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いつも楽しみに拝見しています😊コロナに、風邪に十分気をつけて頑張って下さい
本年もどうぞよろしくお願いします!そして、早速の解説ありがとうございます。本日の回で一気に本能寺勃発の要因となりうる俗説がでてきたようでした!信長の激しい気性、家康の思惑、秀吉の強かさ、朝廷の暗躍…麒麟では、どう描かれるのか?!先生の解説と共に楽しみです!ありがとうございました。
本年も解説宜しくお願い致します。この先信長が石山戦争にて天王寺・南河内・木津の3砦を築いたことや安土での築城、更にその先の本能寺へと繋がっていく経緯がとても良く分かります!次回も楽しみにしております。
あと数回で、光秀の信長への心情をどこまで深堀できるんだろう。。
明けましておめでとうございます。今年も視聴させて頂きます。
毛利水軍は「瀬戸内」と「日本海側」で「強さに差がある」のも「陸地を簡単に往来して戦力を均等化する様な事は現実にはむつかしいよね」と感じさせられるので面白さを感じます。信長さんが「近江を要地と考えた」のは、まさに「そこを奪われると大動脈を断たれるのと同じだから」ですよね。これいわゆる「兵站」ですよね。西は「本願寺と毛利」に、東は「武田と上杉」に「挟撃」を受ける事で「それぞれへの対応に東奔西走する事になった」訳ですけど、この時期に「兵站の重要性」を「実感」として信長さんと御家来衆は得たように思えます。これが、のちの羽柴秀吉さんに依る「中国大返し」に於いても「迅速に移動出来る環境の整備」として活かされていた訳ですよね。大阪城も「安土城」と「本願寺」の「長所」を組み合わせて誕生していると聞いた事があります。こう言った「繋がり方」をしているのも歴史の面白い所だなと、小和田先生の御話を聞きながら感じました。今回も、楽しいひとときを有難うございました。
Bien gracias Evitaeterna.
清州から小牧山から岐阜そして安土に本拠地を移った信長だから信長は本能寺の変がなかったら安土から移り大阪か京都に城を立てたかもしれませんね。
本願寺合戦の地図の多くで、天王寺と本願寺の間に水路を描いていますが、上町台地を横断する川なぞ無く、和気清麻呂が掘削しようとした跡や台地に刻まれた自然の谷筋があるくらいのはずですよね。当時も。せいぜいそれらを使った水の無い(or泥地程度)堀が作られていたぐらいではないでしょうか。何であんな地図が残ってるんだろう?来たことのない人が台地になっていることを知らずに想像で適当にこの辺川筋あるんじゃね?って感じで描き入れたんじゃないでしょうか。
本年も宜しくお願いするでござる。
解説ありがとうございます。本願寺の一向一揆というと昔の歴史漫画などでは、筵の旗に鍬や竹槍を武器にと、江戸時代の百姓一揆と同じように描かれることが多かったですが、今日の大河ドラマでは戦国大名と同じように鎧や刀槍で武装をしていましたね。刀狩り前の時代なので、今日の大河のようなのが正解ですよね?
信長はやがて石山本願寺跡後に城を建てる予定だった。現に秀吉がそこに大阪城を築城してる。
塙直政の死は、その後の歴史を大きく変えてしまいましたね。
先生の授業をもう一回受け直したいです
私は福井ですが、菩提寺の門徒さんが本願寺支援によく行っていたと聞きます。
この回の信長がご乱心と言うか脚本のご乱心?と思うような振る舞い本能寺マイルを貯める演出にしては急すぎる展開だと感じましたコロナ禍の中で放送回が少ないのもありますがもう少し納得のいく演出をと
今回は丹波・本願寺攻めと戦が続く時期に光秀が倒れたシーンがありましたが、史実でもそうだったのでしょうか?
京の帝や朝廷などは、記録を記す時、多少意図を持って計っていたのですか?
上杉謙信、武田信玄がもっと健康で長生きしていたなら、信長が人を大事にする人であったなら、秀吉と北政所との間に実子がいたら、家康が信長と同盟を組まなければ、伊達政宗がもっと早く生まれていれば、など考えてみるのも面白いです😊今の日本は、全く違うものになっていたかも…🤩
ご子息も考古学者なんですか・・・・・小和田家ってやっぱり凄いんですね。安土城はおそらく実際の攻防には全く向かなかったってなんかの本で読みました。清州城の三重掘も信雄が作ったといわれてますし・・・・。天王寺砦も絶望的な状況でしたもんね信長が被弾してでも救援に向かったのもわからなくもないですし・・・
本願寺は、信長最大の敵で11年間も戦い続けたと聞いています。
信長は自分が朝廷と関わりを持ってしまったが故、京での仕事と本願寺制圧を同時におこなう無理難題をしてたんですよね〜そりゃあ11年もかかるのは無理ないですよ😅
雑賀鉄砲衆にさんざんやられた信長さま。
(3:25) 미츠나리 출생지로 떠올리는 곳! 비와호!
和議を結んでも破るって、結局、和議なんか結ぶ気ないんですね。ちょっと休戦って感じですかね。
大学で【織豊政権の経済力】を中心に研究したものです。信長公は蘭奢待切取りの時以降、正親町天皇の信長に対する考え方が変化したことに気付きました。以後即位を勧めたり、朝廷への資金援助が寡少になっています。正親町天皇は光秀公に信長公弑逆を命じ実行させました。誰にも秘密を漏らさず書き物も残さないという光秀公の気性を知り抜いていたからこその、謀略が後世にも一切洩れない命令だったと、私は判断しました。光秀公に近しい他の武将も【突発謀反】と感じたからこそ、光秀公の支援要請に呼応しなかったと考えます。★★正親町天皇の、信長公に対しての報恩精神が皆無だったことや「自分だけよければ」という人格が、日本の歴史上とくに明治以降の皇室を冒瀆することに直接繋がるため、光秀公を《単なる謀反人》にしたのだと考えます。★★
何処の国でも宗教は厄介なモノですよね。統治が難しく尚且つ敵に回せばただではすまない。ホントに厄介ですわ。
僕はこの回で光秀が倒れた時にわざわざ京まで戻って煕子が東庵先生を呼んでようやく治療を受けることができたという場面で宗教勢力は厄介だな~って思いました。というのも光秀が倒れた時大阪の医者を訪ねれば近いのになぁ・・・と思ってはいたんですが利三が近くの大阪の医師に頼んでも仏罰だ・・・と医師が怖がって診療を拒否されたみたいなことを言ってた場面でそういうことか・・・って感じました。ここで仏罰が怖いっていう表現来る!?ていうか本当に宗教勢力は敵に回すとただでは済まないって感じましたな・・・
いつも楽しみに拝見しています😊コロナに、風邪に十分気をつけて頑張って下さい
本年もどうぞよろしくお願いします!そして、早速の解説ありがとうございます。本日の回で一気に本能寺勃発の要因となりうる俗説がでてきたようでした!信長の激しい気性、家康の思惑、秀吉の強かさ、朝廷の暗躍…麒麟では、どう描かれるのか?!先生の解説と共に楽しみです!ありがとうございました。
本年も解説宜しくお願い致します。
この先信長が石山戦争にて天王寺・南河内・木津の3砦を築いたことや安土での築城、更にその先の本能寺へと繋がっていく経緯がとても良く分かります!
次回も楽しみにしております。
あと数回で、光秀の信長への心情をどこまで深堀できるんだろう。。
明けましておめでとうございます。
今年も視聴させて頂きます。
毛利水軍は「瀬戸内」と「日本海側」で「強さに差がある」のも「陸地を簡単に往来して戦力を均等化する様な事は現実にはむつかしいよね」と感じさせられるので面白さを感じます。信長さんが「近江を要地と考えた」のは、まさに「そこを奪われると大動脈を断たれるのと同じだから」ですよね。これいわゆる「兵站」ですよね。西は「本願寺と毛利」に、東は「武田と上杉」に「挟撃」を受ける事で「それぞれへの対応に東奔西走する事になった」訳ですけど、この時期に「兵站の重要性」を「実感」として信長さんと御家来衆は得たように思えます。これが、のちの羽柴秀吉さんに依る「中国大返し」に於いても「迅速に移動出来る環境の整備」として活かされていた訳ですよね。大阪城も「安土城」と「本願寺」の「長所」を組み合わせて誕生していると聞いた事があります。こう言った「繋がり方」をしているのも歴史の面白い所だなと、小和田先生の御話を聞きながら感じました。今回も、楽しいひとときを有難うございました。
Bien gracias Evitaeterna.
清州から小牧山から岐阜そして安土に本拠地を移った信長
だから信長は本能寺の変がなかったら安土から移り大阪か京都に城を立てたかもしれませんね。
本願寺合戦の地図の多くで、天王寺と本願寺の間に水路を描いていますが、上町台地を横断する川なぞ無く、和気清麻呂が掘削しようとした跡や台地に刻まれた自然の谷筋があるくらいのはずですよね。当時も。
せいぜいそれらを使った水の無い(or泥地程度)堀が作られていたぐらいではないでしょうか。
何であんな地図が残ってるんだろう?
来たことのない人が台地になっていることを知らずに想像で適当にこの辺川筋あるんじゃね?って感じで描き入れたんじゃないでしょうか。
本年も宜しくお願いするでござる。
解説ありがとうございます。
本願寺の一向一揆というと昔の歴史漫画などでは、
筵の旗に鍬や竹槍を武器にと、江戸時代の百姓一揆と同じように描かれることが多かったですが、
今日の大河ドラマでは戦国大名と同じように鎧や刀槍で武装をしていましたね。
刀狩り前の時代なので、今日の大河のようなのが正解ですよね?
信長はやがて石山本願寺跡後に城を建てる予定だった。
現に秀吉がそこに大阪城を築城してる。
塙直政の死は、その後の歴史を大きく変えてしまいましたね。
先生の授業をもう一回受け直したいです
私は福井ですが、菩提寺の門徒さんが本願寺支援によく行っていたと聞きます。
この回の信長がご乱心と言うか脚本のご乱心?
と思うような振る舞い
本能寺マイルを貯める演出にしては急すぎる展開だと感じました
コロナ禍の中で放送回が少ないのもありますがもう少し納得のいく演出をと
今回は丹波・本願寺攻めと戦が続く時期に光秀が倒れたシーンがありましたが、史実でもそうだったのでしょうか?
京の帝や朝廷などは、記録を記す時、多少意図を持って計っていたのですか?
上杉謙信、武田信玄がもっと健康で長生きしていたなら、信長が人を大事にする人であったなら、秀吉と北政所との間に実子がいたら、家康が信長と同盟を組まなければ、伊達政宗がもっと早く生まれていれば、など考えてみるのも面白いです😊今の日本は、全く違うものになっていたかも…🤩
ご子息も考古学者なんですか・・・・・小和田家ってやっぱり凄いんですね。安土城はおそらく実際の攻防には全く向かなかったってなんかの本で読みました。清州城の三重掘も信雄が作ったといわれてますし・・・・。天王寺砦も絶望的な状況でしたもんね信長が被弾してでも救援に向かったのもわからなくもないですし・・・
本願寺は、信長最大の敵で11年間も戦い続けたと聞いています。
信長は自分が朝廷と関わりを持ってしまったが故、京での仕事と本願寺制圧を同時におこなう無理難題をしてたんですよね〜
そりゃあ11年もかかるのは無理ないですよ😅
雑賀鉄砲衆にさんざんやられた信長さま。
(3:25) 미츠나리 출생지로 떠올리는 곳! 비와호!
和議を結んでも破るって、結局、和議なんか結ぶ気ないんですね。ちょっと休戦って感じですかね。
大学で【織豊政権の経済力】を中心に研究したものです。
信長公は蘭奢待切取りの時以降、正親町天皇の信長に対する考え方が変化したことに気付きました。以後即位を勧めたり、朝廷への資金援助が寡少になっています。正親町天皇は光秀公に信長公弑逆を命じ実行させました。誰にも秘密を漏らさず書き物も残さないという光秀公の気性を知り抜いていたからこその、謀略が後世にも一切洩れない命令だったと、私は判断しました。光秀公に近しい他の武将も【突発謀反】と感じたからこそ、光秀公の支援要請に呼応しなかったと考えます。
★★正親町天皇の、信長公に対しての報恩精神が皆無だったことや「自分だけよければ」という人格が、日本の歴史上とくに明治以降の皇室を冒瀆することに直接繋がるため、光秀公を《単なる謀反人》にしたのだと考えます。★★
何処の国でも宗教は厄介なモノですよね。統治が難しく尚且つ敵に回せばただではすまない。ホントに厄介ですわ。
僕はこの回で光秀が倒れた時にわざわざ京まで戻って煕子が東庵先生を呼んでようやく治療を受けることができたという場面で宗教勢力は厄介だな~って思いました。
というのも光秀が倒れた時大阪の医者を訪ねれば近いのになぁ・・・と思ってはいたんですが
利三が近くの大阪の医師に頼んでも仏罰だ・・・と医師が怖がって診療を拒否されたみたいなことを言ってた場面でそういうことか・・・って感じました。
ここで仏罰が怖いっていう表現来る!?ていうか本当に宗教勢力は敵に回すとただでは済まないって感じましたな・・・