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学校帰りに時々この路線横を歩いて帰りました。当時は小学生でした。過去51系には二度乗りましたが、今では懐かしい思い出です。そして国鉄川西池田駅では蒸気機関車や特急まつかぜを見て鉄道に興味を持ちました。あの頃川西能勢口にジャスコがオープンし 、最上階のレストラン21でハンバーグとエビフライ、ポテトサラダの付いた21ランチを食べるのが楽しみでした。
ご視聴ありがとうございます。川西能勢口駅も地上にあり、51形が昼寝をしていたのを記憶しています。引き続きよろしくお願い致します。
三年前の動画ですか…つい2週間前に夕方の番組にてこの廃線跡が紹介されていました。なんでも、平野にあった【三ツ矢サイダー】の工場から国鉄貨物への輸送に使われていたみたいですね~最盛期にはこの路線の運営費のほとんどが【三ツ矢サイダー】で賄われていたらしいです。この路線がもし【狭軌】で敷設されていたら…と考えてしまいました。
路線が必要な距離でも無いので元々は能勢電本線の一部だったんでしょうか?凄い変わりようは東京の玉電と重なるところがあります。
当時は国鉄の川西池田駅でした。朝と夕方だけ運転してましたね。私が中3のときに廃止になり、ファイナル電車に乗りました。そのときの写真もきっぷもどっかにいってしまいました。また、当時は宅配便なんてなかったから、郵便で運べない大きい荷物は国鉄貨物で送られて、ときどき川西池田駅まで取りに行ったことがありました。
川西能勢口~川西国鉄前。一区間を一両で走る。廃線になって来年で40年になります。小学生の時見た記憶があります。
宝塚方面に阪急で行く際に、川西能勢口で横に青い小さな電車が止まっていたのを覚えています。いつの間にか高架化され、青い電車もいなくなっていました。1981年だったんですね。
5:38の線路左側のスペースに国鉄から引き込まれた線が有り、貨物の荷を積み替えていた場所のようでした🤔更にこの盛り土ホームの右側にも線路跡が有り、結構大きな駅だったみたいですね😍ちなみに廃線日が決まる前までの晩年は、車止めや車止標は無く角材がレールに針金で着けられた酷く粗末なモノで画像の脱輪を受けるバラストも無く、突っ込めば国道176号まで行きそうでしたネ😁
何故この短い路線があったのかというと、元々川西池田駅は現在の場所とは違い、五郷橋の辺りにありました。ちょうど今のオートバックスがある辺りです。目的は上流付近で切り落とした材木を猪名川で運び、列車で運送するためでした。だから当時の川西駅と川西能勢口ではかなりの距離があって、それなりに需要がありました。そして色々様々な理由にて現在の場所に移転するときに北伊丹駅が作られ、川西駅から川西池田駅に名称が代わりました
はるか昔、国道176に国鉄と能勢電の国鉄前を結ぶ線路が埋まっていました。
地元民ですが廃線跡は阪急電車鉄橋下まででそこからの道路は川でした。げんざいの栄南団地の敷地内を鉄橋下から現川西池田駅へまっすぐのびてたと記憶してます。わたしはその川のほとりで基地をつくって遊んでたので鮮明に覚えてます。朝と夕方しか動いてないでなかったですね。「ユウモ」という駄菓子屋さんが駅前にありました。懐かしいです。有難うございました。
能勢口駅に停まっていた白青のツートンカラーの電車、一度乗ってみたかったです。176号線に能勢電の線路が埋まっていたのも覚えています。今の川西池田駅付近には貨物の停車場がありました。小学校の修学旅行は貨物線に停まった臨時列車に乗って伊勢まで行きました。
40数年前、中学校の修学旅行の時に、多田か平野から川西能勢口まで能勢電で行って、そこから川西池田まで一度だけこれに乗った記憶がある。そこから民営化前の国鉄で新大阪まで行って、新幹線の修学旅行専用車両で東京まで行った。
わたしも中学の修学旅行の時に乗りました!新幹線に川西川辺連合中学校と書いてあったような気がします。記憶違いだったらすみません。もしかして、市内の中学が何校か一緒に乗ったのでしょうか?当時は生徒も多かったし、それはあり得ないですか。
@@いち-u1i お返事遅くなりました。一緒に乗ったかどうかは記憶にありませんが、修学旅行先で川西市内の他の中学校の生徒の集団と出くわした事があり、市内の中学校が何校かで同じ新幹線に乗った可能性は十分にあると思います。
昔、バーガーロックというハンバーガーがあり、そのビルには市川歯科があり、かかりつけでした。先生は大阪大学出身のインテリでした。
懐かしいです。駅前の、中華料理屋、「 珉王」も、覚えています。
@@公男西良 珉王さんは今、アステにテナントで入ってますよ。以前、甥っ子が働いてました。
この線が無くなる少し前の国鉄川西駅には少し前まで福知山線を走っていた蒸気機関車用の練炭が置いてありましたね。DD54と51号が横並びになったのを思い出します。
当時小学生。毎週日曜日、この50形を車の中から踏切越しに見ながら西友に買い物に連れて行ってもろてたわ。毎回必ず車酔いしてゲロ吐いてたなぁ…
阪急とこの路線の隙間に鳥獣店があって良く鳥の餌買いに行ってましたw
ここに線路があった事は何かの資料で見た事があります。昭和48年前後に、ここの西友やかつてあったジャスコに阪急バスで来てましたが、実際に見た記憶がないんです。能勢口駅が高架駅になったのは平成に入ってからだったかな?廃線跡は2〜3度車で通りました。それにしても西友前の宝くじ売り場の音声がデカイわ😅。
一度だけ乗りました。本数がなく、待ちに待ちましたが、良かった🚃💨
時代に取り残された路線だった。歩いて行ける距離に必要な時にこない電車が走っていた。
当時ジャスコの8階からミックスジュースを飲みながら見てました‼️(笑)👍
元々能勢電は阪鶴鉄道池田駅(現、JR福知山線川西池田駅)に乗り入れる計画であったので、当初は軌間も狭軌の1067mmを予定していたそうです。でもそんなことをされると繁栄を奪われると隣りの池田の商人達に猛反対されて結局起点も能勢口駅(現、川西能勢口駅)になり、ついでに接続することになった箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線)と同じ1435 mmの標準軌になったそうです。まあいわば邪魔された結果でそうなりましたが、もし狭軌を採用していたら、路線や車両の近代化や沿線の開発も更に遅れてたでしょうし、もう一つ付け加えるなら現在阪急と直通する特急日生エクスプレスも誕生しなかったことになります🙂🚋🛤️
人口たかだか15万人弱の町なのにこれだけ立派な鉄道網があったのが奇跡的ですね。おかげで今もなんとか活気があるんでしょうけど。能勢電のほとんどは猪名川や能勢の人たちかもしれないけど。
今近くに住んでるからなんか嬉しい
この路線があったころ、川西能勢口周辺はボロボロのバラックが立ち並ぶ小さなスラムでした。当時は池田のほうが都会でしたが、今は逆転しています。
とても懐かしいです。ありがとうございました。ここの線路は遊び場でした(笑)
1981年…僕が幼稚園でブルマ穿いて走り回ってた時だ💧
川西能勢口駅~川西国鉄駅前の廃線跡で連想したのが、JR学研都市線(片町線)の京橋~片町駅間。JR学研都市線(片町線)の大阪側の終点は片町駅でしたが、JR東西線が開通し大阪城北詰駅が出来たことで片町駅が廃駅になり京橋~片町駅区間も廃線になりました。今はどうなっているか…。
51型の上を宝塚に向けて登坂する3107の新車時の写真があります。国道を渡って後100m川西池田に寄っていれば利用者もあったのでは…
はい、居ました親父から聞いた話しですが戦中は線路上を歩いて帝鉄(現JR)の貨物列車の食料を取って生き延びたって言ってました今は亡き祖母が取っていたと言いました国も見て見ぬふりをしていたのだと思います、流石に白米を取るダメたったみたいですけど白米の磨ぎ汁は良かったみたいです白米は配給制で一家族に一合あるかないかの配給制だったみたいです、それも配給券が無い家族には貰えなかったそうです、現代って良すぎるのではないでしょうか・゜・(つД`)・゜・
熱血さん、3000系かなと思ったら‥よくそこまでお分かりになりますね!新車ということは1966年当時ですか。加須さん、貴重なお話をありがとうございます。川西の戦中など知る由もありません。戦後ののどかな?白黒写真を知るのみで。何でもここは能勢電が平野から湧いて出た(三ツ矢サイダー)の炭酸水を運ぶ貴重な収入源だったそうですね。私が子供の頃、51系がリーマンの人達を満載して朝夕よたよた走ってたのを覚えてます。川西駅から川西池田までほんの一駅なのに、わざわざこんな電車に寿司詰めにならなくとも歩けばいいのにと子供心に思ってました。そういえば61系という錆びだらけの兄弟が能勢口駅に泊まっていたのを数回見た記憶がありますが、こちらは走ってるのを見たことはないです。いずれにせよ気づいたら無くなっていた路線で、阪急の大昔のご先祖車両が現役で見れる貴重な機会だと当時から思ってました。路線跡地の周囲が今はマンションだらけですが、昭和当時はだだっ広い草野球グランドが広がるだけで、土日は草野球チームがのほほんと練習してたのを阪急の橋梁(震災前は確か茶色)から良く眺めてた気がします。時代はすっかり変わりましたね。奇麗に機能的になったが、何だかどこもびっしりで狭(せま)苦しい。
現在の川西池田駅は元々、貨物列車の配送基地で栄南団地には日通があったと記憶しています。旧川西池田駅は現在の駅よりも300m西にありました。現在の寺畑1交差点付近です。この駅がなぜ存在したのかわかりません、私の推測ですが能勢電鉄の平野駅から三ツ矢サイダーを大正天皇に献上していたと聞いた事があるので、貨物駅まで運び東京へ輸送していたとなると、この駅は重要な駅だったかもしれません。
その前はちょうど今のオートバックス辺りに川西駅としてありましたよ。理由は上流付近で材木の伐採後運搬を猪名川を利用してそのまま貨物列車で運ぶという一般庶民はあまり利用されない駅でした。その後色々様々な理由にて川西駅が移転する事になります。大きな理由として天災です。
全く、川西とは何の縁もないものですが、当時、川西能勢口で乗り換えてたのですか?
旧川西能勢口駅ホームの北西の専用線にポツンと一両だけいつも止まっていた51と61が交代で一日数回動いていていました。
あったあった懐いな超地元民やけど1回も乗らずに終わったわ場所的にも距離的にも使う理由がなかったからなぁでも今阪急川西能勢口駅とJR川西池田駅を結ぶ空中回廊があってそこを歩くとイライラするからな存在価値があったのかもな
あの陸橋長いですよね 一旦 施設の中入って また外に出るのも 面倒だし、屋根が片方にしか無いから 雨の時 集中して混みますし。
上空からの写真だと痕跡が判りやすいですね。爺的な印象ですが、80年代になると今と街並みは大して変わらないな…と思っていましたが、廃線跡ではガラっと様変わりするのですね。
この路線は、西武安比奈線より先に廃止ですね
一番近くに廃線を忘れていました因みに鼓滝駅の1つ前にも駅はありました判りますか(`・∀・´)
そういえば突然思い出しました。能勢電のどこかの車両基地に61系(ボロボロの錆びだらけ状態)がポツンと置かれていたのを。色白なので子供心に寒そうで気の毒に見えましたね。
@@tora-tora-s44 す
@@tora-tora-s44 失礼しました。改めて。やはりその車両も解体されてしまったのでしょうか?出来ることなら元祖能勢電鉄車両として1両だけでも保存展示していてほしかったですね。
矢問駅です。
矢問駅です
川西能勢口駅の地上時代は、もう少し東にあったはず。
大昔は足の早い人は電車に勝ったみたいです因みに殆どの人は勝ったみたいです( ・∀・)
加須賀秀二 福知山線が単線時代には今より離れていたので国鉄駅前を先に延し横ずけして川西池田発の直通運転をしてたら廃止されなかったとおもいます。廃止の駅は矢問駅ですか?
学校帰りに時々この路線横を歩いて帰りました。当時は小学生でした。過去51系には二度乗りましたが、今では懐かしい思い出です。そして国鉄川西池田駅では蒸気機関車や特急まつかぜを見て鉄道に興味を持ちました。
あの頃川西能勢口にジャスコがオープンし 、最上階のレストラン21でハンバーグとエビフライ、ポテトサラダの付いた21ランチを食べるのが楽しみでした。
ご視聴ありがとうございます。
川西能勢口駅も地上にあり、51形が昼寝をしていたのを記憶しています。
引き続きよろしくお願い致します。
三年前の動画ですか…
つい2週間前に夕方の番組にてこの廃線跡が紹介されていました。
なんでも、平野にあった【三ツ矢サイダー】の工場から国鉄貨物への輸送に使われていたみたいですね~
最盛期にはこの路線の運営費のほとんどが【三ツ矢サイダー】で賄われていたらしいです。
この路線がもし【狭軌】で敷設されていたら…と考えてしまいました。
路線が必要な距離でも無いので元々は能勢電本線の一部だったんでしょうか?凄い変わりようは東京の玉電と重なるところがあります。
当時は国鉄の川西池田駅でした。朝と夕方だけ運転してましたね。私が中3のときに廃止になり、ファイナル電車に乗りました。そのときの写真もきっぷもどっかにいってしまいました。
また、当時は宅配便なんてなかったから、郵便で運べない大きい荷物は国鉄貨物で送られて、ときどき川西池田駅まで取りに行ったことがありました。
川西能勢口~川西国鉄前。
一区間を一両で走る。
廃線になって来年で40年になります。
小学生の時見た記憶があります。
宝塚方面に阪急で行く際に、川西能勢口で横に青い小さな電車が止まっていたのを覚えています。
いつの間にか高架化され、青い電車もいなくなっていました。1981年だったんですね。
5:38の線路左側のスペースに国鉄から引き込まれた線が有り、貨物の荷を積み替えていた場所のようでした🤔更にこの盛り土ホームの右側にも線路跡が有り、結構大きな駅だったみたいですね😍ちなみに廃線日が決まる前までの晩年は、車止めや車止標は無く角材がレールに針金で着けられた酷く粗末なモノで画像の脱輪を受けるバラストも無く、突っ込めば国道176号まで行きそうでしたネ😁
何故この短い路線があったのかというと、元々川西池田駅は現在の場所とは違い、五郷橋の辺りにありました。ちょうど今のオートバックスがある辺りです。目的は上流付近で切り落とした材木を猪名川で運び、列車で運送するためでした。だから当時の川西駅と川西能勢口ではかなりの距離があって、それなりに需要がありました。そして色々様々な理由にて現在の場所に移転するときに北伊丹駅が作られ、川西駅から川西池田駅に名称が代わりました
はるか昔、国道176に国鉄と能勢電の国鉄前を結ぶ線路が埋まっていました。
地元民ですが廃線跡は阪急電車鉄橋下まででそこからの道路は川でした。げんざいの栄南団地の敷地内を鉄橋下から現川西池田駅へまっすぐのびてたと記憶してます。わたしはその川のほとりで基地をつくって遊んでたので鮮明に覚えてます。朝と夕方しか動いてないでなかったですね。「ユウモ」という駄菓子屋さんが駅前にありました。懐かしいです。有難うございました。
能勢口駅に停まっていた白青のツートンカラーの電車、一度乗ってみたかったです。176号線に能勢電の線路が埋まっていたのも覚えています。
今の川西池田駅付近には貨物の停車場がありました。小学校の修学旅行は貨物線に停まった臨時列車に乗って伊勢まで行きました。
40数年前、中学校の修学旅行の時に、多田か平野から川西能勢口まで能勢電で行って、そこから川西池田まで一度だけこれに乗った記憶がある。そこから民営化前の国鉄で新大阪まで行って、新幹線の修学旅行専用車両で東京まで行った。
わたしも中学の修学旅行の時に乗りました!新幹線に川西川辺連合中学校と書いてあったような気がします。記憶違いだったらすみません。もしかして、市内の中学が何校か一緒に乗ったのでしょうか?当時は生徒も多かったし、それはあり得ないですか。
@@いち-u1i お返事遅くなりました。一緒に乗ったかどうかは記憶にありませんが、修学旅行先で川西市内の他の中学校の生徒の集団と出くわした事があり、市内の中学校が何校かで同じ新幹線に乗った可能性は十分にあると思います。
昔、バーガーロックというハンバーガーがあり、そのビルには市川歯科があり、かかりつけでした。先生は大阪大学出身のインテリでした。
懐かしいです。駅前の、中華料理屋、「 珉王」も、覚えています。
@@公男西良 珉王さんは今、アステにテナントで入ってますよ。以前、甥っ子が働いてました。
この線が無くなる少し前の国鉄川西駅には少し前まで福知山線を走っていた蒸気機関車用の練炭が置いてありましたね。DD54と51号が横並びになったのを思い出します。
当時小学生。
毎週日曜日、この50形を車の中から踏切越しに見ながら西友に買い物に連れて行ってもろてたわ。
毎回必ず車酔いしてゲロ吐いてたなぁ…
阪急とこの路線の隙間に鳥獣店があって良く鳥の餌買いに行ってましたw
ここに線路があった事は何かの資料で見た事があります。昭和48年前後に、ここの西友やかつてあったジャスコに阪急バスで来てましたが、実際に見た記憶がないんです。能勢口駅が高架駅になったのは平成に入ってからだったかな?廃線跡は2〜3度車で通りました。それにしても西友前の宝くじ売り場の音声がデカイわ😅。
一度だけ乗りました。本数がなく、待ちに待ちましたが、良かった🚃💨
時代に取り残された路線だった。歩いて行ける距離に必要な時にこない電車が走っていた。
当時ジャスコの8階からミックスジュースを飲みながら見てました‼️(笑)👍
元々能勢電は阪鶴鉄道池田駅(現、JR福知山線川西池田駅)に乗り入れる計画であったので、当初は軌間も狭軌の1067mmを予定していたそうです。でもそんなことをされると繁栄を奪われると隣りの池田の商人達に猛反対されて結局起点も能勢口駅(現、川西能勢口駅)になり、ついでに接続することになった箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線)と同じ1435 mmの標準軌になったそうです。まあいわば邪魔された結果でそうなりましたが、もし狭軌を採用していたら、路線や車両の近代化や沿線の開発も更に遅れてたでしょうし、もう一つ付け加えるなら現在阪急と直通する特急日生エクスプレスも誕生しなかったことになります🙂🚋🛤️
人口たかだか15万人弱の町なのにこれだけ立派な鉄道網があったのが奇跡的ですね。おかげで今もなんとか活気があるんでしょうけど。能勢電のほとんどは猪名川や能勢の人たちかもしれないけど。
今近くに住んでるからなんか嬉しい
この路線があったころ、川西能勢口周辺はボロボロのバラックが立ち並ぶ小さなスラムでした。
当時は池田のほうが都会でしたが、今は逆転しています。
とても懐かしいです。ありがとうございました。ここの線路は遊び場でした(笑)
1981年…僕が幼稚園でブルマ穿いて走り回ってた時だ💧
川西能勢口駅~川西国鉄駅前の廃線跡で連想したのが、JR学研都市線(片町線)の京橋~片町駅間。
JR学研都市線(片町線)の大阪側の終点は片町駅でしたが、JR東西線が開通し大阪城北詰駅が出来たことで片町駅が廃駅になり京橋~片町駅区間も廃線になりました。
今はどうなっているか…。
51型の上を宝塚に向けて登坂する
3107の新車時の写真があります。
国道を渡って後100m川西池田に
寄っていれば利用者もあったのでは…
はい、居ました親父から聞いた話しですが戦中は線路上を歩いて帝鉄(現JR)の貨物列車の食料を取って生き延びたって言ってました今は亡き祖母が取っていたと言いました国も見て見ぬふりをしていたのだと思います、流石に白米を取るダメたったみたいですけど白米の磨ぎ汁は良かったみたいです
白米は配給制で一家族に一合あるかないかの配給制だったみたいです、それも配給券が無い家族には貰えなかったそうです、現代って良すぎるのではないでしょうか
・゜・(つД`)・゜・
熱血さん、3000系かなと思ったら‥よくそこまでお分かりになりますね!新車ということは1966年当時ですか。
加須さん、貴重なお話をありがとうございます。川西の戦中など知る由もありません。戦後ののどかな?白黒写真を知るのみで。何でもここは能勢電が平野から湧いて出た(三ツ矢サイダー)の炭酸水を運ぶ貴重な収入源だったそうですね。私が子供の頃、51系がリーマンの人達を満載して朝夕よたよた走ってたのを覚えてます。
川西駅から川西池田までほんの一駅なのに、わざわざこんな電車に寿司詰めにならなくとも歩けばいいのにと子供心に思ってました。
そういえば61系という錆びだらけの兄弟が能勢口駅に泊まっていたのを数回見た記憶がありますが、こちらは走ってるのを見たことはないです。いずれにせよ気づいたら無くなっていた路線で、阪急の大昔のご先祖車両が現役で見れる貴重な機会だと当時から思ってました。
路線跡地の周囲が今はマンションだらけですが、昭和当時はだだっ広い草野球グランドが広がるだけで、土日は草野球チームがのほほんと練習してたのを阪急の橋梁(震災前は確か茶色)から良く眺めてた気がします。時代はすっかり変わりましたね。奇麗に機能的になったが、何だかどこもびっしりで狭(せま)苦しい。
現在の川西池田駅は元々、貨物列車の配送基地で栄南団地には日通があったと記憶しています。旧川西池田駅は現在の駅よりも300m西にありました。
現在の寺畑1交差点付近です。
この駅がなぜ存在したのかわかりません、私の推測ですが能勢電鉄の平野駅から三ツ矢サイダーを大正天皇に献上していたと聞いた事があるので、貨物駅まで運び東京へ輸送していたとなると、この駅は重要な駅だったかもしれません。
その前はちょうど今のオートバックス辺りに川西駅としてありましたよ。理由は上流付近で材木の伐採後運搬を猪名川を利用してそのまま貨物列車で運ぶという一般庶民はあまり利用されない駅でした。その後色々様々な理由にて川西駅が移転する事になります。大きな理由として天災です。
全く、川西とは何の縁もないものですが、当時、川西能勢口で乗り換えてたのですか?
旧川西能勢口駅ホームの北西の専用線にポツンと一両だけいつも止まっていた51と61が交代で一日数回動いていていました。
あったあった懐いな
超地元民やけど1回も乗らずに終わったわ場所的にも距離的にも使う理由がなかったからなぁ
でも今阪急川西能勢口駅とJR川西池田駅を結ぶ空中回廊があってそこを歩くとイライラするからな
存在価値があったのかもな
あの陸橋長いですよね 一旦 施設の中入って また外に出るのも 面倒だし、屋根が片方にしか無いから 雨の時 集中して混みますし。
上空からの写真だと痕跡が判りやすいですね。
爺的な印象ですが、80年代になると今と街並みは大して変わらないな…
と思っていましたが、廃線跡ではガラっと様変わりするのですね。
この路線は、
西武安比奈線より先に廃止ですね
一番近くに廃線を忘れていました
因みに鼓滝駅の1つ前にも駅はありました判りますか(`・∀・´)
そういえば突然思い出しました。能勢電のどこかの車両基地に61系(ボロボロの錆びだらけ状態)がポツンと置かれていたのを。
色白なので子供心に寒そうで気の毒に見えましたね。
@@tora-tora-s44 す
@@tora-tora-s44
失礼しました。改めて。
やはりその車両も解体されてしまったのでしょうか?出来ることなら元祖能勢電鉄車両として1両だけでも保存展示していてほしかったですね。
矢問駅です。
矢問駅です
川西能勢口駅の地上時代は、もう少し東にあったはず。
大昔は足の早い人は電車に勝ったみたいです因みに殆どの人は勝ったみたいです
( ・∀・)
加須賀秀二
福知山線が単線時代には
今より離れていたので
国鉄駅前を先に延し横ずけして
川西池田発の直通運転を
してたら廃止されなかった
とおもいます。
廃止の駅は矢問駅ですか?