【ゆっくり解説】見て嘔吐!?第二次世界大戦時の各国の食事【歴史】
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- Опубліковано 14 кві 2023
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今回は、日本も関係した第二次世界大戦時の食事について解説します。
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※このチャンネルの動画は歴史の食事に関するニュースをわかりやすく解説し、
皆さんに歴史の中での食に関することを共有する為の教育的コンテンツです。
#ゆっくり解説 #第二次世界大戦 #食事 #昭和初期
#気軽にコメントしていってね
「贅沢は敵だ」→「贅沢はステキ(ステーキ)だ」
「欲しがりません勝つまでは」→「欲しがりませんカツまでは」
なる言い替えが陰で流行った由。
贅沢は素敵だ?
@@Kusoinu は?
敗戦で全部奪われたなぁ…。😅
当時もポスターに「素」を書き足すと言う落書きが見られたらしいです
UA-cam「板門店逮捕」南北殺しあい未だに70年も休戦ラインある分断状態コリアのほうがヤバい!
戦闘状態!現在進行形!
父方の祖母は戦時中に娘時代を過ごしました。
食べるものがあるだけありがたいとか、不味くても感謝して食べなさいなどのうわべの言葉を嫌っておりました。
「美味しいということはとても大切なこと。美味しいねと言いながら食べるご飯は本当に幸せだと思うよ。」
「栄養が摂れるだけで味は二の次になってしまうと、野生動物や家畜の餌と同じになってしまう。」
「美味しいと感じられるのは心にも良いものだよ。」
常々このようなことを語っていました。
幼い頃は祖母のこの発言がいまいちわかりませんでしたが、自炊するようになってからは理解出来るようになりました。
確かに食べ物があるだけありがたいですが、食事を楽しんで美味しいと感じながら食べられることは大切なことだな…。と。
戦争を知っている世代だからこその、深い言葉だなと改めて思いました。
亡くなった祖父は基本何でも食べる人だったんですが、すいとんだけは嫌いでどうしてかと聞いたら「戦時中に一生分食べた、思い出したくないことも思い出す。食べたくない」と言っていたのを思い出しました
個人的に学校給食のすいとんも酷かったですね…餓死寸前でも拒否るレベル😱
そんなあなたに
「シャウ エッ セン」
トラウマに成る程、強烈な記憶だったんだな…。😅
忌まわしい記憶と一緒に刷り込まれた味か。
平和のおかげで旨いめしが食えてることに改めて感謝してみるわ。
@@gonst8174 私の場合、学生時代がイジメとマズい給食(小学校のみ)との闘い…戦争と同じとまでは言わないが…そう考えると給食無くなりイジメも激減した今の平和さに感謝します神様😄
「この世界の片隅に」での食事を作ったり食べるシーンは明るく描かれていたけど、あんなに明るく振る舞えた家庭はきっと少なかったよね。
場所によるよなぁ。
百姓はまぁ何とか死なない程度に食べれたそうですが…
栄養失調で亡くなる人もそれなりに居たとも聞きましたから厳しかったのは間違いないと思いますね!
楠公飯って「この世界の片隅に」で作られてましたね。
@@rs237osaka2 さん!俺の母ちゃんは土地持ちの農家だったから年貢?で米は困らなくて自分で畑を耕してネギ作って庭で鶏を飼って育ったら自分で〆て捌いてすき焼き作ったと言ってた
農家の祖母の話ですが1945年は不作で帰還兵で人が増えて食料の不足度は戦争中より戦後すぐだったそうです
闇市に手を出さず栄養失調でお亡くなりになった方もいたそうです…
山口判事ていましたよね
@@user-ne5ye4uj5y ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%89%AF%E5%BF%A0
闇米に手を出した者を温情的に裁きつつ、自身は決して手を出さず汁だけの粥をすすって激務に励み、肺結核でお亡くなりになったそう
なんとなくだけど、今の世の中で根性論が嫌われる理由がわかった気がする
昔見たドラマで戦後の日米の役人同士の交渉シーンでアメリカ側が紅茶と一緒に出したクリームのたっぷり乗ったケーキを見て
日「これは特別な時に食べる料理なんですか?」
米「ごく普通のケーキですが」
日「じゃあアメリカの人は毎日こういうのを食べているんですか」
米「毎日かはともかく大概の家庭では普通に食べる事が出来ますよ」
日「…日本が勝てる訳ないわけだ…😢」
って会話がありました
山本五十六は新潟県出身のくせに酒がダメな甘党で、駐米武官時代にレストランに入ると
「いくら使ったって値段は変わらないんだから、できるだけアメリカの物資を消耗させてやるんだ」
と、コーヒーにどっさり砂糖を入れていたそうです。
その東京大空襲のドラマで、日本側の役人は仲村トオルだったと思います。
食材も圧倒的物量勝負かよ‼️。
(*´・ω・`)b
バルジ大作戦の中でアメリカ兵の捕虜が母親が作ったケーキ(保存出来るやつ)を息子へ送ってたという場面があってアメリカはそれくらい補給に余裕があったと言うのがありました。現場の指揮官はそれを恐ろしいと自覚するもこの作戦の総指揮官はそれがなんだとの表情してた!
@@user-fo7ig9vh3m さん役所広司が山本五十六を演じた作品で新潟の水まんじゅうを美味しそうに食べている場面がありました。まんじゅうに砂糖をかけて氷をのせてから冷水をかけるもので美味しそうに役所広司が食べていましたね
私の祖父は、中国戦線に行っていたが、農家の長男だったので、上官から「俺たちの食糧を作れ」と言われ帰還させられたそうです。
その後その部隊が全滅したので命の恩人と言ってました
ちなみにどこの部隊かな?中国戦線で部隊が引き抜かれたのかな?😂中国戦線で玉砕した部隊はひとつもないのだがね
ちなみに雲南省はビルマ戦域だからな
@@prague1534 父から聞いた話ですので、詳細な事は不明なんですが、そのように話していました。
上官が春日井市出身で、祖父は小牧市なので出身地が近く、その縁で書類に病気と書かれて、帰還した様です
もしかしたら…この先、生きて帰れない可能性があり上官さんの地元に近いお父様を生きて帰らしてあげようと思ったかもしれませんね。
農家の長男という事も未来を思ったのかもしれませんね。
@@prague1534 玉砕なんてどこにも書いてないじゃないか。でたらめ書くな
大陸打通作戦で全滅したのか、別の戦線に転属したのかもしれませんね。
隊長さんは何か予感がしたんですかね…
子供の頃、市内各デパートではよく「戦争展」がありました。ガッツリ昭和だから、実物展示や実物販売メインで、試食もありました。「フスマパン」。籾殻とカボチャです。籾殻なんて、食えたもんじゃなかったですが、隣のおばちゃんが「当時はこんなにカボチャ入ってなかったね」と染々呟いていたのを、今でも覚えています。
フスマは便秘の特効薬 ケロッグのあれ食べると翌日気持ちよく出ます 薬だと思わないと食べれません 不味くて
😂🎉
今でもやって欲しい!!
お試しだから食べやすくしたんだろうけど、スタッフの人気まずくなってそう
家の親父はコレのおかけでカボチャは絶対食わんかった。カボチャの煮物、天ぷらを出すと機嫌悪くなったんだよね
カボチャ可哀想
そういえば原作のサザエさんで芋の天ぷらが夕飯で波平が怒る場面がありました。芋の天ぷらがおかずにならないだけではなくて食べ飽きたせいかも知れないですね。
配給に良くある誤解としては、タダで配られたと思ってしまうことがありますね。要するに割り当て販売なので、お金は払います。統制価格なので暴騰はしませんが。この統制価格は「標準価格米」として近年まで残っていましたね。
水木しげる先生も晩年まで食に対して貪欲でよく食べてよく寝るの徹底してた理由わかる気がしますね、南方戦線に送られて生死の境彷徨ったりしたらそりゃ…
さつまいものツルのきんぴらは現代でも十分通用するくらいに美味しいです。下処理がとても大変なのが欠点ですがそれがなければ普通に一般的な料理として認知されていたのかもと思います
とある本に書いてあったのですが、アメリカ軍は補給が維持の基準を最前線の兵士に温かいスープが供給されているかどうかを基準にしていたそうです。常に食料不足に悩まされていた日本兵にとっては贅沢な話です。😭
アメリカの兵士は「最前線」でも敵と弾を撃ち合いながら「温かい」スープを供給していたのか?😂そんな話、聞いたことがないがな😂できれば参考文献を教えていただけるかな?君の妄想の基準でいけばアメリカの将兵は補給が維持されていなかったことになるがね
一応日本軍も食事には気を使ってた。特に牛肉の大和煮は鹵獲した米兵に大好評だったそう。補給が厳しいのは輸送船の護衛不足や攻勢限界点を越えての進撃が原因
戦争を継続するためには継戦能力が重要です。今の自衛隊も燃料弾薬が一月分もないらしいです。ちなみに壊れた武器を修理して前線に送り届けて、再利用もできないらしいです。1発撃って終わりの打ち上げ花火みたいですね。
ヨーロッパ戦線だと母親が作ったケーキを前線の息子に送ればちゃんと届いたとか
冷たい物(災害時なら配られるコンビニおにぎりや菓子パン)や保存食しか食べられないと、次第に心が荒んでくるのだと思います。すると士気の低下、規律違反や戦闘の敗北に繋がります。日本軍は規律で縛り付けて何とかしていた感じですが、末期は崩壊した事例が見られるようになります。
戦後すぐの学校のお弁当でトンカツ持って行っていた婆ちゃんはかなり贅沢だったんだな
すごいなそれ
肉も油も高そう
レーションは美味しく作ると兵士が平時に食べてしまうので
飢え死にの危機が訪れそうな局面まで封を開けないように、
わざと不味く作ったと聞いたことがあります。
ドイツ軍も当初勢いが良かった攻勢時には部隊に精肉部隊がついててその辺から(無理やり)集めた家畜を屠殺して精肉にしてソーセージやハム、ベーコンに加工して前線の調理部隊に渡していたそうです。無論精肉部隊にはハム、ソーセージ等の職人を選抜していたそうです。とにかく使えるものはなんでも加工して骨もスープにしたり家畜の皮はドイツ本国へ送り返して靴などに加工されてたとか
かぼちゃの煮付けは今でも食べてる。甘くて豆腐みたいにサッて感じの食感がする。かぼちゃの煮付けは美味しい。ひいおばあちゃんはまだ元気に生きてる(今で94歳)戦争時のことを話してくれる。貴重な話…
昔のかぼちゃは今のみたいに甘くなかったみたいです。
昔のかぼちゃに近いものを食べたことあるけど、食感だけは馴染みのあるものだったけど、味が全くしなくて酷いものだったな
ウチの父親の話で恐縮だが、昭和18年生まれの父親は1歳の頃に喉を悪くして手術しないといけなくなった。その時祖父(父親の父親)は医者に現金ではなく米と酒を持っていったら喜んで手術してくれた。実は米農家だったため使えた裏技だった。
これは別の話だが、都会では庭どころか道路の緑地帯までカボチャやさつまいもなどの代用農園が花盛りだったが、中には家にニワトリを飼って卵を毎日交代で食べていたところもあったそうな。
一方アメリカでも一般家庭は日本ほどではなかったが砂糖は配給制になり、食品メーカーも国防総省御指定のメーカー以外は操業の縮小もしくは停止に追い込まれている。その最たる例がペプシ(砂糖の供給が止められてペプシが作れなくなった)。ただ前線の日本兵は大東亜戦争初期に米軍が遺棄した物資の中にディズニーのカラーアニメを見て「こんな国と戦争しているんだよこれ絶対勝てねえだろ」って思ったそうだが。
白雪姫ですね。確か映画関係者が観て驚愕したそうです。
あと、押収した風と共に去りぬを侵略見た兵士は英語がわからないが、カラー映像と100年近く前でも田舎の日本に比べたら、アメリカの生活の方が豊かに見えて驚愕したらしい。
70年前のニューヨークの写真、今とほとんど変わらないよ…。😅(笑)
お酒は戦時中だし米農家だから自作のどぶろくかもしれないですね。
祖父は何でも食べる人だったが、混ぜご飯が嫌いだった。なぜかって聞いたら、混ぜないと生きていけなかった頃を思い出すからって言っていた。結構響いたな、
ポスターをみて、識字率の高さを伺える...すげえな
確かに、、、
教育には手を抜いてなかったのかもしれないですね
子供達を少国民と呼んでいたらしい
私は昭和15年11月生まれの男性です。戦時中は5歳過ぎですがなんとか餓えること無く食べさせてもらったのを覚えています。親から今日は代用食や!と言われたのは戦後だったと思います。芋のツル、押し麦を炊いたものなどでした。それからしばらくして一年生偽なって給食がありましたがそのときの食べたパンとは名ばかりで野草に僅かな何かしらの粉を混ぜたものでした。不味いったら食えたものでなかった。さすがにしばらくしたら出なくなった。それは米国から脱脂粉乳やメリケン粉が送られ食品が出回ってきました。米兵が食べたお菓子のセットを日本の子供達に分けてくれたです。そのときの食べたお菓子は美味しい塊のチョコやガムなど防水箱に詰められてました。その後たくさんのララ物資が戦後の日本国に届けられ、日本人は生き返ったのです。米国民の皆様には感謝有るのみです。そして今日があるのですね。
そうやって安易にアメリカに洗脳された世代のせいで今の日本があるわけですね
芋や南瓜は今と違って、甘くなかったとのこと
(現在の芋や南瓜が甘いのは品種改良の賜物)
更にそれほど育っていない状態で食卓に出ていたので、酷い味だったそうで
地元が疎開先で避難してきた人の記録とか聞いたけど野菜クズみたいなの食べてたらしいね
そう言えば、芋のつるのきんぴらを祖母が作ってくれたなぁ…。😅
結構美味しかったけど今は食べないよねぇ…。😱💦
アメリカ兵士には不評なレーションもひもじい日本兵が手に入れると好評だったコンビーフもスパム等の肉の缶詰はこんなご馳走内地でも食ったことがないとか捕虜になった日本兵に捨てるつもりでスパムやコンビーフを与えたら好評で無論加工もしたそうだがその味を覚えたしカロリー高めのスパムなんかを食ってて太って帰国した兵士もいたそうだ。
祖母から聞いた話です。北海道の港町だったんですが、戦時中チューインガムの代わりに小麦を練って砂糖を入れおやつとして食べていたらしいです。
長期戦は避けるべきと説いた孫子は近現代でも通用するな。
長期戦、ロシアウクライナに聞かせてあげたい。いや、西側の軍産複合体がそれを許さない。マッチポンプ。
孫子が戦争は下策だって言い切ってるからなぁ…。😅(笑)
庶民の粗末な食事に反して大和型戦艦の食事は、一般水兵でも恵まれた料理が提供され、司令長官 艦長は、超高級ホテル並みの豪華な定食が出されたそうです
まあ、現場の兵士の食事は士気に関わるからね
おばあちゃんが生前良く戦時中は木の皮を剝いで食べたり蛙を焼いて食べたり蛇も食べていたと言ってました。
祖母は90才で他界しましたが
大変だったけど良い経験にもなったそうです。
祖父はまだ元気で93才です。
祖父は犬や猫や鳩なども食べた事があるらしいです。
アンガスビーフを食べたことはありますか?
気になる気持ちもわかるけど、デリカシー無いね
@@PS5NORMAL
流石朝鮮人
俺も聞いとけば良かったかもな
@@PS5NORMAL 人か
美味いのかね
戦時中のアメリカで飛行機や戦車の工場の動画が有ったが工場勤務員に対しての待遇面が今の日本より優れて居るのが有った。
そんな国と戦争するもんじゃあない…。😅
自分の母のおばあちゃんが戦時中地方のお嬢様で体が弱かったから食事がよく回ったきたらしいです。それでもお肉はやはり食べれなく、誕生日の日にお肉が来たと思ったら隣のお家の犬がいなくなったって話してました。
😢
ちなみに、米軍のレーションにはタバコも入ってます。
ガ島での戦いでは米軍も初期は物資不足になり、日本軍が撤退時に遺棄していた米等を食べたりしていました。
米英のレーションを食べて、元気になって歩けるようになった日本兵もいたようです。
なんか昨今の物価の高騰からそのうち第三次世界大戦なんかが起きてこんなふうに物資が手に入れられなくなったりするんじゃなかろうかと不安になる
いやいや本気でヤバいですよ日本は…。😅
@@user-bs7vo6fp8j UA-cam「板門店逮捕」南北殺しあい未だに70年以上も休戦ラインある分断状態コリアのほうがヤバい!
戦闘状態!
昔は「1年1人1石」といって、毎食1合、1日3合、太陽太陰暦の1年間で通算すると約1000合、
150㎏が消費目安として考えられていたことからすると、2合3勺は2割カットとなる。
また、副食が少ないので、米の減量はそのまま食卓の貧窮に繋がった。
戦後に子供のギブミーチョコレートの合言葉に応じてアメリカ兵が配ってたのは実はチョコレートではなく、茹でたジャガイモよりはマシ程度のDレーションだったってどこかで聞いたな。
それで喜んでたんだからさもひもじかったんだろうな
Dレーションはまずいよ
うちの先祖は戦争中米屋だったけど、精米歩合を落として「かさマシ」でズルしていたらしい
玄米を精米すると1割はヌカとなります。なので白米は9割になりますね。
精米歩合は落とした方が栄養あるで。
玄米100%なら完全食って言われるくらいやしな。
とはいえ、精米歩合が下がれば味や食感や風味なども落ちるわけで
@@user-kf7st7ue1t 精米歩合が下がるとは、玄米に近づくことかな?
基本的に
無洗米 食味最低
上白 食味低
白米 食味普通
五分搗き 食味良い
玄米 食味・栄養価共に良い
となるので、より精米しない方がいいのですよ。
@@ROCKY0179 玄米だけ食ってろ
今年100歳の祖母の家は沢山の小作人を抱える大豪農で戦時中でも品不足で困る事はなかったんだけど、米は大切な収入源だったので、普段から雑穀や芋や野菜の葉や茎を入れた雑炊を常食していたそう。カボチャやさつまいもは毎日のように食卓に出ていたので、今でも祖母はカボチャやさつまいもが少々苦手。
戦時中のトラウマでカボチャやさつまいもが苦手な人って結構いるかもしれないですね。
軍の倉庫には戦後凄い食料があったらしく、復員兵に分け与えられてた分はまだよかったけどその大部分は行方不明になったらしく結局交通問題は大きかった様だ。
生まれる時代でこんなにも変わるとは…
日々、安心して生活できることに感謝しよう。
小さい頃、体が弱く少食で給食をよく残していたが、ある日給食メニューのいか焼きを処分に困って弁当箱に入れて持って帰っていた。たまたまそれを見たじいちゃんが、戦時中ならご馳走だと言っていたな。そう言うことなんだな。
ティッシュとおはじきを口に入れて1ヶ月飢えを凌いだ事がある
現代だから公園の水道を捻れば安全な水が飲み放題だから戦時中より余裕か…
いったいなにがあったし!
監禁?
日本軍からしたら、アメリカ軍の食事は羨望だったろうね。😢
今の時代でも災害などの非常時には食事に困る事があるから、先輩方の知恵は役に立つかもしれませんね。災害派遣で仕事をしている人も毎日同じ様な物を食べていました。
うち祖父母とも贅沢は素敵!を擬人化したような人達だったわ……ちなみに幼少から銀座でケーキ食ったりすき焼き食ってた金持ち→戦時中は軍で太り、戦後は米兵通訳で食べ物融通してもらってたから一度も飢えたことないって言ってた。
戦争経験者なのに「食いきれなければ残せば良い、金払うんだから」「賞味期限一日過ぎてたから捨てた」みたいな事を平気でやってたから人間やっぱ一度くらいは飢えた方が良いのかもしれん…
サツマイモの蔓は美味しい
ニンジンの葉っぱも
居酒屋ぼったくりで出てきたのは嬉しい
薩摩芋の蔓は本当に美味しいですよ!オススメ!
サツマイモの蔓のぬか漬けも美味しいです。
戦時中の食事の事がわかる動画でした。戦時中の大晦日やお正月が、知りたいです。後終戦直後の食事も知りたいです。動画に、して下さいました
缶詰のスパムはアメリカ兵に不評で捨てられることもあったが、それを鹵獲した日本兵には好評だったらしい
確かにスパムが有名な料理になってるのハワイと沖縄でアメリカ本土には余りスパムを好んで食べてる人少ない印象です。
もうその時点で勝負が付いてる。
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
🌟今晩は🌟
視聴させていただきました。
戦争時代の食事、知らなかったこともあったので勉強になりました。
もう2度と戦争は起こしてはいけないと思いましたし、物がある食べ物、着る物があることに今一度感謝したいと思いました。
日本人の魔改造能力は、戦時中にレベルアップしたんだと思う。
サツマイモのツルは今もきんぴらにして食べてます!
めっちゃ下処理めんどくさいけど、歯ごたえあってすき
戦時中‥ こちらのあちこちの山で笹麦が沢山なり‥ 笹麦を取りに行ったと‥亡き祖母や父からよく聞いたりしていました‥
災害に備えて備蓄しているはずの非常食があまりにも美味いので、腹の減った夜中につい食べてしまうことがある。わざと不味く作ったチョコレートの話はよくわかる。
わざとまずい物をつくってほしいな
懐かしいありがとうございましたです😂❤
昭和10年生まれの祖母は家が大きい農家で特に食べ物には困らなかったと言ってます。
米などは家のあちこちに隠してあったとか(上様に出さないといけないため)
ただ砂糖は入手できなかったらしく、料理の味付けにはお手制の水飴?を使っていたらしいです。
味噌や醤油は自分家で作っていたけどあまり美味しくなかったとか、、、。
卵1個を兄弟二人で白身と黄身を一日ずつ交互に食べていたとも言っていました。
すいとんや雑炊、麦ごはんなどは食べた覚えはなくほとんど白米を食べていたとのことです。
食べ物絡みではないですが兄弟の一人は結婚し満州にいたけれど、旦那が戦死して内地へ帰還→直後に終戦。
そのままいたらどうなっていたか、、、。
また、もう一人の兄弟は日立(茨城)の艦砲射撃で逃げる際に、大勢が逃げた方面には砲弾が直撃して多数亡くなったけど、逆方面に何故か逃げていて助かったとも。
水戸が空襲を受けた際には30km離れていたけれど空が真っ赤だったと言ってました。
そういう家庭の方もいたんですね…。
興味深いです🤔
隠すんじゃねえよ
@@gggggg2361
生きるための手段です。
他人のことなんか気にしていられない時代。
それを批判するとか頭がおかしいとしか思えません。
物流が極めて貧弱なので、
実際には消費先に供給されず在庫がだぶついていて、
各家庭で自家消費されていたり、軍でも、栄養等からの計画と実際の納入との帳尻が合わなくなる事から
食材を大量廃棄していたケースも少なからずあったようです。
(士官の白米を食べたいとかの要望の為に、玄米や押し麦、余った食材を廃棄処分するなど)
当時の生活状況がどうだったのかは、戦時中の話を調査するヒアリングの際の注意点だったりします。
この当時のカボチャは恐らく今ほど食味は優れていないはず。
今、流通してるのは西洋カボチャで、甘みが強くてホクホクした食感ですが、当時の日本では、甘みが少ない日本カボチャが主流だったので、満足感は少なかったかも。
飢餓と背中合わせの旧日本兵なら、アメリカ軍が不味いと捨てたレーションも涙を流して食べるだろうな。
これは戦に負けるわ。泣けてくる・・。
ふすまだんごまあ簡単に言うと猫用のカリ飯にお湯を掛けて柔らかくしたものを団子状にしたものが一番ちかいかな。
火垂るの墓の清太はこんな時代にニート満喫してたのか、これで米を食べさせてたオバサン優しいな。
お金も持ってたのにね…
@@_mania-ew3pr しかも、実写版の方では父親が海軍大佐なのに餓死してた。父親が兵隊なら、その子供は国ぐるみで護られるらしい、それが海軍大佐ともなれば行き詰まることはまずあり得ないらしい、それなのにオバサンに飯をもらい、結局餓死してしまうなんて。
清太はまだ中学生位でしょ!今の中学生に自分で考えて仕事しろって言った所で何していいかわからんわ。清太も一緒でないか?自分だったらどうする?
@@user-pf3sy7sm4z あの頃は小学生くらいの子でも働いてますよ?戦時中の頃についてもっと勉強しようよ。
@@user-fz4nc9tc9m
その時代に生きてたの?
なんでも知ってるふりか笑笑
みんながみんなそうではない。
じゃあ貴方みたいに今の人みんななんでも知ってるの?
WWⅡ末期のドイツの話ですが、あれほどジャガイモ好きの国民がジャガイモが不足して食べられなくなりました。原因はジャガイモでアルコールを作り、V2ロケットの燃料とするためです。(映画「大脱走」で、捕虜がジャガイモ焼酎を作ってましたねw)
ジャガイモ焼酎はもはやウォッカでは?
死んだばあちゃんが薩摩芋とカボチャだけは絶対いやだって言ってたな、美味しいのに何でダメなのって聞いたら戦時中にいやほど食べててたからもお見たくないって
おばあちゃんからひいおばあちゃんの事聞いたけど戦争のちょっと前ぐらいに米とか家で作ってて近くに日本の兵隊さんがきた時にその兵隊さんが炊きたての米見て空腹で動けなくなってたって言ってた
当時は、食料が慢性的に不足して、飢えることは日常茶飯事でしたからこれらの食べ物を不味いだなんて言ってはいられませんでした。そういえば、ジャングルテレビタモリの法則で、故大橋巨泉氏もこんなこと言っておられましたね。
銃弾や砲撃で直接死亡した人数より多い、約10倍が飢餓による栄養失調や病気でなくなったそうです。ちなみに死者の9割が終戦までの、わずか1年間で亡くなっています。終戦を1年間早めるだけで相当数の命が助かったことでしょう。もちろん特攻も防げました。
カロリーメイトが好きな俺は箱に入った食べ物ってだけで美味しそうに感じる
Bレーションの写真がUGR(中身のパックだけ専用のボイラーに入れたとこ)(・・;)
本来のUGRは段ボール詰めで中にFRH(フレイムレスヒーター)が仕込まれていて、同梱されてる食器や甘味類を抜いた後に紐を引くとFRHが起動して食料を暖められるって代物らしい
玉音放送時四歳だった祖父によると米つきは半日ほどやっても一合ほどの米を精米するのがやっとだったと言ってたな
祖母の話ですが、庭を畑にしてさつまいも等を植えてて物々交換してたそうです。
不謹慎かもしれないがこういうの見ると普段の食事が美味く感じる
大事なことやん
亡くなった母方の祖父も衛生兵として従軍していたと聞いていましたが日本国内も従軍していた人達より大変だったようですね
母93歳、戦時中に散々玄米食べたんでもう食べたく無いそうです。
戦時の女學校の寮生だった頃、お金持ちの層は、集会所に着物を持ち寄ってファッションショーみたいな事やってたそう。
そうでない母らは、自室にいたと。
うちのじーちゃん、戦後にアメリカから配給された缶入のチョコレートと脱脂粉乳が不味くて大嫌いだったらしい。和菓子を好んで食べてて、未だにチョコのお菓子は喜ばない🤔
2歳で戦争終わったじいちゃんは湊町だったおかげで基本ずっと魚食だったみたい。主食はサツマイモが多かったって言ってたな
祖母はとうもろこしの粉を練った物を食べてたって言ってた。
一食で鍋の底が見えるのが嫌だから2人前作って2回に分けて食べるって言ってた!
戦後にアメリカの兵隊さんがそこらに居るようになって怖がってたのにその兵隊さんに飴を握らされたことがあるって言ってた!
切ない。
大正2年生まれのババ様が仰られていた
自分が小学2だったかな?
夏休みの宿題で戦時中のことをジジ様ババ様に聞いてくる、というやつだ
「ばーちゃん、戦争の時の朝ごはんは?」
「さつまいも」
「じゃぁ昼ごはんは?」
「さつまいも」
「……晩ご飯は?」
「さつまいも」
「芋ばっかりだね」
「芋しかなかったからねー」
という話だった
ほかにはじー様から聞いたのは「中国の奥地でなーんもなかったからなぁ。食べれそうなものはとりあえず食べてみた。トカゲ、ヘビ、ナマズ、鳥。ナマズは美味かったなぁ。蛇はカレー粉がないと食えん、骨も多かった」
じー様、マジなんでも食ってたようで
広島県出身の祖父母がいます。
広島でも田舎の祖父が戦時中は畑に穴を掘って空襲警報鳴るとそこに逃げてたそうです。畑言うぐらいですから前は作物はあったんでしょうね…
同じく広島でも都会の方の出身のおばあちゃんに妹もいたそうですが、栄養失調で亡くなったと母親から聞きました…こんな時代生きろと言われると無理ですね…元を辿れば祖父母が生きてて結婚してなかったら私はいませんが…
うちのじいちゃんも畑こさえてるけど
かぼちゃの煮付けだけは嫌という程食べた食べたくなくてもこれしかないから嫌嫌食べた。ゴミや雑草を食べるほど困窮はしてないから自分の微々たる贅沢さと惨めさに悔しくて泣いたよ
って言ってたなぁ。基本好き嫌いなく食べるじいちゃんの好物はグラタンです。
1回グラタンにかぼちゃを入れた時
「こんなに美味しく食べられて嬉しい」と泣いていた時はじいちゃんが居るから野菜やお米も好きなだけ食べられるんだなと感謝しかないです
子どもの頃、祖母がよくすいとんを作ってくれました。私はすいとんが大好きで祖母の家に行った時にはいつも楽しみにしていましたが、ある日ふと「戦時中のすいとんは本当に不味かった、今は美味しくなった」という話を聞いて、こんなに美味しいすいとんが…と子ども心に複雑な思いをしました。
これから先もそんな悲しい生活が訪れることありませんように。平和でありますように。
サザエさんの漫画で着物と食料交換する描写があったなぁ
この頃たけのこ生活という言葉が生まれた 芋づるは今でも美味しい
おばあちゃんがイモ嫌いなのは戦時中に嫌ほど食べたからみたい。
こういう動画はちゃんと今の子供たちにも観てもらいたい
田舎のおばあちゃん農家してて夏休みになると訪れてた時サツマイモのツルを調理してて美味しかった思いがある。
この世界の片隅にの食事シーンでなんとなくわかる😢
イギリスにレーションを作らせれば、期待に沿った素晴らしいモノを開発してくれるのではないかと。
うちの祖母も配給止まって闇米で8時間歩いて親戚の家まで行きお米を農家に分けて貰い米俵をリアカーに引いて後山を1つ超えたらようやく帰れる所で憲兵に見つかり全部持ってかれたと言ってました〜恐ろしい世界ですねー大日本帝国😢
腹が減っては戦は出来ぬと昔から言われてますが
歴史が物語ってますね
うちもじいちゃん婆ちゃんが、バッタやイナゴ、蜂などの虫もたべたりしたし、知らなかった魚やカニ、その辺の野草も食べてたって聞いた。その分子供ながらに大丈夫な奴を覚えて無害な物を収穫できるようにしてたって。だから小さい頃山に行ったりしたらコレ美味いぞーって聞いて野いちご食べた記憶がある。
昔の人って言ったらあれだけど、知識って大事、今はもう分からない点が多いし、スマホですぐ調べれるけど、自分の目でみて分かる知能はうらやましい思う。
食材を期限切れさせて、捨てるのが日常になっていますが、頑張って頑張って自炊します……
ごめんなさいごめんなさい…
戦争末期は
米作りも命がけだったらしい
遮蔽物のない水田での作業は
機銃掃射の格好の的だったそうだ
近年まで米軍のレーションにはタバコが入ってたのすごいよな
今はマッチすら無くなったが
河川敷とかに生えてるソメイヨシノのさくらんぼ食べたり、草食べたことあるけど本当にまずけど、戦時中は食べられてたのか...と思うと、心が痛くなる
母方の祖母は食いしん坊で食べ物に恵まれていたからか、
パンをお弁当に持ってきた人を見てパンが食べたいと言ったらしい…
場所によって食糧難も変わるんですね
その遺伝か自分も無事に食いしん坊になりました
ブログでお婆さんが大正時代子供の時に裕福で舶来品のクッキーがおやつだったのに他の子達の味噌を塗ったおにぎりが羨ましくて交換した話を思い出しました。
似たような話を祖父から聞いた事がある。
祖父の住んでた田舎では、戦時中でも移動式のパン屋が営業してたらしく、金持ちの子はそれを買ってお弁当にしてた人もいたんだって。
学校休むためにサムネみて嘔吐するって書いてあってきたのに嘔吐しなかったじゃないか
まあ農家さんならまだマシな食事が採れたんだね。ウチの母親も戦争を体験しているけどじゃがいもとさつまいもとトマトとかぼちゃは腹一杯食べれたからまだ良かったと言っていました。因みに群馬県の農村部の出身です。
祖父も農家だったので、かまぼこは正月だけとか、六割麦飯は食えたもんじゃないとか、犬を食べた事があると聞かされたけどお腹を空かせた話は聞いた事がないので農家はマシみたいですね。
祖父は戦時中は戦地にずっといたから、国内の状況の話はあんまりきけなかったなぁ。
ビルマからの帰還兵なので、戦地での経験は壮絶なものだったらしいけど。
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分かりやすい解説にまるで当事者だったような話口調
まさか魔理沙って…!?
昨年、支援学級ボランティアをして居る小学校の校内畑でサツマイモを収穫しました。
その後サツマイモの蔓を貰って来て出汁で煮込んで酒のツマミにしました。旨かった。高校生の時に社会の先生が敗戦後 駐留軍の兵士からレーションを貰った。
贅沢な食物だった。ガムやタバコも入って居た。父親が コリャ日本負けるわい
と言った…と語ってくれました。国力は普通の事が出来るか否か なんだろう。
戦争は起きた時点で勝敗は決まっている、とはまさにこの事だな。
豊かになったとはいえ、今の農家も農地も減った日本で似たような戦争が起きたら結局同じ事になるだろうね。
このころはどうやってカボチャのうどん粉病やウリハムシ対策してたんだろう?
腹膨らますだけの代用食で良く耐えた今はシャウエッセンがある。
祖母は疎開してたので、ひもじくなることはなかったそうです。芋をよく食べていたそうです。
サツマイモの茎は普通に食べてるよ。
どうしても伸びすぎたツルを切らなきゃならなくなるから夏場にはよく食べます。
水に一晩さらしてアク抜きしたあとごま油で甘辛く炒め煮にすると美味しい。
ウチもそうして食べてるわ。非常食とかいうより、食べ物として普通に美味しいもんね。