Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
斎藤先生を追ってこのUA-camに辿り着きました。荘厳なステージで対談していてビックリ致しました。仏様にお聴き頂きながら、これからの日本、世界に通じるビジョンを見出していく貴重な時間を得られ光栄でした。経済発展があったからこその今の時代に蔓延るUA-cam番組の存在とも言えますが、私のような平凡にしか生きられない国民のひとりにとっては、このような媒体で斎藤先生が掲げる現代問題に触れる機会があって良かったなと思います。そして仏教の立場から「人間は生まれながらの罪人である」と教えて頂けたのも、普段得ないようなお話でしたし、素敵な説教だったなと思いました。斎藤先生が現代課題として感じていることは、まだ少し私達には壮大すぎて、実生活での改革や改善には遠いかな?と思いますが、その背景に先生自身が心を痛めてきた色々な物事があったんだなと察しながらお話を聴きました。素晴らしいメッセージを頂けましたm(_ _)mありがとうございます!また企画してください♪
現代的テーマで対話いただき非常に興味ぶかく面白かったです。人新生の斎藤さんの本を自分はここまで親鸞の教えと結びつけることができなかったのですが、名和先生は「他力に根差した自力の実践」「天命に安んじて人事を尽くす」などとなるほどと感心しました。こういうテーマでまた企画いただきたいと思います。
亡くなった叔父は浄土真宗の熱心な宗徒であると同時に宗教の堕落に批判的でした今回の対談は真摯なものでした、
宗教は信仰する人にとっての心の問題であって、マルクス主義は、その仕組みが成立して実践された時に、すべての人が経済的にも人権的にも救われるものなので、規模も包容力も異なると思います。宗教が持つ排他性、暴力性に盲目的ではいられませんが、かつての共産主義のように糾弾するのみでなく、歩み寄る、多様性を重視する斉藤先生を尊敬します。
暴力性と排他性において、宗教もマルクス主義、狭義の古典的な解釈のマルクス主義も、同じ危険性があると思います。セクト主義。キリスト教の十字軍遠征とか、カトリック、プロテスタントの間の紛争をきっかけに欧州を分断した30 年戦争も、結局は心の対立というより利益の対立。マルクス主義のセクト対立も、政治的権力という利益のためであって心は建前ではないでしょうか。釈迦は、殺生を禁じている。キリストも本来は、汝の敵を愛せであったと思う。しかし、それらの教えは、後世の人々の都合で曲げられてしまう。
素晴らしいセッションでした。
始まる前から興味津々でした。人間は何に向き合って生きるのか生きるべきなのか改めて考えたい。
斉藤さんの「コモン」のイメージが大変に印象に残りました。
最高におもしろいな他力とは何か?にはすごい興味あった考え(させられ)ることがたくさんあるぞ
私は、九州の小さなお寺の一門徒ですが…お話を聞いて感じたのですが…親鸞聖人の信仰と本山教団の在り方を混合されています。本来信仰とは、個人の問題であり親鸞聖人は、仏弟子は一人も持たないと言われて事です。マルクスも本来、人間個人の理想哲学としてマルクス主義唱えたのを後のレーニンが理想国家として国作りに利用して社会主義国家共産主義国家を造った。所謂、今の本山も中国共産党国家も資本主義国家もピラミッドの形式を取っている。清沢満之は、人間一人一人が阿弥陀仏に向き合う事に気が付き学職を退き絶対他力を求めたのでしょう?
親鸞の思想とマルクスの共通性、社会のあり方について考え方の親和性を感じていたが間違っていないことが、分かりました。菩提寺の住職にいつか聞いてみたいと思っていましたが、時間がなく残念に思っていました。これを機にさらに親鸞思想、マルクス論を深めていきたい。ありがとうございました😊ただ、今現在私たちはどう行動するべきなのか、学問、宗教者の具体的な提案は?
接点がありますね。親鸞も面白い。
ブッディストでありマルキストである自分にとって、豊かな対談でした。
それは有り得ないこと。
見た目は子供、頭脳は大人。てきな?違うか😅
@@真言宗僧名博雲伊藤弘歴史的にはありえること。宗教の否定がマルクス主義の本質ではないから。
阿弥陀如来は私に「足るを知る」を知らせてくれるようです。いつも「やり過ぎる」私にその都度「やり過ぎない」私に立ち帰らせて下さる。これが環境問題に対する私の着地点でもあります。
仏教経済学の確立が必要だと思いました。
名和さんて正直な人やなぁ
途中でやめようと思いながらも最後まで拝見し、質問の方々が至ってまともで安心しました。質問に対するお答えはお粗末でしたが...普通に暮らす私たちはまともだと思えた点で最後まで拝見した意義がありました。
浄土真宗は環境問題をどう考えているかという齋藤さんの問について私が考えていること:人は一人で生きることはできない。何かの命を奪ってしか生きることができない。そもそも一人で生まれることさえできない。それを自覚するなら自分の欲を肥大させ続けることに疑問を持たずにはいられない。つまり、「一人で生きられない」という自覚(他力による目覚め)があるか否かが環境問題を考えられるかどうかの起点となる。そして、仏が願った世界はお経に書かれているけれど、この罪悪深重である私はどのような世界を願っているのか問うことも大切ではないかと思う。私の恩師、宮地廓🖼慧先生は「せめても、せめてもの生活をするしかないのではないでしょうか」と教えてくださいました。これが私の環境問題に対する行動姿勢となっています。配信をありがとうございました。南無阿弥陀仏。
唯物論と唯心論。。どこか交差しますかねー。無理に交差させる必要がありますでしょうか。
斎藤さん、すごいお経声やな。
柄谷行人著「力と交換様式」を読むと、もしかしたらマルクスの生産様式論をベースにした発想を超えた新しい交換様式を生み出す力が南無阿弥陀仏によるものかもしれないと考える様になりました。法然・親鸞の系譜について考え直す必要を感じます。松岡正剛氏による「弱さは強さの欠如でない」という言葉を信じたいし同氏による「法然の編集力」を読み直すべきだと思いました。編集力を前提として生命倫理を実現できるテクノロジーを活用してコモン通貨としてのデジタル地域通貨の可能性を追求してみたい。
仏教とマルクス主義は物象化批判(事物を実体としてではなく関係性として捉えようとする)という点で通じる所はあると思っていますが、仏教においてそれを徹底した龍樹の空観と、同じ龍樹が始祖とされる浄土教の教えの間には理論的な乖離が大きいように感じます。真宗内でそのへんの議論はあるのでしょうか。
マルクスが資本論を書き上げた時代には「資本家と労働者の対立」、「資本(強欲)が自然を破壊する」等、哲学的な思考だった。なのに動画では、マルクスと仏教(親鸞)を無理やりに共通点があるかのように論じているのに違和感を感じた。
上から目線なんですよ…悪気はありませんが解説されている方の話は本当に薄い大切なことなのでもう一度言います!!薄い!!しかし、政教分離!!その上でを、ご健闘を願っていますφ(..)b
分業化は職業の自由という概念の重要さを理解しないとね。分業を共同体や社会が決定するとき誰がそれを決めるのか?結局は官僚やエリートがそれを決めた、マルクス・レーニン主義を反省して欲しい。自由な分業と職業の選択を市場でやる以外にいい方法がないという現実をちゃんと見つめましょうね。思いだけだと不幸を招くというジレンマを、ちゃんと反省しましょう。共同体は失敗の歴史だよね。コモンなんて観念上にしか存在できない。
16:30
気づくのが遅い💢…だろヽ(`Д´)ノプンプン
誰が教えを説こうが悟ろうが この世の中に明確な答えは無いと考えます。世の中は摂理道理で成り立っているが故に我々人間ごときに理解できる様な世界ではないのである。科学物理の発展は地球の寿命を我々人間自らが作り出しているのである。本当の豊かさ答えがあるとしたら日本の古事記の中に全ての答えがあると考えられます。人間を優先に考えると上手くは行かないのです。我々は陰陽のバランスにより生かされ自然である神によって生かされている事の事実をまずは教育第一にしないと解決されないのである。昔も今も実際には何一つ変わってはいないのです。全世界に向けて当たり前の根本を教えない限り世界が一つになる事はあり得ません。
親鸞聖人は中心となって病んでいる人達の救いである医療を求めています。マルクスは医療までも商業的に考える人です。
なまんだぶなまんだぶ
あれマルクスは宗教を否定していなかったか?
親鸞は唯物弁証法を主張したのでは!
宗教を全否定してるわけではなく、階級社会において搾取されるだけの民衆が死後の救いを信じて心の慰めを得る鎮痛剤(マルクスの時代はアヘンが鎮痛剤として利用された)と言っておりその効果を評価もしている但しあくまで鎮痛剤なので根本的な病気の治療にはならないし痛みを感じなくなるので治療が不要だと勘違いして悪化させてしまう危険があると指摘している
イカれてる。親鸞が泣いている。まさに末法の世だな。
どの辺が、イカれてるのか、具体的に教えていただけませんか??
@@sizy674 あなたは煩悩まみれの人間社会でマルクス主義が上手くいくと思いますか?過去現在の社会主義の国で幸せそうな顔をした国はありましたか?資本主義がいいとは言いません、マシなだけです。親鸞とマルクスを並べるところがイカれてるのです。
たしかにいかれてる。信仰心のない二人の話や!
仏の定義は?
この件についてお西と対談したら。
芝高校卒業
話が長すぎでしょう。もっと整理して話さないとね。
いや長くないだろ
親鸞聖人とマルクスに共通点なんかない。
斎藤先生というお方の言葉は薄っぺらく聞こえる。
アタマだけの議論を中止して時には山に登って修行せいよ。カラダを使え。
浅いな。
四十余年未顕真実ですけどね。
やはりなんか大谷派はおかしい。そこに「信仰」は無い。そもそも、平気で親鸞と呼び捨てにする教学者とマルキストのはなしを本堂で聞く必要があるのか?阿弥陀様、親鸞聖人が嘆いている。まさしくこの対談は・・「歎異抄」です。
おいおい泣くなよ
斎藤に本尊に対する感想を聞けよ。
こういった対話って今更必要あるの?って思ってしまいました。
斎藤先生を追ってこのUA-camに辿り着きました。
荘厳なステージで対談していてビックリ致しました。仏様にお聴き頂きながら、これからの日本、世界に通じるビジョンを見出していく貴重な時間を得られ光栄でした。
経済発展があったからこその今の時代に蔓延るUA-cam番組の存在とも言えますが、私のような平凡にしか生きられない国民のひとりにとっては、このような媒体で斎藤先生が掲げる現代問題に触れる機会があって良かったなと思います。
そして仏教の立場から「人間は生まれながらの罪人である」と教えて頂けたのも、普段得ないようなお話でしたし、素敵な説教だったなと思いました。
斎藤先生が現代課題として感じていることは、まだ少し私達には壮大すぎて、実生活での改革や改善には遠いかな?と思いますが、その背景に先生自身が心を痛めてきた色々な物事があったんだなと察しながらお話を聴きました。
素晴らしいメッセージを頂けましたm(_ _)m
ありがとうございます!
また企画してください♪
現代的テーマで対話いただき非常に興味ぶかく面白かったです。人新生の斎藤さんの本を自分はここまで親鸞の教えと結びつけることができなかったのですが、名和先生は「他力に根差した自力の実践」「天命に安んじて人事を尽くす」などとなるほどと感心しました。こういうテーマでまた企画いただきたいと思います。
亡くなった叔父は浄土真宗の熱心な宗徒であると同時に宗教の堕落に批判的でした
今回の対談は真摯なものでした、
宗教は信仰する人にとっての心の問題であって、マルクス主義は、その仕組みが成立して実践された時に、すべての人が経済的にも人権的にも救われるものなので、規模も包容力も異なると思います。宗教が持つ排他性、暴力性に盲目的ではいられませんが、かつての共産主義のように糾弾するのみでなく、歩み寄る、多様性を重視する斉藤先生を尊敬します。
暴力性と排他性において、宗教もマルクス主義、狭義の古典的な解釈のマルクス主義も、同じ危険性があると思います。セクト主義。
キリスト教の十字軍遠征とか、カトリック、プロテスタントの間の紛争をきっかけに欧州を分断した30 年戦争も、結局は心の対立というより利益の対立。
マルクス主義のセクト対立も、政治的権力という利益のためであって心は建前ではないでしょうか。
釈迦は、殺生を禁じている。キリストも本来は、汝の敵を愛せであったと思う。しかし、それらの教えは、後世の人々の都合で曲げられてしまう。
素晴らしいセッションでした。
始まる前から興味津々でした。人間は何に向き合って生きるのか生きるべきなのか改めて考えたい。
斉藤さんの「コモン」のイメージが大変に印象に残りました。
最高におもしろいな
他力とは何か?
にはすごい興味あった
考え(させられ)ることがたくさんあるぞ
私は、九州の小さなお寺の一門徒ですが…お話を聞いて感じたのですが…親鸞聖人の信仰と本山教団の在り方を混合されています。本来信仰とは、個人の問題であり親鸞聖人は、仏弟子は一人も持たないと言われて事です。マルクスも本来、人間個人の理想哲学としてマルクス主義唱えたのを後のレーニンが理想国家として国作りに利用して社会主義国家共産主義国家を造った。所謂、今の本山も中国共産党国家も資本主義国家もピラミッドの形式を取っている。清沢満之は、人間一人一人が阿弥陀仏に向き合う事に気が付き学職を退き絶対他力を求めたのでしょう?
親鸞の思想とマルクスの共通性、社会のあり方について考え方の親和性を感じていたが間違っていないことが、分かりました。菩提寺の住職にいつか聞いてみたいと思っていましたが、時間がなく残念に思っていました。これを機にさらに親鸞思想、マルクス論を深めていきたい。ありがとうございました😊ただ、今現在私たちはどう行動するべきなのか、学問、宗教者の具体的な提案は?
接点がありますね。親鸞も面白い。
ブッディストでありマルキストである自分にとって、豊かな対談でした。
それは有り得ないこと。
見た目は子供、頭脳は大人。てきな?違うか😅
@@真言宗僧名博雲伊藤弘歴史的にはありえること。宗教の否定がマルクス主義の本質ではないから。
阿弥陀如来は私に「足るを知る」を知らせてくれるようです。いつも「やり過ぎる」私にその都度「やり過ぎない」私に立ち帰らせて下さる。これが環境問題に対する私の着地点でもあります。
仏教経済学の確立が必要だと思いました。
名和さんて正直な人やなぁ
途中でやめようと思いながらも最後まで拝見し、質問の方々が至ってまともで安心しました。
質問に対するお答えはお粗末でしたが...
普通に暮らす私たちはまともだと思えた点で最後まで拝見した意義がありました。
浄土真宗は環境問題をどう考えているかという齋藤さんの問について私が考えていること:
人は一人で生きることはできない。何かの命を奪ってしか生きることができない。
そもそも一人で生まれることさえできない。
それを自覚するなら自分の欲を肥大させ続けることに疑問を持たずにはいられない。
つまり、「一人で生きられない」という自覚(他力による目覚め)があるか否かが環境問題を考えられるかどうかの起点となる。
そして、仏が願った世界はお経に書かれているけれど、この罪悪深重である私はどのような世界を願っているのか問うことも大切ではないかと思う。
私の恩師、宮地廓🖼慧先生は「せめても、せめてもの生活をするしかないのではないでしょうか」と教えてくださいました。これが私の環境問題に対する行動姿勢となっています。
配信をありがとうございました。
南無阿弥陀仏。
唯物論と唯心論。。どこか交差しますかねー。無理に交差させる必要がありますでしょうか。
斎藤さん、すごいお経声やな。
柄谷行人著「力と交換様式」を読むと、もしかしたらマルクスの生産様式論をベースにした発想を超えた新しい交換様式を生み出す力が南無阿弥陀仏によるものかもしれないと考える様になりました。法然・親鸞の系譜について考え直す必要を感じます。松岡正剛氏による「弱さは強さの欠如でない」という言葉を信じたいし同氏による「法然の編集力」を読み直すべきだと思いました。編集力を前提として生命倫理を実現できるテクノロジーを活用してコモン通貨としてのデジタル地域通貨の可能性を追求してみたい。
仏教とマルクス主義は物象化批判(事物を実体としてではなく関係性として捉えようとする)という点で通じる所はあると思っていますが、仏教においてそれを徹底した龍樹の空観と、同じ龍樹が始祖とされる浄土教の教えの間には理論的な乖離が大きいように感じます。真宗内でそのへんの議論はあるのでしょうか。
マルクスが資本論を書き上げた時代には「資本家と労働者の対立」、「資本(強欲)が自然を破壊する」等、
哲学的な思考だった。なのに動画では、マルクスと仏教(親鸞)を無理やりに共通点があるかのように論じ
ているのに違和感を感じた。
上から目線なんですよ…
悪気はありませんが
解説されている方の話は
本当に
薄い
大切なことなので
もう一度
言います!!
薄い!!
しかし、
政教分離!!
その上でを、
ご健闘を
願っていますφ(..)b
分業化は職業の自由という概念の重要さを理解しないとね。分業を共同体や社会が決定するとき誰がそれを決めるのか?結局は官僚やエリートがそれを決めた、マルクス・レーニン主義を反省して欲しい。自由な分業と職業の選択を市場でやる以外にいい方法がないという現実をちゃんと見つめましょうね。思いだけだと不幸を招くというジレンマを、ちゃんと反省しましょう。共同体は失敗の歴史だよね。コモンなんて観念上にしか存在できない。
16:30
気づくのが遅い💢
…
だろヽ(`Д´)ノプンプン
誰が教えを説こうが悟ろうが この世の中に明確な答えは無いと考えます。世の中は摂理道理で成り立っているが故に我々人間ごときに理解できる様な世界ではないのである。科学物理の発展は地球の寿命を我々人間自らが作り出しているのである。本当の豊かさ答えがあるとしたら日本の古事記の中に全ての答えがあると考えられます。人間を優先に考えると上手くは行かないのです。我々は陰陽のバランスにより生かされ自然である神によって生かされている事の事実をまずは教育第一にしないと解決されないのである。昔も今も実際には何一つ変わってはいないのです。全世界に向けて当たり前の根本を教えない限り世界が一つになる事はあり得ません。
親鸞聖人は中心となって病んでいる人達の救いである医療を求めています。マルクスは医療までも商業的に考える人です。
なまんだぶなまんだぶ
あれマルクスは宗教を否定していなかったか?
親鸞は唯物弁証法を主張したのでは!
宗教を全否定してるわけではなく、階級社会において搾取されるだけの民衆が死後の救いを信じて心の慰めを得る鎮痛剤(マルクスの時代はアヘンが鎮痛剤として利用された)と言っておりその効果を評価もしている
但しあくまで鎮痛剤なので根本的な病気の治療にはならないし痛みを感じなくなるので治療が不要だと勘違いして悪化させてしまう危険があると指摘している
イカれてる。
親鸞が泣いている。
まさに末法の世だな。
どの辺が、イカれてるのか、具体的に教えていただけませんか??
@@sizy674
あなたは煩悩まみれの人間社会でマルクス主義が上手くいくと思いますか?過去現在の社会主義の国で幸せそうな顔をした国はありましたか?資本主義がいいとは言いません、マシなだけです。
親鸞とマルクスを並べるところがイカれてるのです。
たしかにいかれてる。
信仰心のない二人の話や!
仏の定義は?
この件についてお西と対談したら。
芝高校卒業
話が長すぎでしょう。もっと整理して話さないとね。
いや長くないだろ
親鸞聖人とマルクスに共通点なんかない。
斎藤先生というお方の言葉は薄っぺらく聞こえる。
アタマだけの議論を中止して時には山に登って修行せいよ。カラダを使え。
浅いな。
四十余年未顕真実ですけどね。
やはりなんか大谷派はおかしい。
そこに「信仰」は無い。
そもそも、平気で親鸞と呼び捨てにする教学者とマルキストのはなしを本堂で聞く必要があるのか?
阿弥陀様、親鸞聖人が嘆いている。
まさしくこの対談は・・
「歎異抄」
です。
おいおい泣くなよ
斎藤に本尊に対する感想を聞けよ。
こういった対話って今更必要あるの?って思ってしまいました。