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現在の歴史的見解で描かれた桶狭間の戦いいままでさらっと終わってたものが時間をかけ放送されて面白かったです。
わかりやすい解説ありがとうございます!桶狭間における研究が更に進むことを願います。
最新の研究を専門家の方から直に聞けるような時代が来るとは!これからもお話楽しみです!
先生の解説は非常に分かりやすいです。これからもお願いいたします。
今回の麒麟がくるの桶狭間の戦い、超合理主義の信長らしい戦い方で非常に興味深いものでした。小和田さんらの最新の研究▪調査結果が大河ドラマに反映されていて、毎回、どんな表現がされるのか楽しみにしてます。
小和田先生はじめ、研究者の方々のお考えを、直接うかがう事ができて、大変嬉しく、光栄に思います。ますます、戦国時代が身近に感じられます。ありがとうございます。
石高から推察する国力・戦力差は大変興味深いです。
尾張は濃尾平野がありますからかなりの石高はあったんでしょうね。そして港までありましたから織田家は結構お金は持っていたでしょうね。信長がおぼっちゃまだったというのもうなずけます。
小和田先生のチャンネルをたまたま見つけて、すぐにチャンネル登録しました。信長は地元の英雄なので、尾張が大河でクローズアップされることはうれしいです。
ありがとうございます。昔読んだ本で、戦国時代の動員兵力は、10万石あたり2500人とあったので、駿河・遠江・三河の三国で100万石で25000人動員という感覚でしたが、2/3しかないのは意外でした。勉強になりました。
小和田先生、UA-cam チャンネルお持ちだったのですね!うれしいです。チャンネル登録させていただきます。
戦いに先んじて抜け駆けのように300名ほどが突出したのはずっと疑問でしたが、今川本隊の兵力を分散させるための作戦だったという、今回の描かれ方で腑に落ちました。
歴史の出来事の背景や詳細って面白いですネ👏
信長の父信秀は、港からあがる収益に加え、三河の一部も支配していたところをみると石高もかなり高く、万単位の軍を動かせたのも納得がゆく。
アイリーン、官兵衛での大谷刑部の演技も良かったけど、今川義元はそれ以上に良かったなあ。
勉強になりました。ありがとうございました。
歴史が少しずつ事実に近づいて行くのは面白い
太田牛一が書いた「信長公記⌋首巻の桶狭間合戦の記述では、合戦の年次が永禄3年ではなく、8年前の天文21年としているのはなぜでしょうか?
桶狭間の戦いは兵数や領地の広さだけで戦いの結果を予想してしまい、圧倒的に小さな領地で人数の少ない織田軍の勝利というのは、よほどの奇襲が奏功したか、天候などの神がかった偶然が重なった奇跡の勝利のように思っていました。今川の百姓大量動員体制や、領地の広さの割に石高が低かったことを知ると、実質、最初から互角の戦いに持ち込めることがわかりました。名古屋おもてなし武将隊の前田慶次チャンネルも見ましたが、ドラマで実質の兵の数を引き算で示されたり、織田軍は御貸具足が一人もおらず全員、大鎧だった演出をされたりしたことも、なるほど!と思って見れました。数のリサーチだけで分析せずにむやみに恐れをなすのは間違いなんだなあ。と思いました。ありがとうございました。
2017直虎ではこのように実際に考証の解説がなくて残念でしたが今年は小和田先生の解説がありますので感謝しています。ありがとうございます。そして昨夜の回で直虎に繋がりわくわくしました。撮影再開を祈っております。昨夜は素晴らしい桶狭間でした。
@@宮崎さくの さまそうですね。小野但馬の弟も。
確かこの時、桶狭間山の義元本陣の兵力は5000だったらしいですね。百姓足軽が主力の今川軍に比べ、織田軍は信長に命を捧げる覚悟の親衛隊。義元が討たれたのは、両軍の士気の違いもあったような気がします。
この時って休憩がお達しされてたとか信長公が現地の住民に酒を運ばせて油断させたとか言われてますけど気が緩んでたのもあると思います。
小和田先生なので直虎の世界線との被りもあるかなぁと思って見てました。にしても、3年前、信長はいつになったら出てくるかとずっと待機していて、丁度桶狭間の回直前に海老蔵さんと発表され、桶狭間で劇的な登場シーンを飾るのかと思っていましたがまだ出てこない、と主線からずれないドラマの描き方に圧倒されていたことを覚えています。しかし、直虎の桶狭間は本当に辛いものでしたね…。
今川軍2万5千人のうち、正規軍1割というのは少ないように思いますが、正規軍同士なら互角だったかもしれませんね。
もう2ヶ月になるんですね。そもそも、またテレビを楽しく見れる世の中になるといいな。2ヶ月の遅れからカットされる場面が出てくるのは悲しいな
小和田先生のお話をUA-camで聴けるようになり、大変うれしく思っています。石高のお話、大変興味深く拝聴しました。今回の大河ドラマの「桶狭間の戦い」はとても迫力があり、信長の戦略もよく描かれていて面白く、録画版を何度も観てしまいました!1つ気になっていることがあり、質問させていただきます。那古屋城のシーンで、よく波の音が聞こえてきます。しかし、お城は、そんなに海に近くないと思っています。現在は埋立地があり、昔はもっと海に近かったのかなと思いましたが、古地図を見ても近くないように思います。海のない美濃から嫁いだ帰蝶を強調するための演出でしょうか?
白馬の戦いで曹操が輜重車を囮にして文醜を討った話を思い出しました。
いずれ義元が大河になったら嬉しい
駿河、遠江、当時は海岸線が現在より陸地に入り込んでいて、田畑にできる土地は少なかったと思います。今はかなり陸地側にある高天神城が実は海岸線に近かったということからもわかります。それと、桶狭間の戦いは、現在の暦で6月12日ということですが、今川軍がこの時期に大軍を動かしたというのが、農耕の暦との関係でどうなのか、今川氏の意図も含めて気になるところです。
太閤検地の時の三河の石高が30万石弱、幕末には50万石近いからな
確かにこの時代少し石高違うと思うが互角、兵士の質今川は農民からの徴用兵に遠江、三河等の国人領主から派遣させた兵も含む数織田は武士の編成が多く精鋭武士だけでも互角の兵数ですね。ゆえに陽動で分散させ今川本隊の行動を逐一報告受けていれば勝算ありますねやっと取り上げてくれましたよね、乱取りまあ仕方ないですね当時としてはね。織田の兵が立派な装備着けていたのかな
信長公はお金持ちだから自軍の親衛隊にいい装備でもつけてたんですかね
桶狭間以降も最後まで、他からの誘いに乗らずに氏真を支え続けた朝比奈泰朝が、、、、乱取りで名前が出てきたのは悲しかった、、、風間家康の今川を裏切らない、けど流石に意地もみせます!的な心境は上手かったな~
従来は義元様の筆頭重臣として朝比奈泰能が、史実では亡くなっているので子の泰朝がお側で説明申し上げてたのに、最近の大河では殆んど出てこないなあ。残念
初めまして,Masaki Anayama と申します。小和田先生のチャンネルを視聴させて頂けるとはお。思いもよらなかったです。お元気なお姿をはいけんさせて頂いて只只,感無量で有ります。戦国史の第一人者で有ります先生のyou tube でのご講義を拝聴出来ます幸せを,今実感致しております。またのご講義楽しみにしております。宜しくお願い申し上げます。有難うございました。
小和田先生のご指摘のとおり、駿河・遠江・三河ともに背後は山地を抱えており意外と平地は少なく、また駿遠二か国は過去の富士山噴火による火山灰地も多いので、当時は稲作にはあまり適していなかったのでしょうね。それに比べて尾張は木曽三川による平地があり、水害にも見舞われるが稲作には適していたのでしょう。
桶狭間、早くはっきりと解明されたら面白いね。
尾張美濃足した石高はすごそうですね。西上作戦の頃の信玄単体ではもう信長にあまり勝ち目はなさそうですね。
それだけ貧しかったら尾張ほしいし乱取りもするでしょうね。今川家も家格を保つための費用に苦しんでたりして。
信長の方もまさか義元をうちとれるとは思ってもみなかっただろう。本隊に痛撃を加えるのが目的だったのでは? もし、義元の首まで計算通りなら神だね。
大将首が獲れないうちは、織田に勝利はないので、マジに首を獲りに行ったと見てますけどね d(^_^o)
義元を討つしかない手段だろ?すでに先鋒の元康は鷲津とか落としてる。ここで動かれたら信長は終わり。本隊にダメージ与えたらOK程度の考えでは、この作戦は出来ない。態勢建て直されたら詰むからな。それこそ義元を討って「尾張を侵攻してくる理由」を根こそぎ奪わないと。仮に「義元を殺せなくても本隊に大打撃与えて撤退させた」としても、二度目が来たらで織田家は終わってる。
先生。信長が尾張を開発仕切った後の時代に太閤検地なので、どうでしょう??50年代後半はまだそこまで発展して無いのではないでしょうか?
信長公記では「桶狭間山」ですね。
当時の尾張は湿地が多くて、開発できなかったと聞いたことがあります。信長の頃ぐらいに開発する技術が生まれて、今の大阪名古屋東京が発達していったと聞いたことがあります。開発前の尾張統一前の信長が今川家と同等ということはないと思いますが、このへんはどうなのでしょうか?
乱取りは風林火山でも出てきます。
小和田先生はじめまして私の家系図には源義家の6男源義隆の長男毛利義広が初代で6代広秀が美濃に移住して土岐、斎藤、織田、豊臣、徳川と仕えて現代に至っています、その中で毛利新助の名前も出てきます、この家系図は江戸時代のものですが一度見て頂きたいと思いますが?
木曽義仲軍の京都での略奪狼藉は、乱取りとは呼ばないのですかね?
今川義元があれだけ無理やりに西進を推進したのはやっぱり三カ国の領主だけど、石高では周りの大名に足りてないっていう危機感があったからいわゆる濃尾平野を有する尾張を是が非でも取り込もうと必死こいて頑張った結果果たせなかったっていうことなんだろうか?
太閤検地は、桶狭間から約30年後であり、信長が美濃を平定した後は侵略を受けること無く、尾張は安定した状態で開発が出来ました。しかし、この時の信長は尾張を平定して間もなく、しかも尾張は不安定で周辺諸国と小競り合いを繰り返していました。信長は尾張の石高を活かすことは出来ない状況かと思われます。
博多哲也 さん私も別でコメントしてますが、同意見です。研究者の間で、この30年をどう考えて、太閤検地時の石高の兵数計算を桶狭間時に当てはめているのか、気になりますね。
@@softeasy9464 さまありがとうございます。桶狭間の時は群雄割拠の時代ですからね😅信長は美濃を敵に回し、身内や家臣も面従腹背。国力を活かすだけの余裕は無いはず。対する今川は、三国同盟で盤石な物とし、家臣団もまとまっており、検地を始めとした内政も充実。。どう考えても、圧倒的に不利かと。
博多哲也 さんおっしゃる通り、後顧の憂い有無の差もありますね。津島と熱田の商業的国力が見直されてるので、従来のような尾張=弱小ではない事は理解できるんですけど、石高のケースも当てはめていいのかと。行間の説明があると嬉しいですね。
作中には関係ないけど、今川義元の軍師太原雪斎が1555年に亡くなっている事が義元の敗因だと思います。今川義元の調略、合戦の勝利の裏には必ず雪斎の助力がある。雪斎の死後、明らかに義元の動きが雑になっている。雪斎が亡くなっていなければ義元も無様な死に様をしなかったと思う。
当時、戦勝者は掠奪が当たり前みたいだった。それを厳しく戒めたのが信長。偉い専門家さんに意見してしまった。
石高論は、ちょっとだけと兵農分離論などからは、十分あると思える話しとして面白く拝聴させて頂きました。ただ気になるのは、帰蝶な女性の立て膝控え姿です。これはお隣の文化では?綺麗にされてるが、普通の和服では裾が乱れる。違和感しかないですが、時代考証に詳しい方 教えてください。
すみませんでした!立て膝が普通だったんだ。
ジャンピングしながら槍がつけるのかがとても気になりました。
あれは今井翼さんだから、ジャニーズ待遇。
百姓だからといって弱いとは限らないような
戦国時代の女性のたち膝の解説がありましたが、なぜたち膝すわりをするのか?を知りたかったです。
桶狭間で今川義元を見つけて襲撃シーンで義元に一太刀を付けた服部小平太が登場せずに二番手の毛利新助だけがクローズアップされたのは納得がいかん?
ホラ私はあなたのビデオを理解したいです私は日本の歴史に興味がありますあなたのビデオにスペイン語または英語の字幕を追加していただけませんか、ありがとうございます!
太閤検地の石高による兵数計算の件について、ど素人なりに疑問が残ります。1.太閤検地時と桶狭間時は石高は同一値なのでしょうか? 桶狭間時と太閤検地時で約30年期間が空いていますが、 その間新田開発等で石高が増加した背景はないのでしょうか? (そういった資料が見つからない限りは、同一値と判断するんだと思います。)2.太閤検地時の54万石から産出される兵数100%で、桶狭間時でも兵の動員はできたのでしょうか? 桶狭間時は、信長もやっとほぼほぼ尾張一国統一したくらいで、 太閤検地の目的通り全ての村々の田畑の収入を掌握できてなかったのではと思います。 また桶狭間時と太閤検地時の人口や田畑の整備状況も、 直近で度重なる戦闘が国内であった桶狭間時と、 桶狭間以降小牧長久手くらいはあったものの、 それ以外目立った戦闘が無かった太閤検地時では違いがあって、 単純に当てはめられないんじゃないかなと思います。 駿河、遠江においては、桶狭間後も武田と徳川による戦闘が、 天正壬午の乱辺りまでは続いていて、 尾張が桶狭間後に比較的安定していった背景と反比例するように、 駿河、遠江は人口増加や田畑の整備が十分に行われなかったのかなとも思います。 上記2点をクリアした上で、太閤検地時の石高による兵数算出が当てはまると研究者の間で判断しているのか、気になってます。
恐らく、この方は当時の歴史的な背景を考察せず、単に算数的な視点で物事を論調しているだけだと思います。人
博多哲也 さん返信どうもです。確か何かのテレビ番組で、東大の本郷先生も同様に、桶狭間時の兵数差の話で太閤検地時の石高を当てはめていました。多数か少数かは不明ですが、研究者間で一定の評価はされてる話なんだと思います。ただ、その時の本郷先生の話も、小和田先生のこの動画でも、当てはめに至る行間の説明が無いので、是非お話を聞いてみたいですね。
人はある程度の肩書きや見栄えなどを重視します。大学教授などはよく本棚を背景に自分の知識を誇示したりとか。。。そういう方は、認識バイアスになっているケースも多い傾向があります。そういう意味では、今川義元も圧倒的な有利に慢心があったのでしょうね。桶狭間は、攻撃側の情報収集能力の欠如。兵力分散。そして、慢心。これが合わさっての結果です。この教授の言うような、信長が国力を活かす事は、この時点では出来ないという事は間違いないですね。
@博多哲也 さんごちゃごちゃ書いてましたが、シンプルに書き直します。大学教授批判、歴史学者批判に関するコメントに対してはノーコメントです。
信秀・信長は尾張統一前でさえ、斎藤氏、今川氏、国内尾張統一戦を戦うだけの力があったわけですから、たしかにパッと見以上の実力があったと見るほうが確実ですね。このへんはセンゴク桶狭間戦記がとても分かりやすい。ただ、専門武士の数が違う、という視点は面白いですね。
毛利新助の具足が、まるで大将がつけるような立派なものでしたね。桶狭間のクライマックスを飾る重要人物ですのでTVドラマ的に仕方ないとは思いますが。本当に毛利新助が付けていた具足なんてだれもわからないし忠実に再現しようとしても地味になりすぎてドラマ的に映えませんからあれで良いのだろうとは思うのですが、違和感は覚えました。
毛利新介は馬廻なので、ある程度は立派な具足だったと思いますよ
@@ゆうすけ-q4y そうですね、信長勢二千が精鋭揃いだった、とお考えのようなので雑兵の兵装とは違ったとは思います。しかし新助の前に義元に槍をつけた、おそらく服部小平太などと比べると兵装に差がありすぎます。これはドラマ上の演出であって、リアリティを追究したものではないと思います。あのジャンプなども含めて。ドラマ班の思惑も理解できるので、時代考証を担当された小和田先生はどの程度まで許容されたのかなあ、と気になりました。
これにはちょっと異論があるかなぁ。だって平和になった後の濃尾平野の尾張と戦乱に明け暮れている尾張では状況が違うでしょ。そして駿河にしても今川→武田→徳川と領主を桶狭間の戦い以降の約30年で変わるぐらい混沌としていたのだから同列に並べていいものかいささか疑問なのだが。少なくとも今川義元が統治していた時代には何度か攻められたことはあったにせよ、盤石の駿河・遠江だったと思うのでこれが桶狭間の現状だったかは若干疑問が残るなぁって感じがあるね。あと「乱取り」に関しては「風林火山」でも出てきてます。
迂回して本陣に奇襲攻撃の神話が、後の日本陸軍・参謀本部の分析が神話のごとく定着している。太平洋戦争にこの過ちを繰り返している。
こういうところに時間をさける大河は観たかったです。ドラマは創作の話ですからあなたがたの責任でつくればいいだけで、観てるこちら側は次の時代のためにこのドラマを消化しようとおもいます。作品をみればすべてわかります。
現在の歴史的見解で描かれた桶狭間の戦い
いままでさらっと終わってたものが時間をかけ放送されて面白かったです。
わかりやすい解説ありがとうございます!
桶狭間における研究が更に進むことを願います。
最新の研究を専門家の方から直に聞けるような時代が来るとは!
これからもお話楽しみです!
先生の解説は非常に分かりやすいです。これからもお願いいたします。
今回の麒麟がくるの桶狭間の戦い、超合理主義の信長らしい戦い方で非常に興味深いものでした。小和田さんらの最新の研究▪調査結果が大河ドラマに反映されていて、毎回、どんな表現がされるのか楽しみにしてます。
小和田先生はじめ、研究者の方々のお考えを、直接うかがう事ができて、大変嬉しく、光栄に思います。
ますます、戦国時代が身近に感じられます。ありがとうございます。
石高から推察する国力・戦力差は大変興味深いです。
尾張は濃尾平野がありますからかなりの石高はあったんでしょうね。そして港までありましたから織田家は結構お金は持っていたでしょうね。信長がおぼっちゃまだったというのもうなずけます。
小和田先生のチャンネルをたまたま見つけて、すぐにチャンネル登録しました。信長は地元の英雄なので、尾張が大河でクローズアップされることはうれしいです。
ありがとうございます。
昔読んだ本で、戦国時代の動員兵力は、10万石あたり2500人とあったので、駿河・遠江・三河の三国で100万石で25000人動員という感覚でしたが、2/3しかないのは意外でした。
勉強になりました。
小和田先生、UA-cam チャンネルお持ちだったのですね!うれしいです。チャンネル登録させていただきます。
戦いに先んじて抜け駆けのように300名ほどが突出したのはずっと疑問でしたが、今川本隊の兵力を分散させるための作戦だったという、今回の描かれ方で腑に落ちました。
歴史の出来事の背景や詳細って面白いですネ👏
信長の父信秀は、港からあがる収益に加え、三河の一部も支配していたところをみると石高もかなり高く、万単位の軍を動かせたのも納得がゆく。
アイリーン、官兵衛での大谷刑部の演技も良かったけど、今川義元はそれ以上に良かったなあ。
勉強になりました。
ありがとうございました。
歴史が少しずつ事実に近づいて行くのは面白い
太田牛一が書いた「信長公記⌋首巻の桶狭間合戦の記述では、合戦の年次が永禄3年ではなく、8年前の天文21年としているのはなぜでしょうか?
桶狭間の戦いは兵数や領地の広さだけで戦いの結果を予想してしまい、圧倒的に小さな領地で人数の少ない織田軍の勝利というのは、よほどの奇襲が奏功したか、天候などの神がかった偶然が重なった奇跡の勝利のように思っていました。今川の百姓大量動員体制や、領地の広さの割に石高が低かったことを知ると、実質、最初から互角の戦いに持ち込めることがわかりました。名古屋おもてなし武将隊の前田慶次チャンネルも見ましたが、ドラマで実質の兵の数を引き算で示されたり、織田軍は御貸具足が一人もおらず全員、大鎧だった演出をされたりしたことも、なるほど!と思って見れました。数のリサーチだけで分析せずにむやみに恐れをなすのは間違いなんだなあ。と思いました。ありがとうございました。
2017直虎ではこのように実際に考証の解説がなくて残念でしたが今年は小和田先生の解説がありますので感謝しています。ありがとうございます。
そして昨夜の回で直虎に繋がりわくわくしました。撮影再開を祈っております。昨夜は素晴らしい桶狭間でした。
@@宮崎さくの さま
そうですね。小野但馬の弟も。
確かこの時、桶狭間山の義元本陣の兵力は5000だったらしいですね。
百姓足軽が主力の今川軍に比べ、織田軍は信長に命を捧げる覚悟の親衛隊。
義元が討たれたのは、両軍の士気の違いもあったような気がします。
この時って休憩がお達しされてたとか信長公が現地の住民に酒を運ばせて油断させたとか言われてますけど気が緩んでたのもあると思います。
小和田先生なので直虎の世界線との被りもあるかなぁと思って見てました。
にしても、3年前、信長はいつになったら出てくるかとずっと待機していて、丁度桶狭間の回直前に海老蔵さんと発表され、桶狭間で劇的な登場シーンを飾るのかと思っていましたがまだ出てこない、と主線からずれないドラマの描き方に圧倒されていたことを覚えています。
しかし、直虎の桶狭間は本当に辛いものでしたね…。
今川軍2万5千人のうち、正規軍1割というのは少ないように思いますが、正規軍同士なら互角だったかもしれませんね。
もう2ヶ月になるんですね。そもそも、またテレビを楽しく見れる世の中になるといいな。2ヶ月の遅れからカットされる場面が出てくるのは悲しいな
小和田先生のお話をUA-camで聴けるようになり、大変うれしく思っています。
石高のお話、大変興味深く拝聴しました。
今回の大河ドラマの「桶狭間の戦い」はとても迫力があり、信長の戦略もよく描かれていて面白く、録画版を何度も観てしまいました!
1つ気になっていることがあり、質問させていただきます。
那古屋城のシーンで、よく波の音が聞こえてきます。
しかし、お城は、そんなに海に近くないと思っています。
現在は埋立地があり、昔はもっと海に近かったのかなと思いましたが、古地図を見ても近くないように思います。
海のない美濃から嫁いだ帰蝶を強調するための演出でしょうか?
白馬の戦いで曹操が輜重車を囮にして文醜を討った話を思い出しました。
いずれ義元が大河になったら嬉しい
駿河、遠江、当時は海岸線が現在より陸地に入り込んでいて、田畑にできる土地は少なかったと思います。今はかなり陸地側にある高天神城が実は海岸線に近かったということからもわかります。それと、桶狭間の戦いは、現在の暦で6月12日ということですが、今川軍がこの時期に大軍を動かしたというのが、農耕の暦との関係でどうなのか、今川氏の意図も含めて気になるところです。
太閤検地の時の三河の石高が30万石弱、幕末には50万石近いからな
確かにこの時代少し石高違うと
思うが互角、
兵士の質
今川は農民からの徴用兵に
遠江、三河等の国人領主から
派遣させた兵も含む数
織田は武士の編成が多く精鋭
武士だけでも互角の兵数ですね。
ゆえに陽動で分散させ今川本隊の
行動を逐一報告受けていれば勝算ありますね
やっと取り上げてくれましたよね、乱取りまあ仕方ないですね当時としてはね。
織田の兵が立派な装備着けていたのかな
信長公はお金持ちだから自軍の親衛隊にいい装備でもつけてたんですかね
桶狭間以降も最後まで、他からの誘いに乗らずに氏真を支え続けた
朝比奈泰朝が、、、、乱取りで名前が出てきたのは悲しかった、、、
風間家康の今川を裏切らない、けど
流石に意地もみせます!的な心境は上手かったな~
従来は義元様の筆頭重臣として朝比奈泰能が、史実では亡くなっているので子の泰朝がお側で説明申し上げてたのに、最近の大河では殆んど出てこないなあ。残念
初めまして,Masaki Anayama と申します。小和田先生のチャンネルを視聴させて頂けるとはお。思いもよらなかったです。お元気なお姿をはいけんさせて頂いて只只,感無量で有ります。戦国史の第一人者で有ります先生のyou tube でのご講義を拝聴出来ます幸せを,今実感致しております。またのご講義楽しみにしております。宜しくお願い申し上げます。有難うございました。
小和田先生のご指摘のとおり、駿河・遠江・三河ともに背後は山地を抱えており意外と平地は少なく、また駿遠二か国は過去の富士山噴火による火山灰地も多いので、当時は稲作にはあまり適していなかったのでしょうね。それに比べて尾張は木曽三川による平地があり、水害にも見舞われるが稲作には適していたのでしょう。
桶狭間、早くはっきりと解明されたら面白いね。
尾張美濃足した石高はすごそうですね。西上作戦の頃の信玄単体ではもう信長にあまり勝ち目はなさそうですね。
それだけ貧しかったら尾張ほしいし乱取りもするでしょうね。
今川家も家格を保つための費用に苦しんでたりして。
信長の方もまさか義元をうちとれるとは思ってもみなかっただろう。本隊に痛撃を加えるのが目的だったのでは? もし、義元の首まで計算通りなら神だね。
大将首が獲れないうちは、織田に勝利はないので、マジに首を獲りに行ったと見てますけどね d(^_^o)
義元を討つしかない手段だろ?
すでに先鋒の元康は鷲津とか落としてる。ここで動かれたら信長は終わり。
本隊にダメージ与えたらOK程度の考えでは、この作戦は出来ない。
態勢建て直されたら詰むからな。
それこそ義元を討って「尾張を侵攻してくる理由」を根こそぎ奪わないと。
仮に「義元を殺せなくても本隊に大打撃与えて撤退させた」としても、二度目が来たらで織田家は終わってる。
先生。
信長が尾張を開発仕切った後の時代に太閤検地なので、どうでしょう??
50年代後半はまだそこまで発展して無いのではないでしょうか?
信長公記では「桶狭間山」ですね。
当時の尾張は湿地が多くて、開発できなかったと聞いたことがあります。信長の頃ぐらいに開発する技術が生まれて、今の大阪名古屋東京が発達していったと聞いたことがあります。開発前の尾張統一前の信長が今川家と同等ということはないと思いますが、このへんはどうなのでしょうか?
乱取りは風林火山でも出てきます。
小和田先生はじめまして
私の家系図には源義家の6男源義隆の長男毛利義広が初代で6代広秀が美濃に移住して
土岐、斎藤、織田、豊臣、徳川と仕えて現代に至っています、その中で毛利新助の名前も出てきます、この家系図は江戸時代のものですが
一度見て頂きたいと思いますが?
木曽義仲軍の京都での略奪狼藉は、乱取りとは呼ばないのですかね?
今川義元があれだけ無理やりに西進を推進したのはやっぱり三カ国の領主だけど、石高では周りの大名に足りてないっていう危機感があったからいわゆる濃尾平野を有する尾張を是が非でも取り込もうと必死こいて頑張った結果果たせなかったっていうことなんだろうか?
太閤検地は、桶狭間から約30年後であり、信長が美濃を平定した後は侵略を受けること無く、
尾張は安定した状態で開発が出来ました。
しかし、この時の信長は尾張を平定して間もなく、しかも尾張は不安定で周辺諸国と小競り合いを繰り返していました。
信長は尾張の石高を活かすことは出来ない状況かと思われます。
博多哲也 さん
私も別でコメントしてますが、
同意見です。
研究者の間で、この30年をどう考えて、
太閤検地時の石高の兵数計算を桶狭間時に当てはめているのか、
気になりますね。
@@softeasy9464 さま
ありがとうございます。
桶狭間の時は群雄割拠の時代ですからね😅信長は美濃を敵に回し、身内や家臣も面従腹背。
国力を活かすだけの余裕は無いはず。
対する今川は、三国同盟で盤石な物とし、家臣団もまとまっており、検地を始めとした内政も充実。。
どう考えても、圧倒的に不利かと。
博多哲也 さん
おっしゃる通り、後顧の憂い有無の差もありますね。
津島と熱田の商業的国力が見直されてるので、
従来のような尾張=弱小ではない事は理解できるんですけど、
石高のケースも当てはめていいのかと。
行間の説明があると嬉しいですね。
作中には関係ないけど、今川義元の軍師太原雪斎が1555年に亡くなっている事が義元の敗因だと思います。今川義元の調略、合戦の勝利の裏には必ず雪斎の助力がある。雪斎の死後、明らかに義元の動きが雑になっている。雪斎が亡くなっていなければ義元も無様な死に様をしなかったと思う。
当時、戦勝者は掠奪が当たり前みたいだった。それを厳しく戒めたのが信長。偉い専門家さんに意見してしまった。
石高論は、ちょっとだけと兵農分離論などからは、十分あると思える話しとして面白く拝聴させて頂きました。ただ気になるのは、帰蝶な女性の立て膝控え姿です。これはお隣の文化では?綺麗にされてるが、普通の和服では裾が乱れる。違和感しかないですが、時代考証に詳しい方 教えてください。
すみませんでした!立て膝が普通だったんだ。
ジャンピングしながら槍がつけるのかがとても気になりました。
あれは今井翼さんだから、ジャニーズ待遇。
百姓だからといって弱いとは限らないような
戦国時代の女性のたち膝の解説がありましたが、なぜたち膝すわりをするのか?を知りたかったです。
桶狭間で今川義元を見つけて襲撃シーンで義元に一太刀を付けた服部小平太が登場せずに二番手の毛利新助だけがクローズアップされたのは納得がいかん?
ホラ私はあなたのビデオを理解したいです私は日本の歴史に興味がありますあなたのビデオにスペイン語または英語の字幕を追加していただけませんか、ありがとうございます!
太閤検地の石高による兵数計算の件について、
ど素人なりに疑問が残ります。
1.太閤検地時と桶狭間時は石高は同一値なのでしょうか?
桶狭間時と太閤検地時で約30年期間が空いていますが、
その間新田開発等で石高が増加した背景はないのでしょうか?
(そういった資料が見つからない限りは、同一値と判断するんだと思います。)
2.太閤検地時の54万石から産出される兵数100%で、桶狭間時でも兵の動員はできたのでしょうか?
桶狭間時は、信長もやっとほぼほぼ尾張一国統一したくらいで、
太閤検地の目的通り全ての村々の田畑の収入を掌握できてなかったのではと思います。
また桶狭間時と太閤検地時の人口や田畑の整備状況も、
直近で度重なる戦闘が国内であった桶狭間時と、
桶狭間以降小牧長久手くらいはあったものの、
それ以外目立った戦闘が無かった太閤検地時では違いがあって、
単純に当てはめられないんじゃないかなと思います。
駿河、遠江においては、桶狭間後も武田と徳川による戦闘が、
天正壬午の乱辺りまでは続いていて、
尾張が桶狭間後に比較的安定していった背景と反比例するように、
駿河、遠江は人口増加や田畑の整備が十分に行われなかったのかなとも思います。
上記2点をクリアした上で、太閤検地時の石高による兵数算出が当てはまると研究者の間で判断しているのか、
気になってます。
恐らく、この方は当時の歴史的な背景を考察せず、単に算数的な視点で物事を論調しているだけだと思います。人
博多哲也 さん
返信どうもです。
確か何かのテレビ番組で、東大の本郷先生も同様に、
桶狭間時の兵数差の話で太閤検地時の石高を当てはめていました。
多数か少数かは不明ですが、
研究者間で一定の評価はされてる話なんだと思います。
ただ、その時の本郷先生の話も、
小和田先生のこの動画でも、
当てはめに至る行間の説明が無いので、
是非お話を聞いてみたいですね。
人はある程度の肩書きや見栄えなどを重視します。大学教授などはよく本棚を背景に自分の知識を誇示したりとか。。。
そういう方は、認識バイアスになっているケースも多い傾向があります。
そういう意味では、今川義元も圧倒的な有利に慢心があったのでしょうね。
桶狭間は、攻撃側の情報収集能力の欠如。兵力分散。そして、慢心。
これが合わさっての結果です。
この教授の言うような、信長が国力を活かす事は、この時点では出来ないという事は間違いないですね。
@博多哲也 さん
ごちゃごちゃ書いてましたが、シンプルに書き直します。
大学教授批判、歴史学者批判に関するコメントに対してはノーコメントです。
信秀・信長は尾張統一前でさえ、斎藤氏、今川氏、国内尾張統一戦を戦うだけの力があったわけですから、たしかにパッと見以上の実力があったと見るほうが確実ですね。
このへんはセンゴク桶狭間戦記がとても分かりやすい。
ただ、専門武士の数が違う、という視点は面白いですね。
毛利新助の具足が、まるで大将がつけるような立派なものでしたね。
桶狭間のクライマックスを飾る重要人物ですので
TVドラマ的に仕方ないとは思いますが。
本当に毛利新助が付けていた具足なんてだれもわからないし
忠実に再現しようとしても地味になりすぎてドラマ的に映えませんから
あれで良いのだろうとは思うのですが、違和感は覚えました。
毛利新介は馬廻なので、ある程度は立派な具足だったと思いますよ
@@ゆうすけ-q4y そうですね、信長勢二千が精鋭揃いだった、とお考えのようなので雑兵の兵装とは違ったとは思います。
しかし新助の前に義元に槍をつけた、おそらく服部小平太などと比べると兵装に差がありすぎます。
これはドラマ上の演出であって、リアリティを追究したものではないと思います。
あのジャンプなども含めて。
ドラマ班の思惑も理解できるので、時代考証を担当された小和田先生はどの程度まで許容されたのかなあ、と気になりました。
これにはちょっと異論があるかなぁ。
だって平和になった後の濃尾平野の尾張と戦乱に明け暮れている尾張では状況が違うでしょ。
そして駿河にしても今川→武田→徳川と領主を桶狭間の戦い以降の約30年で変わるぐらい混沌としていたのだから同列に並べていいものかいささか疑問なのだが。
少なくとも今川義元が統治していた時代には何度か攻められたことはあったにせよ、盤石の駿河・遠江だったと思うのでこれが桶狭間の現状だったかは若干疑問が残るなぁって感じがあるね。
あと「乱取り」に関しては「風林火山」でも出てきてます。
迂回して本陣に奇襲攻撃の神話が、後の日本陸軍・参謀本部の分析が神話のごとく定着している。太平洋戦争にこの過ちを繰り返している。
こういうところに時間をさける大河は観たかったです。
ドラマは創作の話ですからあなたがたの責任でつくればいいだけで、観てるこちら側は次の時代のためにこのドラマを消化しようとおもいます。
作品をみればすべてわかります。