Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
秀次事件の時に殺された駒姫という人物、最上義光の娘でこの時弱冠15歳の絶世の美少女だったとかしかもこの時まだ挙式どころか秀次と対面すら果たしていなかったという処刑を知った義光の嫁もショックで死亡、義光もブチギレてこれ以降ずっと徳川方について反豊臣の姿勢を貫いたとか
嘘は暴かれないかもしれないが、必ず滅びるって重い言葉だと思います。それが真理であって欲しいものです。
秀頼どころか鶴松も秀吉の実子かどうか怪しいトータルで300人いたといわれる秀吉の側室の中で、秀吉の子供を産んだのが淀殿だけだったっていうのはどう考えても不自然それよりも秀吉が種無しだったと考えた方が自然
それを言っちゃあおしまいよ。でも、多分それが真実でしょうね。
そうなると面白いのは、他の側室が全員誠実だったということだね。それもちょっと信じがたいけどなぁ。みんなワケありで側室になるんでしょ。たとえ種なしでも、秀吉の子どもが一人だけっていうのは、あまりにもおかしい。何か謀略を感じるね。
それで思うんだけどね、秀吉って種なし以前に、不能だったんじゃないかな。つまり他人は騙せても、当事者は騙せない理由で、子どもをつくれなかったとか。それなら他の側室が子どもを成せなかったのは分かるね。で、何で淀君の子どもがOKかというと、そこに二人の密約があったんじゃないかな。多分二人とも秀頼が秀吉の子どもでないことは分かっていたと思うよ。ある意味、世間を欺くための子どもなのかもね。
たくさんいる側室が誰もこどもを産んでいないということは、やっぱり秀吉不能説だと思うし、秀吉も淀君が産んだこどもが自分の子じゃないことは承知だったのでは?。織田の血が欲しかったから。
嘘はいつか身を滅ぼす。右を向いても左を見ても、今の世の大ウソと重ねてのお話し。ありがとうございます。
ウソはいつか身を滅ぼす!トランプに聞かせてやりたい!
凄いメッセージが隠されていました。耳を凝らして聞き入りました。有難う御座います。
この時幼かった最上義光の娘が側室に差し出されたばかりなのに処刑されましたね。その姫の小さな小さな打掛が今も残ってます
決して嘘はいけない。小名木先生のお言葉はいつめ勉強になります。ありがとうございます。日本をカッコ良く!
久方ぶりに真理はやはり守らなければならないと励まされました。先生、ありがとうございました。
此処まで真実が分かる歴史。。大変感動致しました。いつの時代も権力争いが有り、力の強い者が上に立つ。弱い者は何も言えない。矛盾の中で生き延びていかねば成らず日々自分も毎日葛藤しております。
小名木善行先生の良いお話しありがとうございます。
秀頼の本当の父親は分らないままだろう。でも、とにかく秀次と縁のあった人たちの最期が可哀想でたまらない。何の罪も無いのに。。。
加えてこの悲劇、実は朝鮮出兵がらみの外交問題から来たとも
秀吉の子供ってホントかなぁ...あれだけ側室いたのに。淀殿だけ2人も生まれるか?やっぱ大野治長あたりでは。
織田信長の父信秀は信長を含め25人子どもいたから、どう考えてもおかしいですよね😅
秀吉精子腐ってたぽいから他の男の子供だろうな
かさ😮😮😮😮😢😮
@@ky-ev2mz
三成説をどこかの本で見たことある
まだお話しを伺っている途中なんですが、冒頭から、見事にリズミカルカルな、韻文的な日本語を話されているのにうっとりしました。これまで何度もみせていただいていますが、こんな体験をしたのは初めてです。
ぬ
治長との間にできた子供つてのどうも本当ですね。秀吉があれだけ女の人に囲まれててこどもがなかつたのでた多分子種がなかったんだと思います。秀吉自身もわかってたんではないでしょうか。
本当の猿だったから人間との間に子供が出来なかった。
小名木劇場大好き♥です。今回も大変 学ばさせて頂きました
政治家としても人間的にも魅力的で人を惹きつけずにはおかない秀吉なのに、女人に弱いというか、正妻のおねをたて続けたのは良かったのに、女運が無かったのか、権力のトップにたつことの恐ろしさよ…
基本的に絶倫は社会的な地位と名声は得られる。バイタリティーが違う。
歴史と道徳、演技まで入って👏夢中で最後まで聞かせていただきました.
大変楽しく、お話を拝聴させて頂きました。有難う御座いました。淀殿は、可愛そうだけど、因果応報で憎しみから自分も同じそれ以上の事をしていますね。憎しみから良い事は、生まれません。悲しい時代ですね。今の時代も色々な事がありますが幸せに一生を過ごせる事を望みます。
本物でないもの、嘘をつくといつか身を滅ぼす現代にも通じてますね、有難うございます。
おつしやる通りです。現在の<皇室>一宮家とダブリ興味深く拝聴致しました。有難うございます。権力に執着するが余り罪なき人々を理不尽にエゴ、私利私欲の為に倫理感、道徳を失う人間の醜さ、おぞましく、浅ましい業は今も昔も変わらないものだと憐れさを感じます。今はSNS、インターネット情報社会で真相追求〜解明され虚偽が暴かれ嘘を守り通す困難さよりも正義感と勇気を持ち不条理さを叩き切る令和の弥栄を願い感謝申し上げます、
今まで歴史に疎かったのですが、今回のお話は感動しました。ありがとうございました。
ありがとう御座います🙏🍀道徳、正直に、、、素晴らしい講義、感謝合掌
秀吉が猿と呼ばれたのはひも付きのタカが木にひかかった時に猿のように木にかけのぼったから信長が呼んだというとこからというのが本当だと思います。 信長は優しかったと思います。 秀吉はすばしかったから雇われたみたいです・ 光秀ともすごく仲が良かったので殺されてない。
その時の時代とはいえ!最初は信じられませんでした!?ても秀吉も淀殿も、なぜか嫌いになれません!?
大阪城を拠点とする西の豊臣政権は国際金融資本政権と化していたから家康は根絶やしにする必要があった。秀次に会ってもいない最上義光の娘の駒姫様は無念でしたでしょうね。
最上義光の家計山形県大石田 最上旅館嫁浅利家 横浜市戸塚区 建設業。
淀君と秀頼が大和郡山に移れば家康は許したはずである。しかし、大阪城に逃げてきた10万人の関ケ原浪人が二人を外に出さなかった。家康が本当に始末したかったのはこの10万人である。
初めて試聴しました。歴史以外にも最後にそこから学ぶことも述べられて大変ためになりました。
体格も秀頼は大柄だったということで秀吉には全く似てなかったということと、秀吉はうすうす気づいていたという話もありますね。秀次に関しては、駒姫が有名ですね。これから秀次のもとで側室となるという段階なのに処刑されたかわいそうな駒姫。お寺には処刑された順番や名前、年齢、辞世の句なども残っており涙を誘いました。
秀次は病気で亡くなったのだと理解していましたが、何か不透明な印象がありました。今回ようやくその理由が解ってすっきりしました。それにしても歴史を学び伝承していくことの大切さをまたしても痛感させられました。
淀殿は見事豊臣家(秀次)の血を根絶やしにし、復讐を全うした。
これこそ、母お市の宿願だったでしょうね…
代償は...💀。
忘れられていた勧善懲悪のお話などが思い出されました。やはり正義の筋が通らなければ社会が混沌に落ち込む気がいたしました😊
ちょっと小説的ですね。淀君に手を出した秀吉はたしかに宜しくないですが、淀君も野心家だったと思います。平安の昔から、女子供は敗者側といえど戦争責任を免れており、勝者が面倒を見るという慣習がありました。 義経親子が清盛に庇護されたのと同じです。なのでお市の方の娘達を秀吉が引き取る事まではおかしなことではないですが。淀君は松の丸と争ったことからも、けっこうノリノリで側室やってたと思いますが。血筋の良さと野心を併せ持った淀君を下手に嫁がせるわけにはいかず、秀吉が手元に置いて監督したというのが本当だと思います。
淀殿の秀次事件関与や家康が大阪の陣を起こした理由は納得が行かなかった裏付けの研究や史料も無い状態で言われても感
淀君、淀君とくりかえしておられるのが気になります。お茶々の後年の名は「淀殿」、「淀の方」と呼んだ方が良いのでは?どこかで誰かが「淀君などと遊女みたいな呼び方」と言っておられましたが、その通りだと思います。この辺りの歴史は多くの歴史小説作家の作品を読んで興味津々ではありますが、小名木先生も多少の虚構を混じえておられるようですね。淀の方の心の中や、秀頼の父が誰だったかなど到底知る術もありませんが、彼女には秀吉の正室という別の敵もいたことは、彼女がやったことがらの要素にもなっていたのでは?正室は三河以来の多くの家来には、温かく、親しみの持てる姉のような女性として好かれていたのに対し、お茶々は冷たい人柄が嫌われ、一行人気がなかったようですよ。
私も 淀君は遊女 淀のお方様が相応しいと 聞きました。
長女の宿命かも知れませんね❓
淀君は徳川方の見下した呼び名ですね。淀殿は世界で唯一の自分の城を持った女性ですね。お市の方の浅井の血を絶やすな。豊臣の血は絶やせとの遺言は真意はわかりませんが浅井の血は現代まで続いています。
淀殿もしくは淀の方ではなく淀君などと言う人の意見は信用性が無い
小学校時代に、図書室で『淀君』という歴史マンガを読みましたが、淀殿とも言うんですね。
" 秀頼は、秀吉の子ではない‼️"からこそ、復讐の為に、秀吉の血筋に当たるであろう、全ての者たちを、粛正したのだろうと言う事が、初めてわかりました。小名木先生、さすがですねー‼️目から、ウロコです。
毎回、大変に参考になります。それにしても、先生の演技、素晴らしい!お上手ですね。(^^)
歴史的に確かではないことをけっこう言い切りますよね
復讐心を秘めて豊臣の血筋を根絶やしにしてしまうお話は面白い観点ではありますねたしかに秀次出家だけで収まらず女子供まで皆殺しにして秀次の居宅関連施設も破壊したのは淀様の強い敵意があったからかも天下人秀吉のお姉さんの子に生まれたのが不幸の始まり秀次28歳無念だったと思う。
秀次の弟の秀勝には淀殿の妹の江が嫁いでいて、その間に生まれた娘の完子は摂関家の九條家に嫁いでいて、なんと女系では今上天皇にまで血筋がつながっているので、抜け道のように今につながっているのが本当に皮肉です。皇室はこんな感じで、日本の大方の有名な家系と血がつながっています。
@@kkcombipl そうだったんですね、それは知りませんでした。敵方とも縁戚を結ぶ事が多かった支配層ならではの血の繋がりは奥深くて興味を引かれますね。
確か、秀頼の元に千姫が嫁ぎますよね…千姫は徳川秀忠の娘であり、お江与の方の子…そしてお江与の方と淀殿は姉妹…秀頼の出生に疑問を持ち、後に大坂の陣まで行うまで至ったのに自分の孫を豊臣方に嫁がせる家康秀忠、そしてお江与の方の気持ちはどうだったのか?興味があります
いとこ婚だったのか
ある人はどちらも野心家だったからどちらが勝つかで火花ばちばちだったと言ってた
こんなに分りやすく楽しい歴史の話は、初めてです。他の話も聞きたいです、
豊臣を滅亡させた一番の理由はやはり後顧の憂いを無くす事が一番かと思う。
家康の「討ちしてやまん」の働きによって世の道が正されたんですね。しかし、とても哀しい。熊笹を かき刈りわけて 登れども 雲多かりて 冴えぬみはらし秀次は全てご存知だったから粛々と従っていたのかな。だとしたら悲し過ぎます。夜をあぶる 吹き捻れたる 焔みて慈雨をふりゆく たつの尾をみる
素晴らしい着想でした。その受胎相手は別の人かと思っていましたが、そう言う話もあったと言うのは、悲しい人生の万人の妙として受け止めておきます。とにかく、国家存亡の時を乗り越えて行きたいものです。正直捨方便です。
ありがとうございます😊感謝いたしております♪
二条城で成人した秀頼さんの顔を実際に見て、「このコは太閤はんの倅やない」って見抜いたのかな家康さん
解りやすくテンポがあり類似素晴らしい語りのテクニック
素晴らしい、講義の一言です、、ありがとうございました。
自分としては神回。淀君はクレオパトラと人生が似ていて悲しいんだよな。でもクレオパトラと違って愛してくれる人が居なかった。肖像画が能面と同じく無表情なんだよな。もしかしたら心を殺して生きていたんだろうな。
瑞龍寺ですか、わたしは中国地方のある所のにおりますが、近所に越してこられる方と知り合い、その時までに近江八幡の瑞龍寺に寄せていただいたことがあります。その時の話では経営関連に問題の有る方がおられるとは聞きましたが、内容は話されませんでした。その時は秀次一族の菩提寺ということは知りませんでした。今はその方はうちの近所に越されています。
秀次一族の死がこの通りであれば、秀吉がどう思ったかが知りたいですね
淀君って呼び方は遊女と同じだと貶める言い方なので、淀殿と呼ぶのが正しいと教えてもらいました。
淀君って、秀吉の時代呼ばれてないでしょ。いまの老人は、君って呼びたがるな。秀吉が市に惚れてたって、想像でしょ。秀吉子供いないも、最近では、間違いとされてますが、ここの歴史感は古い歴史感だと思う。
@@またぐなよビシビシ行くぞ さん 実は柴田勝家にお市の方をやったのは秀吉ですしね
不透明な事がスッキリしたようです。わかりやすくて学べました。ありがとうございます🤗
たまたま今回の配信を鑑賞しました。現代風な教訓に満ちた結論でしまっくていますね...日本の現在の皇室問題、誰が次の天皇なのかの日本の基本門題に関わる訓示と受け止めました。私は最早日本人ではありませんので、どうこう言う権利はありませんが、此れから起こりうる大混乱を如何に回避するのか、出来るのか...。恐ろしさを感じます。
1:35「現代と違い昔は親子の縁はものすごく大切にしていた…だから側室にしてはいかん」って、縁がものすごく大きな力を持っていたからこそ、父や兄や母まで殺し、そのうえ織田から政権まで奪ってしまった秀吉は茶々を他人に渡すことはできないのだよ。もし茶々を他の大名に渡したら、その大名が茶々を担いでいつ反旗を翻すか分からない。現代のスケベおやじが考えるような愛人とか妾、情婦、的あさましい発想ではなく天下統一を果たすため茶々は誰にも渡せなかったのだよ。渡したら柴田勝家みたいに必ず反旗を翻してくることを、人たらしと称された秀吉ゆえに人の心の機微というものを誰よりも深く理解していたから。そして秀吉亡き後、豊臣を滅ぼしたのは茶々の妹お江が嫁いだ徳川だった。読み通り。
加えて織田信長の姪なので織田信長の血筋をこっちに抑えておくのは重要ですしね
ほぼ同じ推測をされていることに感動しました。さらに熟考しますと、秀頼が幼いうちは良い、しかし成長すれば、あまりにも自分と似ていないことに、秀吉自身気付く。と、淀は考えていたでしょう。秀頼が少年期に移行する前に、秀吉の痴呆が急激に進み公の場で失禁したのは果たして本当にただの老化だったのでしょうか?もしかすると、誰か(身近な人)に、毒を盛られたのではないか?・・・そういう推測もできてしまいます。
合点がいく説明ですね。でも高台院がそれを黙っていたのかな?当時の当事者しかわからないですね。嘘はだめ、今のご時世を仕来りを守ってる著名人はいないですね。悲しいことに・・・
まともに考えたら黙ってないですよ,彼女は尾張派,近江派両方に慕われてましたし
茶々もいろいろ苦労して、でも秀次の子どもや奥様たちはかわいそうです。どうか生まれかわっているなら今は幸せに過ごしてほしい
先生…ありがとうございます🙏素晴らしい お話に、今日も勇気と安心を頂きました🙏(..)
毎回思うのですが、その時その場所で見聞きされたような解説の元のソースはどこからなのでしょうか?このような解説が史実なのでしょうか??
ソース!出処がわかっていても信憑性は皆無。結局は当事者しかわからないのを我々が想像するのが歴史の楽しさ。
茶々だけ身ごもるなんて絶対あり得ないわよね。信じる秀吉に心の中では笑っていたのでは?
それ以前にも子供がいたものの幼くして死んだという話もあります
とても面白い解釈でした。淀殿の壮大な復讐だったんですね。。
秀吉が完全無欠の天下人じゃないところが好き
弱点が淀!
真実はひとつと言いますが、その本質はわからなくても、皆がおのずと信じることが真実となるのですね。夏の陣、冬の陣のいわれが初耳でした。ありがとうございます。歴史とは、いろいろな考え方に裏打ちされているものなんですね。真実であるかないかはおいといて…
😅
秀吉は種ナシだとの話もありましたね。やはりお天道様は見てます。嘘はアカン。
秀次事件、秀吉の指示じゃなく淀君の全て命令だという証拠、どこかにありましたっけ?
大阪商人の伝統がいつまでも続いてほしいものです。外国資本によって買収されてしまうと、この伝統が失われてしまうのではと危惧しています。
日本史好きになりそうです。とても分かりやすく興味深かったです。
素晴らしい講義ありがとうございます。
素晴らしい講義でした。不信だらけの現在。覚醒しました。
大変勉強になりました。ありがとうございます。
淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)?[注釈 1] [注釈 2] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉の側室[注釈 3]。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。概要近江国の戦国大名・浅井長政の娘[注釈 4]。 母は織田信長の妹・市。同母妹に初(常高院、京極高次正室)と江(崇源院、徳川秀忠正室)がいる。子には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)、猶女には完子[注釈 5] がいる。乳母は大蔵卿局(大野治長の母)・饗庭局(大叔母にあたる海津殿の次女)・大局(前田利家の弟にあたる佐脇良之の室)の三人が明らかになっている。生涯父・母の死近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。天正元年(1573年)に父・長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母妹らとともに藤掛永勝に救出された。この時、父と祖父・久政は自害、兄・万福丸は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されている。その後は伯父・織田信包のもとにおかれ、伊勢安濃津城または尾張清洲城[2]で保護されていたとされていたが、近年の研究によると尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとされている(『渓心院文』)[3]。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、織田信長の岐阜城に転居することになる[4]。信長が本能寺の変で家臣・明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣・柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城(現・福井県福井市)に移る。勝家が羽柴秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れると、市は勝家共々自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた[注釈 6]。 また北の庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ(『玉興記』)、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている[5]。この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方である(『大雲山誌稿』)[6]。また、叔父・織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受け[7]、安土城に住み、後に聚楽第で伯母・京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれている。もっとも、福田千鶴によれば、いずれの説も一次史料による裏付けに欠け、この時期の三姉妹の所在については不明である[8]。秀吉の側室に妙教寺の境内にある淀古城の石碑天正16年(1588年)ごろ、秀吉の側室となる。天正17年(1589年)、棄(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになった[注釈 7]。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った[注釈 8]。なお、鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめるが奉納者である淀殿の記名はない。これは淀殿の豊臣政権に対する自発的な配慮によるものである[9]。秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉の死後、高野山などの修復にも当たっている。関ヶ原の戦い「関ヶ原の戦い」も参照慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際に、7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)から書状を送っていることがわかる[10]。このことから淀殿には家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち内府(家康)・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺える[11]。その後、大坂城に入った輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、淀殿は石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。なお家康は淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料とし、その後、三奉行が家康糾弾の『内府ちかひの条々』に署名したが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることとなった。9月15日の関ヶ原の戦いにおける徳川方(東軍)の勝利の後、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言した。慶長6年(1601年)になると「気鬱」が激しくなり、胸の痛み・摂食障害・頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔から薬を処方をされた(『玄朔道三配剤録』)[12]。徳川家康との対立、大坂の陣大阪城公園にある淀殿・秀頼自害の地の石碑家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家は支配地を減らすことになる。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。江戸に武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。慶長19年(1614年)、関東との交渉役・片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励していたが(『当代記』)[12]、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。しかし、翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城し、秀頼や大野治長らと共に自害した。墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わる。淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては、島津氏を頼って薩摩国に落ち延びた説[13]や上野国厩橋まで遁れてきたという説がある[注釈 9]。
歴史の意義深さが、とてもよく伝わりました😵💕テストが、受験が…じゃ、こんな域、一番大切な部分が、全く見えませんでした💕🙇♀️
覇王の血が強すぎたのでしょうか。一歩引いてねね様に秀頼を委せていたら豊臣時代はもっと続いていたと思いますがまあ無理でしょうね。
先生こんにちは。私の考察ですが、淀君は、豊臣家を根絶やしにするために、わざと側室になったのではないでしょうか。大坂の陣でも、秀頼が出陣したらまとまってた豊臣勢が、秀頼が行かないことでバラバラになりましたし。ほんとに守ろうとしたのなら、叱咤激励して出陣させたのではないでしょえか。
この人は歴史と物語がごっちゃになってるな。
いくら淀君が秀頼の生母であっても秀吉が存命中に女子の身でありながら一存で、秀次やその妻子を根絶やしにするまでの権力は無かった思います。もしも本当に淀君がやらせたのなら、北の万所がそのような所業を止めさせたのではないでしょうか?初めて聞いた説で驚きました!!
私も淀殿がやったとは思えません
北の政所は淀殿よりも強い力をお持ちでしたから私の知る限りでは淀殿が秀次一族への残虐行為を命令したとは思えません。
@@ひこたにまるはゆくごう さん 同感です、それに最近では北政所と淀殿の仲は良かったとも
先生ありがとうございました。凄く納得できるお話しでした。現在の大阪も嘘やお金💰儲けだけの大阪で無い事を願います。
家康も家康で嘘の塊じゃないですか家系図にしろ鐘銘事件も然り家康が正義みたいな見方は出来ない
ですよね……
毒を持って毒を制した方が後腐れない。
なるほど大坂の陣をそういう見方、解釈もあるんですね。嘘をよしとしないために家康が豊臣を滅ぼした。ややもすると家康の天下の簒奪といわれる行いが、世を正すための行いだっと。。。物事には本当にいろんな見方解釈がありますね。勉強になります。
何事も深読みしすぎるとワケわからなくなるね。色々と膨らませ過ぎかと〜
戦国時代には敵の家と婚姻することは世の習い。武家の女であった浅井茶々が産んだ男子を秀吉が公式に我が子と認めている。
武田勝頼の母親もそうですね
確かに! 諏訪の姫と被る。
うわ〜、面白かった!チャンネル登録させていただきました!👏👏👏👏👏
諏訪御料人も、父親(諏訪頼重)の仇である武田信玄の側室となり、武田勝頼を産みました。
昔はよくあった話です。その女性によっては寝首を欠いたり自刃したり中には複雑な心持ちの中その後継を産んだり結果は様々でした。現代の私達では想像もつかないようなことが沢山あったのだと思います。茶々さんのことでなくてものちに遺恨を残すようなことをしてはいけないのでしょう。まずは、茶々さん自身。その後は豊臣家の滅亡。冬の陣、夏の陣……..嘘を潰すというより後に遺恨を残さないように完全滅亡にしたのだと思うのですが。
大変、興味深い解釈だと思います。徳川側は、大坂の陣のあと、そういう事実を拡散することもできたのにしなかったというのも意味深いと思います。しかし、有力な大坂商人には伝わった筈だというご見解ですね(腹芸のようになのかもしれませんが)。この有力な大坂商人が今日の大坂の商人道を基礎を作ったということなのですね。歴史は事実によつて作られるかもしれませんが、解釈によって作られる面もあると思っております。解釈というのは大事です。今回のお話しはとても意義深いものでした。
家康が拡散をしなかったのは、将軍職を譲った息子の秀忠の正室に問題あったからと思います。秀忠は側室を持てなかったらしいですね。秀忠にブーメランとして跳ね返ってくるのを恐れたのでしょう。
学生の時にこんな先生がいてくれたらもっと歴史に興味が持てたと思う。今からでも遅くないかな、むすび大学に入学させていただきます😆
秀吉が跡取りが必要だったから、淀殿に言って子どもを産ませて、自分の子供にしたっていう方が自分的にしっくりくるけど、それはないのかな?いくらなんでも秀吉はわかるでしょ、嘘って。1人目生まれた時は分からんかもだけど、2人目は誰と会ってるか監視すると思うわ普通。
いつの世も同じようなものと思ってしまいます。今の皇族問題も現代の家康さんや幸之助さんで解決して欲しいと思っています。
そして千姫がツラく悲しい思いをしたんですよね😢
面白い!どんどん引き込まれてしまいました。
最後に松下幸之助が大阪商人と言われていましたが、松下幸之助は和歌山が生誕地です。現在の和歌山市和佐です。
でも現実は、嘘や隠し事のない人間なんて、文明圏ではほぼいないよね。未開の部族には、嘘の必要がなくて嘘の概念もない人々がいるらしいが、我々には「個人情報を知られたら犯罪被害者になる」という実情があり、身を守るために嘘や隠し事が必要という哀しい現実を生きねばならない……
イヌでも嘘を吐くんだから、未開の部族でも嘘は吐くでしょ。寧ろ嘘のない本音だけでは社会は回らないですよ。
この人の話を聞いて毎回思うのだが、事実と主観が混ざった話を歴史の事実のように断定して話すのはどうなのでしょう。淀殿が秀次殺しを主導したとか説では面白いですが、歴史的証拠はあるのでしょうか。何か文献に書かれてその仮説に導くだけの材料が書かれていたのでしょうか。歴史小説を事実交えて、ノンフィクションのように話しているみたいです。
私も小名木先生の取り上げ方に疑念を持っています。浪花節的ですね。
@@qr172 まさに浪花節ですね。盛り上げるような面白い話し方は良いと思うんですが、他の歴史の先生は主観や仮説を言う時は〜だと思いますとか〜と言われている、等さりげなく推測を暗示するんですが、この方は〜です!と言い切ってしまっているのがどうにも。。。
講談師 見てきたような 嘘を言う という言葉を思い出します。
@@gogogirl984 講談師にとっては最高の褒め言葉ですね。「講談師」が「歴史の先生」に変わるのは笑えないですね。
素晴らしかった✨感動しました❗センセ😁ありがと👍️🎶
奥琵琶湖の賤ケ岳で秀吉に負けた柴田勝家はお市の方と越前北之庄城(福井市)で放火し自害しているのではと思います。
豊臣秀次ー5石田三成讒言説『太閤さま軍記のうち』では、「御謀反談合」の風聞が秀吉の耳に届き、7月3日に4奉行が派遣されて「子細御せんさく」があった後、8日に伏見木下吉隆邸に預かりとなった秀次がすぐに高野山に入るという展開になるが、それでは余りに話を省略し過ぎているので、『太閤記』以後の書物ではこの間のくだりが大幅に“加筆”された。元和年間に成立したとされる『川角太閤記』は、秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰されていた菊亭晴季の娘である一の台を、秀次が見初めて、晴季に請うて秀吉には黙って継室としたが、石田三成の讒言でそれを知った秀吉が嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする話を載せている。『甫庵太閤記』では、7月5日に石田三成が、1年前に毛利輝元と秀次が交わした誓紙を今になって咎めて、(秀次には謀反心は)「聊以(いささかもって)なかりし」ものの、反逆者の行為に似ていると別の嫌疑を取り上げて言い掛かりをつけてくる。同記は「秀次公讒言にあひ給ひし」は天罰であったという論調であるが、讒言者を石田三成と増田長盛の2名としている。木村重茲(木村常陸介)の役回りが変わって、彼は秀吉の重臣・木村定重の嫡男として本来なら豊臣家の執政となるべき立場であったが三成にその地位を奪われた者であり、両者の対立関係を描くことで、三成に陰謀に関与する動機を与えている。三成は、関白の宿老として将来のある常陸介を陥れようとしていて、木村家に内偵を入れて見張り、讒言の口実を伺っており、三成による讒言という構造がはっきりしている[111]。以後、陰謀の主体者に石田三成を当て嵌めた“讒言説(讒構説)”の筋書きに追随する書物が続出し、寛永年間の作で『太閤記』と同じ頃に書かれた『聚楽物語』では、それぞれの役割分担はさらに明確にされる。木村重茲はもはや忠臣として扱われ、物語の中心は、石田三成と秀次の宿老衆とのせめぎ合いであり、田中吉政が三成の謀略によって讒言に協力するように迫られて、吉政が日々子細な報告を繰り返すうちに情報を集めて、三成は「御謀反はうたがいなく候」と秀吉に報告するに至る。三成はさらに孝蔵主を使者として秀次をおびき出そうとする。重茲は追い詰められたからにはいっそ謀反を起そうと提案するが、粟野秀用が反対して、秀次は弁解に伏見に向かうが、すべてが筒抜けの状態であったからまんまと捕らわれてしまうという展開である[112][113]。これが『武功夜話』(成立年代不明だが江戸中期以後)になると、田中吉政の役回りが前野長康に替わっている。ここでは前野家が主人公だが、これまで不明だった謀反とされた内容がさらに具体的に加筆された。それによるとそもそもの発端は毛利秀元が秀吉に直接訴え出たことであり、秀元が聚楽第に来た際に連判状を示されて秀次への忠節を誓うように催促されたのを、謀反の疑いとして注進したが、連判状には前野景定(出雲守)の名前もあったのだと言う。そこで6月末、前野長康と木村重茲が伏見に召還されて石田三成・増田長盛・長束正家の審問を受け、両名はそれぞれ秀次の所業を弁護するが、連判状の存在を突き付けられて観念して、聚楽第に急行して秀次に恭順の意を諭すことになる。連判状がなぜ謀反と繋がるのか疑問に思うわけであるが、これについては弁明する秀次に「この書物は別儀相無く、余への忠義の心を相確かめるため、家来ども始め諸上に書物に連署墨付け願いたる事、太閤殿下に聊かも他意これなし、如何様に殿下に讒言候哉」と言わせて、奉行衆が秀吉と秀次の間が引き裂いたことだとして描かれている[114][注釈 57]。ここまで詳しく書いたが、これらの資料ごとの相違からも考察できるように、石田三成讒言説については「秀次の粛清は何者かの陰謀の結果であろう、そしてそれはきっと石田三成に違いない」という、後世の人の憶測と考えられる。主体的に三成が動いたということがわかるような史料は存在せず、三成による讒言があったことを示す史料もない。また、上記の例に挙げた後世に書かれた「軍記物」はもとよりフィクションを多く含んでいると考えられている。事件後に、使者となって関わった奉行衆がそれぞれ加増されているという史実はあるものの、秀次旧家臣らの中にも加増を受けているものも存在することなどから、「三成ら奉行衆は秀吉の命を遂行したに過ぎない」というのが現在は有力な説で、今井林太郎や小和田哲男などは讒言説を否定し、石田三成は「秀次追い落としの首謀者ではなかった」[115]としている。[注釈 58]悪逆説・悪行説謀反の嫌疑が「虚共実共終にしれず」という状態にもかかわらず、家老衆が自害した後に、秀次の乱行・悪行が再び断罪の材料とされるのは、ほぼすべての軍記物・太閤記の書物で共通する内容である。悪業として列挙されるのは、およそ下記の4点であるが、宣教師の記録にある不徳についても記す。なお、『太閤さま軍記のうち』が死の原因(あるいは天道に背く所業)とするのは、稽古で人を撃ち殺したり辻斬りなどをしたことではなく、比叡山の禁制破りと北野で座頭を殺したことで、天道思想と現代人の道徳観念とにはかなりの落差があることには注意が必要である。一方、宣教師フロイスは、秀吉の方がより残忍で人倫に外れた暴君であると書いており[注釈 59]、秀次の悪しき慣習を指摘しつつもそれは残念な欠点と言っているだけで多くの美徳を讃えてもいて、粛清の原因としては別の分析を書いて太閤と関白の不和によって起こったとする。人斬りも5つ挙げられた口実の1つ[注釈 35]にされたに過ぎない。
お市の方も背が高かったらしいですが浅井三姉妹皆この時代としては長身だったそうです🙄
そうなんですよね~
末っ子のお江さんは小柄で華奢とも聞きます
秀次様の子どもや妻子たちがあまりにも可哀想です。来世では幸せに過ごされていることを願います。
石松丸秀勝(初代秀勝)の存在を忘れる事なかれ。秀吉は、この子を最初に側室に産ませたとされる。秀勝は、三人いる。石松丸秀勝は、秀吉の庶子で長男。おつぎ秀勝は、信長の子供で養子。小吉秀勝は、秀次の弟で養子。
おねも若い頃、何度か懐妊したが秀吉の出世前で貧乏のため全て堕胎させられた。という資料も以前TVか何かで見た事があります。おねはそのせいで子が産めない身体になってしまったが、その負い目がある分、女にだらしない秀吉もおねには頭が上がらなかった、ということのようです。
豊臣 秀次ー1(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の第2代関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉[注釈 2]とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名を秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。秀頼誕生後豊臣秀次像、高厳一華賛(京都地蔵院所蔵)ところが、継承が済んだ後になって、肥前国から戻った淀殿の懐妊が判明した。当初、平静を装っていた秀吉であった[36]が、文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君様御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉公御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中ヲ表裏候由見ヘ候」[37]とあり、この話の史実性にはやや疑問がある[注釈 26]が、通説のように秀吉が関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである[38]。この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった[39]。ところが、『駒井日記』の10月1日の条によると、駒井重勝は、秀吉の祐筆の木下半介(吉隆)から聞いた話として、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫[注釈 27]もしくはのちの露月院[40])を婚約させるつもりであり、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせる考えで、秀次が湯治より帰ったらそう申し渡されると書いている[41][42]。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れる。淀殿に対する見舞状への返信が10月8日に届いており[要追加記述][43]、『福田寺文書』に収録されている淀殿の返信が該当するものと思われる。同書状で淀殿はお互いの子供同士の縁談について喜びをみせている[要出典]。宮本義己は、典医・曲直瀬玄朔の診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は喘息の症状が強くなるなど、心身の調子が不安定であったと指摘。それは失われるものに対する恐怖心のなせるわざで、すなわち秀次の権力への執着心の強さを示していると主張した[44][45]。先の熱海温泉への湯治は秀次の喘息治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化したようだ。小林千草は、秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかという[45]。しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に効くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである[46][注釈 28]。秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷が多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する[47]。他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』[注釈 29][48][49]によると、秀次は文禄2年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである[50]。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている[50]。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった[50]。
小名木先生。動画配信お疲れ様でございます😭
大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。通称は修理亮または修理大夫で、大野修理の名でも知られる。能書家であり[3]、古田重然(織部)に茶の湯を学んだ茶人でもあった[4][5]。生涯不確かな前歴父は大野定長(佐渡守)で、母は大蔵卿局といい、浅井長政とお市の方の娘である淀殿の乳母となったので、淀殿とは乳母子(めのとご)の間柄になる。淀殿の生年には諸説あるが、この経緯から考えれば、治長は同い年かそれに極めて近い年齢と考えられるので、最も有力なのは永禄12年(1569年)前後であろう。兄弟には、治房(主馬首)、治胤(道犬/道見)、治純(壱岐守)[注釈 2]がいた。出生地には二説あるが、『尾張群書系図部集』は『尾張志』『張州雑志』などを根拠に、丹後国丹後郡大野村[注釈 3]で生まれたとする説の方を誤伝として[注釈 4]、尾張国葉栗郡大野村[注釈 5]で生まれた城主一族であるとしている[6]。大野氏はもとは石清水祠官(しかん)の家で、神職を失って美濃国に流れてきた大野治定(伊賀守)が、織田信長の命令で同地に大野城を築いて居城とした。この治定は祖父にあたり、定長はその子で、大野城を継いだ治久は定長の弟(治長から見れば叔父)にあたる。『南路志』によれば、尾張葉栗郡の同郷の毛利勝永とは従兄弟の関係にあったという。大蔵卿局および治長らは、小谷城以来、ずっと淀殿に付き従っていたと考えられるが、天正11年(1583年)の越前北ノ庄城の落城後はその淀殿の所在すらよく分からなくなるので、大野一族がどのような顛末を辿ったのかは不明である。一方で、この間、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に、本家の大野治久は豊臣秀吉に逆らって失領し、大野城を失っている。前歴は不詳といって差し支えなく、治長が秀吉の馬廻衆となった時期もよくわからないが、(織田信雄、または佐治信方や織田長益のもとにいたらしい)淀殿が秀吉の庇護下に入った時期に関係があると思われるので、淀殿が秀吉の側室となった天正16年(1588年)頃か、もしくはその少し前と推測される。天正17年(1589年)に父および母の功績により、太閤蔵入地から和泉国佐野(現在の泉佐野市)と丹後国大野に合計1万石を与えられ、丹後大野城を拠点として領国を運営した[7]。これは明らかに同年に淀殿が鶴松を出産したことに関連する褒美ないし祝賀の加増であろう。淀殿に近侍治長が、確かな史料に登場するのは、天正19年(1591年)11月、秀吉の三河国吉良狩猟に随兵した頃からである[3]。文禄元年(1592年)、『松浦古事記』によれば文禄の役の際の肥前名護屋城の陣場の配置に「大野修理亮」の名があり[8]、在陣していた。この時、秀吉は小田原の陣の例に倣って、淀殿や松の丸殿などの側室を連れていたことは興味深い点であり、まさにこの夏に淀殿は再び懐妊して、翌年に拾を産んでいる。文禄3年(1594年)の伏見城普請を分担[3]。当時、1万石の知行[3]。慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金子十五枚。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼に伺候して、詰衆二番之組の筆頭[9]として側近となった。ところが、同年9月7日に重陽の賀のために大坂城へ登城した徳川家康に対して、五奉行の1人である増田長盛が家康暗殺計画事件があると密告。すでに金沢に帰国していた前田利家が首謀者で、浅野長政(息子・幸長の室が利家の娘)・土方雄久・治長が語らって彼らの手で城内で家康を暗殺する企てがあるとした[10]。家康は身辺の警備を厳重にして祝賀を乗り切ると、大坂城西の丸に入って、天守閣を造営して、自らが秀頼に並ぶ存在であることを誇示し、謀議者の摘発に乗り出して、10月2日、治長はの罪を問われて流罪とされて下総国の結城秀康のもとに預けられ[3][11]、雄久も同罪として常陸国水戸の佐竹義宣のもとに預けられた[12]。慶長5年(1600年)7月24日、家康は雄久と治長に引見して罪を赦した[13]。関ヶ原の役では東軍に与して参戦して、本戦では先鋒である福島正則隊に属した。『関原軍記大成』によれば、宇喜多隊の鉄砲頭・香地七郎右衛門を打ち取る武功を挙げたという。戦後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって大坂城の豊臣家への使者を務めた後、江戸には戻らずそのまま大坂に残った。大坂の役、和睦に尽力慶長19年(1614年)6月22日、片桐且元の弟である片桐貞隆と共に、家康の口添えで5,000石を秀頼より加増された。その返礼のために貞隆と、家康のいる駿府、次いで江戸の将軍・徳川秀忠を訪ねた[14]。同年に豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至る。治長は渡辺糺と共に鬮取奉行となって豊臣方の中心の一人として籠城戦を指揮した[15]。徳川方から和睦が持ちかけられると、12月8日から12日、織田有楽斎と共に治長は徳川方の本多正純および後藤光次との交渉を行った[16]。淀殿が江戸に人質に行くこと、豊臣家の浪人衆への俸禄のため加増すること、大坂城本丸のみを残して二丸三丸を壊すことなどの双方の提案をまとめて和議を成立をさせると、有楽斎と治長は和睦の保証として人質を出すことになり、治長は次男治安(弥七郎)を人質として家康に差し出している[注釈 6][17]。しかし城内では和睦に反対する意見も多かった。和睦後の4月9日夜、治長は大坂城の楼門で闇討ちに遭い、護衛2名が死傷し、本人も一刀を浴びて負傷した[注釈 7]。これは主戦派の弟・治房による襲撃とも言われるが、襲撃犯は治房の家臣・成田勘兵衛の手下(大和の小走組の今倉孫次郎)とされ、成田は襲撃に失敗すると自宅を放火して自殺し、逃げた手下は片桐邸や長宗我部邸に逃げ込み、一部は長宗我部盛親が捕らえたという[注釈 8][2]。
秀次様…………酷いことする…。
秀次事件の時に殺された駒姫という人物、最上義光の娘でこの時弱冠15歳の絶世の美少女だったとか
しかもこの時まだ挙式どころか秀次と対面すら果たしていなかったという
処刑を知った義光の嫁もショックで死亡、義光もブチギレてこれ以降ずっと徳川方について反豊臣の姿勢を貫いたとか
嘘は暴かれないかもしれないが、必ず滅びるって重い言葉だと思います。それが真理であって欲しいものです。
秀頼どころか鶴松も秀吉の実子かどうか怪しい
トータルで300人いたといわれる秀吉の側室の中で、秀吉の子供を産んだのが淀殿だけだったっていうのはどう考えても不自然
それよりも秀吉が種無しだったと考えた方が自然
それを言っちゃあおしまいよ。
でも、多分それが真実でしょうね。
そうなると面白いのは、他の側室が全員誠実だったということだね。それもちょっと信じがたいけどなぁ。みんなワケありで側室になるんでしょ。たとえ種なしでも、秀吉の子どもが一人だけっていうのは、あまりにもおかしい。何か謀略を感じるね。
それで思うんだけどね、秀吉って種なし以前に、不能だったんじゃないかな。つまり他人は騙せても、当事者は騙せない理由で、子どもをつくれなかったとか。それなら他の側室が子どもを成せなかったのは分かるね。で、何で淀君の子どもがOKかというと、そこに二人の密約があったんじゃないかな。多分二人とも秀頼が秀吉の子どもでないことは分かっていたと思うよ。ある意味、世間を欺くための子どもなのかもね。
たくさんいる側室が誰もこどもを産んでいないということは、やっぱり秀吉不能説だと思うし、秀吉も淀君が産んだこどもが自分の子じゃないことは
承知だったのでは?。織田の血が欲しかったから。
嘘はいつか身を滅ぼす。右を向いても左を見ても、今の世の大ウソと重ねてのお話し。ありがとうございます。
ウソはいつか身を滅ぼす!
トランプに聞かせてやりたい!
凄いメッセージが隠されていました。耳を凝らして聞き入りました。有難う御座います。
この時幼かった最上義光の娘が側室に差し出されたばかりなのに処刑されましたね。
その姫の小さな小さな打掛が今も残ってます
決して嘘はいけない。
小名木先生のお言葉はいつめ勉強になります。
ありがとうございます。
日本をカッコ良く!
久方ぶりに真理はやはり守らなければならないと励まされました。先生、ありがとうございました。
此処まで真実が分かる歴史。。大変感動致しました。
いつの時代も権力争いが有り、力の強い者が上に立つ。
弱い者は何も言えない。矛盾の中で生き延びていかねば成らず
日々自分も毎日葛藤しております。
小名木善行先生の良いお話しありがとうございます。
秀頼の本当の父親は分らないままだろう。
でも、とにかく秀次と縁のあった人たちの最期が可哀想でたまらない。何の罪も無いのに。。。
加えてこの悲劇、実は朝鮮出兵がらみの外交問題から来たとも
秀吉の子供ってホントかなぁ...あれだけ側室いたのに。淀殿だけ2人も生まれるか?やっぱ大野治長あたりでは。
織田信長の父信秀は信長を含め25人子どもいたから、どう考えてもおかしいですよね😅
秀吉精子腐ってたぽいから他の男の子供だろうな
かさ😮😮😮😮😢😮
@@ky-ev2mz
三成説をどこかの本で見たことある
まだお話しを伺っている途中なんですが、冒頭から、見事にリズミカルカルな、韻文的な日本語を話されているのにうっとりしました。これまで何度もみせていただいていますが、こんな体験をしたのは初めてです。
ぬ
治長との間にできた子供つてのどうも本当ですね。秀吉があれだけ女の人に囲まれててこどもがなかつたのでた多分子種がなかったんだと思います。秀吉自身もわかってたんではないでしょうか。
本当の猿だったから人間との間に子供が出来なかった。
小名木劇場大好き♥です。
今回も大変 学ばさせて頂きました
政治家としても人間的にも魅力的で人を惹きつけずにはおかない秀吉なのに、女人に弱いというか、正妻のおねをたて続けたのは良かったのに、女運が無かったのか、権力のトップにたつことの恐ろしさよ…
基本的に絶倫は社会的な地位と名声は得られる。
バイタリティーが違う。
歴史と道徳、演技まで入って👏夢中で最後まで聞かせていただきました.
大変楽しく、お話を拝聴させて頂きました。有難う御座いました。淀殿は、可愛そうだけど、因果応報で憎しみから自分も同じそれ以上の事をしていますね。憎しみから良い事は、生まれません。悲しい時代ですね。今の時代も色々な事がありますが幸せに一生を過ごせる事を望みます。
本物でないもの、嘘をつくといつか身を滅ぼす現代にも通じてますね、有難うございます。
おつしやる通りです。
現在の<皇室>一宮家とダブリ興味深く拝聴致しました。
有難うございます。
権力に執着するが余り
罪なき人々を理不尽に
エゴ、私利私欲の為に
倫理感、道徳を失う人間の醜さ、おぞましく、浅ましい業は今も昔も変わらないものだと憐れさを感じます。
今はSNS、インターネット情報社会で真相追求
〜解明され虚偽が暴かれ嘘を守り通す困難さよりも正義感と勇気を持ち
不条理さを叩き切る令和の弥栄を願い感謝申し上げます、
今まで歴史に疎かったのですが、今回のお話は感動しました。
ありがとうございました。
ありがとう御座います🙏🍀
道徳、正直に、、、
素晴らしい講義、感謝合掌
秀吉が猿と呼ばれたのはひも付きのタカが木にひかかった時に猿のように木にかけのぼったから信長が呼んだというとこからというのが本当だと思います。 信長は優しかったと思います。 秀吉はすばしかったから雇われたみたいです・ 光秀ともすごく仲が良かったので殺されてない。
その時の時代とはいえ!最初は信じられませんでした!?ても秀吉も淀殿も、なぜか嫌いになれません!?
大阪城を拠点とする西の豊臣政権は国際金融資本政権と化していたから家康は根絶やしにする必要があった。秀次に会ってもいない最上義光の娘の駒姫様は無念でしたでしょうね。
最上義光の家計山形県大石田 最上旅館嫁浅利家 横浜市戸塚区 建設業。
淀君と秀頼が大和郡山に移れば家康は許したはずである。
しかし、大阪城に逃げてきた10万人の関ケ原浪人が二人を外に出さなかった。
家康が本当に始末したかったのはこの10万人である。
初めて試聴しました。歴史以外にも最後にそこから学ぶことも述べられて大変ためになりました。
体格も秀頼は大柄だったということで秀吉には全く似てなかったということと、秀吉はうすうす気づいていたという話もありますね。
秀次に関しては、駒姫が有名ですね。これから秀次のもとで側室となるという段階なのに処刑されたかわいそうな駒姫。お寺には処刑された順番や名前、年齢、辞世の句なども残っており涙を誘いました。
秀次は病気で亡くなったのだと理解していましたが、何か不透明な印象がありました。今回ようやくその理由が解ってすっきりしました。それにしても歴史を学び伝承していくことの大切さをまたしても痛感させられました。
淀殿は見事豊臣家(秀次)の血を根絶やしにし、復讐を全うした。
これこそ、母お市の宿願だったでしょうね…
代償は...💀。
忘れられていた勧善懲悪のお話などが思い出されました。やはり正義の筋が通らなければ社会が混沌に落ち込む気がいたしました😊
ちょっと小説的ですね。
淀君に手を出した秀吉はたしかに宜しくないですが、淀君も野心家だったと思います。
平安の昔から、女子供は敗者側といえど戦争責任を免れており、勝者が面倒を見るという慣習がありました。 義経親子が清盛に庇護されたのと同じです。
なのでお市の方の娘達を秀吉が引き取る事まではおかしなことではないですが。
淀君は松の丸と争ったことからも、けっこうノリノリで側室やってたと思いますが。血筋の良さと野心を併せ持った淀君を下手に嫁がせるわけにはいかず、秀吉が手元に置いて監督したというのが本当だと思います。
淀殿の秀次事件関与や家康が大阪の陣を起こした理由は納得が行かなかった
裏付けの研究や史料も無い状態で言われても感
淀君、淀君とくりかえしておられるのが気になります。お茶々の後年の名は「淀殿」、「淀の方」と呼んだ方が良いのでは?
どこかで誰かが「淀君などと遊女みたいな呼び方」と言っておられましたが、その通りだと思います。
この辺りの歴史は多くの歴史小説作家の作品を読んで興味津々ではありますが、小名木先生も多少の虚構を混じえておられるようですね。
淀の方の心の中や、秀頼の父が誰だったかなど到底知る術もありませんが、彼女には秀吉の正室という別の敵もいたことは、彼女がやったことがらの要素にもなっていたのでは?
正室は三河以来の多くの家来には、温かく、親しみの持てる姉のような女性として好かれていたのに対し、お茶々は冷たい人柄が嫌われ、一行人気がなかったようですよ。
私も 淀君は遊女 淀のお方様が相応しいと 聞きました。
長女の宿命かも知れませんね❓
淀君は徳川方の見下した呼び名ですね。淀殿は世界で唯一の自分の城を持った女性ですね。お市の方の浅井の血を絶やすな。豊臣の血は絶やせとの遺言は真意はわかりませんが浅井の血は現代まで続いています。
淀殿もしくは淀の方ではなく淀君などと言う人の意見は信用性が無い
小学校時代に、図書室で『淀君』という歴史マンガを読みましたが、淀殿とも言うんですね。
" 秀頼は、秀吉の子ではない‼️"
からこそ、復讐の為に、
秀吉の血筋に当たるであろう、全ての者たちを、粛正したのだろうと言う事が、
初めてわかりました。
小名木先生、さすがですねー‼️
目から、ウロコです。
毎回、大変に参考になります。それにしても、先生の演技、素晴らしい!お上手ですね。(^^)
歴史的に確かではないことをけっこう言い切りますよね
復讐心を秘めて豊臣の血筋を根絶やしにしてしまうお話は面白い観点ではありますね
たしかに秀次出家だけで収まらず女子供まで皆殺しにして秀次の居宅関連施設も破壊したのは淀様の強い敵意があったからかも
天下人秀吉のお姉さんの子に生まれたのが不幸の始まり秀次28歳無念だったと思う。
秀次の弟の秀勝には淀殿の妹の江が嫁いでいて、その間に生まれた娘の
完子は摂関家の九條家に嫁いでいて、なんと女系では今上天皇にまで血筋が
つながっているので、抜け道のように今につながっているのが本当に皮肉です。
皇室はこんな感じで、日本の大方の有名な家系と血がつながっています。
@@kkcombipl そうだったんですね、それは知りませんでした。
敵方とも縁戚を結ぶ事が多かった支配層ならではの血の繋がりは奥深くて興味を引かれますね。
確か、秀頼の元に千姫が嫁ぎますよね…
千姫は徳川秀忠の娘であり、お江与の方の子…
そしてお江与の方と淀殿は姉妹…
秀頼の出生に疑問を持ち、後に大坂の陣まで行うまで至ったのに
自分の孫を豊臣方に嫁がせる家康
秀忠、そしてお江与の方の気持ちはどうだったのか?
興味があります
いとこ婚だったのか
ある人はどちらも野心家だったからどちらが勝つかで火花ばちばちだったと言ってた
こんなに分りやすく楽しい歴史の話は、初めてです。他の話も聞きたいです、
豊臣を滅亡させた一番の理由はやはり後顧の憂いを無くす事が一番かと思う。
家康の「討ちしてやまん」の働きによって世の道が正されたんですね。
しかし、とても哀しい。
熊笹を かき刈りわけて 登れども
雲多かりて 冴えぬみはらし
秀次は全てご存知だったから粛々と従っていたのかな。だとしたら悲し過ぎます。
夜をあぶる 吹き捻れたる 焔みて
慈雨をふりゆく たつの尾をみる
素晴らしい着想でした。その受胎相手は別の人かと思っていましたが、そう言う話もあったと言うのは、悲しい人生の万人の妙として受け止めておきます。とにかく、国家存亡の時を乗り越えて行きたいものです。正直捨方便です。
ありがとうございます😊感謝いたしております♪
二条城で成人した秀頼さんの顔を実際に見て、「このコは太閤はんの倅やない」って見抜いたのかな家康さん
解りやすくテンポがあり類似素晴らしい語りのテクニック
素晴らしい、講義の一言です、、ありがとうございました。
自分としては神回。
淀君はクレオパトラと人生が似ていて悲しいんだよな。でもクレオパトラと違って愛してくれる人が居なかった。
肖像画が能面と同じく無表情なんだよな。
もしかしたら心を殺して生きていたんだろうな。
瑞龍寺ですか、
わたしは中国地方のある所のにおりますが、近所に越してこられる方と知り合い、
その時までに近江八幡の瑞龍寺に寄せていただいたことがあります。
その時の話では経営関連に問題の有る方がおられるとは聞きましたが、内容は話されませんでした。
その時は秀次一族の菩提寺ということは知りませんでした。
今はその方はうちの近所に越されています。
秀次一族の死がこの通りであれば、秀吉がどう思ったかが知りたいですね
淀君って呼び方は遊女と同じだと貶める言い方なので、淀殿と呼ぶのが正しいと教えてもらいました。
淀君って、秀吉の時代呼ばれてないでしょ。いまの老人は、君って呼びたがるな。秀吉が市に惚れてたって、想像でしょ。秀吉子供いないも、最近では、間違いとされてますが、ここの歴史感は古い歴史感だと思う。
@@またぐなよビシビシ行くぞ さん 実は柴田勝家にお市の方をやったのは秀吉ですしね
不透明な事がスッキリしたようです。
わかりやすくて学べました。ありがとうございます🤗
たまたま今回の配信を鑑賞しました。現代風な教訓に満ちた結論でしまっくていますね...日本の現在の皇室問題、誰が次の天皇なのかの日本の基本門題に関わる訓示と受け止めました。私は最早日本人ではありませんので、どうこう言う権利はありませんが、此れから起こりうる大混乱を如何に回避するのか、出来るのか...。恐ろしさを感じます。
1:35「現代と違い昔は親子の縁はものすごく大切にしていた…だから側室にしてはいかん」って、縁がものすごく大きな力を持っていたからこそ、父や兄や母まで殺し、そのうえ織田から政権まで奪ってしまった秀吉は茶々を他人に渡すことはできないのだよ。もし茶々を他の大名に渡したら、その大名が茶々を担いでいつ反旗を翻すか分からない。現代のスケベおやじが考えるような愛人とか妾、情婦、的あさましい発想ではなく天下統一を果たすため茶々は誰にも渡せなかったのだよ。渡したら柴田勝家みたいに必ず反旗を翻してくることを、人たらしと称された秀吉ゆえに人の心の機微というものを誰よりも深く理解していたから。そして秀吉亡き後、豊臣を滅ぼしたのは茶々の妹お江が嫁いだ徳川だった。読み通り。
加えて織田信長の姪なので織田信長の血筋をこっちに抑えておくのは重要ですしね
ほぼ同じ推測をされていることに感動しました。さらに熟考しますと、秀頼が幼いうちは良い、しかし成長すれば、あまりにも自分と似ていないことに、秀吉自身気付く。と、淀は考えていたでしょう。秀頼が少年期に移行する前に、秀吉の痴呆が急激に進み公の場で失禁したのは果たして本当にただの老化だったのでしょうか?もしかすると、誰か(身近な人)に、毒を盛られたのではないか?・・・そういう推測もできてしまいます。
合点がいく説明ですね。
でも高台院がそれを黙っていたのかな?当時の当事者しかわからないですね。
嘘はだめ、今のご時世を仕来りを守ってる著名人はいないですね。悲しいことに・・・
まともに考えたら黙ってないですよ,彼女は尾張派,近江派両方に慕われてましたし
茶々もいろいろ苦労して、でも秀次の子どもや奥様たちはかわいそうです。
どうか生まれかわっているなら今は幸せに過ごしてほしい
先生…ありがとうございます🙏
素晴らしい お話に、今日も勇気と安心を頂きました🙏(..)
毎回思うのですが、その時その場所で見聞きされたような解説の元のソースはどこからなのでしょうか?このような解説が史実なのでしょうか??
ソース!
出処がわかっていても信憑性は皆無。
結局は当事者しかわからないのを我々が想像するのが歴史の楽しさ。
茶々だけ身ごもるなんて
絶対あり得ないわよね。
信じる秀吉に心の中では
笑っていたのでは?
それ以前にも子供がいたものの幼くして死んだという話もあります
とても面白い解釈でした。
淀殿の壮大な復讐だったんですね。。
秀吉が完全無欠の天下人じゃないところが好き
弱点が淀!
真実はひとつと言いますが、その本質はわからなくても、皆がおのずと信じることが真実となるのですね。夏の陣、冬の陣のいわれが初耳でした。ありがとうございます。歴史とは、いろいろな考え方に裏打ちされているものなんですね。真実であるかないかはおいといて…
😅
秀吉は種ナシだとの話もありましたね。やはりお天道様は見てます。嘘はアカン。
秀次事件、秀吉の指示じゃなく淀君の全て命令だという証拠、どこかにありましたっけ?
大阪商人の伝統がいつまでも続いてほしいものです。
外国資本によって買収されてしまうと、この伝統が失われてしまうのではと危惧しています。
日本史好きになりそうです。とても分かりやすく興味深かったです。
素晴らしい講義ありがとうございます。
素晴らしい講義でした。不信だらけの現在。覚醒しました。
大変勉強になりました。
ありがとうございます。
淀殿
(よどどの、永禄12年(1569年)?[注釈 1] [注釈 2] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉の側室[注釈 3]。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。
概要
近江国の戦国大名・浅井長政の娘[注釈 4]。 母は織田信長の妹・市。
同母妹に初(常高院、京極高次正室)と江(崇源院、徳川秀忠正室)がいる。
子には棄(鶴松、夭折)と拾(秀頼)、猶女には完子[注釈 5] がいる。
乳母は大蔵卿局(大野治長の母)・饗庭局(大叔母にあたる海津殿の次女)・大局(前田利家の弟にあたる佐脇良之の室)の三人が明らかになっている。
生涯
父・母の死
近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。天正元年(1573年)に父・長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母妹らとともに藤掛永勝に救出された。この時、父と祖父・久政は自害、兄・万福丸は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されている。その後は伯父・織田信包のもとにおかれ、伊勢安濃津城または尾張清洲城[2]で保護されていたとされていたが、近年の研究によると尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとされている(『渓心院文』)[3]。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、織田信長の岐阜城に転居することになる[4]。
信長が本能寺の変で家臣・明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣・柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城(現・福井県福井市)に移る。
勝家が羽柴秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れると、市は勝家共々自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた[注釈 6]。 また北の庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ(『玉興記』)、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている[5]。この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方である(『大雲山誌稿』)[6]。また、叔父・織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受け[7]、安土城に住み、後に聚楽第で伯母・京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれている。もっとも、福田千鶴によれば、いずれの説も一次史料による裏付けに欠け、この時期の三姉妹の所在については不明である[8]。
秀吉の側室に
妙教寺の境内にある淀古城の石碑
天正16年(1588年)ごろ、秀吉の側室となる。
天正17年(1589年)、棄(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになった[注釈 7]。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った[注釈 8]。
なお、鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめるが奉納者である淀殿の記名はない。これは淀殿の豊臣政権に対する自発的な配慮によるものである[9]。秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉の死後、高野山などの修復にも当たっている。
関ヶ原の戦い
「関ヶ原の戦い」も参照
慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際に、7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)から書状を送っていることがわかる[10]。このことから淀殿には家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち内府(家康)・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺える[11]。その後、大坂城に入った輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、淀殿は石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。なお家康は淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料とし、その後、三奉行が家康糾弾の『内府ちかひの条々』に署名したが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることとなった。
9月15日の関ヶ原の戦いにおける徳川方(東軍)の勝利の後、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言した。
慶長6年(1601年)になると「気鬱」が激しくなり、胸の痛み・摂食障害・頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔から薬を処方をされた(『玄朔道三配剤録』)[12]。
徳川家康との対立、大坂の陣
大阪城公園にある淀殿・秀頼自害の地の石碑
家康は豊臣家の蔵入地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将や自らで分配し、豊臣家は支配地を減らすことになる。淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老・五奉行の去った大坂城の主導権を握る。
江戸に武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。慶長19年(1614年)、関東との交渉役・片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励していたが(『当代記』)[12]、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。しかし、翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城し、秀頼や大野治長らと共に自害した。
墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わる。
淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。落ち延びた先としては、島津氏を頼って薩摩国に落ち延びた説[13]や上野国厩橋まで遁れてきたという説がある[注釈 9]。
歴史の意義深さが、とてもよく伝わりました😵💕テストが、受験が…じゃ、こんな域、一番大切な部分が、全く見えませんでした💕🙇♀️
覇王の血が強すぎたのでしょうか。一歩引いてねね様に秀頼を委せていたら豊臣時代はもっと続いていたと思いますがまあ無理でしょうね。
先生こんにちは。
私の考察ですが、淀君は、豊臣家を根絶やしにするために、わざと側室になったのではないでしょうか。
大坂の陣でも、秀頼が出陣したらまとまってた豊臣勢が、秀頼が行かないことでバラバラになりましたし。
ほんとに守ろうとしたのなら、叱咤激励して出陣させたのではないでしょえか。
この人は歴史と物語がごっちゃになってるな。
いくら淀君が秀頼の生母であっても秀吉が存命中に女子の身でありながら一存で、秀次やその妻子を根絶やしにするまでの権力は無かった思います。もしも本当に淀君がやらせたのなら、北の万所がそのような所業を止めさせたのではないでしょうか?
初めて聞いた説で驚きました!!
私も淀殿がやったとは思えません
北の政所は淀殿よりも強い力をお持ちでしたから私の知る限りでは淀殿が秀次一族への残虐行為を命令したとは思えません。
@@ひこたにまるはゆくごう さん 同感です、それに最近では北政所と淀殿の仲は良かったとも
先生ありがとうございました。
凄く納得できるお話しでした。
現在の大阪も嘘やお金💰儲けだけの大阪で無い事を願います。
家康も家康で嘘の塊じゃないですか
家系図にしろ鐘銘事件も然り家康が正義みたいな見方は出来ない
ですよね……
毒を持って毒を制した方が後腐れない。
なるほど大坂の陣をそういう見方、解釈もあるんですね。嘘をよしとしないために家康が豊臣を滅ぼした。ややもすると家康の天下の簒奪といわれる行いが、世を正すための行いだっと。。。物事には本当にいろんな見方解釈がありますね。勉強になります。
何事も深読みしすぎるとワケわからなくなるね。色々と膨らませ過ぎかと〜
戦国時代には敵の家と婚姻することは世の習い。
武家の女であった浅井茶々が産んだ男子を秀吉が公式に我が子と認めている。
武田勝頼の母親もそうですね
確かに! 諏訪の姫と被る。
うわ〜、面白かった!
チャンネル登録させていただきました!👏👏👏👏👏
諏訪御料人も、父親(諏訪頼重)の仇である武田信玄の側室となり、武田勝頼を産みました。
昔はよくあった話です。その女性によっては寝首を欠いたり自刃したり中には複雑な心持ちの中その後継を産んだり結果は様々でした。現代の私達では想像もつかないようなことが沢山あったのだと思います。茶々さんのことでなくてものちに遺恨を残すようなことをしてはいけないのでしょう。まずは、茶々さん自身。その後は豊臣家の滅亡。冬の陣、夏の陣……..嘘を潰すというより後に遺恨を残さないように完全滅亡にしたのだと思うのですが。
大変、興味深い解釈だと思います。徳川側は、大坂の陣のあと、そういう事実を拡散することもできたのにしなかったというのも意味深いと思います。しかし、有力な大坂商人には伝わった筈だというご見解ですね(腹芸のようになのかもしれませんが)。この有力な大坂商人が今日の大坂の商人道を基礎を作ったということなのですね。
歴史は事実によつて作られるかもしれませんが、解釈によって作られる面もあると思っております。解釈というのは大事です。今回のお話しはとても意義深いものでした。
家康が拡散をしなかったのは、将軍職を譲った息子の秀忠の正室に問題あったからと思います。秀忠は側室を持てなかったらしいですね。秀忠にブーメランとして跳ね返ってくるのを恐れたのでしょう。
学生の時にこんな先生がいてくれたらもっと歴史に興味が持てたと思う。今からでも遅くないかな、むすび大学に入学させていただきます😆
秀吉が跡取りが必要だったから、淀殿に言って子どもを産ませて、自分の子供にしたっていう方が自分的にしっくりくるけど、それはないのかな?いくらなんでも秀吉はわかるでしょ、嘘って。1人目生まれた時は分からんかもだけど、2人目は誰と会ってるか監視すると思うわ普通。
いつの世も同じようなものと思ってしまいます。今の皇族問題も現代の家康さんや幸之助さんで解決して欲しいと思っています。
そして千姫がツラく悲しい思いをしたんですよね😢
面白い!どんどん引き込まれてしまいました。
最後に松下幸之助が大阪商人と言われていましたが、松下幸之助は和歌山が生誕地です。現在の和歌山市和佐です。
でも現実は、嘘や隠し事のない人間なんて、文明圏ではほぼいないよね。未開の部族には、嘘の必要がなくて嘘の概念もない人々がいるらしいが、我々には「個人情報を知られたら犯罪被害者になる」という実情があり、身を守るために嘘や隠し事が必要という哀しい現実を生きねばならない……
イヌでも嘘を吐くんだから、未開の部族でも嘘は吐くでしょ。
寧ろ嘘のない本音だけでは社会は回らないですよ。
この人の話を聞いて毎回思うのだが、事実と主観が混ざった話を歴史の事実のように断定して話すのはどうなのでしょう。淀殿が秀次殺しを主導したとか説では面白いですが、歴史的証拠はあるのでしょうか。何か文献に書かれてその仮説に導くだけの材料が書かれていたのでしょうか。歴史小説を事実交えて、ノンフィクションのように話しているみたいです。
私も小名木先生の取り上げ方に疑念を持っています。浪花節的ですね。
@@qr172 まさに浪花節ですね。盛り上げるような面白い話し方は良いと思うんですが、他の歴史の先生は主観や仮説を言う時は〜だと思いますとか〜と言われている、等さりげなく推測を暗示するんですが、この方は〜です!と言い切ってしまっているのがどうにも。。。
講談師 見てきたような 嘘を言う という言葉を思い出します。
@@gogogirl984 講談師にとっては最高の褒め言葉ですね。「講談師」が「歴史の先生」に変わるのは笑えないですね。
素晴らしかった✨感動しました❗センセ😁ありがと👍️🎶
奥琵琶湖の賤ケ岳で秀吉に負けた柴田勝家はお市の方と越前北之庄城(福井市)で放火し自害しているのではと思います。
豊臣秀次ー5
石田三成讒言説
『太閤さま軍記のうち』では、「御謀反談合」の風聞が秀吉の耳に届き、7月3日に4奉行が派遣されて「子細御せんさく」があった後、8日に伏見木下吉隆邸に預かりとなった秀次がすぐに高野山に入るという展開になるが、それでは余りに話を省略し過ぎているので、『太閤記』以後の書物ではこの間のくだりが大幅に“加筆”された。
元和年間に成立したとされる『川角太閤記』は、秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰されていた菊亭晴季の娘である一の台を、秀次が見初めて、晴季に請うて秀吉には黙って継室としたが、石田三成の讒言でそれを知った秀吉が嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする話を載せている。
『甫庵太閤記』では、7月5日に石田三成が、1年前に毛利輝元と秀次が交わした誓紙を今になって咎めて、(秀次には謀反心は)「聊以(いささかもって)なかりし」ものの、反逆者の行為に似ていると別の嫌疑を取り上げて言い掛かりをつけてくる。同記は「秀次公讒言にあひ給ひし」は天罰であったという論調であるが、讒言者を石田三成と増田長盛の2名としている。木村重茲(木村常陸介)の役回りが変わって、彼は秀吉の重臣・木村定重の嫡男として本来なら豊臣家の執政となるべき立場であったが三成にその地位を奪われた者であり、両者の対立関係を描くことで、三成に陰謀に関与する動機を与えている。三成は、関白の宿老として将来のある常陸介を陥れようとしていて、木村家に内偵を入れて見張り、讒言の口実を伺っており、三成による讒言という構造がはっきりしている[111]。
以後、陰謀の主体者に石田三成を当て嵌めた“讒言説(讒構説)”の筋書きに追随する書物が続出し、寛永年間の作で『太閤記』と同じ頃に書かれた『聚楽物語』では、それぞれの役割分担はさらに明確にされる。木村重茲はもはや忠臣として扱われ、物語の中心は、石田三成と秀次の宿老衆とのせめぎ合いであり、田中吉政が三成の謀略によって讒言に協力するように迫られて、吉政が日々子細な報告を繰り返すうちに情報を集めて、三成は「御謀反はうたがいなく候」と秀吉に報告するに至る。三成はさらに孝蔵主を使者として秀次をおびき出そうとする。重茲は追い詰められたからにはいっそ謀反を起そうと提案するが、粟野秀用が反対して、秀次は弁解に伏見に向かうが、すべてが筒抜けの状態であったからまんまと捕らわれてしまうという展開である[112][113]。
これが『武功夜話』(成立年代不明だが江戸中期以後)になると、田中吉政の役回りが前野長康に替わっている。ここでは前野家が主人公だが、これまで不明だった謀反とされた内容がさらに具体的に加筆された。それによるとそもそもの発端は毛利秀元が秀吉に直接訴え出たことであり、秀元が聚楽第に来た際に連判状を示されて秀次への忠節を誓うように催促されたのを、謀反の疑いとして注進したが、連判状には前野景定(出雲守)の名前もあったのだと言う。そこで6月末、前野長康と木村重茲が伏見に召還されて石田三成・増田長盛・長束正家の審問を受け、両名はそれぞれ秀次の所業を弁護するが、連判状の存在を突き付けられて観念して、聚楽第に急行して秀次に恭順の意を諭すことになる。連判状がなぜ謀反と繋がるのか疑問に思うわけであるが、これについては弁明する秀次に「この書物は別儀相無く、余への忠義の心を相確かめるため、家来ども始め諸上に書物に連署墨付け願いたる事、太閤殿下に聊かも他意これなし、如何様に殿下に讒言候哉」と言わせて、奉行衆が秀吉と秀次の間が引き裂いたことだとして描かれている[114][注釈 57]。
ここまで詳しく書いたが、これらの資料ごとの相違からも考察できるように、石田三成讒言説については「秀次の粛清は何者かの陰謀の結果であろう、そしてそれはきっと石田三成に違いない」という、後世の人の憶測と考えられる。主体的に三成が動いたということがわかるような史料は存在せず、三成による讒言があったことを示す史料もない。また、上記の例に挙げた後世に書かれた「軍記物」はもとよりフィクションを多く含んでいると考えられている。事件後に、使者となって関わった奉行衆がそれぞれ加増されているという史実はあるものの、秀次旧家臣らの中にも加増を受けているものも存在することなどから、「三成ら奉行衆は秀吉の命を遂行したに過ぎない」というのが現在は有力な説で、今井林太郎や小和田哲男などは讒言説を否定し、石田三成は「秀次追い落としの首謀者ではなかった」[115]としている。[注釈 58]
悪逆説・悪行説
謀反の嫌疑が「虚共実共終にしれず」という状態にもかかわらず、家老衆が自害した後に、秀次の乱行・悪行が再び断罪の材料とされるのは、ほぼすべての軍記物・太閤記の書物で共通する内容である。悪業として列挙されるのは、およそ下記の4点であるが、宣教師の記録にある不徳についても記す。なお、『太閤さま軍記のうち』が死の原因(あるいは天道に背く所業)とするのは、稽古で人を撃ち殺したり辻斬りなどをしたことではなく、比叡山の禁制破りと北野で座頭を殺したことで、天道思想と現代人の道徳観念とにはかなりの落差があることには注意が必要である。一方、宣教師フロイスは、秀吉の方がより残忍で人倫に外れた暴君であると書いており[注釈 59]、秀次の悪しき慣習を指摘しつつもそれは残念な欠点と言っているだけで多くの美徳を讃えてもいて、粛清の原因としては別の分析を書いて太閤と関白の不和によって起こったとする。人斬りも5つ挙げられた口実の1つ[注釈 35]にされたに過ぎない。
お市の方も背が高かったらしいですが浅井三姉妹皆この時代としては長身だったそうです🙄
そうなんですよね~
末っ子のお江さんは小柄で華奢とも聞きます
秀次様の子どもや妻子たちがあまりにも可哀想です。
来世では幸せに過ごされていることを願います。
石松丸秀勝(初代秀勝)の存在を忘れる事なかれ。
秀吉は、この子を最初に側室に産ませたとされる。
秀勝は、三人いる。
石松丸秀勝は、秀吉の庶子で長男。
おつぎ秀勝は、信長の子供で養子。
小吉秀勝は、秀次の弟で養子。
おねも若い頃、何度か懐妊したが秀吉の出世前で貧乏のため全て堕胎させられた。という資料も以前TVか何かで見た事があります。
おねはそのせいで子が産めない身体になってしまったが、その負い目がある分、女にだらしない秀吉もおねには頭が上がらなかった、ということのようです。
豊臣 秀次ー1
(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の第2代関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。
幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉[注釈 2]とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。
秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名を秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。
秀頼誕生後
豊臣秀次像、高厳一華賛
(京都地蔵院所蔵)
ところが、継承が済んだ後になって、肥前国から戻った淀殿の懐妊が判明した。当初、平静を装っていた秀吉であった[36]が、文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君様御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉公御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中ヲ表裏候由見ヘ候」[37]とあり、この話の史実性にはやや疑問がある[注釈 26]が、通説のように秀吉が関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。
山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである[38]。この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった[39]。ところが、『駒井日記』の10月1日の条によると、駒井重勝は、秀吉の祐筆の木下半介(吉隆)から聞いた話として、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫[注釈 27]もしくはのちの露月院[40])を婚約させるつもりであり、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせる考えで、秀次が湯治より帰ったらそう申し渡されると書いている[41][42]。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れる。淀殿に対する見舞状への返信が10月8日に届いており[要追加記述][43]、『福田寺文書』に収録されている淀殿の返信が該当するものと思われる。同書状で淀殿はお互いの子供同士の縁談について喜びをみせている[要出典]。
宮本義己は、典医・曲直瀬玄朔の診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は喘息の症状が強くなるなど、心身の調子が不安定であったと指摘。それは失われるものに対する恐怖心のなせるわざで、すなわち秀次の権力への執着心の強さを示していると主張した[44][45]。先の熱海温泉への湯治は秀次の喘息治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化したようだ。小林千草は、秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかという[45]。
しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に効くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである[46][注釈 28]。
秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷が多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する[47]。
他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』[注釈 29][48][49]によると、秀次は文禄2年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである[50]。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている[50]。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった[50]。
小名木先生。動画配信お疲れ様でございます😭
大野 治長
(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。通称は修理亮または修理大夫で、大野修理の名でも知られる。
能書家であり[3]、古田重然(織部)に茶の湯を学んだ茶人でもあった[4][5]。
生涯
不確かな前歴
父は大野定長(佐渡守)で、母は大蔵卿局といい、浅井長政とお市の方の娘である淀殿の乳母となったので、淀殿とは乳母子(めのとご)の間柄になる。淀殿の生年には諸説あるが、この経緯から考えれば、治長は同い年かそれに極めて近い年齢と考えられるので、最も有力なのは永禄12年(1569年)前後であろう。兄弟には、治房(主馬首)、治胤(道犬/道見)、治純(壱岐守)[注釈 2]がいた。
出生地には二説あるが、『尾張群書系図部集』は『尾張志』『張州雑志』などを根拠に、丹後国丹後郡大野村[注釈 3]で生まれたとする説の方を誤伝として[注釈 4]、尾張国葉栗郡大野村[注釈 5]で生まれた城主一族であるとしている[6]。大野氏はもとは石清水祠官(しかん)の家で、神職を失って美濃国に流れてきた大野治定(伊賀守)が、織田信長の命令で同地に大野城を築いて居城とした。この治定は祖父にあたり、定長はその子で、大野城を継いだ治久は定長の弟(治長から見れば叔父)にあたる。『南路志』によれば、尾張葉栗郡の同郷の毛利勝永とは従兄弟の関係にあったという。
大蔵卿局および治長らは、小谷城以来、ずっと淀殿に付き従っていたと考えられるが、天正11年(1583年)の越前北ノ庄城の落城後はその淀殿の所在すらよく分からなくなるので、大野一族がどのような顛末を辿ったのかは不明である。一方で、この間、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に、本家の大野治久は豊臣秀吉に逆らって失領し、大野城を失っている。
前歴は不詳といって差し支えなく、治長が秀吉の馬廻衆となった時期もよくわからないが、(織田信雄、または佐治信方や織田長益のもとにいたらしい)淀殿が秀吉の庇護下に入った時期に関係があると思われるので、淀殿が秀吉の側室となった天正16年(1588年)頃か、もしくはその少し前と推測される。
天正17年(1589年)に父および母の功績により、太閤蔵入地から和泉国佐野(現在の泉佐野市)と丹後国大野に合計1万石を与えられ、丹後大野城を拠点として領国を運営した[7]。これは明らかに同年に淀殿が鶴松を出産したことに関連する褒美ないし祝賀の加増であろう。
淀殿に近侍
治長が、確かな史料に登場するのは、天正19年(1591年)11月、秀吉の三河国吉良狩猟に随兵した頃からである[3]。
文禄元年(1592年)、『松浦古事記』によれば文禄の役の際の肥前名護屋城の陣場の配置に「大野修理亮」の名があり[8]、在陣していた。この時、秀吉は小田原の陣の例に倣って、淀殿や松の丸殿などの側室を連れていたことは興味深い点であり、まさにこの夏に淀殿は再び懐妊して、翌年に拾を産んでいる。
文禄3年(1594年)の伏見城普請を分担[3]。当時、1万石の知行[3]。
慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金子十五枚。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼に伺候して、詰衆二番之組の筆頭[9]として側近となった。
ところが、同年9月7日に重陽の賀のために大坂城へ登城した徳川家康に対して、五奉行の1人である増田長盛が家康暗殺計画事件があると密告。すでに金沢に帰国していた前田利家が首謀者で、浅野長政(息子・幸長の室が利家の娘)・土方雄久・治長が語らって彼らの手で城内で家康を暗殺する企てがあるとした[10]。家康は身辺の警備を厳重にして祝賀を乗り切ると、大坂城西の丸に入って、天守閣を造営して、自らが秀頼に並ぶ存在であることを誇示し、謀議者の摘発に乗り出して、10月2日、治長はの罪を問われて流罪とされて下総国の結城秀康のもとに預けられ[3][11]、雄久も同罪として常陸国水戸の佐竹義宣のもとに預けられた[12]。
慶長5年(1600年)7月24日、家康は雄久と治長に引見して罪を赦した[13]。関ヶ原の役では東軍に与して参戦して、本戦では先鋒である福島正則隊に属した。『関原軍記大成』によれば、宇喜多隊の鉄砲頭・香地七郎右衛門を打ち取る武功を挙げたという。戦後は家康の命で「豊臣家への敵意なし」という家康の書簡をもって大坂城の豊臣家への使者を務めた後、江戸には戻らずそのまま大坂に残った。
大坂の役、和睦に尽力
慶長19年(1614年)6月22日、片桐且元の弟である片桐貞隆と共に、家康の口添えで5,000石を秀頼より加増された。その返礼のために貞隆と、家康のいる駿府、次いで江戸の将軍・徳川秀忠を訪ねた[14]。
同年に豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至る。治長は渡辺糺と共に鬮取奉行となって豊臣方の中心の一人として籠城戦を指揮した[15]。
徳川方から和睦が持ちかけられると、12月8日から12日、織田有楽斎と共に治長は徳川方の本多正純および後藤光次との交渉を行った[16]。淀殿が江戸に人質に行くこと、豊臣家の浪人衆への俸禄のため加増すること、大坂城本丸のみを残して二丸三丸を壊すことなどの双方の提案をまとめて和議を成立をさせると、有楽斎と治長は和睦の保証として人質を出すことになり、治長は次男治安(弥七郎)を人質として家康に差し出している[注釈 6][17]。
しかし城内では和睦に反対する意見も多かった。和睦後の4月9日夜、治長は大坂城の楼門で闇討ちに遭い、護衛2名が死傷し、本人も一刀を浴びて負傷した[注釈 7]。これは主戦派の弟・治房による襲撃とも言われるが、襲撃犯は治房の家臣・成田勘兵衛の手下(大和の小走組の今倉孫次郎)とされ、成田は襲撃に失敗すると自宅を放火して自殺し、逃げた手下は片桐邸や長宗我部邸に逃げ込み、一部は長宗我部盛親が捕らえたという[注釈 8][2]。
秀次様…………酷いことする…。