料が残ってない
カオス状態の中での話なので両氏とも身の振り方次第で危険になるかもしれないのに、手紙とか残したくないんじゃないかなと思います。少なくとも大体の状況が把握できるまでは。
あと期間が短すぎるので、『誰を頼るか』って段階からすぐに『誰を頼ったか』に移ったって事じゃないでしょうか。
本能寺の変直後の混乱の中で『誰を頼ろうか』っていう内容は、史料として残りずらい性格のものなんじゃないかなぁと思います。
②当時の混乱の中で情報が入り乱れ(またはまともに入ってこないか)信孝たちの安否がわからなかった、逆に秀吉からは連絡が届いた(普通に考えたら秀吉は上京しながら与党づくりもしてるはず)
このあたりかなぁと思います。
更新頻度高くて嬉しい!
お!うp主ご近所さんや。
子供の頃結構天王山登ってたなぁ。懐かしい。運動がてら久々に登ってみようかなぁ…
いつも動画楽しんでいます!
新たな知識や見方が知れて改めて勉強になってます!
後編(中編?)も楽しみです!
高山右近と中川清秀はもともと摂津国人
この辺りは南北朝の北朝vs南朝、統一後は畠山vs細川、応仁後は細川vs三好の綱引き会場なので
きな臭くなったら、昨日までのボスへの義理や命令系統の順序より、自分たちが滅ばないのが最優先な習性が染みついてるのかな
別にボスじゃないしなあ。たまたま今回は配属されてるだけだから。
歴史のifは沢山あるけど、信忠が逃げ延びた場合どうなったのかというのは凄く興味があります
秀吉が同じように戻ってくるとして、光秀は東の信忠と西の秀吉に挟み撃ちにされるだけだな。戦後に信忠と秀吉達の関係がどうなるかは何とも言えないが。
偶然説は僕も可能性が高いと思います。
光秀ほどの能力があれば変の直後のことまで手を回さないわけがないので、
細川幽斎や筒井順慶が味方をしなかったり、毛利側に事件の後に使者を送るのは変だと思います。
待ってました!!!
今まで有能だった光秀が突発的行動を取る。秀吉が毛利と講話が出来る。
他にそれができた家臣がいない。
なんか歴史の必然性、運命を感じる。
ミッツの謀反理由も謎だけど信忠の生き延びることを諦める速さもなんだかなぁ・・・いやあんたさえ生きてりゃどうにでもなるんだから逃げろと・・・
信忠が当時逃げなかったのは義昭追放時に行った上京焼き討ちの報復を恐れての事だと言われてます。
焼き討ち自体はこの時代全国各地で行われていたので、実際焼き討ちにあった民衆達は表立った反発をしていませんでしたが、
それでも彼らはその恨みを忘れているわけではなく情勢次第では織田家に報復しうる状況でした。
それでも脱出となると信忠の叔父・長益のように女装してでも逃げないといけない訳ですが、
織田家次期総帥の信忠がそれをやると次代での織田家の権威が大きく下がってしまう危険性があったのです。
また動画にもあるように明智光秀が用意周到に準備して謀反を行っている可能性も捨てきれてなかったのもありますが。
叔父の有楽斎に切腹勧められたから。なお、切腹進言した当人は、ちゃっかり生き残る模様。
ミッツとムッツ(6本指)の戦いか
仮に先に襲われたのが信忠だったら信長は一も二もなく大脱走だったでしょうな
@@野口洋睦 上京焼き討ちもそうですが義昭上洛戦の時(京以外焼け野原♪)、比叡山焼き討ち、本願寺との抗争等々悪行ポイント貯めすぎてますからねー(畿内人からすれば尾張とか言う田舎の成り上がり者がふざけんな!状態だったろうし・・・・・・
時系列的な各勢力の状況推移がすげーわかりやすい
面白かったです。
投稿頻度高くて嬉しいです!
結果が分かりきってるのに物凄く楽しませて貰いました!!
そんで丹羽ですらこうなるとマトモに動けなくなってしまうのか…
そんで慧音って張郃なり光秀とかの智将にピッタリだなぁ。
そんで信忠はなんで逃げるを選択しなかったんですかねぇ?
ワンチャン逃げれたのに…
警察の仕事等で「炭化した焼死体」を見た経験がある人なんかは判ると思うのですが、本能寺の焼け跡からあの見た目の存在が出てきたところで「信長の遺体に間違いない!」なんて絶対誰も言えるわけ無いんですよね・・・
炭化した焼死体は、警察犬でも探せないらしいです。
本能寺の変って不思議過ぎて、ほんとよく分からないよね。秀吉のあまりに早い転進も。
秀吉は24時間体制で信長の動向を追跡して、信長のささないな出来事も報告をあげさせる体制を整えていたはず、緊急時の時の伝達ルートも整えていたから、おそらく本能寺宿泊時にも秀吉配下の手のものがいたから襲われた時点で第一報をすぐに走らせたはず、あと、秀吉は重臣の動向も把握できるように現場監督クラスには内応者を作っていたはずだから、光秀側からの第一報もあったと思われる。変の翌日には、複数ルートからの情報をクロスさせて、官兵衛を中心とした参謀本部で情報分析して即断、同時に三成、清正に退却ルート上を現地農民動員させて拡幅整備、夜間走行可能にさせて、姫路城に武器弾薬をかき集めさせ、到着後の万を超える軍の食事、寝床整備。
元々、秀吉は草履取りからして現場からの叩き上げだから、現場目線で細かい指示を現場監督クラスに出せたはず、情報収集とそれを分析する参謀本部が当時では随一だと思う。
あと、毛利から和睦後に弟の秀長を殿にできたのも、秀吉には相当安心感があったはず。秀長は殿の経験あるから。
光秀の謀反で信長、信忠が討たれるという事は流石に想定外でしょうが、毛利軍と3万の兵同士で睨み合う状況では、信長からの援軍に遅滞や不具合が無いかなど、状況を緻密に掴んでいなければならなかったでしょうね。
それにしても優秀ですが。
主ええやん、サントリーの蒸留所も近くにあって。
久々に見学行きたいなー、山崎蒸留所
京都競馬場の真ん中にある池は巨椋池の一部だったようですね。
淀城跡も少し高台のとこだったはずですし、京都競馬場の場所は池の底だったと。
勝竜寺城と淀城の改修ですが、山崎と天王山の狭い場所に陣取るのなら、その後方に位置する二つの城を後詰の拠点や後方防衛に使えそうな気がしますね。
今でも排水は続けられていて、止めればすぐ昔の巨椋池に戻ると言われていますね。
この減反政策の時代に何故止めないのか不思議ですが、諫早湾干拓事業や長良川河口堰や競馬場の高速馬場など、農水省の事業は少し考えれば不思議な事ばかりなのですが。
光秀の子孫の方が提唱している「家康暗殺計画を利用した信長暗殺説」もロマンがあって面白いですよね♪
三河帰還後の家康の動き(織田領甲斐・信濃の切取り→尾張へ急旋回(光秀への援護?))を見ると、
結構説得力あるかもと感じてしまいます。
あと、春日局の突然の登場。
父親(斎藤利三)は本能寺の実行犯なのに突然三代将軍の乳母として徳川家中枢に入る・・ってちょっと普通じゃ考えられない
本能寺の変に参加した侍大将(?)の手記で「てっきり徳川家康をボコりにいくと思っていた」と書かれていたそうですよ。さらに隠密性保持のため行き当たった人間はすべてボコったとか…
「鬼と人と」かぁ。出版からほどなくに面白く読んでたな。
本能寺の変後の光秀の「上様、どうすればよろしいでしょうか・・・(だったかな?)」ってセリフから途方に暮れるシーンはバブル崩壊から少し経った後に読んだんだよね。
その当時の時代感もあって、ぐっと来たところはある。
まぁ、光秀が信長っていう潮流を壊しちまったから、今からすれば「なんと見事なおまいう」なんだけどね。
その後に人は、特にある種の優秀さを備えた人が、存外こういうことをやっちゃうんだよなぁ、とは思うようになったかな。
確かに、面白れぇってことは大事なことだw
ああ、そのセリフで読んだことあるって思いだした。
これって大分歴史が動く出来事だよな
本能寺の変がなかったらどうなってたのか……
一言お礼をお伝えしたくてコメントいたしました。
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。
浸透襲撃さんの動画を拝見させていただいて、いつも素晴らしいと思うのは
その「背景」を丁寧に説明してくれているところだと僕は思います。
ぼくたちは歴史を「過去に起きた事実」としか認識できませんが背景を丁寧に説明してくれることで
「当時起きたことの確認」として捉えることが出来ます。
この2点、同じようで大きく違うと思います。
動画編集(特にゆっくりは)+動画のネタの勉強、その他もろもろ大変だと思いますが
これからも応援してますのでどうぞこのまま動画投稿をお願いいたします。
浸透襲撃さんの動画を見ることで自分のモチベーションも上がります!!!
長々と失礼いたしましたm(__)m
この時期の秀吉は信長の四男である於次丸秀勝を養子として迎えているから、織田家の準一門でもあるんだよな。
ノッブはヒデヨシの事を
大層可愛がっとるんやねぇ
信長を出迎える立場だった秀吉は、京都~中国地方に連絡網を置いて信長の位置を確認していたのかもしれませんね。それが情報を早く抑えたり、中国大返しの役に立ったのかもしれませんね。
それあるかもしれませんね。
更に想像を膨らませると、秀吉が道中各所に準備(装具とか兵とか食料とか宿とか)をしていたから信長は軽装備で安土から出てこられたのかもと思わずにはいられません。。信長往路のための準備が秀吉復路に役に立ったのかもと思いを馳せています。
@@momopopo. 賤ヶ岳でも美濃大返しをやってのけていますしね。小田原攻めにしても、秀吉は兵站や事前の準備を怠らない武将だったと思います。
@@JM-op7hdおっしゃるとおりですね。誤解を恐れずに言うと出自の遅れのお陰で生き抜く力を身に付け、また、その遅れを補って余りある生来の頭の良さで驚異的な早さで学んでいったのでしょうね。実戦を重ねながらアウトプットし、戦に必要なノウハウを皮膚感覚で吸収していったのではないでしょうか。いつの時代も正確な情報を多く持ってるほうが有利であることも感じ取っていたのかもしれません。
それまでの知識と経験が中国大返しに繋がっていった。他の有力武将でも真似ができないことをやってのけたのは、奇跡でも運でなくこれまでの仕事の取り組み方の成果なんでしょうね。
日々成長し続ける秀吉を信長が可愛がったのは頷けます。
長文失礼しました。JMさんのコメント、とても勉強になりました。
@@momopopo. 実際に準備をしていた記録があります。ただし秀吉側では無く、信長の直近であった名人堀久太郎が先発して準備整備に当たっていたようです。
本能寺の変の報を聞くと、信長の為の物資を秀吉軍に提供したようです。
コメ主、コメ欄の方々の意見に賛同します。
信長・信忠が直々に備中高松までくるのですからね、接待 (秀吉の性格上かなり派手で、手の込んだ接待)の料理・催し物等を手配する必要があり、信長親子の行動スケジュールを、可能な限り正確に把握しようとしていたと予想します。その為に、密度の高い連絡網を構築していたと考えます。
昔、神戸から父の実家に帰る時に、名神高速で天王山トンネルで渋滞してたなぁ…。
山崎のサントリーの工場が見えると京都府に入ったって感じでしたね。
毎日天王山トンネルを先頭に渋滞しとるな
豊臣秀長の戦いを取り扱って頂けるとめちゃくちゃ嬉しいです。あまりにも情報がないもので、、、
ガチ面白いなこれ
「鬼と人と」大河原作だったので読んでみましたが信長と光秀の独白の繰り返しという珍しい形式
印象的だったのは最後、山崎の合戦で光秀が潰走直前に誰にいうわけでもなく「いかがいたしましょうか、上様…」
最後まで人にも自分にも独創性を追求させた信長とレールに乗っかることを良しとしながらもそのレールを自ら叩き壊した末に迷走し挙句当の信長に救いを求める光秀の対比が面白かったです
ありえない行軍してるくせに統率を維持したまま大軍を率いて畿内に帰還した秀吉のカリスマ性ほんまエグい
姫路で金と米をばら蒔いたのが秀吉の真骨頂。光秀を倒すか、負けて死ぬか二つに一つ。
三成の緻密すぎる計算づくの補給も忘れちゃいけない
家康さんの全力逃走は真田丸やねw懐かしい
動画内での件ですが、中川や高山の立場としてこの時に信孝と合流するのは非常に危険な判断だと思われます。
彼らの思考としては光秀が勢いで今回の件を実行したとは思いもつかず(実際に信忠もそう言っている)、
その光秀が手を下したという事は周囲への根回しは完了し、親戚関係の細川家や筒井家と同盟していると想像したと思います。
そうすると次に彼らが危惧するのは、光秀が次に討伐に出かけるのはどこか?という流れになりますが、
(光秀サイドから見る)織田家の残党が次に担ぐ神輿の象徴、信孝の討伐になるので、
信孝・丹羽・中川・高山VS光秀・細川・筒井 では兵力も戦歴も光秀サイドの圧勝なので滅ぼされます。
ましてや畿内は元々光秀の庭でそこらに関係者がいたはずですから、自分たちの配下や支配地域も光秀の息がかかっている
連中もいるはずなので動くに動けなかったのでしょう。
なので情勢が決するまで積極的に中立を保とうとしたと考えられます。実際に細川や筒井も光秀からの勧誘要請を断っては
いますが、この時は全く敵対行為はしていませんので。
また中川や高山の能力をもっと高く設定すると、中川や高山は元は独立勢力で成り行きで織田家の傘下になっただけなので
その織田家の絶対的な象徴である信長が討ち取られた以上、次の自分たちの臣従先を見定めていたという見方ができませんかね?
中川や高山の立場としてはこの時に自分たちを売りつけれる勢力は1:秀吉 2:光秀 3:長曾我部 4:織田の息子とあり
これを間違えると滅亡、正解すれば栄達が待っています。
彼らとしても光秀としても、まさか秀吉が無傷の兵3万をたった数日で大返ししてくるとは想像すらできず
彼らの野望は文字通り夢のまた夢に消えたわけですが・・・
信長の生涯で味方の謀反って珍しくはない。
個人的には光秀が急成長していく過程での小さい粗を信長の諜報部隊にリークしてその粗が信長に察知されてることを光秀にリークしたんじゃないかと思います。
この頃の信長はトップクラスの重臣を昔の罪を持ち出して粛清してたので光秀はガクブルで信長を倒すしかなかったと思います
リークしたのは恐らく秀吉だと思います
つまり
秀吉「ノッブがミッツがやらかしてた昔のポカをまとめ上げてるようやで!気いつけや!」
光秀「ガクガクブルブル」
ってこと?
@@グライオン-t1q 実際にクビにした部下に対して「昔〜してたけど天下が収まるまで我慢して使ってたが、もうある程度収まったので…」という通知を送ってます
信長…マジ怖い
@@komo1597 天下が収まってきたのであれこれ理由つけて重臣粛清からの大どんでん返し・・・袁紹かな?w
@@tillc8092 そう言えば袁紹も沮授や田豊を粛清してましたね…確かにキャラ被ってる😓袁紹と違うところは身内に曹操クラスが2人もいるところですね😀
勝竜寺城とかは後方拠点として整備した感じですかね?長期戦になったら物資の集積や負傷兵の手当とかでちゃんとした場所必要ですし。
勝竜寺城は平城で要害でもなく秀吉の前線と近すぎて、撤退しても籠城すらできません。実際に籠城諦めて坂本まですぐに逃げてます。そもそも京都近辺には要害はないので、光秀は野戦1択です。それにしても野戦の決断が遅くて、山崎の高台を取られたのは光秀らしくない。光秀も戦巧者ですから。
光秀は朝廷と仲が良いと最初は判断してたなら市街戦やろうとしてたんじゃないかなと思います。
光秀からしたら場当たり的にやっただけですからそこまで当時の情勢を判断してないと思います。朝廷側の脅されて光秀に治安維持依頼しましたはわかってなく、城の改修して山崎より後方で戦おうとして初めてやめてくれって言われて事態把握したんじゃないかと
街道封鎖も無視出来ないですし、退却路、連絡路としてそのままでは使いにくかったのかも知れません。
他の方の指摘通り、籠城等戦闘は考えられないですがそれ以外の目的を果たす機能を強化する狙いはあったかも知れませね。
大学時代に京都在住だったので、愛宕連歌から本能寺の変、山城の戦い、小ぐる巣、首塚まで光秀の行軍ルートを旧暦の日程で自転車でフィールドワークした事があります。
本能寺の変はもう充分明るくてテレビの嘘を感じたし、天王山はそらここから戦場みたら有利すぎる、と痛感した思い出。
特に亀山から出陣したのは深夜らしいので、そら味方も怪しむがな。
あと勝竜寺城と淀城で防衛線を構築していた形跡も考察出来ます。各町の資料館を参考にすると。
近江や丹波にはまだ戦力残してますし、京都で朝廷工作と軍再編する気満々な信長ばりの戦国大名っぷりが伺えた史料がいくつか残っているのでとても面白かったです
二城については
光秀「とりあえず街道沿いだし兵入れられるようにしておけ(あそこ小さいけど数百名でもいないよりはましやろ)」
配下「了解(あそこ小さいし、兵いれるなら改修いるな。指示しとこう)」
という伝達ミス説を思い付きました
太閤立志伝5をいまだに猿のようにプレイしてた勢には楽しめた動画でした!
私も一度天王山登山に行きましたが、意外とまともな登山で非常に疲れたのを覚えています
こうして改めて見てみると秀吉の動きが出来すぎに見えますね。光秀との密約はないけど事を起こす気にさせる状況を用意したのではないかと疑いたくなりますねw
次回が待ちきれない。面白い!
本能寺の偶然説はたしか現東大教授(氏名は忘れた)の最新の説ですね。
信長公記の矛盾点解消などで進んだ学説でしたか…、その辺りはともかく畿内の有力者に関しては秀吉が信長生存説を唱えて工作し時間を稼いだというのが主流説。
その稼いだ時間で畿内に入り勧誘工作の結果が兵力差になったと記憶してます。
次回では戦術面になると思いますけど、登山したか、登山しようとしたかは所説で違うようですね。
コメ欄の歴史自信ニキ達凄すぎぃ!尊敬しかありません・・・。
有能な光秀さんがこんな場当たり的な行動を起こす筈がない、きっと後ろ盾みたいなのがあったに違いない・・・という事から各種黒幕説が出てきたのでしょうか(義昭さんとか朝廷とかイエズス会とか)。光秀さん、ホント考察とか創作、妄想のし甲斐のある人物ですね。
最後の方で映っていたファイナルファイトのステージ、この後クッソ強いボスが出てきてその対処がきついのに、雑魚がわらわら湧いてきてボコボコにされる難関場面です。とてもじゃありませんが各個撃破とは言えない状況ですが果たして...。
一本道なのはギリ隘路と言えそうですがw
あとは本能寺についての1次資料(同時代を生きた人が書いた資料のこと)の記述が少ないからってのも噂が噂を呼ぶ劉備です。信長の家臣がかいた信長公記にも本能寺は5.6行の記述しかありません。当時の人々にも満秀の真意は分からなかったのかもしれませんね。
朝廷工作だけは何故かそれなりに上手く行ってるのはどうなんでしょうね
そして一次資料も公家の資料…うーん怪しい
三国志も好きだけど日本の戦国時代のほうが好きだから解説嬉しい。
明智光秀の謀叛理由については修羅の刻というマンガの作者の川原正敏氏もたまたま天下とれそうな状況だからやったと浸透襲撃氏と同じ見解をされてましたね
堺屋さん、元経済企画庁長官殿の名筆としては他に羽柴秀長も大変面白うございました。
安土を燃やしたという信雄の動きも入れて欲しいです。二城については羽柴軍も強行軍だし長期化を見越した補修でしょうね。当時は彼我の兵力についてお互い分かってなかっただろうし。
しかも本能寺が信長に恨み骨髄の上京にあったのも成功率を上げたんだよなあ。
秀吉の進軍が早い理由は、瀬戸内海東部の制海権は織田家が握っていたので、装備・弾薬は水運で運んで、人員は陸路で移動したと思われます。
光秀が近江を取るのは、この地は重要な場所だからです。ここを取れば、織田家最強の柴田勢と秀吉を分断できますし、美濃・尾張・越前方面へと進出が出来ます。琵琶湖水系の制海権を握ることが出来るので、兵站輸送が容易になります。
現に、関ケ原の戦いでは、大津城の京極高次が寝返ったら西軍最強の立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門を大津攻めに派遣し関ケ原本戦を落としていますし、家康は、前田家に対して北陸本線ルートで侵攻し関ケ原の家康に合流するように指示を出しています。
もし、秀吉の山崎着陣が遅れて睨み合いが続けば、柴田勢が木曽義仲が入京した湖西線(鯖街道)ルートで京都に攻め入る可能性も有ります。
広告の入れ方がうまいです!
結局私見ですが、光秀は公家に唆されたから信長をやったと思います。
それならば、必ず羽柴や柴田が反抗してくるのは、やる前から判っていたはずです。
確かにこんなに早く秀吉が帰ってくるとは思わなかったとは思いますが。
公家に、やるから翌日には関白にするなどの言質を取らなかったのが致命傷にはなりました。
関白又は征夷大将軍になれば、それに逆らえば朝敵だから、すぐには秀吉も反撃できないのだから、ロイヤルファミリーを後ろ盾にすべきでした。
それをしなかったこと、あまりにも秀吉の反しが早いことから、暗殺を唆されたのは秀吉であり、それを光秀にやらせた可能性はかなり高いと推測してしまいます。
当時は総兵力がもっとも多い武将が全体を指揮するルールがあり、黒田官兵衛が姫路で早急に募兵したので秀吉は総司令になれたと加来先生がおっしゃてます。
くわしくは「偉人・素顔の履歴書」第16回『秀吉の天下獲りを支えた名軍師・黒田官兵衛 編』をごらんになると良いと思います。
秀吉以外は多くて5000人ぐらいしかいないから、どうみても秀吉しかいないんだが。秀吉本軍は最初から1万以上いるからな。
MSFSでこの辺よく飛んでます。
空から見ても、劣勢側が山崎抜かれたらほんと終わりですよね
ただ、山崎だけだと戦上手で水運の使い方もうまい秀吉に、包囲される可能性もあるのかな等と。
いずれにせよ、ここ取り負けて六地蔵の方に逃げていったのか…となります、ていうかまだ山越えの入り口でバッサリ。
もしかしたら、洛周のあらゆる山が、ヒャッハー達に変わった周辺民で満ちていたんでしょうかね…彼らにすりゃいい迷惑だし。
山科から宇治にかけては、色んな人が逃げ込んでは討たれてますね、低いけど複雑な山道が連なっていて、みやこびとの脚ではここまでなのかな…などと思いながら上飛んでます。
個人的に気になるのは、明智光秀の当時の年齢なんですよねぇ…
たしかに若い人間が下克上しても、周りがついて行かないとは思うんですけど…
恨みがあると考えても家族のこととかを考えると聡明な光秀は躊躇するだろうし、唆されたとしても現実的ではないと突っぱねる気がするんですよね…
なので長宗我部元親黒幕説を押します👍
(長宗我部元親推し)
いわゆる三英傑の中で秀吉の評価ってなぜか低いけど個人的には一番評価してるので秀吉の優秀さにフィーチャーしてくれて嬉しいです。
秀吉の立ち回り方とか戦略眼みたいなものは相当だったと思うんですよね。地盤があったとはいえ信長横死から8年で天下統一したわけですし。
光秀ほどの人が、「信長と信忠をヤレば自分が天下人だ!!」なんてアホなことを考えたわけはないでしょうし、本能寺の変後の光秀自身の行き当たりばったりぶりからも、光秀が「やりたかったからやった(後のことはあまり考えてない)」のだと思います。
自分の勝手な推測(?)なのですが山崎の戦いの時の明智光秀は遅滞戦闘で敵主力を大山崎の入口と摂津に拘束し、水上輸送で本拠地の坂本とか明智系の福知山(亀岡の向こう側)とかから連れて来た戦力を淀川経由で大阪側に流して迂回させ、敵の側面を突こうとしたのでは無いかなと思います。
秀吉もこの動きを察知していたため、何かあった時に備えて後に大阪城を築城し巨椋池を弄り回して、隠居した後は伏見城に居座ったのかなと。
あと京都市街地で防衛戦は多分とても守りにくいと思います。(楠木正成)
碁盤の目なので敵が陣取ってる場所を迂回して攻め安い+守る側からは簡単に包囲されてしまうのでやりにくいと思います。
水上輸送での戦力展開は素晴らしい考察と思います。
側面をつけるかは兎も角も、近江、京、奈良で集めた兵を山崎付近の本隊に合流させやすいでしょう。明智が戦力を集めていた地域とも合致します。近江や大和の武士が帰順したら翌日にはで山崎に合流出来るレベルですね。
因みにですが、当時の淀城は淀川と巨椋池の中洲にあるので規模の割りに防衛力は高いはずです、水城の機能もあったことが指摘されています。坂本城も水城機構があった事を踏まえると、光秀は水上輸送の軍事利用を考えていた可能性はおおいにあると思います
坂本は、越前(柴田勝家)若狭美濃方面への抑え、丹波集は丹後(細川藤孝)但馬方面への抑えだから、動かせないと思う。
「近所のニトリモールからの写真」とありますが、これ洞ヶ峠の横ですか?山崎や天王山がよく見えますね。
私も本能寺の変は明智の突発的な行動だと思いますけど、羽柴軍の尋常でないスピードは陰謀論とかが出まくって当然な感じですよね…
秀吉軍の行軍の速さは、中国攻めに信長を迎えるために、各所に資材を準備してたからという説がありますね。
本能寺の変当日、
徳川家康:堺で観光
滝川一益:上野から北条攻略中
双方知識としては知ってたけど、自分はこの2つに繋がりを見いだせなかった、徳川に東国を切り取らせない為だったのね、
ホントは家康が信玄と戦ったように北条と戦わないとおかしいのに、自分マジで何もおかしいと思わんかった
個人的な考えですが、秀吉は、光秀の謀反を知っていたというか、秀吉は、逐一情報を入れていて、盤面の把握ができいたので、あー今なら光秀、信長やれるなーとか思ってだのでは?そして光秀あいつマジでやりやがったという、想定の範囲内だったのでは?
その説に乗っかるなら、秀吉が執拗に信長自身の出馬を願ったのも、光秀の凶刃から信長を守るためっていうのも考えられますね。
もしかして秀吉が早く気づいた理由って、本能寺直前まで、秀吉と信長間で頻繁に位置交換をして正確な位置を掴んで、毛利との交渉に使ってたのでは?
「今、信長さん ○○に居るって、もうすぐ京都に入るだって(ニヤニヤ)」してたのでは?
で、駅伝が集中してたから、異常に早くに気がついて、秀吉に伝わった
(「信長さん、トドメお願いします。」の茶番が本当なら、駅伝は秀吉が用意した配下の可能性が高いので、正確性も高く、秀吉が即決した理由になりうると思う)
BGMが空の〇〇なのがテンション上がるw
ファイナルファイト上手いですね😃
光秀が城の補修をしたのは中国にいた秀吉の兵数とか考えて、その辺りで対峙しようと思っていたのでしょう。
長秀や信孝を放置したのは石山本願寺跡に籠られるのが怖かったのでは?あそこなら4000もいたら落とすのはかなり困難でしょう。4000なら兵糧も大量にはいらないだろうし。
山崎って事は三好長慶の城も近いな(ニッコリ)
柴田、羽柴、明智、滝川は地方方面軍の軍団長だったのに比べ、丹羽が信孝の副官というのは内政能力や人柄・忠誠心は信長も評価していたが、軍事能力は他重臣に劣るとみられていたんですかね。
丹羽の力量が劣っていたというより、信長としてはとりあえず信孝には経験積ませるのと箔付けとして四国方面軍司令官に任命し、丹羽はお目付役として副官に任命したんだろうね。
信長としても四国なら距離的にも最悪自分が山陽方面から動く事も出来るから、他の面子と与えられた役割が違ったのかな、と。
まあ、丹羽さんはしばらく安土城作ってて前線から遠ざかっていたからな。
乱世や無秩序を「北斗の拳状態」という表現にされているのは、個人的に最高だと思います😅👍🌟ヒャッハー!
原因はいろいろ考えられる本能寺の変、何でこうあっさり負けたのかわからない山崎の戦い
信長を討った後、明智光秀にやる気が感じられないんよなぁ・・・。
後編楽しみです(*^▽^*)
秀吉のあれこれは援軍の準備で要員を往来(京⇔姫路⇔備中)させてたのが役立ったって話が
私は、乱心(光秀が認知症を発症した)説を推します。
初期症状として知能はそのままで、人格がすっかり変わってしまう症例は結構あります。
ウチの婆ちゃんとか。
詳細なまとめありがとうございます。いやホンマ、知れば知るほど光秀が謀反おこした理由が分からなくなりますね・・・
原住民目線ならば鳥羽伏見の戦いもお願いします。
今まで考えたことなかったけど、秀吉軍から全く離脱者なかったのは奇跡だな。
そういうのを考える余裕もないほど、秀吉が動かしまくったんだろうけど。
脱落者は少なからずいたという話だったと思います。
進軍速度を重視して助けてはなかったようです。
強行軍から脱落した兵は多かったでしょう
ただ敵地ではなく織田の勢力圏内で脱落しても一休みした後から安心安全で進めます
というか進まないと領民の目があるので後が怖いのです
主の羽柴さまに背いた不穏分子と認識され狩られる可能性が出て来ますし
脱落して逃亡した兵の家族が無事で済む確約もありません
秀吉は強行軍により1日で90kmを走破した後は
60kmを4日かけてゆっくり進んでいるので
その間に脱落した兵も追いついて合流したでしょう
いいねえ
この調子でジャンジャンやって下さい
13:50
信長から残念だったなぁ?トラップだよ!とか明智光秀側としては絶対避けたい状況でしょうけど、そもそも何故厚遇されてた光秀が本能寺の変起こしたのか?ってのは永遠にミステリー打倒思います?(同レベルで坂本龍馬暗殺事件の真犯人も)
ウィスキー🥃に、
淀の🏇競馬場、
うぷ主、良いところに
住んでますね。
某登山家が頭に浮かんだ人、挙手!
信長は本田忠勝と話した時に張飛みたいだなと褒めた後に
自分を曹操になぞらえてたから信忠を曹丕のようにしっかり
自分の背中を見させてたけどそれを光秀に見抜かれた形になったな。
本能寺の変が事前に計画されていたという説への反論はここの動画がわかりやすいと思う
ua-cam.com/video/X9hx8-cfuHE/v-deo.html
そういえば真田昌幸は沼田城を滝川一益から返してもらったから、滝川一益の帰還に協力してましたね
上手い後編への繋ぎ
津田信澄、光秀の娘婿でもあるけど信長の甥っ子(カッツの子)でもあったよね確か…地味にキーパーソンだった気がする
実は光秀は裏切っておらず、光秀の軍に偽装したどこかの敵対勢力(公家とか)が光秀に濡れ衣を着せる為に信長親子を暗殺したという説もある。
これならある程度いきあたりばったりな行動に納得がいくけど、これもこれで微妙だとは思う。
歴史上の人物の再評価は面白い
中でも光秀は近年ガラッと評価が変わった気がする(特にNHK大河)
でも「悲劇の武将」って描くのはムリ、やはり「自業自得」だよねえ…
動画内での、光秀が美濃の名士で濃姫の従兄弟という説が現代では否定的というのは、多聞院英俊とフロイスによる藤孝の中間という記述からでしょうか。
ただしこれは、長良川の戦いで庶長子の斎藤義龍に敗れた道三に味方していて、朝倉義景の元に落ち延び、やがてそこで三好軍から逃げてきた足利義昭と細川藤孝に出会い、信長に紹介したという旧説とは矛盾しません。
濃姫の従兄弟でなければ、いくら光秀が優秀であっても、勝家や長秀、秀吉、あるいは藤孝らを差し置いて信長から最初に近江坂本の一国一城を任せられる事は無かったのではないかと思われます。
そもそもクーデターやるのなら他の全ての重臣の同意・協力を得ないとまず成功しません。
実際三国志の呂布も董卓を殺害後旧董卓勢力に追放されてますしね。
一方で同じ日本の戦国時代で武田信玄の父・信虎追放、斎藤義龍の道三殺害等、
家中の大半の重臣達を味方に引き入れ成功しています。
ついでに光秀謀反の理由について推測ではありますが、信長に不満を持っていた当時の明智家家臣団の突き上げに抗しきれず、
信長殺害に踏み切ったのではないかと言われてます。そうなると光秀自身は無謀だとは分かってはいても謀反を行わざるを得なかった訳ですね。
ついでに信孝についてですが、通説だと信孝は無能扱いされてますが、それだと清須会議で信孝が後継者有力候補になったのか分かりにくいのですよね。
フロイスの日本史によると光秀の協力者と見られてた津田信澄(無実でしたが)を殺害した事で近辺の有力者が参集したとあるので
反明智勢力の総大将として有望視されてたようですね。
ただ動画として凄く面白かったのですね。浸透襲撃氏の動画は実体験を交えて解説して下さるので当時の偉人達の偉大さが実感できて分かり易いです。
もし、突き上げでやむなくだとしたら、信長親子がたまたまスキを見せたのは呪わしい事態でしょうね。状況が状況なら、まだ時期尚早とかなだめられたかもしれないのに
頭脳明晰で朝廷とかとの繋がりが強い光秀が謀反を起こしたから、何かしらの下準備等を恐れて丹羽と信孝は手をこまねいていたのかな?時間が経てば柴田や羽柴辺りが戻ってくるあるいは信長が実は落ち延びていたとかの続報があるかも知れないしってことで待ちの姿勢をとったとか。
信孝が討った津田さんは、信長の弟の子供です。
跡継ぎ問題でうるさそうな人を
どさくさに紛れて排除しているので、できる限りの事はやったんだと思います。
ファイナルファイト名前しか知らないくて伏線がわからない(´・ω・`)
それにしても秀吉。兵法は速さが大事、さすがは天下人ですね
現代的な組織では部下の部下は部下ですが中世では部下の部下、陪臣に命令する事は出来なかったそうですね。
あくまで信長、信忠の勢力に従っていた兵士を率いていた神戸信孝と戦場で実力を見せて兵を統率していた秀吉の器量の差がでたという事でしょうか。
秀吉が取り急ぎ和睦を取り付けたとはいえ、織田領でクーデターが起きれば毛利がどう動くか分からない、明智サイドからは和睦条件含め十分な情報収集できなかった。
秀吉は制圧したばかりのデリケートな状態で毛利に兵力を割かなければならないだろうし、明智は長期戦を予想して城を直したんじゃないですかね。
第三勢力次第では秀吉軍の自然消滅の可能性も十分あったかと。
「麒麟がくる」でこの、後本能寺の変をやってほしかった。明智光秀主観でこの鬼気迫る戦況をつぶさに描くべきだった。
いや、あの終わり方はなんじゃい!?