【検証】予定説はひどい!?【教えてJMC No.12】

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  • Опубліковано 16 жов 2024

КОМЕНТАРІ • 52

  • @日の本太郎-m3h
    @日の本太郎-m3h 7 місяців тому +1

    予定説は信じていません。あくまでも説なので、神学も解釈もおかしい物があるので、信じてません。

  • @PrThiagoJapao
    @PrThiagoJapao 10 місяців тому +1

    救われるものは、人間にはわからない?
    それはカルバン主義が言ってることです。
    信じるものが救われると書いてあります。
    "人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"
    ローマ人への手紙 10章10節
    選ばれたものがイエス様を信じるとはどこにも書いてありません。

  • @ryotanaka4467
    @ryotanaka4467 3 роки тому +5

    改革派教会で洗礼を受けて40年になりますが、なかなか、予定説についてしっくりこなかったのが目からうろこのようにわかりました。ありがとうございます。感謝します。また、教派についても教えてください。

    • @PrThiagoJapao
      @PrThiagoJapao 10 місяців тому

      いやいや。
      この説明では理解できないですよ。
      改革派の神学は聖書にはありませんので。

  • @PrThiagoJapao
    @PrThiagoJapao 10 місяців тому +1

    全く間違ってます。。
    予定説はアウグスティネスが、幸せな子供と、死んでいく不幸な子供を見て、なんで不平等なんだろう?と考えたところ、
    きっと神様が決めたんだと、考え込んだことで始まったものです。
    アウグスティネスは元々哲学者です。
    自分の考え方を聖書に混ぜ込んで始まった話です。

  • @森田和義-k6u
    @森田和義-k6u 2 роки тому +1

    カルバンは、(ただ怠けるだけで何もしなくならないように、「自分が救済されるかどうかをすでに現世で知ることができるのは、厳しい義務を果たし、品行方正に生きた人だけだ」と釘を刺すことも忘れなかった。)らしいです。
    やはり神頼みだけではだめです、義務を果たし、品行方正に生きる人が救済される、このほうが納得できます。

  • @Sansha_hijump
    @Sansha_hijump 3 роки тому +1

    二重予定説は学校で習った時から怖い思想でした。例えば酷い環境に生まれて歪んでしまい、愛を知らずに死んでいった人について、「あの人は滅びに定められているから仕方ないよね」などという言説が横行すると倫理の底が抜けてしまいそうで、危険思想じゃないかと感じていました。
    一方、動画で仰っていたように、救われることを神が予定してくださっていると安心して信仰できるというのは予定説の非常に優れた点だと思います。救われないかもしれないということを感じ続けるのは究極の不安ですから、偽の安心感を与えるのがうまいカルトの餌食になる恐れもありますし。
    予定説は人間にとって特効薬なのか劇薬なのかなど考えると本当に面白いです。

    • @PrThiagoJapao
      @PrThiagoJapao 10 місяців тому

      これはカルトですよ。
      聖書にはない教えです。

  • @mirokuchannel
    @mirokuchannel 3 роки тому +1

    最高です!!

  • @eiichiitoh5621
    @eiichiitoh5621 3 роки тому +1

    アルミニウス主義が予定説を広くした。予定説に完全に一致し無い人が自由意志をそもそも持っており、アルミニウス主義が先鋭なドルト規準 (オランダは改革派であって長老派では無くして堕罪前予定説迄は定義され無かった?!) から、広い見方を持てるように表現したので、先鋭な予定説から個人の自由の自由の信仰で以って予定説を広くした問題である。教会でさえもそれも個人の自由は知られており、カルヴィン派の教会でさえも、自由意志を信ずるか、予定説を信ずるかは個人で自由でらしいのかなとか思うが。ルターの宗教の奴隷意志論も酷 (ひど) いのでオランダに於いて多く居た再洗礼派でさえも"キリストの条件に於いて憎むべきモノを置くので一緒に成れない"と再洗礼派の"シュライトハイム信条"で表現される。ジュネーブ系の地帯にカトリック信者の居ることの理由はそうでは無いかとも思うのでもある。カトリックのトリエント公会議の方が"成義の (義化、義認) の教令"の決議が言葉上では認められる。悪いことを慣わしにする人はも、滅亡にその道を悔い改め無いならば罪に定められることがある。それでも飽くまでもその人が個人で罪を行ったからであって、神がお定めに成ったのでは無いのである。ファリサイ人の前例もその事を支持する。"罪を犯すな、死んではなら無い"と御言葉も述べている。聖霊冒瀆もその人の個人の罪である。自分が勝手に真理が解かっている振りをしても、結局は宗教の道に従がって仕舞うのであるが。御言葉の聖書を読む宗教ってカトリックにもプロテスタントにも在るが。中立状態主義の再洗礼派のどっちか一方では無いのは王国会館で学んだが。

  • @フェルディナン
    @フェルディナン 8 місяців тому +1

    私は保守的なカルヴァン派はナチズムの信奉者にも似た権威主義の臭いがするゆえ大嫌いですが、穏健な改革派(バルト主義?)は実にキリスト教信仰の神髄を表明していると思います。

  • @shinichiyabuki-sigma2925
    @shinichiyabuki-sigma2925 7 місяців тому

    ペラギウス論は 人間の人生を経験した人なら、まったく 嘘であることが実証できるでしょう。

  • @フェイ-s7i
    @フェイ-s7i 3 роки тому +2

    6:34 功徳(こうとく)× 功徳(くどく)○

  • @匿名-v6n4c
    @匿名-v6n4c 2 роки тому

    改革派神学では、予定説との関係で、信仰は a prior(生得的)だと思いますが、先生の御見解では経験ということを言われるので、信仰は a posteriori(後得的)だと思われるのですね?もしそうなら、先生のお立場は改革派とは反対のアルミニアン・ウェスレアンの方ですか?

    • @JapanMissionChannel
      @JapanMissionChannel  2 роки тому +2

      匿名さん、ご視聴とご質問ありがとうございます。動画でも述べておりますが、私はアルミニウス主義ではなく改革派神学の方がより聖書的であると理解しています。「いつどのような形で信仰を得るか」と「その信仰が神から与えられたと理解するか『自由意志』によって自らの力のみで選択したと理解するか」は全く別の問題ではないでしょうか。

    • @匿名-m1c8x
      @匿名-m1c8x 2 роки тому

      イエスの種まきのたとえで、信仰にも多様性があり、心霊的環境に応じて信仰の種の発育に違いが出ることが示されていますが、救われる人の信仰はあくまでも種が「良い地」にまかれて育ったものですね。
      ところで先生は「予定説」は認めても「二重予定説」は聖書的信仰として認めておられないのかもしれませんね。救いに選ばれている人にとって、その「選び」は生まれる前からの事ですよね。本人の人生経験によって決まるわけではないからです。
      「有効召命」ということも関連してきますが、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とあるとおり、救いに選ばれている人は少数派ですね。その人々は生まれる前から救われることが決定されており、信仰も同様ではないでしょうか?信仰心と言うほうがより適切と思います。
      神は救いに選んでおられる人々に、生まれる前から信仰する心をお与えになっている。だからそのような人々は何があっても神を信仰するようになるわけです。たとえ思春期および青年期までは信仰告白に至らない生き方をしていても、死ぬまでに必ず信仰告白に至るでしょう。
      さて、その時は先生のいわれる「いつどのような形で信仰を得るか」の「いつ」に該当するのでしょうか?
      私見では、「信仰を得る」ことと「信仰を告白する」こととは別だと思います。結論から言えば、救いに選び定められている人々は、その定めが生まれる前であることに伴って、信仰心もまた生まれる前に与えられているのではないかと思うのです。しかし意識の表層では無神論者を気取って生活する期間もあります。それでも、その人が神によって救いに選ばれているかぎり、遅かれ早かれ、その人は必ず信仰を告白して教会の一員になります。
      神の予定は人間の自由意志と矛盾しないので、神を心の中で信じて口で言い表すことは、「自らの力のみで選択した」わけではないですが、救いに選ばれた者は、人生のどこかで主体的に信仰を告白して信者になります。それが大学生の時だとしましょう。その人が信仰を告白したのは大学生の時です。それが「いつどのような」の「いつ」に該当します。しかし告白されるべき信仰ないしは信仰心は、すでに生まれる前から与えられていた。ただしそれが実際に発動するのが大学生になってからだった…ということではないかと自分は理解しています。
      救われる人が信仰を持たないわけがないので、ある人々が救いに予定されているのであれば、そしてその予定が本人の生まれる前に決まっているのであれば、その人々の信仰もまた生まれる前に備えられているとしか思えません。「ウェストミンスター信仰基準」における「救拯(きゅうじょう)的信仰」です。これは「有効召命」と関連し、一般的な信仰…救いにつながらない信仰と区別されます。
      これ以上は思弁に堕するだけなので、ここではこのへんで書くことをやめたいと思います。

    • @JapanMissionChannel
      @JapanMissionChannel  2 роки тому +1

      匿名さん、ご返信ありがとうございます。
      簡潔にお応えしますが、ご返信において匿名さんは予定説を「神の視点」から説明している一方で、私が「経験」について述べたのは「人の視点」から救いに関して説明している時だったかと思います。つまり、匿名さんと私は違う視点から同じ事象を述べているに過ぎないのではないかと感じます。また、私の返信における「信仰を得る」が意味するのは、匿名さんの定義するところの「信仰を告白する」に当たります。
      ちなみに、ウエストミンスター信仰告白は救拯的信仰(第14条)において「…信仰の恵みは…通常、み言葉の宣教によってうみ出されるものであり…」と述べており、一般的に信仰が経験や体験(み言葉の宣教)を通してうみ出されることを認めています。ですので、この点も匿名さんと私の「信仰」という言葉の使用法が異なるだけで、指し示している事象は同じかと思います。
      詳細な説明をお望みでしたら、ぜひメンバー限定配信にてお話させて頂ければ幸いです。

    • @匿名-m1c8x
      @匿名-m1c8x 2 роки тому

      なるほど。私が表面的なことにとらわれて誤解していたようです。以下は思弁ではなくホンネなので、お時間の許される時には、どうか、もう少し、読んでください。
      そうです、先生のお立場では、私があのチャットで書いたことには同意はできませんよね。つまり、キリスト教のことをどんなに口で説明しても、もちろん動画などで発信しても、わからない人はわからない…ということです。
      いくら、福音を伝えようと努力しても、生まれつき信仰心を神から与えられていない者には通じない、伝わらないのでは…?という私の疑問に対して、(もちろん、私も、結果は聖霊なる神さまにおまかせして人はやるべきことに全力を尽くすべきだ…とは思いますが…理屈としては)そうだとは言えませんよね。だって、いくら口で言ってもわからん人はわからん…という、それって宣教活動そのものを無意味とする考えだからです。でもこれは私の経験的実感でもあります。そういうわからん人にも福音を伝えようと対話を続けても時間の無駄だし、メンタルな観点から言えば、むしろ事態を悪化させることもあります。
      救いに選ばれた人であるなら、ある時までは、自分は神なんて信じないと思っていたとしても、ある時に「み言葉の宣教」にふれることによって、眠っていた信仰心が動き出すのでしょう。
      私自身、牧師家庭に生まれ育ちましたが、十代では迫害者として異教徒を気取って教会にはさんざん迷惑をかけてきました。信仰熱心であった実母がガンで悲惨で孤独な死に至った時、キリスト教信仰が御利益信仰とはまったく別であることを確信し、いわゆる神義論的疑問に対決する期間を経て、今は、キリスト教が万人救済のような甘い宗教ではないことを明確に示してくれるカルヴィニズムに惹かれています。リベラルのキリスト教は、カール・バルトさんでさえそうですが、明言は避けるものの、万人救済的な福音理解の傾向がありますね。あのいい加減さにはついてゆけません。
      とは言え、「二重予定説」などは、カルヴァンさん自身はそこまでは言ってないよ…と言うだろうと思っていますし、もちろん自分はリベラルなので改革派神学の内容は部分的に受け入れられるところとそうでないところがあり是々非々ではありますが、カルヴィニズムは全体として、自分の単純な頭には最もよくわかる、最も合理的に感じられスッキリするので大好きです。たとえ自分自身も選ばれておらず地獄にゆく身であるかもしれないという不安があっても、それをはるかに上回るほどの魅力がカルヴィニズムキリスト教に感じられます。精神が安定するんでしょう。自分にとってこの安定は非常に大事です。
      イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのは、救いに選ばれている人だけに向けたものかどうか、その真意はわかりませんが、私は自分の経験上、もちろん自分自身を含めててですが、形式的にはどこかの教会に所属してクリスチャンと称している人々の中にも、救いに選ばれていない者がたくさんいるわけなので(…繰り返しますが私自身もそうかもしれないと思ってます!)、その人たちのいう「信仰」は「み言葉の宣教によって」も発動しませんから、説教を聴いても批判ばかりしますからダメだと思っています。
      でも大多数の教会では、より多くの信者を獲得したいですから、招かれている者は救いに選ばれている者です、そしてあなたはイエス様に招かれ、救いに選ばれています。ハレルヤ!と言うわけで、自分自身、キリスト教についてまだ初心者的な人には本心を隠して、そのように言うわけです。相手をつまずかせることはイエスの命令にそむくことですから。ウソも方便ではないですが、つねに自分の考えを表明することがいいとは言えませんよね。ここでのコメントも同様で、誰が読むかわかりませんので、JMC協力者としてはです、万人救済ではないけど、皆さん、誰でも求める人はイエス様に招かれてます…、人生の重荷を負うて苦しんでる人をイエス様は受け入れてラクにしてくださいます、それが救いです、ハレルヤ!と私は言うべきでしょう。いわゆる待機説法のようなことだと勝手に解釈しています。ハレルヤ!ハレルヤ!マラナタ!マラナタ!

  • @山本貢史
    @山本貢史 9 місяців тому

    5:01

  • @学術領域学研究所
    @学術領域学研究所 2 роки тому

    イエス キリスト が 神 を創造した

  • @PrThiagoJapao
    @PrThiagoJapao 10 місяців тому +1

    いやいや、予定説は救われるかは最後にならないとわからない説ですよ。
    実際にウェストミンスターでは、
    ウェストミンスター信仰基準第10章の四
    知ってますか?
    神の制定で
    一度信仰に入っても救われない人がいると教えてますよ?
    予定節もカルバンの言ったこともりかいされてないですよ?
    彼自体、救われるかは最後のならないとわからないと言っており、予定説は最初から二重予定説です。
    二重予定説じゃないと言ってる人は、美化し始めた人たちです。
    制定によって全てがあらかじめ、定められている。
    ウェストミンスターや、カルバン主義の理解が足りてません。
    カルバン自体、救われているか最後にならないとわからんと言ってますよ?
    予定説は哲学です、考え方です。
    解釈です。聖書には書いてありません。

  • @bakayaroo44
    @bakayaroo44 3 роки тому +4

    割とバランスのとれた良い紹介だと思いました。ただ「予定説はそこまで悪くない」と見せるのに必死にも見えました。勿論バルトなどの考えは素晴らしいと思いますが、今でも多くの改革派教会はカルヴァンの教えをそのまま組んでいますし、改革派の教理問答で二重予定説を明言ではなくとも暗示しているものが殆どです。例えばウェストミンスター教理問答も、「救済論」の部分では破滅に予定された人たちのことは書いていませんが、「終末」の部分で救われていない人たちが永遠の刑罰を受けることが明言されている以上、これを「二重予定説ではない」というのはあまりにも苦しすぎます。
    紹介した根拠となる聖句もJMCさん自身の見解というよりは、「一般的な解釈」のつもりなんでしょうけど、神学生なら例えば黙示録の「いのちの書」の箇所をそのように解釈することにはたくさんの問題があることはご存知でしょう。またカルヴァンの二重予定説を彼の救済論の核心でないとするのも無理があると思います。彼は『綱要』の中でずっと "elect" と "reprobate" の違いを前提で語っていますから。
    僕が思うには
    ・聖書は「予定」というコンセプトを明らかに示している
    ・カルヴァンは二重予定説を明らかに教えた
    ・二重予定説は確かに酷い教えであり、イエスキリストが啓示した神とは相容れない
    これらのことにはほとんどのクリスチャンが同意出来るはずだと思います。

    • @bakayaroo44
      @bakayaroo44 3 роки тому +4

      まあ、何を言いたいかというと、「予定説は酷い」という多くのクリスチャンや求道者の人々の純粋な声(そしてその声は人間として当然の道徳・倫理感、聖書にも至るところで示され語られている人としての良き性質に基づいていると言える)に対して、「あなたたちが言っているのは「予定説」ではなく「二重予定説ですよ」という語彙の訂正をしただけです。それ自体は必要なことだし、歴史なども紹介したのはとても良かったとして評価しますが、元々の疑問自体には全然答えない、てことです。

  • @蒼月夜空のヨハニャンちゃんねる

    現在進行形で予定は未定。

  • @PrThiagoJapao
    @PrThiagoJapao 10 місяців тому +1

    24:00、わからないことを並べて、批判して、仮説を並べてるのは、カルバンですよ。笑
    美化のビデオですか?予定論の中心は一方的な恵みの救いではないですよ。聖定ですよ。
    神の決定が再前提ですよ。笑。あなたも知ってるでしょ?
    曲げすぎ。
    無理矢理感出てます。

    • @goodfruits9573
      @goodfruits9573 10 місяців тому

      傲慢な言い方ですね。悲しい、、、

    • @PrThiagoJapao
      @PrThiagoJapao 10 місяців тому

      ​@@goodfruits9573 大変申し訳ないです。
      この神学は神の愛を曲げて、十字架を限定している、神の性質を曲げてる論です。傲慢はこの神学ではないでしょうか?
      これを吹き込まれ被害を受けて自殺した人が出ています。
      聖書解釈が間違ってます。
      あげたらキリがありません
      キリストにあってという意味理解されていますか?
      "すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
      神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
      それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。"
      エペソ人への手紙 1章 4〜6節
      1予定説の話ではありません。
      この方にあって私たちを選び=キリストにある救いの計画の話です。
      キリストにあって、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(信じる人を救う計画の話です)
      選ばれているから信じるという話ではありません。
      2私たちをイエス・キリストによってと書いてある、
      世界の基が据えられる前から神が計画された十字架の救いの話です。選ばれていて救われるの話ではありません。
      信じるものを十字架を通して救う話です。
      3愛をもってあらかじめ定めておられました。
      十字架の愛です。あるものを救い、あるものを滅ぼす愛ではありません。十字架にかかられた愛です。
      4神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
      その愛する方にあってです。
      神は愛する方(イエス様)にあって、私たちに与えてくださった恵みの話です。
      予定説は聖書から説明できません。そんなこと聖書に書いてないです。改革は神学ではなく、聖書を学びましょう。
      カルビニズムはアウグスティヌスの哲学です。

  • @shinichiyabuki-sigma2925
    @shinichiyabuki-sigma2925 7 місяців тому

    予定説などは まったく意味合いをなしていません。それは、キリストを信ずれば その先のことが予定されているという意味です。仮定が まったく間違っています。神が 生まれる前から 人の予定を 決定していることなどありえません。

  • @askz5889
    @askz5889 3 роки тому +1

    聖書には予定説を説明していない(書いていない)。いま予定説が重要ならばそれを聖書に書くべきだ。

    • @JapanMissionChannel
      @JapanMissionChannel  3 роки тому +3

      コメントありがとうございます😊
      動画でも触れているかと思いますが、「予定」というコンセプトは聖書全体を通して記述されています。また、聖書は「閉じられた正典(Closed Canon)」であって、記述を足したり引いたりできるような類の書物ではないとみなされています。

    • @askz5889
      @askz5889 3 роки тому

      @@JapanMissionChannel 旧約聖書の神は=イエス。神は言ってません。イエスも言ってません。霊も言ってません?誰が言ってるのでしょうか?
      「聖書は記述を足したり引いたりできるような類の書物ではないとみなされています。」⇒確かに言われることは分かります。でも今は、お互いに利用しているインターネットは毎日自動更新している時代です。なぜ「聖書」に何も削除変更追加を禁止したのか考えたことありますか?

    • @JapanMissionChannel
      @JapanMissionChannel  3 роки тому +4

      ご返信ありがとうございます😊
      ヨハネによる福音書1章1節では「言は神であった」と述べており、この箇所において「言(logos)」がイエスを指していることは文脈から明確です。また、イエスは「救い主(メシア)」として記述されていますが、旧約聖書における「メシア預言」では
      、メシアが神自身であることが記されています。「イエスは神であり人である(二性一人格)」という考えが教会において公式に採用されたのは聖書が記された後ですが、これが「聖書全体の記述の必然的な帰結」であることは当時の議論を見てみても明らかではないかと思います。
      「なぜ「聖書」に何も削除変更追加を禁止したのか」この点に関しては聖書の成り立ちの歴史を知れば理解が深まるかと思いますので、まずはこちらの動画をご視聴頂ければ幸いです→ua-cam.com/video/V84rSEwcpGY/v-deo.html

  • @eiichiito926
    @eiichiito926 3 роки тому

    14万4千人は選ばれてはいるが、大群衆は選ばれてはいない。天に行く人以外は救われ無いと言うのも間違いで。それでもそう言う改革派の予定説の正統主義の宗教を信じる自分の選択も、自己でその宗教でを選択することも、自業自得で。最後は自業自得で。自分の自己の責任で。予定説で会衆から追い出すことも会衆外はゲヘナであることをも信じていないことは自己の罪で。人殺しはゲヘナに故意に自分は繋ぐとか。人殺し、人殺しで!!人をゲヘナに定めたんだとか。それ位でしょうか、その位です。