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Merci.
おはようございます。生きているうちにお釈迦様らしくなれるとき、穏やかに
穏やかな気持ちになれるけれど、ずっとそのままではなくて、お釈迦様のようになれないときもある、ということでしょうか。15節不殺生戒のところで頭が混乱してどうなることかと思っていました。修修義第一節を改めて読んで、聞いて、今まで難しいと思っていた「生死」を私に近付けて感じるようになって、15節の不殺生戒での混乱をほどいていく切っ掛けを貰ったやような気がします。「お釈迦様に憧れて穏やかに」学びを勧めていきたいと思いました。ていねいに分かりやすいお話し、聞き直す度に身になっていく気がします。いつもありがとうございます。
自分の中の仏に出会って行くのだよというお話に感動しました。この意味は、あらゆる信仰において起こることであり、宗派を超えて、信仰する人に理解されることかもしれないな、と思いました。
2024年1月1日能登半島地震に遭遇し48歳にして初めて自分の家の曹洞宗のお経について興味を持ちました。読んでも難しいので、解読して頂きわかりやすかったです。生と死を考えされました。
こんばんは。一通り修証義を習って、ユーチューブの中の法話などを聞いています。今日は第1節の「宇野さんと近藤さんの修証義トーク」が出てきて、改めて聞いていました。「生死のなかの仏」のところで近藤さんが「魂」と言われて、死んでもさの魂はある?というお話だったかと思います。「魂」というのは聞いたことはありますが具体的にどんなものか、仏教、修証義とかかわりがあるものでしょうか?また何かの折り教えて頂ければうれしいです。私は慈愛の心を心がけていつかは自然にしている愛語が出てくるようなりたいです。長文になって失礼致しました。
世界中で最も難解と云われる『正法眼蔵』道元禅師著をベースに編纂された『修証義』は、宗門の僧侶でも難解であり、それを在家信者にただ読ませているだけで、無責任過ぎませんか…。江戸時代には何処のお寺にも『正法眼蔵』は存在せず、有っても難解過ぎるので「読むことはせず、拝むもの」として須弥壇にお供えしていた。出家至上主義の道元禅師は、一箇半箇の弟子を育むことを考えていた。難解な『修証義』をどうやって在家信者に理解させるのか、出家至上主義を求める道元禅師の思想を『修証義』を用いて在家にどうやって修業させようとしているのか。
仏は仏陀(Buddha: 覚者)のことで第一に釈迦牟尼仏、第二に以後の覚者、第三に成仏者(日本では死者のことを般涅槃:完全寂静したので成仏と称しますが、成仏の二要件涅槃・覚醒の中前者のみで後者はどうでしょうか)。明らめる」は明らかにする(覚醒・覚悟・覚証など)でこれが本来の意味で、二次的にそこから諦める(give up)の意味になりましたが、諦も「明らか(な真理)」のことですね。「真理(法)に目覚める:生死を明らめる」が仏家の一大事で、これを達成した物が仏:覚者ですね。「業機械」である俗見・偏見は業を止(坐禅で身口意三業を止め涅槃に入る)めないと不可能であり、涅槃に入って初めて「法」が明らかになり、生死が判り、法と一体になって、(我・業による)生死を厭わず、涅槃を欣はない(生死を離るる)状態になるのですね。広大無辺の境涯を冒頭に示された訳ですね。
Merci.
おはようございます。生きているうちにお釈迦様らしくなれるとき、穏やかに
穏やかな気持ちになれるけれど、ずっとそのままではなくて、お釈迦様のようになれないときもある、ということでしょうか。
15節不殺生戒のところで頭が混乱してどうなることかと思っていました。
修修義第一節を改めて読んで、聞いて、今まで難しいと思っていた「生死」を私に近付けて感じるようになって、15節の不殺生戒での混乱をほどいていく切っ掛けを貰ったやような気がします。
「お釈迦様に憧れて穏やかに」学びを勧めていきたいと思いました。
ていねいに分かりやすいお話し、聞き直す度に身になっていく気がします。いつもありがとうございます。
自分の中の仏に出会って行くのだよというお話に感動しました。
この意味は、あらゆる信仰において起こることであり、宗派を超えて、信仰する人に理解されることかもしれないな、と思いました。
2024年1月1日能登半島地震に遭遇し48歳にして初めて自分の家の曹洞宗のお経について興味を持ちました。読んでも難しいので、解読して頂きわかりやすかったです。
生と死を考えされました。
こんばんは。一通り修証義を習って、ユーチューブの中の法話などを聞いています。
今日は第1節の「宇野さんと近藤さんの修証義トーク」が出てきて、改めて聞いていました。「生死のなかの仏」のところで近藤さんが「魂」と言われて、死んでもさの魂はある?というお話だったかと思います。
「魂」というのは聞いたことはありますが具体的にどんなものか、仏教、修証義とかかわりがあるものでしょうか?
また何かの折り教えて頂ければうれしいです。
私は慈愛の心を心がけていつかは自然にしている愛語が出てくるようなりたいです。
長文になって失礼致しました。
世界中で最も難解と云われる『正法眼蔵』道元禅師著をベースに編纂された『修証義』は、宗門の僧侶でも難解であり、それを在家信者にただ読ませているだけで、無責任過ぎませんか…。
江戸時代には何処のお寺にも『正法眼蔵』は存在せず、有っても難解過ぎるので「読むことはせず、拝むもの」として須弥壇にお供えしていた。出家至上主義の道元禅師は、一箇半箇の弟子を育むことを考えていた。難解な『修証義』をどうやって在家信者に理解させるのか、出家至上主義を求める道元禅師の思想を『修証義』を用いて在家にどうやって修業させようとしているのか。
仏は仏陀(Buddha: 覚者)のことで第一に釈迦牟尼仏、第二に以後の覚者、第三に成仏者(日本では死者のことを般涅槃:完全寂静したので成仏と称しますが、成仏の二要件涅槃・覚醒の中前者のみで後者はどうでしょうか)。明らめる」は明らかにする(覚醒・覚悟・覚証など)でこれが本来の意味で、二次的にそこから諦める(give up)の意味になりましたが、諦も「明らか(な真理)」のことですね。「真理(法)に目覚める:生死を明らめる」が仏家の一大事で、これを達成した物が仏:覚者ですね。「業機械」である俗見・偏見は業を止(坐禅で身口意三業を止め涅槃に入る)めないと不可能であり、涅槃に入って初めて「法」が明らかになり、生死が判り、法と一体になって、(我・業による)生死を厭わず、涅槃を欣はない(生死を離るる)状態になるのですね。広大無辺の境涯を冒頭に示された訳ですね。